英国現今の劇況 夏目漱石  西洋の芝居といっても、このまえに話をしたことがあったイギリスの芝居のことでして、別に その時も調べてまとまった話でもなかったのですけれど、ただ記憶しただけのことを話したのみ なのでした。もっとも、だれでも知ってることで、ことに近ごろは外国へ芝居を調べに行った人 もあって、その人たちの見てきたことも、他の文芸の雑誌に出ますから、それをことさらわたし がその専門の雑誌に向かってお話をするというほどの値うちもないと思いますが、せっかくのご 依頼でありましたから、お話をいたしましょう。  だいたいはこのあいだ話をしたとおりでありますが、草稿もないし、忘れていますから、すっ かりとはいきませんけれど、そのあらましを言ってみますと、このロンドンには芝居と名のつく ものが五十ばかりあって、そのほかに、・三ージック・ホールといって歌舞音曲のようなものをや る(日本でいう|寄席《よせ》のようなもの)ところが、大小合わせて五百ばかりあります〕それで、その 大きなものになると、たとえばストランド街にあるカベント・ガ1デン座が三千五百人くらいは いりますが、最下等のホワイトチャペルというところにある極安の芝居になるど、四千人ほどは いります。だけれど、ならして、普通五、六百人というところでしょう。だからして、五百人平均 とすると、毎夜この興行物を見て暮らす人は、二十七万五千人になります。それで、これだけのた くさんな人が行きますが、そのうちでおもなる座をいうと、今いったカベント・ガーデン座です が、これは純然たる芝居というよりも、むしろオペラやファンシー・ボールなぞをやるところで す。それからストランド街の東のほうでテームス川にかかっているウォ1タ1ルー橋のほとりに あるドルーレー・レーン座が大きなもので、これはゆいしょのある劇場でして、昔の有名なガリッ クだとか、キインだとか、あるいはケンブル、あるいはシドンス夫人なぞが出勤したところなの でして、この座の特長はクリスマスの時分に、パントマイムをするので有名なのです。その次は、 そのそばに現今イギリスの団十郎たるアービングが出勤する、ライシイアム座というのがあるの です。そ扎から、そのあたりにはたくさん有名な座もありますが、その名まえばかりあげてもつ まらないから略しましょう。そこで中央道路たるオクスフォード街から、いわゆる流行の根源地 (流行ということが日本のおもに花柳社会からくるのとはちがって、イギリスでは上等社会から はやりだすのです)たるウエスト・エンド一帯のほうへ行きますと、一番に目だつのがヒズ・マゼ スティ座でして、ここはせんだってまで女皇の御在世のときは、ハー.マゼスティ座といいました が、崩御ののちはヒズ・マゼスティ座と改称して、トリーという役者の出るところです。『新小説』 かなにかにトルストイの劇をやったという、抱月さんの通信のあった劇場です。その向こう側に そんなに大きくはないけれど、ヘーマーケット座というのがあります。また二、三町隔てて西南 のほうのセント・ゼ1ムス街に町の名をつけた、セント・ゼ1ムス座というのがあって、そこは アレキサンダーという役者の出るところで、ステーブン・フヒリプスの劇詩、パオロ.エンド・ フランチェスカをやったのがすなわちここなのです。そのほか、このかいわいストランド街あた りには、同じようなものがたくさんあります。それから、このウエスト・エンドにはいわゆるバ ラエティと称して、純粋の劇場ではないけれども、曲馬、手品あるいは道化芝居というものを混 ぜて興行している有名なづフスとかエンパヤーとかいうものが四、五軒ありまして、これは皆大 劇場と匹敵するくらいな、むしろそれより内部の構造なぞはりっぱな建築なのです。その他単に 芝居と号しているものは、さきにお話をしたとおりの数で、いちいちあげることはできないが、 その純粋の芝居をするところは少ないので、あるところでは道化芝居や茶番みたいのものをやっ たり、あるいは音楽入りの狂言みたいなものをやったり、いわゆる高尚の意味においての劇をす るところはむしろ少ないのです。  それから、その劇場には、この座長というものがあって、これをマネージング・デレクターと 称して、それは同時に芝居の持ち主あるいは借り主を兼ねていて、しかも役者のうちの|大頭《おおあたま》がや っているのです。たとえば先刻お話をしたヒズ・マゼスティ座の座長力よび持ち主はトリーで、 セント・ゼームス座の座長および借り主はアレキサンダ1というふうになっております。