博士問題  なぜ学位を辞退したか、その理由を話せというんですか。そうきちょうめんにきかれると困り ます、実は、わたしも朝日の社員ですし、社員のひとりが学位をもらうとかもらわぬとかいうこ とですから、辞退するまえに一応|池辺《いけべ》君に相談しようかと思いましたが、それほど社の利害と関 係のある大事件でもないと思いましたから、差し控えておきました、実は博士会が五、六の人を 文学博士に推薦するということは、新聞の雑報でちょっと見たばかりで、真偽もわからず、一両 日を過ごしました。すると突然、明日午前十時に学位を授与するから文部省へ出頭しろという通 知が、るす宅へ(夜おそく)来たのだそうです。さよう、家のものはたしか夜の十時ごろとかい っていましたが、おおかたその時下女が夜中郵便箱でもあけて取り出したのでしょう。それで、 その翌日の朝電話で、本人は病気で出られないということを文部省へ断わったそうです。その 日の午後妻が病院へ来て通知書を見せたので、わたしははじめて学位授与のことを承知したので す。そうです、むろん代理は出しませんでした。わたしはその夕がたすぐに、福原君に学位を辞 退したいからという手紙を出しました。すると、わたしの辞退の手紙と行きちがいに、その晩文 部省からーええと、証書といいますか、なんといいますか1学位を授与するという証書を、 小使いーうちのものは小使いといいましたが、わたしは実際だれが持ってきたか知らないー に持たせて宅のほうへ屆けてくれたのです。それはさっそく福原さんの手もとまで返させまし た。辞退のできるものと思って辞退したのはもちろんのことです。わたしは法律家でないから、 法律上のことは知りません。ただわたしに学位がほしくないという事実があっただけです。学位 令が勅令だから辞退ができないというんですか。そんな法律のことは少しも知りません。しか し、勅令だから学位令を変更するのがむずかしいというならわたしにもわかるが、博士を辞退で きないというのは、どんなものでしょう。なにしろ、文部省から通知してきて、文部大臣がくれ るから、ただ文部省だけのことと思っていました。文部省の人々にごめんどうなお手数をかける のはよくないとは思いましたが、やむをえませんでした。  もらっておいてよいものか悪いものか、そんな理屈に関係した問題は、だいぶ議論がやかまし くなりますし、今必要もありませんから、個々の批評に一任するとして、ここにーわたしは実 におもしろいものだと思って(看護婦に通知状を出させて)いるものがあります。文部省あたりの 人には当然かもしれませんがね、この通知状をご覧なさい。前文句なしのぶっつけ書きで、いき なり、 コ一十一日午前十時同省において学位授与相成候条同刻まで通常服うんぬん」これを見る と、まえもって文部省がわたしに学位をくれるとか、わたしが学位をもらうとかいう相談があっ て、すでに交渉済みになって、わたしが承知しきっていることを、いよいよ明日執行するからと 知らせてきたように聞こえるでしょう。それに、この終わりのただし書きに、さしつかえがあっ たら代理を出せとあるでしょう。しかし、はたしてこの通知状をわたしが受け取ってから、午前 十時までに相当の代理者が頼めるものか頼めぬものか、よくわかりませんものね。やっ、実は社 のほうばかりでなく、こっち(病院)へもこう祝い手紙が飛び込んでくるんでよわっています。 まさか、「わたしは博士ではありません」、と新聞ヘ書くのもおかしいと思って差し控えておりま すが。うんぬん                        (明治四十四年二月二十四日『東京朝日新聞』) 拝啓 昨二十日夜十時ごろわたくしるす宅ヘ(わたくしは目下表記のところへ入院中)本日 午前十時学位を授与するから出頭しろというご通知が参ったそうであります。るす宅のものは けさ電話で主人は病気で出頭しかねるむねをお答えしておいたと申してまいりました。  学位授与と申すと二、三日まえの新聞で承知したとおり、博士会で小生を博士と推薦された について、右博士の称号を小生に授与になることかと存じます。しかるところ、小生は今日ま でただの夏目なにがしとして世を渡ってまいりましたし、これからさきもやはりただの夏目な にがしで暮らしたい希望を持っております。したがって、わたくしは博士の学位をいただきた くたいのであります。この際ご迷惑をかけたり、ごめんどうを願ったりするのは不本意であり ますが、右のしだいゆえ、学位授与の儀はご辞退いたしたいと思います。よろしくお取り計ら いを願います。                           敬 具    二月二十一日                夏目金之助   専門学務局長福原錬次郎殿