無教育な文士と教育ある文士 夏目漱石  文学史上の人々を教育の有無によって分けてみると、無教育の文学者は存外多く、かれらの手 になった名作も少なくはない。これに反し、教育ある文学者でも必ず傑作を出しているとはかぎ らない。  たとえば、女作家Jane Austenの作は、ずいぷん世間にも賞賛され、自分もある意味におい て感服しているが、読み終えるとこの人は学問をした女でないということが、だれにもすぐわか る。これがつまり、無教育ではあるが世の中を見、世の中を解釈する力がおのずから備わってお った例である。  これに対して、同じく女作家George Eliotを見ると、彼女ははじめ小説家になろうと思う 考えは少しもなく、もっぱら哲学の研究にふけったが、中年にして小説に筆を染め、ついにあん な大作家になった。その大作というべきは、前者とは全然反対に、ことごとく彼女が四十年間学 びえたる蘊蓄《うんちく》から来ているので、あの学問なかりせばついにこの作家は現われなかったのであろ う0  Dickensもまた無学の人である。かれが下層社会に長じ、正式の教育を受くることができなか ったから、English gentlemanの気風を描きえぬとまで言わるるが、とにかく一派の作家に相違 ない。よし作中に欠点があったとしても、それは無教育からきたことではない。かれの作は学問 のおかげをこうむっていないといってもさしつかえない。無学の大家である。そうかと思うと、 Meredithの作はその大なる知力の産物である。二者おのおの文学の一面に偏したきらいもあろ うが、それ相応好き好きに買わるべき大作家たるに相違はない。                             (明治四十一年十月一日『英語青年』)