その五十一  安政四年には抽斎の七男成菩が七月二十六日を以て生れた。小字は 三吉、通称は遺陸である。即ち今の保さんで、父は五十三歳、母は四 十二歳の時の子である。  成善の生れた時、岡西玄庵が胞衣を乞ひに来た。玄庵は父茎早に似 て夙憲であつたが、嘉永三四年の頃顕痢を病んで、低能の人と化して ゐた。天保六年の生であつたから、病を発したのが十六七歳の時で、 今は二十三歳になつてゐる。胞衣を乞ふのは、顕痢の薬方として用ゐ んがためであつた。  抽斎夫婦は喜んでこれに応じたので、玄庵は成善の胞衣を持つて帰 つた。此時これを惜んで一夜を泣き明したのは、昔抽斎の父尤成の茶 碗の余渥を舐つたと云ふ老尼妙了である。妙了は年久しく澀江の家に 寄寓してゐて、毎に小児の世話をしてゐたが、中にも抽斎の三女菓を 愛し、今又成菩の生れたのを見て、大いにこれを愛してゐた。それゆ ゑ施衣を玄鷹に与へることを嫌った。俗説に砲衣を人に奪はれた子は 育たぬと云ふからである。  此年前に駆融せられた抽斎の次男矢嶋優菩は、綾に表医者介を命ぜ られて、半其位地を回復した。優善の友塩国良三は安積艮斎の塾に入 れられてゐたが、或日師の金百両を懐にして長崎に奔つた。父揚庵は 金を安積氏に還し、人を九州に遣って子を連れ戻した。良三はまだ残 の金を持つてゐたので、迎へに来た男を随へて東上するのに、駅々で 人に傲ること貴公子の如くであつた。此時肥後国熊本の城主細川越中 守斉護の四子寛五郎は、津軽順承の女塙にせられて東上するので、途 中良三と旅宿を同じうすることがあつた。斉謹は子をして下惰に通ぜ しめんことを欲し、特に徴行を命じたので、寛五郎と従者とは始終質 素を旨としてゐた。騒子良三は往々五十四万石の細川家から、十万石 の津軽家に掲入する若殿を凌いで、旅中下風に立つてゐる少年の誰な るかを知らずにゐた。寛五郎は今の津軽伯で、当時裁に十七歳であつ た。  小野氏では此年令図が致仕して、子宮穀が家督した。令図は小字を 慶次郎と云ふ。抽斎の祖父本暗の庶子で、母を横田氏よのと云ふ。よ のは武蔵国川越の人某の女マある。令図は出でて同藩の医官二百石小 野遺秀の末期養子となり、有尚と称し、後又道瑛と称し、累進して近 習医者に至つた。天明三年十一月二十六日生で、致仕の時七十五歳に なつてゐた。令図に一男一女があつて、男を宮穀と云ひ、女を秀と云 つた。  富穀、通称は祖父と同じく道秀と云った。文化四年の生である。十  一歳にして、森枳園と共に抽斎の弟子となつた。家督の時は表医者で あつた、令図、宮穀の父子は共に貨殖に長じて、弘前藩定府中の富人 であつた。妹秀は長谷川町の外科医鴨池道碩に嫁した。  多紀氏では此年二月十四日に、矢の倉の末家の瞳庭が六十三歳で殴 し、十一月に向柳原の本家の暁湖が五十二歳で殴した。わたくしの所 蔵の安政四年武鑑は、瞳庭が既に逝いて、暁湖が猶存してゐた時に成 つたもので、適塵の子安琢が多紀安琢二百俵、父楽春院として載せて あり、暁湖は旧に依つて多紀安良法眼二百俵、父安元として載せてあ る。瞳庭の楽真院を、武鑑には前から楽春院に作つてある。その何の 故なるを詳にしない。 その五十二  瞳庭、名は元堅、字は亦柔、一に三松と号す。通称は安叔、後楽真 院又楽審院と云ふ。寛政七年に桂山の次男に生れた。幼時犬を闘はし、 むることを好んで、学業を事としなかつたが、人が父兄に若かずと云 ふを以て貴めると、「今に見ろ、立派な医者になつて見せるから」と 云ってゐた。幾もなくして節を折つて書を読み、精力衆に麟え、識見 人を驚かした。分家した初は本石町に住してゐたが、後に矢の倉に移 つた。侍医に任じ、法眼に叙せられ、次で法印に進んだ。秩禄は宗家 と同じく二百俵三十人扶持である。  瞠庭は治を請ふものがあるときは、貧家と雖も必ず応じた。そして 単に薬餌を給するのみでなく、夏は蚊燭を胎り、冬は布団を遣った。 又三両から五両までの金を、貧婁の度に従って与へたこともある。  瞳庭は抽斎の最も親しい友の一人で、二家の往来は頻繁であつた。 しかし当時法印の位は太だ貴いもので、瞳庭が澀江の家に来ると、茶 は台のあり蓋のある茶碗に注ぎ、菓子は高圷に盛つて出した。此器は 大名と多紀法印とに茶菓を呈する時に限つて用ゐたさうである。瞳庭 の後は安琢が嗣いだ。  暁湖、名は元肝、字は兆寿、通称は安良であつた。桂山の孫、柳汁 の子である。文化三年に生れ、文政十年六月三日に父を喪って、八月 四日に宗家を継承した。暁湖の後を襲いだのは養子元倍で、実は季の 弟である。  安政五年には二月二十八日に、抽斎の七男成菩が藩主津軽順承に謁 した。年甫て二歳、今の齢を算する法に従へぱ、生れて七箇月である から、人に懐かれて謁した。しかし謁見は八歳以上と定められてゐた ので、此日だけば八歳と披露したのださうである。  五月十七日には七女幸が生れた。宰は越えて七月六日に早世した。  此年には七月から九月に至るまで虎列拉が流行した。徳川家定は八 月二日に、「少々御勝不被遊」と云ふことであつたが、八日には忽ち 薨去の公報が発せられ、家斉の孫紀伊宰相慶橿が十三歳で嗣立した。 家定の病は虎列拉であつたさうである。  此頃抽斎は五百にかう云ふ話をした。「已は公儀へ召されることに なるさうだ。それが近い事で公方様の喪が済み次第仰付けられるだら うと云ふことだ。しかしそれをお講をするには、どうしても津軽家の 方を辞せんではゐられない。已は元禄以来重恩の主家を棄てて栄達を 謀る気にはなられぬから、公儀の方を辞する積だ。それには病気を申 立てる。さうすると、津軽家の方で勤めてゐることも出来ない。已は 隠居することに極めた。父は五十九歳で隠居して七十四歳で亡くなつ たから、已も兼て五十九歳になつたら隠居しようと思ってゐた。それ が只少しぱかり早くなつたのだ。若し父と同じやうに、七十四歳まで 生きてゐられるものとすると、これから先まだ二十年程の月日がある。 これからが已の世の中だ。已は著述をする。先づ老子の註を始として、 迷庵エキ斎に誓った為事を果して、それから自分の為事に掛かるのだL と君つた。公儀へ召されると云ったのは、奥医師などに召v出される ことで、抽斎は其内命を受けてゐたのであらう。然るに運命は抽斎を して此ヂレンマの前に立たしむるに至らなかつた。又抽斎をして力を 述作に韓にせしむるに至らなかつた。 その五十三  八月二十二日に抽斎は常の如く晩嚢の饅に向った。しかし五百が酒 を侑めた時、抽斎は下物の魚胸に箸を下さなかつた。「なぜ上らない のです」と問ふと、「少し腹工合が悪いからよさう」と云った。翌二 十三日は浜町中屋敷の当直の日であつたのを、所労を以て辞した。此 日に始て嘔吐かあつた。それから二十七日に至るまで、諸証は次第に 険悪になるぱかりであつた。  多紀安琢、同元倍、伊沢柏軒、山田椿庭等が痛牀に侍して治療の 手段を尽したが、功を秦せなかつた。椿庭、名は業底、通称は昌栄で ある。抽斎の父允成の門人で、允成の歿後抽斎に従学した。上野国高 崎の城主松平右京亮輝聡の家来で、本郷弓町に住んでゐた。 、  抽斎は時々謠語した。これを聞くに、夢霖の間に医心方を校合して ゐるものの如くであつた。  抽斎の病況は二十八目に小康を得た。遺言の中に、兼て胴子と定め てあつた成善を教育する方法があつた。経書を海保漁村に、筆札を小 嶋成斎に、索間を多紀安琢に受けしめ、機を看て蘭語を学ばしめるや うにと蚤ふのである。  二十八日の夜丑の刻に、抽斎は遂に絶息した。即ち二十九日午前二 時である。年は五十四歳であつた。遺骸は谷中感応寺に葬られた。  抽斎の殴した跡には、四十三歳の未亡人五百を始として、岡西氏の 出次男矢嶋優善二十四歳、四女陸十二歳、六女水木六歳、五男専六 五歳、六男翠暫四歳、七男成菩二歳の四子二女が残つた。優善を除く 外は皆山内氏五百の出である。  抽斎の子にして父に先つて死んだものは、尾嶋氏の出長男恒善、比 良野氏の出馬場玄玖妻長女純、岡西氏の出二女好、三男八三郎、山内 氏の出三女山内巣、四男幻香、五女癸巳、七女幸の三子五女である。  矢嶋優善は此年二月二十八目に津軽家の表医者にせられた。初の地 位に復したのである。  五百の姉掲長尾宗右衛門は、抽斎に先つこと一月、七月二十日に同 じ病を得て残した。次で十一月十五日の火災に、横山町の店も本町の 宅も皆焼けたので、塗物間歴の業はこゝに廃絶した。跡に遣ったのは 未亡人安四十四歳、長女敬二十一歳、次女鍾十九歳の三人である。五 百は台所町の邸の空地に小さい家を建ててこれを迎へ入れた。五百は 敬に掲を取つて畏尾氏の祀を奉ぜしめようとして、安に説き勧めたが、 安は猶予して決することが出来なかつた。 。比良野貞固は拍斎の理した直後から、遠に五百に説いて、籔江氏の 家を挙げて比良野邸に寄寓せしめようとした。貞固はかう云った。自 分は一年前に抽斎と藩政上の意見を異にして、一時絶交の姿になつて ゐた。しかし抽斎との情誼を忘るゝことなく、早晩疇昔の親みを回復 しようと思ってゐるうちに、図らずも抽斎に死なれた。自分はどうに かして旧恩に報いなくてはならない。自分の邸宅には空室が多い。ど うぞそこへ移つて来て、我家に住む煎くに住んで貰ひたい。自分は貧 しいが、日々の生計には余裕がある。決して衣食の価は申し受けない さうすれば澀江一家は寡婦孤児として受くべき侮を防ぎ、無用の費を 節し、安んじて子女の成長するのを待つことが出来ようと云ったので ある。 その五十四  比良野貞固は抽斎の遺族を自邸に迎へようとして、五百に説いた。 しかしそれは五百を識らぬのであつた。五百は人の臨下に俺ることを 肯んずる女では無かつた。澀江一家の生計は縮小しなくてはならぬ二 と勿論である。夫の存命してゐた時のやうに、多くの奴脾を使ひ、食 客を居くことは出来ない。しかし譜代の若党や老脾にして放ち遣るに 忍びざるものもある。寄食者の中には去らしめようにも往いて投ずべ き家の無いものもある。長尾氏の遺族の如きも、若し狸立せしめよう としたら、定めて心細く思ふことであらう。五百は已が人に俺らんよ りは、人をして己に侍らしめなくてはならなかつた。そして内に侍む 所があつて、敢て自ら此衝に当らうとした。貞固の勧誘の功を秦せな かつた所以である。  森枳園は此年十二月五日に徳川家茂に謁した。寿蔵碑には「安政五 年戊午十二月五日、初謁見蒋軍徳川家定公」と書してあるが、此年月 目は家定が薨じてから四月の後である。その枳園自撰の文なるを思へ ば、頗る怪むべきである。枳園が謁した筈の家茂は十三歳の少年でな くてはならない。家定はこれに反して、薨ずる時三十五巌であった。  此年の虎列拉は江戸市中に於て二万八千人の犠牲を求めたのださう である。当時の聞人でこれに死したものには、岩瀬京山、安藤広重、 抱一門の鈴木必庵等がある。市河米庵も八十歳の高齢ではあつたが、 同じ病であつたかも知れない。澀江氏と其姻戚とは抽斎、宗右衛門の 二人を喪って、安、五百の姉妹が同時に未亡人となつたのである。  抽斎の著す所の書には、先づ経籍訪古志と留真譜とがあつて、相騒 いで支那人の手に由つて刊行せられた。これは抽斎と其師、其友との 講窮し得たる果実で、森枳園が記述に与つたことは既に云へるが如く である。抽斎の考証学の一面は此二書か代表してゐる。徐承祖が訪古 志に序して、「大抵諭繕写刊刻之工、、拙於考証、不甚留意」と 云ってゐるのは、我国に於て初て手を校讐の事に下した抽斎等に対し て、傭はるを求むることの太だ過ぎたるものではなからうか。  我国に於ける考証学の系統は、海保激村に従へぱ、吉田箆激が首唱 し、狩谷エキ斎がこれに継いで起り、以て抽斎と枳園とに及んだもので ある。そして箆鞍の傍系には多紀桂山があり、エキ斎の傍系には市野迷 庵、多紀瞳庭、伊沢蘭軒、小嶋宝素があり、抽斎と枳園との傍系には 多紀暁湖、伊沢柏軒、小嶋抱沖、堀川舟庵と漁村自已とがあると云ふ のである。宝素は元表医師百五十俵三十人扶持小嶋春庵で、和泉橋通 に住してゐた。名は尚質、一字は学古である。抱沖は其子審沂で、百 俵寄合医師から出て父の職を襲ぎ、家は初め下谷二畏町、後日本橋榑 正町にあつた。名は尚真である。春沂の後は春漢、名は尚綱が嗣いだ。 春漠の子は現に北海遺室蘭にゐる果一さんである。陸実が新聞日本に 抽斎の略伝を載せた時、誤つて宝素を小嶋成斎とし、抱沖を成斎の子 としたが、今に遣るまで謹もこれを匡さずにゐる。又此学続に就いて、 長井金風さんは篁教の前に井上蘭台と井上金峨とを加へなくてはなら ぬと云ってゐる。要するに此等の諸家が新に考証学の領域を開拓して、 抽斎が枳園と共に、方に纏に金著を成就するに至つたのである。  わたくしは訪古志と留真譜との二書は、今少し重く評価して可なる ものであらうと思ふ。そして頃日国書刊行会が訪古志を解題叢書中に 収めて縮刷し、其伝を弘むるに至つたのを喜ぶのである。 その五十五 抽斎の医学上の著述には、索間識小、秦間校異、霊枢講義がある。 就中秦問は抽斎の精を曄して研窮した所である。海保漁村撰の墓誌 に、抽斎が説文を引いて棄間の陰陽結斜は結糾の靴なりと説いたこと が載せてある。又七損八益を説くに、玉房秘訣を引いて説いたことが 載せてある。霊枢の如きも「不精則不正当人言亦人々異」の文 中、抽斎が正当を連文となしたのを賞してある。抽斎の説には発明極 て多く、此の如き類は其一斑に過ぎない。  抽斎遺す所の手沢本には、往々欄外書のあるものを見る。此の如き 本には老子がある。難経がある。  抽斎の詩は其余事に過ぎぬが、猶抽斎吟稿一巻が存してゐる。以上 は漢文である。  謹痘要法は抽斎が池里風水の説を筆受したもので、抽斎の著述中江 戸時代に刊行せられた唯一の書である。  雑著には曇子春秋筆録、劇神仙話、高尾考がある。劇神仙話は畏嶋 五郎作の言を録したものである。高尾考は惜むらくは完書をなしてゐ ない。  齢評は抽斎が国文を以て学問の法程を記して、及門の子弟に示す小 冊子に命じた名であらう。此文の末尾に「天保辛卯季秋抽斎酔睡中に 理百す」と書してある。辛卯は天保二年で、抽策が二十七歳の時であ る。しかし現存してゐる一巻には、此国文八枚が紅色の半紙に写して あつて、其前に白紙に写した漢文の草稿二十九枚担合綴してある。其 目を挙ぐれば、煩悶異文弁、仏説阿弥陀経碑、春秋外伝国語跋、荘子 注疏政、儀礼跋、八分書孝経跋、橘録跋、沖虚至徳真経釈文跋、青帰 書日蔵踏組繰敏ゼ綿宇噸佐准蛾、昧妹校江悌頒侯瀞戯い元板再校千金 方跋、書医心方後、殉久吉正翁墓磁、騎駝考、欝漢、論語義疏跋、 告蘭軒先生之霊の十八篇である。此一冊は表紙に「懲語、抽斎述」の 五字祉蒙文で題してあつて、首毘揮て抽斎の自筆である。徳宮蘇峰さ んの蔵本になつてゐるのを、わたくしは借覧した。  抽斎随筆、雑録、日記、備忘録の諸冊中には、今已に快亡したもの もある。就中日記は文政五年から安政五年に至るまでの四十二年間に 亘る記載であつて、衷然たる大冊数十巻をなしてゐた。これは上直ち に天明四年から天保八年に至るまでの四十二年間の尤成の日記に接し て、其中間の文政五年から天保八年に至るまでの十六年問は父子の記 載が並存してゐたのである。此一大記録は明治八年二月に至るまで、 保さんが蔵してゐた。然るに保さんは東京から浜松県に赴任するに臨 んで、これを両掛に納めて、親戚の家に託した。親戚はその貴重日叩た るを知らざるがために、これに十分の保護を加ふることを怠つた。そ して悉くこれを失ってしまつた。両掛の中には猶前記の抽斎随筆等十 余冊があり、又允成の著す所の定所雑録等約三十冊があつた。想ふに 此諸冊は既に屏風襖葛籠等の下貼の料となつたであらうか。それと も何人かの手に帰して、何処かに埋没してゐるであらうか。これを捜 討せんと欲するに、由るべき遺が無い。保さんは今に畠るまで歎借し て已まぬのである。  直舎伝記抄八冊は今富士川游さんが蔵してゐる。中に題号を閾いた ものが三冊交ってゐるが、主に弘前医官の宿直部屋の日記を抄淳した ものである。上は宝永元年から下は天保八年に至る。所々に善云と低 書した詮がある。宝永元年から天明五年に至る最古の一冊は題号がな く、引用書として津軽一統志、津軽軍記、津陽開記、御系図三通、歴 年亀鑑、孝公行実、常福寺由緒書、津梁院過去帳抄、伝聞雑録、東藩 名数、高岡霊験記、諸書案文、藩翰譜が挙げてある。これは諸書に就 いて、主に弘前医官に関する事を抄出したものであらう。  四つの海は抽斎の作つた謡物の長唄である。これは書と称すべきも のではないが、前に挙げた護痘要法と倶に、江戸時代に刊行せられた 二一二葉の綴文である。  仮面の由来、これも亦片々たる小冊子である。 その五十六  呂后千夫は抽斎の作つた小説である。庚寅の元旦に書いたと云ふ自 序があつたさうであるから、其前年に成つたもので、即ち文政十二年 二十五歳の時の作であらう。此小説は五百が来り妹した頃には、まだ 澀江の家にあつて、五百は数遍読過したさうである。或時それを筑山 左衛門し」云ふものが借りて往つた。筑山は下野国足利の名圭だと云ふ ことであつた。そして終に還さずにしまつた。以上は国文で書いたも のである。  此著述の中刊行せられたものは経籍訪古志、留真譜、謹痘要法、四 つの海の四種に過ぎない。其他は皆写本で、徳宮蘇峰さんの所蔵の愆 語、宮士川游さんの所蔵の直舎伝記抄及已に散侠した諸書を除く外は、 皆保さんが蔵してゐる。  抽斎の著述は概ね是の如きに過ぎない。致仕した後に、力を述作に 牽にしようと期してゐたのに、不幸にして疫溝のために命を限し、 曾て内に蓄ふる所のものが、遂に外に顕るゝに及ばずして已んだので ある。  わたくしは此に抽斎の修養に就いて、少しく記述して置きたい。考 証家の立脚地から観れば、経籍は批評の対象である。在来の文を取つ て渾侖に承認すべきものでは無い。是に於て考証家の末輩には、破壌 を以て校勘の目的となし、臺もビェテェの述を存せざるに至るものも ある。支那に於ける考証学亡国論の如きは、固より人文進化の遺を蔽 塞すべき陋見であるが、考証学者中に往々修養の無い人物を出だした と云ふ暗黒面は、其存在を否定すべきものではあるまい。  しかし真の学者は考証のために修養を廃するやうな事はしない。只 修養の全からんことを欲するには、考証を闘くことは出来ぬと信じて ゐる。何故と云ふに、修養には六経を窮めなくてはならない。これを 窮むるには必ず考証に須つことがあると云ふのである。  抽斎は其愈語中にかう云ってゐる。「凡そ学問の道は、六経を治め 聖人の道を身に行ふを主とする事は勿論なり。拠其六経を読み明めむ とするには必ず其二言一句をも審に研究せざるべからず。一言一句 を研究するには、文字の音義を詳にすること肝要なり。文字の音義 を詳にするには、先づ菩本を多く求めて、異同を比讐し、謬誤を校正 し、其字句を定めて後に、小学に熟練して、義理始て明了なることを 得。警へぱ高きに登るに、卑きよりし、遠きに至るに近きよりするカ 如く、小学を治め字句を校讐するは、細砕の末業に似たれども、必ず これをなさざれば、聖人の大道徴意を明むること能はず。(中略。)故 に百家の書読まざるべきものなく、さすれば人間一生の内になし得が たき大業に似たれども、其内主とする研の書を専ら読むを緊筋とす。 それはいづれにも師とする所の人に随ひて教を受くべき所なり。さて 蝋の如く小学に熟練して後に、六経を窮めたらむには、聖人の大遺微 意に通達すること必ず成就すべし」と云ってゐる。  これは抽斎の本領を遺破したもので、考証なしには六経に通ずるこ とが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何に縁りて修養して 好いか分からぬことになると云ふのである。さて抽斎の此の如き見解 は、全く師市野迷庵の教に本づいてゐる。 その五十七  迷庵の考証学が崇伜なるものかと云ふことは、読書指南に就いて見 るべきである。しかし其要旨は自序一篇に尽されてゐる。迷庵はかう 云った。「孔子は莞舜三代の遺を述べて、其流義を立て給へり。莞舜 より以下を取れるは、其事の明に伝はれる所なればなり。されども春 秋の比にいたりて、世変り時遷りて、其道一向に用ゐられず。孔子も 遣っては見給へども、遂に行かず。終に魯に還り、六経を修めて後世 に伝へらる。これその莞舜三代の遺を認めたまふゆゑなり。儒者は孔 子をまもりて其織を修むるものなり。故に儒者の遺を学ばむと思はば、 先づ文字を精出して覚ゆるがよし。次に九経をよく読むべし。漢儒の 注解はみな古より伝受あり。自分の臆説をまじへず。故に伝来を守る が儒者第一の仕事なり、(中略。)宋の時程頃、朱薫等己が学を建てし より、近来伊藤源佐、荻生総右衛門などと云ふやから、みな己の学を 学とし、是非を争ひてやまず。世の儒者みな真闇になりてわからず。 余も亦城かりしより此事を学びしが、迷ひてわからざりし。ふと解す る所あり。学命の旨にしたがひて、それ%\の古書をよむがよしと思 へり」と云った。  要するに迷庵も抽斎も、遺に至るには考証に由つて至るト^り外無い と信じたのである。剛よりこれば蜷徴では無い。迷庵が精出して文字 を覚えると云ひ、抽斎が小学に熟練すると云ってゐる此事業は、これ がために一人の生涯を費すかも知れない。幾多のジエネラシヨンの此 間に生じ来り滅し去ることを要するかも知れない。しかし外に手段の 由るべきものが無いとすると、学者は此に従事せずにはゐられぬので ある。  然らば学者は考証中に没頭して、修養に遑が無くなりはせぬか。い や。さうでは無い。考証は考証である。修養は修養である。学者は考 証の長途を歩みつゝ、不断の修養をなすことが出来る。  抽斎はそれをかう考へてゐる。百家の書に読まないで好いものは無 ㌧十三織と云ひ、九経と云ひ、六経と云ふ。列べ方はどうでも好い が、秦火に焚かれた楽経は除くとして、これだけば読破しなくてはな らない。しかしこれを読破した上は、大いに功を省くことが出来る。 「聖人の道と事々しく云へども、前に云へる如く、六経批騎鱒ル昧純 誌矩、論語、老子の二書にて董窪り。其中にも過蝋不 及を身行の要とし、無為不言を心術の捷となす。此二書をさへ能く守 ればすむ事なり」と云ふのである。  抽斎は百尺竿頭更に一歩を進めてかう云ってゐる。「但論語の内に は取捨すべき所あり。王充書の間孔篇及迷庵師切繍語激凍陀織沁汰閑 驚批馨欝完一ら簑簑簑ギ注勇溜一察哩泰汽筆 造文、用意詳審、尚未可謂尽得実、況倉卒吐言、 安 能 皆 是」と云ふ見識である。  抽斎が老子を以て論語と並称するのも、甑迷庵の説に本づいてゐる 「天は蒼々として上にあり。人は両間に生れて性皆相近し。習相遠き なり。性の始より性な奏の人なし。習な書の俗なし。世界万国皆其国 国の習ありて同じからず。其習は本性の如く人にしみ附きて離れず。 老子は自然と説く。其れ是殿。孔予目。述而不作。信而好古、 窃比我於老影。かく宣給ふときは、孔子の意も亦自然に棉近し」と 云ったのが即ち是である。 その五十八  抽斎は老子を尊崇せむがために、先づこれをヂスクレヂイに陥いれ た仙術を、道敦の跨域外に逐ふことを謀つた。これは早く清の方維旬 が轟慶板の抱朴子に序して弁じた所である。さて此洗冤を行った後に かう看つてゐる。「老子の遣は孔子と異なるに似たれども、その帰す くじっ比れども竈よ壮るがごとし る所は一意なり。不悪人不已畑及曾子の有若無実若虚 などと云へる、皆老子の意に近し。且自然と雲ふこと、万事にわたり て然らざることを得ず。(中略。)又仏家に漠然に矯すると云ふことあ り。是れ空に体する大粟の教なり。自然と云ふより一層あとなき言な り。その小乗の教は一切の事智式に依りて行へとなり。孔子の遺も孝 悌仁羲より初めて諸礼法は仏家の小來なり。その一以貫之は此教 を一にして執中に至り初て仏家大乗の一場に至る。執中以上を謂れば、 孔子釈子同じ事なり」と云ってゐる。  抽斎は終に儒、遺、釈の三教の掃一に到着した。若し此人が旧新約 書を読んだなら、或は其中にも契合点を見路だして、彼の安井息軒の 弁妄などと金く趣を殊にした書を著したかも知れない。  以上は抽斎の手記した文に就いて、典心術身行の由つて来る所を求 めたものである。此外、わたくしの手元には一種の語録がある。これ は五百が抽斎に聞き、保さんが五百に聞いた所を、頃日保きんがわた くしのために筆に上せたのである。わたくしは今漫に潤削を施すこと なしに、これを此に収めようと思ふ。  抽斎は日常宋儒の所謂虞廷の十六字を口にしてゐた。彼の「人心惟 危、遺心惟徴、惟精惟一、允執汲中」の文である。上の三教帰 一の教は即ち是である。抽斎は古文尚書の伝来を信じた人では無いか 多、此を以て莞の舜に告げた言となしたのでないことは勿論である。 そのこれを尊重したのは、古冒古義として尊重したのであらう。そし て惟精惟一の解釈は王陽明に従ふべきだと云ってゐたさうである。  抽斎は礼の「清明在貂、志気如神」の句と、寮間の上古天真諭の 「悟微處無、真気従之、精神内守、病安従来」の句\ とを誦して、修養して心身の康寧を致すことが出来るものと信じてゐ た。抽斎は眼疾を知らない。歯痛を飼らない。腹痛は幼い時にあつた が、壮年に及んでからは絶て無かつた。しかし虎列拉の如き紬菌の伝 染をぱ秦何ともすることを得なかった。  抽斎は泊ら戒め人を戒むるに、慶沢山威の九田交を引いて云づた。 学者は仔紬に「憧々往来、朋従爾思」と云ふ文を昧ふべ きである。即ち「君子索其位而行、不願乎其外」の義である。人 は其地位に安んじてゐなくてはならない、父尤成が居る所の室を容安 室と名づけたのは、これがためである。医にして僑を羨み、商にして 士を羨むのは惑へるものである。「天下何思何嵐、天下同 帰而殊塗、一致而百慮」と云ひ、「日往則月来、月往則日 来、日月相推而明生焉、寒往則暑来、暑往則寒来、寒暑相推 而歳成焉」と秀ふが如く、人の運命にも亦自然の消長がある。須く自 重して時の到るを待つべきである。「沢壌之屈、以求信也、 龍蛇之蟄、以存身也」とは是の謂であると云づた。五百の児広 瀬栄次郎が已に町人を罷めて金座の役人となり、其後久しく金の吹替 が無いのを見て、又業を更めようとした時も、抽斎は此交を引いて諭 した。 その五十九 抽斎は展地雷復の初九交を引いて人を諭した。「不 遠 復 元砥悔」の交である。過を知つて能く改むる義で、顔淵の亜聖たる所 徹ぜ」を、鎌、賊岨鉾んペム艇う牒、祓警虜壮隻病裟である。孔子 が子貢に謂った誘に、顔淵を賞して、「吾与汝、弗如也」と云ったの も、、−れ城ためである  抽斎は嘗て云った。「為 政 以 徳、警如北辰、居其所、 耐、域盛む増、、が」と云ふの泄、ひ猫君道を然りとなすのみでは無い。 人は皆奈何したら衆星が已に映㌧枇沁うかと工夫ル肱ぺて{蛛肥紘凱 能くこれを致すものは即ち「翼矩之遺」である。韓退之は「其責己 倣も遂て、灰あき敵、篤ひ偉μや俄く酷、吹や糾」と云った。人と交るには、其 畏を取つて、其短を咎めぬが好い。「無求傭於 一人」と云ひ 「及其使人也器之」と看ふは即ち是である。これを推v広めて宿 へぱ、老子の「治 大 国、若烹小鮮」と云ふ意に帰着する。「大 だう寸たれて亡んぎあり せいしんほ」せず だしたラはや官ず 道廃有仁義」と云ひ、「聖人不死、大盗不止」と云ふのも、其反面を 指して書つたのである。已も往事を顧れば、動もすれば繋矩の遺に於 て蹴くる所があつた。妻岡酉氏徳を疎んじたなどもこれがためである。 宰に父に霞跳ぜられて悔い改むることを得た。平井東堂は学あり識あ る傑物である。然るに其父は用人たることを得て、已は用人たること を得ない。己はその何故なるを知らぬが、修養の足らざるの螂亦一因 をなしてゐるだらう。比良野助太郎は才に短であるが、人は却つてこ れに服する。賦性が自ら翼矩の遺に極つてゐるのである^転汐脈ザ 熟護誤鰐の敏簿蹴簿あ詐煽撃 傭不作於人、二楽也、得天下英才、而教育之、三楽也」と云ふの が是であ泌。韓非子は主遺、揚権、解老、楡老の諸篇敏搬いと云った。  此等の書を聞いた後に、抽斎の生涯を回顧すれば、誰人もそゆ信行 一致を認めずにはゐられまい、抽斎は内徳義を蓄へ、外誘惑を御け、 憧に已の地位に安んじて、時の到るを待つてゐた。我等は拍斎の一た ぴ鮒されて猷つたのを見た。その踏寿飲の講師となつた時である。我 等は抽斎の醤に再び徴されて辞せむとするのを見た。恐らくはその応 に奥医師たるべき時であつただらう。進むべくして進み、辞すべくし て辞する、その事に処するに、緯々として余裕があつた。抽斎の成の 九四を説いたのは虚言では無い。  抽斎の森枳園に於ける、塩田良三に於ける、妻岡西氏に於ける、そ の人を待つこと寛宏なるを見るに足る。抽斎は繋矩の遺に於て得る所 があつたのである。  抽斎の性行とその由つて来る所とは、略上述の如くである。しかし こゝに只一つ剰す所の問題がある。嘉永安政の時代は天下の士人をし て悉く岐路に立たしめた。勤王に之かむか、佐幕に之かむか。時代は 其中間に於て鼠いろの生を楡むことを容さなかつた。抽斎はいかにこ れに処したか。  此問題は抽斎をして思慮を費さしむることを要せなかつた。何故と 云ふに、澀江氏の勤王は既に久しく定まつてゐたからである。 その六十  澀江氏の勤王は其源委を詳にしない。