もっと も、小さい芝居とかイースト・エンドのほうの場末の芝居になると、そんなものはないようです が、場末の芝居なぞにはないわけで、つまり決まった役者が出ないからです。しかし、かわりがわ り何々一座というのが回ってくるのでして、これはまあいなかも同じように回ってきては興行す るのです。それから、ウエスト・エンドなぞで大きなものが当たると、その興行を打ち上けて、と きには回ってくることもありますけれども、多くの場合には当たった芝居を、他の一座が伝授を受 けてほうぼう持って歩くので、いわば当たり狂言の忠臣蔵というようなものを、この場末へ来て するのです。そういうわけだから、大きな役者の座長とかいうものは、こういう座には付いては いないのです。その他は今のマネージング・デレクターのほかにジェネラル剪ネ1ジャーと称し て、一般の事務を支配する事務長というようなものがあり、それから舞台のことを管理するステ ージ.マネージャーというものがあり、またその座の音楽を監督する、・・ユージカル.デレクター というものがあります。それで、今度はどういう芝居をやるとか、役をどう付けるとかいうのは 座長がやるので、また道具立てをどうしようとか、光線のぐあいをどうとか心配をするのはステ ージ.マネージャーがやるので、音楽やなにかはミュージカル・デレクターがやり、一般の客の あしらいとか、合い間合い間に客が出て飲食等をする注意をしたり、その他の雑務、たとえば芝 居についての手紙の交渉等はジェネラル・マネージャーがやるのでして、皆そういうふうな機関 でできているのです。  それから、劇場の中の見物する席についてお話をしますと、席料のいちばん高いのはプライベ ート・ボックスといって、これは五十円から十円くらいで一間賈い切って、その中へかってに幾 人でもはいるので、その値段に高下のあるのは、いちばん低いところが高いので、段々になって 二階三階となるほど安くなるのです。このポックスは数に限りがあってたくさんはないので、そ こは舞台を臨んでその両側に、舞台をななめに見るように一側ずっ段々と三階くらいのものが付 いているだけなのです。これが高いところであるけれども、見るには横からですから、見よいこ とはなかろうと思います。その次はストールといって、これは日本の土間で、もっとも正面から 舞台を見るところですが、見るのにいちばんよい場所ですから、したがって価も高く、たいがい 大きな芝居ですと、ひとり席五円二十五銭くらいです。このストールのうしろに少し高くなって やはり舞台を正面から見る安い席があります。これをピットといって、そのピットのいちぱんは じめの側はストールのいちばんうしろの席とついているから、ごく上等で、値段は安くー円ニ十 五銭くらいです。しかし、場末の芝居へ行くと、このストールもしたがってたいへんに安くなっ て、二円くらいのところもあります。その次のはぐるりと階廊のようになっている二階で、これ は座によって名が違い、あるいはバルコニーともいい、あるい他の座へ行くとドレス・サークル ともいってひとり席三円七+五銭くらいです。その次になると、またその上に三階が回ってあっ て、これもところによって名が違いますが、まあアッパー・サークルといっておりまして、これ もひとり席二円五十銭くらいです。またその頂上をガレリーといって、ここが日本の追い込み、 すなわちいちばん最下等のところで、一人まえ二十五銭くらいです。もっとも、大きな座になる と、このガレリーの下にまだもう一つ階廊のようなものがついてあります。  そこで席にはリザープド・シートと、アンリザーブド・シートの区別があって、まえのリザーブ ド・シートというほうはひとりがひとりの席を占めるようにできていて、その席はゆったりとし たもので、腕をかけるようなところが腰掛けの両方に付いていて、それがえび茶色のビロードで 張り詰めてあり、そうして出入りには腰掛けが自由になるようになっていて、すわるときにはた たんで上げてあるのをおろし、出るときにはもとのようにたたむので、これをチップ・アップ・ シートといってみごとなものであって、たいてい今のえび茶色でできていて、下の踏むところも 同様です。それには皆番号が振ってあって、一側めの第何番めとか、二側めの第何番めとかいっ て、それでその切符を買ってしまうと、ほかの人はとてもその席ヘすわることはできないので、 おそく行っても早く行ってもかってです。