マクベスの幽霊について 自然の法則におかしヽ物界の原理に枇訃し、もしくは現代科学上の知識によりて、賦彫しがた き事物を収めて詩料文品となすことあり。しばらく命名して超自然の文案という。この文素の要用にして操朕者の閑却しあたわざるゆ丸んを述べ、あるいはたとい必須の文案ならざるも、なお詩塁の一角によって優に科学の包囲をボ瞰したる理由を論ずるは、すこぶる興味ある問題にして 学徒沢訳の労に値するものなり。  悲劇マクベス中に出現する幽霊はあきらかにこの文素に属するものなり。ゆえに、これを洋論せんとせばまず如上の問題に明確なる解決を与えざるべからずとい丸ども、ここにこれを究駿才 るの余地なきをもって略す。弁証はしばらくおく。一言にしていえば、余は窃笑牛蛙の語、怪癖 鬼神の談、その他のいわゆる超自然的文京をもって、東西文学の資料としてかっこうなりと論断 するものなり。この論を読む者はこれを読むの冒頭において、まず余のこの論断に左抑するか、またはこれを仮定せんことを要す。もししからずして、いたずらに幽霊の登場の可否を疑議思量せば、索然としてついに落所を失せん。 マクベスは功利の念に急なる人なり。想像豊町にして詩趣に富めるの人なり。門をいでて左す ること一歩、ついに馬首をめぐらして右するあたわざる人なり。否、右することを知らざる人なり。精力ー代に絶するにあらざるも、豪毅市井の庸児をしのぐに足る人なり。後事を商量して一己の康寧を計るの策において賢明なりというをえざるも、おのが目的を達するに自家賦皇の推理くふうを費やす人なり。その画策の拙、その経営の階なるにも関せず、天分の考慮をめぐらしうるの人なり。胴裏悲惨のこと皆この性格を回転して発展しきたる。主公先天の性またこの鬼哭裏 の状況に呼応してその全斑を露出し合たる。がれの人を殺すや、三たび。栄耀の夢はまくらにつか ざるかれの身を追いて弑虐を現実にナるのやむを丸ざるにいたらしむ。空中一口の七首、がれを 導いてダンカンの閉帳ために紅なり。がれはその君を殺す者なり。慈仁なるその君を殺す者なり。その君を殺さんと欲してこれを遂行し丸たるものの感、はたしていかん。かれはいまさらにその心の平らかならざるに驚けり。耳辺に語あり、なんじ眠るあたわずという。双手に血痕あり、 潮海万鮒の水を傾くるも、これを洗うに由なきを知る。ただかれは眠らんことを要す、またその 血をあらわんことを要す。これを要するの極、これを得るの術を講じて、進むに道あり、退くに 道なきをさとる。地下に眠るの安きを知らず、おのれが血をもってわが罪を洗うのやすきにつか    ざりしかれは、あくまでも人の眠りを奪って眠らざればやまず、人の血をそそいでわが手を清め    ずんばやまず。ここにおいてか、二たび人を殺し、三たび人を殺す。ダyガンを殺して眠るあたわ ず、ゆえにバンコーを殺す。バン=1を殺してその手ますます赤し、ゆ丸にマクダフの一族をほ漱   ふる。はじめに一歩を誤りたるがれの欲するところは、ただ霊精一点の安慰にあり。この安慰を目  得るの唯一手段としてヽかれの選びしは殺人術なり・かれはこの術を講ずるう丸においてノーだ夏    これを実行するうえにおいて終始一貫して変わらざるも.0なり。ダンカzを殺すののち、バンコ           だいきよう を殺すの夜、大饗の席宴楽の堂において、かの有名なる幽霊は場に上りきたる。その現出する    こと前後二回。後代の学者これを論評することつまびらかにして、異説またこもごも起こる。あ    るいはいう、ま丸にいずるものはダンガンの亡霊にして、のちに現わるる者はバンコーの幽鬼な    りと。あるいはいう、前者こそバンコーにして、後者はダンカンなりと。第三者はすなわちいう、    ま丸なる屯あとなるもバンコーの怨霊に別たらすと。この一編の主意は、諸家の論弁を批評して、 余が幽霊観を演述し帰着し丸たる断案を具して、おおかたの教えを清わんとするにあり。 