作中の人物 夏目漱石  今の人々の作物を読んでみるとーもちろん一、二の人を除いてー描かれている人物がなん だかこうリアルでないような気がする。ばかばかしいそんな人間はこの世の中に存在していない ように思われる。だから、興も起こらなければ、また同情もひかない。すなわち、虚偽のような 架空のような気がするのである。しかし、自分が今ここでリアルというのは、実際世間にある人 そのままという意味ではなくて、作者の想像によって作られた架空の人物でもいいから、それが 読者をして、今までかつて見たことも闢いたこともないけれど、世間のどこかにそんな人がある ように思わせるその力をいうので、これがなければその作物は全然価値のないものだろうと思 う0  作家は神と等しく、新たに実際以外の人間、あるいは人間以上の人間をクリエートする力を持 っている。その創造された人間は、常に見ている隣の人のごとくでなくてもいい。あるいは、人 から聞いたような者でなくてもいい。あるいは、かつてあった人物でなくてもいい。まったくこ の世界にそんな人がなくてもいいけれども、これを読む人をしてほんとにあると思わせなければ ならぬ。これが作家の作家たるゆえんである。真実だと思えばこそ、同情も起これば興もわく。 たとえ哀れっぼい話を聞いたところが、みすみすうそだということが知れたら、涙も出ないし、 泣かれもしまい。作家の力量は創造した人物をいかにも真実に感ぜしめるのと、どうしてもうそ としか思われないところにおいて区別されるので、人を動かして泣かせたり笑わせたりするのも 皆それだろうと思う。もし精神的に不具な人間や、理性からしても感情からしてもこの世にあり うべしと信ずることのできないような人物を描くならば、その作物にはなんらの価値もないであ ろう。さらに断わっておくが、この世にありうべしと信じえられるものは実際あるものばかりで はないので、実際なくても、また少々不自然でも、作家の創造する力、絶妙なるアートによって これを真実と思わせることはできるものである。いかに想像の翼を伸ばしても、それにアートが 伴えば、読者をしてこれを信ぜしめ、かつ泣かせたり笑わせたりすることができる。そして、作 家の頭が詳しければいよいよ細やかにその人を現わすことができ、作家の人格が大きければます ます大人物を描くことができ、なおひろければいくらでもたくさんな人間を作ることができる。 けれども、作家に頭がなく、その人格が低いならば、とうていりっぱな高い人物をクリエートす ることはできないのである。  いうまでもなく、文学は理性のみによって批判されるものではないから、ひとえに理屈上なる ほどと思わせ、道理だとうなずかせなくてもよいが、また中には常軌を逸したとっぴなものもお もしろい。また、田夫野人のぐちな恋愛などを書いてもそれが悪いではないけれど、今の小説の 多くが心ある人々に|按斥《ひんせき》され、ばかばかしく思われるのは、思うにクリエートした人物を真実だ と感ぜしめる力がないからでもある。要するに、多くの作家は頭もなければ、アートも足りない。                           (明治三十九年十月二十一日『読売新聞』)