人工的感興

夏目漱石

たとえば、創作についてはいろいろある。ここには創作の方法について自分の知っている人々 の二、三例話を話そう。

女流作家オースチンなどは、芋の皮をむきをがら、そのひまひまに一ページも書く。それから また子どもの世話をする、着物の洗たくをする。そしてそのひまに一ぺージも書く。どこで始ま ってもよい、どこで終わってもさしつかえない。用のつごうで鉛筆の跡が終わるところを終わり にする。それで少しも苦にならぬらしい。そして、あのような傑作ができる。

エリオットはその亭主(ていしゆ)のルイスと同室にいたが、ルイスのペンの動く音さえ苦になって書けな かったという。オースチンのむとんじゃくに比べて、これはまた特別の神経家である。

そうかと思うと、ブラウニング夫妻のごときは、イタリーにいたころなぞは、お互いに詩を作 ろうと思うと、ふたりが離ればなれになる。そして、各自の室にはいって、日課をたてて何時間 とか書く。そしてまた一定の時間に出てくる。ほとんど機械的にできるようだ。

サッカレーは自分の書いたものをいつでも持ち歩いている。銀行に用があるときなぞは銀行へ 持っていって、しばらく待っている間に、原稿を直している。

バルザックのごときは、草稿を活版屋にやる。活版屋が校正を送ってくると、全紙がまっくろ になるまで直してしまう。それからまた活版屋にやる。活版屋がまたすっかり組みかえて再校の 初校を送ってくると、またその大半を直す。こんなあんばいで、初め活版に付したものはいつで も未定稿なのである。つまり、その初めはだいたいの筋だけを書いて、漸次にすっかり直しあげ るのであろう。

イギリスのトロロープは、汽車に乗っておって一時間に何ページとか書く。これなぞはあまり 物事を苦にしないほうではあろうが、しかしあまり傑作もできないようであった。

ユーゴーはまたヨットに乗って横になって、海上でしくみを考える。それから筆を執ると、一 気呵成(かせい)にできるのだというが、スチーブンソンなぞは腹んばいになっていて書くのだそうな。

これを総合して考えると、神経質の人もあれば、機械的にできる人もある。少々くらい物に妨 げられてもかまわぬ人もあれば、むやみと物事を気にする人もある。けれども、こういうことだ けは言えるようだ。世にインスピレーションが起こらねば筆が執れぬといわれているが、インス ピレーションは必ずしも待っていて出てくるとはかぎらない。なぜなら、名家でりっぱな作物を 出す人が、時間を定めて、その間々に用をしながら、しかも渾然たるものを作る余地があるとこ ろをもってすると、インスピレーションが来なければ筆が執れぬということは、ちょっと考える 価値があると思う。

その意味は、気が乗らなければ書けぬということは、事実に相違ない。それは事実には相違な いが、しかし気が乗るのを待っていなければ書けぬというのは、うそであろうと思う。換言すれ ぱ、自分が気が乗らなければ、みずから気が乗るようにしむけるということが必要ではあるまい かと思う。いわば人工的インスピレーションとでもいうものを作り出すように務めなければなる まいと思う。いつまでたってもインスピレーションが来ないというので、いたずらにポカンとし ておって、そのくるのを待とうとしても、それがいつくるか知れたものではない。それの来るよ うにしむけるということが、だいじなことであろうと思う。そうすれば、年に一冊しか書けない ものでも二冊三冊と書けることになるだろうし、またその数のいたずらに多きをむさぼるという のでなく、作のうえにも上達をいざなうことになるだろう。つまり、インスピレーションを出す ようにくふうするということは、薬を飲んで病気を直すようなもので、病気はうっちゃっておい ても直るものであろうが、早く直すためにはぜひ薬を飲む必要があると同様であろう。

