無題 夏目漱石  ロンドンというところは自由の都だとかなんとかロンドンの市民はいばっているが、なかなか もってそうでない。天然人事ともに種々の圧迫がある中に、習慣の圧迫というようなものは最も 激しい。ドイッの某は何年かまえロンドンに行って、ゼントルマンというものについて皮肉な評 をくだしている。それは、英国でゼントルマンというのは門閥のりっぱな人とか、有徳の人とか をいうのではない。たとえりっぱな人でも、社交の慣習に通じない人、また独立していく財産の ない人、借金をこしらえるだけの信用のない人は、ゼントルマンとはいえない。それに反し、い たずら者でもグード・エジュケーションがあって表面上キャラクターを維持しているかぎりは、 パーフェクト・ゼントルマンとみなす。ロンドンのような排外的な交際社会になると、いっそう そのけじめが細かになる。たとえば、女に会ったとき度胸がすわっていて少しも窮屈でなく心や すだてに取り扱うことができなくてはゼントルマンとはいわれぬので、もしはにかんだり、窮屈 がったりする人は、ゼントルマンではなかろうという疑いをひき起こす。いわんや、ディナ喜に 臨んでスープのお代わりをしたり、または三時に始まって夜中まで続くブレックファーストにイ ーブニングドレスを着ているとしたら、その人がプリンスでも、・・リオネアでもゼントルマンでは ない。::と、こんなことをいっている、今でもまったくこのとおりだ。こんな窮屈な形式的な 社会が、なんで自由の都であるものか。                            (明治四十一年七月一日『ホトトギス』)