水まくら 俳優と落語家 夏目漱石  ぼくは|芝居《しぼい》を見るくらいなら落語を聞きに行く。このまえ『パオロ・エンド・フランチェスカ』 の芝居を見にいって、西洋人が出てきたりなんかして驚いて帰ってきた。それっきり芝居見物と いうものに出かけたことがなかったのを、このごろある人に招待されて、本郷座の『|金色夜叉《こんじきやしや》』 を見た。こんどはそれでもまえよりはおもしろかった。それからまた落語の円左会だの、落語研 究会だのに行って、近ごろ|落語家《はなしか》の顔もだいぶ覚えてきた。ぼくは落語家小さんの表情動作など は、壮士俳優のやるよりよほどうまいと思う。人がほめる高田などは、芝居のために芝居をする ようで、肩が凝っておもしろくない、よほど不自然だ。まあ、あのせりふなどのやり口は、講談 師松林伯知ぐらいのところだろうと思う。|河合《かわい》の|女形《おやま》はよい。あの詞調子態度などは死んだ円朝 そのままだ。よほど巧みで、それで自然だ。ぽくはむしろああいうおもだった役をするものよ り、|端役《はやく》をするもののほうが自然でうまいと思う。華族さんが写真をうつすとか、|義太夫《ぎだゆう》を語っ て踊るとか、ああいうことばかりすればよいと思う。  能であるとか、また旧演劇であるとか、それらはもと技能的のもので、いわゆる新派の芝居と は大いに趣がちがう。写真の目をもって見るべき劇を、菓子折りを持って震えだすオコリ病みの ような動作や、講談師調の不自然なせりふや、ないしはむやみと気違いじみた性格や、そんなも のばかり見せつけられたのじゃ、とてもたまらない。もっと自然に、感情が乗るようにしたらよ かろうと思う。  小さんのタバコをのむけいこの話はたいへんおもしろかった。お客さまもはじめてであろうが、 わたしのやるのもはじめてだと言っていたから、小さんが自分でこしらえたはなしであるかもし れない。さんざタバコをすったあげくが、ふらふらになって、しまいにはがまんがしきれないで、 寺に逃げこむ。あとから追っかけてきたやつを坊さんがやり過ごしたそのあとで、やっと戸だな かなんかから出てくる。そこでまず安心したというので、一服やろうというのが落ちだ。あのま じめな顔を種々に使い分ける。しかも、それがよほど自然にできてうまい。落語のほうには動作 はあまりないのだが、その表情の様子で動作も伴うように思われる。劇をやる人も、ああいうと ころに少し注意するとよかろうと思う。  談が落語のほうに移るが、|燕枝《えんし》というのが柳派にいる。あれはうまい。けだし近ごろうまくな ったのであろう。|円橘《えんきつ》は老い込んでしまった。いや、昔からあまりうまくなかったように記憶す る。|円喬《えんきよう》はぼくが以前知っているころは三好といっていた。その時分からうまかったが、その割 合に発達しない。当時と今日とではあまり変わりがないようだ。世間では円喬を今日の落語家中 で|白眉《はくび》だといっているそうだが、ぼくはやはり小さんのほうがうまいと思う。扇歌というのも、 昔はつばめといって音曲ばかりをやっていたが、近ごろははなしもやる。そして、うまい。円左 はやはり老巧だ。  なにしろ、落語家のほうが今日の壮士俳優よりも数等上なることは確かだ。 新 体 詩  ぼくはあまり新体詩というものを読まないから知らんが、このあいだ『しら玉姫』というのと 『塔影』という詩集を贈ってくれた。『しら玉姫』の作者のほうが『塔影』の作者より、才もあ り、力もあるようだ。しかし、わからないことにいたったら、『塔影』より『しら玉姫』がわから ない。  近ごろの新体詩は、いったいにわからないのが多いようだ。といって、ぼくは巻頭四、五行よ り多くを読まないのだから、読まずに評するわけにはいかないが、どうもそうらしい。有明とい う人の詩を雑誌などで、これも二、三行の拾い読みだが、見る。いっこうわからない。鉄幹とい ら人はうまい。それに、よほど才があると思う。  今日の新体詩全体からいうと、作る人の考えがちがっていやしないかと思う。どの作りぷりを 見ても入り口は一つで、中ごろから枝が出たように、あちらへ別れ、こちらへ別れるというまで で、その筋道はたいていおんなしだ。もっと思いきって、入り口はじめから在来のふうと想も調 も変えてみたら、ずいぶんおもしろいものができようと思う。どうも今の新体詩のやり口は無意 味にただ並べるだけのようにみえる。  ちょうどここに雑誌がある。こころみに、このうちの新体詩を見たまえ。たいていわからない。 もしわかるのであれば、すなわちくだらない。 『春の夜』という題だ。冒頭が、   桜花咲く庭すみに   きみと路かえ忍び来ぬ     木立ちのあなた|灯《ひ》はもれて     笑いどよめき楽は湧き     湧きこそ立てや胸の血潮も というのだ。「桜花」というのがまずよけいなことだ。「さくら」でたくさんだと思う、 「庭すみ にも」窮している。「きみと路かえ忍び来ぬ」はいやみだ。そのあともくだらないが、ともかく わかる。それから、   ほてるやわほおにほおをよせば   |鬢《りん》おののきてくし落ちぬ     おぼろ月夜の月くらく     木立ちのあなた灯はもれて     いまぞ歌やみ歓声さらに 「やわほお」なんていうことばが元来くだらない。「ほてるやわほおにほおを寄せば」、なんだか いやな感が起こるばかりではないか。あとは評するまでもないが   たれしうなじに手をまきて   そとささやけぱ片えくぽ     恋する人の息に似て     風なめらかに枝をすぎ     |緋桃《ひもも》ほろほろ夜ふけを散りぬ 少しくこうなっては警視庁の注意がほしいくらいだ。これらはずいぶん極端な例としても、く だらなさは多くこれと|相如《あいし》くものであろう。しかし、こんなのはよい。たとえば、『夢の湖』とい う小説中にはさまれた一節の詩だね。  うるわしきわがかんばせも  きょうのみぞただきょうのみぞ  物皆は変わりはてなめ   あすこそは、あああすこそは。   わがものときみを思うも   つかのまぞ、ああいつまでぞ   きみにわかれ身はただひとり   死に果てん、あわれいずこに。  同じ雑誌の中でも、これなどはよほどうまいと思う。要するに、いま少しく意味のある、|蘊蓄《うんちく》 のある、しっかりした人が作者にほしいのだ。 (明治三十八年八月十五日『新潮』)