それを買うには、芝居の入り口にポックス・オフィス という切符売りさばき所があって、そこで買うか、またはその芝居まで行かなくとも諸向に代理 店のようなものがあって、そこから買うことができるけれど、もっともはやる芝居になると、今 夜行ってみたいからといって、切符売りさばき所へ行ってもなかなか席が手にはいらない。だか ら、たいてい二、三日まえ、もしくは一週間まえにどこの何番という札を買っておいて出かける のですが、またそのはやる芝居ですと、明日ので何席があいているとか、三日めの何席の何番、 四日めの何席の何番というようなぐあいにして買うのです。そこでアンリザ1ブド.シートとい うのはまえのとちがって、ひとりについて一席を設けてないのでして、ピッ+あるいはガレリー はそうなのです。そこへはいるにはいくら金があっても、いくらまえからあつらえても席は取っ てある気づかいはないのだから、早く行って順番に早くはいるほうがよいところへ行けるという のです。それで、皆入り口がちがっている。土間へ行く人は正面からはいりますが、ピットヘ行 きたいものはピットの入り口で待ち、ガレリーヘ行きたいものはガレリーの入り口で待ってい て、その入り口で金を払うのですが、入り口は興行まえたいてい三十分に開くのです。だから、 われがちに待っていてはいるのですけれども、よほど規律の正しいもので、順番に二列になって、 あとから来た者はあとからあとからとうしろへついて待っているので、こういうように開場刻限 の少しまえになると、待っている人が、ピットの入り口でも、ガレリーの入り口でも、長い行列 になっているので、ときによると一町も一町半も続いて、横町を曲がってはみ出していることも あるのです。それで、そういう見物人は熱心であるから、前へ出てよい席を取ろうと思って、非 常に早く行って待っているので、たいてい夜の八時か八時半に始まるのに、昼飯を食べると詰め かけている者もあります。で、これについておもしろい話があるのは、あまり熱心に客が詰めか けるものだから、座主がときにょると早く来た者にお茶を出したということがあって、たいてい イギリスではア7タヌン・ティーといって、四時か四時半には紅茶を飲むもので、日本の茶うけ のようにやりますから、この時刻が来ると客へ出すようにして茶を|饗応《ちモう》したということです。 それにまだ似寄ったおもしろい話というのは、このあいだゲイエテー座という芝居が改築になっ て、はじめて興行したときに、いちばん初めにこの夜興行を見るので詰めかけた人は、朝の六時 半ころでした。それからだんだんにぼつりぽつりと集まってきたのですが、なにしろ夜の芝居を 朝から寄ってきたのだから、しまいにはあまりたいくつになって代理人を雇って、自分の番をさ せたものがあったので、その代理人になったのは、メッセンジャー・ボーイといって、一定け服 装でちょっと使いをする子どもがあるので、一!、の子どもを雇ってきて、自分の代わりに置いた人 がだいぶあったのです。そこが人情というものは妙なものでして、そんな子どもを雇って銭を払 うくらいなら、ちゃんと-ーノザーブド・シートのところへ行けば、その銭で待ち遠いめをしなくと も、追い込みでないところヘはいれるのだが、そんなことをやった人がだいぶあったということ でした。だから、まえにいったとおり、このアンリザーブド・シ1トのところヘはいるにはずい ぷん苦しい思いをしなければならないし、また行列にはいって待っていまいと思うと、人のうし ろになって立っておらなければならないのです。それに、このガレリーは芝居のいちばん高い天 井に近いところであるから、そこで舞台を見おろすと、大きな芝居になるとちょうど山の上から 谷底を見たような、あるいは噴火口から中をのぞいたようなありさまであって、ただはるかに下 のほうで美しいものが動いているように見えるのです。しかし、わたしの思うのには、芝居とい うものの見方にもよりますけれど、ただ美しいものを見るというなら、芝居の筋とか、せりふと か、役者の技芸を別にして、ただ美しいものの活動をしているところを見ると思えば、そのガレ リーがいちばんよいと思います。なぜなれば、ちょうど夢に|竜宮《りゆうぐう》へ行った心持ちがするよ5であ るから、それだけで満足すべき美感があると思うのです。  それで、ついでに見物人のことをいいますが、それはたいへん静粛でして、今の追い込みなぞ にはいる連中としても、けっして騒がしいことはなく、ことに人の席を奪うなぞということはけ っしてないので、たとえその人がいちじ出ても、帰ってくるとその跡にはいった人はすぐにどい てやるというふうです。