女子と文学者 夏目漱石  文学者となるにさほど深い素養はいらぬ。ただ毎日の実験なり、観察なり、あるいは伝聞なり をおもしろく書いて、多数の人がそれをおもしろく読むならば、すなわちそれが文学である。ま た、他人の著述を読んで、それに趣味を持ち、興味を感じている読者は、その著者と、趣味を同 じゅうし、同じ観蔡の範囲にある同格の文学者といってよろしいのである。たとえば、ここに有 名な著作物ができた。それをおもしろく喜んで読み、その真味を解する読者は、その著作者と感 を等しゅうし、またその著者と似たる境遇に接し、観察もある程度まで同じゅうした人である。 であるから、社会に有数な文学者、著作家としてもてはやさるる人もさほど偉くもない。また、 その偉き著述もなにもその人独りにもかぎるまいが、ひっきょうその方面に熱心で、その才をじ ゅうぶん発揮するをえたる人に勝利は帰するので、偶然に得た名もあるが、これはまれである。 また、文学なら文学に天才を備えている人はあっても、そのほうに気がつかずに過ごす人もあり、 また才はありながら書物読むことをきらいな人もある。あるいは境遇なり、事情なり、習慣なり のために妨げられて、その方面に向かうことができぬ人もある。ある知人に、学問もなければ素 養もないのが、時々手紙をよこすが、その手紙の字などは誤字が多くて満足な文字は少ないの に、その文といったらなかなかおもしろい。こんなような天才は、女子のほうにもたくさんあろ うが、ことに女子は日本では嫁入りするにきまっているし、家庭にはいってからは、自然机に向 かう暇も少なくなるのであろうが、とにかく暇をこしらえて多く書いてさえおると、少し才のあ る人には、できるのである。何の仕事もそのとおりで、金もうけを商売にしておる人を見ると、 どうしてあれほど金がもうけられたかと、はたからはあやしまれるが、その道を求めるに熱心で さえあれば、ほかから見るようにむずかしいものでない。  また、女子だからといって、哲学的文学、あるいは幽玄なる想像を巧みたる詩的文学ができな い不得手という訳もない。そのほうの素養が足りないからである。ジョージ・エリオットという 婦人は、四十歳から学問し始めて、初めは哲学をやっておったが、その著作はずいぶんむずかし い哲学的な文学ができて、男子にも重きを置かれて愛読せられている。これで見てみると、女子 だから奥深い理の文学が書けないとはいえない。しかし、同じ西洋の女流文学者でも、オーステ ンの文はごく平易な客観的の写実文であるが、その筋は変化も起き伏しもない|平坦《ヘいたん》な脈であるの に、非常におもしろく読まれるのは、外国人のわれわれが読んでみてさえ、その個人の人格その 作の上に活動して、人物の風貌《ふうぽう》人格が髣髴《ほうふつ》として表われるのである。ごく明察に敏捷《びんしよう》にその特性 を現わしてある。それで、どちらかというと、女子には緻密《ちみつ》なる観察をもって客観的な写実の文 が得意のようである。                            (明治三十九年十月一日『女子時事新聞』)