独歩氏の作に低徊趣味あり 夏目漱石  余は個人として国木田独歩氏を知らぬ。西洋から帰って六年になるが、帰った当時は、ほとん ど日本の文壇の様子を知らなかった。どんなものがはやっているのか、なんぴとの作物が歓迎さ れているのか、雑誌などの種類でも、どれが文芸雑誌で、どれが商業雑誌だか、そうしたことは まったく知らなかったのである。そのうちに、家に来る若い学生などの話に聞いて、少しは文壇 の消息がわかるようになった。しかし、独歩氏については知らなかったのである。古く新体詩な んかを書いていた当時、独歩氏の姓名だけは知っていたが、小説家としての独歩氏はまったく知 らなかったのである。 ところが、ある日理学博士の|寺田寅彦《てらだとらひこ》氏が来て、『独歩集』を読んだかという。いっこう知ら ないというと、たいへんおもしろいからぜひ読んでごらんなさいという。寺田寅彦氏の『独歩集』 がおもしろいといった意味は、そのころ流行の小説とちがっていて、新しくておもしろいという のである。たしか幸田露伴氏の『天うっ|浪《たみ》』と相前後して出たときだと記憶している。とにか く、寺田氏は非常にほめていた。世間ではこういう小説をなぜ黙っているであろうか、いま少し ほめなければならぬはずだと、しきりに残念がっていた。で、それは余も見たいものだと、さ っそく本屋に行ったがない。寺田氏に借りようと思ったが、あいにく寺田氏も人に貸したままに なって、手もとになかったので、それなり『独歩集』は読まずにしまった。その後雑誌に出たの をときどき読んでいるうちに、第二独歩集といったような『運命』が出たのでさっそく読んでみ た。しかし、その『運命』も全部読んだのではない。その中の三、四編しか読んでおらぬ。で、余 の独歩氏における知識は『運命』における儼部分と、その他諸雑誌に散見したものをほんの少し 読んだにすぎないので、余の独歩氏に対する知識というものはきわめて浅い。で、他の独歩氏の 作物を全部遺漏なく読んだ人や、また、幾度でも繰り返して読んだ人々のような批評もできるわ けもない。それに、読んでから時日もたつし、また読むときにも、今日あるを予期して読んだわ けでもないから、どうも記憶がきわめてぼうばくとしている。読んだ当座まだ印象の新しいとき にしたところが、おもしろいと感じたところでも、批評するとなると、そのおもしろいという感 じを言い表わすために、むりにことばをくふうして、実際自分のおもしろいと感じたその感じと はかけ離れたことばを使用して、批評は虚偽になりやすいものである。まして、漫然読んだ作物 の古い記憶を呼び起こしていうのだから、とても完全な批評などということを期することはでき ない。で、そのことはあらかじめ断わっておかねばならぬ。 『運命論者』はおもしろいと思って 読んだ。実際おもしろいという感があったじしかし、そのおもしろいという感じは、愉快という 感ではない。ただ、奇であったのだ。あの作物が自然派の作物であるかどうか余は知らぬが、 『運命論者』を読んで得た感じは、ちょうどスチブンソンを読んで得た感じに近い。スチブンソ ン、プラスあるもののお竜しろいというのは、ただ、奇でおもしろいのである。スチブンソンの 書いた作物はとっぴである。しかし、 『運命論者』の作者は、この作物を、ただ奇で書いたもの ではない。千人中ただひとりあるかないかというような、最も珍しい事件を借り、その事件によ って、人生のあるものを言い表をてうとしたので、スチブソンの作物とは、その趣がたいへんち がってくる。しかし、スチブンソン、プラス、ニッキスのほうをいうのではない。わたくしの今 おもしろいといった意味は、この『運命論者』の中に現われたところのシチュエーション、すな わち主人公の境遇および所為に、ロマンチック・エアを帯びているそのことがおもしろいといっ たのである。それはエッキスのほうにもおもしろいところがあるにはあるが、余は世間でいうほ ど、大なる価値を認めていない。この『運命論者』プラス、サムシングについては、あまり感服 することができないのである。  次に今余の記憶に残って明らかなるは、『巡査』だけである。『巡査』はただ巡査なるひとり の人問を描き出したもので、その巡査がよく出ている。この編のおもしろみはちょうどチェホフ かだれかの書いたもので『爺』というものがある。その『爺』のおもしろみが、『巡査』のよう なああしたおもしろみである。巡査なら巡査、爺なら爺を表わしたのは、巡査がどうしたという ことを書いたものではない。爺がどうしたということを書いたものではない。ただ巡査なる人は こういう人であった、爺なる人はこういう人であったということを書いたにすぎぬ。そこがおも しろいのである。巡査なら巡査についての観察を書いたものだからして、まえの『運命論者』と はそのおもしろみがちがう。余のことばでいうと、こういうものは低個趣味という。巡査がどう して、それからこうしたというように、原因結果を書いたものではない。その巡査があしたはど うなっても、あしたのことはかまわない。ただ、巡査そのものに低侶していればいいのである。 小さんが酔漢の話をする。聴者はその酔漢の話をただ楽しんでいればいいのである。その酔漢が あしたの朝になってどうしたとか、こうしたとかいうことを聞く必要はない。聞かなくても、酔 漢そのものの所作行為に楽しむことができる。すなわち、筋とか結構とかいうものがおもしろい のではなくて、 一酔漢なるものに低個して、その酔漢の酔態を見るそのことに興味あり、おもし ろみあるのである。それを余は低掴趣味という。普通の小説は、筋とか結構とかで読ませる。す なわち、その次はどうしたとか、こうなったとかいうことに興味を持ち、おもしろみを持って読 んでいくのである。しかし、低徊趣味の小説には、筋、結構はない。あるひとりの所作行動を見 ていればいいのである。 『巡査』は、巡査の運命とかなんとかいうものを書いたのではない。あ るひとりの巡査を捕えて、その巡査の動作行動を描き、巡査なる人はこういう人であったとい う、そこがおもしろい。すなわち、低徊趣味なる意味において、『巡査』をおもしろく読んだの である。  余は高浜虚子氏にその話をしたことがある。ところが、虚子氏は『巡査』はきらいだという。 おもしろくないという。あの叙述が自然でない、ど5もこしらえたもののように思う、不自然で あるという。しかし、わたくしの読んだときには、別にそんな感じはしなかった。 『酒中日記』は、人はほめていたようだが、わたくしはあまり感服しない。一口に|忌憚《きたん》なく言っ てしまえば、要するに不自然なところが多いように思われる、では、どこが不自然なのかと問わ れれば、いちいち本を繰ってお話しせねばならぬが、不自然なところが多いために、読みながら 感興が乗らなかったように思う。 『竹の木戸』は悪いとは思わぬ。しかし、あれが近来出る他の人々の短編をぬきんでておもしろ いとは思わぬ。ことに、独歩氏のために、ほめるほどのものではない。批難をいうと、あのお源 とかいう女が、終わりに首をくくるのは不自然だと思う。かえって殺さないほうが自然である。 もし殺すなら、いま少し緊張さして殺したほうがよかろう。                             (明治四十一年七月十五日『新潮』) 229