㌧かし抽斎の父允成に至つ て、製麗ぜ纂せられたことは警寛ない一v菱藁山に従 学した年月は明でないが、菓山が五十三歳で幕府の召に応じて江戸に 入つた天明六年には、允成が丁度二十三歳になつてゐた。家督してか ら二年の後である。尤成が粟山の門に入つたのは、恐らくは其後杁し きを経ざる間の事であつただらう。これば栗山が文化四年十二月朔に 七十二歳で殘したとして推算したものである。  尤成の友にして抽斎の師たりし市野迷麗が勤王家であつたことは、 其詠吏の諸作に徴して知ることが出来る。此詩は維新後森枳園祉刊行 した。抽斎は雷に家庭に於て王室を尊豪する心を養成せられたのみで なく、又迷庵の説を聞いて感奮したらしい。  拍斎の王室に於ける、常に耿々の心を懐いてゐた。そして曾て一た ぴこれがために身命を危くしたことがある。保さんはこれを母五百に 聞いたが、憾むらくは其月日を詳にしない。しかし本所に於ての出来 事で、多分安政三年の頃であつたらしいと云ふことである。  或日手嶋良助と云ふものが抽斎に一の秘事を語つた。それは江戸に ある葉貴人の窮迫の事であつた。貴人は八百両の金が無いために、将 に苦境に陥らんとしてをられる。手嶋はこれを調達せむと欲して奔走 してゐるが、これを獲る遺が無いと云ふのであつた。抽斎はこれを聞 いて慨然として猷金を思ひ立つた。抽斎は自家の窮乏を口実として、 八百両を先取することの出来る無尽講を催した。そして親戚故旧を会 して金を醸出せしめた。  無尽講の夜、客が已に敵じた後、五百は沐浴してゐた。明朝金を貴 人の許に齎さむがためである。此金を上る日は予め手嶋をして貴人に 稟さしめて置いたのである。  抽斎は忽ち剥啄の声を聞いた。伸間が誰何すると、菓貴人の使だと 云った。抽斎は引見した。来たのは三人の侍である。内密に旨を伝へ たいから、人払をして貰ひたいと養ふ。抽斎は三人を奥の四畳半に延 いた。三人の書ふ所によれば、貴人は明朝を待たずして金を獲ようと して、此便を発したと云ふことである。  抽斎は応ぜなかつた。此秘事に与つてゐる手嶋は、貴人の許にあつ て職を奉じてゐる。金は手嶋を介して上ることを約してある。面を識 らざる三人に交付することは出来ぬと舌ふのである。三人は手嶋の来 ぬ事故を語つた。抽斎は信ぜないと云った。  三人は亙に目語して身を起し、刀の襯に手を掛けて抽斎を囲んだ。 そして云った。我等の言を信ぜぬと蚤ふは無礼である。且重要の御使 を承はつてこれを果さずに還つては面目が立たない。主人はどうして も金をわたさぬか。すκ状返事弛せよと云った。いつ管  抽斎は坐したま㌧で暫く口を喋んでゐた。三人が偽の使だと云ふこ とは既に明である。しかしこれと格闘することは、自分の欲せざる所 で、又能はざる所である。家には若党がをり諸生がをる。抽斎はこれ を呼ばうか、呼ぶまいかと思って、三人の気色を覗つてゐた。  此時廊下に足晋がせずに、障子がすうつと開いた。主審は斉く憎き 肘た。 その六十一  刀の爾に手を掛けて立ち上つた三人の客を前に控へて、四畳半の端 近く坐してゐた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を斜に 見遣った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。  五百は僅に腰巻一つ身に着けたばかりの操体であつた。口には懐剣  くは しきゐぎは かゞ 一− をけ を街へてゐた。そして閾際に身を屈めて、縁側に置いた小桶二つを両 子に取り上げるところであつた。小桶からは湯気が立ち升つてゐる。 縁側を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持つて来た小桶を下に置い たのであらう。  五百は小桶を持つたまゝ、つと一間に進み入つて、夫を背にして立 つた。そして沸き返るあがり湯を盛つた小桶を、右左の二人の客に投 げ附け、衡へてゐた懐剣を把つて鞘を払った。そして床の間を背にし て立つた一人の客を睨んで、「どろぱう」と一声叫んだ、  熱湯を浴びた二人が先に、樋に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷か ら縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。 五百は仲間や諸生の名を呼んで、一どろぱうく一と云ふ声を蕎 に挾んだ。しかし家に居合せた男等の馳せ集るまでには、三人の客は 皆逃げてしまつた。此時の事は後々まで澀江の家の一つ話になつてゐ たが、五百は人の其功を称する毎に、慙ぢて席を遁れたさうである。 五百は幼くて武家奉公をしはじめた時から、ヒ首一口だけば身を放さ ずに持つてゐたので、湯殿に脱ぎ棄てた衣類の傍から、それを取り上 げることは出来たが、衣類を身に纏ふ遑は無かつたのである。  翌朝五百は金を貴人の許に持つて往つた。手嶋の言によれば、これ は献金としては受けられぬ、唯借上になるのであるから、十箇年賦で 返済すると云ふことであつた。しかし手嶋が浬江氏を訪うて、お手元 不如意のために、今年は返金せられぬと云ふことが数度あつて、縫薪 の年に至るまでに、還された金は些許であつた。保さんが金を受け取 りに往つたこともあるさうである。  此一条は保さんもこれを語ることを騰躇し、わたくしもこれを書く ことを爵踏した。しかし抽斎の誠心をも、五百の勇気をも、かくまで 明に見ることの出来る事実を理滅せしむるには忍びない。ましてや貴 人は今は世に亡き御方である。あからさまに其人を斥さずに、略其事 を記すのは、或は妨が無からうか。わたくしはかう思惟して、抽斎の 勤王を説くに当つて、遂に此事。に言ひ及んだ。  抽斎は勤王家ではあつたが、據夷家ではなかつた。初め抽斎は西洋 嫌で、攘夷に耳を傾けかねぬ人であつたが、前に云ったとほりに、安 積艮斎の書を読んで惜る所があつた。そして窃に漢訳の博物窮理の書 を閲し、ますく掌の廃すべからざることを碧た。当時の洋学ば 主に蘭学であつた。嗣子の保さんに蘭語を学ばせることを遺言したの はこれがためである。  抽斎は漢法医で、丁度蘭法医の幕府に公認せられると同時に世を去 つたのである。此公認を鼠ち得るまでには、蘭法医は社会に於いて奮 闘した。そして彼等の攻撃の衝に当つたものは漢法医である。其応戦 の跡は漢蘭酒話、一タ医話等の如き書に徴して知ることが出来る。抽 斎は敢て言を某間に挾まなかつたが、心中これがために憂へ悶えたこ とは、想像するに難からぬのである。 その六十二  わたくしは幕府が蘭法医を公認すると同時に抽斎が残したと云った。 此公認は安政五年七月初の事で、抽斎は翌八月の末に殴した。  是より先幕府は按政三年二月に、蕃書調所を九段坂下元小姓組番 頭椿竹本主水正正慾の屋敷跡に創設したが、これは今の外務省の一 部に外国語学校を兼たやうなもので、医術の事には関せなかつた。越 えて安攻五年に至つて、七月三日に松平薩摩守斉彬家来戸塚静海、 径平肥前守斉正家来伊東玄朴、松乎三河守慶倫家来遠固澄、庵、松乎駿 河守勝道家来青木春岱に奥医師を命じ、二百俵三人扶持を給した。二 れが幕府が蘭法医を任用した権奥で、抽斎の残した八月二十八日に先 つこと、僅に五十四日である。次いで同じ月の六日に、幕府は御医師 即ち官医中有志のものは「阿蘭医術兼学致候とも不苦侯」と令した。 翌日又有馬左兵衛佐道純家来竹内玄同、徳川賢吉家来伊東貫斎が奥 医師を命ぜられた。此二人も亦蘭法医である。  抽斎が若し生きながらへてゐて、幕府の腸を受けることを肯じたら、 此等の蘭法医と肩を比べて仕へなくてはならなかつたであらう。さう なつたら旧思想を代表すべき抽斎は、新思想を齎し来つた蘭法医との 間に、厭ふべき葛藤を生ずることを免れなかつたかも知れぬ淋、或は 又彼の多紀瞳庭の手に出でたと云ふ無名氏の漢蘭酒話、平野革鶏の一 夕医話等と趣を殊にした、真面目な漢蘭医法比較研究の端緒が此に開 かれたかも知れない。  抽斎の日常生活に人に殊なる所のあつたことは、前にも折に触れて 言ったが、今遣れるを拾って二一二の事を挙げようと思ふ。抽斎は病を 以て防ぎ得べ誉ものとした人で、常に摂生に心を用ゐた。飯は朝午 各三椀、タニ椀半と極めてゐた。しかも其椀の大きさとこれに飯を 盛る量とが厳重に定めてあつた。殊に晩年になつては、嘉永二年に津 軽信順が抽斎の此習慣を聞き知つて、長尾宗右衛門に命じて造らせて 賜はつた椀のみを用ゐた。其形は常の椀より稍大きかつた。そして二 れに飯を盛るに、脾をして盛らしむるときは、過不及を免れぬと云っ て、飯を小さい櫃に取り分けさせ、櫃から椀に盛ることを、五百の役 目にしてゐた。朝の末醤汁も必ず二椀に限ってゐた。  菜読は最も莱繭を好んだ。生で食ふときは大根おろしにし、烹て食 ふときはふろふきにした。大根おろしは汁を棄てず、醤油などを掛け なかつた。  浜名納豆は絶やさずに蓄へて置いて食へた。  魚類では方頭魚の末醤漬を増んだ。畳鰯も喜んで食へた。鰻は時々 食へた①  間食は殆ど全く禁じてゐた。しかし穣に飴と上等の煎餅とを食へる ことがあつた。  抽斎が少壮時代に毫も酒を飲まなかつたのに、天保八年に三十三歳 で弘前に往つてから、防寒のために飲みはじめたことは、前に云った とほりである。さて一時は晩酌の量が稍多かつた。其後安政元年に五 十歳になつてから、猪口に三つを聡えぬことにした。猪口は山内忠兵 衛の贈つた品で・宴に赴くにはそれを懐にして家を出た。  抽斎は決して冷酒を飲まなかつた。然るに安政二年に地震に逢って ふと冷酒を飲んだ。其後は偶飲むことがあつたが、これも三杯の量 を過さなかつた。 その六十三  鰻を嗜んだ抽斎は、酒を飲むやうになつてから、展鰻酒と云ふこ とをした。茶碗に鰻の蒲焼を入れ、些しのたれを注ぎ、熱酒を湛へて 蓋を覆って置き、少選してから飲むのである。抽斎は五百を娶つてか ら、丑百が少しの酒に堪へるので、勧めてこれを飲ませた。五百はこ れを旨がつて、兄栄次郎と妹塘畏尾宗右衛門とに侑め、又比良野貞固 に飲ませた。此等の人々は後に皆鰻酒を飲むことになつた。  飲食を除いて、抽斎の好む所は何かと問へぱ、読書と云はなくては ならない。古刊本、吉抄本を講窮することは抽斎終生の事業であるか ら、こゝに算せない。医書中で索間を愛して、身辺を離さなかつたこ とも亦同じである。次は説文である。晩年には毎月説文会を催して、 小嶋成斎、森枳園、平井東堂、海保竹選、喜多村拷窓、栗本鋤雲等を 集へた。竹運ば名を元起、通称を弁之助と云った。本稲村氏で漉村の 門人となり、後に養はれて子となつたのである。文政七年の生で、抽 斎の殴した時、三十五歳になつてゐた。楮窓は名を画寛、字を士粟と 表ふ。通称は安斎、後父の称安政を襲いだ。香城は其晩年の号である。 くわい^ん , 経を安積艮斎に受け、医を瞬寿館に学び、父槐園の後を承けて幕府の 医官となり、天保十二年には三十八歳で踏寿餓の教諭になつてゐた。 栗本鋤雲は樗窓の弟である。通称は哲三、粟本氏に養はるゝに及んで、 瀬兵衛と改め、又瑞見と云った。嘉永三年に二十九歳で奥医師になつ てゐた。  説文会には嶋田篁村も時々列席した。箆村は武蔵国大崎の名主嶋田 重規の子である。名は重礼、字は敬甫、通称は源六郎と云った。艮斎、 漁村の二家に従学してゐた。天保九年生であるから、嘉永、安政の交 には猶十代の青年であつた。抽斎の残した時、筥村は丁度二十になつ てゐたのである。  抽斎の好んで読んだ小説は、赤本、箆鶉本、黄表紙の類であつた。 想ふにその自ら作つた呂后千夫は黄表紙の体に傚つたものであつただ らうo  抽斎がいかに劇を好んだかば、劇神仙の号を襲いだと云ふを以て、 想見することが出来る。父允成が腰戯場に出入したさうであるから、 殆ど遺伝と云っても好からう。然るに嘉永二年に碍單に謁見した時、 要路の人が抽斎に忠告した。それは目見以上の身分になつたからは、 今より後市中の湯屋に往くことと、芝居小屋に立ち入ることとは遠慮 するが宜しいと云ふのであつた。澀江の家には浴室の設があつたから、 湯屋に往くことは禁ぜられても差支が無かつた。しかし観劇を停めら れるのは、抽斎の苦痛とする所であつた。抽斎は隠忍して姑く忠告に 従ってゐた。安政二年の地震の日に観劇したのは、足掛七年擾であつ たと云ふことである。  抽斎は森枳園と同じく、七代日市川団十郎を愚員にしてゐた。家に 伝はつた俳名三升、白猿の外に、夜雨庵、二九亭、寿海老人と号した 人で、葺屋町の芝居茶屋丸屋三右衛門の子、五世団十郎の孫である。 抽斎より畏ずること十五年であつたが、抽斎に一年遅れて、安政六年 三月二十三日に七十歳で殴した。  次に晶員にしたのは五代目沢村宗十郎である。源平、源之助、調升、 宗十郎、畏十郎、高助、高貫と改称した人で、享和元年に生れ、嘉永 六年十一月十五日に五十三歳で残した。抽斎より畏ずること四年であ つた。四世宗十郎の子、脱疽のために脾を載つた三世田之助の父であ る。 その六十四  劇を好む抽斎は又照葉狂言をも奸んださうである。わたくしは照葉 狂言と云ふものを知らぬので、青々園伊原さんに問ひに遣った。伊原 さんは喜多川季荘の近世風俗志に、此演戯の起原沿革の載せてあるこ とを報じてくれた。  照葉狂書は嘉永の頃大阪の蕩子四五人が創意したものである。大抵 能楽の間の狂言を摸し、衣裳は素襖、上下、焚斗目を用ゐ、科白には 歌舞伎狂書、俄、踊等の状をも交へ取つた。安政中江戸に行はれて、 寄場はこれがために雑沓した。照葉とは天爾波俄の訟略だと云ふので ある。  伊原さんはこの照葉の語原は覚來ないと云ってゐるが、いかにも鞭 ち信じ難いやうである。  能楽は抽斎の楽み看る所で、少い頃謡曲を学んだこともある。偶 弘前の人村井宗興と相逢ふことがあると、抽斎は共に一曲を温習した。 技の妙が人の意表に出たさうである。  俗曲は少しく畏唄を学んでゐたが、これは謡曲の妙に及ばざること 遠かつた。  抽斎は鑑賞家として古画を翫んだが、多く買ひ集むることをぱしな かつた。谷文毘の教を受けて、実用の図を作る外に、往々自ら人物山 水をも画いた。  古武鑑、古江戸図、古銭は抽斎の聚珍家として蒐集した所である。 わたくしが初め古武鑑に媒介せられて抽斎を識つたことは、前に云っ たとほりであるo  抽斎は碁を菩くした。しかし局に対することが少であつた。これは 自ら徴めて耽らざらむことを欲したのである。 抽斎は大名の行列を観ることを喜んだ。そして家々の菌簿を調憧し て忘れなかつた。新武鑑を買って、其図に着色して自ら娯んだのも、 これがためである。此嗜好は喜多静廬の祭礼を看ることを喜んだのと 頗る相類してゐる。  角兵衛獅子が門に至れば、抽斎が必ず出て看たことは、既に言った。  庭園は触庸の愛する所で、泊帖勇刀を把つて瀬木の苅込情㌧典ゼ休 の中では御柳を好んだ。即ち爾雅に載せてある蠻である。雨師、三春 柳などとも云ふ。これは早く父允成の愛してゐた木で、抽斎は居を移 すにも、遺愛の御柳だけば常に居る室に近い地に栽ゑ替へさせた。居 る所を観柳書屋と名づけた柳字も、揚柳では無い、蟹柳である。これ に反して柳原書屋の名は、翁玉が池の家が柳原に近かつたから命じた のであらう。  抽斎は晩年に最も雷を嫌った。これは二度まで落雷に遭ったからで あらう。一度は新に娶つた五百と遺を行く時の事であつたゼ陰つた日 の空か二人の頭上に於て裂け、そこから一道の火が地上に降つたと思 ふと、忽ち耳を貫く音がして、二人は地に優れた。一度は踏寿館の講 師の諸所に体んでゐる時の事であつた。詰所に近い廊の前の庭へ糖噌 した。此時即に立つて小便をしてゐた伊沢柏軒は、前へ働れて一門歯 二枚を靭顔に打ち附柑て折つた。此の如くに反覆して雷火に脅さ仇、 ので、抽斎は雷声を悪むに至つたのであらう。雷が鳴り出すと、蚊鰯 の中に坐して酒を呼ぶことにしてゐたさうである。  抽斎の此弱点は偶森枳園がこれを同じうしてゐた。枳園の寿蔵碑 の後に門人青山道醇等の書した文に、「夏月畏雷震、発声之前必先知 之」と云ってある。枳園には今一つ厭なものがあつた。それは蜻蛾で あつた。夜行くのに、遺に蜻蛾がゐると、闇中に於てこれを知つた。 門人の随ひ行くものが、燈火を以て照v見て驚くことがあつたさ、っで ある。これも同じ文に見えてゐる。 その六十五  抽斎は平姓で、小字を恒吉と云った。人と成つた後の名は全善、字 は道純、又子良である。そして遺純を以て通称とした。其号抽斎の抽 字は、本蟹に作つた。籍、播、抽の三字は皆相通ずるのである。抽斎 の手沢本には鍾斎校正の蒙印が殆ど必ず捺してある。  別号には観柳書屋、柳原書星、三亦堂、目耕肘書斎、今未是翁、不 葦うじんがいを5 求甚解翁等がある。その三世劇神仙生称したことは、既に云ったとほ りである。  抽斎は嘗て自ら法謚を撰んだ。容安院不求甚解居士と云ふのである。 此字面は妙ならずとは云ひ難いが、余りに抽象的である。これに反し て抽斎が妻五百のために撰んだ法謹は妙極まつてゐる。半千院出藍 終葛大姉と云ふのである。半千は五百、出藍は紺屋町に生れたこと、 終葛は葛飾郡で死ぬることである。しかし世事の転変は逆覩すべから ざるもので、五百は本所で死ぬることを得なかつた。  この二つの法謚は孰れも石に彫られなかつた。抽斎の墓には海保漁 村の文を刻した碑が立てられ、又五百の遺骸は抽斎の墓穴に合葬せら れたからである。  大抵伝記は其人の死を以て終るを例とする。しかし古人を景仰する ものは、其苗裔がどうなつたかと雪ふことを問はずにはゐられない。 そこでわたくしは既に抽斎の生涯を記し畢つたが、猶筆を投ずるに忍 びない。わたくしは抽斎の子孫、親戚、師友等のなりゆきを、これよ り下に書き附けて置かうと思ふ。  わたくしは此記事を作るに許多の障礙のあることを自覚する。それ は現存の人に言ひ及ばすことが漸く多くなるに従って、忌講すべき事 に撞着することも亦漸く頻なることを免れぬからである。此障腰は上 に抽斎の経歴を叙して、その安政中の末路に近づいた時、早く既に頭 を擾げて来た。これから後は、これが弥筆端に纏続して、厭ふべき 拘束を加へようとするであらう。しかしわたくしは縦しや多少の困難 があるにしても、書かんと欲する事だけば書いて、此稿を完うする積 である。  澀江の家には抽斎の歿後に、既に云ふやうに、未亡人五百、陸、水 木、専六、翠暫、嗣子成善と矢嶋氏を冒した優善とが遣ってゐた。十 月朔に才に二歳で家督相続をした成善と、他の五人の子との世話をし て、一家の生計を立てて行かなくてはならぬのは、四十三歳の五百で あつた。  遺子六人の中で差当り間踵になつてゐたのは、矢嶋優善の身の上で ある。優菩は不行跡のために、二年前に表医者から小普講医者に距ぜ られ、一年前に表医者介に復し、父を喪ふ年の二月に綾に故の表医者 に復することが出来たのである。  しかし当時の優菩の態度には、まだ真に改俊したものとは看做しに くい所があつた。そこで五百は旦暮周密に其挙動を監視しなくてはな らなかつた。  残る五人の子の中で、十二歳の陸、六歳の水木、丑歳の専六はもう 読書、習字を始めてゐた。陸や水木には、五百が自ら句読を授け、手 跡は手を把つて書かせた。専六は近隣の杉四郎と云ふ学究の許へ通っ てゐたが、これも五百が復習させることに骨を折つた。又専六の手本 は平井東堂が書いたが、これも五百が臨書だけば手を把つて書かせた。 午餐後日の暮れかゝるまでは、五百は子供の背後に立つて手習の世話 をしたのである。 その六十六  邸内に棲はせてある畏尾の一家にも、折々多少の風波が起る。さう すると必ず五百が調停に往かなくてはならなかつた。其争は丑百が 商業を再興させようとして勧めるのに、安が魔跨して決せないために 起るのである。宗右衛門の長女敬はもう甘一歳になつてゐて、生得稍 勝気なので、母をして五百の言に従はしめようとする。母はこれを拒 みはせぬが、さればとて実行の方へは、一歩も踏み出さうとはしない。 こゝに争は生ずるのであつた。  さてこれが鎮撫に当るものが五百でなくてはならぬのは、畏尾の家 でまだ宗右衛門が生きてゐた時からの習慣である。五百の言には宗右 衛門が服してゐたので、其妻や予もこれに抗することをぱ敢てせぬの である。  宗右衛門が妻の妹の五百を、啻抽斎の配偶として尊敬するのみでな く、かくまでに信任したには、別に来歴がある。それは或時宗右衛門 が家庭のチランとして大いに安を虐待して、五百の厳い恵告を受け、 涙を流して罪を謝したことがあつて、それから後は五百の前に項を屈 したのである。  宗右衛門は性質亮直に過ぐるとも云ふべき人であつたが、痛癩持 であつた。今から十二年前の事である。宗右衛門はまだ七歳の鍾に読 書を授け、此子が大きくなつたら士の女房にすると云ってゐた。鐙は 記性があつて、書を菩く読んだ。かう云ふ時に、宗右衛門が酒気を帯 ぴてゐると、鐙を側に引き附けて置いて、忍耐を敦へると云って、 戯のやうに煙管で頭を打つことがある。鐙は初め忍んで黙つてゐる が、後には「お父つさん、厭だ」と云って、手を挙げて打つ真似をす る。宗右衛門は怒つて「親に手向をするか」と云ひつゝ、鐘を拳で乱 打する。或日かう云ふ場合に、安が停めようとすると、宗右衛門はこ れをも髪を捜んで拉き倒して乱打し、「出て往け」と叫んだ。  安は本宗右衛門の恋女房である。天保五年三月に、当時阿部家に仕 ヘて金吾と呼ばれてゐた、まだ二十歳の安が、宿に下つて堺町の中村 座へ芝居を看に往つた。此時宗右衛門は安を見初めて、芝居がはねて から追尾して行って、紺屋町の日野屋に入るのを見極めた。同窓の山 内栄次郎の家である。さては栄次郎の妹であつたかと云ふので、直ち に人を遣って縁談を申し込んだのである。 、  かうしたわけで貰はれた安も、拳の下に崩れた丸髭を整へる遑もな く、山内へ逃げ帰る。栄次郎の恵兵衛は広瀬を名告る前の頃で、会津 屋へ調停に往くことを面倒がる。妻はおいらん浜照がなれの果で何の 用にも立たない。そこで偶澀江の家から来合せてゐた五百に、「ど うかして遣ってくれ」と云ふ。五百は姉を宥め嫌して、横山町へ連れ て往つた。 会津屋に往つて見れば、敬はうろく立ち碧てゐる。鋒はまだ泣 いてゐる。妻の出た跡で、更に酒を呼んだ宗右衛門は、気味の悪い笑 顔をして五百を迎へる。五百は徐に詫言を言ふ。主人はなか/\聴か ない。暫く語を交へてゐる間に、主人は次第に饒舌になつて、光猷万 丈当るべからざるに至つた。宗右衛門は好んで故事を引く。偽書孔叢 子の孔氏三世妻を出したと云ふ説か出る。祭伸の女薙姫が出る。斎藤 太郎左衛門の女が出る。五百はこれを聞きつゝ思案した。これは負け てゐては際限が無い。例を引いて論ずることなら、こつちにも言分が ないことはない。そこで五百も諭陣を張つて、旗鞍相当つた。公父文 伯の母季激姜を引く。顔之推の母を引く。終に大雅思斉の章の「刑于 寡妻、至于兄弟、以御于家邦」を引いて、宗右衛門が離々の和を被る のを責め、声色共に腐しかつた。宗右衛門は屈服して、「なぜあなた は男に生れなかつたのです」と云った。  畏尾の家に争が起る毎に、五百が来なくてはならぬと云ふことにな るには、かう云ふ来歴があつたのである。 その六十七  抽斎の残した翌年安政六年には、十一月二十八日に矢嶋優菩が浜町 中屋敷詰の奥通にせられた。表医者の名を以て信順の側に侍すること になつたのである。今尚信頼し難い優菩が、責任ある職に就いたのは、 五百のために心労を増す種であつた。  抽斎の姉須磨の生んだ長女延の亡くなつたのは、多分此年の事であ つただらう。尤成の実父稲垣清蔵の養子が大矢清兵衛で、清兵衛の子 が飯田良清で、良清の女が此延である。容貌の美しい女で、小舟町の 鰹節間屋新井屋半七と云ふものに戯してゐた。良清の畏男直之助は早 世して、跡には養子孫三郎と、延の妹路とが残つた。孫三邸の事は後 に見えてゐる。  抽斎理後の第二年は万延元年である。成善はまだ四歳であつたが、 夙くも浜町中屋敷の津軽信順に近習として仕へることになつた。勿論 時々機嫌を伺ひに出るに止まつてゐたであらう。此時新に中小姓にな つて中屋敷に勤める矢川文一郎と云ふものがあつて、稀い成菩の世話 をしてくれた。  矢川には本末両家がある。本家は長足流の馬術を伝へてゐて、世文 内と称した。先代文内の婚男與四郎は、当時順承の側用人になつて、 父の称を襲いでゐた。妻児玉氏は越前国敦賀の城主酒井右京亮忠砒の 家来葉の女であつた。二百石八人扶持の家である。與四郎の文内に弟 があり、妹があつて、彼を宗兵衛と云ひ、此を岡野と云った。宗兵衛 は分家して、近習小姓倉目小十郎の女みつを娶つた。岡野は順承附の 中臈になつた。実は妾である。  文一郎は此宗兵衛の畏子である。其母の姉妹には林有的の妻、佐竹 永海の妻などがある。佐竹は初め山内氏五百を娶らんとして成らず、 遂に矢川氏を納れた。某の年の元日に佐竹は山内へ廻礼に来て、庭に 立つてゐた五百の手を惨らうとすると、五百は其手を強く引いて放し た。佐竹は庭の池に墜ちた。山内では佐竹に栄次郎の衣服を着せて帰 した。五百は後に抽斎に嫁してから、両国中村楼の書画会に往つて、 佐竹と避遁した。そして佐竹の数人の芸妓に囲まれてゐるのを見て、 「佐竹さん、相変らず英雄色を好むとやらですね」と云った。佐竹は 頭を掻いて苦笑したさうである。  文一郎の父は早く世を去つて、母みつは再嫁した。そこで文一郎は 津軽家に縁故のある浅草常福寺にあづけられた。これは嘉永四年の事 で、天保十二年生の文一郎は十一歳になつてゐた。  文一郎は寺で人と成つて、澀江家で抽斎の亡くなつた頃、本家の文 “と 克ほ廿つ 内の許に引き取られた。そして成善が近習小姓を仰附けられる少v前 に、二十歳で信順の中小姓になつたのである。  文一郎は頗る姿貌があつて、心自らこれを侍んでゐた。当時吉原の 狎妓の許に足繁く通って、遂に夫婦の誓をした。或夜文一郎はふと醒 めて、傍に臥してゐる女を見ると、一眼を大きく曙開いて眠つてゐる。 常に美しいとぱかり思ってゐた面貌の異様に変じたのに驚いて、肌に 粟を生じたが、忽又魔夢に脅されてゐるのではないかと凝つて、急 に身を起した。女が醒めてどうしたのかと問うた。文一郎が答は未だ 半ならざるに、女は満瞼に紅を潮して、偏盲のために義眼を装ってゐ ることを告げた。そして涙を流しつゝ、旧盟を被らずにゐてくれと頼 んだ。文一郎は陽にこれを諾して帰つて、それ切此女と絶つたさうで ある。 その六十八  わたくしは少時の文一郎を伝ふるに、辞を費すこと稍多きに至つた。 これは単に文一郎が稗い成善を扶抜したからでは無い。文一郎と澀江 氏との関係は、後に漸く緊密になつたからである。文一郎は成善の姉 婿になつたからである。文一郎さんは赤坂台町に現存してゐる人では あるが、恐く柑自ら往事を談ずることを喜ばぬであらう。其少時の事 蹟には二つの活きた典拠がある。一つは矢川文内の二女右鶴さんの話 で、一つは保さんの話である。文内には三子二女があつた。長男俊平 は宗家を嗣いで、其子蕃平さんが今浅草向柳原町に住して居るさうで ある。俊平の弟は鉦平、録平である。女子は長を鐵と云ひ、次を鑑と 云ふ。鑑は後に名を鶴と更めた。中村勇左衛門即ち今弘前桶屋町にゐ る範一さんの妻で、其子の範さんとわたくしとは書信の交通をしてゐ るのである。  成善は此年十月朔に海保漁村と小嶋成斎との門に入つた。海保の 塾は下谷練塀小路にあつた。所謂伝経慮である。下谷は卑淫の地なる にも拘らず、庭には梧桐が栽ゑであつた。これは撫村が其師大固錦城 の風を慕って栽ゑさせたのである。当時漁村は六十二歳で、麟寿館の 講師となつてゐた。又陸奥国八戸の城主南部遠江守信順と越前国鯖 江の城主間部下総守詮勝とから五人扶持づゝの俸を受けてゐた。しか し麟寿館に於ても、家塾に於ても、大抵養子竹運が代講をしてゐたの である。  小鳴成斎は藩主阿部正寧の世には、反の口の者中歴敷にゐて、安政 四年に家督相続をした賢之助正教の世になつてから、昌平橋内の上屋 敷にゐた。今の神田淡路町である。手習に来る児童の数は頗る多く、 二階の三室に机を並べて習ふのであつた。成善が相識の兄弟子には、 嘉永二年生で十二歳になる伊沢鉄三郎がゐた。柏軒の子で、後に徳安 と称し、維新後に磐と更めた人である。成斎は手に鞭を執つて、正面 に坐してゐて、筆法を誤ると、鞭の尖で指し示した。そして児重を倦 ましめざらむがためであらうか、諸謹を交へた話をした。其相手は多 く鉄三郎であつた。成善はまだ幼いので、海保へ往くにも、小嶋へ往 くにも若党に連れられて行った、鉄三郎にも若党が附いて来たが、こ れば父が奧諸医師になつてゐるので、従者らしく附いて来たのである。  抽斎の墓碑が立てられたのも此年である。海保漁村の墓誌は其文が 頗る長かつたのを、豊碑を築き起して世に傲るが如き状をなすは、主 家に対して憚があると云って、文字を識る四五人の故旧が来て、膏議 して斧鐵を加へた。其文の事を伝へて完からず、又間実に惇るものさ へあるのは、此筆削のためである。  建碑の事が畢つてから、澀江氏は台所町の邸を引き払って亀沢町に 移つた。これは淀川過書船支配角倉與一の別邸を買ったのである、 角倉の本邸は飯田町魏木坂下にあつて、主入は京都で勤めてゐた。