今この考案の要領を明らかにし、塗抹汚染の弊を避けんがためにこれを三個に区別し、順を追 うてこれを解決せんとす。一、この幽霊社一人なるか、また二人なるか。二、はたして一人なりとせば、 ダンガンの霊か、バンコーの霊か。三、マクベスの見たる幽鬼は幻想か、はた妖怪か。第一と第三は、 単に第二に付帯して生ずべき疑問にすぎず。この考案の根荼とも見るべきは、第二にあって存す。  H、諸家の論評中ダンカンを離れ、バンコーを離れて、単にこの幽霊は一人なりやはた二人なりやを説 ける者なし。したがって、学者の説をあげてこれを弁ぜんとするときは、勢い第二の問題を犯さざるを丸 ず。ただ、ナイトとシーモアあり、一言これに及ぶ。ナイトいわく、マクベスが宴に臨んで、バンコーの あらざるを惜しむそのせつなにおいて、バンコーの霊が再び場に上り きたるは、芸術の極致にあらずと。シーモアいわく、同一の幕に、同一の物が再現したりとて、少斜の念、 悩乱の度をいくばくか高めなんと。これその幽鬼のなにものたるを論ぜず、少時間内 において同一の亡魂が両度出現するは美的ならずとの意見にほかならず、吾人をして二人の言に 首肯せしめんとせば、あらかじめ吾人をして同所に同事を再度繰り返すことの非なるを認識せし めざるべからず。しかも、吾人はこの命題の真なるを疑うものなり。重複を避くるの美なると等しく、重複そのものもまた美なることあればなり。文芸は感興をひくの具なり。詩歌行文にして感興を催さざらんか、重複を避くるもなんの益あらん。もし、重複あるがために精彩一段を添 え、滋味半9を加うろを得ば、重複は多々ますます弁ずるの具にして、文芸の極致時ありてかこ こに存す。詩に韻脚あるは、一種の意義において重複なり。文に照応あるまた一種の意義において重複なり。修辞にクーフイマックスあり。これまた一種の意義にかいで重複なり。小説に主人公あり、女主人公あり。全編を貫串して出頭しきたる。あきらかに一種の重複なり。ゆ丸に、マクベスの亡霊について吾人の考慮すべきは、その重複するやいなやの点にあらずして、重複せば感興を毀損するやいなやの点にあり。今一歩を譲って重複は非美なりとするも、マクベスと亡霊と の関係は純乎たる重複にあらざるをいかんせん。ナイトとシーモアはただ亡霊のみを眼中に置 く。ゆえに、同一の亡霊が再度出現するを見て重複なりと判ず。しがれども、この光景の焦点は亡霊のみに存せざるをいかんせん。マクベスは劇中の主人公にして、かつこの光景の主人公なり。満堂の観客はマクベスを中心として視線をここ殺人漢の心意、表情、言語、動作に凝集す。もしマクベスの心意表情言語動作にして、第一の霊を見るときと第二の霊を見るときにおいて寸毫の 差異なく、しこうして寸毫の差異なき亡者が再現するとせば、これ真の重複なり。されども、吾 人の心意は瞬間に流転し、せつなに推移す。流るる水の旧時に似て旧水にあらざるがごとし。尋常茶飯裏の生活なおこのどとし。いわんや、詩的なるマクベスをや。また、いわんや衷懐平衡を失し、危機眼前にせまるかれの境遇においてをや。必ずやかれが心の機微に動きて外に揺曳するところのもの、あるいはその程度において、あるいはその種類において前後変化の観客に認めらるるものあらん。吾人が全幅の中心として、活画の主人公として凝視諦観する、マクベスの上に如上の変化ありて、場中の客皆その変化を認めうるとせば、出雲の重出は単に副曇の重出にして、全般の興懐に関することなし。くわうるにその配物なる幽霊の重複すら、無意義の重複にあらずして、焦点に活動するマクベスの心裏に反響すること、新たに異様の幻怪を挿入して一点の 凄気をつづるにまさること疑いをいるべからざるに似たり。(第二問に説くところを見よ)もしそ れ大ありて金に告げて、リチャード三世は十一大の男女を殺して、十一人の吉成を見たるがゆ丸に、ダンカンとバンコーを殺したるマクベスも、また二人の幻怪を堂中に認めざるべからずとい わば、答えていわん、十一人の男女は各自の意向に従いてリチャードのまくらべに立ち、マクベスの毒手に倒れたる三者の二人は、無精にして冥土より娑婆にいできたるをめんどうと思いしが ためならんと。  