博士問題のなりゆき 夏目漱石  博士事件についてその後のなりゆきはどうなったとおっしゃるのですか。実はそれぎりどうも ならないのです。福原君にも会いません。|芳賀《はが》君などから懇談を受けたこともありません。文部 大臣は学位令によって学位をわたしに授与したにはしたが、もし辞退したときにはどうするとい う明文が同令に書いてないから、その場合には辞退を許す権能を有していないのだというのが、 当局者としての福原君の意見なのですか。なるほど、そうも言われるのでしょう。しかし、それ ではあたかも学位令に博士は辞することをえずと明記したと同様の結果になるようですが、実際 学位令には辞することをえずとも、また辞することをうとも、どっちとも書いてないのじゃないで すか。(はなはだ不行き届きですが、まだ学位令を調べていません。しかし、たしかそういうふ うに聞いています。)さて、どっちとも書いてない以上は、辞しうるとも、辞しえないとも、自分 につごうのよいように取る余地のあるものと解釈してもよくはないでしょうか。すると、当局者 が自己の威信ということに重きをおいて、「辞することをえず」と主張すれば、わたしのほうでは 自己の意思をたてとして「辞することをう」と判断してもかまわないことになりはしませんか。  また、それほど重大なものならば、万一をおもんぱかって、 (表向き学位令に書いてあるとお りを執行するまえに)、 一応学位を授与せられる本人の意思を確かめるほうが、親切でもあり、 またお互いの便宜であったように思われます。とにかくに、当局者が栄誉と認めた学位を授与す るくらいの本人ならば、その本人の意思というものも学位同様に重んじてよさそうに考えます。  わたしは当局者と争う気もなにもない。当局者もまたわたしを圧迫する了見はさらにないこと と信じています。この際直接福原君の立場としてははなはだ困られるだろうとは思うけれども、 明治もすでに五十年近くになってみれば、政府で人工的にこしらえた学位が、そういつまでも学 者にもったいながられなければ政府の威信に関するどいうような考えは、当局者だってそう鋭角 的に推持する必要もないでしょう。実は先例があるとかないとか言われては、少し迷惑するので、 わたしは博士のうちに親友もありますし、また敬愛している人も少なくはないのですが、必ずしも かれら諸君の|轍《てつ》を追うて生活の行路を行かねばならぬとまでは考えていないのであります。先例 のとおりに学位を受けろといわれるのは、前の電車と同じように、あとの電車もくっついていか なければならないようで、まるで機械として人から取り扱われるような気がします、博士を辞す るわたしは、先例にてらしてみたら変人かもしれませんが、だんだん個人個人の自覚が日ましに 発展する人文の|趨勢《すうせい》から察すると、これからさきもわたしと同様に学位を断わる人がだいぶ出て くるだろうと思います。わたしが当局者に迷惑をかけるのははなはだおきのどくに思っている が、当局者もまたこれら未来の学者の迷惑を了として、なるべくはその人々の自由意思どおり便 宜な取り計らいをされたいものと考えます。なおまた、学位令に明記がないために今回のような めんどうが起こるのならば、このめんどうが再び起こらないように、どうかごくふうをわずらわ したいと思います。学位令のうちには学位褫奪の個条があるそうですが、授与と褫奪が定められ ていながら、辞退について一言もないのはちと変だと思われます。それじゃ学位をやるぞ、 へ い、学位を取り上げるぞ、へい、というだけで、こっちはまるでおもちゃ同様にみなされている かの観があります。槻奪という表面上不名誉を含んだものを、ぜひともいただかなければ済まん とすると、いつ火事になるかわからない油とまきを背負わされたようなものになります。大臣が 認めて不名誉の行為となすものが、必ずしもわたしが認めて不名誉となすもの乏一致せぬかぎり は、いつなんどきどんな不名誉な行為(大臣のしか認める)をあえてして褫奪の不面目をきたさ ないともかぎらないからです。 うんぬん (明治四十四年三月七日『東京朝日新聞』)