語学養成法 夏目漱石 語学の力のあった原因  一般に学生の語学の力が減じたということは、よほど久しいまえから聞いているが、わたしも また実際教えてみてそう感じたことがある。はたしてそうだとすれば、それはどういう原因から 起こったか。その原因を調べなければ、学習の方針も、教授の方針も立つものでないが、専門的 にそれを調べるには、その道の人がいくらもある。わたしは別にまとまった考えがあるわけでは ないが、気づいたことだけをごくざっと話して、一般の教育者と学生の参考にしようと思う。1 ーわたしの思うところによると、英語の力の衰えた一原因は、日本の教育が正当な順序で発達し た結果で、一方からいうと当然のことである。なぜかというに、われわれの学問をした時代は、 すべての普通学は皆英語でやらせられ、地理、歴史、数学、動植物、その他いかなる学科も皆外 国語の教科書で学んだが、われわれより少し以前の人にたると、答案まで英語で書いたものが多 い。われわれの時代になっても、日本人の教師が英語で数学を教えた例がある。かかる時代に は、だてにー金どけいをぶらさげたり、洋服を着たり、ひげをはやしたりするようにー英語 を使うて、日本語を用いる場合にも、英語を用いるというのが一種の流行でもあったが、同時に 日本の教育を日本語でやるだけの余裕と設備とが整わなかったからでもある。したがって、単に 英語を何時間おそわるというよりも、英語ですべての学問を習うといったほうが事実に近いくら いであった。すなわち、英語の時間以外に、大きな意味においての英語の時間が非常にたくさん あったから、読み、書き、話す力が、比較的に自然とできねばならぬわけである。      語学の力の衰えた原因  ところが、 「日本」という頭を持って、独立した国家という点から考えると、かかる教育は一 種の屈辱で、ちょうど英国の属国インドといったような感じが起こる。日本の5譬ー9崔ー菖はだ れが見てもたいせつである。英語の知識ぐらいと交換のできるはずのものではない。したがって 国家生存の基礎が堅固になるにつれて、以上のような教育は、自然勢いを失うべきが至当で、ま た事実として漸々その地歩を奪われたのである。実際あらゆる学問を英語の教科書でやるのは、 日本では学問をした人がないからやむをえないということに帰着する。学問は普遍的なものだか ら、日本に学者さえあれば、必ずしも外国製の書物を用いないでも、日本人の頭と日本の言語で 教えられぬというはずはない。また、学問普及という点から考えると、 (ある局部は英語で教授 してもいいが)やはり生まれてから使い慣れている日本語を用いるに越したことはない。たとい 翻訳でも、西洋語そのままよりはいいにきまっている。  これが自然の大勢であるが、余の見るところでは、過去の日本において最もいちじるしく人工 的に英語の力を衰えしめた原因がある。それはたしか故|井上毅氏《いのうえつよし》が文相時代のことであったと思 うが、英語の教授以外には、できるだけ日本語を用いて、日本の一彗00口黄のに重きをおかしむる と同時に、国語漢文を復興せしめたことがある。故井上氏は、教育の大勢より見た前述の意味 で、教授上の用語の刷新を図ったものか、あるいはただ「日本」に対する一種の愛国心からやっ たものか、そのヘんはいずれともわからないけれども、要するにこの人為的に外国語を抑圧した ことが、現今の語学の力の減退にあずかって力あみことは、余の親しく|目賭《もくと》したところである。 改良の効果いかん  以上の理由と事実で、学生の語学の力がまえより衰えてきたのはまことに正当な現象で、ごう も不思議がるわけはないのであるし、また同時にそれは日本の教育の進んだ証拠でもある。した がって、最初当局者がこういう教育方法を採るときには、すでに将来語学の力の衰えることを予 想すべきが当然である。しかるに、井上氏死後何年かのちの今日にいたって、その結果がよう やく現われて、だれもかれも語学のできぬことを自覚しはじめると、いまさらのように苦情が出 て、いろいろな心配をする。