しかし、人工的インスピレーションのでかし方はどうしたらよいかということは問題である。 これはわからないと答えるよりしかたがない。ただ、自分はどうしてインスピレーションを作る かということだけは語られる。自分はインスピレーションなどというほどのおおげさのものでも ないが、とにかく気乗りのするようにくふうする。つまり、自分のように人から日を限られて頼 まれたり、ぜひ書いてもらいたいなどと言われたりするときは、どうしても小説を作るように気 を向ける必要がある。そうしないと、今論文などを読んでいるとすると、もうその論文が書いて みたくなって、創作などはできなくなる。そこで自分が小説を作ろうと思うときは、なんでもあ り合わせの小説を五枚なり十枚なり読んでみる。十枚で気が乗らなければ十五枚読む。そして、 こんどはその中に書いてあることに関連して種々の暗示を得る。こういうことがあるが、自分な らばこれをこうしてみたいとか、これを敷衍(ふえん)してみたいとか、さまざまの思想がわいてくる。そ れからしばらくすると、書いてみたくなる。それをだんだん重ねていくと、だんだん興が乗って くる。その興に浮かされて耐えられなくなったとき、筆を執るとよいのであろうが、自分などは それを待っていたことはなく、いいかげんなところで筆を執りだす。

あまり創作などのできそうにも思われぬ自分が、まあどうかこうか書く。書くうちには、その ある部分のごとき、ずいぶん気が乗って書けるように思われるところもある。これは自分で作り 出したインスピレーションであろうと思われる。だから、自分などはしばしばこの人工的インス ピレーションをやることに務めているのである、

かの気が向かなければできないといって、気の向くのを待っている天才はだの人たちは、もと より天才だから自分らにはわからないが、しかしこれらの人は必ずみずから務めることをしない という責めは免れまい。務めるという意味は、無理をするということではないりいざなうという ことである、いざなうということもしなければ、いつそのインスピレーションができてくるか、 いつその作物ができるかわからない。

われらがきらいだと思う運動でも、務めてしなければならぬというように、作をやるにもまた みずからむちうつという必要があるだろう。だから、自分は文章家だから気が乗らなければ書け ないというようなことは、いわずとも済むと思う。ちょっとした例であるが、スチーブンソンと いう人が、かの有名な『ツレジュア・アイランド』というを書いた。それはスコットランドで毎 日一章ずつ書くことを日課にして十章ばかり書いた。すると、ぴたりと止まった。そして、それ からは書けなくなった。それから何かの書を見たら、急に書けるようになってきたという話があ る。これは不用意の際にインスピレーションを作ったものといわねばならぬ。

創作に従事することは一、二年にすぎぬうえ、これという人に誇るほどの作物を出さぬ自分 が、創作に対する意見などは人の参考になろうとも思えぬが、せっかくの来訪だから、いま一つ 話そう。古人今人の別なく他の書いた書物を読めば、よんでいるうちに、幾多の暗示は求めずし て胸中にわいてくるものである。創作をやろうと思ってここまでこぎつけるのは、別に苦労も心 配もいらぬ、自然にできる。要は読書中(ここには特に読書中に得たる暗示のみについていう) にわき出したる趣向をいかに仕上げるかに帰着する。創作も草木の種をまくのと同じことで、ま く種の数は非常なものだが、はえて花を開く数は何分の一にも足らぬわずかな数である。胸裏に 得きたりたる趣向のばくぜんたるものはいくらでもあるが、いざこれをものにしようとなると、 だいぶ時がかかるからして、いよいよでき上がったものは比例からいうときわめて少ないので、 ことに余のごとく多忙なものは、とうていかたはしからかたづけていくというような時間はない。 よしいくら時間のある人でも、このばくぜんたるものをことごとくまとめて、めいりょうなる体 裁に仕上げきるほどの人はあるまいと思う。してみると、創作家は種に困るといわんより、仕上 げに要する時間と労力に困るのではないかと思われる。余一家の経験からいうと、今まで雑誌そ の他に載せるまでに書き上げたものは、その何倍かの数が頭のうちにあったので、その中から、 いざとなったときいいかげんに一つぬき出してきて、この一つだけを熱心に考えてこね上げたも のである。できたあとから見ると、どうしてこれだけが物になって、ほかのは依然としてあいま いな形でいるか、自分ながらその選択の意味がちっともわからない。多くの作家のうちには、自 分と同じような経験があるかどうか知らぬが、とにかく自分だけにはおもしろい現象で、しかも ほかの人がまだ言うておらんようだから、ちょっと蛇足(だそく)ながらお話をするわけである。

(明治三十九年十月十五日『新潮』)