作家としての女子 夏目漱石  男女のセックスは自然に分賦せられているものではあるけれども、教育は男女の別にかかわら ず同一の知識を与える。さらにそれが職業に用いらるるときは、男女と異なるところなく生活を 営んでいくのである。その結果、この点において、男女のテンペラメントー性質といおうかー が、しだいに同化せらるる傾きになっているようであります。たとえば、かの琴のけいこにして も、男の盲人なぞが習った琴も、令嬢が教えられた琴も、変わりなく同様の音曲節奏となって表 われる。絵はどうかというと、これもやはりそうで、あるいは川端玉章氏に花鳥を学ぶ、跡見女 史に何を習う、そうするとそれが書ける。あえて男女にかかわったことはない。もっとも、題材 なぞの取り方がちがうかもしれないが、まず女子でも男子だけのものは書ける。また、近ごろよ く婦人の医師があるが、あれはいかがでしょう。いずれ産科婦人科とか専門の便宜はあろうけれ ども、別段女らしい診察というものはない。感冒には感冒だけの手当をするにきまったことであ りましょう。  さて、婦人にして小説を職業もしくは道楽としている人があるが、あれはどうかとなると、こ れは多少まえのものと異なっているが、しかしまた、女だから男子と同様のものを書くべきでな いとは言いえられないのはもちろんである。女であっても、その得意とする衣装や髮かたちの細 かい注意以外に、あるいは男子の心理状態の解剖をなしうべき能力あるは、なお男子にして婦人 の心理解剖をなすに等しいものであろう。要は作品の問題で、ひっきょう良い作物さえできれば それでよろしいのである。外国ではエリオット女史のごとき、ずいぶん男子以上のところまで突 き進んでいる者もある。ゆえに、その作品から見て、なるほどさすがは女らしい筆致が見えてい るとか、なんとか言いえられようけれども、それを逆に、その女らしいところがないからその小 説はにせだとかなんとかいう批評は加えられないのであります。  しかしまた、一方から作物と作者をわかちて、どうもこういうはなはだしいことを書くような 女は、嫁にすることは困るとかいうのはまた別で、作物のうえには言いえられないが作者のうえ には言ってもさしつかえはない。  けれどもまた、他方から考うれば、作にのぞんだ芸術上のわれと、しからざる平常のわれとは 別物であって、作家はダブルパーソナリティー(二重人格)であるベきものだといった考えを持 っているかもしれない。これもまた不当でないと思うのであります。  女子にして小説に筆を染むる者の出るのは、もちろん近代自意識に伴う競争心からきたので、 多くは模倣でありましょうーもっとも、男子にだってそれは免れないがー要するに、まだま だ個性を発揮したものはないのだろうと思われる。                            (明治四十二年二月一日『女子文壇』)