滑稽文学の将来

夏目漱石

滑稽文学

 将来わが国に滑稽文学が盛んに勃興するだろうかどうだろう? そんなことは予言者にあらざ れば断言することはできない。社会の流行というものは妙なものだ。別に重大な理由がなくて も、ちょっとした動機であるものがはやりだして、あるものがすたれる。たとえば、羽織の五つ 紋がはやるのを見ても、別にこれという深い訳があるのじゃないので、おおぜいの人が今まで三 つ紋ばかり着ていて多少あいたようなかたむきがあるとき、ひとりが五つ紋を着だすと、これは 変わっておもしろいといって、隣の人が着る。すると、またその隣の人が着るというふうに、だ んだんおおぜいが着るようになれば、それがすなわち流行となるのである。西洋の社会学者は、 社会は模倣である (society is imitation) といったが、なるほどそうかもしれない。人がちょっと 珍しいこと、おもしろいこと、きばつなことを姶めると、ただちにこれをまねるのは世の中の常 で、まったく没交渉にしているわけにはいかぬとみえる。文学の方面にしても、十八世紀のころ ひとりが銭のアドベンチュアを書くと、今度はそれをまねて着物のアドベンチュアを書くものが できる。その他いろいろそれに類似したものをおおぜいが書くようになるので、これらはたしか に模倣である。しかしながら、人はまったく縁のないものをまねるということはしないので、必 ず自分と近いものをまねる。たとえば、自分の隣に外国人が住んでいて、非常に珍しい異なっ た風俗をしていれば、ただちにそれをまねるかというに、それはしない。かけ離れた縁の遠いも のはまねようともせず、また、まねようとしてもできないのである。いったい、模倣ということ は、ちょっと聞けばなんとなく軽薄なようだけれど、人のすることをまねしたところがなにも罪 悪になるわけでもなく、人が変わったこと、珍しいことをするのを見て、それにならうのは人情 のやむをえぬところで、作ってするのでなく、しいてするのでもなく、自然とそのほうに傾くの である。で、滑稽文学は将来どうなるだろうかなどという問題について、自分は今まで考えてみ たこともないので、また考えても容易にわかるまいと思うが、滑稽文学の興ることなども流行と いえば流行といえるので、新たにひとり傑出した作者が出て大作を出すか、あるいは他の動機に 刺激されて、非常な勃興(ぼつこう)をきたすかもしれない。けれども、それを断言することはむつかしい。 世の中に金をもうけたがっている人はずいぶんたくさんあるが、さていかにしたら金がもうかる だろうかということのわかる人は、きわめて少ない。たいていはわからずにまごついているので、 商売をしている者は必ずもうかると鑑定してやるのだろうが、十中の七、八は思うようにいかぬ がちである。百人のうちにひとりか、千人のうちにひとりぐらいよくこれらのことの見える人が いて、たしかにこうとめぼしをつければたいてい当たるが、文学のほうではそうはいかぬ。金も うけなどはビジネスだから、思ったとおりに働きさえすればいいが、文学のほうではたとえ今喜 劇を一つ出せばきっと当たるということがわかっていても、自分でそれを書くことができなけれ ば、どうすることもできない。また、ほかに書く人がなければ、あるいはそのままで過ぎてしま うかもしれない。これは頭の問題だから、ビジネスと同じように論じがたいのである。

歴史と国民性

 また、滑稽文学が興るかどうかという問題については、その国の歴史と国民性も少なからず関 係を有している。歴史のことはしばらくおくとして、その国民性であるが、ヘブライ民族のよう な厳格な国民にはとうてい滑稽文学のありようはずがないので、まず国民一般にユーモアをもっ ていなければ、その興るべき第一の資格のないものといってよい。いうまでもないことである。 ところが、日本の人は元来まじめっけの少ない、とぼけたような、そしてよく泣き、よく笑う感 じやすい国民である。まじめでないというて語弊があるなら、多血的な、神経質な、すなわち胆汁質(たんじゆうしつ)でないといったらよかろう。いずれにしても、冷ややかな堅苦しい国民でないだけに、いず れかといえばロマンチックな、そしてポエチカルな国民であるから、悲劇を見て泣きうると同時 に、喜劇を見ても必ず笑いうることは確かである。精細に国民性を研究すれば、言うべきことも ずいぶん多いだろうが、要するにわが国の人々はじゅうぶん滑稽趣味も有しているし、これを楽 しむ資格もあるのだから、ひとり傑出した作家が出るとか、あるいは他の動機によって非常な隆 盛をきたすだろうということは、断言することはできないが信じえられる。しこうして、今の社 会がこれを要求しているのも事実である。

喜劇の価値

 多くの人の中には、悲劇と喜劇とを比較して、悲劇のほうにのみ重きをおき、喜劇をかるんず る人もあるが、これは大いに謬見(びゆうけん)だと思う。自分は悲劇も喜劇もその価値は同等で、さらに軽重 がないと思う。悲劇に起こる事件はおおむね死ぬか生きるかという問題だから重大にはちがいな く、また人の心を動かすことも強いが、悲劇に泣くばかりが人生ではない。笑いの間にも人情の 機微はあるので、ただ悲劇のほうが実際的であるというにすぎぬ。赤い血の色は最も人の心を引 くというが、悲劇はこれをもっていろどられているために、直接にまた現実的に人の心を動かす のだろうと思う。けれども、喜劇に血の色がないからといって、ただちにこれを軽く見ることは できない。本郷座あたりでときどき演じられるような喜劇を見て価値がないというならば、卑俗 な観客がむやみに涙を流す悲劇もやはり価値がないのである。くだらないものはいずれもくだら ないが、真に上乗の作ならば、いずれをいずれということはできぬので、その価値は同じだろう と思う。悲劇だから尊い、喜劇だから卑しいということはないのであるから、単に悲劇喜劇とい う区別で、その軽重を論ずるのは謬見たるを免れぬ。しかし、おのおの特長はある。すなわち、 悲劇は血の色をもって人の心を動かすような場合が多いから、どこまでも現実的でまた実感的で ある。けれども、喜劇には赤い血の色で人の心を動かすというような直接に胸を突く感じがなく て、いつも談笑の間は進行していくのだから、このほうは間接的で、どちらかといえば空想的な 傾向を持っている。あるいはこんなところがちょっと見ると軽いように思われるのかもしれな い。

