愛読せる外国の小説戯曲 夏目漱石  ぼくはたいてい一度読みっぱなしにするだけで、二度と繰り返すことはほとんどないくらいだ から、何を愛読するかときかれるとちょっと困る。人についていうにしても、この人ではどこが よい、あの人ではこういうところがうまいといったふうで、だれが好きだとも言いがたい。同じ ように思ってる人をあげたり、あげなかったりすると不公平になる。  もちろん、愛読するといえば近代のもので、いつかぼくが十八世紀文学の講義をしたので、ア ジソンなどが好きだといってる人もあるようだが、アジソンなどはただ当時のマンナ1を時代ち がいの現代から|髣髴《ほうふつ》して、隔世ののぞきめがねをのんきにながめられるところに興味が多いの で、くつのひもの結び方がどうだとか、帽子がばかに高いとかいうようなところが、ぼくにはお もしろいばかりである。寝ころんで暇つぶしに読むには気楽でいい。しかし、|汗牛充棟《かんぎゆうじゆうとう》の書物 のうちからとくにこれを抜き出して、これが愛読書物とは、もちろん言うっもりはない。  イブセンですか。イブセンは偉い。さあ、どこが偉いかめいりょうにお話をするには読み尽く したうえで考えをまとめてかからなければならない。しかし、メーテルリンクの戯曲論のうちに こんな意味のことが書いてあります。ーいろいろな事情(内界外界)のために現今の戲曲とい うものは詩趣的装飾を失った。この欠陥を補うために、戯曲家はやむをえず人間の意識の奧へ奥 へと割り込んで、その方面で償いをとらなければならない。意識の奥へはいるためには、霊明な 意識を捕えてこなければならない。ぼんやりしたわからず屋のまっくらな意識では、十歩割り込 んでも、百歩割り込んでも、依然として暗いばかりで要領を得ない。イブセンの劇はこの点にお いて意識の最高点に達したものである。劇はもとより動作が主である。いかに意識の内部へはい り込んでも、これが動作に変化しなければ劇にならない。ところで、意識が動作に変化する状態 を観察してみると、願望と義務の衝突に帰着してしまう。換言すれば、情熱と徳義とのけんかに すぎない。したがって、現代の戯曲家は好んで道徳問題を捕えてくる。否、かれらはことごとく 甲もしくは乙の道徳問題を研究しているといってもさしつかえない。この種の劇はデューマに始 まって現代のフランスの劇場の三分の二はやはりこの種の劇を演じている。他国の劇はもとより フランスの反響にすぎぬゆえ、もちろんのことである。しかし、この種の劇において|吾人《ごじん》の注意 すべき事実はどれもこれも道徳問題を取り扱うにもかかわらず、その道徳の解釈が最初から観客 にわかりきっていることである。世間の約束でちゃんとしゃくし定規に決まっているものばかり である。女が貞操を汚しても許してさしつかえなかろうかとか、相愛の結婚のほうが金銭の結婚 よりも望ましきものであろうかとか、親といえども子の恋を圧服することができるだろうかとい うような明々白々ごうも世間の習慣から見て解釈に苦しまない問題のみである。だから、劇中の いわゆる義務は、平凡なる常人の意識内に起こる義務である。劇中のいわゆる願望もまた平凡な る常人の意識内に起こる願望である。したがって、意識の奥へ進みたくても、そこまで行きたく ても、どうすることもできんのである。そこをバウプトマンや、ビョルンソンや、ことにイブセン は、かまわず切り込んでさきへ進んだのである。しかし、さきへ進むためには俗以上に明らかな 意識を備えている人物を作らなければならない。ぼんやりしたどろんけんな意識の所有者では、 いかに身分が高くても、はばききでも、評判のいい男でも、尊敬される金持ちでも、世間に通用 するだけで舞台には通用しない。意識の最高度をあらわす劇には無用の長物である。古代劇の詩 趣的装飾を失った埋め合わせをする劇の主人公としては三文の価値もない。だから、イブセンな どはそれを避けて意識のもっともあきらかに進んだ人物を描いたのである。しかしながら、理論 的に考えてみると、真個關明の極致に達した意識というものは普通のものよりもはるかに平穏 で、忍耐に富んで、抽象的で、概括的でなければならない。また、義務のほうからいってもその とおりである。普通の|昏眛《こんまい》な意識中にある義務は、ときとしては|謬見《ぴゆうけん》である。偏解である。虚偽 である。約束である。かの俗界にいうところの名誉なり、ふくしゅうなり、自重なり、虚栄な り、信心なり、ことごとく流俗の認めて争うベからざる義務の根源と心得るもので、ことごとく 義務とするに足らぬものである。