好悪と優劣 夏目漱右 上  作物の評価に好悪の弁を用いるかぎり、作物そのものは是非の|煩《ほん》から脱却している。という意 味は、好悪とはついに評家の頭にのみ存する印象で、いわば作物から反射した光線の影が、かれ め胸に宿った主観的の感しにすぎないからである。これに反して、もし|翫賞《がんしよう》のうえに優劣の文字 を使用すると、まえとは趣がだいぶ違ってくる。すでに優劣という以上は、評家の受け取った個 人的の感じに満足しないで、りくの感じを自己以外の読者にも通用するものとみなすか、または通 用せしめんとする一種の努力であるc他の方面から説明すると、優劣ということばは、す4、に評 蒙の頭を離れて作そのものに付着した区別である。優劣の二字で批判された作物は、その批評を 自家の属性のごとくに背負って歩かなければならない。客観的にそういう資格を評家から付与さ れたといってもよし、もっと鮮明に述べると、在来客観的に作中に存在していたそういう資格を、 評家によって今発見されたということにもなる。  だから、ただ自分は甲の作が乙の作より好きだとかきらいだとか言っているうちは、評家とし て作物に対する責任ははなはだ軽いのである。すなわち、その裏面には、常に人は異見もあろう が、自分はこう思うという条件が付帯してある。|謙遜《けんそん》の美徳に富んだ人、もしくは作家に敬意を 表する人が、好んでこの態度に出るのは、このためである。(今の評壇にこの種の人ははなはだ少 ない)  これに反して、優劣を断言する人は、自分の評価は単に自分にのみ正当なのではない、他の人 にもぜひ通用しなければならないという仮定から出立している。いわば権威ある批評である。甲 は乙よりもまさっている、あるいは劣っているとは、すなわち評者一家の好悪ではない、作その ものがすでにまさっている、劣っているという意味なのだから、天下一般に通用しなくてはなら・ ないすこぶる強いもので、ほとんど他に反対を許さぬ性質を帯びている。したがって、その責任 ははなはだ重くならなければならない。ぜひとも客観的に論証して、この作はこういう長所特色 もしくはこういう短所陥欠があるから、まさっている、もしくは劣っていると、自分の頭に受け た好悪を、さらに作そのもののうえに放射して、だれにでも見える作中の事相にもとづいて、そ れ壱材料として|紮説《じよせつ》しなければならない。しかも、言うところはコンビンシングでなければなら ない。しからざれば、すでに自家出立当時の仮定を|蔑如《べつじよ》せる矛盾に陥るからである。(今の評家の 多ぐが、態度からいうと作物の優劣を論ずるごとくに見せて、その実廿単に好悪の評を繰り返す のは、ただに作家を侮辱するのみならず、かねて天下を|備着《まんちやく》せんとするものである)  優劣の論議は一個の好悪を拡大して、これをできるだけ普遍的ならしめんとするの努力であ る。|自《お》己の好悪を|直下《じきげ》権に嚢せしむるの方法なきゆえに、やむをえずひと享これを客観的 に翻訳して、それを納得する他人に、自己同様の好悪を|把捉《はそく》せしむる方便である。二重に手間の かかるまわりくどい方法ではあるが、翫賞のうえにおいては各翫賞家の間に以心伝心の法を欠く 人間の所作として、手ぬるくともしかたがないのであるq 下  この間接手段(自分の主観をいっぺん客観に翻訳して、その翻訳の力で、またもとの主観に似 、たあるものを人の頭に起こさせる手段)において、自他の感情に交通のみちをつける中間の連鎖 が至要の使命を帯びるのは当然である。|比喩的《ひゆてき》にいえば、この導線はわが電流をかれに送るに耐 えるほどじょうぶでなければならない。また、デリケートでなければならないρ平たく説破すれ ば、両者の中間に横たわる客観|的紮説《じよせつ》は有力で、めいりょうで、秩序があって、聞く人に納得の できるようなものでなければならない。