亀 沢町の邸には庭があり池があつて、そこに稲荷と和合神との祠があつ た。稲荷は亀沢稲荷と云って、初午の日には参詣人が多く、縁日商人 が二十余の浮舗を門前に出すことになつてゐた。そこで角會は邸を売 るに、初午の祭をさせると云ふ条件を附けて売つた。今相生小学校に なつてゐる地所である。  これまで澀江の家に同居してゐた矢嶋優善が、新に本所緑町に:尸 を構へて分立したのは、亀沢町の家に澀江氏の移るのと同時であつた。 その六十九 矢嶋優菩をして別に一家をなして自立せしめようと云ふことは、前 年即ち安政六年の末から、中丸昌庵が主として勧説した所である。鼻 庵は抽斎の門人で、多才能弁を以て傭輩に推されてゐた。文政元年生 であるから、当時四十三歳になつて、食禄二百石八人扶持、近習医者 の首位に居つた。昌庵はかう云った。「優善さんは一時の心得違から 駝馳を受けた。しかし幸に過を改めたので、一昨年故の地位に復り、 昨年は奥通をさへ許された。今は抽斎先生が亡くなられてから、もう 二年立つて、優菩さんは二十六歳になつてゐる。わたくしは去年から さう思ってゐるが、優菩さんの奮って自ら新にすべき時は今である。 それには一家を構へて、貴を負って事に当らなくてはならない」と云 つた。既にして三二のこれに同意を表するものも出来たので、五百は 危みつゝ此議を納れたのである。比良野貞固は初め昌庵に反対してゐ たが、五百が意を決したので、復争はなくなつた、  優菩の移つた緑町の家は、渾名を鳩医者と呼ばれた町医佐久間某の 故宅である。優善は妻鉄を家に迎へ取り、下女一人を雇って三人暮し になつた。  鉄は優善の養父矢嶋玄碩の二女である。玄碩、名を優誘と云った。 壇抽斎の優善に命じた名は斌蔀であつたのを、矢嶋氏を冒すに及んで、 養父の假字を襲用したのである。玄碩の初の妻某氏には子が無かつた。 後妻菱は轟篭左衛門隻言のの妹で、仮親は上総国一宮猛 主加納遠江守久徴の医官原芸庵である。寿美が二女を生んだ。長を環 と云ひ、次を鉄と云ふ。嘉永四年正月二十三日に寿美が死しギ伍月二 十四目に九歳の環が死し、六月十六目に玄碩が死し、跡には僅に六歳 の鉄が遣った。  優菩は此時矢嶋氏に入つて來期養子となつたのである。そして其媒 介者は中丸昌庵であつた。 、百  中丸は当時其師抽斎に説くに、頗る多言を費し、矢嶋氏の祀を絶つ に忍びぬと云ふを以て、抽斎の情誼に懸へた。なぜと云ふに、抽斎が 次男優善をして矢嶋氏ρ政塘たらしむるの泄大いな拓臓牲であつたか らである。玄碩の遺した女鉄は重い痘瘡を恵へて、癩痕満面、人の見 るを厭ふ醜貌であつた。  抽斎は中丸の言に動されて、美貌の子優善を鉄に与へた。五百は惰 として忍び難くはあつたが、事が夫の義気に出でてゐるので、強ひて 争ふことも出来なかつた。  此事のあつた年、丑百は二月四日に七歳の巣を失ひ、十五日に三歳 の癸巳を失ってゐた。当時五歳の陸は、小柳町の大工の棟梁新八が許 に里に遣られてゐたので、それを喚ぴ婦きうと思ってゐると、そこへ 鉄が来て抱かれて寝ることになり、陸は翌年まで里親の許に置かれた。  巣は美しい子で、抽斎の女の中では純と巣との容姿が最も人に褒め られてゐた。五百の兄栄次郎は菓の踊を看る度に、「食ひ附きたいや うな子だ」と云った。五百も余り巣の美しさを云々するので、陸は 「為母あ様の姉えさんを褒めるのを聞いてゐると、わたしなんぞはお 化のやうな顔をしてゐるとしか思はれない」と云ひ、又巣の死んだ時、 「大方お母あ様はわたしを代に死なせたかつたのだらう」とさへ言っ た。 その七十  女巣が死んでから半年の間、五百は少しく精神の均衡を失して、 夕暮になると、窓を開けて庭の闇を凝視してゐることが腰有つた。 ごれば何故ともなしに、闇の裏に巣の姿が見えばせぬかと待たれたの ださうである。抽斎は気遣って、「五百、お前にも似ないぢやないか、 少ししつかりしないか」と筋めた。  そこへ矢嶋玄碩の二女、優善の未来の妻たる鉄が来て、五百に抱か れて寝ることになつた、蝶蘇の母は情を矯めて、暖の無い人の子を簾 しはぐゝまなくてはならなかつたのである。さて眠つてゐるうちに、 五百はいつか懐にゐる子が巣だと思って、夢現の境に其体を撫でてゐ た。忽ち一種の恐怖に襲はれて目を開くと、痘痕のまだ新しい、赤く 引き吊つた鉄の顔が、触れ合ふ程近い所にある。五百は覚えず咽び泣 い夫。そして意識の明に在ると洪に一[但んに優書は可哀さう災仁と つぷやくのであつた。  緑町の家へ、優善が此鉄を違れてはいつた時は、鉄はもう十五歳に なつてゐた。しかし世馴れた優菩は鉄を子供扱にして、詞をやさしく して宥めてゐたので、二人の間には何の衝突も起らずにゐた。  これに反して五百の監視の下を離れた優善は、門を出でては昔の放 窓なる生活に立ち掃つた。長崎から帰つた塩田良三との間にも、虐め て聯絡が附いてゐたことであらう。此人達は啻に酒家妓楼に出入する のみではなく、常に無頼の徒と会して哀耽の技を闘はした。良三の如 きは頭を一つ竈にしてどてらを被て街上を潤歩したことがあるさうで ある。優善の背後には、もうネメシスの神が逼り近づいてゐた。  澀江氏が亀沢町に来る時、五百は又長尾一族のために、本の小家を 新しい邸に徒して、そこへ一族を棲はせた。年月は詳にせぬが、畏 尾氏の二女の人に嫁したのは、亀沢町に来てからの事である。初め長 女敬が母と共に坐食するに忍びぬと看つて、媒するもののあるに任せ て、猿若町三丁日守固座附の茶屋三河屋力蔵に嫁し、次で次女鐙も浅 草須賀町の呉服商桝屋儀兵衛に嫁した。未亡人は筆算が出来るので、 敬の夫力蔵に重宝がられて、茶屋の帳場にすわることになつた。  抽斎の蔵書は兼て三万五千部あると云はれてゐたが、此年亀沢町に 徒つて検すると、既に一万部に満たなかつた。矢嶋優善が台所町の土 蔵から書籍を搬出するのを、当時まだ生きてゐた兄恒善が見附けて、 奪ひ還したことがある。しかし人目に触れずに、どれだけ出して売っ たかわからない。或時は二階から本を索に繋いで卸すと、街上に友人 が待ち受けてゐて持ち去つたさうである。凄政三年以後、抽斎の時々 病臥することがあつて、其間には書籍の敵侠することが殊に多かつた。 又人に貸して失った書も少くない。就中森枳園と其子養真とに貸した 書は多く還らなかつた。成善が海保の塾に入つた後には、海保竹運が Lぱく 数澀江氏に警告して、「大分御蔵書印のある本が市中に見えるやう でございますから、御注意なさいまし」と雪つた。 ‘。越落沁㌍聰叶て津孔喚嶋涛瞳路協㎏沁坊{由珪曜{丁、峨。 枳園等は白銀若干を賞腸せられたo  抽斎に洋学の必要を悟らせた安積艮斎は、此年十一月二十二日に七 十一歳で残した。艮斎の殴した時の齢は諸書に異同があつて、中に七 十一としたものと七十六としたものとが多い。鈴木春浦さんに頼んで、 妙源寺の墓石と過去帖とを検して貰ったが、並に皆これを記してゐな い。しかし文集を閲するに、故郷の安達太郎山に登つた記に、干支と 年齢のおほよそとが書してあつて、万延元年に七十六に満たぬことは 明白である。子文九郎重允が家を嗣いだ。少い時芥癬のために衰弱し たのを、父が温泉に連れて往つて治したことが、文集に見えてゐる。 抽斎は艮斎のワシントンの論讃を読んで、喜んで反復したさうである。 恐くは洋外紀略の「嗚呼話聖東、雖生於戎朔、其為人、有 足 多者」云々の一節であつただらう。 その七十一  抽斎覆後第三年は文久元年である。年の初に五百は大きい本箱三つ を成善の部星に運ばせて、戸棚の中に入れた。そしてかう云った。 「これは日本に僅三部しか無い善い版の十三経註疏だが、お父う様が 翁前のだと仰つた。今年はもう三回忌の来る年だから、今からお前の 傍に置くよ」と云った。  数目の後に矢嶋優善が、活花の友達を集めて会をしたいが、緑町の 家には丁度好い座敷か無いから、成善の部屋を借りたいと云った。成 善は部星を明け渡した。  さて友逢と云ふ数人が来て、汁粉などを食って帰つた跡で、戸棚の 本籍を見ると、其中は空虚であつた。  三月六日に優善は「身持不行跡不将」の廉を以て隠居を命ぜられ、 同時に「御憐欄を以て名跡御立被下置」と云ふことになつて、養子を 入れることを許された。  優善の応に養ふべき子を選ぶことをぱ、中丸昌庵が引き受けた。然 るに中丸の歓心を得てゐる近習諸百五十石六人扶持の医者に、上原元 永と云ふものがあつて、此上原が町医伊達周槙を推震した。  周禎は同じ年の八月四日を以て家督相続をして、矢嶋氏の禄二百石 八人扶持を受けることになつた。養父優善は二十七歳、養子周槙は文 化十四年生で四十六歳になつてゐた。  周禎の妻を高と云って、已に四子を生んでゐた。長男周碩、次男周 策、三男三蔵、四男玄四郎が即ち是である。周禎が矢嶋氏を冒した時、 長男周碩は生得不調法にして仕宣に適せぬと称して廃嫡を請ひ、小閏 原に往つて町医となつた。そこで弘化二年生の次男周策が嗣子に定ま つた。当時十七歳である。  是より先優菩が隠居の沙汰を蒙つた時、これがために最も憂へたも のは五百で、最も償ったものは比良野貞固である。貞固は優善を面責 して、いかにして此辱を雪ぐかと問うた。優善は山囲昌栄の塾に 入つて勉学したいと答へた。  貞固は先づ優菩が改俊の状を見届けて、然る後に入塾せしめると云 つて、優善と妻鉄とを自邸に引き取り、二階に住はせた。  さて十月になつてから、貞固は五百を招いて、倶に優菩を山田の塾 に連れて往つた。塾は本郷弓町にあつた。  此塾の月傳は三分二朱であつた。貞固の謂ふには、これは聊の金で はあるが、矢嶋氏の禄を受くる周禎が当然支出すべきもので、又優善 の修行中其妻鉄をも周禎があづかるが好いと云った。そして此二件を 周禎に交渉した。周禎はひどく迷惑らしい答をしたが、後に渋りなが らも承諾した。想ふに上原は周禎を矢嶋氏の嗣となすに当つて、株の 売渡のやうな形式を用ゐたのであらう。上原は澀江氏に対して余り同 情を有せぬ人で、優善には毘の糟と云ふ揮名をさへ附けてゐたさうで ある。  山田の塾には当時門人十九人が寄宿してゐたが、未だ幾もあらぬに 梅林松弥と云ふものと優善とが塾頭にせられた。梅林は初め抽斎に学 ぴ、後此に来たもので、維新後名を潔と改め、明治二十一年一月十四 日に陸軍一等軍医を以て終つた。  比良野氏では此年同藩の物頭二百石稲葉丹下の次男房之助を迎へて 養子とした。これは貞固が既に五十歳になつたのに、妻かなが子を生 まぬからであつた。房之助は嘉永四年八月二日生で、当時十一歳にな つてゐて、学問よりは武芸が好であつた。 その七十二  矢川氏では此年文一郎が二十一歳で、本所二つ目の鉄物間屋平野屋 む寸あ の女柳を娶つた◎  石塚重兵衛の豊芥子は、此年十二月十五日に六十三歳で残した。豊 芥子が澀江氏の扶助を仰ぐことは、殆ど恒例の如くになつてゐた。五 百は石塚氏にわたす金を記す帳簿を持つてゐたさうである。しかし抽 斎は此人の文字を識つて、広く市井の事に通じ、又劇の沿革を審に してゐるのを愛して、来り訪ふ毎に歓び迎へた。今抽斎に遅る㌧こと 三年で世を去つたのである。  人の死を説いて、直ちに其非を挙げむは、後言めく嫌はあるが、抽 斎の蔵書をして散侠せしめた顛末を尋ぬるときは、豊芥子も亦幾分の 貴を分たなくてはならない。その持ち去つたのは主に歌舞音曲の書、 随筆小説の類である。其他書画骨董にも、此人の手から商佑の手にわ たつたものがある。こ㌧に保さんの記憶してゐる一例を挙げよう。抽 斎の遺物に円山応挙の画百枚があつた。題材は彼の名高い七難七福の 図に似たもので、わたくしは其名を保さんに聞いて記憶してゐるが、 君ラくわ与すこぷ 少しくこれを筆にすることを憚る。装演頗る美にして桐の箱入になつ てゐた。此画と木彫の人形数箇とを、豊芥子は某会に出陳すると云っ て借りて帰つた。人形は六歌仙と若衆とで、寛永時代の物だとか責ふ ことであつた。これは抽斎が「三坊には雛人形を遣らぬ代にこれを遣 る」と云ったのださうである。三坊とは成善の小字三吉である。五百 は度々清助と云ふ若党を、浅草諏訪町の鎌倉屋へ遣って、催促して還 させようとしたが、豊芥子は言を左右に託して、遂にこれを還さなか つた一清功は本京郭の両替店銭星の息子で、遊蕩のために親に勘当せ られ、江戸に来て澀江氏へ若党に住み込んだ。手跡がなか/\好いの で、豊芥子の筆耕に億はれることになつてゐた。それゆゑ鎌倉屋への 使に立つたのである。  森枳園が小野宮穀と口諭をしたと云ふ話があつて、其年月を詳に せぬが、わたくしは多分此年の頃であらうと思ふ。場所は山城河岸の 津藤の家であつた。例の如く文人、画師、力士、俳優・諦間、芸妓等 の大一座で、酒酎なる比になつた。其中に枳園、宮穀、矢嶋優善、 伊沢徳安などが居合せた。初め枳園と宮穀とは何事をか論じてゐたが、 万事を茶にして世を渡る枳園が、どうしたわけか大いに怒つて、七代 日餐のたんかを切り、畔大漢の宮穀をして色を失って席を遁れしめた さうである。宮穀も亦滑稽趣味に於ては枳園に劣らぬ人物で、瞬で烟 草を喫むと云ふ隠芸を有してゐた。枳園と此人とがかくまで激烈に衝 突しようとは、誰も思ひ掛けぬので、優菩、徳安の二人は永く此喧嘩 を忘れずにゐた。想ふに貨殖に長じた宮穀と、人の物と我物との別に 重きを置かぬ、無頃着な枳園とは、其性格に相容れざる所があつたで あらう。津藤即ち摂津国屋藤次郎は、名は鱗、字は冷和、香以、鯉角、 梅阿弥等と号した。その豪遊を韓にして家産を蕩尽したのは、世の 知る所である。文政五年生で、当時四十歳である。  此年の抽斎が忌目の頃であつた。小嶋成斎は五百に勧めて、猶存し てゐる蔵書の大半を、中橋埋地の柏軒が家にあづけた。柏軒は翌年お 玉が池に第宅を移す時も、家財と共にこれを新居に搬び入れて、一年 間位鄭重に保護してゐた。 その七士二  抽斎殴後の第四年は文久二年である。抽斎は世にある日、藩主に活 版薄葉刷の医方類聚を献ずることにしてゐた。書は喜多村拷窓の校刻 する所で、月。ことに発行せられるのを、抽斎は生を終るまで次を逐つ て上つた。成善は父の歿後相継いで納本してゐたが、此年に至つて全 部を猷℃畢つた一八月十五旧順永は竈亘在以て成書に「御召御政御調 織並御酒御吸物」を賞賜した。  成善は二年前から海保竹運に学んで、此年十二月二十八日に、六歳 にして藩主順承から奨学金二百匹を受けた。主なる経吏の秦読を畢つ たためである。母五百は子女に読書習字を授けて半日を費すを常とし てゐたが、毫も成菩の学業に干渉しなかつた。そして「あれは書物が 御飯より好だから、構はなくても好い」と云った。成菩は又善く母に 事ふると云ふを以て、賞を受くること両度に及んだ。  此年十月十八日に成菩が筆札の師小嶋成斎が六十七歳で覆した。成 斎は朝生徒に習字を敦へて、次で阿部家の館に出仕し、牛時公退して 酒を飲み劇を談ずることを例としてゐた。阿都家では抽斎の歿するに 先だつこと一年、安政四年六月十七日に老中の職に居つた伊勢守正弘 が世を去つて、越えて八月に伊予守正教が家督相続をした。成菩が従 学してからは、成斎は始終正教に侍してゐたのである。後に至つて成 菩は朝の課業の喧擾を避け、午後に訪うて単独に教を受けた。そこで 成斎の観劇談を聴くこと腰で紡りた。成斎は卒中で死んだ。正弘ゆ堵 中たりし時、成斎は用人格に擢でられ、公用人服都九十郎と名を斉う してゐたが、二人皆同病によつて命を唄した。成斎には二子三女があ つて、長男生軌は早世し、次男信之が家を継いだ。通称は俊治である。 俊治の子は鐙之助、鏡之助の養嗣子は、今本郷区駒込動坂町にゐる昌 古きんである。高足の一人小此木辰太郎は、明治九年に工務省雇にな り、十八年内閣属に転じ、十九年十二月一日から二十七年三月二十九 日まで職を学習院に奉じて、生徒に筆札を授けてゐたが、明治二十八 年一月に致した。  成善が此頃母五百と倶に浅草永住町の覚音寺に詣でたことがある。 覚音寺は五百の里方山内氏の菩提所である。帰途二入は蔵前通を歩い て桃太郎団子の店の前に来ると、五百の相識の女に避遁した。これは 五百と同じく藤堂家に仕へて、中老になつてゐた人である。五百は久 しく消息の絶えてゐた此女と話がしたいと云って、程近い横町にある 料理屋誰袖に案内した。成善も跡に附いて往つた。誰袖は当時川長、 青柳・大七などと並称せられた家である。  三人の通った座敷の隣に大一座の客があるらしかつた。しかし声高 く語り合ふこともなく、矧てや絃歌の響などは起らなかつた。暫くあ つて其座敷か遠に騒がしく、多人数の足音がして、跡は又ひつそりと した。  給仕に来た女中に丑百が問ふと、女中は云った。「あれは札差の檀 那衆が悪作劇をしてお出なすつたところへ、お辰さんが飛ひ込んでお 出なすつたのでございます。蒔き散らしてあつたお金を其儘にして置 いて、檀那衆がお逃なさると、お辰さんはそれを持つて岩帰なさいま した」と云った。岩辰と云ふのは、後盗をして捕へられた旗本青木弥 太郎の妾である。  女中の語り畢る時、両刀を帯びた異様の男が五百等の座敷に闇入し て「手前達も博突の伸間だらう、金吃持つてゐるなら、そこへ出して しまへ」と看ひつゝ、刀を抜いて威嚇した。 「なに、此覇り奴が」と五百は叫んで、懐剣を抜いて起つた。男は初 の勢にも似ず、身を鎌して逃げ去つた。此年五百はもう四十七歳にな つてゐた。 その七十四  矢嶋優善は山田の塾に入つて、塾頭に推されてから、稍自重するも のの如く、病家にも信頼せられて、旗下の家庭にして、特に矢嶋の名  さ を斥して招請するものさへあつた。五百も比良野貞固もこれがために 頗る心を安んじた。  既にして此年二月の初午の日となつた。澀江氏では亀沢稲荷の祭を 行ふと云って、親戚故旧を集へた。優菩も来て宴に列し、漬兀を語つ たり茶番を演したりした。五百はこれを見て苦々しくは思ったが、酒 を飲まぬ優菩であるから、縦や少しく興に乗じたからと云って、後に 累を胎すやうな事はあるまいと気に掛けずにゐた。  優菩が澀江の家に来て、其タ方に帰つてから、三二自立つた頃の事 である。師山田椿庭が本郷弓町から尋ねて来て、「矢嶋さんはこちら ですか、余り久しく御滞留になりますから、どうなされたかと存じて 伺ひました」と云った。 「優菩は初午の目にまゐりました切で、あの目には晩の四つ頃に帰り ましたが」と、五百は訶かしげに答へた。 「はてな。あれから塾へは帰られませんが。」椿庭はかう云って眉を 壁めた。  五百は即時に人を諸方に馳せて捜索せしめた。優善の所在はすぐに 知れた。初午の夜に無銭で吉原に往き、翌日から田町の引手茶屋に潜 伏してゐたのである。  五百は金を償って優善を帰らせた。さて比良野貞固、小野宮穀の二 人を呼んで、いかにこれに処すべきかを議した、幼い成善も、戸主だ と云ふので、其席に列つた。  貞固は暫く黙してゐたが、容を改めてかう云った。「此度の処分は た■ 只一つしか無いとわたくしは思ふ。玄碩さんはわたくしの宅で詩腹を 切らせます。小野さんも、お姉えさんも、三坊も御苦労ながらお立会 下さい。」言ひ畢つて貞固は緊しく口を結んで一座を見廻した。優善 は矢嶋氏を冒してから、養父の称を襲いで玄碩と云ってゐた。三坊は 成善の小字三吉である。  富穀は面色土の如くになつて、一語を発することも得なかつた。  五百は貞固の詞を予期してゐたやうに、徐に答へた。「比良野様の 御意見は御尤と存じます。度々の不始末で、もう此上何と申し聞けや うもございません。いづれ篤と考へました上で、改めてこちらから申 し上げませう」と云った。  これで相談は果てた。貞固は何事も無いやうな顔をして、席を起つ て掃つた。富穀は跡に残つて、どうか比良野を勘弁させるやうに話を してくれと、繰り返して五百に頼んで置いて、すご/\帰つた。五百 は優善を呼んで厳に会議の始末を言ひ渡した。成菩はどうなる事かと ’胸を痛めてゐ沈。  翌朝五百は貞固を訪うて懇談した。大要はかうである。昨日の仰は 尤至極である。自分は同意せずにはゐられない。これまでの行掛り を思へば、優善に此上どうして罪を贋はせようと云ふ遣は無い。自分 も一死が其分であるとは信じてゐる。しかし晴がましく死なせること は、家門のためにも、君侯のためにも望ましくない。それゆゑ切腹に 代へて、金毘羅に起講文を納めさせたい。悔い改める望の無い男であ るから、必ず冥々の裏に神罰を蒙るであらうと云ふのである。  貞固はつく%\聞いて答へた。それは好いお恩附である。此度の事 に就いては、命乞の伸裁なら決して聴くまいと決心してゐたが、晴が ましい死様をさせるには及ばぬと云ふお考は道理至極である。然らば 菜起請文を書いて金毘羅に納めることは、姉上にお任せすると云った。 その七十五  五百は矢嶋優善に起講文を書かせた。そしてそれを持つて虎の門の 金毘羅へ納めに往つた。しかし起講文は納めずに、優善が行末の事を 祈念して帰つた。 れいと  小野氏では此年十二月十二目に、隠居令図が八十歳で残した。五年 前に致仕して冨穀に家を継がせてゐたのである。小野氏の財産は令図 の貯へたのが一万両を超えてゐたさうである。  伊沢柏軒は此年三月に二百俵三十人扶持の奥医師にせられて、中橘 埋地からお玉が池に居を移した。此時新宅の祝宴に招かれた保さんが み き 種々の事を記億してゐる。柏軒の四女やすは保さんの姉水木と長唄の 珀いきつ 呈っち⊥うムんどL 老松を歌った。柴田常庵と云ふ肥え太つた医師は、越中樽一つを身 た壮 だる! に着けたばかりで、棚の達磨を踊つた。そして宴が敵じて帰る途中で、 保さんは陣幕久五郎が小柳平助に負けた話を聞いた。、 むすめ た由  やすは柏軒の庶出の女である。柏軒の正妻狩谷氏俊の生んだ子は、 たうすけ 、 し5 幼くて死した長男菓助、十八九歳になつて麻疹で亡くなつた畏女洲、 くわしし 狩谷エキ斎の養孫、懐之の養子三右衛門に嫁した次女国の三人だけで、 “上 ま モ 看。 ー ば、。易−、 洲、 い岨■ 次女国、三女北、次男磐、四女やす、五女こと、三男信平、四男孫助 ゐ な 凸 である。おやすさんは人と成つて後田舎に嫁したが、今は麻布鳥居坂 町の信平さんの許にゐるさうである。  柴田常庵は幕府医官の一人であつたさうである。しかしわたくしの 蔵してゐる武鑑には載せてない。万延元年の武鑑は、わたくしの蔵本 に正月、三月、十月の三種がある。柏軒は正月のにはまだ奥諸の部に 出てゐて、三月以下のには奥医師の部に出てゐる。柴田は三書共に二 たけしぱ れを載せない。維新後に此人は狂言作者になつて竹柴寿作と称し、五  ‘んど, 世坂東彦三郎と親しかつたと云ふことである。猶尋ねて見たいもので ある。 一 恨” オく  障幕久五郎の負は当時人の意料の外に出た出来事である。抽斎は角 てい 左さな 触を好まなかつた。然るに保さんは稀い時からこれせ看ることを喜ん ○ で、此年の春場所をも、初目から五日目まで一日も闘かさずに見舞っ ね た。さて其六日目が伊沢の祝宴であつた。子の刻を過ぎてから、保さ んは母と姉とに達れられて伊沢の家を出て婦り掛かつた。途中で若党 清助が迎へて、保さんに「陣幕が負けました」と耳語した。  ラ そ っ しっ 「虚言を衝け」と、保さんは叱した。敢組は前から知つてゐて、小柳 が障幕の敵でないことを固く信じてゐたのである。 こと 「いゝえ、本当です」と、清助は云った。清助の言は事実であつた。 障幕は小柳に負けた。そして小柳は此勝の故を以て人に殺された。そ の殺されたのが九つ半頃であつたと云ふから、丁度保さんと清助とが 此応答をしてゐた時である。 ちなみ 二にしき  陣幕の事を膏つたから、因に小錦の事をも言って置かう。伊沢のお むすめ かえきんに附けられてゐた松と云ふ少女があつた。松は魚屋與助の女 で、菊、京の二人の妹があつた。此京が岩木川の種を宿して生んだの や モ きち が小錦八十吉である。  保さんは今一つ、柏軒の奥医師になつた時の事を記憶してゐる。そ れば手習の師小嶋成斎が、此時柏軒の子鉄三郎に対する待遇を一変し た事である。福山侯の家来成斎が、いかに幕府の奥医師の子を尊敬し ■oらか なくてはならなかつたかと云ふ、当年の階級制度の画図が、明に輝い 成菩の目前に展聞せられたのである。 その七十六  小嶋成斎が神田の阿部家の屋敷に住んで、二階を敦場にして、弟子 に手習をさせた頃、大勢の児重が机を並べてゐる前に、手に鞭を執つ さき 中研さ て坐し、筆法を正すに鞭の尖を以て指し示し、其間には諸謹を交へた 話をしたことは、前に書いた。成斎は話をするに、多く伊沢柏軒の子 鉄三郎を相手にして、鉄坊々々と呼んだが、それが意あつてか、どう か知らぬが、鉄砲々々と問えた。弟子等もまた鉄三郎を鉄砲さんと呼 んだ。 からか  成斎が鉄砲さんを椰楡へぱ、鉄砲さんも必ずしも師を敬ってぱかり ナ げん はゐない。往々戯言を吐いて尊厳を冒すことがある。成斎は「おのれ め ムる 鉄砲奴」と叫びつゝ、鞭を撫つて打たうとする。鉄砲は笑って逃げる。 成斎は追ひ附いて、鞭で頭を打つ。「あ㌧痛い、先生ひどいぢやあり ませんか」と、鉄砲はつぷやく。弟子等は面白がつて笑った。かう云 ふ事は殆ど毎日あつた。  然るに此年の三月になつて、鉄砲さんの父柏軒が奥医師に籔’た。 翌日から成斎はばつきりと伊沢の子に対する待遇を改めた。例之ぱ筆 法を正すにも「徳安さん、其点はかうお打なさいまし」と云ふ。鉄三 郎は余程前に袋を棄てて婆と称してゐたので紡㍍。この新な待遇 は、不思議にも、これを受ける伊沢の嫡男をして忽ち態度を改めしめ お とな た。鉄三郎の億安は甚だしく大人しくなつて、殆どはにかむやうに見 えた。  此年の九月に柏軒はあづかつてゐた抽斎の蔵書を還した。それは九 いへもち じやうらく 月の九日に将軍家茂が明年二月を以て上洛すると云ふ令を発して、湘 ^ 地 軒はこれに随行する準傭をしたからである。澀江氏は比良野貞固に諮 つて、伊沢氏から還された書籍の主なものを津軽家の倉庫にあづけた。 そして毎年二度づゝ虫干をすることに定めた。当時作つた日録によれ ぱ、其部数は三千五百余に過ぎなかつた。  書籍が伊沢氏から還されて、まだ津軽家にあづけられぬ程の事であ を こ と てん つた。森枳園が来て論語と吏記とを借りて帰つた。論語は乎古止点を 旛した吉写本で、松永久秀の印記があつた。史記は朝鮮板であつた。 後明治二十三年に保さんは嶋田簑村を訪うて、再ぴ此論語を見た。箆 けみ 村はこれを紬川十洲さんに借りて閲してゐたのである。  津軽家では此年十月十四日に、信順が浜町中星敷に於て、六士二歳 きくらべ で卒した。保さんの成菩は枕辺に侍してゐた。 はなば 世きかく やいぽ おと  此年十二月二十一日の夜、塙次郎が三番町で刺客の刃に命を限した。 きやう盲い と 抽斎は常に此人と岡本況斎とに、国典の事を詞ふことにしてゐたさう ほ き いち である。次郎は温古堂と号した。保已一の男、四谷寺町に住む忠雄さ つL音のかみの五ゆき んの祖父である。当時の流言に、次郎が安藤対馬守信睦のために廃立 の先例を取り調へたと責ふ事が伝へられたのが、此横禍の因をなした かたばら のである。遺骸の傍に、大逆のために天罰を加ふと云ふ捨札があつた。 おか 次郎は文化十一年生で、殺された時が四十九歳、抽斎より少きこと九 年であつた。  是年沫明中旬か帖杁明圷旬まで麻疹が流行し江い澀江氏の亀沢町の 家へ、御柳の葉と貝多羅葉とを貰ひに来る人が踵を接した。二樹の葉 が当時民間薬として用ゐられてゐたからである。五百は終日応接して、 そむ 諸人の望に負かざらむことを努めた。 その七十七  抽斎歿後の第五年は文久三年である。成善は七歳で、始て矢の倉の あんたく 多紀安琢の許に通って、素間の講義を聞いた。 したが  伊沢柏軒は此年五十四歳で理した。徳川家茂に随つて京都に上り、 病を得て答死したのである。嗣子鉄三郎の徳安がお玉が池の伊沢氏の 主人となつた。 び せい  此年七月二十日に山崎美成が致した。抽斎は美成と甚だ親しかつた のではあるまい。しかし二家書庫の蔵する所は、亙に出だし借すこと 吐し 二のごろ のちはむ小し を吝まなかつたらしい。頃日珍書刊行会が後昔物語を刊したのを見 るに、抽斎の奥書かある。「右喜三二随筆後昔物語一巻。借好間蛍蔵 へい帖くみん 柾うし ,ラとう 本。友人平伯民為予謄写。庚子孟冬一校。抽斎。」庚予は天保十一年  で、抽斎が弘前から江戸に帰つた翌年である。平伯民は平井東堂ださ うである。 あさな きラけい  美成、字は久卿、北峰、好間堂等の号がある。通称は新兵衛、後久 作と改めた。下谷二長町に薬店を開いてゐて、屋号を長崎屋と云った。 油べしま もちのきざか 晩年には飯田町の鍋嶋と云ふものの邸内にゐたさうである。魏木坂下 えいの すけ よりあひ に鍋嶋頴之助と云ふ五千石の寄合が住んでゐたから、定めて其邸であ らうo よはひ  美成の殴した時の齢を六十七歳とすると、抽斎より長ずること八歳 きちく であつただらう。しかし諸書の記載が区々になつてゐて、纏には定め 難い。  抽斎殴後の第六年は元治元年である。森枳園が踏寿館の講師たるを 以て、幕府の月俸を受けることになつた。 寸ゐざん  第七年は慶応元年である。澀江氏では六月二十日に翠暫が十一歳で えうきつ 夫札した。 あ  比良野貞固は此年四月二十七日に妻かなの喪に遭った。