田中王堂氏の『書斎より街頭へ』 夏目漱石  日本語としては珍しい書名である。書斎より街頭へ打って出るの意だと、王堂氏自身が注釈を 施している。学者の見識を書斎にたくわえて、志士の功名を街頭にたてようとするのが、氏の希 望だそうである。賛成である。  ただ、氏の説くところの三分の二は、人事現象の空間的弁明にすぎないのはいかなるものであ ろう。たとえば、政府どはこう、個人とはこう、理想とはこう、道徳とはこう、と、いちいちか れらに割りあてられた社会上または心理上の役目を、一場内に陳列して、相互の関係やら、その もめの特色やらを丁重に指摘するだけにとどまっている。したがって(読者のこれらの講釈より 得る知識は弁別上の知識である。大いなる概念である。人間活力の種々なる表現についての長い 定義である。もっとも、この方面において、氏の眼界はなかなかに広いのみ右らず、氏の分類に はりっぱな見識が一貫しているには相違ないが、それは氏が書斎の人としてもっとも得意な方面 を発揮しただけで、実行の人、街頭へ打って出た志士としての価値とはなんらの交渉もない。単 に書斎の研究をもって世に問うといわずして、別に社会的使命を帯ぶる著述と宣言する以上は、 単なる学識を|標榜《ひようぽう》するだけでは済むまい。その学識が必然社会的にもたらしうる実際上の効果を 予想するに足る要素を|胚胎《はいたい》していなくてはなるまい。必ずや純粋の理学でなくて理学の応用であ る工学をはらむべきはずであろう。理想とか、道徳とか、知覚とか、概念とかいうものを空間的 に配列して順序を整えただけではいけまい。この整った|隊伍《たいご》を勇ましく繰り出して、実世間にひ といくさをしなければなるまい。王堂氏の陣立てはなるほどりっぱであるが、ただ兵隊が規律正 しく並んでいるだけで、それが別段の働きもせず、いたずらにきれいにして、かつ無用なる長物 とのみ見える場合が多いように見受けられるのは、はなはだ残念である。空間的に配列されたば かりで、時間的に動かない兵隊が装飾にすぎないのは言うまでもあるまい。  王堂氏の論文の過半は、弁難攻撃の声で充満している。弁難攻撃は他の立場を否定するのを根 本の能事とするものだから、美しく成功したときですら、その効果は消極的にすぎない。惜しい かな、.王堂氏は十字街頭に立って、なんじらかくすべし、かくせざるべからずと積極的に呼号し うる底の特殊なるなにものをも推樺しておらぬやに見受けられる。王堂氏はわれ生活の定義をく だして蹴塊な〃、道徳のダイナミックス(動力)を論じて撮黙を得たり、理想を説いて自然派の 蒙《もう》をひらけり、これらは皆われに積極的のあるものある証拠にあらずやと詰問されるかもしれな いoごもっともである。余といえども王堂氏が積極的の見解に富んでおられることは疑わない。 しかも、その見解の|豪遭《ごうまい》にして|精級《せいち》なることを優に認むるものである。ただ、積極的の見解を山 ほど積み重ねても、われわれの現代生活中に原動力を与うる積極的の方針とも活作用とも変ずる ずべのないのを悲しむのである。-氏の論文の間口の非常に広大なのに驚いて、はいってみると、 且、存外奥行きが詰まっている感じがしたり・またはまったくの吹き抜けで・どこで建物が尽きてい 夏房かわから奮気持ちがするのは・琴るを蒙ためだろうと思う民が余の『文辻お哲学 的基礎』を評せらるるに百六十六べージを費やされたるは、余の深く光栄とするところで、氏の 三、学界に貢献せんとする意気もめざましきものではあるが、うんと踏まえられた余に、どうもうん と踏まえられたような気が起こらないのが欠点である。氏の論鋒《ろんぼう》は、あたかも広役所の戸籍係が 出産届けに対して、出産の事実を不問に付しながら、ただその書式の法にかなわないことだけを くどく長く主張して、いつまでも届け書を受け取らないような観がある。  けれども、今のみすぼらしき批評界にあって、これほど時問と、労力と、精神と、学問と、見 識を惜しまずに、堂々と観兵の偉典をあげうるものは、ただ一の王堂学人あるのみであろう。.表 へ|仁丹《じんたん》を買いに出る準備として、まず|鉄《かね》のわらじをあつらえるのは、ちょっと異様ではあるが、 ほかの人はそんな用意をする金も時もないからの苦しがりから、ただ着のみ着のままで飛んで出 るのだと思えば、王堂学人のほうがはるかに余裕のある大人学者である。したがって、王堂学人 はずいぶん自尊卑他の言蕎を極嬬まで使用されるけれど屯、ちょうど大名が町人を呼び捨てにす ると同じことで、ときとしてこっけいに響くかもしれないが、少しも|晒劣《ろうれつ》の調を伝えない。余は 余の敬愛する王堂学人のために特にこの美点存.指摘して、この書を世.間に勧むるものである。王 堂学人の武器をもって、王堂学人の薯述を学究的に批評することが、わが文芸欄の性質上できに くかったのはかえすがえす遣憾であるが、それはやむをえないのだから、そうご承知を願いた い。                         (明治四十四年五月二十三日『東京朝日新聞』)