すなわち、普遍的の傾向を有する点においイ相応の実力 を備えていなければならない。  けれども、吾人が作物の優劣を論ずるとき、自家の好悪を拡大して、さらにこれを他人の好悪 となさんと試みるとき、その試みの成敗は一にかかってこの中間の架説にあるがごとく考えるの は、それが唯一の方便だからである。よくよく自分の心理状態を反省してみると、自分の本気に 重きをおいているところのものは、依然としてやはり当初の主観すなわち好悪にある。この好悪 の念があざやかにくまどられて、強烈に燃焼するとき、これを伝うる導体もまた必ず有力であ り、コンビンシソグであらねばならぬとの感が潜んでいる。主観を翻訳する客観的架説の価値こ そ、かえってかかってこの主観の強弱にあるかの信念がある。好悪の取捨|赫灼《かくしやく》として目を射るご とく明らかなるときは、これを|布術《ムえん》する第二義の説明も、またそれに相応する権威をもって上下 に徹底しえざるべからずとの自信に支配される。すなわち、直覚が強ければ強いほど、それを代 表する議論も|堅牢《けんろう》であるとの念が深い。だから、客観の弁説が作の優劣を決するとはいいなが ら、その実はすでに一個の好悪が早くすでにその優劣を決しているのである。好悪が優劣に変化 せねばやまぬほど、(自己が多数に伝染せねばやまぬほど)主観が強ければこそ、客観的の導線も 自然に流出するのである。  個人の主観が個人的の制限に甘んぜずして、これを普通ならしめんとの活動を試みるのは、と りもなおさず、趣味に統一がなくてはならぬとの努力にほかならぬのである。自分の好悪は同時 に甲の好悪であり、乙の好悪であり、あわせて丙丁の好悪でありうべし、もしくはしかあらざる べからずとの念力であって、この念力を果たす方法がすなわちだれにでも通用する客観的論弁の 形になって発現するのである。  『鑑賞の統一と独立』中に述べた統一と独立との関係は、実をいうとこういうものであったの である。したがって、この統一という字面の裏には、必ずしも俗にいわゆる芸術上のカノン〈法 規)を含んでいない。芸術上のカノンは、ギリシャのアリストートル以後幾多の哲学者と批評家 ーによって|建立《こんのゆう》せられ、また破壊された。昔より今日にいたるまで、永久不変の価値を有するカノ γはいまだかつて一つもないといってさしつかえない。その理由を説明するのは、さきに述べた 『イズムの功過』中にある議論を繰り返すだけだから、重説しない。ケヤードという学者は、天 才はみずから法規を制定するの権利を有すといρている。余のことばに従えば、自己の生命は自 己に適当なる輪郭を自然に構造するがゆえに、一代まえの輪郭をいつのまにか脱却するというこ とである。だから、ここに弁じてきた統一と、古来から幾度も唱道されたカノソと同様式のもの とすると、一方に統一を説き、一方にイズムを排する、余はあからさまに矛盾を冒したわけにな る。だから、そこを明らかにしておきたい。  余のいった趣味の統一とは、多種多様の作物の|個《りり》々を|翫賞《がんしよう》する場合に甲乙がその評価において 一致することをさして多く言ったのである。いやしくもある程度までこの統一を許さぬ以上は、 文芸界にあって同じ空気を吸いながら、同じ飯を食いながら、同じ文明と社会に住みながら、友 人と他人とに論なく、人は皆石片のごとくなんら精神的に交渉なくただごろごろしているという 不合理な結論に到着しなければならない。そうすれば、文芸の成立に必要なる相互の同情という 本義を滅してしまうといいたいのである。好悪をもって満足のできぬほど主観が強烈に働くと き、これを客観化して優劣とし、そこに趣味の統一を要求してはじめておちつくのは、単に自我 をふいちょうするばかりでない、わが主観に対する同情を天下に求むる自然の声であると提唱し いのである。 明治四十三年七月三十一日—八月一日 『東京朝日新聞』