文学雑話 夏目漱石  なんですって?『|虞美人草《ぐぴじんそう》』ですか。ははあ、あれに表われたラブが近代的でおもしろいとい うのですか。別にそういうつもりで書いたわけでもありません。格別新しいこともないでしょ う。そうですね、近ごろのものでラブを書いてよくできているのはいろいろあるかもしれないが、 わたくしの好きな一つをいえば、ズーデルマンの『カッツヱンステッヒ』(猫橋)ー英訳では女 主人公の名を取って『レギーナ』といっているーの書き方です。あれはたいへんうまい。レギ ーナは無学文盲なほとんどヴァージニティ(貞操)とはどんなものかということも知らぬくらい の女で、日本でいえば房州あたりの、船頭かなにかの娘ぐらいなものでしょうが、それと、いま ひとり教育ある男とが、ある事情のために社会から隔離されて、一つ屋根の下に|共棲《きようせい》している。 だから、まったく交際はない。外へ出れば両人とも迫害を受けるくらいのものです。それで、こ の女がただひとりでその男の世話をせねばならぬという特別なシチュエーションに置かれてあ る。もちろん、身分のかけ離れていることからして、男のほうではシンパシーさえも持ちえない。 女のほうではラブという字義さえ知らない。この両人の間のできごとである。詳しくいうと、女 は全然野性のままで、ある意味からいうとけだものに近いところがある。それでおもしろいこと には、まったくインノセントである。というのは、.操を汚すことなどは、いくらやっても良いこ ととも思わないかわりに、悪いこととも考えない。善悪を超越している。したがって行為上他人 から見れぱ堕落しているが、事実上本人からいえば純潔である。ほんとうの自然のままで、修養 とか学問とか見識とかでちっともモディファイされておらぬ。その獣的な自然のままのうちに、 女はただ一つの暖かいハートを持っている。ハートがつまりあらゆる行為のモーチブ・フォース (動機力)で、一挙一動これに支配せられて、しかも、その発動の目的物はこの男のほかにない。 けれども、夫婦になろうという成算のあるでもなく、またラブとも自覚しない、ほとんど無意識 に世話をせねぱならぬ、男にコンフォート(慰楽)を与えたいというだけの考えで、情愛の強い、 人情のある方面に非常に活動している。そこで、昔の小説にもよく貴人と平民の恋はある。かの グリセリダの話などもそれであるが、そんな場合にわれわれの目には単に身分の懸隔ということ だけが映ずるばかりで、身分のインフィリオリティーに従って起こる事実上のイグノランスとか ブルータリティーとかはまったくネグレクトされている。ちっとも書いてない。しかし、ズーデ ルマンのにはこれらをことごとくあるがままに、備われるがままに書いてある。その点が新しい。  そして、その書き方・こういうシチュエーションにあるふたりのラブの書き方がおもしろ い。男にはシンバシーがなく、女にもラブがないーあるいは無意識に働いているかもしれぬが ーそれがおいおいに動かされていくプロセスをうまく書いてある。口でいうとわけのないよう なものの、書くとなると困難なめんどうなもので、とかく不自然になりやすいのはだれも知って いることで、ことに刺激の強い、ほとんどセンセ1ショナルに近い場ばかり並ベてあるにもかか わらず、それが非常にナチュラルで、デベロプメントが層々累々とシフトしていく移りぐあいが たいへんうまい。つまり、わたくしは深さのある小説だと思う。メレジコウスキーのトリロジー  (ピーター・エンド・アレキシスを除く)などは広さの小説で、パノラマのごとく、むやみに広 がっている。エキステンションがある〕 (詳しい意見を述べると、メレジコウスキーはプロット において失敗しているということを説明すべきだが、それは仮によいとして)とにかく広い。ス ケールがジャイガンチック(ぼうだい)である、人物も多く、場所も広い。ルネッサンスという ような一代の傾向を書き表わす0.疋から当然のことかもしれぬが、一方からいうとデップスがな いものとなる。ここにいうデップスがないとは、普通にいう奥行きがない、インナー.、・、ーニン グ(内部の意味)がないとの意味でなく、あまり興味がアクセレレートせられないというのであ る。