かなば文化 十四年の生で四十九歳になつてゐた。内に倹素を忍んで、外に声望を 張らうとする貞固が留守居の生活は、かなの内助を待つて始て保続せ しきo られたのである。かなの死後に、親戚僚属は頻に再び娶らむことを勧 −』 めたが、貞固は「五十を蹴えた花掲になりたくない」と云って、久し くこれに応ぜずにゐた。 由上  第八年は慶応二年である。海保漁村が九年前に病に罹り、此年八月 其再発に逢ひ、九月十八日に六十九歳で殴したので、十歳の成蕎は改 めて其子竹運の門人になつた。しかしこれは殆ど名義のみの変夏に過 ぎなかつた。何故と云ふに、晩年の漁村が弟子のために書を講じたの こと%\ は、四九の日の午後のみで、其他授業は竹運が悉くこれに当つてゐた し唯小 からである。漱村の書を講ずる声は咳硬れてゐるのに、竹運ば音吐清 …−−臣−声’−≡ i…■E’F…一。■’一し≡、−−−’−−一1ξ…−−巨F−≡ ’ 朗で、しかも能弁であつた。後年に至つて嶋田隻村の如きも、講壇に こうムん 立つときは、人をして竹運の口吻態度を学んでゐはせぬかと疑はしめ ←−ゞ でんげいろ た。竹運の養父に代つて講説することは、啻に伝経魔に於けるのみで はなかつた。竹運ば弊衣を膚て塾を出で、漁村に代つて麟寿館に往き、 き壮ぺ 」きほひかく 間部家に往き、南都家に往いた。勢此の如くであつたので、漁村歿 ねりべ㌧こうち 後に至つても、練堺小路の伝経廬は旧に依つて繁栄した。  多年澀江氏に寄食してゐた山内豊覚の妾牧は、此年七十七歳を以て、 五百の介抱を受けて死んだ。 その七十八 むす■ の‘  抽斎の姉須磨か飯田良清に嫁して生んだ女二人の中で、畏女延は小 みち 舟町の新井屋半七が妻となつて死に、次女路が残つてゐた。路は痘瘡 かたち や∫ のために貌を傷られてゐたのを、多分此年の頃であつただらう、三百 石の旗本で戸田某と看ふ老人が後妻に迎へた。戸田氏は旗本中に頗る 多いので、今考へることが出来にくい。良清の家は、須磨の生んだ長 男直之助が夫折した跡へ、孫三郎と云ふ養子が来て継いでから、もう かちめ 久しうなつてゐた。飯田孫三郎は十年前の安政三年から、武鑑の徒目 つけ 附の部に載せられてゐる。住所は初め湯嶋天沢寺前としてあつて、後 りんしや,ゐん には湯嶋天神裏門前としてある。保さんの記億してゐる家は麟祥院前  さるあめ の猿飴の横町であつたさうである。孫三郎は維新後静岡県の官吏にな よ㌧iき つて、良政と称し、後又東京に入つて、下谷車坂町で終つたさうであ る。  比良野貞固は妻かなが残した後、稲葉氏から来た養子房之助と二人 中もめぐら で、鰍暮しをしてゐたが、無妻で留守居を勤めることは出来ぬと説く やゝ なかうど ものが多いので、貞固の心が稍動いた。此年の頃になつて、媒人が表 珀はす むすあ 坊主大須と云ふものの女照を娶れと勧めた。武鑑を検するに、慶応二 年に勤めてゐた此氏の表坊主父子がある。父は玄喜、子は玄悦で、麹 町三軒家の同じ家に住んでゐた。照は玄喜の女で、玄悦の妹ではある  、 、o ま、カ 貞固は津軽家の留守居役所で使ってゐる下役杉浦喜左衛門を遣って、 照を見させた。杉浦は老実な人物で、貞固が信任してゐたからである。 庁んぎよ 照に逢って来た杉浦は、盛んに照の美を賞して、其言語其挙止さへい かにもしとやかだと云ったo  結納は取換された。婚礼の当日に、五百は比良野の家に往つて新婦 “と を待ち受けることになつた。貞固と五百と淋窓の下に対坐してゐると、 かご か 新婦の輻は門内に昇き入れられた。五百は矯を出る女を見て驚いた。 たけ とが 身の丈極て小さく、色は黒く鼻は低い。その上口が尖つて歯が出てゐ に小わらひ る。五百は貞固を顧みた。貞固は苦笑をして、「お姉えさん、あれが 一』 花よめ御ですぜ」と云った。  新婦が来てから杯をするまでには時が立つた。五百は杉浦の居らぬ のを怪んで問ふと、よめの来たのを迎へてすぐに、比良野の馬を借り て、どこかへ乗つて往つたと云ふことであつた。 ひたひ oぐ  暫らくして杉浦は五百と貞固との前へ出て、頚の汗を拭ひつゝ云っ きラしわけ た。「実に分疏がございません。わたくしはお照殿にお近づきになり たいと、先方へ申し込んで、先方からも委細承畑したと云ふ返事があ つて参つたのでございます。其席へ立派にお化粧をして茶を運んで出 ざんじ て、暫時わたくしの前にすわつてゐて、時候の挨拶をいたしたのは、 兼て申し上げたとほりの美しい女でございました。今日参つたよめ御 」εゐ きり は、其日に菓子鉢か何か持つて出て、閾の内までちよつとはいつた切 で、すぐに引き取りました。わたくしはよもやあれがお照殿であらう とは存じませなんだ。余りの間違でございますので、お馬を借用して、 大須家へ駆け付けて尋ねましたところが、御挨拶をさせた女は照のお せ。がれ 引合せをいたさせた停のよめでございますと云ふ返答でございます。 そ 二っ 全くわたくしの粗忽で」と云って、杉浦は又頚の汗を拭った。 その七十九  五百は杉浦喜左衛門の話を聞いて色を変じた。そして貞圃に「どう なさいますか」と問うた。  杉浦は傍から云った。「御破談になさるより外ございますまい。わ たくしがあの日に、あなたがお照様でございますねと、;自念を押し よろ て置けば宜しかつたのでございます。全くわたくしの粗忽で」と云ふ、 目には涙を浮べてゐた。 こき山  貞固は叉いてゐた手をほどいて云った。「お姉えさん御心配をなさ いますな。杉浦も悔まぬが好い、わたしは此婚礼をすることに決心し ました。お坊主を恐れるのではないが、喧嘩を始めるのは面白くない。 それにわたしはもう五十を越してゐる。器量好みをする年でもない」 と云った。  貞固は遂に照と杯をした。照は天保六年生で、嫁した時三十二歳に なつてゐた。醜いので縁遠かつたのであらう。貞固は妻の里方と交る げん に、多く形式の外に出でなかつたが、照と緒婚した後間もなく其弟玄 たく 琢を愛するやうになつた。大須玄琢は学才があるのに、父兄はこれに じよりき や を ぽん 助力せぬので、貞固は書籍を買って与へた。中には八尾板の吏記など のやうな大部のものがあつた。  此年弘前藩では江戸定府を引き上げて、郷国に帰らしむることに決 おづか した。抽斎等の国勝手の議が、此時に及んで纏に行はれたのである。 しかし澀江氏と其親戚とは先づ江戸を発する群には入らなかつた。  抽斎歿後の第九年は慶応三年である。矢嶋優菩は本所緑町の家を引 しるひと き払って、武蔵国北足立郡川口に移り住んだ。知人があつて、此土地 で医業を営むのが有望だと勧めたからである。しかし優菩が川口にゐ ゐな小 て医を業としたのは、僅の間である。「どうも独身で田舎にゐて見る と、土臭い女がたかつて来て、うるさくてならない」と云って、亀沢 町の澀江の家に帰つて同居した。当時優善は三十三歳であつた。 −」う“1い りう むすめ  比良野貞固の家では、此年後妻照が柳と云ふ女を生んだ。  第十年は明治元年である。伏見、鳥羽の戦を以て始まり、東北地方 や弓や に押v諸められた佐幕の余力が、春より秋に至る間に漸く衰滅に帰し よしのふ た年である。最後の将軍徳川慶喜が上野寛永寺に入つた後に、江戸を 引き上げた弘前藩の定府の幾組かがあつた。そして其中に澀江氏がゐ た①  澀江氏では三千坪の亀沢町の地所と邸宅とを四十五両に売つた、屠 ていしよ i−■ 一枚の価は二十四文であつた。庭に定所、抽斎父子の遺愛の木たる蠻 柳がある。神田の火に逢って、幹の二大枝に岐れてゐるその一つが枯 れてゐる。神田から台所町へ、台所町から亀沢町へ徒されて、幸に凋 れなかつた木である。又山内豊覚が遺書して五百に贈つた石燈籠があ る。五百も成善も、此等の物を棄てて去るに忍びなかつたが、されば とて木石を百八十二里の遠きに致さんことは、王侯富豪も難んずる所 である。ましてや一身の安きをだに期し難い乱世の旅である。母子は これを奈何ともすること淋出来なかつた。  食客は江戸若くは其界隈に寄るべき親族を求めて去つた。奴牌は、 弘前に随ひ行くべき若党二人を除く外、悉く暇を取つた。かう云ふ時 に、年老いたる男女の往いて投ずべき家の無いものは、愍むべきであ る。山内氏から来た牧は二年前に死んだが、跡にまだ妙了尼がゐた。  妙了尼の親戚は江戸に多かつたが、此時になつて誰一人引き取らう と云ふものが無かつた。五百は一時当惑した。 その八十  澀江氏が本所亀沢町の家を立ち退かうとして、最も処置に困んだの は妙了尼の身の上であつた。此老尼は天明元年に生れて、已に八十八 歳になつてゐる。津軽家に奉公したことはあつても、生れてから江戸 の土地を離れたことの無い女である。それを弘前へ伴ふことは、五百 がためにも望ましくない。又老いさらばひたる本人のためにも、長途 の旅をして知人の無い逮国に往くのはつらいのである。  本妙了は特に澀江氏に縁故のある女ではない。神田蓬嶋町の古潜屋 の女に生れて、真寿院の女小姓を勤めた。さて暇を取つてから人に嫁 し、夫を喪って剃髪した。夫の弟が家を嗣ぐに及んで、初め恋愛して ゐたために今憎悪する戸主に虐遇せられ、それを耐へ忍んで年を経た。 亡夫の弟の子の代になつて、虐遇は前に借し、剰へ眼病を憂へた。こ れが弘化二年で、妙了が六十三歳になつた時である。  妙了は眼病の治療を講ひに抽斎の許へ来た。前年に来り嫁した五百 が、老尼の物語を聞いて気の毒がつて、遂に食客にした。それからは 澀江の家にゐて子供の世話をし、中にも燥虻城菩とを愛した。  妙了の最も近い親戚は、本所相生町に石灰屋をしてゐる弟である。 しかし弟は澀墾の江戸を去るに当つて、姉を引き取る、、珪帽んだ。 其外今川橋の飴屋、石原の釘屋、箱崎の呉服屋、蓬嶋町の足袋屋など も、皆縁類でありながら、一人として老尼の世話をしようと云ふもの は無かつた。  幸に妙了の対腰が一人宮田十兵衛と云ふものの戴になつてゐて、夫 に小母の事を話すと、十兵衛は快く妙了を引き取ることを諾した。十 兵衛は伊豆国鑑雌の菓寺に寺男をしてゐるので、妙了は韮山へ往つた。 さく  四月朔に澀江氏は亀沢町の邸宅を立ち退いて、本所横川の津軽家の 中屋敷に徒つた。次で十一日に江戸を発した。此日は官軍が江戸城を 収めた目である。 いほ くが みき 。。寸行ほ戸ま虜菩十ユ歳デ樺軍百主ヰ、羊歳竈陛羊{。羊繭r木本†木歳、 職対十五歳、矢嶋優善三十四歳の六人と若党二人とである。若党帥ト 人は岩崎駒五郎と云ふ弘前のもので、今一人は中条勝次郎と云ふ常陸 くに 国土浦のものである。  同行者は矢川文一郎と浅越一家とである。文一郎は七年前の文久元 むすめ 年に二十一歳で、本所二つ目の鉄物間屋平野屋の女柳を娶つて、男子 き を一人まうけてゐたが、弘前行の薯が極まると、柳は江戸を離れるテ一 とを欲せぬので、子を運れて里方へ掃つた。文一郎は江戸を立つた時 二十八歳である。 むすo  浅越一家は主人夫婦と女とで、若党一人を運れてゐた。主人は通称 わか を玄隆と云って、百八十石六人扶持の表医者である。玄隆は少い時不 行迹のために父永寿に勘当せられてゐたが、永寿の殴するに及んで末 ラ 期養子として後を承け、次で抽斎の門人となり、又抽斎に紹介せられ て海保漁村の塾に入つた。天保九年の生れで、拍斎に従学した安攻四 年には二十歳であつた。其後澀江氏と親んでゐて、其に江戸を立つた 時は三十一歳である。玄隆の妻よしは二十四歳、女ふくは当歳である。  こゝに此一行に加はらうとして許されなかつたものがある。わたく o」と しはこれを記するに当つて、当時の杜会が今と殊なることの甚だしき を感ずる。奉公人が臣僕の関係になつてゐたことは勿論であるが、出 あきうど また 入の職人商人も亦情誼が頗る厚かつた。澀江の家に出入する中で、職 かざ一や すしや 人には飾屋長八と云ふものがあり、商人には鮮屋久次郎と云ふものが ぽ 直くきよう あつた。長八は澀江兵の江戸を去る時墓木挟してゐたが、久次郎は六 おき壮 坦。由ら 十六歳の翁になつて生存へてゐたのである。 その八十一  飾屋畏八は単に澀江氏の出入だと云ふのみではなかつた。天保十年 に抽斎が弘前から帰つた時、長八は病んで治療を請うた。其時抽斎は や 畏八が病のために業を罷めて、妻と三人の子とを養ふことの出来ぬの を見て、長屋に住はせて衣食を給した。それゆゑ長八は病が癒えて業 ・に就いた後“。麦ζ澀江氏わ恩邑忘札なかρ←、−。汝攻匠串に油斎の慶し た時、畏八は葬式の維儲蛇して家に帰り、例に依つて晩酌細一合を傾 けた。そして「あの檀那様がお亡くなりなすつて見れば、己もお供を しても好いな」と云った。それから二階に上がつて寝たが、翌朝起き て来ぬので女房淋往つれ見批辻、畏八は死んでゐたさうである。ひいき  鮮屋久次郎は本ばて振の肴屋であつたのを、五百の兄栄次郎が晶貝 胆うちやラ  にして資本を与へて料理店を出させた。幸に鮮久の庖丁は評判が好か わか 世がれ  つたので、十ぱかり年の少い妻を迎へて、天保六年に停豊吉をまうけ た。享和三年生の久次郎は当時三十三歳であつた。後九年にして五百  が抽斎に嫁したので、久次郎は澀江氏にも出入することになつて、次 第に親しくなつてゐた。  澀江氏が弘前に徒る時、久次郎は切に供をして往くことを願った。  三十四歳になつた蓬吉に、母の世話をさせることにして置いて、自分  は単身澀征氏の供に立たうとしたのである。此望を起すには、弘前で 料理店を略さうと看ふ企業心も少し手伝ってゐたらしいが、六十六歳 の翁が二百里足らずの遠路を供に立つて行かうとしたのは、主に五百 しOぞ を尊崇する念から出たのである。澀江氏では故なく久次郎の願を御け ることが出来ぬので、藩の当事者に伺がつたが、当事者はこれを許す ことを好まなかつた。五百は用人河野六郎の内意を承けて、久次郎の オゝ 随行を謝絶した。久次郎はひどく落胆したが、翌年病に罹つて死んだ。 ほとり たてか胆  澀江氏の一行は本所二つ目橋の畔から高瀬舟に乗つて、竪川を漕が せ、中川より利根川に出で、流山、柴又等を経て小山に着いた。江戸  さ を距ること僅に二十一里の路に五日を費した。 信しだて一− せい あつせん  近衛家に縁故のある津軽家は、西館孤清の斡旋に依つて、既に官軍 に加はつてゐたので、路の行手の東北地方は、秋田の一藩を除く外、 悉く敵地である。一行の澀江、矢川、浅越の三氏の中では、澀江氏は 人数も多く、老人があり少年少女がある。そこで最も身軽な矢川文一 わづらひ 郎と、乳欽子を抱いた妻と云ふ累を有するに過ぎぬ浅越玄隆とをぱ先 に立たせて、澀江一家が跡に残つた。 か ご  五百等の乗つた五挺の駕籠を矢嶋優善が宰領して、若党二人を連れ 廿ラヘい世ん て、石橋駅に掛か拓辻いは袖台藩の哨兵線に出合った。銃舵悌した兵卒 が左右二十人づ嘉を挾んで、;く戸を開けさせて誰何する。女 の稀は仔紬なく通過させたが、成善の矯に至つて、審間に時を費した、 此晩に宿に着いて、五百は成菩に女装させた。  出羽の山形は江戸から九十里で、弘前に至る行程の半である。常の 一」ゝ ,なぎ 旅には此に来ると祝ふ習であつたが、五百等はわざと旅店を避けて鰻 や 屋に宿を求めた。 その八十ニ ニ  山形から弘前に往く順路は、小坂峠を蹴えて仙台に入るのである。 五百等の一行は仙台を避けて、板谷峠を漁えて米沢に入ることになつ 由みのやき た。しかし此遺筋も安金では無かつた。上山まで往くと、形勢が甚だ えんoう 不穏なので、致日間滝留した。 つ  五百等は路用の金が掲きた。江戸を発する時、多く金を携へて行く か し ムな官は のは危険だと云って、金銭を長持五十荷余りの底に布かせて舟廻しに ちと したからである。吾等は上山で、やうく陸を運んで来た些の荷物 の過半を売つた。これは金を得ようとしたばかりではない。間道を進 加きたか むことに決したので、嵩高になる荷は持つてゐられぬからである。荷 もと を売つた銭は固より路用の不足を補ふ額には上らなかつた。幸に弘前 藩の会計方に落ち合って、五百等は少しの金を借ることが出来沈。 竈れ 比血ぱしご すが  上山を発してからは人烟稀なる山谷の間を過ぎた。縄梯子に縋つて 断崖を上下したこともある。夜の宿は旅人に餅を売つて茶を供する休 たぐひ 息所の類が多かつた。宿で物を盗まれることも数度に及んだ。  院内峠を蹴えて秋田領に入つた時、五百等は少しく心を安んずるこ よしたか つぐてる とを得た。領主佐竹右京大夫義莞は、弘前の津軽承昭と其に官軍方に なつてゐたからである。秋田領は無事に過ぎた。  さて矢立峠を麟え、四十八川を渡つて、弘前へは往くのぜある。矢 ざかひ 立峠の分水線が佐竹、津軽両家の領地界である。そこを少し下ると、 “かりが世き 碇関と云ふ関があつて番人が置いてある。番人は鑑札を検してから、 いんぎん ことば そぴ φぴざ 始て慰勲な詞を使ふのである。人が雲表に聲ゆる岩木山を指して、あ ムもと れが津軽富士で、あの麓が弘前の城下だと教へた時、五百等は覚えず こ、信 涙を翻して喜んださうである。  弘前に入つてから、五百等は土手町の古着商伊勢星の家に、藩から し むけ 一人一日金一分の為向を受けて、下宿することになり、そこに半年余 ちきた りゐた。船廻しにした荷物は、程経て後に着いた。下宿星から街に閏 え ど 二 づれば、土地の人が江戸子々々々と呼びつ㌧跡に附いて来る。当時 “とゞo 害を麻糸で結び、地織木綿の衣服を着た弘前の人々の中へ、江戸胃 の五百等が交ったのだから、物珍らしく思はれたのも怪むに足りない。 かば帽りがき 殊に成善が江戸でもまだ少かつた蜆蝿傘を差して出ると、看るものが と 堵の如くであつた。成善は蠣蝿傘と懐中時計とを持つてゐた。時計は いち こは 識らぬ人さへ紹介を求めて見に来るので、数日のうちに弄り毀されて しまつた。  成書は近習小姓の職があるので、毎日登域することになつた。宿直 は二箇月に三度位であつた。  成善は経吏を兼松石居に学んだ。江戸で海保竹運の塾を辞して、弘 た■ ちつきよ ゆる 前で石居の門を敲いたのである。石居は当時既に蟄居を免されてゐた。 医学ば江戸で多紀安琢の教を受けた後、弘前では別に人に師事せずに ゐた。 もたら  戦争は既に所々に起つて、飛脚が日、ことに情報を齎した。共に弘前 へ来た矢川文一郎は、二十八歳で従軍して北海道に向ふことになつた。 又浅越玄隆は南部方面に派遣せられた。此時浅越の下に附属せられた を さ のが、新に町医者から五人扶持の小普請医者に抱へられた蘭法医小山 セい さき 内元洋である。弘前では是より先藩学稽古館に蘭学堂を設けて、官医 と町医との子弟を教育してゐた。これを主宰してゐたのは江戸の杉田 けん 成卿の門人佐々木元俊である。元洋も亦杉園門から出た人で、後建と 称して、明治十八年二月十四日に中佐相当陸軍一等軍医正を以て広島 ;い に終つた。今の文学士小山内薫さんと画家岡里二郎助さんの妻八千代 とゞ さんとは建の遺子である。矢嶋優善は弘前に留まつてゐて、戦地から 後送せられて来る負傷者を治療した。 その八十三  澀江氏の若党の一人中条勝次郎は、弘前に来てから思ひも掛けぬ事 に遭遇した。 げつ  一行か土手町に下宿した後三二月にして暴風雨があつた。弘前の人 たゝり な は暴風雨を岩木山の神が裳を作すのだと信じてゐる。神は他郷の人が にく 来て土着するのを悪んで、暴風雨を起すと云ふのである。此故に弘前 池由んづく の人は他郷の人を排斥する。就中丹後の人と南部の人とを嫌ふ。なぜ おのれ 丹後の人を嫌ふかと云ふに、岩木山の神は古伝説の安寿姫で、已を虐 きんせラたいム 使した山淑大夫の郷人を嫌ふのださうである。又南部の人を嫌ふのは 神も津軽人のパルチキユヲリスムに感化せられてゐるのかも知れない ラつ  暴風雨の後数日にして、新に江戸から徒つた家々に沙汰があつた。 〜 ,■兄 ㌍‘ 若し丹後、南部等の生のものが紛れ入つてゐるなら、蔵重に取り糺し お て国境の外に逐へと云ふのである。澀江氏の一行では中条が他郷のも ひたちう!れ のとして目指された。中条は常陸生だと云って中v解いたが、役人は たちのき さと や 生国不明と認めて、それに立遇を諭した。五百は已むことを得ず、中 坦へ 条に路用の金を与へて江戸へ還らせた。 うつ  冬になつてから澀江氏は富田新町の家に遷ることになつた。そして 知行は当分の内六分引を以て給すると云ふ達しがあつて、実は宿料食 ちつろく 料の外何の給与もなかつた。これが後二年にして秩禄に大削滅を加へ られる発端であつた。二年前から逐次に江戸を引き上げて来た定府の かみしろ出ねちや5 人達は、富田新町、新寺町新割町、上白銀町、下白銀町、塩分町、茶 畑町の六箇所に分れ住んだ。宮田新町には江戸子町、新寺町新割町に は大矢場、上白銀町には新歴敷の異名がある。富田新町には澀江氏の 外、矢川文一郎、浅越玄隆等が居り、新寺町新割町には比良野貞固、 中村勇左衛門等が居り、下白銀町には矢川文内等が居り、塩分町には 平井東堂等が居つた。  此頃五百は専六が就学問題のために思を労した、専六の性質は成菩 き とは違ふ。成善は書を読むに人の催促を須たない。そしてその読む所 えら の書は自ら択ぷに任せることが出来る。々れゆゑ五百は彼が兼松石居 をさ よう油い に従って経史を攻めるのを見て、毫も容唆せずにゐた。成菩が儒とな るも亦可、医となるも亦不可なる無しとおもつたのである。これに反 き して専六は多く書を読むことを好まない。書に対すれば、先づ有用無 用の詮議をする。五百は此子には儒となるべき素質が無いと信じた。 そこで意を決して剃髪せしめた。  丑百は弘前の城下に就いて、専六が師となすべき医家を物色した。 げんしう そして親方町に住んでゐる近習医者小野元秀を獲た。 その八十四 つしき をさ左な  小野元秀は弘前藩士対馬幾次郎の次男で、小字を常吉と舌つた。十 は 六七歳の時、父幾次郎が急に病を発した。常吉は半夜馳せて医師某の がへん 許に往つた。葉は家にゐたのに、来り診することを肯ぜなかつた。常 らうε 吉は此時父のために憂へ、葉のために借んで、心にこれを牢記してゐ た。後に医となつてから、人の病あるを聞く。ことに、家の貧宮を問は ム ひ ず、地の遠近を論ぜず、食ふときには箸を投じ、臥したるときには被  け た た■ を蹴て起ち、径ちに往いて診したのは、少時の苦き経験を忘れなかつ しラとく たためださうである、元秀は二十六歳にして同藩の小野秀徳の養子と なり、其畏女そのに配せられた。  元秀は忠誠にして廉潔であつた。近習医に任ぜられてからは、諸所 あした ゆムベ かへ に出入するに、朝には人に先んじて往き、タには人に後れて反つた。 , そして公退後には士庶の病人に接して、絶て俺む色が無かつた。  稽古館教授にして、五十石町に私塾を開いてゐた工藤他山は、元秀 と親菩であつた。これは他山が未だ仕途に就かなかつた時、元秀が其 しよ ねんごろ 貧を知つて、精を受けずして懇に治療した時からの交である。他山の  とのさき 子外崎さんも元秀を識つてゐたが、これを評して温潤良玉の如き人で あつたと云ってゐる。近百が専六をして元秀に従学せしめたのは、実 に其人を獲たものと謂ふべきである、 もと  元秀の養子完造は本山崎氏で、蘭法医伊東玄朴の門人である。完造 版ラほ 〜と の養子芳甫さんは本鳴海氏で、今弘前の北川端町に住んでゐる。元秀 す^ かちきち しようざラ の実家の裔は弘前の徒町川端町の対馬鉱蔵さんである。 うら  専六は元秀の如き良師を得たが、憾むらくは心、医となることを欲 っね っゝそで たん二 は せなかつた。弘前の人は毎に、円頂の専六が筒袖の衣を着、短袴を穿 言と ほつ世ム を、赤毛布を纏って銃を負ひ、山野を跋渉するのを見た。これは当時 の兵士の服装である。  専六は兵士の間に交を求めた。兵士等は呼ぶに医者銃隊の名を以て して、頗るこれを愛好した。  時に弘前に徒つた定府中に、山澄吉蔵と云ふものがあつた。名を直 清と云って、津軽藩が文久三年に江戸に遣った海軍修行生徒七人の中 で、中小姓を勤めてゐた。築地海軍操練所で算数の学を修め、次で塾 −」5たい の敦貝の例にψはつた。弘揃に徒りて問もなくい山澄泄煩憐司令官に せられた。兵士中身を立てむと欲するものは、多く此山澄を師として ひそむ れきざ5 洋算を学んだ。専六も亦藤因潜、柏原櫟蔵等と共に山澄の門に入つて かうえん 洋算簿記を学ぶこととなり、いつとなく元秀の講莚には臨まなくなつ た。後山澄は海軍大尉を以て終り、柏原は海軍少樗を以て終つた。藤 田さんは今攻玉舎長をしてゐる。攻玉會は後に近藤真琴の塾に命ぜら な危かf れた名である。初め麹町八丁目の鳥羽藩主稲垣対馬守畏和の邸内にあ つたのが、中ごろ築地海軍操練所内に移るに及んで、始めて攻玉塾と くわラ 称し、次で芝神明町の商船費と、芝新銭座の陸地測量習練所とに分離 し、二者の総称が攻玉舎となり、明治十九年に至るまで、近藤自らこ れを経営してゐたのである。 その八十五 、  小野富穀と其子道悦とが江戸を引き上げたのは、此年二月二十三目 で、道中に二十五目を費し、三月十八日に弘前に着いた。澀江氏の弘 言きだ 前に入るに先っこと二箇月足らずである、 つ  矢嶋優善が隠居させられた時、跡を襲いだ周禎の一家も、此年に弘 言竈 前へ徒つたが、その江戸を発する時、三男三蔵は江戸に留まつた。前 に小田原へ往つた長男周碩と、此三蔵とは、後にカトリツク教の宣教 おくど悟り 師になつたさうである。弘前へ往つた周槙は表医者奥通に進み、其次 め みえ 男で嗣子にせられた周策も亦目見の後表医者を命ぜられた。  抽斎の姉須磨の夫飯目艮清の養子孫三郎は、此年江戸が墓夙と改称 した後、静岡藩に赴いて官吏になつた。  森枳園は此年七月に東京から福山κ遷りた。当時の藩主は文久元年 きさのo ラ 由ぞへのオみきさ由た に伊予守正教の後を承けた阿部主計頭正方であつた。  優菩の友塩固艮三は此年浦和県の官吏になつた。是より先良三は、 優菩が山田椿庭の塾に入つたのと殆ど同時に、伊沢柏軒の塾に入つて し頃んえい 柏軒に其才の雋鋭なるを認められ、節を折つて書を読んだ。文久三年 に柏軒が殴してからは家に帰つてゐて、今仕宣したのである。 眩−」だて えのもと 葦此年精憎に拠つてゐる榎本武揚を攻φやψたψに、官軍ボ発向する しんけん た,けん 中に、福山藩の兵が参加してゐた。伊沢榛軒の嗣子巣軒はこれに従っ て北に赴いた。そして澀江氏を富田新町に訪うた。葉軒は福山藩から かたばら 一粒金丹を買ふことを託せられてゐたので、此任を果たす男、故旧の しんじ争ん 安否を問うたのである。菓軒、名は信淳、通称は春安、池田全安が離 ちよ 別せられた後に、榛軒の女かえの塙となつたのである。かえば後に名 あらた めぐむ をそのと更めた。おそのさんは現存者で、市谷宮久町の伊沢徳さんの もと 許にゐる。徳さんは菓軒の嫡子である。  抽斎殴後の第十一年は明治二年である。抽斎の四女陸が矢川文一郎 に嫁したのは、此年九月十五日である。  陸が生れた弘化四年には、三女巣がまだ三歳で、母の懐を離れなか とうりやう つたので、陸は生れ降ちるとすぐに、小柳町の大工の棟梁新八と云ふ ものの家へ里子に遣られた。さて嘉永四年に菓が七歳で亡くなつたの た圭く で、母五百が五歳の陸を呼び返さうとすると、偶矢嶋氏鉄が来たの を抱いて寝なくてはならなくなつて、陸を還すことを見あはせた。翌 五年にやう/\還つた陸は、色の白い、愛らしい六歳の少女であつた。 しかし五百の胸をぱ菓を惜む情が全く占めてゐたので、陸は十分に母 よくそん の愛に浴することが出来ずに、母に対しては頗る自ら抑遜してゐなく てはならなかつた。  これに反して抽斎は陸を愛撫して、身辺に居らせて使役しつ㌧、或 おれ 時五百にかう云った。「已はこんなに丈夫だから、どうもお前よりは 」 こ 長く生きてゐさうだ。それだから今の内に、かうして陸を為込んで置 つもり いて、お前に先へ死なれた時、此子を女房代りにする積だ。」  陸は又兄矢嶋優菩にも愛せられた。塩固良三も亦陸を愛する一人で、 と 陸が手習をする時、手を把つて書かせなどした。抽斎が或日陸の清書 『き から加 を見て、「良三さんのお清書か旨く出来たな」と云って郭楡つたこと がある。 つきやき ひと  陸は小さい時から長唄が好で、寒夜に裏庭の築山の上に登つて、独  かんご五 り選声の修行をした。 その八十六 注暗 赤ラ  抽斎の四女陸は此家庭に生長して、当時尚其境遇に肯んじ、塁も婚 かつ とらのじよう 嫁を急く念が無かつた。それゆゑ嘗て一たび飯田寅之丞に嫁せむこと とゝの を勧めたものもあつたが、事が調はなかつた。寅之丞は当時近習小姓 じんいん であつた。天保十三年壬寅に生れたからの名である。即ち今の飯田 たつみ き し 巽さんで、巽の字は明治二年已巳に二十八になつたと看ふ意味で選ん なかラど だのださうである。陸との縁談は媒が先方に告げずに澀江氏に勧めた すで のではなからうが、余り古い事なので巽さんは已に忘れてゐるらしい。 へい しり。ぞ 然るに此度は陸が遂に文一郎の腸を御くることが出来なくなつた。  文一郎は最初の妻柳が江戸を去ることを欲せぬので、一人の子を附 けて里方へ還して置いて弘前へ立つた。