いろいろな調査をする。あるいは教え方が悪いのだとか、あるいは 時間が足らぬのだとか言いだすのはおかしなことである、要するに、語学力の衰えた真因は、日 本国体の発展と、前述の教育方法の変化にあるのだから、なんらの犠牲も払わずに、日本が日本 的の教育を施す方法の案出されない以上は、いまさら英語の力が足りないからといって騒ぐわけ にはいかない。けれども、この結果は、必然にもせよ、当然にもせよ、良くないということが事 実で、良くないために教育上のある方面では非常な苦痛を感ずる以上は、できる程度でぜひとも なんらかの改良をしなければならぬ。改良すれば無理ができるり無理をしなければ改良はでき ぬ。どちらも良いということはない。わたしは昨今、中学教育がいかなる程度まイ、改良せられ、 またいかなる方法で施されているかは知らぬが、要するにどう奮発しても、非常な無理をしなけ れば、英語教授のうえにめざましい効果のありようはずはないと思う。 改良の三要点 しばらく立ち入って、もう少し具体的に、なにゆえに改良の効果がないかと考うるに、つまり 普通教育などで、こういうふうの改良をするには、時間、教授法、教師の三っ以外には改良すべ き方法がないからである。ところが、いくらやかましく時間の改良といったところで、本末を転 倒して外国語に多数の時間を与うることができぬのみならず、普通教育の程度以上では第二外国 語をやる必要があるから、とても時間の繰り合わせがつかない。また、教授法はずいぶん肝心な ものであるが、いくら細目がりっぱにできていたところで、教授法自身が活動してくれるわけで ないから、よくそれを体得した教師が、じゅうぶんの活用をしてくれなければ、効果があがるもの ではない。教授法とはつまり、適当な教師が周囲の事情を見計らって、これがべストだと思って 実行しつつある教授を概括して、条項に書き並べたものにすぎない。ゆえに、適当な教師がいな ければ、いかに条項が完備していても、とうていその運用ができるものでない。同時に、適当な 教師さえあれば、教授法などが制定せられなくても、その行なうところが自然教授法の規定した 細目に合うわけである。それゆえ、大家が教授法をこしらえて、広く一般の教師にやらそうとし ても、あだな望みに帰してしまいはせぬか。最後に教師のことを考えてみると、今の中学の英 語教師の大半は、おおかた故井上氏の方針で頓挫をきたした語学教育の中に育ってきた人々であ る。語学といえば簡単であるけれど、区分すれば、話すこと、書くこと、読むこと、訳することな どいろいろあるが、それらの各方面にわたってひととおり力のある人でなければ、すべてのこと がひととおりできる生徒を養成することができない。もし教師がある点は非常によくできても、 ある点はまったくできないというふうに、その力がかたよっているならば、その生徒はやはりか たよったものとなるわけだ。現今の教師中には英語を日本語に訳することのうまい人が多いー 今日の日本ぺ、は、こういう人がいちばん必要かもしれないがー同時に、生徒も比較的に英語の 意味を取ることがじょうずである。しかし、これで満足するわけにはいかぬ。なにもかも、ひと とおりはできなければならぬとしたならば、そんな教師ははたして幾人あるだろうか、はなはだ 力ぼつかないしだいである。 教師の養成  こう三つともだめだとすれば、いくらもがいたとて効果のあがるはずがない。しかるに丶そこに 一つの道がある。それは新たに教師を作ることである。わたしはかつて大学と第一高等学校に関 係をもっているときに、次のようなことを考えた。ー文科大学はもともと学者を作るところで あるが、現在の状況からいえば、その卒業生はおおかた教師になる。ことに外国文学を修める者 は教師になるのが多いようである。学者であるべきものが教師ができぬということはないが、教 師として不適当でも学者にはなれるのだから、事実をいうと純文学科にあっては、事実上、大学 は学者よりも教師ーもっと切実にいえば、不適当な教師を作っているのである。