無題 夏目漱石  なんだと。ああ、あのことか。何新聞かで、大町|桂月《けいげつ》とぼくとが双方からあいつは常識がない 男だとけなしてるということを書いてあったね。うそだよ、あれは。ぼくは桂月を知らなかった がね、いつか松本道別のために演説をやるから出てくれというようなたのみで、一度向こうから 来てくれたのだがね。ぼくは桂月の文を見てはいっこうに感心しない、なんでもないことを書い てるとしか思ってはいなかったし、今でも書いてるものにはさほど敬服はしないがね、会ってみ ると感心したよ。というのは、桂月は珍しい善人なんだ。ぼくは今の世に珍しいりこうげのな い、まことによい人だと思ったよ。ぼくはだれにも桂月のことはほめてるんだがね、新聞屋はい たずらばかりして喜んでるんだね。                            (明治四十年四月三日『東京朝日新聞』)