真の悲劇

 滑稽文学として世にあるものの多くは、たいてい陳腐でなければ卑しいだじゃれか、嘲笑(ちようしよう)の 気の満ちたものばかりであるが、滑稽というものはただだじゃれと嘲笑ばかりではあるまいと思 う。深い同情もなければならぬ。読む人に美感をも与えなければならぬ。西洋などには喜劇もず いぶん多いけれども、悪感(おかん)を起こすようなものが多い。たとえその事実がいかに滑稽でも、悪感 を起こさせるようなものだったら、けっしてこれを上乗の作ということはできぬ。モーパッサン のに次のようなのがある。

 あるところに生活に不自由なく暮らしている仲のよい夫婦があった。ある時夜会に招待を受け たので、夫はふたりで行ってみようじゃないかと細君に勧めたところが、どういうものか別にう れしそうな顔もせず、ただ黙ってふさぎ込んでいる。そこで、夫はどうしておまえは夜会に行く のを喜ばないかときいたら、夜会へ行くのはうれしいし、ぜひ行きたいけれど、着るものがない のでふさいでいる、と答えた。それじゃその着物を買うにはいくらぐらいいるのかときくと、い くらいくらだという。聞いてみれば、現在における自分の境遇でそれだけの着物を妻に買ってや るのは不相応なことだけれど、せっかく行こうといったものを着物がないからやめるというのも 残念なので、無理算段をしてやっとこさ着物を買ったところが、細君、まだ済まないような顔を している。ほしいという着物もできたのに、おまえはなぜ不満足な顔をしているのだ、といった ところが、着物はこれでけっこうだけれど、飾りが一つもない、ほかの貴婦人や令嬢は皆ルビー や真珠やダイヤモンドをちりばめて燦欄(さんらん)として行くのに、わたしひとり指輪さえなくては行くの がいやだという。なるほどそうだろうけれども、着物さえ借金までしてようよう整えたのを、こ のうえ少なからぬ金を出して指輪まで買ってやることはとうていできぬので、それだけはだれか に借りようということに一決した。それから、細君は自分の知っている夫人のところへ行ってそ のことを話すと、さっそく承諾して、ダイヤモンドの指輪を貸してくれたので、ようやく身のま わりを整え、夫婦そろって夜会へ行き、踊ったり舞ったり、その夜は楽しく過ごして帰ったが、 さて翌日さっそく指輪を返そうとしてみると、どこへなくしたのか、影も見えない。ちょっと買 える品ではないから、夫婦は狂気のようになって捜したけれど、なかなか出てこないので、両人 はもう青くなってしまった。しかし、なくしたからといってそのまま済むわけではないから、市 中のあらゆる宝石屋をさがして、ようようもと借りたのと同じようなのを見つけ、ばくだいな金 を出してそれを買った。もちろん、指輪を買ったのは全然借金したのだから、それ以来財政上の 苦しみというものは非常で、夫もまっくろになって働き、細君も下女のようになって台所のこと までし、長い間かかってようようその借金を返した。その後細君はまえに指輪を借りた夫人に会 ったところが、細君は数年間の辛酸のために顔もやつれ、そのうえ労働のために細く美しかった 指も太くなって、ありし昔のおもかげをしのぶこともできぬほどになっている。そこで、夫人は だんだん様子を聞いてみると、その原因は自分の貸した指輪にあるので、ひどくきのどくに思っ たが、夫人のいうところによれば、以前貸した指輪は真のダイヤモンドではなくて、米を練って 作ったにせものであった。

 自分はこれを読んでなんだかいやな感じがするのである。もちろん滑稽にはちがいないが、し まいにダイヤモンドがにせものだったということが知れるので—あるいはこれが全編の主眼か もしれないけれど—夫婦が指輪をなくして虚栄心のみたらないことをさとり、数年の間まじめ になって働いたのが、まったくわらいの中に葬られてしまった。同情もなければなんにもない。 そこいらのしばいでこれに類した喜劇をやったら大いに喝采(かつさい)を博すだろうが、その価値は別とし て、自分はこんなのを喜ぶことはできない。この喜劇は指輪をなくしてろうばいするところがす でに滑稽である。あとでにせものだったといって、むりに笑わせないほうがかえっていいと思 う。にせものだったといわれて、滑稽というよりもむしろいやな感じがする。世の中というもの はこんなものだといって冷笑したようなふうも見え、さらに読者までバカにされたように思われ る。それならばどんなのがいいか、といってここに例をあげることはできないが、要するに嘲笑 や罵倒(ばとう)が真の滑稽ではなく、笑いのうちにも深厚な同情を有するのが、上乗の作だろうと思う。

(一記者筆記)
(明治四十年一月一日『滑稽文学』)