したがって、 国家は血葺生三一一8から、非常な損害をしている。この損害を免れるために、わたしは適当な教 師を作る案をたてた。すなわち、英文科にはいるものを、今のように各高等学校に存在せしめず に、ことごとくこれを一高等学校に集めて、一組として、在学中は他と混同せしめず、一年から 三年まで特別の教育をする。すなわち、三年間特に英語におもきをおいた一種の教育を施して、 しかるのちにこれを大学に送ることにする。むろん、その卒業生は、学者になるも、教師になる 竜、当人のかってしだいであるが、かくすればまんべんなく語学の力をもった人が得られるに相 違ない。余はこ札を大学から適当な語学教師(英語)を出す唯一の方法と信じた。今でもそう信 じている。大学にはいってからの課目や教授法も、現在とは変える必要もあろうが、それは第二 のことで、肝心の根本はどうしてもこうして養成しなければいけないと思う。英文科の志望者を 一高等学校に集めるということは、特別の教授をやるうえにおいて必要なのみならず、その道に 適当な教師を得て、その下に学ばしむる方針からいっても、こうしたほうがいいのである。 教師の試験  いま一っは従来の教師をいかにして改良するかということである。事実行なわれがたいことで あるかもしれぬが、わたしは全国の中学の英語教師の試験を、ときどき文部省でしてやったらよ かろうと思う。教師の精勤その他は校長にもわかるが、教師たちが平生どれだけ自己の修養に努 めているかは、こんな方法でも講じなければわかりようがない。むろんその試験は随意でいい。 申し出るものにだけに施してもよい。とにかく、二年に一度くらいずっ成績を取っておいて、こ れを校長○報告と比較し、 いろいろ考え合わして、昇級増俸の道を講じてやる。そうしなけれ ば、中学の教師をして勉強しよケなどという気は、まるでなくならしてしまう。生徒も不幸であ る。本人もきのどくである。もっとも、これだけの仕事をするためには、文部省にエキザミナー をたくさん雇わねばならない。したがって不経済ではあるが、この試験官は平生他の方面に利用 することができるから、けっして損にはならない。すなわち、試験をしないときのかれらは、し じゅう中学の英語教師と気脈を通じて、修養上その忠告者となるのである。たとえば、語学に関 した新著新刊のようなものは、月二、三回ずっ印刷して各中学ヘ送ってやる。時間が許すなら、 その内容やら体裁やらを報知してやる。また、教師のほうでも教授上不審のことや、同僚間で疑 義の決せぬおりは、|書翰《しよかん》で試験官に問い合わせる。すると、試験官のほうでもいちいち丁寧にそ の返事を出すというふうに、万事教師の便宜を計ってやる。こうすれば、一方では奨励になり、 一方では改良になって、教師も当局者もともに便宜を得ることだろうと思う。 教科書の問題 教科書は大いに考うべき問題である。今の中学生はいろいろな書物を読んで、知らないでもい いような字を覚えるかわり、必要な字を覚えていない。まことにばかぱかしい話である。普通イ ギース人はど荏どの単語を知っているかというに、き耄て|擘《きんしよう》のもの薹る。日本の中≠4{ は、かれらの知らぬ字をかえって知っている。ひっきょう教科書奎く整理されていないかクカ、 耄。そこで、紊拿は睾の英語教科書を作る必蓁耄。その鰲書竺年から五年に泌渤 じて、普通の英国人がわかる文字と事項とを、まんべんなく割り振って排列するようにする。ニノ なわち、かれらの一般に知っている文字と事がらには、五年じゅうどこかで出会うが、そのかカ りむずかしいジョンソンの『ラセラス』に出てくるような字はまったく省いて、生徒に無用な伽卿 力を費やさせないようにしてやる。そういう教科書を作るには、どうしたらよいかというに、宀〃 たしは外国の新聞を基礎にするのがいちばんよいように思う。『ロンドン・タイムス』でも『デ イリー・メール』でも、一月一日から+二月三十一日まで通読すれば、いかなる文字といかなる 事がらがいかに多く繰り返されて社会に起こるかがよくわかる。