将来の文章 夏目漱石  近ごろの文章ではまだじゅうぶんに思想が表わされぬようだ。将来はもっとよく、もっとたや すく表わすことができるようにならなくてはいかぬ。  わたしの頭は半分西洋で、半分は日本だ。そこで、西洋の思想で考えたことがどうしてもじゅ うぶんの日本語では書き表わされない。これは日本語には単語が不足だし、エキスプレッション (説明法)もおもしろくないからだ。反対に、日本の思想で考えたことは、またじゅうぶん西洋の 語で書けない。それはわたしに西洋語の素養が足りないからである。  とにかく、思想が西洋に接近してくれば、それにしたがって、まねるのではないが、日本でも 自然西洋の程度に進まなければならぬ。すなわち、今日の文章よりも、もっと複雑なエキスプレ ッションと広いことばとが生まれねばかなわぬ。今でも「何々かのごとく」など翻訳的の方 法がはいってきているものもたくさんあるが、なかなかこれは便利である。今後もずんずん新し い方法ができるであろう。  元来、単語でも西洋語のほうが多く、ことに英語などには種々の語源があって、一つのことで も幾とおりにも言い表わすことができるから、時と場合によって、よく細密なる点までがひかれ るのである。  今の言文一致は細かいところまで書き表わされる点はあろうけれども、ただ語尾が変化したま でで、なにも擬古文と相違はない。であるから、会話のこみいったものなどは、とうてい書き表 わすことは不可能である。その要求に応じて、今日ではだんだん新語ができ、新語法が生まれつ つあるけれども、一般に通じないものもあり、また、まだできつつあるものもあり、これらを普 通に認識されるにはなかなか時間もかかる。  辞句を非常にうまく配列するとか、力あるものを書くとか、また優しい言い表わし方をはじめ るとかいうことはその人々のくふうであって、これは天才にまつよりほかはない。もしひとりの 天才が現われたならば、しだいにこれをまねるものができるから、そのほうには進歩するだろう。  言い表わし方が巧妙になり、単語の数がふえ、ぼんやりしたことが明らかになるというのは人 の頭が複雑になり、精密になり、|明晰《めいせき》になるにしたがって、現実するであろう。けれども、これは ・それ相当の時を要するのだ。時さえたてば、そうなっていくことはほとんど必然の勢いである。  しかしながら、ひとりの名文家が出て、これをまねるというほうから進歩するのは、時がたっ てもその天才が出なければだめだ。そのかわり、いつでも出さえすれば時間を要せず発達する。  要するに、この二つのなりゆきで、現時の文章は進歩し、発達しなければならぬものであるが、 今の言文一致体という形式はなにもわるいというのではない。形式などはどうでも同じいことじ ゃないか。 (文責在記者)                            (明治四十年一月一日『学生タイムス』)