幽霊の一人にして事足るは、ま丸に述べたるがどとし。さらば、その一人の幽霊はバンコーかダンガンか。これ次に解釈すべき問題なりとす。  千八百三十六年、コジアー沙翁に関する一書を著わして、医師フォーマyの記録を公けにす。そのうち千六百十年四月二十日のくだりに、この悲劇に関する記事あり。けだし、がれは当夜グローブ座にてマクベスを見、帰ってその状況を草したるなり。そのー節にいわく、この夜マクベスは大いに臣僚を会して宴を張り、バンコーもこの席にあらばなど残り惜しげなるさまなり。さて、マクベスは諸人のために祝杯をあげんとて席を立ちけるが、そのひまに幽霊は席に人りて、マクベスの背なるイスに座しぬ。マクベスは再び席にかえらんとふり返りて幽霊と顔見合わせ、畏怖と憤怒のあまりバンコーを殺せることにつきて喋々しければ、諸人もはじめてバンコーのこの世にあらぬを知り、はてはマクベスを疑うにいたりぬ。この記録によりて事実上疑問の一半は解釈せられたりというも不可なきがごとし。されども、事実は事実なり。劇の興味が事実以外において増減しうるとせば、これに向かって論評を加うるは、批家適当の義務にして、かつフォーマンの記録は単に事実前半を摘出したるにすぎず、ここにおいてか、諸家各自の意見をたたかわ して相下らず。  第一の幻怪をダンカyとなし、第二の幽魂をバンコーとなす者あり。シーモアおよびハンターこれなり。前者いう、マクベスの良心を刺激し、その非挙を悔いしむるものは、慈仁寛厚のダンカyか、はた同輩なるバンコーかと。思うに、この説をなすものは、吾人の心理作用を知らざるものなり。人大事を忘れて小事を念頭に置くことあり。父母の病に走らずして碁にふけるがどとし。眼前の巧児に半銭を与えて、故郷の妻子を閑却するがごとし。半夜火あり、なん七が家にせまるとき、なんじの意識はこの火災のために占倣せらるべきか、はた去年破産せるなんじの銀行にあるべきか。火災はいちじの害、破産は終生の厄なり。もし大小をもってこれを論ぜば、両者 もとより軒軽するの価値なきものなり。しがれども、なんじの心はこれを忘れてかれにおもむく は何ぞ。目前の急なればなり。今ダンカンとバンコーの差は、近火と破産のごとくはなはだしからず。しこうして、眼前の急は両者ともに同じ。マクベスの胸裏、大なるダンカンを忘れて、小なるバンコーを恐る。これ理のまさにしかるべきところなり。かれまた言う。マクベスの妖怪をののしる語中にif chaヨel-houses and our graves etc.の語あり。もしダンカンをさすにあらずんば、この語妥当たらず。ダンカンさきに死して今すでに墓中の人なり。ゆ丸に「墓をいず る」うんぬんの文句に適中すれど、バンヲー・は今死せるのみにていずべき墓もなく、見捨つべき 塚もなし。もし今幽霊をバンコーなりとせば、この句はいかにして説明するをえんと。この説も とより一理なきにあらねど、要するに文字上の理屈にして、酷評をくだせば、言句に拘泥せる訓    詰家の説というべし。マクベスはまえに述べたるどとく詩趣に富める人なり。ゆえに、その言語    の情に激して噴薄するや、常に天来の警句となって流出しきたる。がれのchaヨel-house の一語石   のごときは、もっともそのきばつなるものなり。墓は常に死と連想せらるるものなり。今死せる 者が幽鬼となって娑婆世界を彷徨するとき、詩的にこれを形容して墓死屍を吐くという。すでに その適切なるを見る。その死屍の葬られたると葬られざるとは、吾人の問うところにあらざるなり。単に吾人のみならで、これを口にするもの自身の問うところにあらざるなり。かつ、この思想たる沙翁にあって珍奇ならず。