英国の文人と新聞雑誌 夏目漱石  文人詩人の資格を備丸ておっても眼丁宇なしというような者は、詩想を表彰することができぬから論外である。文章をつづり、句をなす力量があっても、陶淵明や寒山拾得のような人々は、自分の作を天下後世に伝えたいという考えがないから、これも特別である。しかし、一般に文学者と呼ばれ、またみずから文学者と名のる者は、ひとりで述作をして、ひとりで楽しんでいるよ うな者はきわめて少ない。いわんや、文を売って口を糊するという場合にいたれば、必ず何かの 手段をもって世の人に自作を紹介しようと企てる。新聞雑誌はこの紹介物としてすこぶる便利なものであるから、そこで文人と新聞雑誌との関係が生じてくる。この関係を不秩序ながら少し述べようと思う。  英国で新聞の起源はいつかというと、今を去ることほとんど三百年、すなわち西暦一六二二年 に、ナサニエル・バッターという男が週報とでも訳すべき一種の新聞に似たものを発刊し始めだのが元祖になっている。元来、英国の貴族はロンドンに邸宅を構えてはいるが、一年じゅうこの 紅塵界裏に起臥するものではない。三百六十五日のうちで三分のーくらいを都で暮らし、残る三 分の二は皆いなかへ引き払ってしまう。さて、いなかへ行けば目先が変わるので、いろいろおもしろいこともあるが、やはり今ごろ都ではどんなことがあるだろうくらいは思い出しもするし、また知りたくもなってくる。そこで、これらの人々は皆かか丸の通信者をロンドンに置いて、珍事異聞はもちろん、社会万端のできごとを一週に一回ずついなかへあてて報道せしめたものである。もとより通信者中には、じょうずも、へたも、はやるのも、はやらぬのもあったらしい。ところで、ま丸に述べたバッターという男は、この道にかけてょほど巧者壮者とみえて、諸々ほうぼうの注文を引き受けて、とうていひとりでは手が棒になるほど働いてもまにあわないという場合になった。ここにおいて、先生一計を案じて、自分の一週間内にまとめた材料を印刷に付して、毎週依頼者に発送することにした。これがすなわち週報である。  これが発端で、それから漸々盛大にたって、十七世紀の終わりには五、六種以上の新聞ができるし、また『レストレンジ』以後は紙面の体裁も完備して大いに発達をしたというようなもの の、ミルトンやドクイデンが投書家であったという事実のほかに、別段取りたてていうほどのこともない。少なくと屯文学上にこれという功績も見えなかった。ところが、女皇アンの時代にいたって、かの有名な『タトーフー』と『ス。ヘクテートー』が前後くびすをついであらわれた。これは純然たる文学雑誌であるが、惜しいことに長持ちがしなかった。『タトーフー』は一七〇九年から一一年まで続いたが、『スペクテートー』のほうは一一年から一二年で終わりを告げた。この二雑誌を発行したものは、だれも知っているアジソンとスチールである。もっとも、『タトラー』の中にはスイフトやその他の人がてつたった号もあるという説であるが、とにかくこのふたりが発起人で、またかもなる執筆者であった。さて、その中にはどんなことが書いてあるかというと、これは当時の人情風俗を清新りゅうちょうな文体で風刺的または批評的に叙述したものである。それゆ丸に、今から見るとその時代のクーフブのありさまや下世話の模様が、歴々と目に見るごとくおもしろくわかる。たとえば、英国の習慣に、四月一日を皆がバカになる日としてある。すなわち、この日には互い互いに人をだましあうておもしろがる。どこそこに化け物がいるから見てこいと言われて、行ってみるとなんにもなかったり、またはやか量へ行ってタイを買ってこいというから、貿いに行くと断わられたり、いろいろなこっけいを演ずる。その中に、かように人を だましたり、女こどもをバカにして得意がる連中ができてくる。おれはこの五年間に百何人をバカにしたなどといって自慢するような者のことが、『ス。ヘクテートー』を見るとおもしろく書いてある。おもしろく書いてある中に訓戒の微意が見える。すなわち、アジソyやスチールはこれをもっていくぶんか世道人心に袴益せんとの考えがあったのである。