それから、この席の前にオペラ・グラスというものが付いていて、それ へ銭を入れるとふたが開いて、中からめがねが出るようになっていて、それで舞台を見るのであ るから、見たい人はかってに銭を入れて見るのだが、見ためがねを正直に跡へ入れない者はない とみえて、いまだにその法が行なわれております。ちょうど日本でいうと、今日ではあるまいが、 その以前瀬戸物町の|伊勢本《いせもと》という講釈の昼席で藁子の箱が客の中に出ていて、かってに食べて銭 を入れたもので、それをただ食ってしまうという人もなかったようであったが、それと今いうめ がねを見て持っていってしまわないのと同じようなことです。それから、上等な見物人になると、 皆|燕尾服《えんびふく》を着し、また女は肩を出した礼服を着て行きますが、やはり非常に厳重に静粛で、寺の 中が静粛であります、それほどでもないが、日本人のとはちがってごくまじめであって、声を出 すということはなく、ただ手をうつきりです。それで、その合い間合い間には席をはずして、酒 とかコーヒーを飲むリフレッシメント・バースという場所ヘ行って、またもとの席ヘ来て見物す、 るというわけです。興行は今いったとおり八時から十一時ごろまでで、昼間あるのは水曜と土曜 日でして、二時くらいから五時ごろまでで、この昼の興行をマチネーといって遠くにいる人など は、それを見に行くのにおそくならないから便利です。そこで、場末のイースト・エンドのほう の芝居へ行くと、見物人がやかましくって、下品で、客種がたいへんに落ち、ワイワイといって 肝腎の泣くところを笑っていて、礼服なぞは着ているものはほとんど皆無で、着ているとかえっ て一っ笑いになるくらいなのです。ここの場所はイースト・セントラルといって、銀行とか商会 とかいう、昼は勤め人がいて、夜は寂しくなるというところのうしろのほうにある、ふうの悪い 人間が住んでいる地ですから、つまり、身分のよい人はここヘは出入りをしないのです。  それから、次に舞台の話を少しやりましょうが、元来西洋の舞台というものは、今は非常にり っぱになっておりますが、昔はつまらないものであったので、歴史はくわしく言わないけれど、 イギリスではエリザベス朝の劇が最も盛んな時代であったが、その舞台はごくつまらないもので して、わらのようなものを敷いたのです。また、この時分には道具立てというものもほとんどな く、パリス・、・・ランといって、札に書いて出して、ここは何の場、ここはどこだと決めたもので、 見物はそこと思って見ていたものです。それから、幕はそのじぶんからありましたが、なにしろ |髭末《そまつ》なものであったのです。そこで、イギリスの舞台でちょっとめざましい改良をしたというの は、十八世紀の終わりにド・ル.ーサブルグといって、たしかドイツ生まれの人と思いましたが、 その人が大改良をしたので、たとえば書き割りに光線を映すこととか、月を見せたり星を見せた りすることとか、それから銀のくずを使ったり、|紗《しや》あるいは金属の青い板で水を見せたりするこ とを発明しました。これが有名なものでして、この人がイギリスヘ来て、先刻お話をしたガリッ クという役者のためにドルーレー・レーン座の道具立てをやったので、それはガリック先生が、 自分で書いたものなのでした。この時に青い木がだんだんと焦げ茶色になるところを出し、月が だんだんと登ってきて雲のそばを通るところなぞをやったのでして、これを見て当時の観客は非 常に驚いたのです。それが単に普通の観客のみならず、イギリスの第一流の絵かきともいわれて いるレノルズですら、非常に嘆賞したというくらいで、たしかにこのド・ルーサブルグという男 の道具立ては、この舞台の道具立ての歴史において、一時期を形作っているものです。その後だ んだん発達して、それで現今の俗にステージ・リフォームといって、舞台改革ということばがで きてきたので、それはいつからというと千八百八十年ごろから起こったので、かのビエンナの劇 場が焼けてから以後のことであるのです。そのいわゆる舞台改革のおもなる点というのは、一方 では道具立てをなんでも自然をできるだけまねて、実物そのものを舞台の上へ出そうという趣意 で、それが一つ。もう一つは、現今の科学、機械学または水力学を舞台に応用するということな のです。で、イギリスにあって最も|輓近《ばんきん》にこれを実行したのが、千九百二年にカベント・ガ1デ ン座でやったその時に、サ1クスという建築家が意匠を凝らしてやったのです。