予の愛読書 夏目漱石  愛読書は何だときかれると困る。ぼくには朝夕巻をおかずというような本はない。  どういう文章が好きかというのか。それなら少しはある。  ぼくは漢文が好きだ。好きだというても、近ごろはあまり読まぬ。しかし、日本の柔らかい文 章よりも好きだ。今では暇があれば読みたいと思うているが、暇がないから読まぬ。ああいう趣 味は、西洋にもちょっとないと思う。  いわゆる和文というものはあまり好かぬ。また、漢文でも山陽などの書いたのはあまり好かぬ。 同じ日本人の書いた漢文でも、享保時代のものはかえっておもしろいと思う。人は擬古文という てけいべつするが、ぼくはおもしろいと思う。  西洋ではスチブンソン(00帚く8き口)の文がいちばん好きだ。力があって、簡潔でくどくどしい ところがない。めめしいところがない。スチブンソンの文を読むと、はきはきしてよい心持ちだ。 話もあまり長いのがなく、まず短編というてよい。句も短い。ことに、晩年の作がよいと思う。         などは文章が実におもしろい。  スチブンソンは句や文章に非常に苦心をした人である。ある人は、単にことばだけに苦心をし たところがあどに残らん、という。そういう人はどういうつもりか知らぬが、スチブンソンの書 いた文句は生きて動いている。かれは一字でも気に入らぬと書かぬ。人のいうことをいうのがき らいで、自分が文句をこしらえて書く。だから、陳腐の文句がない。そのかわり、あまりきばつ すぎて、わからぬことがある。また、かれは字引きをひっくり返して、古い、人の使わなくなっ たフレースを用いる。そうして、その実際の功能がある。スコットの文章などは、とうてい比較 にならぬと思う。スコットは大きな結構を造るとかいうことにはうまいが、文章にぜいたくな人 からいえば、だらだらして読まれぬ。  メレディス(  )の話をせいというのか。かれは警句家である。警句という意味は、短 い文章の中に非常に多くの意味をこめて言うことをさしたのである。エピグラムなどではかれが いちばんに偉い。往々|抽象的《アプストラクト》なアフォリズムが出てくる。非常に意味の多いのを、引き延ばし て書かぬから、つなぎぐあい、受けぐあいがわからなくなる。のみならず、それだけの頭のある 人でなければよくわからぬ。ぼくらでもわからぬところがいくらもある。メレディスはただ寝こ ろんで読むべきものでない。スタディーすべきものと思う。必ずしもむずかしいところのみでは ないが、とうてい読みよい本とはいわれぬ。  メレディスは第一、人の性格をフィロソフィカリーにアナライズすることなどは実にうまいも のだ。また、次には非常に詩的なところがある。詩的シチュエーションをつらまえて、巧みに描 写するこ・亡がある。それはメレディスのユニックで、メレディスの前にメレディスなく、これか らあともおそらくメレディスは出まい。スチブンソンは文だから、まね手が出るかもしれぬが、 メレディスは頭だから、ああいう頭をもって考うる人が出ないうちは、ああいう文は書けまいと 思う。しかるに、ああいう顫の人はなかなか世に出ないものである。ちょうどある人は、マコー レーはたくさん出るかもしれぬが、カユフイルはひとりしか出まい、というたように、スチブン ソンはたくさん出るかもしれぬが、メレディスはひとりしか出ないかと思う。かれの作の中で 国◎00碧と<三2量などは最もおもしろいと思う。                            (明治三十九年一月一日『中央公論』)