それからいま一つは、この時代の文学趣味は発連しておらなかったので、あるいは発連しておっても現今とは大いに経過を異にしておったのであるが、アジソyはなるべくこの嗜好を正路(がれのいわゆる)に引き人れんと企てた。現今では詩聖として崇拝している沙翁を、・フイマーという当時の批評家は、犬のほえるがごとく、馬のいななくに似たりといったくらいである。今でこそ布鼓を持して雷門に向かうの観があるが、この時代の批評眼はすべてフーフンスを手本としたので、実際沙翁もミルトンも空前絶後の大詩人として社会一般から今日のどとく許されておらなかった。ところが、アジソyはただに通俗な文体を用いて一生面を開いたのみでない。かくのごとき文壇の批評に対しても多少時流とその選を異にしておった。『ス。ヘクテートー』の中で沙翁とミルトンに関した論文が十編ばかりあるが、皆このふたりを賞賛したものである。なかんずく、ミルトンの『失楽園』を弁護してりっぱな叙事詩だと言い張ったのは、アジソンのてがらである。いくぶんか十八世紀の習 気を彫胆しなかったかもしれぬが、まず今世紀の批評眼に近づいておったものはこの男である。以上述べた訳で、『ス。ヘクテートー』は今でも絶えず英国で出版する。けっして普通の新聞雑誌のようにいちじ限りのものとして取り扱わない。  後世にかくのどとき影響のある『ス。ヘクテートー』が、当時にはどうであったかというと、やはり非常な人気で、ロンドンの市民は雑誌の到着を待ちかねて読むのを楽しみにしたくらいである。なぜさようであるかというと、二つの原因がある。従来の新聞雑誌は皆政治的で、どうも文学上の趣味がなかったのと、これに類する小脱というものがいまだ行なわれておらなかったところへ、突然時好に投じだからである。リチャードソンが『。つとフ』を著わしたのは十五、六年後のことである。スモレットはいまだ生まれておらないし、フィールジyグは五、六歳の童児である。デフォーはおったけれども、一七一九年に『ロビンソン・クルーソー』を書いたまでは政治上の著述のみをしておったから、この時に出版になっておったものはスイフトの『テール・オフ・ア・タップ』くらいのものである。しかも、これは別種に属すべき性質のものである。そこで『ス。ヘクテートー』がはばをきかしたのも無理はない。しかし、二、三年で廃刊してしまって、その相読者が容易にあらわれなかったのは、やはり時勢よりも進歩しすぎておったにちがいない と、ゴスなどは評している。  このほか、当時の文学者で新聞事業に従事したものはずいぶんある。現に、フィールジyグは 『ツルー・。ヘトジオット』という新聞を発行しておった。スモレフトは『ブリテーン』の主筆であった。ジ・ンソンでさえ議会の傍聴録を書いたという話がある。もっとも、この時分は毎日議会へ傍聴に出かけていって、翌日これを紙上に掲載するような簡便法はなかったので。どうするというと、閉会後になってからいいかげんに胡乱な弁論をつなぎ合わせて、ばくぜんたる報道をなすにきまってかった。ところが、『ゼントルマンス・マガジーン』を発行したケーブという男が、くふうをして一改良を企てた。その趣向はというと、開会中に二、三の社員を院内に忍び込ませる。いっしょうけんめいに演説を傍聴する。散会後近所の酒屋で一ロ飲みながら聞いたこと を文章につづって草稿を作る。その草稿を心得のある人が改京をして新聞に掲載をするという手 はずにした。ジョンソンはケープのためにこの心得のある人としていけどられたのである。そこで、先生は多年の間草稿を受け取ってはむさくるしい天井裏に潜んで傍聴録を訂正した。ジ’ンソyともあるべきものが、かようなくだらぬことで糊口しなければたちゆかんというは情けない話であるが、情けない中にも愉快なことがあったので、ジョンソンは人も知るどとくがんこなト 5=\ —派のひとりである。このがんこな先生が議院のけんかを自由自在に書こうというのだからおもしろい。先生はいつでもトリ1が勝ってホイッグが負けたように作りかえたそうである。