『ハムレット』中に、    I he graves sto乱tenantless, a乱the sheeted dead    Did squeak and gibber in the Roman streets" たる句あり。されば、すでに死したるものの幽霊を、ばくぜんと「墓よりいできたる」と言えりとみて不可なきがごとし。かれまた言う、マクベスの夫人に告ぐる語中にIflsta乱here I saw rヨなる言あり。夫人はこの時いまだバンコーの死を知らず。知らざるものに向かって単にぎヨという、なんらの意義なし。ゆ丸にこのhim ^る名詞は夫人の共謀して殺せる、ダンガンにほかならずと。この説また事機に通ぜざるの論なり。人を見て法を説くは日常談笑の際にのみ行なわるべ考法則なり。すなわち、吾人が言語の方便を用いてその意思を人に通ずるとき、わが言語の相手に了解せられうるやいなやを考え、これを斟酌し、これを選択しうるの余裕ある場合にのみ適用すべきものなり。とっさ倉事の際は、人ただおのれのみを顧慮するにすぎず。念順一微塵の人に関するあるなし。いずくんぞ、他のわれを解すると否とを問わんや。昔一友あり、英人某と争う。争うとき、かれの片言隻辞を聞考えず。しこうして、がれは平生この英人の授業を受け、日々その講義を筆記せる男なり。見るべし、この講師は平生の手かげんを忘れて蒋地にわが 友に哨威したるを。今マクベスの場合いかんと考えよ。かれは平生のマクベスにあらざるなり。 情緒惑乱し、心胸鼓動す。がれの脳漿は沸々として声をなす。この時にあたりて、ただちにバンコーをさしてrヨと言わば、夫人はこれを解しがたかるべしと、冷静に分別をめぐらしうるの理あるべからず。否、夫人の解しうべからざるhim <£*る語を放下するがゆ丸に、がれの心裏の反響と見るべきこの唐突の一語が、一段の趣味を付加し、周囲の状況と映帯の妙をきわむるにあ らずや。かつ、不可解は秘密を意味ナ。秘密は時あってか猛勢なる文学的結果を生ず。吾人は狂 人の暗唱を聞きて解するあたわざるに苦しむ。解するあたわざると同時に、その解するあたわざ るあたりにおいて、一種言うべからざる悄悄の感を生ず。深夜人静まって万領休むとき、忽然隣床に臥する者呵々大笑す、吾人はその何の意たるを知らず。ただこの何の意たるを知らざる体の笑裏に、無限G鬼気あるを思え。マクベスが他に解しがたきhim ・£?る言を、当面錯過の瞬間に口外するは、がれの心状を発露するに最も適当なる方便なり。また、これを口外したるがため、ぼうぜんたる傍人の心に反射して、一種の薄気味悪き感を起こさじむるもまた、作者くふうの一端と見るべし。  ハyターの第一幽霊をもってダンカN*≪りとなすの理由もまた、charnel-house うんぬんの句に存すれば、重ねてこれを論ぜず。泰二の幽霊をもってバンコ7となすぼ、マクベスが幽霊に向かって Or be alive again, a乱dare me to the desert with thy swordと言えるによる。かれ言う、この句によりて推測すれば、平易温厚の王者にあらずして悍脇傑張なる武士の怨霊と思わる恚。余はもとより双方の幽霊をもってダンガンにあらず、バンコーなりと主張する者なれば、この脱を駁するの必要なきに似たりといえども、単にこの句より推してこの結論に達する は、すこぶる薄弱なりと言わざるべからず。マクベスは生けるダンガンに戦いをいどむにあらず。生けるダンカンは寛厚の長者なり。されど、いかに君子の幽霊なればとて、温風のごとくに出現するの道理なし。少なくとも、みずから手をくだしたるマクベスにしかく見ゆべきにあらず。したがって、刀矢の宗に生まれたる男子が、これをさしまねいて剣光のもとに雌雄を決せんとするは、必ずしも不可なきに似たり。余ゆ丸に思う、ハンターの説は、第二の幽霊をバンコーたらしむるう丸に、さまでの功力なしと。  以上の二家に反して、第一をバンコーとし、第二をダンカンなりと思惟する者をナイトとす。