同じインテレストが加速度を受けてだんだんとインテンシティ1が強くなるのがわたくしの いわゆる深さで、同じインテレストをもって進んでいくからして作にユニティー(統一)がある ことになるりしかし、これはややもすれば単調になりやすい。そこでユニティーもあって、かつ 単調を避けんためには、同じインテレストをもって各編を貫くと同時に、エキザクトリーに同じ インテレストを各章に繰り返してはならぬということになる。すなわち、同じ男女の間のラブ・ アフェーアズでも、毎日出会っているのに同じたわけた話をしてもだめだからして、なんらかの 変化を与えねばならぬ。しかも、それが場所の動かないところであると、どうも単調になる。変 化を与えることが困難だ。しかし、変化ばかりあってユニティーを失ってはいけない。だから、 統一はあって、単調にならず、変化を与えて調子を変えていく。つまり、レぺティションをする ようで、だんだんと新しいところを加えていくという書き方、それがはなはだ困難である。  しかし、そう書いていくと、エキステンションはもちろんない。だから、興味は統一される が、いわば細い水が一本流れいてくようなもので、したがってナローになる。だけども、同じイ ンテレストでも加速度をもってアクセレレートして層々累々に新味を加えていくとなると、そこ に深さが生ずる。 『レギーナ』にはこの困難な書き方で、よほど深さを表わしている。あれが、 その、人里離れたところに男と女をたったふたり|出《 フフ》してあるのだから、周囲も変わらない、同じ 家に住んでいるからして場所も変わらぬ、それでいてずんずん変化していくのが、うまいぐあい に書いてある。で、一方からいえば、これはけっしてオブザベーション(観寮)だけで書いたも のでない、イマジネーション(想像)のプロダクト(所産)に相違ない。ただ客観的に存在してい るものを忠実に写したものでなく、頭でこしらえて頭でデベロプさせていったもので、その発展 のプロセスがたいへんうまい。長谷川さんの『|其面影《モのおもかげ》』などはこの書き方に似たもので、やはり 男女の間で層々累々と関係が密接になり、|邁迫《ひつぱく》していくふうに書いてある。しかも、同じインテ レストを繰り返し繰り返ししていながら、あれだけにあきないものにしたのは、レペティション でなくしてアクセレレートしたからであって、その点がたいへんの手ぎわだと思う。  しかし、こういうふうの書き方が必ずしも良いと思うのではない。また、すべての書き方のう ちでいちばん困難だというのでもない。が、ただ書くとすれば、まえに述べたような点に困難が あるというだけである。同じデップスを表わす書き方でも、むろんこればかりではない。何の小 説であったか、男女ふたりの関係が近づいては離れ、離れては近づくという互いちがいの形式 があったが、これもおもしろい書き方でまたむずかしい。しかしバラエティー(変化)があるだけ に、いくらでも書けるが、離れる一方、近づく一方を書くとなるとめんどうが起きる。ややとも すると同じことが重なるからして書きにくい。ことに、離れているのが漸々近づくほうはなお書 きにくい。というのは、冒頭には読者の興味をひく刺激がないからである。その証拠には、昔の小 説はなんでもかまわず事件のとっぱじめから書きだしたものである。したがって、読者の興味を つり込むまでにだいぶ暇がいる。有名な『エスモンド』などは非常な傑作であるけれども、最初 の二、三十ベ1ジを読みおおせるだけの根気がないと、ついに佳境に入る機会かなくって巻を伏 せてしまうようなことになる。だから、この書き方は事件からいえば自然な書き方だろうが、作. 家からいえばむしろ損なやりくちである。この損を悟って気の短い現代の読者をつり込もうとす るには、ある事件が比較的発展して、大いなるインテレストが|賭《と》せられつつあるまっさいちゅう から書き始めて、最初から読者の注意をひきつけるにかぎる。イブセンはこの方法を利用するこ との最もじょうずな作家である(かれのこの手段に訴えるのは、他にテクニカルの理由のあるの はむろんであろうが。)しかるに、ズーデルマンの『レギーナ』はまったくこの損な方法を取って いる。まるで懸隔した男女を一つところに置いてそれをようやく近づけていくのだから、いいか げんなところから始めるのから見ればずいぶん困難である。