まずかくのどとく、だいぶ文人も新聞に従事はしたが、これは文人の資格で従事したのではなく、いわば筆で世渡りをするために文学に緑のないことをして暮らしておったと言ってもさしつか丸ない。  それから五十年ばかりは別段のこともないが、下って一七六九年一月二十一日に一種の怪物が突如としてフブリック・アドバータイザー』の紙上に現われた。この怪物はみずからジュニアスと名のっているが、その正体はだれも突き止めた者がない。ただ、毎日紙上に出現しては当時の名門要路の者どもをだれかれの容赦なくかたっぱしから攻撃するのみである。その攻撃の方法 は、皆手翰体にして当の敵に与えたもので、もとより政治上の議論と人身攻撃を合併したるにす ぎないが、その文章がいかにも犀利直截で、かつ縦横排摺の勢いがあるというので、新紙の売 り高を倍菰したのみならず、現今にいたるまで文学史中の一著述と目されている。ところが、ま 丸にいうとおり、その作者がどうしてもわからない。政府でもこんなものが践凪しては治安妨害 だというので、種々の方面から物色するがわからない。世間はまた好奇心にかられて、ありとあらゆる探索をしたがわからない。ジュニアスはみずからその文中に、余が秘密箱は奈一人なり、 しこうして余とともに滅するものなり、と公言しておるが、はたせるかな、この秘密箱を打ちあけたものがない。まずいろいろな方面から観察をくだして、サー・フィジップ・フーフンシスと断定するものが多い。また、ある人は、さようではない、これはまったくテyプルのいたずらだとも言っている。どちらにしても日本人に関係はたいが、文学者と新聞という問題には関係があるから述べたまでのことである。  十八世紀の末から十九世紀のはじめは、英国文学史中もっとも多事のときである。新派勃興の ときである。従来の巣窟を打破して新機軸を出そうというので、ウォーズウォースとコルジッジ が相談をして、『ジジカw・でフッズ』 (一七八九年)を出版して、満天下を相手にけんかをかったときである。この文運隆盛の期に際して、あまたの文学者が必然の勢いからだんだん新聞雑誌に接近してくると同時に、新聞雑誌も漸々文学的に傾いて、評論はもちろん、詩歌小説にいたるまでがこの利器をかって世間に紹介さるるようになった。その勢いは浩々として今日まで進んできたが、どうも退くけしきがない。それゆえに、何新聞にはこれが出た、何雑誌はこれを載せたといちいち指摘する暇もないし、また実際のところ書いている当人もそうくわしいことは知らないから、まずざっと一つ二つかいつまんで述べよう。  まず新聞のほうからかたづけよう。この時代に新聞に従事した文学者の中には、ぐスジットがいる。『モーニング・クロニクル』に戯曲の評論を連載したことがある。・フムもいる。一節六。ヘンスの割で『モーニング・ポスト』に筆を執ったことがある。コルリッジもそのひとりである。この人についてはおもしろい逸話がある。『モーニング・クロニクル』に関係しておった時分のことだが、ある日社長から、議会へ傍聴に行って、ピ″トの演説を筆記してこいと命ぜられた。コルリッジは早く席を取ろうと思うて、朝七時ごろから出かけていって、ようやく楼上に座を占めた。占めたことは占めたが、待てども待てども演説が始まらない。そのうちに疲労とたいくつのため眠けがさして、とうとうピットが立って演説をするという十分ぽかりま丸にぐっすりと寝込んでしまった。やがて拍手の音に驚いて目をさましてみると、今演説が終わったので、諸人がかっさいをしているさいちゅうであったから、肝心の文句は一言も聞き取らなかった。しかし、わざわざ演説を聞きに来て寝てしまったでは役目が済まないから、しかたなしにでたらめな想像をもって筆記を作りあげて、そしらぬ顔で新聞へ載せた。ところが、この筆記が非常にりっぱなできであって、ピットの演説ももちろんみごとなものであったけれども、コルジッジの筆記にはとうてい及ばなかったくらいである。しかし、世間は何も知らないで、新聞どおりのことと心 得て、しきりに評判が高くなった。ときにカンニングという人が『モーニyグ・ポスト』の綴集局へ遊びに来て、話のつぃでに、ピットの演説をたぃへんほめた。