『俳諧師』について 夏目漱石  さあ、特製が出ましたね、りっぱですよ。批評ですか、そうですね、ぼくは|坂本文泉子《さかもとぷんせんし》の評に 賛成している。ぼくのいうことも、たいていそれに尽きてるんだからね。  いったい、 『俳諧師』なんどは新闌でばらばらに読んでも、一冊にまとまったのを読んでも、 格別異なった印象はない。その中で良いのはやはり十風夫婦の描写だね。あれほどに性格の活躍 しているのはないだろう。しかし、いったいの構造はルーズで、ひより見のようにその日その日 の思いつきで書いているような筆法であるから、書き方にもいろんな意味のむらがある。まずし ま柄のむらが目につく。あるところは夜着のように大きく、あるところは千筋のように細かいと いったふうだ。それから調子のむらがある。髮をすくところなどは特に調子の異彩ーもちろん 悪い意味でのーを放っている。繁簡のむらは例の浴場の描写などがそうだ。'冊にするとき、 著者がいかに書き改めたかは知らないが、新聞に出たままだとすると、ぼくはあまり感心しない ね。  フローベルは非常にざっと書いているうちに、ほとんど比例を失するように細かに描写をやる ことがある。しかし、かれのはあまり平々坦々だから特に色彩を落としてみたというふうなの で、突然に思わない、妙に感じない。しかし、『俳諧師』のふろのところなどは、いたずらにくど くどしいいやな気がする。新聞に現われた当時、ぼくははがきを書いて、そうふろおけに|低徊《ていかい》し ていてはしようがないでしょう、といって送った。あっさりと豆腐料理でやっていたのが、急に 口取りずくめになったようでいやだった。  まあ全体にむらのあるのが『俳諧師』の欠点でしょうね。浮き世絵が急に土佐絵になったりす ると、読者の印象が純一でないから、おもしろみが殺減されるのだと思う。                         (明治四十二年二月五日『東京毎日新聞』)