弘前に来た直後に、文一郎は いくぽく 二度日の妻を娶つたが、未だ幾ならぬにこれを去つた。此女は西村與 むすめ 三郎の女作であつた。次で籍館から帰つた頃からであらう、陸を娶ら つかば うと思ひ立つて、人を遣して講ふこと数度に及んだ。しかし澀江氏で  十壮は は靱ち動かなかつた。陸には旧に依つて婚嫁を急く念が無い。五百は 文一郎の好人物なることを熟知してゐたが、これを塙にすることをば や上 望まなかつた。かう云ふ事情の下に、両家の間には稍久しく緊張した 関係が続いてゐた。  文一郎は壮年の時パツシヨンの強い性質を有してゐた。その陸に対 も する要望はこれがために頗る熱烈であつた。澀江氏では、若し其請を おもんぱか 納れなかつたら、或は両家の間に事端を生じはすまいかと慮つた。 ぎ く 陸が遂に文一郎に嫁したのは、此疑櫻の犠牲になつたやうなものであ る。  此結婚は、名義から云へぱ、陸が矢川氏に嫁したのであるが、形迹 から見れば、文一郎が塙入をしたやうであつた。式を行った翌日から、 夫婦は終日澀江の家にゐて、夜更けて矢川の家へ寝に帰つた。この時 うきまばり 文一郎は新に馬煙になつた年で二十九歳、陸は二十三歳であつた。  矢嶋優善は、陸が文一郎の妻になつた翌月、即ち十月に、土手町に 家を持つて、周禎の許にゐた鉄を迎へ入れた。これは行懸りの上から はた 当然の事で、五百は傍から世話を焼いたのである。しかし二十三歳に すか なつた鉄は、もう昔日の如く夫の苛言に簾されては居らぬので、此土 手町の住ひは優善が身上のクリジスを起す揚所となつた。 “と  優善と鉄との間に、夫婦の愛情の生ぜぬことは、固より予期すべき た吋 Lラてき であつた。しかし啻に愛情が生ぜざるのみではなく、二人は忽ち讐敵 となつた。そしてその争ふには、鉄がいつも攻勢を取り、物質上の利 ひつ; 害問題を提げて夫に当るのであつた。「あなたがいくぢが無いぱかり に、あの周禎のやうな男に矢嶋の家を取られたのです。」此句が幾度 となく反復せられる鉄が論難の主眼であつた。優菩がこれに答へると、 鉄は冷笑する、舌打をする。 かさ や  此争は週を累ね月を累ねて歌まなかつた。五百等は百方調停を試み たが何の功をも秦せなかつた。  五百は已むことを得ぬので、周禎に交渉して再び鉄を引き取つて貰 小た はうとした。しかし周禎は容易に応ぜなかつた。澀江氏と周禎が方と の間に、幾度となく交換せられた要求と拒絶とは、押問答の姿になつ た。 わラヘん  此往反の最中に忽ち優善が失蹉した。十二月二十八目に土手町の家 きo を出て、それ切帰つて来ぬのである。澀江氏では、優善が悶を排せむ の泌 がために酒色の境に遁れたのだらうと思って、手分をして料理歴と妓 楼とを捜索させた。しかし優善のありかばどうしても知れなかつた。 その八十七  比良野貞固は江戸を引き上げる定府の最後の一組三十戸ぱかりの家 あん盲い,る 族と共に、前年五六月の交安済丸と云ふ新造帆船に乗つた。然るに安 うか だ き 済丸は海に涯んで間もなく、柁機を損じて進退の自由を失った。乗組 あ,た な 員は菓地より上陸して、許多の辛苦を嘗め、此年五月にやう/\東京 に掃つた。  さて更に米巨ス〃タン号に乗つて、此度は無事に青森に着した。佐 藤弥六さんは当時の同乗者の一人ださうである。  弘前にある澀江氏は、貞固が東京を発したことを聞いてゐたのに、 いつまでも到着せぬので、どうした事かと案じてゐた。殊に比良野助 太郎と書した荷札が青森の港に流れ寄ったと云ふ流言などがあつて、 いよく 症かだち 愈心を悩まする媒となつた。そのうち此年十二月十日頃に青森から しゆしよ 発した貞固の手書か来た。典中には安済丸の故障の為に一たび去つた 東京に引き返し、再ぴ米艦に乗つて来たことを言って、さて金を持つ て迎へに来てくれと云ってあつた。一年余の間無益な往反をして、貞 はんてん あき 固の盤纏は僅に一分銀一つを剰してゐたのである。  弘前に来てから現金の給与を受けたことの無い澀江氏では、此書を 得て途方に碁れたが、船廻しにした荷の中に、刀剣のあつたのを柑五 上o 張質に入れて、金二十五両を借り、それを持つて往つて貞固を弘前へ 案内した。 てきはり  貞固の養子房之助は此年に手廻を命ぜられたが、藩制が改まつたの で、久しく此職に居ることが出来なかつた。 ちつ  抽斎理後の第十二年は明治三年である。六月十八日に弘前藩士の秩 ろく 禄は大削滅を加へられ、更に医者の降等が令せられた。禄高は十五俵 より十九俵までを十五俵に、二十俵より二十九俵までを二十俵に、三 十俵より四十九俵までを三十俵に、五十俵より六十九俵までを四十俵 に、七十俵より九十九俵までを六十俵に、百俵より二百四十九俵まで を八十俵に、二百五十俵より四百九十九俵までを百俵に、五百俵より 七百九十九俵までを百五十俵に、八百俵以上を二百俵に滅ぜられたの み な である。そして従来石高を以て給せられてゐたものは、其儘俵と看做 わか して同一の削滅を行はれた。そして士分を上士、中士、下士に班つて、 各班に大少を置いた。二十俵を少下士、三十俵を大下士、四十俵を少 中士、八十俵を大中士、百五十俵を少上士、二百俵を大上士とすると 云ふのである。  澀江氏は原禄三百石であるから、中の上に位する筈で、小禄の家に 比ぷれば、受くる所の損失泌頗る大きい。それでも澀江氏はこれを得 て満足する積でゐたo  然るに医者の降等の令が出て、それが澀江氏に適用せられることに “と なつた。本成善は医者の子として近習小姓に任ぜられてゐるには違無 い。しかし未だ曾て医として仕へたことはない。しかのみならず令の 出づるに先だつて、十四歳を以て藩学の助教にせられ、生徒に経書を すで へい竈よ 授けてゐる。これば師たる兼松石居が已に屏居を免されて藩の督学を かつ 拝したので、その門人も亦挙用せられたのである。且先例を按ずるに、 歯科医佐藤春益の子は、単に幼くして家督したために、平士にせられ いはん てゐる。況や成菩は分明に儒職にさへ就いてゐるのである。成善が此 令を己に適用せられようと思はなかつたのも無理は無い。  しかし成菩は念のために大参事西錐孤清、少参事兼大隊長加藤武彦 み の二人を見て意見を叩いた。二人皆成菩は医として視るべきものでな ,き はか いと云った。武彦は前の側用人兼用人清兵衛の子である。何ぞ料らむ、 成善は医者と看做されて降等に逢ひ、三十俵の禄を受くることとなり、 ㌦竈つき 剰へ士籍の外にありなどとさへ云はれたのである。成善は抗告を試 みたが、何の功をも奏せなかつた。 その八十八  何故に儒を以て仕へてゐる成菩に、医者降等の令を適用したかと云 よ} ふに、それは想像するに難くは無い。澀江氏は世儒を兼ねて、命を受 けい “と けて経を講じてはゐたが、家は本医道の家である。成善に至つても、 幼い時から多紀安琢の門に入つてゐた。又已に弘前に来た後も、医官 たいじゆん げんずゐ い,はるせき 北岡太淳、手塚元璃、今審碩等は成菩に兼て医を以て仕へむことを勧 しゆんた、 だ,しゆん め、かう云ふ事を言った。「弘前には少壮者中に中村蕎台、三上道蕎、 けいあん 北岡有格、小野圭庵の如きものがある。其他小山内元洋のやうに新に わか 召し抱へられたものもある。しかし江戸定府出身の少い医者が無い。 かつ ちと医業の方をも出精してはどうだ」と云った。且令の発せられる少 つぐてる し前の出来事で、成菩が津軽承昭に医として遇せられてゐた証拠があ た上かひ おほほしぱ る。六月十三日に、藩知事承昭は戦を大星塲に習はせた。承昭は五月 二十六日に知事になつてゐたのである。銃声の盛んに起つた時、第五 かたばら 大隊の医官小野道秀が病を発した。承昭は傍に侍した成菩をして小野 量く に代らしめた。此の如く澀江氏の子が医を善くすることは、上下皆信 じてゐたと見える。しかしこれがために、現に儒を以て仕へてゐるも おとし か のを不幸に陥いれたのは、同情が聞けてゐたと謂っても好からう。 ζ く  矢嶋優善は前年の暮に失践して、澀江氏では疑擢の間に年を送つた。 此年一月二日の午後に、石川駅の人が二通の手紙を持つて来た。優善 が家を出た日に書いたもので、一は五百に宛て、一は成善に宛ててあ ならぴ けつぺつ るゐこん き る。並に訣別の書で、所々涙痕を印してゐる、石川は弘前を距ること 一里半を過ぎぬ駅であるが、使のものは命ぜられたとほりに、優菩が 駅を去つた後に手紙を届けたのである。  五百と成善とは、優菩が雪中に行き悩みはせぬか、病み臥しはせぬ かと気遣って、再び人を傭つて捜索させた。成善は自ら雪を冒して、 お悟わに くらだて いかOが世き くき しよラ仕き 石川、大體、倉立、碇関等を隈なく尋ねた。しかし蹤跡は絶て知れ なかつた。  優善は東京をさして石川駅を発し、此年一月二十一目に吉原の引手 み旭とや oみ だい‘ 茶屋湊屋に着いた。湊屋の上さんは大分年を取つた女で、常に優善を 「蝶さん」と呼んで親んでゐた。優善は此女をたよつて往つたのであ る。 みな  湊屋に皆と云ふ娘がゐた。此みいちやんは美しいので、茶屋の呼物 だん壮 になつてゐた。みいちやんは津藤に縁故があるとか云ふ河野某を檀那 に取つてゐたが、河野は遂にみいちやんを娶つて、優菩が東京に着い ほと, た時には、今戸橋の畔に芸者屋を出してゐた。屋号は同じ湊屋である。 さんや ぽo  優善は吉原の湊屋の世話で、山谷堀の箱星になり、主に今戸橋の湊 屋で抱へてゐる芸者等の供をした。  四箇月半ばかりの後、或人の世話で、優善は本所緑町の安田と云ふ に上芒い 竈害 くわきよ 骨董店に入賛した。安田の家では主人礼助が死んで、未亡人政が寡居 してゐたのである。しかし優善の骨董商時代は箱屋時代より短かつた。 それは政が優善の妻になつて間もなくみまかつた水らである。 さき ごんだいぞく のぽ ていしよラ  此顕前に浦和県の官吏となつた塩囲良三が、権大属に陞つて聴訟 がゝり 係をしてゐたが、優善を県令に薦めた。優善は八月十八日を以て浦和 県出仕を命ぜられ、典獄になつた。時に年三十六であつた。 その八十九 やラや 専六は至との交が漸く深くなつて、此年五月にはとうく一於軍 けいこ油幅せつけらる 務局楽手稽古被仰付」と云ふ沙汰書を受けた。さて楽手の修行をして ゐるうちに、十二月二十九日に山田源吾の養子になつた。源吾は天保 さか 中津軽信順が未だ致仕せざる時、側用人を勤めてゐたが、旨に件つて いと官 L中うこ わざ 永の暇になつた。しかし他家に仕へようと云ふ念もなく、商佑の業を 吐か がラ しうきよ も妊まぬので、家の菩提所なる本所中の郷の普賢寺の二房に蹴居し、 うたひ 日ごとに街に出でて謡を歌って銭を乞うた。  この純然たる浪人生活が三十年ばかり続いたのに、源吾は刀剣、紋 かみしも つ ゞ ら 附の衣類、上下等を葛籠一つに収めて持つてゐた。 め みえ  承昭は此年源吾を召v遺して、二十俵を給し、目見以下の士に列せ しめ、本所横川邸の番人を命じた。然るに源吾は年老い身病んで久し おもんほか く職に居り難いのを慮つて、養子を求めた。 ゐ せい  此時源吾の親戚に戸沢惟清と云ふものがあつて、専六を其養子に世 もと 誘をした。戸沢は五百に説くに、山田の家世の本卑くなかつたのと、 づとめ 東京勤の身を立つるに便なるとを以てし、又かう云った。「それに専 六さんが東京にゐると、後に弟御さんが上京することになつても御都 よろ くだ 含が宜しいでせう」と云った。成善は等を降され禄を滅ぜられた後、 寸ゝ 東京に往つて恥を雪がうと思ってゐたからである。  戸沢がかう云って勧めた時、五百は容易にこれに再を傾けた。五百 ひと 左 や そ きち は戸沢の人と為りを喜んでゐたからである。戸沢惟清、通称は八十吉、 の‘ゆき そぱやく き がい きよラけん 信順在世の日の側役であつた。才幹あり気築ある人で、恭謙にして抑 ちと か5ぷ がうムく しの 損し、些の学問さへあつた。然るに酒を被るときは剛慎にして人を凌 ようど とぽ いだ。信順は平索命じて酒を絶たしめ、用需匿しきに至るごとに、こ れに酒を飲ましめ、命を当周に伝へさせた。戸沢は当周の一諾を得な いでは帰らなかつたさうである。 ものかき き ね ざう したか  或時戸沢は公事を以て旅行した。物書松本甲子蔵がこれに随つてゐ かたばら わらち た。駕籠の中に坐した戸沢が、ふと側を歩く松本を見ると、草軽の緒 とゞ が足背を破つて、鮮血が流れてゐた。戸沢は急に一行を止まらせて、 けうひ 大声に「甲子蔵」と呼んだ。「はつ」と云って松本は稀扉に近づいた。 とも と冊ざ 戸沢は「ちと内用があるから遠慮いたせ」と云って、供のものを遠け、 松本に草軽を脱がせて、強ひて稀申に坐せしめ、自ら松本の草軽を着 けうてい か け、さて稀丁を呼んで昇いて行かせたさうである。これは松本が保さ んに話した事で、保さんは又戸沢と其弟星野伝六郎とをも識つてゐた。 戸沢の子米太郎、星野の子金蔵の二人は曾て保さんの教を受けたこと がある。  戸沢の勧誘には、此年弘前に着した比良野貞固も同意したので、五 百は遂にこれに従って、専六が山田氏に養はる㌧ことを諾した。其事 の決したのが十二月二十九日で、専六が船の青森を発したのが翌三十 日である。此年専六は十七歳になつてゐた。然るに東京にある養父源 壮但 吾は、専六が尚舟中にある間に病殴した。 くが  矢川文一郎に嫁した陸は、此年長男万吉を生んだが、万吉は天折し て弘前新寺町の報恩寺なる文内が母の墓の傍に葬られた。  抽斎の六女水木は此年馬役村田小吉の子広太郎に嫁した。時に年十 きんしつ 八であつた。既にして矢嶋周禎が琴琵調はざることを五百に告げた。 五百は已むを得ずして水木を取り戻した。  小野氏では此年富穀が六十四歳で致仕し、子道悦が家督相統をした。 道悦は天保七年生で、三十五歳になつてゐた。  中丸昌庵は此年六月二十八日に殴した。文政元年生の人だから、五 十三歳を以て終つたのである。  弘前の城は此年五月二十六日に藩庁となつたので、矩事津軽承昭は うつ 三之内に遷つた。 その九十 小こ  抽斎理後の第十ミ年は明拾四年であるひ成善は母を弘前に遺して、 単身東京に往くことに決心した。その東京に往かうとするのは、一に あ は降等に遭って不平に堪へなかつたからである。二には滅禄の後は旧 に依つて生計を立てて行くことが出来ぬからである。その母を弘前に 遺すのは、脱藩の疑を避けむがためである。  弘前藩は必ずしも官費を以て少壮者を東京に遣ることを嫌はなかつ た。これに反して私費を以て東京に往かうとするものがあると、藩は 寸で いはん 已に其人の脱藩を疑った。況や家族をさへ伴はうとすると、此疑は オすく 益深くなるのであつた。 しぱく  成菩が墓尺に往かうと思ってゐるのは久しい事で、展これを師兼松 ぱか 石居に謀つた。石居は機を見て成善を官費生たらしめようと誓った。 し’」か しかし成善は今は徐にこれを待つことが出来なくなつたのである。 あへ 比ほ  さて成善は私費を以て往くことを敢てするのであるが、猶母だけば 遺して置くことにした。これは已むことを得ぬからである。何故と看 とら ふに、若し成菩が母と倶に往かうと云ったなら、藩は放ち遣ることを ゆる 聴さなかつたであらう。  成善は母に約するに、他日東京に迎へ取るべきことを以てした。し そ かく っゞ かし藩の必ずこれを阻格すべきことは、母子皆これを知つてゐた。約 ち めて言へぱ、弘前を去る成善には母を質とするに似た恨があつた。  藩が脱籍者の輩出せむことを恐るゝに至つたのは、二一二の忌むべき しゆ か や 実例があつたからである。其首に居るものは、彼の勘定奉行を罷めて かく の朴 米穀商となつた平川半治である。当時此の如く財利のために士籍を遁 れようとする気風があつたことは、澀江氏も亦親しくこれを験するこ とを得た。或人は五百に説いて、東京両国の中村楼を買はせようとし きよきん た。今千両の金を投じて買って置いたなら、他日錘万の宮を致すこと が出来ようと云ったのである。或人は東京神田須田町の某売薬株を買 あが壮 はせようとした。此株は今廉価を以て腰ふことが出来て、即日から月 壮いし 収三百両乃至五百両の利かあると着つたのである。五百のこれに耳を か もと 仮さなかつたことは固よりである。  当時藩職に居oて、津軽家をして士を失はざらしめむと欲し、極力 脱籍を防いだのは、大参事西館孤清である。成善は西館を訪うて、東 京に往くことを告げた。西館はおほよそかう看つた。東京に往くは好 をし い。学業成就して弘前に帰るなら、我等はこれを任用することを吝ま ぬであらう。しかし半途にして母を迎へ取らむとするが如きことがあ つたなら、それは郷土のために謀つて忠ならざることを証するもので ある。我藩はこれを許さぬであらうと云った。成菩は悲痛の情を抑へ て西館の許を辞した。 き  成善は家禄を割いて、其五人扶持を東京に送致して貰ふことを、当 ゆる さ吐 にしきゑ きん 路の人に請うて尤された。それから長持一樟の錦絵を書画兼骨董商近 たけ と けい 竹に売つた。これは浅草蔵前の兎桂等で、二十枚百文位で買った絵で あるが、当時三枚二百文乃至一枚百文で売ることが出来た。成菩は此 壮加ぱ おく あ 金を得て、半は留めて母に髄り、半はこれを旅費と学資とに充てた。 いと官ごひ わかれ  成善が弘前で暇乞に廻つた家々の中で、最も別を惜んだのは兼松石 き がくか こ’ oうを, 居と平井東堂とであつた。東堂は左勝下に瘤を生じたので、自ら瘤翁 お■つか と号してゐたが、別に臨んで、もう再会は覚來ないと云って落涙した。 成善の去つた翌年、明治五年九月十六日に東堂は塩分町の家に残した。 おとめ 年五十九である。四女乙女が家を継いだ。今東京神田裏神保町に住ん で、琴の師匠をしてゐる平井松野さんが此乙女である、 その九十一 く  成善は藩学の職を辞して、此年三月二十一日に、母五百と水杯を酌  がは み交して別れ、駕籠に乗つて家を出た。水杯を酌んだのは、当時の状 況より推して、再会の期し難きを思ったからである。成善は十五歳、 五百は五十六歳になつてゐた。抽斎の残した時は、成善はまだ少年で けうちゆう あつたので、此時始て親子の別の悲しさを知つて、轄中で声を発して 泣きたくなるのを、言く堪一忍ん誉うである。 き ね ざう ちゆラし中う  同行者は松本甲子蔵であつた。甲子蔵は後に忠章と改称した。父を Lやラペ五 もと 庄兵衛と云って、秦比良野貞固の父文蔵の若党であつた。文蔵はその 仔くち上く ナゝ 棲直なのを愛して、津軽家に薦めて足軽にして貰った。其子甲子蔵は 才学があるので、藩の公用局の吏生に任用せられてゐたのである。  弘前から旅立つものは、石川駅まで駕籠で来て、こゝで親戚故旧と 症らひ 酒を酌んで別れる習であつた。成菩を送る躰ゆは、旬蹴紐授けられた 少年等の外、矢川文一郎、比良野房之助、服部善吉、菱川太郎などで あつた。後に服都は墓凪で時計職工になり、菱川は辻薪次さんの家の すで 学僕になつたが、二人共に已に世を法つた。 ○うo おろ  成菩は四月七日に東京に着いた。行李を卸したのは本所二つ目の藩 邸である。是より先成善の兄専六は、山田源吾の養子になつて、東京 に来て、まだ父子の対面をせぬ間に死んだ源吾の家に住んでゐた。源 吾は津軽承昭の本所横川に設けた邸をあづかつてゐて、住宅は本所割 ÷ 肝ん沃り 下水にあつたのである。其外東京には五百の姉安が両国薬研堀に住ん むすb でゐた。安の女二人のうち、敬は猿若町三丁日の芝居茶屋三河屋に、 芒ん 亭す 鐙は蔵前須賀町の呉服屋桝屋儀平の許にゐた。又専六と成菩との兄優 よL 菩は、程遠からぬ浦和にゐた。  成善の旧師には多紀安琢が矢の倉に居り、海保竹運が翁玉が池にゐ た。縫新の初に官吏になつて、此邸を伊沢鉄三郎の徳安が手から買ひ 受けて練堺小路の湿地にあつた、床の低い、畳の腐つた家から移り住 ひとo んだ、独家宅が改まつたのみでは無い。常に弊衣を着てゐた竹運が、 き いくぱく 其頃から絹布を被るやうになつた。しかし幾もなく、当時の有力者山  とよしげ しりぞ や 内豊信等の斥くる所となつて官を罷めた。成善は四月二十二日に再び 旦 いん のうやう やゝ 竹運の門に入つたが、竹運ば前年に会陰に膿瘍を発したために、稍衰 弱してゐた。成善は久し振にその易や毛詩を講ずるのを聴か快。多紀 安琢は縫新後困窮して、竹運の扶養を蒙つてゐた。成善は展其安否 を問うたが、再び秦問を学ばうとはしなかつた。 あひおひちや,  成菩は英語を学ばんがために、五月十一日に本所相生町の共立学舎 に通ひはじめた。父抽斎は遺言して蘭語を学ばしめようとしたのに、 ’ 時代の変遷は学ぶべき外国語を易ふるに至らしめたのである。共立学 せ〜しん旧ち  但 八の す喝研である。八、切 を {零ふ∵ .国 高岡の城主井上筑後守正瀧の家来鈴木伯寿の子である。天保十年に江 戸佐久間町に生れ、安政の末年に尺氏を冒した。田辺太一に啓発せら しん れて英学に志し、中浜万次郎、西吉十郎等を師とし、次で英米人に親 Lや 灸し、文久中仏米二国に遊んだ。成蕎が従学した時は三十三歳になつ てゐた。 その九十二  成善は四月に海保の伝経盧に入り、五月に尺の共立学舎に入つたが、 六月から更に大学南校にも籍を置き、日課を分割して三校に往来し、 もと帖 猶放課後にはフルベツクの許を訪うて教を受けた。フルベツクは本和 らんだじん ら め り か 蘭人で亜米利加合衆国に民籍を有してゐた。日本の教育界を開拓した 一人である。  学資は弘前藩から送つて来る五人扶持の中三人扶持を売つて弁ずる ことが出来た。当時の相揚で一箇月金二両三分二朱と四百六十七文で あつた。書籍は英文のものは初より新に買ふことを期してゐたが、漢 L律たく、旧ん 書は弘前から抽斎の手沢本を送つて貰ふことκした。然るに此書籍を くつがへ 積んだ舟が、航海中七月九日に暴風に遭って覆って、抽斎の曾て蒐集 由いじ÷く した古刊本等の大都分が海若の有に掃した。  八月二十八日に弘前県の幹督が成善に命ずるに神社調掛を以てし、 金三両二分二朱と二匁二分五厘の手当を給した。此命は成善が共立学 舎に入ることを届けて置いたので、同時に「欠席聞属の委頼」と云ふ みことのり 形式を以て学合に伝へられた。是より先七月十四日の詔を以て廃藩 L 置県の制が布かれたので、弘前県が成立してゐたのである。  矢嶋優善は浦和県の典獄になつてゐて、此年一月七日に唐津藩士大 沢皿の女鰐を娶つた。嘉永二年生で二士二歳である。是より先前妻鉄 は幾多の葛藤を経た後に離別せられてゐた。  優菩は七月十七日に庶務局詰に転じ十月十七日に判任吏生にせられ た。次で十一月十三日に浦和県が廃せられて、其事務は埼玉県に移管 −られ吹ゆで、α害は十二月四旧を以て厘に靖玉県十旧等咄牡を命ぜ J i られた。  成善と倶に東京に来た松本甲子蔵は、優善に薦められて、同時に十 五等出仕を命ぜられたが、後兵事課長に進み、明治三十二年三月二十 八日に理した。弘化二年生であるから、五十五歳になつたのである。  当時県吏の権勢は盛なものであつた。成蕎が東京に入つた画後に、 まだ浦和県出仕の典獄であつた優菩を訪ふと、優善は等外一等出仕宮 さかひ 本半蔵に駕籠一挺を宰領させて成善を県の界に迎へた。成善がその駕 籠に乗つて、戸田の渡しに掛かると、渡船場の役人が土下座をした。  優善茄庶務局詰になつた頃の事である。或日優菩は宴会を催して、 小ゝへげいしや 前年に自分が供をした今戸橘の湊星の抱芸者を始とし、山谷堀で顔を たけ壮は 北れ 識つた菩者を漏なく招いた。そして酒闘なる時「已はお前方の供を して、大ぷ世話になつたことがあるが、今日は已もお客だぞ」と云っ た。大丈夫志を得たと云ふ概があつたさうである。 L吐く  県吏の間には当時飲宴が腰行はれた。浦和県知事間嶋冬道の催し ○ ろ き oりや寸 じゆぱん た懇親会では、塩田良三が野呂松狂言を演じ、優善が莫大小の橋衿 はかきした よ ぽひ 袴下を着て夜這の真似をしたことがある。間嶋は通称万次郎、尾張の 藩士である。明治二年四月九日に刑法官判事から大宮県知事に転じた。 大宮県が浦和県と改称せられたのは、其年九月二十九日の事である。  此年の暮、優善が埼玉県出仕になつてからの事である。某村の戸長 わいろ は野菜一車を優善に献じたいと云って持つて来た。優菩は「已は賄賂 しりモ は取らぬぞ」と云って御けた。 ○のきゝ  戸畏は当惑顔をして云った。「どうも此野菜を此儘持つて帰つては、 村の人民共に対して、わたくしの面目が立ちませぬ。」 「そんなら買って遣らう」と、優菩が云った。 幻ろ 夏はやうく天保銭一枚を受け弩て、野菜を車から卸させて帰 つた。 やす  優菩は廉い野菜を買ったからと云って、県令以下の職員に分配した。  県令は野村盛秀であつたが、野菜を貰ふと同時に此顛末を聞いて、 「矢嶋さんの流義は面白い」と云って褒めたさうである。野村は初め 宗七生称した。薩摩の士で、浦和県が埼玉県となつた蒔、日困県如事 から転じて埼玉県知事に任ぜられた。間嶋冬遣は去つて名古屋県に愚 よりうど いて、参事の職に就いたが、後明治二十三年九月三十日に御歌所寄人 を以て終つた。又野村は後明治六年五月二十一日に此職にゐて歿した 屯林と せつかう ので、長門の士参事白榎多助が一時県務を摂行した。 その九十三  山田源吾の養子になつた専六は、まだ面会もせぬ養父を褒つて、其 遺跡を守つてゐたが、五月一目に至つて藩畑事津軽承昭の命を拝した。 きうゐ症くつか唯言る 「親源吾給禄二十俵無相違被遣」と云ふのである。さて源吾は謁見を 許されぬ職を以て終つたが、六月二十日に専六は承昭に謁することを , 得た。これは成菩が内意を承けて願書を呈したためである。  専六は成善に紹介せられて、先づ海保の侯経慮に入り、次で八月九 日に共立学含に入り、十二月三日に梅浦精一に従学した。 たもつ 油も  此年六月七日に成菩は名を保と改めた。これは母を懐ふが故に改め たので、母は五百の字面の雅ならざるがために、常に伊保と署してゐ ゆたか たのださうである。矢嶋優菩の名を優と改めたのも此年である。山国 をさむ 専六の名を脩と改めたのは、別に記載の徴すべきものは無いが、稍後 の事であつたらしい。 い つ  此年十二月三日に保と惰とが同時に斬髪した。優は何時斬髪したか 知らぬが、多分同じ頃であつただらう。優は少し早く墓尺に入り、程 言 なく東京を距ること遠からぬ浦和に往って官吏をしてゐたが、必ずし ひも “とゞo も二弟に先だつて斬髪したとも雲ひ難い。紫の紐を以て害を結ぶのが、 あいじやく 当時の官吏の頭飾で、優が何時まで其書を愛惜したかわからない。人 もち は或は抽斎の子供が何時斬髪したかを問ふことを須ゐぬと云ふかも知 ど い つ れない。しかし明治の初に男子が髪を斬つたのは、独逸十八世紀のツ ベん’つ オツプフが前に断たれ、清朝の辮髪が後に断たれたと同じく、風俗の 大変遷である。然るに後の史家は其年月を知るに苦むかも知れない。 わたくしの如きは富已の髪を斬つた年を記してゐない。保さんの目記 ゆ 旦ん の一条を此に採録する所以である。  此年十二月二十二日に、本所二つ目の弘前藩邸が廃せられたために 保は弟山田惰が本所割下水の家に同居した。 むすめ  海保竹運の妻、漁村の女が此年十月二十五日に残した。  抽斎殴後の第十四年は明治五年である。一月に保が山田情の家から うつ 本所横網町の鈴木きよ方の二階へ徒つた。鈴木は初め船宿であつたが 主人が死んでから、未亡人きよが席貸をすることになつた。きよは天 保元年生で、此年四十三歳になつてゐた。当時善く保を遇したので、 いんしん 保は後年に至るまで音信を断たなかつた。是より先保は弘前にある母 胆か を呼び迎へようとして、藩の当路者に諮ること数次であつた。しかし 津軽承昭の知事たる問は、西館等が前説を固守して許さなかつた。前 またすこ∫ あらた 年廃藩の詔が出て、承昭は墓夙に居ることになり、県政も亦頗る革ま “た つたので、保は又当路者に諮つた。当路者は復五百の東京に入ること を阻止しようとはしなかつた。唯保が一諸生を以て母を養はむとする のが怪むべきだと云った。それゆゑ保は矢嶋優に願書を作らせて呈し た。県庁はこれを可とした。吾掌うく弘前から東京に来ること になつた。  保が墓風に遊学した後の五百が寂しい生活には、特に記すべき事は たゞ !比いたばやL 無い。只前年廃藩前に、弘前姐林の山林地が澀江氏に割与せられた のみである。これは士分のものに授産の目的を以て割与した土地に剰 余があつたので、当路者が士分として扱はれざる医者にも恩恵を施し たのださうである。此地面の授受は浅越玄隆が五百の委託によつて処 理した。 み き  五百が弘前を去る時、村田広太郎の許から帰つた水木を伴はなくて く。が はならぬことは勿論であつた。其外陸も亦夫矢川文一郎と倶に五百に 附いて東京へ往くことになつた。 上うたし ぱんくわん  文一郎は弘前を発する前に、津軽家の用達商人工藤忠五郎蕃寛の次  はんとく 男蕃徳を養子にして弘前に遺した。蕃竟には二子二女があつた。長男 よしつぐ 可次は森甚平の士籍、又次男蕃徳は文一郎の士籍を謹り受けた。長女 しもLろかねちや5 お連さんは蕃寛の後を継いで、現に弘前の下白銀町に矢川隼真飲を開 いてゐる。