批評家の立場 夏目漱石 明治38年5月号『新潮』  小説の批評を見ると作者の為めに甚だ気の毒な事がある、 多くの批評家は評すべき箇条を各方面から一々に挙げないで 局部々々をのみ論ずるやうな傾がある。 帝国文学で斎藤信策君が新曲浦島を評したのを見た、男ら しい、しつかりした、秩序立つて居る立派な批評だ、けれど あれで見ると、楽劇といふものは斯ういふものだ、例へば沈 鐘だとか、タンホイヅルだとか、あゝいふ情緒を写さなけれ ばならぬものだ、この風で行かなけれぱならぬものだと、沈 鐘なり、タンホイヅルなりを標致して、この二つに標準を求 めねぱならぬらしい口吻である、斯くては作者に不利益で、 作者を誘抜することが少い。  固より楽劇には沈鐘、タンホイヅルより外に面白いものが ないとなればこの二つを標準とするに不都合はない、けれど もあれより面白いものがあつて見るとこの標準は変なものに なる、新に拷えたものをある標準を立てゝ論ずるのは兎も角 窄めるやうな感がある、沈鐘、タンホイヅルを例に挙げて参 考に這那のもあるといふのは差支ない、けれど斯うなくては 面白くないといふ語勢が見えては余り窄め過ぎた遣り方だ。 殊に坪内博士の主義と、沈鐘、タンホイヅルのとは其プレイ ンが違ふかも知れない、西洋の評家でも、日本の評家でもあ の弊をうけてゐるやうだ。  脚本は性格を写さなければならぬものと定めて置くものだ からプロツトから出た面白味を見て性格が表はれない、この 作はつまらないといふ、脚本必らずしも性格を写さねばなら ぬといふ事を得るだらうか、それからまた性格の写されざる ものはドラマにあらずといふ事を得るだらうか。  ドラマは性格を写すものだといふ事は以前のものに向つて も.小可だし、これからまた如何なる変り種が出ないともいヘ ない、桜草にも色々なバラエチーがある、今までの桜草を標 準にして桜草は斯んなものに限るといつて居ると、其口の下 で直ぐ変り種が出来る。  歴史を見ると、必らず標準を置いて之れに合せないものは 不可だといつてゐるものに、長続きした例がない、五十年位 立つと其標準は自然に打破される、歴史が先づこの標準説を 打破するのだ。  小説にしても、所有小説を組織する要素を見て、其所有方 面から詳評せなければならん、作家は自分の特色を発揮しや うし、批評家は所有方面から評することにして、決して規則 標準の如きものを与ふべきでない。  標準は自分でなくてはならん、自分を以て人の標準に合せ し力やうとするのは自己の特色を没するものだ。  近頃西洋の名を得た人の作を標準にして無闇と西洋がるも のがある、西洋の作にも甚だいかじはしいのがある、余り西 洋未拝をして自己と我国との特色を没するのは憾だ。  長谷川天渓といふ人がトルストイ翁のアンナカレニヤか何 かキ見て、永くて到底読み切れないといつて居たのを見た、 全h大作といふ名にかぶれないで、日本人のやうな酒脱な、 淡白なものを好むものは忌揮なくこつてりしたものは嫌だと いつたらよからう、天渓君のやうな正直な発表が望ましい。 今時セキスピアを読んで其作物を批難するものは自己の馬 鹿を世間に発表するやうなものだ、だから知ると知らざると に関らず沙翁の作はうまい/\といつてゐる、這那に何も阿 談せんでも、正直な態度を保つたらよからう。  僕は軍人がえらいと思ふ、西洋の利器を西洋から貰つて来 て、目的は露国と喧嘩でもしやうといふのだ、日木の特色を 拡張する為め、日本の特色を発揮する為めにこの利器を買つ たのた、文学者が西洋の文学を用うるのは自己の特色を発揮 する為でなければならん、それが一見奴隷の観があるのは不 愉快だ。  人は圧迫せられた時自己の無能を思ふもので、明治維新の 当時無闇と横文字が跳梁したので、一般に横文はよいもの難 有ものとなつたが、必らずしも西洋ばかりえらいのでない、 日本には日本固有の特色がある、其特色を発揮することが何 よりえらいのだ、同時に自己の特色を発揮するのがえらいの だ。  高山林次郎君なぞの評は標準的のもので、自己の気に入つ たものは気に入つた標準の下に論じ去つて居るやうな嫌ひが ある、作者の啓発する処は何物もない。 モルトンといふ人が沙翁の作をアナリーズして科学的にや らうとしたのがあつたが、それは余り機械的に流るゝ気味が あつた、しかしそれでも幾分か僕の批評家に対する要求を満 して居る。 近作短評  風葉君の「深川女房」は如何にも深川女房らしい、牛込女 房や、麻布女房ぢやない、第一「深川」といふ名がい、、そ れに会話が自然だ、一ニケ所変だなと心付いた処はあつた が。 「天うつ浪」の「お柳」「お彫」なぞの会話は決して自然だ とはいはんが、あの階級に丁度適した詞付だ、そうして其階 級以外に渉らない処がうまい。 夏目先生は江戸ツ子なり、曾て郊外に遊び稲を見て其日々食ふ 米のそれより得らるゝを聞き大に驚きたる程のうぶの江戸ッ子 なり、先生の観察は江戸ツ子なるの故に得たり。 鏡花君の「銀短冊」は草双紙時代の思想と、明治時代の思 想を綴ぎ剥ぎしたやうだ、夢幻ならば夢幻で面白い、明治の 空気を呼吸したものなら、また其空気を写したので面白い、 唯綴ぎ剥ぎものでは纏つた興趣が起らない、併し確に天才 だ、一句々々の妙はいふべからざるものがある、古沼の飽く まで錆にふりたものだと見たものが、鯨の群で動めいてゐる などは余程奇想だ、若しこの人が解脱したなら恐らく天下の 一品だらう。 夏目先生は小説「幻影の盾」の著者なり、ある点に於て「銀短 冊」の著者と同一趣味を有す。 「謎の女」は生田葵山といふ人の作だ、あゝいふ事を書いた のは新らしいと思ふ、或は翻訳であるまいか。 夏目先生は奇想を悦ぶ、一撞着を悦ぶ、「謎」といふ詞を悦び、 「女」といふ詞を悦ぶ、而してさらに「謎の女」といふ題を悦 ぶ。