鑑賞の統一と独立 夏目漱石  アーサi・バルフォアーの書いた『批評と美』という講演を読んでみた。バルフォアーが本職 外にこういう講演をしたことが余の好奇心をつったので、わざわざ注文してそれを取り寄せたの である。  講演は短いもので、わずか五十ぺージに尽きている。しかし、かれ自身が小序において断わっ たごとく、文字の使用方も、議論のやり口も、むしろ通俗に近いものである。そのうえ、かれの 到着した結論はついに消極的であった。けれども、その消極的な点が余の感興を動かした。  往年余が英国に留学して、文学という|荘漠《ぼうぱく》たるものを研究している際に、作物の評価上、大い に|彼此《ひし》の差に迷って困却したことがある。たとえば、向こうの人がことごとく許して傑作とみな しているものが、こっちにはさほどに思われなかったり、あるいは微妙の音楽があるとしてしい られる詩歌に、なにものをも迎え入れる耳がなかったり、そんな矛盾が毎日のようにあるので、 不愉快な日ばかり重ねていた。しまいに自家の味わうべきものに、他人の味覚を標準とするは転 倒である、文芸の翫賞はよか丸あしかれ自分の持っている舌でやるべき仕事である、いくら信用 してしかるべき男がいるにしても、この道ばかりは代理を頼むわけにいかないものだと悟った。  それから自分の立場を正当にするために、 『趣味の差違』という題目のもとにあらゆる類例を 集めにかかったc類例の範囲は、文学、美術、習慣、道徳、その他いやしくも趣味の付着しうる かぎりあらゆる方面にわたって取捨するところなく、集めうるだけのものを集めて、しかるのち に概括的に論断をくだすつもりであった。むろん出立点が国民により、時代により、流行によ り、年齢により、個人の性情と教育によって好尚に差違のあることを根底から証拠だてたいとい う希望であったのだから、たとい思いどおりに計画は成就しなかったにしても、結論のほうは例 を集めるまえすでに半分はでき上がっていたといってもさしつかえはない。当時余の反抗心はい わゆる権威あるトラジショナル(伝続的)な批評、もしくはひとの定めたる芸術的|範曝《はんちゆう》によって 雷同をしいらるる屈辱を避けんがために起こったのであるから、今バルフォアTによって擶し鵬せ られたる(美の標準は客観的に定めにくい、厳密にいえば人々別々であるという)すこぶる常とう な結論を読んでも、当時余の親しく経過した不安やら、この不安に次いで起こった決断やらを思 い起こさしめる点において、余はすこぶる興味を感ずるのである。  同時に、余は現在の自己を顧みて、ひ》、かに当年の余と比較するの機会を、バルフォアーによ ってサジェストされたような心持ちがする。余は近来若い人々と接触して、近代の作物または現 今の日本で出版になる創作について批判的の意見を交換することが多い。中には運よく一致する ことがある。たまには首尾よく先方で余の評価を入れてくれることがある。けれども、さようた やすくらちのあかないときが往々ある。そうして、双方とも下らないで分かれてしまう。ワてんな 時に、余はどうしても余に反対する若い人の評価がまちがっていて、自分のほうが正しい気がし てならぬ。ある場合には、あれのいうことはとんでもない|誤謬《ごびゆう》だと確信することもある。新聞雑 誌に出る月々の創作に対する批評などに関しては、ことにこの感が深い。余はこれらの評壇を担 任する専門家に対して悪意をいだくがためにことさらに自白するのではないが、まれにはよくあ んなことが言えたものだと思うことさえあった。  この心持ちの底には、かれよりわれのほうが、評価においてまさっているという自信がある。 かれも正しかるべきはずであるし、われもまちがっておらぬと公平に主張するよりも、かれは自 家の見地を捨ててわれに従うのが当然だという断定がある。少なくともそういう希望がある。そ れどころではない、かれにしてわれほどの鑑賞力があったなら、必ずわれに一致するだろうにと いううぬぼれがある。一言にしておおえば、作物の評価には統一がありたきものである。また、 統一があるべきはずであるという気に満ちている。しからざれば、文壇はめちゃめちゃだという 感がある。紛糾支離Φ結果どうなるだろうという恐れが潜んでいる。  昔は他の権威に耐えぬ結果、自己の舌で冷暖を味わわねばならぬと主張して、人は人、われは われの極差別観を立てようとした余が、それで|正鵠《せいこく》を得たものと思い過ごした今日までも立脚地 を立て直す必要も認めないのに、自身はいつか|冥《めい》々のうちに自分一個の批判を大なる権威として 他の鑑賞力の上にかぶらそうとこいねがっていた。しかも、それは正しいことと信じていた。  バルフォアーの講義を読んで、今昔の自分を同時に対照するの機会を得たとき、余はこの自家 頭上の矛盾を一度に意識した。意識しながらむ、どっちか一方にかたずけなければなるまいとい う理由を発見するに苦しんでいるのは不思議である。|各自《めいめい 》の舌は他の奪いがたき独立した感覚を 各自に鳴らす自由を持っているに相違ない。けれども、各自はウいに各自かってで終わるべきも のであろうか。おのれの文芸がおのれだけの文芸で、ついに天下のものとなりえぬであろうか。 それでは情けない、心細い。ちりぢりばらばらである。なんとかして各自の舌の底に一味の連絡 をつけたい。そうして、少しでも統一の感を得ておちつきたい。消極的の結論に到着したバルフ ォアーには、この積極的な希望も暗示もないのであろうか。余はこの暗示を今確的に客観的に指 橋するほど頭の焦点が整わないのをうらみとする。そうして、この矛盾を理路をたどって調和す る力のないのを残念に思う。けれども、一方において個人の趣味の独立を説く余は、近来一方に おいてどうしてもこの統一感を駆逐することができなくなったのである。                        (明治四十三年七月二十一日『東京朝日新聞』)