それまではよかったが、つい口をすべらして、あの筆記者は記憶力よりも脳力のほうがよほどよいように思われるとぃったので、とうとう筆記のにせものであるということが露見してしまった。  それから、雑誌のほうでぃうとドタイyセーの『オピアム・イーター』、マコーレーの『ミルトン』、・フムの『エリヤ』などが続いて掲載されるようになって、その機関も従来のようなつまらない安っぽいものとは同日に談ぜられぬものが漸々起きてきた。まず一八〇二年には『エジンバーフ評論』ができる。一八〇九年には『クォーターレー評論』ができ、その他にも『ブーフックウード雑誌』『ロンドン雑誌』などというのが、だんだんぃろぃろな文学者の創作や批評を世間に紹介した。なかんずく、もっとも目だって見えるのがエジンバーフとクォーターレーである。これはその主筆が新派のーフム、nエントなどとまったく相ゆるさぬ守旧派の批評家であって、当時の名家をむちゃくちゃに評隅したためである。とりわけて、エジyバラは激しかった。バイロンでも、ウォーズウォースでも、スコットでも、十八世紀の新詩人ともぃうべきものは接辞頭から罵倒しさってどうも怪しまなかったのは驚く。今では英文学を修むる者のほかにはあまりジェフレーやギフォ ードの名を口にせぬけれども、当時はたかなかの勢力で、みずからもまた批評界の大王をもって任じていた。きのどくなのは作家である。ことに、気の弱い作家である。せっかくのたんせいも苦心も、これらの口にかかっては三文の価値もないようにけなされてしまう。キーツの『エンジミオン』を、『クォーターレー評論』でこういうふうに評したことがある。「この男はきのどくだが新派のひとりとみえる。新派とは、最も矛盾したる思想を最も奇怪なる言語であらわす一派をいう::」また、『ブーフ″クウード』では下のごとくに酷評を加えた。「貧乏な詩人よりも、貧 乏な薬屋のほうがましだろう。どうか詩などはやめて、丸薬でも丸めてかってもらう」平沢な るキーツは、これかもとてついに肺病にかかったという人もある。それはクーパーが文官登用試験に心配して気違いになったというのと一般で、少々うがちすぎた話であるが、とにかく当時一派の批評家は自分の目のないのを知らないで、むやみに作家にあたりちらしたのである。これと同時に、またカー・フイルなどという強情者が出てきて、ジェフレーの言うことを聞かなかった話がある。カよフイルがバーンスの論文を草してジェフレーに見せたときに、あまり放縦荒誕だというので、半分ばかり削って残る半分に潤色を加えようとした。すると、カークイルが承知しない。出さないならまるで没書にするがいい。出すくらいなら皆出すがいいときめつけた。そこ で、ジェフレーもしかたがないから、世間でどんな冷評があるかまず危険を冒してやってみようというので、とうとうそれなりで出した。これが今伝わっているバーンスの伝である。  雑誌のことはこのくらいにして、また新間にもどって少し述べよう。この時分『タイムス』新聞がはじめて起こった。これはジョン・ウォルターという親子の尽力で成立した新聞であるが、最初の主筆がスト″ダートであった。このストッダートが退社するときに適当な後任がない。い ろいろに詮索したあげく、ついにサウシーのところへ持っていって、どうかスト″ダートのあと を引き受けてくれまいか、と頼んだ。その時の条件には、まず年俸が二千ポンドで、それに利益配当をつける。仕事は一週に三、四回論説を書くばかりで、あとはただ社の方針に関して一般の監督をしてくれればよいということであった。しかるに、サウシーは条件も何も聞かぬさきから、まっぴらごめんだといって断わった。あとがら中間に立った周旋入に紙面をやって、たといどのような報酬を受けても、田園の居宅を捨ててしなれた勉強をやめる気はない、と書いた。もっとも、この入は雑誌には投書をしておった男で、この時の収入は年に七、八百ポyドのものであったという話だ。『タイムス』の主筆となるは総理大臣よりも名誉だというのは現今のことわざで、当時には適用できぬとしたところで、この時分でも『タイムス』は非常な勢力を有して いたのである。