「額の男」を読む 夏目漱石  『それから』を脱稿したからとりあえず前約を履行しようと思って、『額の男』を読んだ。読ん でしまっていよいよ批評を書く段になると、たちまち胃に打撃を受けた。そうして、二、三日の 間はほと一んど人と口をきく元気もないほどの苦痛にとらえられた。ようやく床の上に起き直っ て、小机をふとんのそばまでひっぱってきて、胃の膨満を押えながら原稿紙に向かったときは、 もう世の中が秋の色を帯びていた。時機を失して著者に対してははなはだすまないと思ったが、 書かないよりはましだろうとうぬぼれて、所感をしるすことにした。  『額の男』の薯者が普通の小説家をもって任ずる人でないことはいうまでもない。したがって、 尋常の小説を書くつもりで『額の男』を書いたのでないことだけは、だれの目にも明らかである。 ここまではこの書をちょっと二、三ぺージでもひきはがしたものにはすぐ気がつく。けれども、 それ以上の問題になるとなかなかわからない。『額の男』を通読してその批評を書くつもりの余 にも、述作上にあらわれたる如是閑とはいかなる人で、いかなる意味でこの書を著わして、また 何がゆえにかかる調子の変わったものを公にして、また何がゆえにこういう変わり方を選んだも のであるか、はなはだふめいりょうである。それどころではない。この書の普通の小説と変わっ ているところはどこが特色だろうと思って、ちょっと人に説明したくても容易に判然たる即答が 浮かんでこないくらいである。  してみると、この書が普通の小説と、どういうふうに違っているという個所をあげるだけでも すでにひとかどの批評である。けっして無益なこととは思われない。それをごくそまつながら一 言で述べてみたい。  普通の小説において興味の中心となるものは、編中人物の関係甲がいかにして乙に移りゆくか を読者に指示するところにある。この関係甲が移らんとして移りえぬ場合や、または乙に行くべ くしでかえって丙に行く場合や、または甲から動いて再ぴ甲にもどる場合は、皆この〔脱字〕甲 が乙に移るには昔ふうの運命というものがてつだうかもしれない。また、今の人が唱える神秘的 な要素が働くかもしれない。あるいは偶然な外界の事情に制せられるかもしれない。もしくは編 中人物の主義の有無、教育の高低、地位の上下とその意志の強弱とによって制せられるかもしれ ない。  これらの要素が入り乱れて、人物がどう動くかというありさまを、とくと納得させるように書 きおろしていくところに、読者の興味が集中してくるのである。  してみると、普通の小説では、移るということが主眼になる。いかにうまく移る、いかに自然 に移る、いかに読者を啓発するように移る、いかに読者を驚かすように移る、いかに読者の頭を 屈伏させるように必然に移る、1これらがこの興味を|囲続《いじよう》する諸条件である。  ところが、『額の男』を見るとこの移るということがほとんどない。編中人物の関係ははじめ から終わりまでほぼ同様である。よし多少の変化があっても、書中に書いてある諸条件から因果 律で推しころがされて移ったものではない。べージ以外から投げ込まれた外発的の因数で移って いる。だから、 『額の男』の興味は、普通の小説のそれのごとく、編中人物の関係甲が乙に移る ところに存すとは言われない。  では、『額の男』の興味はどこにあるか。余の見るところでは、まったく編中人物のオピニオ ン(意見)そのものの興味である。編中人物のオピニオンという意味は、まあこうである。1普 通の小観の中で第一流の作と称せられるもののうちでも、編中人物のいだいているオピニオンだ け拾って読むと、きわめてつまらないものがある。それはそのはずで、ずいぷん下等社会の労働 者や、山の中の無教育ものが雄編大作の主人公にならんとはかぎらぬからである。ひっきょうは 以上述べた理由で、普通の小説のおもしろみは編中人物のオピニオンでさまでに支配されないか ら、そんなことは第二義第三義に落ちてしまうのである。だから、もし昔ふうのばあやさんやね えさん、もしくは裏だなのかみさん、もしくはくろうと上がりの女房などを捕えるとす.ると、そ の会話の内容は自然貧弱でなければならない。ただその貧弱な会話が、前後あいまってはじめて 人間として有意義な一種の響きを伝えるからそれですべてが償われるのである。  