夏目漱石 文学談 筆はそうおそいほうではありません。その中でも『猫』などは最も速く書けます。『坊っちゃん』 『趣味の遺伝』などもおそいほうではありませんでした。なんでも学校へ通っていて書いたので すが、さよう『趣味の遺伝』は一週間くらいもかかったでしょう。『坊っちゃん』はその倍ぐら いと思います。『まぼろしの|盾《たて》』『|薤霪菖《かいろこう》などは短い割合には日数がかかりました。たぶん+日 以上かかったように記憶しております。たとえば俳句のようなものを長く連ねて文章を書くとす れば、どうしても速くは書けない道理です。 『猫』ですか、あれは最初はなにもあのように長く 続けて書こうという考えもなし、腹案などもありませんでしたから、むろん一回だけでしまうつ もり。また、かくまで世間の評判を受けようとは少しも思っておりませんでした。最初虚子君か ら「何か書いてくれ」と頼まれまして、あれを一回書いてやりました。ちょうどそのころ文章会 というのがあって、 『猫』の原稿をその会へ出しますと、それをその席で|寒川鼠骨《さむかわそこっ》君が朗読した そうですが、たぶん朗読のしかたでもうまかったのでしょう、いたくその席で|喝采《かつさい》を博したそう です。それでいよいよ『ホトトギス』に出してみると、一回には世間の反響はむろんなかったの です。ただ、|小山内薫《おさないかおる》君が『七人』で新手の読み物だとかいってほめてくれたのを記億していま す。虚子君のほうでは雑誌の埋めくさにもなるからというのでしょう、「ぜひあとを書け書け」 とせがまれまして、十回十一回とこう長くなりました。しかし、もうそうそう引き延ばしても世 間があきるのみならず、だいいち自分があきるから、こんどでしまいにしました。もちろん、腹 案もなかったことですから、どう完結をつけたらいいかわかりません。しかし、どうかしなけれ ばならんから、あのとおりいいかげんなところで、ごめんをこうむりました。  妙なもので、書いてしまった当座は、すっかり胸中の文字を吐き出してしまって、もうこの次 には何も書くようなことはないと思うほどですが、さて十日たち、二十日たってみると、日々の できごとを観察して、また新たに書きたいような感想もわいてくる。材料も集められる。こんな ふうですから、 『猫』などは書こうと思えばいくらでも長く続けられます。  ぼくはむろん専門の大家でないから、たくさんも書いていないが、書きもせぬまえから変な癖 があって、一編の小説に毎回長短の差がはなはだしくあるのが、どうも平均が取れないような気 がしていやです。たとえば第一回を十枚書いたとすれば、第二回をも第三回をもたいてい平均し て十枚くらいにしなくては気が済まないのです。なにも毎回毎回に長短があったからって、その 作物の優劣高下には影響のあるべきはずはないのですが、しかし一回より二回のほうが短いとす ると、なんだかその回の重みが足りないような感じがしてならないのです。もっとも、ページは どうでも内容の比例さえできておれば、読んで不平均な感じはないかもしれませんが、それでも ぺージが気になります。で、第一回にはこれだけの事件を書き、第二回にはあれだけの事件を書 くと予定しておいても、書きかかってみて、そうそう思うようにうまく枚数が平均して書けるも のではありますまい。そうかといって、第一回にも第二回にもたいてい一っずつの山は作ってあ るものですから、第二回が短いからといって、第三回といっしょにして書くわけにはまいりませ ん。ですから、こういう場合には、何か別に材料を見つけて、たいてい紙数が平均するほどに引 き延ばすようにくふうする気になります。しかし、延ばすのはへたにやると失敗するでしょう。 なんでもないおもしろくもないことを書き埋めてただ紙数だけを同じようにいたすことなればさ ほどに困難なことはありませんが、とにかくおもしろみをつけて、どうにかこうにか読者をあか しめず読み続かしめようとするほどに書きこなすのは、ほねが折れるでしょう。  作者が作中の人物を主観的に書くということは、よしあしはにわかに言いにくいことだが、ま ずくやると、でき上がってみてどうもいやみなものになってしまうことがあるように考えます。 ぼくはたいてい第三者の地位に立って、客観的に人物を観察する気で書きますが、このほうが書 きょくもあり、万一できそこなってもいやみがないだけ良いようにも思われます。たとえばしば いを見るようなもので、しばいをやっている役者になって書いても詳しいことが書けようし、ま た見物の地位に立ってもその光景を写し出すことはできるが、どっちが好きかといえば、見物に なって、客観的に書いたほうが、ビジュアライズするほうからいうと、はるかにょく写し出せる と思います。  それから、普通の小説を作ると仮定すれば、世間人事の糾紛を写し出すことですから、どうし ても小説には道徳上にわたったことを書かなくてはならない。もちろん、短編のものなれば、月 が清いとか、風が涼しいとか書いただけでも文章の美を味わうことはできもするが、長編の小説 となると道徳上のことにわたらざるをえない。さてここに長編の一小説を草するとすると、作者 が作中の事件については黒白の判断を与え、作中の人物については善悪の批評を施さねばならな い。作者はわが作物によって凡人を導き、凡人に教訓を与うるの義務があるから、作者は世間の 人々よりは理想も高く、学問もひろく判断力もすぐれておらねばならないのはむろんのことであ る。