次女おみきさんは岩川氏友弥さんを掲に取つて、本町一丁 目角にエム矢川写真所を開いてゐる。藩徳は郵便技手になつて、明治 つ 三十七年十月二十八日に殴し、養子文平さんが其後を襲いだ。 その九十四  五百は五月二十日に東京に着いた。そして矢川文一郎、陸の夫妻並 に村田氏から帰つた水木の三人と倶に、本所横網町の鈴木方に行李を 卸した。弘前からの同行者は武田代次郎と云ふものであつた。代次郎 は勘定奉行武田準左衛門の孫である。準左衡門は天保四年十二月二十 かさばらあ上み まつOごと ほし−…ゝ 日に斬罪に処せられた。津軽信順の下で笠原近江が政を壇にした 時の事である。  五百と保とは十六箇月を。隔てて再会した。母は五十七歳、子は十六 歳である。脩は割下水から、優は浦和から母に逢ひに来た。  三人の子の中で、最も生計に余裕があつたのは優である。優は此年 ごんせうさくわん 四月十二日に権少属になつて、月給僅に二十五円である。これに当時 ぽかo の潤沢なる巡回旅費を加へても、尚七十円許に過ぎない。しかし其意 気は今の勅任官に匹敵してゐた。優の家には二人の食客があつた。一 人は妻蝶の弟大沢正である。今一人は生母徳の兄岡西玄亭の次男養玄 え な である。玄亭の畏男玄庵は曾て保の胞衣を服用したと云ふ顔痢病者で、 あらた 維新後間もなく世を去つた。次男が此養玄で、当時氏名を夏めて岡寛 斎と云ってゐた。優が登庁すると、その使役する給仕は故日中困某の 子敬三郎である。優が撞薦した所の県吏には、十五等出仕松本甲子蔵 がある。又敬三郎の父中田某、惰の親戚山田健三、曾て澀江氏の若党 さうしき たりし中条勝次郎、川口に開業してゐた時の相識宮本半蔵がある。中 田以下は皆月給十円の等外一等出仕である。其他今の清浦子が県下の あ」か 小学教貝となり、県庁の学務課員となるにも、優の推薦が与つて力が せきどく あつたとかで、「矢嶋先生窒吾」と書した尺腰数通が遣ってゐる。一 よ お幅 時優の救援に藉つて衣食するもの数十人の衆きに至つたさうである。 ÷  保は下宿星住ひの諸生、情は廃藩と同時に横川邸の番人を罷められ ひと て、これも二尸を構へてゐると云ふだけで矢張諸生であるのに、独り ’く 優胆宵吏であつて、しかも此の如ぐ´応分の橦勢を書へ有してゐる。そ こで優は母に勧めて、浦和の家に迎へようとした、「保が卒業して澀 江の家を立てるまで、せめて四五年の間、わたくしの所に来てゐて下 さい」と云ったのである◎  しかし五百は応ぜなかつた。「わたしも年は寄ったが、幸に無病だ から、浦和に往つて楽をしなくても好い。それよりは学校に通ふ保の 留守居でもしませう」と云ったのである。 キ や上  優は猶勧めて已まなかつた。そこへ一粒金丹の稍大きい注文が来た。 福山、久留米の二箇所から来たのである。金丹を調製することは、始 終五百が自らこれに任じてゐたので、此度も又直に調合に着手した。 優は一旦浦和へ矯つた。  八月十九日に優は再び浦和から出て来た。そして母に言ふには、必 と かく ずしも浦和へ移らなくても好いから、兎に角見物がてら泊りに来て貰 ひたいと云ふのであつた。そこで二十日に五百は水木と保とを連れて 浦和へ往つた。  是より先保は高等師範学校に入ることを願って置いたが、其採用試 験が二十二日から始まるので、独り先に東京に帰つた。 その九十五 を  保が師範学校に入ることを願ったのは、大学の業を卒ふるに至るま での資金を有せぬがためであつた。師範学校は此年始て設けられて、 文部省は上等生に十円、下等生に八円を絵した。保は此給費を仰がむ と欲したのである。 しやラ、がい  然るに此に一つの障礙があつた。それは師範学校の生徒は二十歳以 上に限られてゐるのに、保はまだ十六歳だからである。そこで保は森 枳園に相談した。  枳園は此年二月に福山を去つて諸国を漫遊し、五月に東京に来て湯 鳴切通しの借家に住み、同じ月の二十七日に文部省十等出仕になつた。 時に年六十六である。  概園は余程保萱愛してゐたものと見工え、東京に入つた第三旧に横網 町の下宿を訪うて、切通しの家へ来いと云った。保が三二日往かずに ゐると、枳園は又来て、なぜ来ぬかと問うた。保が尋ねて行って見る みせづくり と、切通しの家は店造で、店と次の間と台所とがあ泌ゆ蛛㌣、枳園は 其店先に机を据ゑて書を読んでゐた。保が覚、疋ず、「売ト者のやうぢ やありませんか」と云ふと、枳園は面白げに笑った。それからは湯嶋 ゆきき ー1三く がんなぺ と本所との間に、往来が絶えなかつた。枳園は展保を山下の雁鍋、 己きかた か吐,す かラむ の1L 駒形の川桝などに連れて往つてい咽を被つて世を罵つた。さ言音  文部省は当時頗る多く名流を羅致してゐた。岡本況斎、榊原琴洲、 壮いし 前里兀温等の諸家が皆九等乃至十等出仕を拝して月に四五十円を給せ られてゐたのである。  保が枳園を訪うて、師範生徒の年齢の事を言ふと、枳園は笑って、 「なに年の足りない位の事は、已がどうにか話を附けて遣る」と云っ た。保は枳園に託して願書を呈した。  師範学校の採用試験は八月二十二日に始まつて、三十日に終つた。 保は合格して九月五日に入学することになつた。五百は入学の期日に 先だつて、浦和から帰つて来た。、 寸ゑまっし 曲 ち よしかた ムるわたりすけひで  保の同級には今の末松子の外、加治義方、古渡資秀などがゐた。加 治は後に渡辺氏を冒し、小説家の群に投じ、絵入自由新聞に続物を出 はながさ したことがある。作者名は花笠文京である。古渡は風果揚らず、挙止 ラ せつ ほとん もと 迂拙であつたので、これと交るものは殆ど保一人のみであつた。本常 ろうしム 陸国の農家の子で、地方に初生児を窒息させて殺す陋習があつたため に、雛に害せられむとして僅に免れたのださうである。東京江快て桑 田衡平の家の学僕になつてゐて、それから此学校に入つた。齢は保よ はる趾 しも り畏ずること七八歳であるのに、級の席次は迦に下にゐた。しかし保 ひと な はその人と為りの沈帝なのを喜んで、厚くこれを遇した。此人は卒業 や 後に佐賀県師範学校に赴任し、暫くして罷め、慶応義塾の別科を修め、 明治十二年に薪潟新聞の主筆になつて、一時東北政諭家の間に重ぜら コ し ラ れたが、其年八月十二日に虎列拉を病んで残した。其後を襲いだのが がくたラ 尾崎傍堂さんださうである。  此頃矢嶋優は暇を得る毎に、浦和から母の安否を問ひに出て来た。 かへ そして土曜日には母を連れて浦和へ婦り、日曜日に車で送り還した。 土曜日に自身で来られぬときは、迎の車を括こすのであつた。 をん症あるじ  鈴木の女主人は次第に優に親んで、立派な、気さくな檀那だと云っ しゆ{ん きよたか て褒めた。当時の優は黒い髪髯を蓄へてゐた。嘗て黒田伯清隆に謁し や上 た時、座に少女があつて、良久しく優の顔を見てゐたが、「あの小父 言か言 研んき, ひげ きんの顔は倒に附いてゐます」と云ったさうである。髪毛が薄くて髯 あご み が濃いので、少女は顕を頭と視たのである。優は此容貌で洋服を着け、 時計の金鎖を胸前に垂れてゐた。女主人が立派だと云った筈である。  或土曜日に優がタ食頃に来たので、女主人が「浦和の檀那、御飯を らりがた 差し上げませうか」と云った。「いや。難有いがもう済まして来まし ラ1 あんかけ たよ。今浅草見附の所を遣って来る生、旨さうな茶飯銘掛を食へさせ る店が出来てゐました。そこに腰を掛けて、茶飯を二杯、銘掛を二杯 やす 食へました。どつちも五十文づゝで、丁度二百文でした。廉いぢやあ りませんか」と、優は云った。女主人が気さくだと称するのは、此調 さ 子を斥して言ったのである。 その九十六  此年には弘前から東京に出て来るものが多かつた。比良野貞固も其 一人で、或日突然保が横網町の下宿に来て、「今着いた」と云った。 むすめ ぐひ そば っな 貞固は妻照と六歳になる女柳とを連れて来て、百本柑の側に繋がせた ひと 舟の中に遺して置いて、独り上陸したのである。さて差当り保と同居 つ“ する積りだと云った。  保は即座に承引して、「御遠慮なく奥さんやお嬢さんをお連下さい、 “つつけ 追附母も弘前から参る筈になつてゐますから」と云った。しかし保は ひそか 吐ん油あるじ 窃に心を苦めた。なぜと云ふに、保は鈴木の女主人に月二両の下宿代 を払ふ約束をしてゐながら、学資の方が足らぬ勝なので、まだ一度も にはか 払はずにゐた。そこへ遼に三人の客を迎へなくてはならなくなつた。 おのれ それが余の人ならば、宿料を取ることも出来よう。貞固は已が主人と なつては、人に銭を使はせたことがないのである。保はどうしても四 入前の費用を弁ぜなくてはならない。これが苦労の一つである。又此 ○いわい 、と研ん÷つ二 界隈ではまだ糸費奴の為留守居を見識つてゐる人が多い。それを横網 やど 町の下宿に含らせるのが気の毒でならない。これが保の苦労の二つで ある。 くわんたい  保はこれを忍んで数箇月間三人を欺待した。そして殆ど目々貞固を ち そラ 横山町の尾張屋に連れて往つて馳走した。貞固は養子房之助の弘前か ら来るまで、保の下宿にゐて、房之助が着いた時、一しよに本所緑町 に家を借りて移つた。丁度保が母親を故郷から迎へる頃の事である。  矢川文内も此年に東京に来た。浅越玄隆も来た。矢川は質店を開い り串ラ あらた たが成功しなかつた。浅越は名を隆と更めて、或は東京府の吏となり、 或は本所区役所の書記となり、或は本所銀行の事務員となりなどした。 浅越の子は三人あつた。江戸生の長女ふくは中沢彦吉の弟彦七の妻に なり、男子二人の中、兄は洋画家となり、弟は電信技手となつた。 くか  五百と一しよに東京に来た陸が、夫矢川文一郎の名を以て、本所緑 むすo 町に砂糖店を開いたのも此年の事である。畏罵の女敬の夫三河星力蔵 ,つ の開いてゐた猿若町の引手茶星は、此年十月に新富町に徒つた。守田 勘弥の守田座が二月に府庁の許可を得て、十月に開演することになつ たからである。  此年六月に海保竹運が殴した。文政七年生であるから、四十九歳を !た げんき 以て終つたのである。前年来復弁之助と称せずして、名の元起を以て 行はれてゐた。竹運の殴した時、家に遣ったのは養父漁村の妾某氏と おのく 竹蓬の子女各一人とである。嗣子繁松は文久二年生で、家を継いだ 時七歳になつてゐた。竹運が残してからは、保は嶋田箆村を漢学の師 と仰いだ。天保九年に生れた箆村は三十五歳になつてゐたのである。  抽斎及後の第十五年は明治六年である。二月十目に浬江氏は当時の し,oよ 第六大区六小区本所相生町四丁目に蹴居した。五百が五十八歳、保が 十七歳の時である。家族は初め母子の外に水木がゐたばかりであるが、 ぜんそく 後には山田脩が来て同居した。情は此頃喘息に悩んでゐたので、割下 水の家を畳んで、母の世話になりに来たのである。  五百は東京に来てから早く」戸を構へたいと思ってゐたが、現金の セ脇へは殆ど尽きてゐたので、魂帆ともすることが出来なかつた。既に して保が師範学校から月額十円の支給を受けることになり、五百は世 話をするものがあつて、不本意ながらも芸者屋のために裁縫をして、 こゝ 多少の賃銀を得ることになつた。相生町の家は此に至つて始て借りら れたのである。 その九十七 かよ  保は前年来本所相生町の家から師範学校に通ってゐた淋、此年五月 九日に学校畏が生徒一同に寄宿を命じた。これは工事中であつた寄宿 きたる 舎が落成したためである。しかも此命令には期限が附してあつて、来 ラつ 六月六日に必ず舎内に徒れと云ふことであつた。  然るに保は入含を欲せないので、「母病気に付当分の内通学御許可 ,んぬん 相成度」云々と云ふ願書を呈して、旧に依つて本所から通りてゐた。 ,そ o} 母の病気と云ふのは虚言では無かつた。五百は当時眼病に罹つて苦ん でゐた。しかし保は単に五百の目疾の故を以て入舎の期を延ぱしたの では無い。 をさ  保は餉範学校の授くる所の学術が、自已の攻めむと欲する所のもの ひそか と相反してゐるのを見て、窃に退学を企ててゐた。それゆゑ舎外生か ら舎内生に転じて、学校と自己との関係の一段の緊密を加ふることを 嫌ふのであつた。  学校は米人スヨツト些云ふものを雇ひ来つて、小学の教授法を生徒 に伝へさせた。主として練習させるのは子母韻の発声である。発声の 壮き 正しいものは上席に居らせる。訛つてゐるものは下席に居らせる。そ 言いのう れゆゑ墓尺人、中国人などは材能がなくても璽んぜられ、九州人、東 北人などは材能があつても軽んぜられる。生徒は多く不評κ堪へなか つた。中にも東京人某は、己が上位に置かれてゐるにも拘らず、「此 のゝし 教授法では延寿大夫が最優等生になる」と罵つた。 つか  保は英語を操ひ英文を読むことを志してゐるのに、学校の現状を見 かた たと れば、所望に極ふ科目は絶て無かつた。又縦ひ未来に於て英文の科が 設けられるにしても、共に入学した五十四人の過半は純乎たる漢学諸 生だから、スペ〃リングや第一リイダアから始められなくてはならな い。保は此等の人々と歩調を同じうして行くのを堪へ難く思った。  保はどうにかして退学したいと思った。退学してどうするかと云ふ と、相識のフルペツクに講うて食審にして貰っても好い。又誰かのボ オイになつて海外へ達れて行って貰っても好い。モオレエ夫婦などの 如く、現に自分を愛してゐるものもある。頼みさべしたら、ボオイに 使ってくれぬこ色もあるまい。こんな夢を保は見てゐた。  保は蛾の如くに思惟して、校畏、教師に敬意を表せず、校則、課業  亡φん膚, を遵奉することをも怠り、早晩退学処分の我頭上に落ち来らんことを “ろく寸の‘fみ L 期してゐた。校畏諸葛信澄の家に刺を通ぜない。其家が何町にあるか をだに知らずにゐる。教師に遅れて教場に入る。数学を除く外、一切 た’ の科日を温習せずに、只英文のみを読んでゐる。 “  入舎の命令をぱ此状汎の下に接受した。そして保はかう思った。若 くだ し入合せずにゐたら、必ず退学処分が降るだらう。さうなつたら、再 び頂天立地の自由の身となつて、随意に英学を研究しよう。勿論折角 、 しよし 尉ち得た官費は絶えてしまふ。しかし書簿万巻楼の主人が相識で、翻 訳書を出してくれようと云ってゐる。早遠醜訳に着手しようと云ふの である。万巻楼の主人は大伝馬町の袋星亀次郎で、是より先保の初て 訳したカツケンポスの小米国史を引き受けて、前年これを発行した二 とがある。  保は此計画を母に語つて同意を得た。しかし矢嶋優と比良野貞固と が反対した。その主なる理由は、若し退学処分を受けて、氏名を文都 省雑誌に載せられたら、拭ふぺからざる汚点を履歴の上に印するだら うと責ふにあつた⑪  十月十九日に保は隠忍して師範学校の寄宿舎に入つた。 その九十八 せラ言くわん の一  矢嶋優は此年八月二十七日に少属に陞つたが、次で十二月二十七日 には同官等を以て工部省に転じ、鉱山に関する事務を取り扱ふことに なり、芝琴平町に来り住した。優の家にゐた岡寛斎も、優に撞挙せら れて工部省の雇員になつた。寛斎は後明治十七年十月十九日に殴した。 天保十年生であるから、四十六歳を以て終つたのである。寛斎は生れ かたち や五 て淡貌があつたが、痘を病んで容を毀られた。医学館に学び、又抽斎、 よわかきときかつて 枳園の門下に居つた。寛斎は枳園が寿蔵砕の後に書して、「余少時曾 世んせいの㌔んにあり よくそのひととなりと がくのくわう肚くと吐」る よりてひそかにせんせいのげんかうおよびじがくい 在先生之門、能知其為人、且学之広博、因窃録先生之言行及字学医 がくのしよせつ吐ろくし ぺつにせiさっしとたす 学定諸説、別為小冊子」と云ってゐる。わたくしは其書の存否を つ,αらo むすめ 審にしない。寛斎は初め伊沢氏かえの生んだ池田全安の女梅を娶 いはきだひら つたが、後これ喧離別して、陸奥国磐城平の城主安藤家の臣後藤氏の 女いつを後妻に納れた。いつは二子を生んだ。長男俊太郎さんは、今 本郷西片町に住んで、陸軍省人事周補任課に奉職してゐる。次男篤次 吐オ 郎さんは風間氏を冒して、小石川宮下町に住んでゐる。篤次郎さんは 海軍機関大佐である。  陸は此年矢川文一郎と分離して、砂粧店を閉ぢた。生計意の如くな らざるがためであつただらう。文一郎が三十三歳、陸が二十七歳の時 である。  次で陸は本所亀沢町に看板を懸けて杵歴勝久と称し、畏唄の師匠を することになつた。 うつ  矢嶋周禎の一旗も亦此年に東京に遷つた。周禎は霊津嶋に住んで医 おらちやみせ を業とし、優の前妻鉄は本所相生町二つ日橋通に現具店を開いた。周 “と 禎は秦眼科なので、五百は日の治療を此人に頼んだ。 そくしう  或日周禎は嗣子閤策を連れて澀江氏を訪ひ、束傭を納めて周策を保 すで の門人とせむことを講うた。周策は已に二十九歳、保は僅に十七歳で ある、保は其意を解せなかつたが、これを問へぱ問策をして師範学佼 に入らしむる準傭をなさむがためであつた。保は喜び諾して、周策を かう して試験諸科を温習せしめ且これに漢文を授けた。周筑は後生徒の第 二次募集に応じて合格し、明治十年に卒業して山梨県に赴任したが、 いく’阯く 幾もなく精神病に罹つて罷められた。  緑町の比良野氏では房之助が、実父稲葉一夢斎と共に骨董店を開い た。一濠斎は丹下が老後の名である。貞固は月に数度浅草黒船町正覚 世んえi 寺の先螢に詣でて、帰途には必ず澀江氏を訪ひ、五百と昔を談じた。 じん{ん  抽斎歿後の第十六年は明治七年である。五百の眼病が荏萬として治 ひ せぬので、矢嶋周禎の外に安藤某を延いて療せしめ、数月にして治す ることを得た。  水木は此年深川佐賀町の洋品商兵庫屋藤次郎に再嫁した。二十二歳 の時である。 にらやき  妙了尼は此年九十四歳を以て韮山に殴した。  澀江氏は此年感応寺に於て抽斎の為に法要を営んだ。五百、保、矢 嶋優、陸、水木、比良野貞固、飯田良政等が来会した。 ちつろく  澀江氏の秩禄公債証書は此年に交付せられたが、削滅を経た禄を一 らと 石九十五銭の割を以て換算した金高は、固より言ふに足らぬ小額であ つた。  抽斎殴後の第十七年は明治八年である。一月二十九日に保は十九歳 を お↓む で師範学校の業を卒へ、二月六日に文部省の命を受けて浜松県に赴く こととなり、母を奉じて東京を発した◎ もと  五百、保の母子が立つた後、山田傭は亀沢町の陸の許に移つた。水 壮“ 木は猶深川佐賀町にゐた。矢嶋優は此墳家を畳んで三池に出張してゐ た。 その九十九 保は母五百を奉じて浜松に着いて、初め暫くの程は旅店にゐた。次 しもたれちやう 釧ラキと で母子の下宿料月額六円を払って、下垂町の郷宿山田屋和三郎方にゐ − ることになつた。郷宿とは藩政時代に訴訟などのために村民が城下に キと 出た時舎る家を謂ふのである。又諸国を遊歴する書画家等の滞留する にくけし ものも、大抵此郷宿にゐた。山田屋は大きい家で、庭に肉桂の大木が ある。今も猶傲存してゐるさうである。 や童き  山田屋の向ひに山喜と云ふ居酒屋がある。保は山田屋に移つた初に、 か“やき 山喜の店に大皿に蒲燐の盛つてあるのを見て、五百に「あれを買って 見ませうか」と云った。  ぜいた・、 う壮ぎ 「賛沢をお言ひでない。鰻は此土地でも高からう」と云って、五百は 止めようとした。 「まあ、聞いて見ませう」と云って、保は出て行った。価を問へば、 くし これ 一銭に五串であつた。当時浜松辺で暮しの立ち易かつたことは、此に よ 由つて想見することが出来る。  保は初め文部省の辞命を持つて県庁に往つた。浜松県の官吏は過半 旧幕人で、薩長政府の文部省に対する反感があつて、学務課長大江孝 すこふ やゝ 文の如きも、頗る保を冷遇した。しかし良久しく話してゐるうちに、 おもて 牛はら 保が津軽人だと聞いて、少しく面を和げた。大江の母は津軽家の用人 とがの もとめ きラ 栂野求馬の妹であつた。後大江は県令林厚徳に稟して、師範学校を設 けることにして、保を教頭に任用した。学校の落成したのは六月であ る。 ごうしうや  数月の後、保は高町の坂下、紺屋町西端の雑貨商江州屋速見平吉の 離座敷を借りて遷つた。此江州屋も今猶存してゐるさうである。 せうさくわん  矢嶋優は此年十月十八日に工部少属を罷めて、薪閲記者になり、 さき泌げ ,さこ 魁新聞、莫砂新聞等のために、主として演劇欄に筆を執つた。魁新 ■しも 聞には山田術が倶に入社し、真砂新聞には森枳園が共に加盟糺快。枳 園は文部省の官吏として、医学校、工学寮等に通勤しつ㌧、労ら新聞 社に寄稿したのである。  抽斎理後の第十八年は明治九年である。十月十日に浜松師範学校が 静岡師範学校浜松支部と改称せられた。是より先八月二十一日に浜松 も,‘ 県を塵して蔽岡県に併せられたのである。しかし保の職は故の如くで あつた。 が えん  此年四月に保は五百の遺。暦の賀建を催して県命以下の祝を受けた。 やす  五百の姉長尾氏安は此年新窟座附の茶屋三河屋で及した。年は六十 二であつた。此茶屋の株は後倣の夫力蔵が死ぬるに及んで、他人の子 に渡つた。  比良野貞固も亦此年本所緑町の家で殴した。文化九年生であるから、 つ 六十五歳を以て終つたのである。其後を襲いだ房之助さんは現に緑町 一丁日に住んでゐる。  小野富穀も亦此年七月十七日に殴した。年は七十であつた。子道悦 が家督相続をした。 げんえん  多紀安琢も亦此年一月四日に五十三蔵で残した。名は元瑛、号は雲 がづ言のくにしすみごほうそうもとむら 従であつた。其後を襲いだのが上総国夷隅郡総元村に現存してゐる次 男晴之助さんである。  喜多村拷窓も亦此年十一月九日に殴した。楮窓は抽斎の残した蜘奥 医師を罷めて大塚村に住んでゐたが、明治七年十二月に卒申し、有半 こ} いた 身不随になり、此に遣って終つた。享年七十三である。  抽斎致後の第十九年は明治十年である。保は浜松表早馬町四十番地 いくκく に二尸を構へ、後又幾ならずして元城内五十七番地に移つた。浜松 もと 城は本井上河内守正直の城である。明治元年に徳川家が新に此地に封 ラつ ぜられたので、正直は翌年上総国市原郡鶴舞に徒つた。城内の家屋は ていたく つらな 皆井上家時代の重臣の第宅で、大手の左右に列つてゐた。保は共一つ に母を居らせることが出来たのである。  此年七月四日に保の奉職してゐる静岡師範学校浜松支部は変則中学 校と改称せられた。  兼松石居は此年十二月十二日に殴した。年六十八である。絶筆の五 こんにちわれめんをしる 古たつるにのりてあそぽむとす じ宇うていL車めい吐たオム 絶と和歌とがある。「今日吾知免。亦将騎鶴遊。上帝費殊命。 なんち左してたカくあひキすオ」{んと 使爾永 相休。」「年浪のたち騒ぎつる世をうみの岸を離れて舟 いはみのかみた’みち 漕ぎ出でむ。」石居は酒井石見守忠方の家来屋代某の女を娶つて、三 こん あざな し しよ 二う一くけん 子二女を生ませた。長子艮、字は止所が家を嗣いだ。号は厚朴軒であ る①艮の子成器は陸軍砲兵大尉である。 んでゐて、厚朴軒さんも其家にゐる。 成器さんは下総国市川町に住 その百 つぐてる  抽斎歿後の第二十年は明治十一年である。一月二十五日津軽承昭は へんし5 しち言はやすみ 潜士の伝記を編輯せしめむがために、下沢保銅をして澀江氏に就いて 出 いは庫る 抽斎の行状を徴さしめた。保は直ちに録呈した。所謂伝記は今存ずる 所の津軽旧記伝類ではあるまいか。わたくしは未だ其書を見ざるが故 さいたく つ竈σらか に、抽斎の行状が宋択せられしや否やを審にしない。  保の奉職してゐる浜松変則中学校は此年二月二十三日に中学校と改 称せられた。  山田脩は此年九月二日に、母五百に招致せられて浜松に来た。是よ り先五百は脩の喘息を気遣ってゐたが、情が矢嶋優と共に魁新聞の記 ぱラいん 者となるに及んで、その保に寄する書に卯飲の語あるを見て、大いに 克そ その健康を害せんを倶れ、急に命じて浜松に来らしめた。しかし五百  ひと は独り脩の身体のためにのみ憂へたのでは無い。その新聞記者の悪徳 出もんばか に化せられむことをも慮つたのである。  此年四月に岡本況斎が八十二歳で殴した。  抽斎殴後の第二十一年は明治十二年である。十月十五日保は学問修 ていきよ 行のため職を辞し、二十八目に聴許せられた。これは慶応義塾に入つ て英語を学ばむがためである・  楚より先保は深く英語を窮めむと欲して、未だ其志を遂げずにゐた。 を 師範学校に入つたのも、其業を卒へて教員となつたのも、皆学資給せ や ざるがために、已むことを得ずして為したのである。既にして保は慶 そくぷん 怖犠塾の学風を灰聞しダ噸る福沢諭吉に傾倒し枇。明治九年に国学者 阿波の人葉が、福沢の著す所の学問のすゝめを駁して、書中の「日本  ;“r はづかし は蘂爾たる小国である」の句を以て祖国を辱むるものとなすを見るに 及んで、福沢に代つて一文を草し、民間雑誌に投じた。星間雑誌は福 沢。の湿営する所の日刑新聞で、今の時事斯報の前身である。福沢は保 ξEF−し−≡E・−−■E−一 ’ し−。; ■ − −。r一 しゆL上 の文を果録し、手書して保に謝した。保は此より橿沢に識られて、こ いよ< れに適従せんと欲する念が愈切になつたのである。 もと  保は職を辞する前に、山田傭をして居宅を索めしめた。脩は九月二 き 十八日に先づ浜松を発して東京に至り、芝区松本町十二番地の家を借 りて、母と弟とを迎へた。  五百、保の母子は十月三十一日に浜松を発し、十一月二日に松本町 しつか の家に着いた。此時保と借とは再び東京に在つて母の膝下に侍するこ とを得たが、独り矢嶋優のみは母の到着するを待つことが出来ずに北 海道へ旅立つた。十月八日に開拓使御用掛を拝命して、札幌に在勤す ることとなつたからである。  陸は母と保との浜松へ往つた後も、亀沢町の家で長唄の師匠をして ゐた。此家には兵庫星から帰つた水木が同居してゐた。勝久は水木の 夫であつた畑中藤次郎を頼もしくないと見定めて、まだ惰が浜松に往 かぬ先に相談して、水木を手元へ連れ戻したのである。  保等は浜松から東京に来た時、二人の同行者があつた。一人は山田 要蔵、一人は中西常武である。 と旧たムみのくにムち一」悟りつ づき  山田は遠江国敷智郡都築の人である。父を喜平と云って、畳間屋 である。其三男要蔵は元治元年生の青年で、澀江の家から浜松中学校 κ通ひ、卒業して東京に来たのである。時に年十六であつた。中西は 、“のくヒわたらひごほo ようすけ 伊勢国度会郡山田岩淵町の人中西用亮の弟である。愛知師範学校に 学んで卒業し、浜松中学校の教員になつてゐた。これは職を罷めて東 京に来た時二十七八歳であつた。山田も中西も、保と同じく慶応義塾 に入らむと欲して、共に入京したのである。 その百一  保は東京に着いた翌日、十一月四日に慶応義塾に往つて、本科第三 等に編入せられた。同行者の山田は、保と同じく本科に、中西は別科 に入つた。後山田は明治十四年に優等を以て卒業して、一時義塾の教 貝となり、既にして伊東氏を冒し、衆議院議員に選ばれ、今は菓銀行、 菜会社の重役をしてゐる。中西は別科を修めた後に郷に帰つた。  保は廢応義塾の生徒となつてから三日日に、万来舎に於て福沢諭吉 を見た。万来舎は義塾に附属したクラブ様のもので、福沢は毎日午後 に来て文明諭を講じてゐた。保が名を告げた時、福沢は昔年の事を誘 り出でてこれを菩遇した。  当時慶応義塾は年を三期に分ち、一月から四月までを第一期と云ひ、 五月から七月までを第二期と云ひ、九月から十二月までを第三期と云 つた。保が此年第三期に編入せられた第三等は猶第三級と云はむがご とくである。月の末には小試験があり、期の終には又大試験があつた。  森枳園は此年十二月一日に大蔵省印刷局の編修になつた。身分は准 とくの, 判任御用掛で、月給四十円であつた。局長得能良介は初め八十円を給 せようと云ったが、枳園は辞して云った。多く給せられて早く罷めら れむよりは、少く給せられて久しく勤めたい。四十円で十分だと云っ きし命く た。局長はこれに従って、特に青宿として枳園を優遇し、土蔵の内に 畳を敷いて事務を執らせた。此土蔵の鍵は枳園が自ら保管してゐて、 にち<にきよくにいり おいのまきにいたらむとするをしらす 自由にこれに出入した。寿蔵碑に「日々入局、不知老之将至、 旧とんどきんぱ“んのお“ひをな寸とい上 殆為金馬門之想云」と記してある。  抽斎歿後の第二十二年は明治士二年である。保は四月に第二等に進 み、七月に被楕を以て第一等に進み、遂に十二月に金科の業を終へた。 廿oか陀 下等の同学生には渡辺修、平賀敏があり、又同じ青森県人に芹川得一、 工藤儀助があつた。上等の同学生には犬養毅さんの外、矢田績、安場 じ えい 男爵があり、又同県人に坂井次永、神尾金弥があつた。後の二人は旧 会津藩士である。 ながたね  万来含では今の金子子爵、英他相馬永胤、目賀田男爵、鳩山和夫等 が法律を講ずるので、保も聴いた。  山田脩は此年電信学校に入つて、松本町の家から通った。陸の勝久 かたばら が長唄を人に教ふる努、音楽取調所の生徒となつたのも亦此年である。 はラが 音楽取調所は当時創立せられたもので、後の東京昔楽学校の萌芽であ る。