夏目漱石氏文学談 『破戒』は読むにだいぶ手間が取れて、四、五日もかかってやっと読み終えたくらいですから、 われ知らず引きつけられるほどにおもしろいというものではないが、読んでしまったあとではな んとなく実のあるものを読んだような気がしました。あの文章も読むほうではきわめてむぞうさ に見てしまって、さほど修飾の加わったものとは思われないものだが、しかし書かれる作者はず いぶんほねをおって苦心したものでしょう。読んでいるうちに、ところどころそういう感じのす るところがあります。文章のうえからいっても新しい。ぼくはなんとなく西洋の小説を読んだよ うな気がした。きみの雑誌に小杉天外氏の『破戒』の評が書いてあったが、あの評は失敬かもし れないが天外氏その人の作にあてはまるものだと思うがどうでしょう。もっとも、 『破戒』だっ て欠点をいえばいくらもある。だいいち、いま少し短くコンデンスせられそうなものだと思うと ころもあるが、しかしながらともかくも『破戒』は明治文壇の作としてあとへ残るものでしょう。  独歩という人のも『運命』というのだけを見ました。あの中では『巡査』というあのごく短いの がいちばんいいと思います。 『酒中日記』などをほめる人もあるようだが、あれは書きぶりがわ たしなどにはおもしろく思えません。とにかく新しいところのある作だということは事実だが、 千人中ひとりの上にのみありうることが多く書いてあるようですね。  あの『巡査』のような、なんということはないちょっとしたものを書いて、ただそれだけのも のでおもしろいものはドーデーなどにもある。ホトトギス派の写生文というものも、ドーデーな どのまねをしたわけではないが、よく似ていますね。普通の写生文に小説的分子のちょっとばか り入れればドーデーになると思います。コンラッドの短編に火事だとか難船だとかいう光景を細 かく写して、ただそれっきりなんの意味もないものがある。こんなのも一種の短編として存在の 価値があるでしょう。  自然派とか何派とかいうことも妙なことで、いったい文学は進めば進むほど、ある意味におい て個人的なものであると思います。だから、別段何々派だと標榜する必要もなかろうと考えま す。作そのものにただちにその作者の人格、個人性が出てくる。メレディス、スティブンソン、 キプリングなどの作には、いずれも作者の強盛な人格、個人性が現われていて、それぞれ独自の 特色を有している。強い人格が出ているから、その作はしたがってパワフルで、はっきりと特質 がわかる。近代個人主義の発達ともむろん関係はあるが、しかしいったい文学は個人性が見えて こないうちはまだ幼稚なものといってもよい。たとえば、日本の旧派の和歌などというものは、 作者の名を消してみればどれもどれもほとんど同様で、一つもめいりょうに作者の個人性という ものが現われていない。あれでは、あんなにたくさんに歌人が出る必要がないと思います。個性 が強く発揮されないでおもしろみがある文字もあるが、それはある他の意味からいうので、一般 の傾向からいうと強い人格の力がじゅうぶんに出てこなければ、りっぱなものとはいえない。あ くまでも個人の自由をじゅうぶんに与えて働かしてみなければいけない。しかし、現今の文明が また一方においてこのインディビデュアリズム(個人主義)に対するレベリング.テンデンシー (平衡的傾向)とでもいったような傾向があって、個人的な傾向ばかり進ましておかぬようにな っている。つまり、強い激しい個人主義と、これを平均しようとするー般の傾向と、この二つの 相反した傾向が妙なぐあいに並んで進んでいくのです。詳しくいえば、少しはおもしろいことが いえそうです。で、個人主義のことを自覚といっても、むろん悟りというのとはちがいましょ う。イブセンの描いた人物などが、このレベリング・テンデンシーに対して個人主義の矛盾を自 覚したものでしょう。  問題的文芸が下火になったということは、たまたまイブセンが死んだためにちょっとそう思わ れることで、問題的文芸そのものはいつまでたってもあるわけでしょう。イブセンのような強い 盛んな人格の人がなくなれば、その追随者というものはいずれ模倣者だ。またあとから出るもの は模倣はいやだというのもあろうし、イブセンの生きていたときには問題的文芸が行なわれた が、イブセンがなくなったら今度は何か別のものをやろうという気にもなるだろうし、麦飯がう まい、あのにおいがいいからといって麦飯が流行しても、すぐにまた米の飯が食べたくなるよう なもので、米の飯を人がほしがる時代に麦屋を始めたとてしかたのないものだから、イプセンが なくなればいろいろの意味から問題的文芸が下火になって衰えても驚くにあたらんでしょう。ま たつづいて不思議はないでしょう。文学の大勢がこれからどのように向かうであろうかといった って、なかなかわかるものではない。観測ということを過去の経験によってやるなら、まず心理 学や社会学なども調べてから研究したうえで文学史がりっぱな一個の科学と成立したあかつきで なければわかりませんーきわめて実験的な天候のことですら、予報はたいていあてにならぬのだ から、文学のことなどなおさらわかるものではない。  いったい、文学史もある著者のように何の本の第何版は何年に出てどの文字がちがったとか訂 正せられたとかいうことばかり詳しく書いたって、生命のある文学史ができるものでないでしょ う。セインツベリーほどのたいした材料をもちながら、なぜいま少しおもしろく書けないかと思 うくらいです。ぼくにあの人ほどの材料があったら、いま少しなんとかしてみられそうなものだ と思うが、やは.りうぬぼれかもしれません。  新体詩は読まないから、ぽくにはわからない。ただばくぜんといま少しなんとかくふうのあり そうなものだくらいに思うぱかりです。むりに窮屈なことばの中に思想をはめようとしないで も、いま少し自由に、遺憾なく、じゅうぶんにセンチメントを歌ってみられそうに思います。自 己の感情が遺憾なく現われていないから、どれもどれも同じようになるのではないですか。あれ でもいろいろな流派があって研究してみたらおもしろいのだろうが、ぼくのような門外漢には諸 家のスタイルの区別すらよくわからないから、こんなことをいうのがすでに失礼かもしれない。 例を示せなどといわれれば、むろんできないのです。                            (明治三十九年八月一日『早稲田文学』) 257