文学は好悪をあらわすもので、普通の小説のごとき好悪が道徳にわたっている場合には、ぜ ひとも道徳上の好悪が作中にあらわれてこなければならん。この点から見て、文学はやはり一種 の勧善懲悪であります。世間でいう道徳に反したことをした人物に同情を表して、俗にいうまち がったことをするのを奨励するようなことを書いても、それはその人の好悪で、その人からいえ ばやはり勧善懲悪です。たとえば小説中の人物が人殺しをする。人殺しは普通わるいことである から、その小説を読んで、人殺しはいやなものだと感ぜしむるように書けば、むろん勧善懲悪で す。しかし、ある人がある場合にはぜひ人殺しをしなければならぬ、してもけっこうだという考 えの作者もおらんともかぎらん。その人は、ある時、ある場合には人殺しをしても、人がいやと 思わぬようまた進んで人殺しがしたくなるように書くかもしれない。それでもいい、この作家に とっては、それが勧善懲悪であります。また人殺しは悪い。しかし、そのうちに大いに|恕《じよ》すべき 点がある。罪は憎むべきだが、その人はかわいそうだと感ずるように筆を使う作家で出てくるか もしれない。それでもかまわない。やはり一種の勧善懲悪であります。  わたしの熊度はこの三のうちどれでもよい。ただ、自分の良心に恥ずかしからぬように勧善懲 悪をやりたい。世間の道徳に反対することもあろうし、または道徳どおりを、道徳どおりと示す 場合もあろうし、世間の道徳を是と感ぜしめると同時に、それを破ったものも大いに称すべき価 値があるようにも書こうし、要するに自己の見識にそむかぬようにしたい。そうして、この見識 は深く考え、深く修め、深く読み、また深く|寓《ぐう》してできるものだから、文学者、ことにこの種の 小説家は、頭の修養を怠ってはならんと思います。イブセンはおのずからイブセンで、トルスト イはおのずからトルストイで、かれらの道徳上の好悪はあきらかに一種の勧善懲悪主義となって その作品にあらわれています。見識のない作物はこの点からいって価値がない。換言すれば、一 種の人生観のまとまらない作物は、その他の点においていくら成功しても、物足らないというて もよい。  人生観といったとて、そんなむずかしいものじゃない。手近な話が、 『坊っちゃん』のうちの 坊っちゃんという人物は、ある点までは愛すベく、同情を表すベき価値のある人物であるが、単 純すぎて、経験が乏しすぎて、現今のような複雑な社会には円満に生存しにくい人だなと読者が 感じてがてんしさえすれば、それで作者の人生観が読者に徹したというてよいのです。もっと も、これほどなことはだれにでもわかってるかもしれん。つまらぬ人生観である。しかし、人が りこうになりたがって、複雑なほうばかりをよい人と考える今日に、普通の人のよいと思う人物 と正反対の人を写して、ここにも注意してみよ、諸君が現実世界にあって鼻の先であしらってい るような坊っちゃんにも、なかなか尊むべき美質があるではないか、きみらの着跟点はあまりに |偏頗《へんぽ》ではないか、と注意して読者がなるほどと同意するように書きこなしてあるならば、作者は 現今普通人の有している人生観を少しでも影響しえたものである。しかも、その人生観がまちが っておらぬと作者の見識で判断しえたとき、作者はいくぶんでも文学をもって世道人心に|裨益《ひえき》し たのである。勧善懲悪主義を文学上に発揮しえたのである。  しかし、この人生観がまちがっていると知りつつも、こんなふうに人を動かそうと務めたら、 その作家はまさしく不徳である。たとい知らざるもまちがった人生観を説いて人を動かしたら恥 辱である。まちがっておらなくても低い人生観を説いたら、低い作家である。狭い人生観を説い たら、狭い作家である。だから、作家は見識家でなくてはならぬ。頭を養わねばならぬ。普通の 人の考えを闌いてみると、小説家は女の衣装やら、髪のもの、または粋人や、いなか者のことば のつかいわけをやって達者に文章を書くものだと思ってるが、それは浅薄な考えです。普通の小 説を作るものの資格は、第一が、人聞の行為行動(それは大部分道徳に関係があります)をいか に解釈するかの立脚地を立てるにあると思います。だから、学問がなければならぬと思います。 学問がなくとも見識がなければならんと思います。むずかしくいうと、,人生観というものが必要 になります。その人生観は局部的で編々に断面があらわれてもよし、またはどの作にも大きい一 つのものが貫いていてもよし、または前編と後編との間に反対があってもかまわない。反対の両 方に正しいところがあるということが読者に通じさえすればよい。かように両極の人生観を同時 に|把持《けじ》しうる人は、頭脳の容量の大きいことを証明している。矛盾でもなんでもない。  世の中では小説家をもって、教員とか、官吏とか、商人とかと同じような単純なる職業だと思 っている。相互道徳上の交渉、問題については、自分と小説家は同程度の批判力しかないと考え ている。それはまちがっている。小説家もそれで甘んじてはならん。  学問は教師にきかねばならん、事務は官吏に任せねばならん、金もうけは商人に頼まねばなら んことがわかれば、吾人が世の中にある立脚地やら、徳義問題の解決やら、相互の葛藤の批評や ら、すベてこれらは小説家の意見を聞いて参考にせねばならん。小説家もその覚悟がなくてはな らん。                         (明治三十九年九月一日『文芸界』)