それをあれだけうまくこぎつけてい るのは、凡手ではとてもできないことである。 (もっとも、この困難を少なくするために、作家 は他の方法を同時に講じているのはもちろんである。しかし、それは長くなるから述べない。)  え?『虞美人草』の書き方ですか。格別そんなことを考えたのでもないのです。コムプリケー ト(複雑)なラブ・アフェーアズそのものを描いたものとしては、ごく幼稚なものでしょう。ま た、ラブだけを書いたものでもないのですからね。じゃ、ねらったものは何かというのですか、 ーそうですね。ラブも書いちゃいますがね。ラブだけを描くつもりなら、もう少しやりかたも あったでしょう。つまり、あれはね、ラブというものを唯一のインテレストとして貫いたものじ ゃないから、恋愛事件の発展として見るとなかなか不完全です。それならどこが完全かといわれ るとますます弱るわけだが、つまり二つか三っのインテレストの閧係が互いに消長して、それが しまいにいっしょに出会って爆発するというところを書いたのです。書いたのじゃない、書いた つ泓戸りなのです。 ・やはりズーデルマンの『アンダイイング・パスト』になるとよほど妙なラブですね。もちろん、 ラブの関係はまえのとはちがっているが、やはり層々累々の書き方を用いている、これは女が男 を追っかけるのだが、その女のフェリシタスというのには夫がある。|有夫姦《ゆうふかん》になるので、男のほ うでしじゅう逃げようとする。それをーフィジカリーに追っかけるのではないが■追っかけ て追っかけてキャプティベートするしかたがいかにも巧妙に、どうしてああいうふうに想像がつ くかと驚かるるくらいに書いてある。だれもあんなデベロプメントをクリエートすることはでき ない。そうして、この女が非常にサットルなデリケートな性質でね、わたくしはこの女を評して 「アンコンシァス・ヒポクリット(無意識な偽善家)」・ー偽善家と訳しては悪いがーーといった ことがある。その巧言令色が、努めてするのではなく、ほとんど無意識に天性の発露のままで男 をとりこにするところ、もちろん善とか悪とかの道徳的観念もないでやっているかと思われるよ うなものですが、こんな性質をあれほどに書いたものは、ほかに何かありますかね、-おそら くないと思っている。そのかわり、これはドイッのある批評家にいわせると、センセーショナル 尤と非難している。そして、その男は一方に『フラウ・ゾルゲ』をほめている。が、わたくしの 考えではそうでない。『フラウ・ゾルゲ』はただ、一能才の努力になったものとしか思えぬ(あ れが九十版にもなった作とすれば、版を重ねるのは単に流俗の所為だと断言してはばからぬくら いです)。しかし、今言った小説のほうはどうしてもジニアス(天才)のクリエートしたもので すねえ。 『三四郎』は長くなるかというのですか。そうですね、長く続かせるのですね。さあ、何を書く かといわれると、また困りますがね。ー実は、今お話をしたそのフェリシタスですね、これを よほどまえに見ておもしろいと思っていたところが、うちにいた|森田白楊《もりたはくよう》が今しきりに小説を書 いているので、そんならぼくは例の「アンコンシァス・ヒポクリット(無意識なる偽善者)』を書 いてみようと、冗談半分にいうと、森田が書いてごらんなさいというので、森田に対しては、そ ういう女を書いてみせる義務があるのですが、ほかの人に公言したわけでもないから、どんな女 ができてもかまわないだろうと思っています。実際、どんな女になるかも自分でわからない。か つ、今お話しした層々累々的な叙述だけで進むのではなく、エキステンションもはいってくるん だから、女はどうなってもかまわない、というと無責任ですが、できそこなってもズーデルマン などを引き合いに出してひやかしちゃいけません。  なるほどー層々累々の書き方と、わたくしのいう|低個《ていかい》趣味が似ているというのですか。意味 の取り方にもよるが、大きくいえば、ある程度まではどうしてもそうなるでしょう。もし小説を 離れて写生文となると、おもしろみはエキステンションにあるし平面的の興味いわばスペシァル (空間的)の特質がある。小説のおもしろみはむしろ推移的だから、直線をたどるようなものでし ょう、(もちろん、エキステンションも交じってはいるが)。