文学談片 夏目漱石  もしわれわれが小説を書いて実際の世の中を見るような心を読者に起こさしめんと務むるに は、小説中の事件が自然にして、人物の性格がまた自然に発展すベきはもちろん、同時にまた背 景を描くことも必要である。|背景《パツクグヲンド》は小説中の人物の働く舞台であって、人物を囲んでる四辺の 光景である。小説はもとより人間相互の|葛藤《かつとう》、あるいは情交など、有形無形のできごとを写せる に相違はない。が、そのでぎごとたるや、雲の中で起きるのでもなければ、ボイドの世界に出現 するのでもなく、地上にこの人間社会に起きる現象の一局部である。ゆえに、小説を書いて全編 が活動するためには、ぜひとも社会そのものを写し、その活動してる社会の中から肝腎の要件と なる筋がおのずからわきだすように書かねばならない。もし社会の中からして自分に入用なだけ の事件を切り離し、引き離して、他の物は皆捨ててしまい、ただ筋だけを紹介するのは、小説の 筋そのものを了解するためには便利であるかもしれないが、社会そのものの一部の反照としては 見られない。したがって社会一般の景況が眼前に浮かぶという点においてはすこぶる拙なやり方 といわねばならない。たとえば、さかなから骨のみを切り出して示すようなもの4、、動物学者が さかなを知るにはこれが必要かもしれないが、生きたさかなを知らんとするには肉あるさかなを 見なければならない。  文学は|吾人《ごじん》のテーストのエキスプレッション(発表)である。すなわち、|好悪《こうお》を表わすもので ある。今吾人が世の中に住み、好悪を投げ出して外物に付着するりての対象を数えたつれば、無数 にして、これを数うるだけでも吾人のテーストの変遷を知ることができるほどである。要するに、 これは二つに帰する。すなわち、天然と人事とである。  さて、吾人が人事についてわが好悪を表わさんとすれば、これがいかなる種類に区別せらるる か、というに、わたしはこれを,○。。三奉と乞の00筌希との二つに分ける。勺8三きはテースト の一面、すなわち自分の好きな方面を表わす。一言にしていえば、満足をあらわす文学である。 この勺○。。三菷面の方を分けてまた二つとする。そのーは現在を本位とするもの、現在の社会、現 在の人間、現在の状態に満足するもの、これは人々がおのおの分に安んじて太平を|謳歌《おうか》すベき国 運の際か、または反対の時代、すなわち神経がまひして憂患を感じないときか、この二つとな って現われる。かくのごとき満足を表わす文学は、ときとしては風刺と誤らるることがある。た とえぱ、|膝栗毛《ひざくりげ》のごとし。思うに、徳川時代の文学の不平が現われてこっけいとなったのではな く、みずから失敗をしてそれをおもしろく興ずるきわめて陽気な文学である。すなわち、ポジチ プ(積極的)のものである。それにもかかわらず、この種の文学は学者や批評家の着眼のしかた によっては風剌と取らるることがある。これは個人においてもしかり、たとえばかつらをかぶっ て花見をするようなものである。よそから見ると風刺とも見えようが、なんぞはからん、当人は 天下太平のなぐさみなのである。ドン・キホーテのごときもこの種類に属する。次は 崑8夛ヨ の文学である。現在の人間、社会の状態には満足ができないが、しかし自分に理想とするところ があって、これを実現するために言い表わす文学である。要するに、これも自己のテーストを表 わすものである。たとえば、ここに作者があって、現社会より見れば人が罪悪となすものをよし と思い、当事者に同情を寄すると仮定する。すなわち、かれは現社会の制度に不満足の意を示す ため、裏面より当事者に同情をよせてこれを弁護するのである。さて、第二の2。甓一一く。をもっ て好悪を表わすもの、これにおいては(勺8三おにおいて好きを表わすごとく)ただ|厭悪《えんお》の情を 表わす。この傾向は破壊的である。建設的でない。ゆえに、ネガチブ(消極的)方面というのであ る。これを次のごとく区別する。第一は自分のいやなものを正面より攻撃する男らしき発表、デ イッケンスが悪人を描くはこの|筆鋒《ひつには り》にてまともに手ひどく当たっている。第二は丁寧な|嘲弄《ちようろう》、こ れはどこまでも礼を失わず、ときどき気味の悪いスマイル(笑い)をする。アジソンのごときは これである。ちょうど御殿女中の悪口のようなものである。第三は現在に不満足を有しながら も、その不満足な人あるいは社会に同情を寄せるもの。そして、第四は顔をあかめて不平を鳴ら すような幼稚なものではなく、同情なき冷酷の目で浮き世を見くだして平然とこれをののしる。、 痛切にして深刻なる厭悪の声である。  一般に作者と読者との関係を見るに、作者は非常に苦心して練っ`書いても、批評家や読者は これをむぞうさに読んでしまって、別に心もとめぬ、しかるに、ときとしてはこの反対のことが ある。たとえばシェクスピアのごとくとんじゃくなしにすらすらと書いたのまでも、これに理屈 をつけておのおの説明を異にする。理屈はどんなにでもつくものである。が、文学諧してはなん たびも読んで読んで考えねばわからぬようなものは、あまり多くつまらない、シェクスピアなど も初めよりベリオラムをたくさん出してくれる人があろうとは思いもかけなかったであろう、  (右は夏目氏の談話を摘要したるものなり。××生) (明治三十九年六月十日『中学世界』)