|己霊《これい》の光輝に遍照の利益をうけたる超凡の人より見れぜ、まさ しく義務とするに足らぬ義務である。にもかかわらず、普通の劇なるものはこの義務とするに足 らぬ義務を中心として成立しているのである。そこで、再びイブセンに立ち帰って考えてみる と、かれはその劇において吾人を人間意識の甚深の急所まで連れ込んでいく男である。ただ劇に は一道の怪烙があって、終始吾人をつけまとっている。したがって、イブセンの劇においても吾 人がかれとともに最高なる人間の意識を承当するとともに、かれの悲劇の運命を支配する義務が この|高遭《こうまい》英霊なる意識の内部より起こらずして、かえって外方に存するがために、ややともする と不適度なる自覚もしくは、|暗濃《あんたん》たる風狂と化し終わるのを悲しむのである。;メ↑テルリン クの説はたいへんおもしろい。イブセンの書いた人間が一拍子変わっているのはまったくこれが ためで、ドンキホーテやピクウイックに出てくる人間が一拍子変わっているのとは主意がちがう のである一また、レミゼラブルの主人公が群れを離れて変わっているのともおのずから艸'、の主 意がちがうのである。つまり、普通以上の自覚のある人問を描き出して、リ1、の自覚を動作にあら わそうというのがかれの目的なのである、したがって、かれの道徳問題に関する解決は、常人の 解決とちがってくる。途方もない解釈をする一イブセンはこの方法で吾人に約束的な解決以上に 道徳問題の解釈の方法があるという教訓を与えると同時に、この約束的以上の解釈で現代の劇に 不足している詩趣的装飾を償ったのである一"てのかわり、かれの書いた人間はちょっとめんくら うようなむてっぼうものが多い。考えるとぱかげた気違いじみた人間交てうさなく平気4、出てく る。ほとんど応接にいとまなきくらい出頭没頭するから驚いてしまう。りてれが普通の身分のもの である。三度の飯はそれ相応に食っている。活発発地に働いている、にくらしいほど健全であ る。隣の八さんや向こうの熊さんと同じ人間である。ただ、どこか一方が底が抜けている、この 底抜け趣味のために一編の劇が成立する。それがかれらの慣用手段である。早い話が、ヘッダ. ガブラなんて女は日本にとうていいやしない。日本はおろか、イブセンの生まれたところにだっ ている気づかいはない。それだからイブセン劇になるのである。ただこんな底抜けをつらまえて きて、さも生きているように、隣に住んでいるように、自分と交際しているように書くのがイブ センの芸術家たるところ、 一大巨匠たるゆえんである。芸術家といえばイブセンの劇の構造につ いても言いたくなるが、あまり長くなるから、ただ気のついた二、三カ条のうち一つをご参考に 話すがイブセンの劇のあるものを見るとまさに展開し、また展開せざるベからずとの予期を読者 に与えながら、その事件がそれぎりお流れになってしまうことがある。たとえばマスター・ビル ダーのうちの序幕に出てくる女の書記と大工との関係は、どうしても、これから先があるなと読 者から発展を待ち設けられても一言もない書き方だ(他の理由も認められるけれども)。ところ が、中途から一種奇妙不思議な女が飛び出してきて、大工と女書記との関係はしまいまでちっと も動いていない。序幕を忘れておればそれまでだが、暗に期待しつつ読んでいくとなんだか物足 らない。まいた種がいつまでたっても芽の出ないような気がする。このほかにも例をあげればま だあるが、こんなところはほかの人には気にかからないかもしれない。ただ、余にはどうもなん だかありがたくない。もっとも、近来はバウプトマンの織子などといって、まるで個人として主 人公の存在しない劇が出てくるくらいだから、このくらいなことはなんでもないかもしれない。 シェクスピヤの構造も研究したらいろいろ非難が出るだろうが、結末がまとまっているという点 は確かである。そのかわり、なんだか不自然にまとめた感じが起こらないともいえない。批評家 の研究に価する問題だろうと思うが、長くなるからこのぐらいにしておこう。  英国のものですか。ピネロだの、ジョーンスだの、ショーなどのものを少し読んでみたが、セ コンド・、・・セス・タンカレーがいちばんおもしろかったように記憶している。::近ごろおもし ろく感じたのはズーデルマンのアンダイイング・バストで、あの中のフェリシタスという女の性 格とその述べ方にはひどく感心した、あんな性格が生涯に一度でも書けたらよかろうと思う。 (文責在記者)                              (明治四十一年一月一日『趣味』)