第一の論拠は、twenty trenched gashes on his headをこうむって倒れたりと伝えられたる、バンコーにマクベスの句中にあるtwenty mortal murthers on their crownsという文辞がよくあてはまるというにあり。要するに、これもまた言句の議論にすぎず。されど、単にこれをもってバンコーなりと論断するの大早計なるはもちろんなれど、この断論を掌固にするうえにおいて、多少の力なしというべからず。かれの第二の理由にいたってば、容易に首肯しがたきものあり。その大要にいう。初現の幽霊と再現の幽霊に対する態度のう丸において、マクベスの言語に変化あるを見る。すでにその言語に変化ある以上は、同一の幻怪に対するものと断定しがたし。 がれの初雪を見て驚怖せるをとがめて、きみも丈夫ならずやと夫人の語りたるに答えて、「しかり、しかも豪胆なる丈夫なり、鬼をおののかしむる者を熟視するからは」とい光り。しかるに、第二の幽霊に対してはぐVvaunt! a乱quit my sightてといい'Take any shape but that'といい、または、'Hence, horrible shadow !'という。すべてこれ傾倒激越の辞にして、これを前段に比するに、いっそうの熱気を加う。これ第二の幽霊は第一よりも捧猛凶悪なるがためならんと。これを弁諭せんには、再び心象0.推移なる問題に人らざるべからず。ナイトは動きうる幽霊を見て、動きうるマクベスを見ず。心的にclynaヨぞなるマクベスは、かつてがれの眼中に人らざるなり。吾人は両個の幻怪をこの光景上に点綴しうると同等の容易さをもって、二個のマクベスを描写しうることを忘るべからず。ゆえに、他の理由ありて、この幽霊は一個にして二個にあらずと断諭しうるときは、いきおい動く者はマクベスなりと言わざるべからず。しこうして、この中心点たるマクベスの動くは、副長たる幽霊の動くよりも劇全体の生命を活動せしむる点にかいて、効果あるはもちろんなり。さらば、マクベスはこの活人画裏にいかに動き、いがなる丹碧の彩華によりて、順次にこれを色どりしか。余思うに、マクベスの変化は流水の低きにつくがどとく、楓葉の秋を染むるがごとく、自然の理をきわめたるものなり。人あり髪を引きてなんじ にたわむる。なんじ微笑して過ぎん。頃刻ののち、かれまたなんじの髪を引く。なんじ笑うことをやめて渋面を作らん。三たび四たびにいたって、なんじ憤然として立ちてかれをうたん。かれのなんじにたわむるるや、その動作にかいて、その程度にかいて、前後どうも異なるなきなり。しがれども、なんじの微笑は変じて渋面となり、ついに殴打となる。これ動く者がれにあらずして、なんじにあるなり。マクベスはもとより斗大の胆を有する空世の偉人にあらずといえども、 その英挺悍励の気、優に尋常一様の鈍瞎漢を技くに足る。ゆえに、その幽鬼に対するや、常に畏 怖と憤怒の間に防徨す。がれはおのれの殺戮せる旧主旧友の影を、奪取裏に認むるを恐る。しかも、同時にかれらのかのれを侮蔑し、その死屍冷骸を動かして、あえてわが面前にいできたるを憤る。がれの第一幽霊を見るや、畏怖の念憤怒の念にまさる。その去って再び来るや、憤怒の念畏怖の念にまさる。ひとたび消えたる亡者を送りて、胸中の波瀾まさに収まらんとするに臨みて、またまえと同じき亡者に接す。亡者はマクベスをして瞬時の安心を得せしめんがためにことさらに退却し、ようやく安心を得んとするときまた急に立ってその虚をつく。これ最初より退却せずしてマクベスを眸回するよりも皮肉なるやりくちなり。あくまでもがれを愚弄せる手段なり。勇悍気を負うマクベスのごときもの、この出雲の熊度に対して、憤恨痛激の辞なきをえんや。かれ の第一の幽霊に対するよりも、第二の幽霊に向かって切歯篤行の語多きば、まさにこれがためなり。しかも、同一の幽霊が随意にきたり、かってに去り、思うままにかれを嘲弄するがためなり。