漱石一夕話 夏目漱石 脚本と小説  脚本家になるものは少なくて、小説家は多い。それにはいろいろの理由もあろうが、一つは|芝 居《しばい》が見物相手の商売だということが原因をなしているらしい。いつかも言ったことだが、|越路《こしじ》を 聞きに行く、|大隅《おおナみ》を聞きに行くというものはあっても、|門左《もんざ》の|曽根崎《そねざき》を聞きに行くとか、|半二《はんじ》の 何を聞きに行くとかいうものはあまりない。つまり、作そのものよりも、それをやる技術に重き を置くというのが一般の実際であろう。早い話が、落語を見てもそうだ。落語の題目は昔からあ まり変わったものもないようだが、それを小さんもやれば、円遊もやる。そのやり方の巧拙にお もしろいところがあるので、十年一日のごとき落語もいまだにすたれない。こういったふうに、 芝居も俳優が主となるので、脚本家はどうかすると、俳優の従属らしい関係をつくる。これはど うもやむをえぬことで、|桜痴《おうち》のごときをもってすら、俳優、もっと適切にいうと見物に左右せら れたことは少々でなかったらしい。小説にも読者という相手はあるが、芝居のような束縛はうけ ない。人はなるべくその自由なほうに行く。そこで脚本家は少なくて小説家は多いというそのう ち一つの原因にもなるのであろう。  であるから、芝居の立て作者というようなものになると、どうも|掣肘《せいちゆう》せられることが多くて、 なんだか冷遇せられるような気持ちもする。西洋でもそうで、人気役者の型に合うようなものを 書きおろしたところで、わたしはよろしいが、妻がやるものがないとか、自分の相手のだれにや らせるものがないとかいうので、やむをえずまた書き直すというようなことは、自然免れぬこと らしい。それゆえ、脚本家が自分の脚本を思うようにやらせるには、坪内さんのように芝居の外 に立つことがよさそうだ。|渦中《かちゆう》にはいってはなかなかむずかしかろ。  イギリスではことに脚本家が少なくて小説家が多い。その理由として伝うる一説によると、ピ ューリタンの騷動以来、国民一般にまじめな宗教観念につれて、芝居というものはただ一つの娯 楽にすぎぬ、一日をそんな道楽に過ごすよりも公園を散歩したほうがよいとか、会堂に行ったほ うがよいとかいうので、芝居はとんといやしまれてしまい、したがって脚本家を出すことも少な くなったのだという。真偽は知らず、ともあれ、小説家が多くて脚本家はいたって少ないという のは、特にイギリスの異色だ。  時代はしろうと法を説く時代となった。ひとり宗教のうえばかりでなく、絵画にもしろうとの じょうずが出れば、音楽にも出る。まだ出ないかしらんが、なんだか出そうな。それから文学、 ことに小説は、いわゆる小説家の手からまったくしろうとの手に移りそうだ。自分らもしろうと でやり始めたら、いつの間にか小説家の部に繰り込まれて、近ごろは新進のしろうと小説家の名 がやかましい。けだし、壮士剣をひっさげて立つのときだろう。 ぼくの水彩画と書斎  ぼくの水彩画か。あれは『猫』を書いてるころに勉強したが、このごろでは少しも暇がないの で、まったくお廃しだ。なにしろ訪客だ、原稿だ、学校の仕事だというので、水彩画なんかやっ てる暇がなくなったのさ。それに、どうもたちがよくないというのだし、自分も少々あきれかえ づたから、よしたよ。だが、捨てたものでもないと思ったのは、このあいだひっこしのてつだい に来てくれた人に、自分の画帳をやって、それからあとにその人の家に行ってみると、ちゃんと 額にしてうやうやしく掛けてるじゃないか。見ると、柳は柳らしく見えるし、アヒルはアヒルに 見える。こんなことならやめないでもよかろうかと、われながら感心したよ。 『文章世界』に出た書斎か。あれはもとの家のだが、あれで見ると、なんだか自分はさも|骨董家《こつとうか》 ででもあるらしい。印材が十個あまりもあって、それをしきりに|愛撫《あいぶ》するなんて書いてあるが、 ぼくの印材はここにあるこの三つしかないのさ。これも日本派の俳人が彫ってくれたので、印材 は|支邦《しな》の友人からもらったものだ。もとよりおもしろいもので、きらいではないが、愛撫という ほどでもないのさ。 天下の篆刻家  ところが、おもしろいのはあの書斎が出てから数日ののちであった。ある人の紹介で「天下の |蒙刻家《てんこくか》……堂大我」というたいへんな人が来た。座敷へ通すと、いろいろの印材や印譜を出して きて、あなたは豢刻を好ませらるるそうだがという話さ。自分は蒙刻のことなぞはわからぬが、 ただ好きは好きだというと、いや蒙刻のことがわかるという者はその実わからんので、まだいた らないものだ。大我まずみずからわからぬという。自分はそんなつもりで言ったのではなかった がと思ってると、その人は語を継いでいう。およそ刀を執って印材に向かったら、刀の先でただ ちに字をつくるつもりでなくてはいかぬ。紙に文字を書いて、それをはりつけて彫るようでは、 ちょうちん屋と選ぶところはない。そんな蒙刻は市中の印判屋がやるという気炎さ。  それから寒山という人を知ってるかときくと、あれはくだらぬ男で、|姑蘇《こそ》城外の寒山寺へ行っ たというので、寒山という号をこしらったのだが、それはうそで、そんなうそをいっても信ずる 人はないから、寒山の号はやめたらよかろうと忠告してやったが、寒山もこの号はおいおいには やめるつもりだという。自分も大我を号として、天地を|蓐《しとね》とするものであるが、大我くらいでは いかぬから無我の境にはいらなければならぬと思っている。それゆえ、わたしもおいおいに大我 をやめて無我にしようと考える、というようなことで、ずいぶんおもしろい話があった。それ で、印刻をやるにも潔斎清浄といったように、数日身体を養い、心を養って、じゅうぶん興に乗 ったとき、刀を印材に向ける。その時はただ一気にすうとやるのだそうな。 -ぼくの書斎の紹介がこんなおおげさなことになって、そのすえが、印材は商人なら二十円とい うのだが、八円五十銭にしておくから「仰せつけられい」というような始末さ。いろんなことも やれぬものだよ。それにおかしいのは、ある雑誌記者がぼくに何か話せというので、子ども時代 の話をしたら、その雑誌に出たのをあとから見たら、とんでもない、いなせなお兄イさんになっ ていたのなぞもある、                              (明治四十年二月十五日『新潮』)