近作小説二三について 夏目漱石  わたくしはいつも多忙であるために、諸方から寄贈される雑誌や小説をことごとく読むわけに はいかぬ。しかし、近ごろは小説を書く人も多くなり、したがって小説の数もふえておもしろい ものも出るようであるが、わたくしは自分で小説を書いているうちは、ついそれに追われて、ひ とさんのものを見るわけにいかず、また自分のほうが小説を書きしまうと、ほかの小説を読むた めに、せっかく贈ってくれられた月々の雑誌や小説を見落とすことが多いのである。が、ちょう どこの四月は春季の雑誌の臨時増刊のものや、その他に出た各雑誌のものも奮発して読んでみ た。もっとも、むろんことごとくは読まぬ。で、わたくしが読んだ十ばかりのものは、どれもお もしろかった。たとえば、|小栗風葉《おぐりふうよう》君の『ぐうたら女』、田山花袋君の『祖父母』、徳田秋声君の 『二老婆』(以上は中央公論)、早稲田文学に出ていた真山青果君の『アヒル飼い』、その他まだあ ったが、とりどりにおもしろかった。で、いずれもおもしろくは読んだが、そのおもしろく読ん だ間に、今までは気がつかなかったが、考えたわけでもなく、ただふとこういうことが浮かんだ のである。それは読んだ小説のほとんどことごとくが、涙を出すものが一つもないということで ある。もっとも、花袋君の『祖父母』には少しそのほうの傾向があったかもしれないけれども、 ほかのには一つもなかった。それでいて、たいていは|陰欝《いんうつ》なもの、|厭世的《えんせいてき》のものである。むろん、 おもしろくは読んだのだけれども、なにかこう圧迫を感じたような気がする11読んで愉快とい うのでなく、うまいという意味で!ただなんとなく陰欝な調子が大多数を貫いている。いずれ もが申し合わせたようにこの調子で書いている。これはもちろん合議のうえではあるまい。偶然 の暗合であろう。しかし、暗合でも、単におみくじをひいてふたりが同じに当たったのとはちが って、おのずから作家に一種の傾向が胸の中にあるのが、期せずして同じように表われたのだろ う。それは四月に見たものについていうのだが、おそらく近来ー現時わが国における小説はりて ういう傾向のものが多くはないかと、こういうことに気がついた。で、作家諸君はむろん、自分 はどういうものを書いておってどういう調子を出そうということは、心得ておられるに相違はな い。けれども、読者がそれに対して泣くか泣かないかということは、その念頭にさえなかったの ではないかと思う。泣かせてやろうという考えはむろんない。さればといって、泣かせるような ものは書くまいという決心も普通ない話であるから、要するに泣きえないものであるということ -は、作り上げて気がついたのではあるまいか。なぜわたくしが泣くとか泣かぬとかいうことをい うのかというのは、これらの作物の大部分のシチュエーションからいうと、泣きうベき条件を備 えていたように思う。たとえば、首をくくって死ぬとか、あるいはじいさんが家財道具もなにも ない一軒のあばらやから追い出されるということ、その他にもこれに類したことは種々あるが、 それらの所作を読んできのどくとかかわいそうとかいう心はちょっとも起こらぬ。一歩進めてい えば、泣きうることができない。それはなぜだろうか。つまり、悲劇の条件を備えておって悲劇 のように涙をあふらすことができないのは、考えてみるとその編中の人間が、ごく狭い意味にお いての現代精神を発揮しているからである。ここにいう狭い意味の現代精神というのは、自我発 展の傾向をいうのである。すなわち、他に対する道徳でなく、自己に対する道徳に勝ったもの、 換言すれば、人に対する道徳がほとんど眼中にないものを描いたのが多い。もう一っ言い直すと、 写された人間がなんらの犠牲を払っていない。社会のためにも、親のためにも、他のためにも、 まずまあ自己の損失をあえてする点がない。あるかもしれぬが、作には見あたらぬ。それゆえ、 窮するとか、困るとか、苦しむとかいうのが、他のために窮したり、困ったり、苦しんでするの ではなく、たとえ首をくくって死んでも、まあ義理人情で死ぬんではなく、世の中の圧迫でしか たなく死ぬとか、社会的情況の変化につれて自我を発展しそこなって死ぬ。初めから自我を縮小 しようという念は少しも見えない。要するに、|一毫《いちごう》の犠牲だも他に対して払わぬ。元来、きのど くだとか、同情の念に耐えぬとかいうのは、ある意味において自分が損害を受けておらねばなら ぬのと、およびその損害の受け方が他の道義心を満足させていなくってはならぬ。そうでなけれ ば、いくら腹を切っても、いくら困却しても、首をくくっても、ただいやな心持ちになるばかり だ。断わっておくが、こういったからといって作物がまずいというのではない。|沈欝《ちんうつ》な調子には なるのだけれども、かわいそうな極、泣くというわけにはいかぬというのである。  まえにあげた作物のあるものや、このあいだじゅう出た国木田独歩君の『竹の木戸』などもそ うである。植木屋のかみさんが首をくくって死ぬ。その死ぬのを読んでみると、世の中が悲惨な ものだという感じは起こるが、それがため哀れだという感じは起こらない。  そこで、この泣かせるということは、あえて上等な作物なら必ずなければならぬというわけで はない。まえにあげた作物でも、泣かぬ——泣けぬというものでも、しかもりっばな作物である。 泣く泣かぬで、その優劣を判ずるのではないが、どんな作物は泣きえないかを考えると、要す るに情操に伴わない困窮、読者からいえば情操を満足せしめない作中の人物の窮迫は、泣きえ ないのは明らかである。で、たとえば、イブセンの物——総体は見ないが.