その他イギリス ではこういうことに関して、役者ではアービングまたはトリーなどが、だいぶ熱心に改革をくわ だてたほうで、画家ではハーコマーやアルマタデマなどが皆舞台の改革に尽力したのです。それ で、今の舞台は昔とちがって、舞台を五、六の区画にわかち、これを電気の力でもって動かし、 書き割りは上からつるして、しかもおもり仕掛けにできているから、ひとりくらいの力で大きな 道具の上げ下げが簡易にできるので、それから電気を用いて四つの色を出そうというわけです。 それにまた昔は舞台が傾斜になっていたのが、現今のは平たくなっているので、舞台には木でで きたものと、木と鉄でできたものと、鉄製のものと、こういうふうに別があるので、木でできた ものは人の力で運転をし、木と鉄のも同じくであるが、鉄でできたものは、人の力もむろんの話 であるけれど、これは水力および電気の力でやるのです。まだそのほかに舞台に閧しては近ごろ 種々やって、米国ではせり出しの舞台を作ったのがあり、またドイッでは日本の回り舞台のよう なものをやったのがありますが、長く続くかどうだかわからないのです。それに、舞台上の光線 は下からと、横からと、上からと三とおりに取ることができて、下からが俗にフット・ライトと いって、舞台の前にあって下から役者の顔を照らし上げるので、上からがバトンというもので取 り、横からがウイング・ラダーというものから取るという由ですけれど、その機械や構造のくわ しいことは知りません。  それから、西洋で近ごろは一っのりっぱな芝居をするというと、おもにひとりよい画家を雇う か相談するかで、その人がいろいろと道具の書き割りやなにかくふうするのでして、ア1ビング がコリオレーナスをやったときには、アルマタデマの意匠をかり、それからキング・アーサーを やったときにはバーンジョーンスの助けをかりたので、これらは皆第一流の画家であるのです。 それで、舞台の絵をかくことに関しては、イギリスは今ではヨーロッパでほとんど一流の地位を 占めていて、他の国には劣らないのです。ロンドンでこういう芝居をやるといって、他の国へ行 くときは、その道具立てまで持っていくのですから、道具立ても劇のー部分として重くなってい るのです。  それから、今度はイギリスで劇をやることについてお話をしますと、そのやることははなはだ ふるわないほうで、どうかというと下火なのです。そこで、実に愚にもつかない劇をやっておる が、しかも大入りであって場末へまで持っていってやるというくらいに盛んなのです。ある人、 たとえぱクレイギー夫人という有名な女流文学者のごときは、こういう批難を言っておるのでし て、 「どうもイギリスの役者というものは、自然ということを舞台に演じることを勤めないし、 できないようになっている。それは一つの型ができてしまっていて、その型にはまらないものは いけないようになっているから、自分ではおもしろくないと思っても、ぜひそれをやらなければ ならないというようになっていて、妙な気どったことなどをやるから、慣れない人がこれを見る と、ごくいやみがあっておかしいので、どうしてもそれをやめなければ、劇は発達しないだろう」 と、こういったようなわけです。それで、現代の芝居が、教育ある人の目から見ておもきをおか れておらないというのは一般の事実であって、ある人は交際社会へ出て芝居の話をしないくらい であるが、そのくせ自分は芝居へ行くのです。なぜその芝居の話をしないかというと、まあ相手 にもよりますが、どこへ行くときかれたときに、芝居へ行くといえば、あんなくだらないところ へ行くかと相手がいうかもしれないということをはばかって言わないのでしょう。まず言ってみ ると、 「あなたはどこへ」「芝居へ行きます」「芝居は何を見に行きますか」「何々を見に行くの です」「それはだれが書いたものです」「あのピネロが書いたものです」「ピネロとはだれのこと ですか」と、かくのごとき談話は、もっとも文学的な人に会っても珍しいことではなく、しかも ピネロというのは現今イギリスの脚本家では第一流の作者なのです。そこで、またある人の説に よると、イギリスにはずいぶん文才のある人もあるけれども、その人は脚本は書かない。なぜ書 かないというと、今いったようなわけだからというのです。それに、たいへんおもしろい脚本を 書いて座長のところへ持っていくと、座長はそれを読んで、なるほどおもしろいと思ったっても、 これをすぐと芝居でやるわけにはいかないといい、それでこの脚本はおれのする役はあっても、 おれの女房のする役がないとこういうわけでもどすので、またこれを他の座ヘ持っていくと、今 度はおれの女房のする役はあっても、おれのする役がないとこういう口実をつけるのです。