批評家の立場 夏目漱石  小説の批評を見ると、作者のためにはなはだきのどくなことがある。多くの批評家は、評すべ き個条を各方面からいちいちにあげないで、局部局部をのみ論ずるようなかたむきがある。  帝国文学で|斎藤信策《さいとうしんさく》君が『新曲浦島』を評したのを見た。男らしい、しっかりした、秩序だっ ている、りっぱな批評だ。けれども、あれで見ると、楽劇というものはこういうものだ、たとえ ば『沈鐘』だとか『タンホイゼル』だとかああいう情緒を写さなければならぬものだ、このふう で行かなければならぬものだと、『沈鐘』なり『タンホイゼル』なりを標置して、この二作に標 準を求めねばならぬらしい|口吻《こうふん》である。かくて作者に不利益で、作者を|誘掖《ゆうえき》することが少ない。  もとより楽劇には『沈鐘』『タンホイゼル』よりほかにおもしろいものがないとなれば、この二 つを標準とするにふつごうはない。けれども、あれよりおもしろいものがあってみると、この標 準は変なものになる。新たにこしらえたものをある標準をたてて論ずるのは、とかくせばめるよ うな感がある。『沈鐘』『タンホイゼル』を例にあげて、参考にこんなものもあるというのはさし つかえない。けれども、こうなくてはおもしろくないという語勢が見えては、あまりせばめすぎ たやり方だ。ことに坪内博士の主義と『沈鐘』 『タンホイゼル』のとはそのプレインがちがうか もしれない。西洋の評家でも、日本の評家でも、この弊をうけているようだ。  脚本は性格を写さなければならぬものと定めておくものだから、プロットから出たおもしろみ を見て、性格が現われない、この作はつまらないという。脚本必ずしも性格を写さねばならぬと いうことを言いうるだろうか。それからまた、性格の写されざるものはドラマにあらずというこ とを言いうるだろうか。  ドラマは性格を写すものだということは、以前のものに向かっても不可だし、これからまたい かなる変わり種が出ないともいえない。桜草にもいろいろなバラエティがある。今まで桜草を標 準にして桜草はこんなものにかぎるといっておると、その口の下からすぐ変わり種ができる。  歴史を見ると、必ず標準を置いてこれに合わせないものは不可だといっているものに長続きの した例がない。五十年くらいたつとその穰準は自然に打破される。歴史がまずこの標準説を打破 するのだ。  小説にしても、あらゆる小説を組織する要素を見て、そのあらゆる方面から詳評しなければな らん。作家は自分の特色を発揮しようとし、批評家はあらゆる方面から評することにして、けっ して規則標準のごときものを与うべきでない。  標準は自分でなくてはならん。自分をもって人の標準に合わせしめようとするのは、自己の特 色を没するものだ。  近ごろ西洋の名を得た人の作を標準にして、むやみと西洋がるものがある。西洋の作にもはな はだいかがわしいのがある。あまり西洋崇拝をして自己とわが国との特色を没するのは遺憾だ。  |長谷川天渓《はせがわてんけい》という人が、トルストイ翁の『アンナ・カレニナ』かなにかを見て、長くてとうて い読み切れないと言っていたのを見た。あまり大作という名にかぶれないで、日本人のような|酒 脱《しやだつ》な淡泊なものを好むものは、|忌揮《きたん》なく、こってりしたものはきらいだといったらよかろう。天 渓君のような正直な発表が望ましい。  今どきシェクスピアを読んでその作物を非難するものは、自己のバカを世間に発表するような ものだ。だから、知ると知らざるとにかかわらず、|沙翁《さおう》の作はうまいうまいと言っている。そん なになにも|阿諛《あゆ》せんでも、正直な態度を保ったらよかろう。  ぼくは軍人がえらいと思う。西洋の利器を西洋からもらってきて、目的は露国とけんかでもし ようというのだ。日本の特色を拡張するため、日本の特色を発揮するために、この利器を買った のだ。文学者が西洋の文学を用いるのは、自己の特色を発揮するためでなければならん。それが 一見奴隷の観があるのは不愉快だ。  人は圧迫せられたとき自己の無能を思うもので、明治維新の当時むやみと横文字が|跳梁《ちようりよう》した ので、一般に横文字はよいもの、ありがたいものとなったが、西洋ばかりが必ずしも偉いのでは ない。日本には日本固有の特色がある。その特色を発揮することが何より偉いのだ。同時に、自 己の特色を発揮するのが偉いのだ。  高山林次郎君なぞの評は標準的のもので、自己の気に入ったものは気に入った標準のもとに論 じ去っているようなきらいがある。作者を啓発するところはなにものもない。  モルトンという人が沙翁の作をアナライズして科学的にやろうとしたのがあったが、それはあ まり機械的に流るるきみがあった。しかし、それでもいくぶんかぼくの批評家に対する要求を満 たしている。   近作短評  風葉君の『深川女房』はいかにも深川女房らしい。牛込女房や麻布女房じゃない。だいいち 『深川』という名がいい。それに会話が自然だ。一、二カ所変だなと心づいたところはあったが。  『天うっ|浪《なみ》』のお|竜《りゆう》お|形《とう》なぞの会話は、けっして自然だとはいわんが、あの階級にちょうど適 したことばつきだ。そうして、その階級以外にわたらないところがうまい。  鏡花君の『|銀短冊《ぎんたんざく》』は草双紙時代の思想と明治時代の思想とを継ぎはぎしたようだ。夢幻なら ば夢幻でおもしろい。明治の空気を呼吸したものなら、またその空気を写したのでおもしろい。 ただ継ぎはぎものでは、まとまった興趣が起こらない。しかし、たしかに天才だ。一句一句の妙 ではいうべからざるものがある。古沼のあくまでさびにふりたものだと見たものが、ナマズの群 で|蠢動《しゆんどう》めいているなどはよほどの奇想だ。もしこの人が解脱したならおそらく天下一品だろう。 『なぞの女』は|生田葵山《いくたきざん》という人の作だ。ああいうことを書いたのは新しいと思う。あるいは翻 訳ではあるまいか。                             (明治三十八年五月十五日『新潮』)