稽古の歴史 夏目漱石 謡の事は何も知りません。ただおそわっただけを、そのとおりにうなるだけのことですから ね。  下がかり宝生を選んだというのも、別に子細があるわけじゃありません。もっとも、こういう ことはその場合の関係しだいで決まることで、まだ習いもせぬさきからどの流を習おうなどとい う鑑賞力を持っている人はありますまい。  わたしのなども要するに高浜君との関係からですよ。いったい、謡曲くらい習わない人にとっ てつまらないものはないでしょう。それを少しのおかまいもなく、そばにすわらせておいて、一 番も二番もうたって聞かせる人がありますが、あれほど残酷なことは世に多くありますまい。  わたしが、習い始めたのは熊本の学校にいる時分のことでした。同僚の教授連が盛んにやるの で、わたしも半年ほどけいこをしましたが、その後まもなく外国へ行ってしまったので、もちろ んけいこもできず、忘れたようになっていたのですがね。それが帰ってきて、今から五、六年 ほど以前のことですよ。高浜君等の勧めもあり、だれについて習おうかと考えていましたところ が、宝生流の某先生がよかろうとのこと。ところが、聞いてみると、この先生は非常な酒好きで 忙しいからだだとのことです。それはたいへんだ、わたしには酒のお相手などはしょせんできな い、のみならず、そういう忙しい先生では月謝もさぞ高いことであろう。われわれごとき貧乏人 ではと二の足を踏んでいると、さいわい高浜君がみえられて、盛んに下がかり宝生の長所を説か れる。それじゃあというので、宝生新さんに願うことになったのです。ところが、宝生さんは率 直で、淡泊で、至極おもしろい人だが、どうも時間など少しも守ってくれない。こっちにつごう の悪いときがあったり、先生が来なかったりして、とかく停滞がちなものですから、しまいには めんどうになってきて、もうよしてしまって、上がかりに取替えよう、ちょうど某氏が教えてく れるということでしたから。と、それで府下中野の宝生あてて、以後けいこはやめるから、と いって手紙を出しました。なにしろいなかのことですから、手紙といってもそう早くは着きませ ん。すると、それから行きちがいに新さんがみえられた。そこで実はかくかくですと話をする と、ああいう人ですから、別に感情を害するということもなく、 「はあ、そうでしたか」といっ て、亅平気でけいこを始められる。とうとうそれなりけりで、やはり今でも新さんのやっかいにな っていますよ。 病後まだ一度もけいこはいたしません。もうそろそろ始めてもよかろうと思っておりますが ね。しかし、なにぶんまだ日が浅いことですから、どうやらこうやら、謡の巧拙ぐらいはわかり ますが、能のことはいっさいわかりませんな。美感を感ずることはあっても、だれがじょうずで、 だれがへたなのか、今にさっぱりわかっておりません。  謡曲の文章は全曲としてつまらないものもあるようですな。能として種々なものが集められて はじめて完成された芸術となるのでしょう。                            (明治四十四年十一月一日『能楽』)