それでだいたいの統計を取丸 ば、どの字と、どの事がらと、どの句が比較的いちばん必要であるかがわかる。わかったところを 組織だてて教科書に編入する。中には三百六十五日のうち、何百ぺんとなく繰り返されるもの名 あるに相違ないから、そんなものには重きをおいて、教科書中にも幾度も繰り返しておくと同時 に、年にいっぺんとか、半年に一度ぐらいしか見あたらないものは、まったく省くことにする。 そ享ると・二・三年たつうち澤かなり経蒭に英語を贅時鬨義えることの萋る誓 書が・攀的な・秩嬖っ集統のもとに編成され爰け薹る〜うしてこしら爰教科羣 そのま乏咢邑しておかずに・奮外国新聞を讓として・時勢の変化に伴って輦る旨毳 斈の推鶩簔して、十年に憂ぐら孚っ讓するつもりで・永久事業としたら、生徒はた いへ衾利益を得ることで耄う餝ろん〜の蓁簑乏いった試験官の平生の仕事の'つ とするのである。顧問として適当な西洋人を雇うのも一法である。       時間の利用 かくして教師ができ・教科書がで覓ば・こんど蒔間の疆薹簒・萬亳きるだ享 る,耄ち・萬の許すかぎりやる薦かい教簔だとえば文法何時間・蠢何時哩いう ような…は・詳しく論ずれば賚裏いで霎篆餝かることは靉霎にやればいい。た だ早のごとく餝の豸を独立せる科目のごとく最り扱うの筌く穹有機的瀲一'の箋 言蓼・種々の科目に分けて教えるのは・ちょ諧区画し耄き斈気怎擘も嵐体葛り 離して・襞の萬家・胃腸の萬家・呼吸器の萬奢作るよう奮羣爨の払めにま いが、だいたいの知識のない生徒からいうと、会話とか、文法とか、訳読とかいうふうに、教師 が専門的に分かれて裁然区別のあるように取り扱っているのはよくない。どうしても各自が互い に連絡のつくように教え込んでいかなければならぬ。われわれ日本人はご覧のとおり自由自在に 日本語をあやつるが、生まれてから今日までにかつて文法を習ったことはない。文法を習わない でもさしつかえなく日本語は話せるのである。英語もそのとおりで、われわれが子どものときか ら絶えず日本語を使って、自然とその文法に通ずるように、日々反覆して練習すればそれでたく さんなのである。しかし、一週間に何時間と時間を限られては、日本に生まれたる人でも、かく 日本語に上達するわけにはいかぬから、今の中学でただ練習の結果自然と英語を学ぶのは困難で ある。やむをえずまず規則を知ってそれを骨とし、それに肉を着せて互いの意志を疎通するよう に話し書くほかはない。(少時間の練習では、とてもベチャベチャしゃべりちらす域に進むことは できないから)。しかし、根本的にいうと、文法はいつまでたってもちょうど幾何のヨ8帛ヨの ようなもの、訳読はその活用問題のようなものであるから、文法を離れて訳はなく、訳を離れて文 法はないものとがてんしなければならない。高等学校へはいってくる中学卒業生などを見ると、 。。訌戸乏皀のことなどはやかましくいうが、実際訳読をさせると妙な誤りをやる。かれらの頭の 中には両者はまったく独立しているごとくわたしには見えることがあった。これは大弊害であ る。文法と訳読は単に例として引いたまでだが、その他の科目、作文、会話、読み方、皆同じこ とである。有機的統一ということを考えて、互いに融通のきくような親切な教え方をしなければ なるまい。そのためには、一っの組をひとりで持って、すべての時間をいいかげんに使いこなす ほうが便利になってくる。そうすれば時間も経済になって、効果も大いにあがることであろう。 しかし、これはほんの余談である。要するに、目下の必要は教科書編成と教員の養成、および改 良である。それについて、今まで述べた以外に言うべきこともたくさんあるが、ここでは言わぬ ことにする。ー話が教えるほうの側ばかりになって、ついおそわる生徒のほうに及ばなかった のは遺憾であるが、あまり長くなるから、これでやめる。                         (明治四十四年一月一日ー二月一日『学生』)