無題  夏目漱石氏曰  パリの女役者などは実に堕落きわまったもので、通例にいうのがまず情夫が三人なけ九ばなら ぬ。第一が劇評家、これは自分のしばいを良く言われようためだ。第二が文士、これは自分のや る脚本を書いてもらうためだ、第三が金持ち、これはいうまでもなく、|奢修《しやし》をやる金庫としてで ある。 口今の英国の作家では、たしかにジョルジュ・メレデスが異色がある。老人ではあるが、実に驚 嘆すべき大才をいだいている。ある人が、メレデスを読まぬという人を聞いたことがないが、ま たメレデスの著作を末まで読み通したという人も聞いたことがない、といったが、実際メデレス の小説は、一片の文字も、書き伸ばせば、ただちに二、三ページの長い文章となるものが多い。 したがって、いたって人にはわかりにくいのである。|渠《かれ》のある小説にこんなことがある。ロンド ン橋上である人がミカンの皮にすベってころんだ。そのころんだということについて、五、六 ぺージ書いている。こんなことは、あれほどの大作家でなければとてもできぬ。  英国の小説家は成功するにむずかしい。つまり、競争者が多いからだ。が、成功したときはま たたいへんなもので、文学者は皆りっぱな邸宅に住んでいる。日本ではまだあれほどに競争が激 しくないだけ、それだけあれほどの成功は見られぬようだ。 口あちらでは少し筆の立つ婦人は、皆探偵小説のようなものを書いている。それで出ている小説 は日に何百冊か知れぬが、その中で人の目に通らずに葬られて終わるのもなにほどかわからぬ。                             (明治三十八年十一月一日『新声』) 227