ゆえに、余はナイトの説に反して、変ずる者は幽霊にあらずして、かえってマクベスなりと断ず。  両個の幽霊をもって共にバンコーなりと認むる者あり。ダイスおよびホワイトこれなり。ダイスいうstage directionは元来単に俳優の注意のために設けたるものなり。ゆ丸に、もし沙翁をしてダンカンとバンコーと両人の亡鬼を登場せしむるの計画ならしめげ、最初より混乱の憂いなきよう明記すべきはずなりと。余はこれに対して、しかあるべしというのほか、一辞を付加するあたわず。ホワイトの説にいたってば、諸家の評論中もっと耳を傾くべきものと思惟す。いわく、マクベスの心を苦しむるものはバン=1にほかならずして、幽霊の出現するはマクベスがバンコーの事に説きかよぼしたるのちにあり。第一の幽霊のバンコーなるや疑いをいれず。第二もまた同人なること明白なり。マクベスのバンコーを殺すや、遠く時日を隔てず、したがって当時がれの心を支配するものはバンコーなり。かつ、がれは衆人の疑念を晴らさんとて、ことさらにバンコーを過賞せる際に、幽霊の突如として現わるるによってしかるべしと。ホワイトの説簡にして要領を得たり。余はたいたいのうえにおいて、その説に同意するにちゅうちょせざるものなり。 今これを詳論せんとす。  バyコーの怨鬼は、ただがれがマクベスに謀殺せられたりという単純なる理由によりて、形をあらわすにあらず。もしこれをもって幽霊の出るに相当の理由なりとせば、ダンカンの怨霊もま た同等の権利をもって登場潤歩しうるはずなり。されども、沙翁はバンコーの怨鬼を出すまえに あたりて、周到なる用意を整えたり。少なくとも余の目に映ずる悲劇マクベスにおいては、単なる殺唐以外に興味多き心理上の手順を踏めりと思う。マクベスの三個の凶漢を涜職して、バンコーをみちに要撃するや、バンコーは当日の夜会に臨まんとして城外まで馬上にて乗りつけたるおりなり。域内にては謀殺の主人宴を張りて大いに群臣を饗す。群臣を饗するのマクベスは、凶漢のすでにおのが命を果たし丸たるやいなやを知らず。心中の煩悶知るべきのみ。しこうして、その煩悶の焦点はバンコーにあるや言をまたず。宴すでに開く。剌客きたりて戸外に立つ。マクベスその面上に一点紅あるを認めていわくバFis better thee without than he withinと。がれは当夜の宴にバンコーの顔を見ざるを欲し、かつその策のなれるを聞きて、ようやく安堵の思いをなす。苦悶の雲まさに収まる。宴すでに開く。マクベス立ってバンコーの座にあらざるを惜しみ、衆に向かっていう。    "Here had we now our country's honour roofd,    Were the graced person of our Banquo present;    Who may I rather challenge for unkindness    Than pity for mischance."  これあきらかにバンコーのこの席にきたりうるべからざるを予想して、その心事をさかさまに放射せるものなり。この時にあたって、かれの念頭はもとよりバンコーを離れず。しかも、バンコーを再び見るのおそれなきを信ず。しこうして、ことさらに堂上の臣僚を欺隔せんがために、かれが欠席せるためせっかくの興味をそぐを喧々す。この時にあたりて、幽霊あり音なく室に入り、声なくしてマクベスのイスに座す。とせば、その幽霊はがれが副意識のもとに埋没せるダンカンの幽霊と見るべきか、はた寸時もかれの念頭を離れざるバンコーの幽霊なるべきか。事実はしばらくかく。これをダンカンの幽霊とせば、興味のとみに索然たるものあらん。じゅうぶんに 諸人を痛着し丸たりと信じたるマクベス、また万々バンコーのこの室に入るの道理なしと思いつ めたるマクベスが、かのれの席に復せんとしてぶり向けば、居るべからざるバンヲーーが、居るべ からざるおのれのイスに冷然と端座しつつあるを見て、慄然たる寒慄の念は、マクベスより伝染 して一般の観客に電気のごとく感動を与うべきなり。