絵画に impressionist というのがある。これは Turner が元祖である。Turner 自身 でこういう一派を創設主唱したのでもなければ、この時代の人からそう認められていたのでもな い。ただずっと後世になって、かかる一派が事実上認められるようになり、遠くその系統をたど り、その根源にさかのぼってみると、この人に帰着するというのである。
伝統はとにかく、インプレッショニストの特色は、いかなる色を出すにも間色を用いぬという
ことに帰着する。かれらの考うるところによれば、すべての色は主色の重なったもので、混じっ
たものではない、という立脚地から出立する。したがって、近寄ってはなんだかわからぬが、立
ち離れて一定の距離から見ると自然の色彩を感じうるようにかきこなす。その方法は、あらか
しめパレットで顔料を混じて、その混じたものを画布に塗りつけるのではない。単純なる主色 (pure
tones)を一色一色にじかに
文章についても同じことが言えると思う。すなわち、文章のうえにもまたインプレッショニス
トがある。文章も、ある見方では、余のことには目をつけずに、ちょうど絵画に関して画家がそ
の仲間で絵をほめ合うごとく、技術そのもののみをほめるようなことがある。ある意味からいう
と、そういうのは、現在の写生文家が互いにほめ合うているところである。すなわち、今の写生
文家の立場からいうと、要するに何を書こうがかってだ、ただその叙し方さえ巧みなればよい。
極端にいえば、車夫馬丁のだじゃれでも、馬がへをひったことでも、犬が
およそ世の中のことは、発達するにしたがい単純から複雑になる。本来をいうと、文章もどこ までが思想で、どこまでが技術かわからぬほど単純なものである。ところが、漸々人が文章を縦 に見たり横に見たりしてこねまわしているうちに、おのずから実質と技術とが分かれるようにな ってきた。同じものが分かれる訳はないが、人間の目のつけどころが複雑になると、一つのもの をいろいろに差別してみることができるから、こういう現象が起こるのである。たとえば、形と 色との関係のようなものだ。一の物体についていうと、そのものから色を取ればその形はなくな る。その形をとればその色はなくなる。二相帰一、色は形で、形は色である。しかし、人の知識 が進むにしたがい、アナリシス(解剖)ができるようになるから、このわかつことのできない色 と形とをも、仮に分けて見ることができる。同一物体から色だけを抽象し、もしくは形だけをぬ いて見ることができる。それと同じことで、文章も実質と技巧とを分けて見ることができるよう になる。ある人は技巧のみをぬいて見るし、ある人は実質のみをぬいて見る。すなわち、前者後 者の区別から、 form (形)に重きを置く技巧派と、 matter (質)を主とする実質派とも名づくべ き二流派を生ずる。しこうして、前者は現今の画界におけるインプレッショニストと同傾向のも のである。
Art of art
は、文章もしくは絵画をかく分解してこれを技巧的にのみ観じうるほど、
前述のしだいだから、いわゆる写生文は現今の社会からはすこぶるけいべつされて、なんらの 価値もないもののように言われているにもかかわらず、自分はそうは思わぬ。日本人の全体、今 のいわゆる小説家などの多分の思うごとく、写生文は短くて幼稚だというのは誤りで、幼稚どこ ろか、かえって進歩発達したものというてもしかるべきことと考えている。否、むしろ発達しす ぎてその弊に陥ったもの、一方の極端に走ったものと思う。すなわち、実質そのものはどんな平 凡なことでも、写す技巧さえ確かであればかまわない。平たくいえば、事がらはおもしろくない が叙述はうまかろう、という傾向になっている。それだから、ある人は大いに感服すると同時に、 大いに不満足なのだろうと思われる。
議論の原則としては、技巧で書いたものは技巧を見る。趣向が主なら趣向を見る。人情の機微 を写したものなら人情の機微を見る。ただ極端に走り、余弊に陥った今の写生文家は、趣向、結 構(composition)、筋、しくみ(plot)を考えなければならぬ。
技巧派の弊がこのへんにあるに対して、実質派の堕落の一は、ただ筋を運ぶよりほかに何も知 らぬことであろう。その筋もおもしろければだが、つまらぬ人情話を容赦もなく運んでいく。ま るで地図を開いて見ているようだ。あるいは造船の設計をながめているようだ。
文章上について、こんなとっさの際に思ったことを述べるとよく尽くさぬことがあるので、し ばしば人の誤解を招くことがある。この議論でももっと秩序をたてて長いものにして、はっきり と納得のいくようにしなければならんが、座談だから、そううまくはいかん。だいいち、考うべ きことは、文章において考うべき条項は何と何であるか、それから詳しく考えて、そうして相互 の関係を論じてみなければならん。しかるのち、小説でも戯曲でも完全な批評はできるのであ る。現今の批評というものは、ごうも系統的でない。おのおのかってしだいに気のついたことを いいかげんに並べるばかりである。そのかわり、どれも機械的でない。そこがたのもしいところ で、そうしてまた科学的でないところである。