此頃水木は勝久の許を去つて母の家に来た。 占した把  此年又藤村義苗さんが浜松から来て澀江氏に寓した。藤村は旧幕臣 で、浜松中学校の業を卒へ、遠江国中泉で小学校訓導をしてゐたが、 外国語学校で露語生徒の入学を許し、官費を給すると聞いて、其試験 を受けに来たのである。藤村は幸に合椿したが、後に露語科が廃せら れてから、東京高等商業学校に入つて其業を卒へ、現に某々会社の重 役になつてゐる。  松本町の家には五百、保、水木の三人がゐて、諸生には山田要蔵と 此藤村とが置いてあつたのである。  抽斎歿後の第二十三年は明治十四年である。当時慶応義塾の卒業生 へい おも を ■た は世人の争って聰せむと欲する所で、其世話をする人は主に小幡篤次 郎であつた。保は猶進んで英語を窮めたい志を有してゐたが、浜松に つ あつた目に衣食を節して貯へた金が又馨きたので、遂に給を俸銭に仰 がざることを得なくなつた。 はけくち  此年も亦卒業生の決口は頗る多かつた。保の如きも第一に三重日報 の主筆に擬せられて、これを辞した、これば藤田茂吉に三重県庁が金 を出してゐることを聞いたからである。第二に広嶋某新聞の主筆は、 保が初め其任に当らうとしてゐたが、次で出来た学校の地位に心を傾 けたために、半途にして交渉を絶つた。  学校の地位と云ふのは、愛知中学校長である。招聘の事は阿部泰蔵 と会談して定まり、保は八月三日に母と水木とを伴って東京を発した。 諸生山田要蔵は此時慶応義塾に寄宿した。 その百二 は いご岨り二 上 2ち  保は三河国宝飯郡国府町に着いて、長泉寺の隠居所を借りて住んだ。 そして九月三十日に愛知県中学校長に任ずと雲ふ辞令を受けた。 よ二た  保が学校に往つて見ると、二つの急を要する問題が前に横はつてゐ た。教則を作ることと罰則を作ることとである。敦則は案を具して文 部省に呈し、其認可を受けなくてはならない。罰則は学校長が自ら作 り自ら施すことを得るのである。教則の案は直ちに作つて呈し、罰則 をし 屯やす は不文律となして、生徒に自カの徳敦を講へた。敦則は文部省か軌く カき 認可せぬので、往復数十回を累ね、とう/\保の在職中江躰捌定せ泌 れずにしまった。罰則は果して必要で無かった。一人の詮違者をも出 さなかつたからである。 こきt  畏泉寺の隠居所は次第に賑しくなつた。初め保は母と水木との二人 の家族があつたのみで、寂↓沁像庭をなしてゐたが、寄寓を請ふ諸生 唯、一人容れ、二人容れて、し幾もあらぬに六人の多きに鑓㌦壮㍑八因 敵対蛾、稲垣親康、嶋固寿一、大矢尋三郎、菅沼岩蔵、溝部惟幾の人 人である。中にも八田は後に海軍少将に至つた。菅沼は諸方の中学校 に奉職して、今は浜松に栖帰。最も奇と肘状きは溝部で、減日偶然来 て泊り込み、それなりに淹留した。夏日袷脈狛羽織を瀞て悟として恥 ぢず、又苦熱の態をも見せない。人費その長門の人なるを知つてゐる が、曾て自ら年歯を誘ったことが無いので、その幾歳なるかを知るも のが無い。打ち見る所は保と同年位であつた。溝都は後農商務省の雇 員となり、地方官に転じ、栃木県畑事に至った。 一二 一い  当時保は一人の友を得た。武岡氏名は準平で、保が国府の学校に聘 あつせん せられた時、中に立つて斡旋した阿部泰繊切兄であ鵬。準平は国府に 住んで医を業としてゐたが、医家を以て著れずに、却つて政答を以て 問えてゐた。  準平は是より先愛知県会の議長となつたことがある。某年に県会が 職つて・県吏と議員とが懇親の宴を開いた。準平は平棄県令国貞廉平 あきたら たけなば の旛設に糠帖かつたが、宴關なる締、国貞の前に進㏄で杯沌献牝い さて「お敬は」と呼びつ㌧、国貞に背いて立ち、衣を撃げて尻を露し たさうである。  保は国府に来てから、此準平と相識になつた。既にして準平が兄弟 へりくだ にならうと勧めた。保は謙つて父子になる方が適当であらうと云った。 遂に父子と称して杯を交した。準平は四十四歳、保は二十五歳の時で ある。  此時東京には政党が争ひ起つた。改進党が成り、自由党が成り、又 帝政党が成つて、新聞紙は早晩此等の結党式の挙行せらるべき二蛇ほ 伝へた。準平と保とは国府にあつてか㍑云った。「東掠ゆ政界は華々 しい。我等田舎に住んでゐるものは、淵に臨んで魚を羨むの憎に堪へ ない。しかし大なるものは成るに難く、小なるものは成るに易い。我 等も甲らに似せて穴を掘り、一の小政社を結んで、東涼妨諸先輩に先 んじて式を挙げようではないか」と云った。此政社の雛形は進取仕と 名づけられて、保は杜長、準平は副杜長であつた。 その百三 抽斎羅の第二十四年は明治十五年である。一㌧一月言順のけ篭 準平が刺客に殺された。準平の家には母と妻と女一人とカゐた 女の 婿警は東京帝国大瑳科大学の別科生になつ箒て、家にゐなかつ た。常は諸生が居り、僕が居つたが、皆新年に獺を匂って帰つた。此 日家人が寝に就いた後、浴室から火が起つた。唯一人暇を取らずにゐ け、∫り くりや こ た女中が驚き醒めて、烟の廣を單むるを見、引窓を開きつ㌧人を呼ん だ。浴室は戯餓か外に接してゐたのである。準平は女中の声を聞いて、 あんとう 「なんだ、なんだ」と云ひつゝ、手に行燈を提げて厨に出て来た。此 時一人の弧蛾糾つぱを桝た男が暗中より紺つて、準平に近づいた。準 お つ 平は行燈を措いて奥に入つた。引廻の男は尾いて入つた。準平は奥の 廊下から、雨戸を機して庭に出た筍廻の甥は又尾いて出た。準平 は身に十四箇所の創を負って、庭の檎の下に雇れた。檀は老木であつ たが、前年の暮、十二月二十八日の夜、風の無いに折れた。準平はそ たき∫ ひ れを見て、新年を過してから薪に挽かせようと云ってゐたのである。 家人は檜が歎をなしたなどと云った。引廻の男は誰であつたか、又何 つひ 故に準平を殺したか、終に知ることが出来なかつた。  保は報を得て、馳せて武田の家に往つた。警察署長佐藤菓がゐる。 郡長竹本が徽がゐる。巡査数人がゐる。佐藤はかう云ふのである。 「武目さんは進取社の事のために殺されなすつたかと思はれます。澀 江さんも御用心なさるが好い。当分の内巡査を二人だけ附けて上げま せう」とミふのである。 曲  保は彼の小結社の故を以て、刺客が手を動かしたものとは信ぜなか つた。しかし暫くは人の勧に従って巡査の護衛を受けてゐた。五百は た竈 こ けんじφ, 例の懐剣を放さずに持つてゐて、保にも弾を翼めた拳銃を傭へさ」せた。 進取社は準平が死んでから、何の活動をもなさずに分敵した。  保は京浜毎日新聞の寄書家になつた。毎目は嶋田三郎さんが主筆で、 ムくち あうち 東京日々新聞の福地桜凝と諭争してゐたので、保は嶋田を助けて戦っ た。主なる論題は主櫓諭、普通選挙諭等であつた。 と 牛, “くら  普通選挙論では外山正一が福地に応援して、「毎日記者は盲目蛇に おぢざるものだ」と云った。これは嶋田のペンサムを普通選挙諭者と なしたるは無学のためで、ベンサムは実に制限選挙諭者だと云ふので あつた。そこで保はベンサムの憲法諭に就いて、普通選挙を可とする あラむ鈷へL 章句を鈔出し、「外山先生は盲目蛇におぢざるものだ」と云ふ鶏鵡返 の報復をした。 ぬ 竈 二屯づかりゆ,  此等の諭戦の後、保は嶋里二郎、沼間守一、肥塚龍等に識られた。 後に京浜毎日社員になつたのは、此縁故があつたからである。  保は十二月九日学校の休暇を以て東京に入つた。実は国府を去らむ とする意があつたのである。 ゆたか  此年矢嶋優は札蝿にあつて、九月十五日に澀江氏に復籍した。十月 二十三日に其妻蝶が残した。年三十四であつた。  山田脩は此年一月工部技手に任ぜられ、日本橋電信局、東京府庁電 信局等に勤務した。 その百四  抽斎歿後の第二十五年は明治十六年である。保は前年の暮に東京に 入つて、仮に芝岡町一丁目十二番地に住んだ。そして一面愛知県庁に き oん 辞表を呈し、一面府下に職菜を求めた。保は先づ職業を得て、次で免 ひ 罷の報に接した。一月十一日には攻玉含の敦師となり、二十五日には 慶応義塾の敦師となつて、午前に慶応義塾に往き、午後に攻玉舎に往 ひそ缶 くことにした。攻玉舎は舎長が近藤真琴、幹事が藤田潜で、生徒中に は後に海軍少醤に至つた秀嶋某、海軍大佐に至つた笠問直等があつた。 慶応義塾は社頭が福沢諭吉、副社頭が小幡篤次郎、校畏が浜野定四郎 で、教師中に門野幾之進、鎌田栄吉等があり、生徒中に池辺吉太郎、 門野重九郎、和田豊治、日比翁助、伊吹雷太等があつた。愛知県中学 からす“りちや5 校長を免ずる辞令は二月十四日を以て発せられた。保は芝烏森町一 かへ 番地に家を借りて、四月丑日に国府から還つた母と水木とを迎へた。  勝久は相生町の家で長唄を敦へてゐて、山田惰は其家加ら府庁電信 局に通勤してゐた。そこへ優が開拓使の職を辞して札幌から帰つたの が八月十日である。優は無妻になつてゐるので、勝久に説いて師匠を つ小言ど 罷めさせ、専ら家政を掌らせた。  八月中の事であつた。保は客を避けて京浜毎日新聞に寄する文を草 旧 あし せむがために、一週日程の間柳嶋の帆足謙三といふものの家に起臥し のこ かつ てゐた。烏森町の家には水木を遺して母に侍せしめ、且優、脩、勝久 か阻 の三人をして交る%\其安否を問はしめた。然るに或夜水木が帆足の 家に来て、母が病気と見えて何も食はなくなつたと告げた。  保が家に帰つて見ると、五百は床を敷かせて寝てゐた。「只今惜り ました」と、保は云った。 「お帰かえ」と云って、五百は微笑した。 「おつ母様、あなたば何も上らないさうですね。わたくしは暑くてた まりませんから、氷を食へます。」 ういで 「そんなら序にわたしのも取つておくれ。」五百は氷を食へた。  翌朝保が「わたくしは今朝は生卵にします」と云った。 「さうかい。そんならわたしも食へて見よう。」五百は生卵を食へた。  ぴる  午になつて保は云った。「けふは久し撮で、洗ひに水貝を取つて、 少し酒を飲んで、それから飯にします。」 「そんならわたしも少し飲まう。」五百は洗ひで酒を欽んだ。其時は もう平日の如く起きて坐つてゐた。  晩になつて保は云った。「どうもタ方になつてこんなに風がちつと しの しはゆ も無くては凌ぎ切れません。これから汐湯に遣入つて、湖月に寄って 涼んで来ます。」 葦くひ 「そんならわたしも往くよ。」丑百は遂に汐湯に入つて、湖月で欽食 した。  五百は保が久しく帰らぬがために物を食はなくなつたのである。五 たラ さき 百は女子中では巣を愛し、男子中では保を愛した。嚢に弘前に留守を してゐて、保を東京に遣ったのは、意を決した上の事である。それゆ ゑ激く年余の久しきに堪へた。これに反して帰るべくして矯らざる保 かた を日毎に待つことは、五百の難んずる所であつた。此時五百は六十八 歳、保は二十七歳であつた。 その百五  此年十二月二日に優が本所相生町の家に殴した。優は職を罷める時 から心臓に故障があつて、東京に還つて清川玄遺の治療を受けてゐた が、屋内に静坐し纂れば別邊悩義かつた。謬箒㍍朝省 物篭いてゐて、午頃・栖、草臥れた・と云って仰狐したがそれ切 り起たなかつた。岡西氏徳の生んだ、抽斎の次男は此の如くにして世 を去つたのである。優は四十九歳になつてゐた。子は無い。遺骸は感 応寺に葬られた。 優は灘零あつた。汝し醸身を轟に置いてからは、警鵜 つたにも拘}ず、頗る材能を見した。優は情誼に厚かつた。親戚朋友 の其恩恵を被つたことは甚だ多い。優は箪札を善くした。其書には小 嶋成斎の風があつた。其他演劇の事は此人ル最も精通する所であつた。 うち 新聞紙の劇評の如きは、森枳園と優とを開拓者の中に算すべきであら うb大正五年に珍書刊行会で公にした劇界珍話は珊鰐の名が署してあ るが、優の未定稿である、  抽斎殴後の第二十六年は明治十七年である。二月十四日に五百が烏 森の家に残した。年六十九であつた。  五百は乎生病むこと庫少かつた。抽斎政後に一たび眼病に罹り、時 , − 一  tんつ, うれ 時痂痛を患へた位のものである。特に明治九年還暦の後は、殆ど無病 の人となつてゐた。然るに前年の八月中、保が家に帰らぬを恵へて絶 午ゝ 食した頃から、稍心身違和の徴があつた。保等はこれがために憂慮し た。さて新年に入つて見ると、五百の健康状態は好くなつた一保は二 てん’らそ“ こたつ o,たけホは 月九日の夜母が天殊羅蕎麦を食へて炬燵に当り、吏を談じて更の闘な るに至つたことを記億してゐる。又翌十日にも午食に蕎麦を食へた二 とを記億してゐる。午後三時頃五百は煙草を買ひに出た。二一二年前か いさb らば子等の諌を納れて、単身戸外に出ぬことにしてゐたが、当時の家 から煙草店へ往く道は、鳥森神社の境内であつて車も通らぬゆゑ、煙 草を買ひにだけば単身で往つた。保は自分の部屋で書を読ん江、ろ、一れ を知らずにゐた。暫くして五百は烟草を買って帰つて、保の背後に立 ’つ つて話をし出した。保は旦読み且答へた。初てドイツ語を学ぶ頃で、 読んでゐる書はシエツフエルρ文典であつた。保は母の気息の促迫し ’ てゐるのに気が附いて、「おつ母様、大そうせか/\しますね」と云 つた。 「あゝ年のせいだらう、少し歩くと息が切れるのだよ。」五百はかう 云ったが、矢張話を罷めずにゐた。  少し立つて五百は突然黙つた。 ころ 「おつ母様、どうかなすつたのですか。」保はかう云って背後を顧み た。  五百は火鉢の前に坐つて、稍首を傾けてゐたが、保は其姿勢の常に た かたばら 異なるのに気が附いて、急に起つて傍に往き顔を覗いた。 よだれ  五百の目は直視し、口角からは涎が流れてゐた。  保は「おつ母様、おつ母様」と呼んだ。 せい  五百は「あゝ」と一声答へたが、人事を省せざるものの如くであつ た。  保は床を敷いて母を寝させ、自ら医師の許へ走つた。 その百六 と,心ん  溟江氏の住んでゐた鳥森の家からは、存生堂と秀ふ松山棟庵の出張 所が最も近かつた。出張所には片倉某と云ふ医師が住んでゐた。保は 存生堂に駆け附けて、片倉を連れて家に帰つた。存生堂からは松山の 出張をも講ひに遣った。  片倉が一応の手当をした所へ、松山が来た。松山は一診して云った。 「これは脳卒中で右半身不随になつてゐます。出血の部位が重要部で、 其血量も多いから、回復の望はありません」と云った。 そのこと くラ  しかし保は其言を信じたくなかつた。一時空を視てゐた母が今は人  お凸て らんぺん の面に注目する。人が去れば日送する。枕辺に置いてあるハンカチイ と そぱ な フを左手に把つて畳む。保が傍に寄る毎に、左手で保の胸を撫でさへ した。  保は夏に印東玄得をも呼んで見せた。しかし所見は松山と同じで、 此上手当のしやうは無いと云った。  五百は遂に十四日の牛前七時に絶息した。 き かん  五百の晩年の生活は目々印刷したやうに同じであつた。那寒の時を てラづ 除く外は、朝五時に起きて掃除をし、手水を使ひ、仏壇を拝し、六時 ご ;ん に朝食をする。次で新聞を読み、暫く読書する。それから牛餐の支度 をして、正午に午餐する。牛後には裁縫し、四時に至つて女中を連れ て家を出る。敵歩かてら買物をするのである。魚菜をも大抵此時買ふ。 ゆ’げ タ餉は七時である。これを終れば、日記を附ける。次で又読書する。 ラ ピ 倦めば保を呼んで棋を囲みなどすることもある。寝に就くのは十時で ある。  隔日に入浴し、毎月曜日に髪を洗った。寺には毎月一度詣で、親と 夫との忌日には別に詣でた。会計は抽斎の世にあつた時から自らこれ いた に当つてゐて、死に追るまで廃せなかつた。そして其節倹の用意には 驚くべきものがあつた。  近百の晩年に読んだ書には、新刊の歴史地理の類が多かつた。兵要 日本地理小志は其文が簡潔で好いと云って、傍に置いてゐた。 こ  奇とすべきは、五百が六十歳を麟えてから英文を読みはじめた事で ある、五百は頗る早く西洋の学術に注意した、其時期を考ふるに、抽 あ 盲由ごん宮い 斎が安積艮斎の書を読んで西洋の事を知つたよりも早かつた。五百は すしき, まだ里方にゐた時、或日兄栄次郎が鮪久に奇な事を言ふのを聞いた。 言か 「人問は夜逆さになつてゐる」云々と云ったのである。五百は怪んで、 鮪久が去つた後に兄に問うて、始て地動説の講釈を聞いた。其後兄の きかいくわんらん 机の上に気海観澗と地理金志とのあるのを見て、取つて読んだ。 はヘ ムん  抽斎に嫁した後、或目抽斎が「どうも天井に螂が糞をして困る」と 云った。五百はこれを聞いて云った。「でも人間も夜は蝿が天井に止 まつたやうになつてゐるのだと申しますね」と云った。抽斎は妻が地 動説を知つてゐるのに驚いたさうである。 あきたら  五百は漢訳和訳の洋説を読んで撮ぬので、とう/\保にスペルリン グを教へて貰ひ、程なくヰルソンの読本に移り、一年ばかり立つうち に、パアレェの万国吏、カツケンボスの米国史、ホオセツト夫人の経 済論等をぽつ/\読むやうになつた。  五百の抽斎に嫁した時、婚を求めたのは抽斎であるが、此間に攻秘 密が包蔵せられてゐたさうである。それは抽斎をして婚を求むるに至 らしめたのは、阿部家の医師石川貞白が勧めたので、石川貞白をして 勧めしめたのは、五百自已であつたと云ふのである。 その百七 い つ  石川貞白は初の名を磯野勝五郎と云った。何時の事であつたか、阿 部家の武具係を勤めてゐた勝五郎の父は、同僚が主家の具足を質に入 いとき れたために、永の暇になつた。その時勝五郎は兼て医術を伊沢榛軒に 学んでゐたので、直に氏名を改めて剃髪し、医業を以て身を立てた。  貞白は澀江氏にも山内氏にも往来して、抽斎を識り五百を識つてゐ しやラぎ た。弘化元年には五百の兄栄次郎が吉原の娼妓浜照の許に通って、遂 にこれを娶るに至つた。其時貞白は浜照が身受の相談相手となり、其 仮親となることをさへ諾したのである。当時兄の措置を喜ばなかつた 五百が、平生青眼を以て貞白を見なかつたことは、想像するに余があ るo しき邑  減日五百は使を遣っ汽貞白を招いた。貞白帖おそる日野屋切関 を跨いだ。兄の非行を諦けてゐるので、妹に謹められばせぬかと擢れ たのである。  然るに貞白を迎へた五百にはいつもの元気が無かつた。「貞白さん、 きねき けふはお頼申したい事があつて、あなたをお招いたしました」と云ふ、 いんぎん 態度が例になく慰勲であつた。  何事かと問へぱ、澀江さんの奥さんの亡くなつた跡へ、自分を世話 をしてはくれまいかと雪ふ。貞白は事の意表に出でたのに驚いた。  是より先日野屋では五百に婿を取らうと云ふ議があつて、貞白はこ あづか れを与り知つてゐた。塘に擬せられてゐたのは、上野広小路の呉服店 かよひ 伊藤松坂屋の通番頭で、年は三十二一二であつた。栄次郎は妹が自分達 あきたら 夫婦に鎌ぬのを見て、妹に婿を取つて日野屋の店を謹り、自分は浜照 を連れて隠居しようとしたのである。 はた  掲に擬せられてゐる番顕某と五百となら、穿から見ても好配偶であ うちみ る。五百は二十九歳であるが、打見には二十四五にしか見、疋なかつた。 それに抽斎はもう四十歳に満ちてゐる。貞白は五百の意の在る所を解 するに苦んだ。 たゞ たゞ  そこで五百に問ひ質すと、五百は只学問のある夫が持ちたいと答ヘ ニとば た。其詞には道理がある。しかし貞白はまだ五百の意中を読み尽すこ とが出来なかつた。  五百は貞白の釘色を見て、かう書ひ足した。「わたくしは婿を取つ て此世帯を謹つて貰ひたくはありません。それよりか澀江さんの所ヘ ヨしろみ 往つて、あの方に日野屋の後見をして戴きたいと思ひます。」 砂さ ラ よろ  貞白は膝を拍つた。「なる程〃。さう云ふお考へですか。宜しい。 一切わたくしが引き受けませう。」  貞白は実に五百の深慮遠謀に驚いた。五百の兄栄次郎も、姉安の夫 も 宗右衛門も、聖堂に学んだ男である。若し五百が尋常の商人を夫とし たら、重百の意志は山内氏にも長尾氏にも軽んぜられるであらう。こ れに反して五百が抽斎の妻となると、栄次郎も宗右衛門も五百の前に ,たじ 項を屈せなくてはならない。五百は里方のために謀つて、労少くして かつ 功多きことを得るであらう。且兄の当然祷つて居るべき身代を、妹と して謹り受けると云ふ、一とは望まルか噂Yは無い。さうして置いては 兄の隠居が何事をしようと、これに曝を容れることが出来ぬであらう 壮 竈上 永久に兄を徳として、その為すが儘に任せてゐなくてはなるまい。五 、 いさぎよ 百は峨の如き地位に身を置くことを欲せぬので坊る。五百は潔く此家 ゆ o を去つて澀江氏に適き、しかも其澀江氏の力を藉りて、此家の上に監 督を加へ帖つとするのである。 ことは  貞白は直に抽斎を訪うて五百の願を告げ、自分も詞を添へて抽斎を 説き動した。五百の婚戯は此の如くにして成就したのである。 その百八  保は此年六月に減嫉毎日新聞の編輯員になつた。これまでは英社㌔ 只寄稿者としての連繁のみを有してゐたのであつた。当鱗初社長は沼 附守一、主筆は嶋里二郎、会計係は波多野伝三郎と云ふ顔触で、編韓 こえづかりゆう たゞす oい廿㌧ 員には肥塚龍、青木匡、丸山名政、荒井泰治の人々がゐた。又矢野次 つのだ たか泣し 郎、角田莫平、高梨哲四郎、大岡育進の人々は社友であつた。次で八 月に保は攻玉舎の敦員を罷めた。九月一日には家を芝桜川町十八番地 に移した。  惰は此年十二月に工部技手を罷めた。  水木は此年山内氏を冒して芝新銭座町に二尸を構へた。  抽斎焚後の第二十七年は明治十八年である。保は新聞社の種々の用 しはく 務を弁ずるために、腰旅行した。十月十日に旅から帰つて見ると、 森枳園の五日に寄せた書か机上にあつた。面談したい事があるが、何 時往つたら逢はれようかと云ふのである。保は十一日の朝枳園を訪う よ 凸 た。枳園は当時京橋区水谷町九番地に住んでゐて、家族は子婦大槻氏 きごむす{ ;きだ えふ、孫女くわうの二人であつた。嗣子養真は父に先つて理し、くわ うの抹りうは既に人に嫁してゐたのである。  枳園は京浜毎日新聞の演劇欄を祖任しようと思って、保に紹介を求 b{やうせラせんちゆラ めた。是より先狩谷エキ斎の倭名鈔箋註が印刷局に於て刻せられ、又経 しんこく 籍訪古志が清国使館に於て刻せられて、此等の事業は枳園がこれに当 つてゐたから、其家は昔の如く貧しくはなかつた。しかし此年一月に 大蔵省の職を罷めて、今は月給を受けぬことになつてゐるので、再び 記者たらむと欲するのであつた。  保は枳園の求に応じて、新聞社に紹介し、三二篇の文章を社に交付 と岨たムみのくに して置いて、十二日に又社周を帯びて遠江国浜松に往つた。然るに いoゐ 用事は一箇所に於て果すことが出来なかつたので、犬居に往き、掛塚 から汽船豊川丸に乗つて帰京の途に就いた。そして航海中に暴風に遭 北んりラ つて、下田に淹留し、十二月十六日にやう/\家に帰つた。 しゆしよ  机上には又森氏の書僑があつた。しかしこれは枳園の手書ではなく ’ いん て、其計音であつた。  枳園は十二月六目に水谷町の家に歿した。年は七十九であつた。枳 し庫,土ん 凸ぐむ 園の終焉に当つて、伊沢徳さんは枕辺に侍してゐたさうである。印刷 ひつζ くわんが と∫ 局は前年の功労を忘れず、葬送の途次枢を官衙の前に駐めしめ、局員 廿んえい 皆出でて礼拝した。枳園は音羽洞雲寺の先螢に葬られたが、此寺は大 ラつ 正二年八月に巣鴨村池袋丸山千六百五番地に徒された。池袋停車場の κ小o 西十町許で、府立師範学校の西北、祥雲寺の隣である。わたくしは洞 雲寺の移転地を尋ねて得ず、これを大槻文彦さんに問うて始て知つた。 此寺には枳園六世の祖からの墓が並んでゐる。わたくしの参詣した時 そ と ぼ には、おくわうさんと大槻文彦さんとの名を記した新しい卒堵婆が立 ててあつた。 つ  枳園の後は其予養真の長女おくわうさんが襲いだ。おくわうさんは 女流画家で、浅草永住町の上田政次郎と云ふ人の許に現存してゐる。 かつ き けつし おくわうさんの妹おりうさんは嘗て割脚氏某に嫁し、後未亡人となつ し÷,でんよこちや, タ,スト て、浅草聖天横町の基督敦会堂のコンシエルジユになつてゐた。基 督教徒である。 上 す  保は枳園の計を得た後、病のために新聞記者の業を罷め、遠江国周 もご帖o 智郡犬居村可四十九番地に転籍した、保は病のために時々卒倒する二 とがあつたので、樫山棟庵が勧めて都会の地を去らしめたのである。 その百九  抽斎歿後の第二十八年は明治十九年である。保は静岡安西一丁目南 裏町十五番地に移り住んだ。私立静岡英学校の敦頭になつたからであ ムちなみじんすけ る。校主は藤波甚助と云ふ人で、雇外国人にはカツシデエ夫妻、カツ や竈ち キング夫人等がゐた。当時の生徒で、今名を知られてゐるものは山路 愛山さんである。通称は弥吉、浅草堀田原、後には鳥越に住んだ幕府 えい の天文方山路氏の裔で、元治元年に生れた。此年二士二歳であつた。  十月十五日に保は旧幕臣静岡県士族佐野常三郎の女松を嬰つた。戸 いち 籍名は一である。保は三十歳、松は明治二年正月十六日生であるから 十八歳であつた。 コレラ  小野富穀の子遺悦が、此年八月に虎列拉を病んで殴した。道悦は天 ついたち 保七年八月朔に生れた。経書を萩原楽亭に、筆札を平井東堂に、医 言いてい おくどほo 術を多紀瞳庭と伊沢柏軒とに挙んだ。父と共に仕へて表医者奥通に至 り、明治三年に弘前に於て藩学の小学敦授に任ぜられ、同じ年に家督 相続をした。小学教授とは棄読の師を謂ふのである。しかし保が助教 授になつてゐたのは藩学の儒学部で、道悦が小学教授になつてゐたの お− は其医学部である。道悦も父祖に似て貨殖に長じてゐたが、終生主に Lゆ廿い だう上 守成を事としてゐた。然るに明治十二一年の交、遺悦が松固道夫の下 にあつて、金沢裁判所の書記をしてゐると、其留守に妻が東京にあつ て投機のために多く金を失った。英後道悦は保が重野成斎に紹介して、 修吏局の雇員にして貰ふことが出来た。子遺太郎は時事新報杜の文選 ;きだ をしてゐたが、父に先つて死んだ。  せき  尺撮八も亦此年十一月二十八日に殴した。年は四十八であつた。  抽斎殴後の第二十九年は明治二十年である。保は一月二十七日に静 げうしよラ ヘと 岡で発行してゐる東海暁鐘新報の主筆になつた。英学校の職は故の 如くである。暁鐘新報は自由党の機関で、前嶋豊太郎と云ふ人を社主 としてゐた。五年前に禁獄三年、罰金九百円に処せられて、世の再目 を驚した人で、天保六年の生であるから、五十四歳になつてゐた。次 へい で保は七月一日に静岡高等英華学校に聘せられ、九月十五日に又静岡 ぞくたく 文武館の嘱託を受けて、英語を生徒に授けた。  抽斎理後の第三十年は明治二十一年である。一月に東海暁鐘新報は 改題して東海の二字を除いた。同じ月に中江兆民が静岡を過ぎて保を 出 しOゝO 訪うた。兆民は前年の暮に保安条例に依つて東京を逐はれ、大阪東雲 新聞社の腸に応じて酉下する途次、静岡には来たのである。六月三十 たかじ牛う…も 日に保の長男三吉が生れた。八月十日に私立澀江塾を鷹匠町二丁目に 設くることを認可せられた。  脩は七月に東京から保の家に来て、静岡警察署内巡査講習所の英語 教師を嘱託せられ、次で保と共に澀江塾を創設した。是より先傭は澀 江氏に復籍してゐた。  脩は澀江塾の設けられた時妻さだを嬰つた。靜岡の人福嶋竹次郎の き泌り。がね 長女で、県下駿河国安借郡豊田村曲金の素封家海野寿作の娘分である。 惰は三十五歳、さだは明治二年八月生であるから二十歳であつた。 とくめい  此年九月十五日に、保の許に匿名の書が届いた。日を期して決闘を いたづら 求むる書である。其文体書風が悪作劇とも見えぬので、保は多少の心 ラ陀さ 構をして其目を待つた。静岡の市中では此事を聞き伝へて種々の醇が 立つた。さて英日になると、早朝に前田五門が保の家に来て助力をし もと ようと申し込んだ。五門は本五左衛門と称して、世禄五百七十二石を に あたらし“Lわき 食み、下谷新橋脇に住んでゐた旧幕臣である。明治十五年に保が三 ニ ム 河国国府を去つて入京しようとした時、五門は懇親会に於て保と相識 加んいう たいむ になつた。初め函右日報社主で、今大務新聞顧間になつてゐる。保は とら 五門と倶に終日匿名の敵を待つたが、敵は遂に来なかつた。五門は後 明治三十八年二月二十三日に殴した。天保六年の生であるから、年を ユ 享くること七十一であつた。 その百十  抽斎歿後の第三十一年は明治二十二年である。一月八日に保は東京 屯らσ ε し 博文錯の求に応じて履歴書、写真並に文稿を寄示した。これが保の此 Lよし やうキ 書韓のために書を著すに至つた端緒である。交渉は漸く歩を進めて、 と旧き ち小づ 保は次第に暁鐘新報社に遠かり、博文館に近いた。そして十二月二十 七日に新報社に告ぐるに、年末を待つて主筆を辞することを以てした。 な悟 然るに新報社は保に退社後猶杜説を草せむことを講うた。  惰の嫡男終吉が此年十二月一日に鷹匠町二丁目の澀江塾に生れた。 即ち今の図案家の澀江終吉さんである。  抽斎歿後の第三十二年は明治二十三年である。保は三旦二日に静岡 たげ や から入京して、麹町有楽町二丁日二番地竹の含に寄寓した。静岡を去 るに臨んで、澀江塾を開ぢ、英学校、英華学校、文武館三校の敦職を た吐 辞した。只暁鐘新報の社説は東京に於て草することを約した。