自然を写す文章 夏目漱石  自然を写すのに、どういう文体がよろしいかということは、わたしにはなんとも言えない。今 日ではいちばん言文一致が行なわれているけれども、句の終わりに「である」 「のだ」とかいう ことばがあるので言文一致で通っているけれども、「である」「のだ」を引き抜いたらりっぱな雅 文になるのがたくさんある。だから、言文一致は便利ではあろうが、なにも別にこれでなければ 自然は写せぬという文体はあるまい。けれども、漢文くずしの文体がいいか、言文一致の細かい ところへ手の届く文体がいいかということは、韻致とか、精細とかいう点においてちょっと考え ものだろうとは思う。  韻致とか精細とかいうことは取りようにもよるが、精細に描写ができていて、しかも余韻に富 んでおるというような文章は、まだわたしは見たことがない。ある一つの風景について、てんか らきりまで整然と写せてあって、それがいかにも目の前に浮動するような文章はおそらくあるま い。それはとうていできうべからざることだろうと思う。わたしの考えでは、自然を写すーす なわち叙事というものは、なにもそんなに精細に緻細に写す必要はあるまいと思う。写せたとこ ろで、それが必ずしも価値のあるものではあるまい。たとえば、この六畳の間でも、机があっ て、本があって、どこに主人がおって、どこにタバコ盆があって、そのタバコ盆はどうして、タ バコは何でというようなことをいくら写しても、読者が読むのに読み苦しいばかりで、なんの価 値もあるまいと思う。その六畳の特色を現わしさえすれば足りると思う。ランプが薄暗かったと か、乱雑になっておったとかいうことを、読んでいかにも心に浮かべえられるように書けば足り る。絵でもそうだろう。西洋にもやはり画家のほうでそういう議論もたくさんあるし、日本の|鳥 羽僧正《とばそうじよう》などの絵でも、別に少しも精細という点はないが、ちょっと点を打ってもカラスに見え、 ちょっと棒をくるくるとひっぱっても、それがそでのように見える。それがまた見るものの目に は非常におもしろい。文章でもそうだ。鏡花などの作が人に印象を与えることが深いというのも、 やはりこういう点だろうと思う。ちょっと|一刷毛《ひとはけ》でよいから、その風景の中心になる部分を、ス ッと巧みになすったようなものが非常におもしろい。目に浮かぶように見える。さみだれの景に しろ、月夜の景にしろ、その中の主要なる部分ーというよりは中心点を読者に示して、それで 非常におもしろみがあるというように書くのは、文学者の手ぎわであろうと思う。  だから、長々しく叙景の筆をろうしたものよりも、漢語や俳句などで、ちょっと】句にその中 心点をつまんで書いたものに、多大の連想をふくんだ、韻致の多いものがあるというのは、ひっ きょうここの消息だろうと思う。要するに、一分一厘もちがわずに自然を写すということは不可 能のことではあるし、またなしえたところが、別にたいした価値のあることでもあるまい。その 証拠に、よく叙景などの文をよんで、くわしく調ベてみると、ずいぶん名文の中に、まえに西向き になっておるものがあとに東向きになっておったり、方角の矛盾などがずいぶんあるけれども、 だれもそんなことをとらまえて議論するものもなければ、その攻撃をしたものも聞かない。で、 要するに、自然にしろ、事物にしろ、これを描写するに、その連想にまかせうるだけの中心点を 捕えうればそれで足りるのであって、細精でもおもしろくなければなんにもならんと思う。                             (明治三十九年十一月一日『新声』)