現時の小説及び文章について 夏目漱石  今の人の小説を読むと、その中のある点はだれのにも感心する。皆相当な経験が積んでいるか ら。が、ある点からいうと、またつまらないというような感じもする。好く好かぬは人の好尚で あるから〜ひがない。会って議論でも戦わしたら、わかるだろうがね。ああいう人は経歴上自然 の発達から、ああいう文章ができたのだろう。だから、その歴史を知らず、またそういう境遇に 養成せられない者は、外国人が日本の物を見ると同じだろうと思う。  それで、一般にいうとこう感じる。一編一編の書きぶりが写生的にいかないと思うことが多い。 写生的にいってるように見えても、実際はさようでなく、想像からできたものらしく思われる。 したがって、ある作のうちには、よけいな、人をつり込むような書き方があるように思われる。 っり込むとはしいて同情さすることで、しかも力を費やした割合に周囲の光景が活動しないよう に思われる。  その結構について言っても、たとえば女が人に殺されるとか、悪者にひどいめに会わせらるる とかいうような事件をしくんだり、|戦慄《せんりつ》せしめるような、同情をかうような事件をこしらえて、 人をつることが主で、平淡の事がらの中におのずから人をつり込むという書き方をしない。した がって、ぼくらには物足らぬ心持ちがするのだ。しかし、これはある作に対していうので、むろ んすべてがさようというのではない。  これらの小説を読む者は、無学な老婆か|老爺《ろうや》かなどで、おもに事件を読んで、明朝の続きを待 つもののみである。事実で人の感情を楽しませるものはたいへん必要だけれど、それのみに目を つけるのは、発達せぬ読者に向かって作るので、発達せる読者には、事件のみでなく、事件と同 時に前後に関係のない一幕、すなわち前後を切りはなした一幕そのものが生きていなければ、事 件ばかり活動したとて、それだけでは満足できぬと思う。そうするには、光景(周囲の)と、人間 の挙動および言語からなりたっているその材料を写生的に書かぬと、どうしても活動はできぬ、 写生的に書くということは、話の筋ばかり書かないで全体が躍出するように描写する方法だから、 つまり一つ話を見ても届け書のように要件のことばかりでなく、どこかに余裕があるように思わ れる。すなわち、実際の用事としては不必要であるげれども、活動をさせるには必要な光景とか、 あるいは会話とかを持ってくることをいうのだ。そうすると、事件を述べるための小説でなく、 世の中を叙してる小説で、世の中で自然と事件が発達するように書きこなされる。そうでなけれ ば、世の中から事件だけを引き抜いた要事だけの小説ができる。そんなものは世の中に存在しな いから、見て物足らない感じがする。ひっきょう、世の中はどうでもかまわず、事件のなりゆき ばかりを見せるにはこれでもよかろうが、世間はこんなものでないと、多少経験したものから見 ると物足らぬ感じが起こりやすい。  むろん、世の中の全体を詳しく写すことはだれでもできぬけれど、ある場合にはそういういら ざることを書かぬと、文章に色彩がない。色彩は修辞的のものだというけれど、その種の色彩は うすっぺらなもので、ほんとうの活動してるものを背景としてその中に世の中のものを活動して るように描くのが真の色彩である。むろん事がらは必要である。しかし、色彩としてはむだなこ とがぜひ必要だ。むだなこととは、小説を事件としてみれば全然無用だけれど、世の中を写した ものとすれば、そういうものはけっして無用でなく、非常にたいせつな色彩である。色彩という と普通では修辞をさす。その価値は小さいというたが、今話したようのものを色彩として用いる 人も、おもにけしきすなわち舞台を活動させるため、けしきだけには存外ほねをおる人が多い。 なかんずく日本人はけしきが好きだから、多くこのかたむきがある。それはたいへんよいことで ある。しかし、けしきばかりでなく、他のことも同様と心得なければならぬ。その人物の特異の 言語、挙動、またその中に直接の関係がない人がそこに出てきて働くことなどは、やはり小説家 の目からけしきを写すと同じ労力を用いなければならぬ。そのむだが、ある意味からいうと色彩 であって、その色彩は今のある作に乏しいように思われる。だから、さきにいうたごとく、用事 のみの小説となって、これを読んで世間を見てるような心持ちがしない。読ませるのは話の筋を 蚰耽ませるのだから。  その次に、今の小説の多くは普通の程度以上、すなわち実際ありうる程度以上、人間の感情な どを、ゴ厶を延はすように引き上げるじたとえば非常におこらなくてもよいところを、おこらし てみたりするじそのほか泣く、おこるなど、感情の発するところにしたがって感情を起こらせる のが、世の中の実際と比例を得ない。ただし、ある特殊の場合にさようするのもしかるべきであ るが、一般の場合においてかくの"ことき同情を|惹起《じやつき》させるは、二十歳前後の人にのみ効があって、 世の中を知ってる者にはかえっておかしい、で、けんめいになってまじめに考えた小説は、かえ ってこっけいなものにできるかもしれぬ。西洋でもその例がある.サッカレーは、ある人が評し て、あの人は八分どおりしか書かないというた。八分どおりという意味に善悪があるが、ここの は良いほうの八分どおりで、つまり極端まで人間の感情をつり上げることは、余裕がないようで もあるし、また作者が読者の同情をしいるようなかたむきになる。