文芸とヒロイック　夏目漱石

　自然主義ということばと、ヒロイックという文字は、仙台平のはかまと|唐桟《とうざん》の前掛けのように
かけ離れたものである。したがって、自然主義を口にする人はヒロイックを描かない。実際そん
な形容のつく行為は二十世紀にはないはずだと、頭から決めてかかっている。もっともである。
　けれども、実際世の中にない、または少ないという事実と、ばかげている、こっけいであると
いう事実とは違うべきはずである。われわれの見渡した世間にそう目につくほどごろごろしてい
ないもののうちには、常人さえ|唾棄《だき》して顧みなくなった(したがって存在の権利を失った)のもた
くさんあるだろうが、貴重なため容易に手に入りかねるの冬、ずいぶんあるべきわけである。ヒ
ロイックは後者に属すべきものと思う。
　自然派の人がめったにないからという理由でヒロイックを描かないのは当を得ている。しかし
めったにないからという言辞のもとにヒロイックをけいべつするのは、論理の混乱である。この
派の人々は現実を描くという。そうして、現実暴露の悲哀を感ずるという。客観の真相に着して
主観の苦悶をおぼゆるという。いちいち賛成である。けれども、この苦悶は意のごとくならざる
事相に即し、思いのままにいかぬ現象の推移に即し、もしくはかくあれかし、かくありたしとの
希望を入れぬ自然の機械的なる進行に即して起こる矛盾|朴格《かんかく》の意にほかならぬ。言いかえれば、
客観の世界が主観の世界と一致を欠くがためである。現実がわれに伴わざるの恨みである。また
言いかえれば、わが理想がわが頭の中に孤立して、世態とあまりに没交渉なるがためである。冷
刻なる自然がわが知識と、情操と、意志を|侮葭《ぶべつ》して、かってに、おうちゃくに非人間的に社会を
動かしていくからである。
　自然主義者のいわゆる主観の苦悶をかく解釈するとき、理想の二字をかれらの主観中より取り
去ることは困難とならねばならぬ。広義における理想をいだかざるものが、自己または他人の経
過した現実を顧みて、これ弄.悲しむの必要もなければ、これにもだゆるの理由もないはずである。
　ひとたぴこの論断をうけがったとき、かれらはかれらの主観のうちに、またかれらの理想のう
ちに、かれらの平素排斥しつつあるがごとく見ゆる諸々の善、諸々の美、またもろもろの壮と烈
との存在をうけがわねばならぬ。したがって、ヒロイックはかれらの主張せんと欲して、現実に
見いだしがたきがために、これを描くをはばかり、もしくはこれを描くを恐るる一種の行為とい
わねばならぬ。
　かれらにしてもし現実中にこの行為を見いだしえたるとき、かれらのはばかりも、かれらの恐
れも一掃にしてぬぐい去るをうべきである。いわんや、かれらのけいべつをや虚偽呼ばわりをや
である。余は近時潜航艇中に死せる佐久間艇長の遺書を読んで、このヒロイックなる文字の、わ
れらと時を同じくする日本の軍人によって、機械的の社会の中に|赫《かく》としていちじに燃焼せられた
るを喜ぶものである。自然派の諸君子に、この文字の、今日の日本においてなお真個の生命ある
を事実のうえにおいて証拠だてえたるを賀するものである。かれらの脳中よりヒロイックを描く
ことのはばかりと恐れとを取り去っ,て、随意にこの方面に手をつけしむるの保証と安心とを与え
えたるを慶するものである。
　往時英国の潜航艇に同様不幸のことのあったとき、艇員は争って死を免れんとするの一念か
ら、いっしょにかたまって水あかりの漏れる窓の下に折り重なったまま死んでいたという。本能
のいかに義務心より強いかを証明するに足るべき有力なできごとである。本能の権威のみを説
かんとする自然派の小説家は、ここに好個の材料を見いだすであス'う。そうして、ある手腕家に
ょって(この一事実から傑出した文学を作り上げることができるだろう。けれども、現実はこれ
だけである。その他はうそであると主張する自然派の作家は、一方において佐久間艇長とその部
下の死と、艇長の遺書を見る必要がある。.そうして、重荷を担うて還きを行く獣類と選ぶところ
なき現代的の人間にも、またこの種不可思議の行為があるということを知る必要がある。自然派
の作物は狭い文壇の中にさえ通用すればさしつかえないという宙殺的態度を敏らぬかぎりは、か
れらといえどもまた自然派のみに専領されて"ない広い世界を知らなければならない。
　病院生活をして約一ヵ月になる。人から佐久間艇長の造書のぬれたのをそのまま写真版にした
のをもらぞ、床の上でその名文を読み返してみて、『文芸とヒロイック』とい三編が書きた
くなった。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　(明治四十三年七月十九日『東京朝日新聞』