そう いう理由だから、少し文才のある人でも、脚本は書きたくないと、こういうことになるかもしれ ないのです。現に、このあいだある人の書いたものを見たら、ロンドンに二十五年まえはおよそ 劇場が二十五あって、そのうちの二十というものはほんとうの芝居をやっておったが、現今は芝 居へ行く人は三倍にも四倍にもなったにかかわらず、ほんとうの芝居をやるところは七つくらい ですむというわけであって、その多くは道化芝居あるいは茶番というものをやっておるのです。 で、そのある人がこのふうではいけないというので、外国ではどんなに芝居を保護しているかと、 その例を調べてみたら、どうしても保護しなければだんだん堕落してしまうから、国立とか市立 とかいうものをこしらえなければいけない、それでないと遠からずして、芝居は一種の寄席みた いなものに下落してしまうといっておるものがあるのです。これを要するに、今やっておる新作 脚夲の大部分というものは、おもに社会的の写実劇なのでして、しかもこっけいに傾いたものが 多いので、中にはなかなかおもしろいものがあるようだけれど、大いにはやったりなにかしたも ので、行ってみるときわめてばかげたものも、だいぶあるのです。だから、こういうふうに芝居の 前途を憂える人が出るのも無理ではあるまいと思われます。そこで、現代の芝居というものは、 わたしの見たところでは脚本がよいとか悪いとかいうよりも、むしろ道具立てとか、光線とか、 書き割りとかそんなものが主で、すなわち付属物たるものが主となっているようなかたむきに見 えるのです。もっとも、実際道具立てその他のものは、実に想像にも及ばないくらいみごとにで きているので、まずそういうものに費やす金が十週間の興行として、十万円ないし十六万円くら い費やして、あらゆる|輓近《ぱんきん》の科学的知識を応用するから、りっぱにでき上がるし、またよくも見 られるはずなのです。その最もりっぱなものの一つとして、毎年人が待ち設けているのが、最初 ちょっとお話をした、ドルーレー・レーン座のパントマイムであって、それは毎年暮れにやるも ので、そのパントマイムというものはどんなものかというと、日本でいういわば桃太郎の話とい うのに、こっけいを混ぜて一つにつなぎ合わせたものを芝居ふうにして、その時事の当て込みな どをちょっちょっと入れて仕組んだものであるから、芝居として見ると実につまらないものであ りますが、まあ多少のこっけいがあるというだけの話です。だから、これは子どものなぐさみと してクリスマス時分に興行するものになっておるのですが、それにもかかわらず子どもばかりで なく大どもが出かけていくのです。これは道具立てがきれいで、たいした金をかけてりっぱなも のを造るからで、それはそれは実に美麗をきわめたもので、一つの道具立てが下ヘ下がると、そ れがまた下がり、またその奥にあるというわけになってきたり、また舞台から噴水が出て、その 噴水がしかも五色の色に変わっていったり、舞台の上に馬が出てドシドシ駆けて歩いたり、ある いは舞台の上へ百人近くの女が十人くらいずつ一組になって、その一組が同じ着物で、互いに離 れたり合ったりして舞い、中には羽をはやして飛んだりするので、その美は想像も及ばないこと でして、毎年その美しい度が増してくるのです。せんだって話をしたときは、こういったような おどけだといって読んでみせましたが、今晩はそれだけ略します。で、そこにダン・リーノとい う道化師があって、ちょうど日本でいうと落語家の円遊というふうな男でして、それを見に行く のと、道具立てのきれいなのを見に行くのです。しかし、要するに、たいていの観客は道具立て に帰着するので、せんじつめてみると、日本にはまだないが、道具立ては舞台をいくつにも割っ て飾りたてるほうにおもむき、肝腎の脚本はさらにふるわないのでして、ある人の説によると、 型ばかりやっておるから、そうなってしまうので、劇そのもののためにいかんというのです。し かし、この型といっても、日本でいう旧劇の型なぞというものとは、その趣はちがっておるので して、写実そのものに対して、自然ということを舞台で演じないで、妙に臭いそぶりをするから なのです。まあざっとこんなものでして、これで英国の劇況もほぼわかるでしょうと思いますか ら、ここらでしまいといたしましょう。                         (明治三十七年七月一日ー八月一日『歌舞伎』)