もしその断片的のオピニオン(会話にあらわれたる)を拾ってその価値を|穿難《せんさく》したら、実にぱか げたものになってしまう。  ところが、 『額の男』に出てくる会話1しかも、この会話は常に人物のオピニオンを代表す る-以外になにごとをも進行させていないが、この会話は会話としてそれだけに色彩がある。むろ んオピニオンとしての色彩だから他の色彩と混同してはならんが、あんなに社会上、人事上、学 問上においてオピニオンを持った人が寄り合って、そうしてはじめからしまいまでオピニオンの 交換をやっている小説はあるまい。そうして、そのオピニオンがことごとく奇抜なひねくれたも のば、かりである。目新しい、耳新しいものばかりである。 『額の男』の興味はまったくこの連続 した一調子変わったオピニオンから出る刺激だといわなければならない。  余はこの連続不断のオピニオンを逐一に読みながら、深く如是閑君の才気の|換発《かルぱつ》縦横なるに感 服したひとりである。他の作家をして、片言隻句すら容易にまとめしむる余裕を与えぬさきに、 如是閑君はとうとケとして常人の思いも寄らぬことを、五ぺージでも六ぺージでもつなげてい く。実に驚くべ唐才力である。  しかし、一言如是閑君に忠告したい。あのオピニオンは、世の中を傍観する、インテレクチュ アル(頭脳的)な遊芸に似たところがある。ウイットはむろんあり余るほどあるが、惜しいかな、 真正の意味においての真理、|摯実《しじつ》なる観察としての概括とはどうも受けとりにくい。  いくら社会上人事上重大な問題にわたっても、はでできゃしゃな感が先へたってならない。む ろんそういう場所も場面も必要には相違なかろうがへ『額の男』はあまりにその色彩で|蹂躙《じゆうりん》され ている。  だから、読者のほうでは、ありがたい教訓を得て啓発されたと思うよりも、やあまたおもしろ く|地口《ぢくつ》たな才子だなと感ずる。また警句を吐いて人を驚かそうとしているものと考える。  もっとも、この警句の中にはけっして安っぼいものばかり廿ない。かつ、君の学問の範囲、知 識の領域にいたっては、われわれ老生をして真に感服せしむるだけの素養はじゅうぷん認められ るが、いかにせん、一面から話すと以上の弊を帯びているような気がするからやむをえない。  もう一つ申したいのは、1普通の小説でも編中の人物がなかなかオピニオン家である場合が ある。そのオピニオン家の場合が単にオピニオンとして興味をひく場合は如是閑君の場合と同一 であるが、その時はこのオピニオンなるものは単に装飾的道具に使用されている。だから小説の 本義とはほとんど没交渉であるρさいぜん述べた小説の興味の中心に影響してくるようなオピニ オンになると、単なるオピニオンでは済まなくなる。その人物のオピニオンが編中人物の関係を 動かしてこなくてはならなくなる。ことばをかえていうと、オピニオンが人物の頭の奥へ飛び込 んで、そこで、一仕事しでかさなければききめがなくなってくる。こうなったときに、平面で叙 述されたオピニオンがようやく立方体に変化して奥行きのあるような心持ちがするのである。余 は如是閑君の編中の人物のとりどりにおもしろいオピニオンをおもしろいと思ったから読んだに もがかわらず、そのオピニオンはついにしまいまで平面でのべつに平たい感じがした。それはま つたくごの原因だろうと思う。しかし、すでに普通の小説でないと断わりながら、普通の小説の 資格をもって再び『額の男』に向かうのは、われながら矛盾である。ただこれは如是閑君のご参 考に申すまでである。  以上は『額の男』を読んだときの感じをあとから考えて理屈を付したものである。こうあから ざまに理屈をつけてみると、如是閑君に済まないような、失礼な個条も出てきたが、しかたがな い。われわれ批評家はいいかげんなことを言って作家にこびるよりも、自分の思いどおりを作家 の前に|披渥《ひれき》して、潔く罪を作家に得たほうが、自分に対しても作家に対しても義務ある所為と考 える。  それから、余も批評もやるが創作もやる。この『額の男』の批評中で移して余自身の小説の上 に持ってきて非難してもかまわないものもあるかもしれない。如是閑君もその辺はご容赦あっ て、いったいおまえの小説はどうだなどとやりこめられざらんことを希望する。                           (明治四十二年九月五日『大阪朝日新聞』)