という意味は、すなわちコ1ザリテ ィーをもって貫くということなので、その線の行く先を跡づけて読者は興味を発見する。だか ら、その極端をいうと、まるでエキステンションのない筋書きだけの小説になる。だから、また一 方には写生文だけのおもしろみがあって、小説にならぬものが存在する理由もわかるでしょう。 しかし、写生文はパノラマ的エキステンションがおもで、コーザリティーから出る興味が主では ない。したがって、散漫になりやすい。だから、写生文をバノラマとすれば、小説は活動写真! ーというようなのではありませんかね。  それでまたメイン・カレント(本流)にまったく関係のないエキステンションはだれてしまって 散漫に陥る弊がある。メレジコゥスキーの小説を悪いといったのはすなわちこの点にあるので、 むやみに延長するために、ディフユーズになってメイン・カレントを失ってしまう。そのかわり、 大きいところはあるが、刺激がない。また、一方の直線ばかりになると肉も血もない筋書きにな る。そこの呼吸がなかなかむずかしい。エキステンションが一方の妨害をせぬように、着々と筋 を運んでいかなければならないんでしょう。そこで、わたくしの低徊趣味の講釈を始めるとず いぶん長くなるかもしれないから、まあいいかげんにざっと言いますが、低個趣味の特色はエキ ステンションのほうに属するので、直線を跡づける変化をおもしろがるほうではないのです。け れども、天然自然人事ともに常に活動しているものだから、けっしてエキステンションだけでま にあうものは少ない。まあどんなものを見ても、どんなことを聞いても、移っていくとしなけれ ばならない。から、低徊趣味も理想的にエキステンションだけで満足しているわけにもいかな い。から、こう説明したらいいでしょう。今甲という事相が乙に移るとすると、直線的の興味甘 甲を去って乙になるところが主だから、乙が注意の対象になる。これに反して低徊趣味のほうは 事相そのものに執着するのだからして、興味の中心がかえって甲にある。すなわち乙に移りたく ないという姿がある。だから、この二っの趣味はどうせあいまっていかなければ、完全な趣味の 起きるわけはない。早く甲が乙に変じてくれればよいと思うようでは、甲自身があきられている のだから、作物としてはそこに陥欠がある。と同時に、いつまでも甲に低個するとなると、いつ までたってもらちはあかないことになってしまう。だから、甲にも興味があると同時に甲が乙に 移るところにも輿味を持つというふうでなければなるまいと思う。純粋の写生文や、純粋の筋書 き的小説はこの一方だけを代表したもので、双方とも改善の余地のあるものと考えられる。  こう説明をしておいて、あともどりをして、あなたのさきの質問に答えたらよくわかるでしょ う。あなたが、前述の層々累々的叙述は低個趣味ではないかときかれたとき、わたくしはいくぶ んか低個趣味にちがいないと答えたが、どこが低徊趣味だか、たいていは見当がつくこととなっ た。すなわち、今ここに男女の関係を層々と重ねて描いていくとすると、各章ごとに古い分子と 新しい分子が交じってくることになる。全然新しければ漸次の発展でもなんでもない。また、全 然古ければ前章の繰り返しにすぎない。だから、各章ともに前章のあるものを繰り返すと同時に、 前章にないあるものを付加しつっ進まなければならない。そうなると、その二要素のうちで、新 しいところは前章から脱化した変化であるから直線的に推移の傾向を満足せしめるし、また古い ほうは前章をそのまま重複するのだから、いつまでも一つところに定住して、低掴的に味わいた いという傾向をも満足させる。したがって、この書き方はエキステンションと直線とを合併した もので、ほかのことばでいうと、低徊趣味と推移趣味の一致したものに相違ないでしょう。この 場合におけるエキステンションはむやみに新事相を付加するのでなくて、旧事相の重複なのだか ら、インテレストの統一上最も便宜なものである。それから、この場合における直線推移は一道 のコーザリティーで発展するから、これまたインテレストの統一を破る憂いはない。だから、こ の書き方は深さを生ずる書き方だといったのです。  ○まとまらぬ話ですが、これくらいにしておきましょう。                            (明治四十一年十月一日『早稲田文学』)