友を殺し了し、臣を欺き了したりとうぬぼ れたるかれは、劈頭第一に幽霊より翻弄せられたるなり。 幽鬼すでに去って波瀾ようやく収まる。マスベク思えらく、今度こそ安心ならんと。再びさき の陥着手段に訴えていう。    。μdrink to the general joy o。the whole table.     And to our dear friend Banquo. whom we miss;     Would he were here! " と、がれの念慮は、なおバンコーを離れざるを見るべし。かれ剛腹なるかな臣僚を愚弄せんと欲するを見るべし。しこうして、その他を愚弄せんと欲する裏面には、一点得意の気あるを認めうべし。得意の気わずかに機微に発するとき、忽然としてその鼻梁をくじくの幽霊は、再び登場しきたるなり。マクベスの憤怨知るべきのみ。余はいかにこれを解釈するも、再度の幽霊をもってダンカンと思議するあたわざるなり。以上は余の第二問に対する解決なり。  目、最後に解釈すべきは、マクベスの見たる幽霊は幻怪とすべきか、また幻想とすべきかの問題なり。客観的にほんものの幽霊を舞台に出すを否とするについて二説あり。一は、この幽霊は ひとりマクベスの目に触るるのみにて、同席の他人の瞳孔に人らざるがゆ丸に、なんぴとの眼にも映ずる実物を場に上ずは、当を得たるものにあらずとの考えなり。クーフーク、ケンブル、ナイトの諸人これを主張す。一はこの幽霊たる単にマクベスの妄想より程造せられたる幻影の一塊にすぎざるをもって、これを廃すべしとの意なり。第二の幽霊についてハ ハドソンこれを固持す。第一の説は理において妥当なるも、これを廃したりとて感興を引くの点において必ずしも実物の幽霊にまさらず。しばしば言えるごとく、この劇の中心はザクベスなり。マクベスに対する観客の態度は、マクベスと列席する臣僚の態度と同じからず。吾人はこの中心点なるマクベスの性格の発展を跡づけんことを要す。ゆえに、われら観客はマクベスの臣僚よりもマクベスに密接の関係ありて、またがれらよりもいっそうマクベスの心裏に立ち入るの権利を作者より与えられたるものと仮定して可なり。吾人の劇を見るや、劇を見るのま丸にあたってあらかじめこの仮定を認識せるものなり。ゆえに、この点より論ずれば、一座の人に見るあたわざる幽霊が、観客の目に人りたりとてふつごうなき訳なり。また、第二説に対しては、余は下のどとき意見を持す。文学は科学にあらず。科学は幻怪を承認せざるがゆ丸に、文学にもまた幻怪を輸入しえずというは、二者を混同ナるの僻論なりと。されど、文芸上読者もしくは観客の感興をひきうると同時に、ま た科学の要求を満足しえんには、なんぴともこれを排斥するの愚をなさざるべし。ただ単に科学の要求を満足せしめんがために詩歌の感興を害するは、これ文芸をあげて科学の犠牲たらしむものと言わざるべからず。マクベスの幽霊は科学の許さざる幻怪なるがために不可壮るにあらず、幻怪なるがために興味を損するがゆえなりと言わざるべからず。科学の許す幻想なるがために可なりと説くかべらず、幻想とせば幾段の興味を添えうるがために可なりと論ずべし。しこうしてこの光景にあって実物の幽霊を廃するときは、劇の興味上壮んらの光彩を添えずして、かえってこれを減損するのおそれあることまえに述べたるどとくなれば、余はこの幽霊をもって幻怪にて可なりと考う。もしくは、マクベスの幻想を吾人が見うるとし、その見うる点にかいて幻怪として取り扱って不可なきものと考う。第三の問題に関して、いま少し詳論のうえ明暢なる解決をな さんと思えど、時日乏しくして遺憾ながらその意を得ず、行文思想とも蕪雑なり。読者推読あら んことを希望す。(十二月十日釈稿) (明治三十七年一月十日『帝国文学』)