まあ泣けないもの が多い。心中をしたり、おそるべき境遇に陥ったりしたものでも、まず涙は流さずに読む。イブ センは一種の哲学者である。哲学者といっても、なにもカントやヘーゲルを研究はしないが、社 会制度についてのうえの哲学者、たとえば、夫婦の関係とか、個人の自由はこの点までいかねば ならぬとか、約束的道徳は打破してよいとかいうについて、考えを持っている。その考えが骨子 になって戯曲ができている。ある解釈からいえば、かれの作はその社会的哲学の具体的表現にす ぎない。しかして、その哲理はなかなかに意味がある。また、もっともである。あるいは流俗よ り一歩も二歩も先に出ているともいわれる。けれどもが、その哲理が情操化されておらない。し たがって、この哲理によって行動する人物が躍然として出ても、もっともだとは思われても、行 動が無理はないくらいまではいけても、新しいくらいまでは感心されても、急に古い世界から組 織の異なった世の中へ出たような気持ちがしてもーどうも泣けない。その泣けないのは、編中 の人物の実行する主義道徳がまだ一般に情操化されておらない。もっとも、ある意味では社会的 にいって合理的であるかもしれない。しかし、合理が合理にとどまって、一種のセンチメントが 付け加わってこぬ。全体、道徳には思索上の道徳と、情操化された道徳と二つある。思索上の道 徳というのは、今の世の中はこういう弊があるから、こう改むべきものだと先覚者が考えた結果、 案出した道徳である。けっこうなものにはちがいない。しかし、それは理論で説明されてもっと もだと思い、あるいは戯曲で具体化してなるほどと思うまでで、ある学者のいわゆる美学的価値 はない。価を有していないじ美学的価値は情操化されて、その発現を見ると、思索の暇なく直覚 的に評価しうるものである。しかるに、イブセンの編中の人物の実践の道徳はそこまでいかぬり 習慣にそむいたのが多い。一般からいえば、習慣に従った道徳に情操が付着しているのだから、 イブセンの新道徳には情操が移っておらないのが多い。それだから泣けない。そこでまえにあげ た小説ーわが国現代の小説の傾向は、イブセンの戯曲のように、ある哲理を骨子としてなった ものとも見えないほうが多い。しかし、作者にイブセンのごとき考えがないにしても、言いかゆれ ば作者が意識しておらないでも、編中の人物が人物相応の道徳-哲学を実践する。(もっともそ の哲学が植木屋のかみさんや長屋のおふくろが発揮したりするのだから、哲理という名をつける のはもったいないが。)けれどもその動機が、吾人の情操を満足せしむる意味が少ない。その点 においてはイブセンが書いた人物と同じであるから、なぜ泣けないかという説明は、まえいった 哲理を具体化したイブセンについて、なぜ泣かないかという原因を説明してしまえば、今の著作 の泣けない理由もその中に含んで説明ができると思う。  まえにいうたとおり、作者は泣かなければならぬものではないから、うまくでき、おもしろく 読んだからそれでよいのである。が、しかし、読むものも読むものも同じ傾向であったために、 なにか物足らない感じがした。物足らないというのは、なんとなく圧迫を感じたということで、 すなわち情操の満足を少しも得られなかったのである。で、その時思ったのには、なるほど人間 はときどき泣かずにはおられないものだと思ったことで、それはときどきうなぎ飯やてんぷらが 食いたくなった意味において、泣きたくなるものだ。泣いて情操の満足を求めたがるものだろう。 泣くというと苦しいように聞こえるが、こういう場合の涙は情操を満足した記号にすぎないのだ から、要するに一種の快感の符丁である。せんじつめれば、われわれは作物を読んで快感をほし いという意味になる。しかして、その快感は、笑う快感や、美しいという快感や、勇ましいとい う快感とならび立って、ときどきはわれわれのひざの上に上ってこなければ、|楚痛《そつう》を感ずる時機 も来るだろうと思われる。いちじ日本の文学がむやみに情操を発揮するので、泣かないでも済む ものに泣いて、やれスミレが咲いたといって泣いてみたり、星が出たといって泣いてみたりした、 まことに安い涙の時代もあったが、これには|辟易《へきえき》するとして、今日はその反動でこういう文学が できたとはいわぬが、しかし一部分はその反動と見てもよろしいであろう。だからして、これで 別にふつごうはない。が、出るものも見るものもみんなそうであったら、やはり笑いたくなった り、泣きたくなったりする読者もできるだろうし、作家自身も、みずからそちらのほうに気が向 いてくるだろうと思う。  道徳というものはひっきょう時世に伴わねばならぬ。だから、社会の情況に応じて、思索の道 徳を情操の道徳と変化する必要がある。特に今日のような過渡時代にはその必要がある。で、い たずらに情操が付着しているからといって、古い道徳をかついでいるわけにはいかぬ。また、 かついでいるうちには社会制度の変化で情操がすり減って、形式ばかり残る。それゆえ、なんの 益にもたたぬと同時に、ここに偉い人があって、今の社会制度に応じて未来の道徳を思索的に打 ち建てるにしても、それが情操を備えておらなければ、やはりじゅうぶんの効果を文学のうえに 収むることはむずかしい。もっとも、よろしく収めた極度は、イブセンにおいてこれを見うる。 しかも、イプセンは泣きうベき情況を具備しながら泣きえざる体の戲曲が多いのだ。したがっ て、イブセソ▼はそれだけ損をしている。かれは社会の改革者(イプセン自身に思う)としての主 張を貫徹するために、かれの作物の文学的の効果を減ずることをあえてしているといってもよろ しい。 (明治四十一年六月一日『新小説』)