ぜひいっしょに|煩悶《はんもん》してくれ としいるようなことは、日常交際している友人のところに来てちょっと気どってみせると同じこ とで、おもしろくない。小説を作るにしても、文章を作るにしても、同じことだ。サッカレーの ごときはそういうことを心得てるから、拙な感情に訴えるほうをしなかったと思う。ディッケン スはこれに反して物をせいいっぱいに進んで書く人である。だから、こっけい的になる、それも おかしいことをいうほうでは成功してるが、泣かせるほうではそういうのは失敗しやすい。ディ ッケンスの人を泣かせるは、ことさらにするように思う。ことさらに泣かせるために、いろいろ の事件をかまえたり、文章をこしらえてつくっている。これもつり込んで読ませればいいが、つ りこまれるさきにこれほどではないと思う感がまず起きる。サッカレーなどは、人を泣かせる場 合でも、多くは一ページと続けておちぬ。二、三句で済ましてしまうので、そのほうがある場合 はかえって有効である。  それで、今の作のある種類を見ると、普通よりつり上げて書いたほうが多いように思われる。 これは今の小説を読む人が二十代の青年で、そういうことを喜ぶのを、作者があて込んで書くか もわからないが、少し世の中の経験をした人間には、あるいは向かないかもしれない。  さらに文章についていえば、文章家とは文字を並べる|謂《いい》でない。昔からの成句を暗唱する者の 謂でない。また、漢字などをよけいに知ってるから、それで文章家ではない。それらの文は、要 するにすぐのまにあう文章にすぎぬ。その人々は新聞なり雑誌なりを書くときに、早く書ける とか、ひととお旦言いこなされるとか言うのにすぎないので、文章家というのではむろんない。 文章にほねをおる、すなわちいろいろ注意することは、紅葉などがその例で、その人の作を読む と調によほどほねをおっている。文章には調はたいせつだけれども、それが第一の要件かなんだ かわからない。その他ただ修辞という点、粉色とかいうようなことをうまくやれば文章家だとも てはやすが、それもたいしたものでない。文章というものは、ひっきょう物でも人間でも、それ をいかに解釈するかが表われるもの、すなわちこれが文章である。その解釈は人によってちがい、 また合することもあろうが、とにかく、その解釈のしかたが、うまくできればうまい文章である。 この解釈とは広いことばだが、物の解釈はいろいろできる。たとえば、暑さ寒さは寒暖計で解釈 ができる。目盛りになって表われる。これは頭に訴える解釈の方法で、また人間の心のように目 に見えぬものを五体の主人とかなんとか解釈するのはむしろ|譬喩的《ひゆてき》また感情的の解釈で、詩人な どがするものである。いま一つは人間の|意志《ウイル》から発達して物に及ぶ解釈である。これはむしろ宗 教的の解釈だと思う。それで、すべてその解釈のしぐあい、自分を解釈する、人を解釈する、天 地を解釈するぐあいが文章になって表われる。その解釈において、人と一風ちごうた文章家とな る理由で、解釈が人より深ければすぐれたる文章家になられる。で、文章は字を知るよりはむし ろ物を観察することに帰着する。それからまた、物をいかに感ずるかに帰着する。  この感じとか、観察とかをうまく養成すれば、うまい文章家ができる。それだから、言文一致、 雅俗折衷などというは、そもそも末の話だ。そのいわゆる雅文とかなんとかいうものは、在来の 習慣で、今話した文章の原理に重きを置かない、つまりきれいなことばを陳列するので、昔から ありきたりのことばのありあわせなどが主になっているのだ。今の世に擬古文などをやる人は、 文章の原理がわからないで、今日までのもののみが文章であると思い、そういうふうに傾くので はないかと疑わしい。そういうことがわかる以上は、格別擬古文などを|擬《なぞ》る必要がない。根本的 に必要なのは文字でない。言文一致が荘重でないといわれるのは、かれの解釈のしようが荘重で 上晶でないからで、その解釈さえ上品ならば、おのずから上品のものができるわけだ。そういう 文章を見て、それでも俗だとか下品だとかいうものは、ほんとうの文章がわからない人だ。ただ 技巧という文章だけで、文字の内容という感じを持たぬ人だ。  観察ということをいうたが、日本人の観察は、ま、ちょっとたとえれば、鳥が鳴くというても、 鳥が鳴くほんとうの形容をしない。海や空もさようである、鳥がなく|吾妻《あずま》の空とかなんとかいう てしまって、吾妻の空の形容にならないごまかした文章になってしまう。そういうのを文章とし てきたのだから、物を実地に観察するよりは、書物のうえに連想を修業するのを主とするのであ るまいか。したがって、物を観察するということは、日本人の中によほど発達してないと思う、 もっとも、科学的の観察が】方で進んでくると、文章的の精彩が進んでくるであろうが、以前の 日本人は科学的でなかったから、文章に表われる物の観察がよほど鈍かったのではあるまいか。 で、平生心がけて世の中をめいりょうに見るということが文章家に必要であるまいか、わがはい が今物を書いて思いあたるが、そういうふうに養成せられていたら、今ごろはよほどうまくなっ たと思われる。文章軌範だとか源平盛衰記のようなものばかりが文章だと思うていたから、直接 に自然に触れて観察しない。実は目前にあるつまらない器物もことごとく材料であったのであ る。 (筆責在記者)                    (明治三十八年八月一日『神泉』)