いちじ他の新聞がどうかして『タイムス』の覇権を奪ってこれを圧倒してやろうと企てたことがある。すなわち、投書家、通信者、編集員をこぞって『タイムス』にまさるとも劣らぬ人のみを収集しようという計画をたてて、金銭に目をくれずに俊才を網羅し始めた。すると、金の威光は恐しいもので、今まで『タイムス』に関係していたものがちらちらと裏切りをレで、味方に駆け加わるようになったから、これならだいじょうぶと勇んでみたが、根っからつまらなかった。人間もそろうし、論説も雑報も『タイムス』ょりまさっているにもかかわらず、 『タイムス』は依然として新聞世界を潤歩して、せっかくの経営惨恰も、なんのききめもなかっ た。すなわち、実質はどうでも、お株で売れますという地位に達しておったのだから、ほかの新聞とは新聞が違うという新聞であったのだ。その宝筆になってくだされと手をさげて頼みに来だのを、サウシーは苦しがりが割前のしばい見物を断わるように、むぞうさに謝絶したのである。これも一風な男といってもよろしかろう。  いま一つ新聞についておもしろい話がある。このころ『モーニング・クロニクル』にときどきディ″ケンスの投書が出たが、原稿料が安すぎるというので、ディ?\ケンスが不平を鳴らしだして、その極は断然投書をやめて、自分でひとつ新聞を発行してみようかという気になった。ディ ?Nケンスといえば当時名代の文人である。そのディッケンスが主筆というふれこみならば、成功 はツチをもって地を打つよりも確かなことである。そこで、腕のきいた人物を招刺し、巧者左程 訪を雇い込み、主筆の給料は二千ポンド、・以下これに準ずるというわけで、すっかり準備ができ上がった。まず室内には銀製の墨つばにローズ樹の卓を控え、参考用の書物はロシア皮の表装に金の緑を取り、小使い、給仕には一様の仕着せをきせて、ちょっと主筆に手紙を渡すにも銀盆に載せてうやうやしくたてまつるというような、まるで御殿ふうの仕掛けであった。それでT八四六年正月二十一日に、いよいよ『デイレー・ニュース』の初号が発刊になった。その論説欄には、主筆ディ″ケンスみずから筆を執って、読者諸君に告ぐという嗣目べわが新紙の目的は天下の弊風を一洗し、社会の害毒を損絶して万民の幸福脊強固にするにありと、豹々とたいした勢いで述べたてた。物事がこれまで運んで、順当に進歩すればそれぎりのことであるが、そうまいらなかったからかかしい。まず初号から十号まではよかったが、いよいよ十一日めに万民の幸福を強固にするという意気込みの大将が、詳易降参の体で社主のところへ辞職届けを出して、自分はとうてい主筆は勤まらない、ぜひきょうかぎりごめんをこうむる、むりにやっていると忙殺されてしまうから、という侑儀であった。社主も驚いた。せっかくあてにして事業を興した発頭人 が、十日だつかたたないのに、論説を書かないで辞職願いを書いたのだから、ひととおりのろうばいではない。ようやくジョン・フォスターをあとがまにすえて、ディッケンスは書信を紙上に連載するという契約で、世間へはやはり『ピクウイク』の著者が主筆である体に装うて、やっといちじを糊塗しさった。しかし、ディ″ケンスはどうもロyドンにおっては新聞が苦になってたまらなかったものとみ丸、そうそう行李を理して、颯然とジュネーヴをさして旅行をした。この旅行先で書きはじめだのが、有名な『クリスマスカロル』である。  まずこのくらいなところで結末としよう。この稿ほきわめて乱雑であるが、一括していえば、はじめの新聞紙は皆政治的のらのである。政治的でないものも、文学的趣味に乏しかったのである。それがだんだん発達して、あらゆる種類の文学が新聞雑誌のやっかいになるという時代になった。これにつれて、文学者と新聞雑誌との関係がようやく密接になってきて、現今では文学者で新聞か雑誌に関係を持たないものはないようになった。というのが一編の主音である。                            (明治三十二年四月二十日『ホトトギス』)