入京後 三月二十六日から博文館のためにする著作翻訳の稿を起した。七月十 八日に保は神田伸猿楽町五番地豊田春賀の許に転寓した。 北,  保の家には長女福が一月三十日に生れ、二月十七日に天した。又七 月十一日に長男三吉が三歳にして殴した。感応寺の墓に刻してある智 運童子は此三吉である。  脩は此年五月二十九日に単身入京して、六月に飯田町補習学会及神 田猿楽町有終学校の英語敦師となつた。妻子は七月に至つて入京した。 十二月に傭は鉄道庁第二部傭員となつて、遠江国磐田郡袋井駅に勤務 することとなり、又家を挙げて京を去つた。 ぽく  明治二十四年には保は新居を神田仲猿楽町五番地にトして、七月十 七日に起工し、十月一日にこれを落した。惰は駿河国駿東郡佐野駅の 駅長助役に転じた。抽斎殴後の第三士二年である。  二十五年には保の次男繁次が二月十八日に生れ、九月二十三日に天 かいよう した。感応寺の墓に示教童子と刻してある。情は七月に鉄道庁に解傭 あたごしたちキラ を請うて入京し、芝愛宕下町に住んで、京橋西紺騒町秀英含の漢字校 正係になつた。脩の次男行暗が生れた。此年は抽斎殴後の第三十四年 である。  二十六年には保の次女冬が十二月二十一日に生れた。借が此年から 俳句を作ることを始めた。「皮足袋の四十に足を踏込みぬ」の句があ る。二十七年には脩の次男行晴が四月十三日に三歳にして殴した。陸 が十二月に本所松井町三丁目四番地福嶋某の地所に新築した。即ち今 の居宅である。長唄の師匠としての此人の経歴は、一たび優のために とんざ 頓挫したが、其後は継続して今日に至つてゐる。猶下方に詳記するで あらう。二十八年には保の三男純吉が七月十三日に生れた。二十九年 には情が一月に秀英舎市が谷工場の欧文校正係に輾じて、牛込二十騎 町に移つた。此月十二日に脩の三男忠三さんが生れた。三十年には保 う がく が九月に根本羽居の門に入つて場を問ふことを始めた。畏井金風さん  こと の言に拠るに、羽岳の師は野上陳命、陳命の師は山本北山ださうであ せム る。粟本鋤雲が三月六日に七十六歳で殴した。海保漁村の妾が殴した。 三十一年には保が八月三十日に羽岳の義道館の講師になり、十二月十 七日に其評議員になつた。惰の畏女花が士一月に生れた。鳩田箆村が な−L 八月二十七日に六十一歳で殴した。抽斎殴後の第三十五年乃至第四十 律である。 その百十一 こゝ つ  わたくしは此に前記を続いで抽斎歿後第四十一年以下の事を挙げる。 明治三十三年には五月二日に保の三女乙女さんが生れた。三十四年に かつら もときんし ちよ は脩が吟月と号した。俳諧の航二世桂の本琴糸女の授くる所の号であ る。山内水木が一月二十六日に殴した。年四十九であつた。福沢諭吉 が二月三日に六十八歳で殴した。博文錨主大橋佐平が十一月三目に六 十七歳で理した。三十五年には脩が十月に秀英舎を退いて京橘宗十郎 町の国文社に入り、校正係になつた。情の四男末男さんが十二月五日 に生れた。三十六年には情が九月に静岡に往つて安西一丁目南裏に澀 世いもよ, 江塾を再興した。県立静岡中学校長川田正激の勧に従って、中学生の ために温習の便宜を謀つたのである。術の長女花が三月十五日に七 (六)歳で殴した。三十七年には保が五月十五日に神田三崎町一番地 え‘らご直o に移つた。三十八年には保が七月十三日に荏原郡品川町南品川百五十 九番地に移つた。惰が十二月に静岡の澀江塾を開ぢた。川田が宮城県 第一中学校長に転じて、静岡中学校の規則が変更せられ、澀江塾は存 いはほ 立の必要なきに至つたのである。伊沢柏軒の嗣子磐が十一月二十四日 に殴した。鉄三郎が徳安と改め、維新後に又磐と改めたのである。磐 ひかばちやう 油 『ん の嗣子信治さんは今赤坂氷川町の姉婿清水夏雲さんの許にゐる。三十 九年には惰が入京して小石川久堅町博文館印刷所の校正係になつた。 もみ ち 根本羽岳が十月三日に八十五歳で残した。四十年には保の四女紅葉が 十月二十二日に生れて、二十八日に夫した。これが抽斎理後の第四十 八年に至るまでの事略である。  抽斎殴後の第四十九年は明治四十一年である。四月十二日午後十時 に傭が残した。情は此月四日降雪の日に感冒したいしかし五日までは カいモラ 博文館印刷所の業を廃せなかつた。六日に至つて一咳嚇甚しく、発熱し  じφじよく つひ カ ,ル おと て就摩し、終に加答児性肺炎のために命を隈した。嗣子終吉さんは今 の下渋谷の家に移つた。 せ,しゆつ  わたくしは債の句稿を左に鈔出する。類句を避けて精選するが如き よ し てき は、其道に専ならざるわたくしの能くする所では無い。読者の指鐘を 得ぱ幸であらう。 かすみ くは 山畑や霞の上の鍬づかひ ちりづ小 やよひ加比 璽塚に菜の花咲ける弥生哉 の り むきわら 海苔の香や麦翼染むる縁の先 きれだこ 切凧のつひに流るゝ小川かな かげろ上 −」あゆ 陽炎と共にちらつく小鮎哉 しらを いつ見ても初物らしき白魚哉 、“ たんきつ 壮丹切て心さびしきタかな 竈ら 大西瓜真つ二つにぞ切れける とラろ 山寺は星より高き燈籠かな 稲妻の跡に予ぬるき星の飛ぶ′ たうぴらし 秋は皆物の淡きに唐芥子 〕 リ ’ 手も出さで机に向ふ寒さ哉 づ きん 物売の皆頭巾着て出る夜哉 二がらし {昧らけ 凧や土器乾く石燈籠 とり 雪の日や鶏の出て来る炭俵  明治四十四年には保の三男純吉が十七歳で八月十一日に死んだ。大 正二年には保が七月十二日に麻布西町十五番地に、八月二十八日に同  ほんむら 区本村町八番地に移つた。三年には九月九日に今の牛込船河原町の家 に移つた。四年には保の次女冬が十月十三日に二十三歳で殴した。こ れが抽斎歿後の第五十二年から第五十六年に至る事略である。 その百十ニ ニ5えい !  抽斎の後裔にして今に存じてゐるものは、上記の如く、先づ指を牛 込の澀江氏に屈せなくてはならない。主人の保さんは抽斎の第七子で、 継嗣生なうたものである。経を糠村、竹運の海保氏父子、嶋田箆村、 兼松石居、榎本羽岳に、漢医方を多紀雲従に受け、師範学校に於て敦 育家として養成せられ、共立学舎、慶応義塾に於て英語を研究し、浜 かた阻ら 松、靜岡にあつては、或は校畏となり、或は教頭となり、芳新聞記 しよL 者として政治を論じた。しかし最も大いに精力を費したものは、書蜂 博文館のためにする著作猷訳で、その刊行する所の書か、通計約百五 十部の多きに至つてゐる。其書は随時世人を啓発した功はあるにして  ”蜷むね しよ二 ちφう音う も、概皆時尚を追ふ書佑の談求に応じて筆を走らせたものである。 保さんの精力は徒費せられたと謂はざることを得ない。そして保さん ひつ書や5 は自らこれを知つてゐる。畢寛文士と書佑との関係はミユチユアリス ムであるべきのに、実はバヲジチスムになつてゐる。保さんは生物学 上の亭主役をしたのである。  保さんの作らむと欲する書は、今猶計画として保さんの意中にある。 いは 曰く日本私刑史、曰く支那刑法史、曰く経子一家油一。目、曰く周易一家言、 症かんづく 曰く読書丑十年、二の五部の書か即ち是れである。就中読書五十年の へ。ゞ か5ほん 七い 如きは、管に計画として存在するのみでは無い、其藁本が既に堆を成 してゐる。これは一種のビブリオグヲフイイで、保さんの博渉の一面  ,かp くわくだい を窺ふに足るものである。著者の志す所は厳君の経籍訪古志を廓大し  いにしへ て、古より今に及ぼし、東より西に及ぼすにあると謂っても、或は不 可なることが無からう。保さんは果して能く其志を成すであらうか。 世問は果して能く保さんをして其志を成さしむるであらうか。  保さんは今年大正五年に六十歳、妻佐野氏お松さんは四十八歳、女 か5らぎきよかた 乙女きんは十七歳である。乙女さんは明治四十一年以降鏑木清方に就 いくわん いて画を学び、又大正三年以還跡見文学校の生徒になつてゐる。  第二には本所の澀江氏がある。女主人は抽斎の四女陸で、長唄の師 匠杵屋勝久さんが是である。既に記したる如く、大正五年には七十歳 になつた。 ぽくろち宇,  陸が始て長唄の手ほどきをして貰った師匠は日本橘馬喰町の二世杵 屋勝三郎で、馬塲の児勝と称せられた名人である。これは嘉永一二年陸 が僅に四歳になつた時だと云ふから、まだ小柳町の大工の棟梁漸八の 家へ里子に遣られてゐて、そこから稽古に通ったことであらう。  母五百も声が好かつたが、陸はそれに似て美声だと云って、勝三郎 お暗 が褒めた。節も好く記えた。三昧線は「宵は待ち」を弾く時、早く既 に自ら調子を合せることが出来、めりやす黒髪位に至ると、師匠に連 おほざらへ れられて、所々の大渡に往つた。  勝三郎は陸を敦へるに、特別に骨を折つた。月六斎と日を期して、 勝三郎が喜代蔵、辰蔵二人の弟子を伴って、お玉が池の澀江の邸に出 ;らへ 向くと、其日には陸も里親の許から帰つて待ち受けてゐた。陸の漢が を帖 畢ると、二番位演葵があつて、其上で酒飯が出た。料理は必ず青柳か  し だ ら為出した。嘉永四年に澀江氏が本所台所町に移つてからも、此出稽 古は継続せられた。 その百士ニ ラつ 加へ  澀江氏が一旦弘前に徒つて、其後東京と改まつた江戸に再ぴ還つた 時、陸は本所緑町に砂糖店を開いた。これは初め商売を始めようと思 た∫ つて土着したのではなく、唯稲葉と云ふ家の門の片隅に空地があつた ので、そこへ小家を建てて住んだのであつた。さて此家に住んでから、 稲葉氏と親しく交はることになり、其勧奨に由つて砂糖店をぱ開いた のである。又砂糖店を閉ぢた後に、長唄の師匠として自立するに至つ たのも、同じ稲葉氏が援助したのである。  本所には三百石取以上の旗本で、稲葉氏を称したものが四軒ぱかり たゞ あつたから、親しく其子孫に就いて質さなくては、どの家かわからぬ が、陸を庇護した稲葉氏には、当時四十何歳の未亡人の下に、一旦人 む寸め に嫁して帰つた家附の女で四十歳位のが一人、松さん、駒さんの兄弟 せんLラ があつた。此松さんは今千秋と号して警家になつてゐるさうである。  陸が小家に移つた当座、稲葉氏の禄と娘とは、湯歴に往くにも陸を さそつて往き、母が背中を洗って遣れば、娘が手を洗って遣ると云ふ !げ やうにした。髪をも二人で毎日種々の髭に緒つて遣った。  さて稲葉の未亡人の云ふには、若いものが坐食してゐては悪い、心 安い砂糖間屋があるから、砂糖店を出したが好からう、医者の家に生 はかりめ れて、陸は秤日を知つてゐるから丁度好いと云ふことであつた。砂糖 店は開かれた。そして繁畠した。晶も好く、秤も好いと評判せられて、 に しめや 客は遠方から来た。汁粉屋が買ひに来る。煮締屋が買ひに来る。小松 川あたりからわざ/\来るものさへあつた。 こんぺいたう  或日貴婦人が女中大勢を連れて店に来た。そして氷砂糖、金米糖な け注げ どを買って、陸に言った。「士族の女で健気にも商売を始めたものが あると云ふ雌を聞いて、わたしはわざ/\買ひに来ました。どうぞ中 とほ 途で罷めないで、辛棒をし徹して、人の手本になつて下さい」と雪つ た。後に聞けば、藤堂家の夫人縦宍つであつた。臓謹家の下屋敷は両 国橋詰にあつて、当時の主人は高猷、夫人は一族高嵐の女であつた筈 である。 よ せ しんうち  或日又五百と保とが寄席に往つた。心打は円朝であつたが、話の本 題に入る前に、かう云ふ事を書つた。「此頃緑町では、御大家のお嬢 −』と ほか 様がお砂糟墨をお始になつて、殊の外御繁昌だと申すことでございま す、時節柄緒構なお思ひ立で、謹もさうありたい事と存じます」と云 いは伊る った。話の中に所謂心学を説いた円朝の面日が窺はれる。五百は聴い て感慨に堪へなかつたさうである。 “ たか  此砂糖店は幸か不幸か、繁昌の最中に開ぢられて、陸泄世間の同情  むく しやうがい に酬いることを得なかつた。家族関係の上に除き難い障礙が生じたた めである。 かんか  商業を廃して間暇を得た陸の許へ、稲葉の未亡人は遊びに来て、談  た宝く は偶長唄の事に及んだ。長唄は未亡人が曾て稽古したことがある。 陸には飯よりも好な遺である。一しよに渡つて見ようではないかと云 ふこ生になつた。未だ一段を終らぬに、世話好の未亡人は驚歎しつゝ かう云った。 しろ,と 「あなたば秦人ぢやないではありませんか。是非師匠におなりなさい。 わたしが一番に弟子入をします。」 その百十四 ことぱ や㌧  稲葉の未亡人の詞を聞いて、陸の意は稍動いた。芸人になると云ふ はゞか ことを傳ってはゐるが、どうにかして生計を営むものとすると、自分 の好む芸を以てしたいのであつた。陸は母五百の許に往つて相談した。 たやす 五百は思の外容易く許した。 ,ラ  陸は師匠杵屋勝三郎の勝の字を講ひ受けて勝久と称し、公に稟して たた 鑑札を下付せられた。其時本所亀沢町左官庄兵衛の店に、似會はしい 二尸が明いてゐたので、勝久はそれを借りて看板を懸けた。二十七歳 になつた明治六年の事である。 ざラげ  此亀沢町の家の隣には、吉野と云ふ象牙職の老夫婦が住んでゐた。 わか しゆがしら げムき 主人は町内の若い衆頭で、世馴れた、侠気のある人であつたから、女 房と共に勝久の身の上を引き受けて世話をした。「まだ町住ひの事は 御存じないのだから、失礼ながらわたし達夫婦で岩指図をいたして上 げます」と云ったのである。夫婦は朝表口の揚戸を上げて〃れる。晩 旭ろ に又卸してくれる。何から何まで面倒を見てくれたのである。 む†め  吉野の家には二人の女があつて、姉をふくと云ひ、妹をかねと云っ た。老夫婦は即時に此姉妹を入門させた。おかねさんは今日本橘大坂 町十三番地に住む水野葉の妻で、子供をも勝久の弟子にしてゐる。  吉野は勝久の事を町住ひに馴れぬと云った。勝久は曾て砂糖店を出 してゐたことはあつても、今所謂愛敬商売の師匠となつて見ると、自 分の物馴れぬことの甚しさに気附かずにはゐられなかつた。これまで 自分を「お陸さん」と呼んだ人が、忽ち「お師匠さん」と呼ぶ。それ ことば を聞く毎にぎくりとして、理性は呼ぶ人の詞の妥当なるを認めながら、 さか症や 感情は其人を意地悪のやうに思ふ。砂糠屋でゐた頃も、八百屋、肴星 ことぱ うきよく たゞち にお前と呼ぶことを遠慮したが、当時はまだ其辞を紆曲にして直に相 さ 手を斥して呼ぶことを避けてゐた。今はあらゆる職業の人に交はつて、 だんな かみ 誰をも檀那と云ひ、お上さんと云はなくてはならない。それがどうも で にく 口に出憎いのであつた。或時吉野の主人が「好く気を附けて、人に高 ぷるなんぞと云はれないやうになさいよ」と恵告すると、勝久は急所 を刺されたやうに感じたさうである。  しかし勝久の葉は予期したよりも繁昌した。未だ幾ぱくもあらぬに、 こ キうや 弟子の数は八十人を聡えた。それに上流の家々に招かれることが漸く 多く、後には殆ど毎日のやうに、昼の稽古を終つてから、諸方の邸へ 車を馳せることになつた。 L咄く  最も数往つたのは程近い藤堂家である。此邸では家族の人々の誕 いはひσ 生日、典外種々の祝日に、必ず勝久を呼ぶことになつてゐる。  藤蛍家に次いでは、細川、津軽、稲葉、前困、伊達、牧野、小笠原、 ひいζ 黒田、本多の諸家で、勝久は晶員になつてゐる。 その百十五  細川家に勝久の招かれたのは、相弟子勝秀が紹介したのである。勝 秀は曾て肥後国熊本までも此家の人々に伴はれて往つたことがあるさ たて 、つである。勝久の初て招かれたのは今戸の別邸で、当日は立三昧線が わき たてラた わき,た 勝秀、外に脇二人、立唄が勝久、外に脇唄二人、其他鳴物連中で、悉 よしはらす∫め はな。{さL上ぢやくじ』 二のみ く女芸人であつた。番組は勧進帳、吉原雀、英執潜獅子で、末に好と しやくけ5 して石橋を演じた。 よしφき  紬川家の当主は慶順であつただらう。勝久が部屋へ下つてゐると、 むすo そこへ津軽侯が来て、「澀江の女の陸がゐると雲ふことだから逢ひに つ池 つぐてろ 来たよ」と云った。連の女等は皆驚いた。津軽承昭は主人慶順の弟で あるから、其日の客になつて、来てゐたのであらう。 をは 収いくわん  長唄が畢つてから、主客打交っての能があつて、女芸人等は陪観を かいち 許された。津軽候は船弁蟹を舞った。勝久を細川家に合致した勝秀は、 な皇ひと 今は亡人である。  津軽家へは細川別邸で主公に謁見したのが縁となつて、澀江陸とし  しぱく ひとり て腰召されることになつた。いつも独往つて弾きもし歌ひもするこ 症 oみ とになつてゐる。老女歌野、お郁屋おたつの人々が馴染になつて、陸 を引き廻してくれるのである。  稲葉家へは師匠勝三郎が存命中に初て遠れて往つた。其邸は青山だ ’んごのくにうすξ ひ富みち 小佗らけちや, と雲ふから、豊後国臼杵の稲葉家で、当時の主公久通に麻布土器町の 下屋敷へ招かれたのであらう。連中は男女交りであつた。立三昧線は 注 さL 勝三郎、脇勝秀、立唄は坂田仙八、脇勝久で、皆稲葉家の名指であつ なきひと 『るかめ た。仙八は亡人で、今の勝五郎、前名勝四郎の父である。番組は鶴亀、 はつしぐれ き世ん ・」のみ たO,ぱやL 初時爾、喜撰で、末に好として勝三郎と仙八とが狸灘を演じた。 は壮は  演秦が畢つてから、勝三郎等は花園を観ることを許された。園は太 くわき さい旧 かたばら だ広く、珍奇な花卉が多かつた。園を過ぎて菜圃に入ると、其傍に たけの一− むらが 竹藪があつて、筍が叢り生じてゐた。主公が芸人等に、「お前達が自 分で抜いただけば、何本でも持つて帰つて好いから勝手に抜け」と云 O しり“ち つた。男女の芸人が争って抜いた。中には筍が抽けると共に、尻餅を つ 擦くものもあつた。主公はこれを見て興に入つた。筍の周囲の土は、 あらか口 ゆる 予め掘り起して、髭めた後に又掻き寄せてあつたさうである。それ た午す いへづと でも芸人等は容易く抜くことを得なかつた。家萄には筍を多く賜はつ も た。抜かぬ人も其数には洩れなかつた。  前田家、伊達家、牧野家、小笠原家、黒田家、本多家へも次第に呼 よし干す ぱれることになつた。初て往つた頃は、前田家が宰相慶寧、伊達家が よしすけ 亀三郎、牧野家が金丸、小笠原家が豊千代丸、黒田家が少将慶賛、本 L晦ぜんのかみやすしげ 多家が主膳正駿穣の時であつただらう。しかしわたくしは維新後に於 くわち5か廿い く主 ごσう ける華冑家世の事に精しくないから、若し誤謬があつたら正して貰ひ たい。  勝久は看板を懸けてから四年日、明治十年四月三日に、両国中村楼  旭 ぴろ 湘岨ざらひ さらひぼ で名弘めの大渡を催した。液場の間口の天幕は深川の五本松門弟中、 ラLろ,く いきわ 後幕は魚河津間屋今和と緑町門弟中、水引は牧野家であつた。其外家 ちり^ん はホいろぎo 元門弟中より紅白縮緬の天幕、杵勝名取男女中より緩色辮切催幕、勝 久門下名取女中より中形縮緬の大額、親密連女名取より茶織子丸帯の 掛地、木場晶員中より白縮緬の水引か贈られた。役者はおもひ/\の −」ら おく 意匠を凝したぴらを寄せた。縁故のある華族の諸家は皆金晶を遣って、 つか喧 中には老女を遣したものもあつた。勝久が三十一歳の時の事である。 その百十六  勝久が本所松井町福嶋某の地所に、今の居宅を構へた時に、師匠勝 おく 三郎は喜んで、歌を詠じて自ら書し、表装して胎つた。勝久は此歌に 邑 ∫ むらろラ 本づいて歌曲松の栄を作り、両国井生村楼で新曲開抽をしたい暢三郎 を始として、杵屋一派の名流が集まつた。曲は牽書摺の本に為立てて わか もよよ あらば 客に頒たれた。緒余に四つの海を著した抽斎が好尚の一面は、図らず よ かく も其女陸に藉つて此の如き発展を遂げたのである。これは明治二十七 年十二月で、勝久が四十八歳の時であつた。 つい  勝三郎は尋で明治二十九年二月五日に致した。年は七十七であつた。 胆上し くわりようゐんせうよとうせい。]んし いみな 法謚を花菱院照誉東成信士と云ふ。東成は其講である。墓は浅草蔵前 たづ 西福寺内真行院にある。原ぬるに長唄杵屋の一派は俳優中村勘五郎か よゝ ら出て、其宗家は世喜三郎又六左衛門と称し、現に日本橋坂本町十八 み宇うせき う^き だな 番地にあつて名跡を伝へてゐる。所謂植木店の家元である。三世喜三 郎の三謁杵屋六三郎が分派をなし、其門に初代佐吉があり、初代佐吉 つ の門に和吉があり、和吉の後を初代勝五郎が襲ぎ、初代勝五郎の後を あらた 初代勝三郎が襲いだ。此勝三郎は終生名を更めずにゐて、勝五郎の称 をさ在な は門人をして襲がしめた。次が二世勝三郎東成で、小字を小三郎と云 つた。即ち勝久の師匠である。  二世勝三郎には子女各一人があつて、姉をふさと云ひ、弟を金次郎 おれ と云った。金次郎は「已は芸人なんぞにはならない」と云って、学校 にぱかり通ってゐた。二世勝三郎は終に臨んで子等に遺書し、勝久を 小母と呼んで、後事を相談するが好いと云ったさうである。 ぽくろち宇ラ  ニ世勝三郎の馬喰町の家は、畏女ふさに塙を迎へて継がせることに 吐言なな なった。塙は新宿の宕松と云ふもので、養父の小字小三郎を襲ぎ、中 壮ぴろめ いく旧 村楼で名弘の会を催した。未だ幾くならぬに、小三郎は養父の小字を いさぎよ 名告ることを屑しとせず、三世勝三郎たらむことを欲した。しかし先 〜ねかつ 代勝三郎の門人は杵勝同窓会を組織してゐて、技芸の小三郎より優れ たやす てゐるものが多い。それゆゑ襲名の事は帆く認容せられなかつた。小 三郎は遂に葛藤を生じて離縁せられた。  −』∫  是に於て二世勝三郎の畏男金次郎は、父の遺業を継がなくてはなら ぬことになつた。金次郎は親戚と父の門人等とに強要せられて退学し、 ぺんさく 好まぬ三昧警手に弩て、杵勝分派諸老輩の鞭錬の下に、いやく ながら腕を磨いた。  金次郎は遂に三世勝二一郎となつた。初め此勝三郎は学校教育が黒を ていo 廿いはし なし、目に丁字なき傍輩の忌む所となつて、杵勝同窓会幹事の一人た しぱく らと る勝久の如きは、前途のために手に汗を握ること数であつたが、固よ  ちと り些の学問が技芸を幼げる筈はないので、次第に家元たる声価も定ま り、羽翼も成つた。  明治三十六年勝久が五十七歳になつた時の事である。三世勝三郎雄 鎌倉に病臥してゐるので、勝久は勝秀、勝きみと其に、二月二十五日 しうきよ に見舞ひに往つた。蹴居は海光山畏谷寺の座敷である。勝三郎は病が か ごう な硅 たす 兎角佳候を呈せなかつたが、当時猶杖に扶けられて寺門を出で、勝久 等に近傍の故蹟を見せること餅出来た。勝久は遊覧の記を作つて、痛  池ぐさみぐさ おく 牀の慰單にもと云って遣った。雑誌道楽世界に、杵屋勝久は坐一者だと 書いたのは、此頃の事である。 小へ に東京に還つた。 その百十七 ト 三旦二日に勝三郎は痛の未だ窪えざる  三世勝三郎の病は東京に糧つてからも癒えなかつた。当時勝三郎は {号そくて㌧し 東京座頭取であつたので、高足弟子たる浅草森田町の勝四郎をして主 として其事に当らしめた。勝四郎は即ち今の勝五郎である。然るに勝 つと{ぶo あ.芒止」一口 三郎は墓凧座に於ける勝四郎の勤撮に傲なかつた。そして病のために きんげき 気短になつてゐる勝三郎と勝四郎との間に、次第に繕ひ難い婁隙を生 じた。  五月に至つて勝三郎は房州へ軽地することを思ひ立つたが、出発に 臨んで自分の去つた後に於ける杵勝分派の前途を銃遣った。そして分 派の永続を保証すべき男女名取の盟約書を作らせようとした。勝久の 世話をしてゐる女名取の間には、これを作るに何の故障もなかつた。 り牛うLラ き しかし勝四郎を領袖としてゐる男名取等は、先づ師匠の怒が解けて、 簑じはり 帥匠と勝四郎との交が昔の如き和熟を見るに至るまでは、盟約書に調 印することは出来ぬと云った。此時勝久は痛める師匠の心を安んずる L には、男女名取総員の盟約を完成するに若くはないと思って、師家と 男名取等との間に往来して調停に勢力した。  しかし勝三郎は遂に釈然たるに至らなかつた。六月十六日に勝久が 馬喰町の家元を訪うて、重ねて勝四郎のために講ふ所があつたとき、 さから 勝三郎は涙を流して怒り、「小母さんはどこまで此病人に杵ふ気です ’たい かん か」と云った。勝久は此に至つて復奈何ともすることが出来なかつた。  六月二十五日の朝、勝三郎は霊痒鳴から舟に乗つて房州へ立つた。 妻みつが同行した。即ち杵勝分派のものが女師匠と呼んでゐる人であ る。見送の人々は勝三郎の姉ふさ、いそ、てる、勝久、勝ふみ、藤二 かづさや 郎、それに師匠の家にゐる兼さんと云ふ男、上総屋の親方、以上八人 であつた。勝三郎の姉ふさば後に、日本橋浜町一丁日に二世勝三郎の 建てた隠居所に住んで、独身で暮してゐるので、杵勝分派に浜町の師 匠と呼ばれてゐる人であるα らくぱく ①}  此桟橘の別には何となく落莫の感があつた。痛み衰へた勝三郎は終 に男名取総員の和熟を見るに及ばずして東京を去った。そしてそれが 再び帰らぬ旅路であつた。  勝久は家元を送つて四目の後に痛に臥した。七月八日には女師匠が 房州から帰つて、勝久の病を問うた。十二日に勝久は馬喰町と浜町と うう へ留守見舞の使を遣って、勝三郎の房州から鎌會へ遷つたことを聞い た。 †みやか  九月十一日は小爾の降る日であつた。鎌愈から勝三郎の病が革だと 二うれん 報じて来た。勝久は腰部の拘躍のために、寝がへりだに出来ず、便所 に往くにも、人に抱かれて往つてゐた。そこへ此報が来たので、勝久 世んりつ や はしぱらく戦燥して已まなかつた。しかし勝久は自ら励まして常に親 かたぐ しくしてゐる勝ふみを呼びに遣った。介抱労同行することを求めた のであつた。二人は新橋から汽車に乗つて、鎌會へ往つた。勝三郎は 二のφ’ぺ はムし れんしやうゐんくんよち さいしんし 此タに世を去つた。年は三十八であつた。法誼を蓮生院薫誉智才信士 と云ふ。 その百十八 ひつき だ ぴ しよ  九月十二日に勝久は三世勝三郎の枢を茶砒所まで見送つて、そこか ら軍を停車場へ駆り、夜東京に還つた。勝三郎が致した後に、杵勝分 派の団結を維持して行くには、一刻も早く除かなくてはならぬ障礙が がゝは ゆ5 ある。それは勝三郎の生前に、勝久等が百方調停したにも拘らず、宥 されずにしまつた高足弟子勝四郎の勘気である。勝久は鎌倉にある間 しゆゆ も、東京へ帰る途上でも、須央もこれを忘れるこ生が出来なかつた。 !い言う  十三日の味爽に、勝久は森田町の勝四郎が家へ手紙を遣った。「定 あそぱ言れそろ それ めし御聞込の事とは存じ候へども、杵屋御家元様は御死去被遊候。夫 に付私共は今日午後四時御同所に相寄侯事に御坐候。此際御前様御心 いかゞ キ おほ」め」 出んいで 底は奈何に侯哉。私停じ侯には、同刻御自身の思召にて馬喰町へ御出 市され よろしく ちよつと 被成候方宜敷侯様存じ候。田原町へ一寸御立寄被成候て御出被成度存 ’ 加均う ゞ一すく≦’。ろ!づ  じ侯。さ候はば及ばずながら奈何様にも御郭合宜敷様可致候。先は右 つ  中入侯。」田原町とは勝四郎に亜ぐ二番弟子勝治郎の家を謂ったので 二も  ある。勝治郎は咋今病のために引き籠つて、杵勝同窓会をも脱けてゐ  る。 ありがた ゆき枇ゝo[や5 勝四郎の返事には、好意は難有いが、何分これまでの行懸上単身  では出向かれぬと云って来た。そこで十造、勝助の二人が森田町へ迎  へに往くことになつた。 士きひと 馬喰町の家では、此日通夜のために、亡人の親戚を始として、男女  の名取が皆集まつてゐた。勝久は浜町の師匠と女魎匠とに請ふに、亡 ゆる  人に代つて勝四郎を免すことを以てした。浜町の師匠は亡人の姉ふさ、  女師匠は三十六歳で未亡人となつた亡人の妻みつである。二人の女は もくゐ せん小5  許諾した。そこへ勝四郎は出向いて来て、勝三郎の木位を拝し、綾香 た む  を手向けた。勝四郎は木位の前を退いて男女の名取に挨拶した。葛藤 1−ゝ  は此に全く解けた。これが明治三十六年勝久が五十七歳の時の事で、 つと  勝久は終始病を力めて此調停の衝に当つたのである。勝久が病の本復  したのは此年の十二月である。 げいくわい 杵勝同窓会はこれより後腰罪の根を絶つて、男名取中からは名を勝 あらた  五郎と更めた勝四郎が推されて幹事となり、女名取中からは勝久が推  されて同じく幹事となつてゐる。勝四郎の名は今飯田町住の五番弟子  が襲いでゐる。一番弟子勝四郎改勝五郎、二番勝治郎、三番勝松改勝  右衛門、四番勝吉改勝太郎、五番勝四郎、六番勝之助改和吉である。 くわりようゐん ぽんしよう 二世勝三郎の花菱院が三年忌には、男女名取が梵鐘一箇を西福寺に はo ぷだうねずみちりめん!く  寄附した。七年忌には金百円、幕一帳男女名取中、葡萄鼠縮緬幕女名 たらぴにくろろ む;うあはせ“ 坦り 一取中、大額並黒紹夢想袷羽織勝久門弟中、十三年忌が三世の七年忌 あ性 旭らぴに 一を繰り上げて併せ修せられたときには、木魚一対、墓前花立並綾香 ’ れんげ がた言ら 一立男女名取中、十七年忌には蓮革形皿十三枚男女名取中の寄附かあつ  た。又三世勝三郎の蓮生院が三年忌には経箱六箇経本入男女名取中、 け さ  十三年忌には袈裟一領家元、天蓋一箇男女名取中の寄附かありた。此 しと  講の文字は、人ガ或はわたくしの何放にこれを条記して煩を厭はざ1る 十み かを怪むであらう。しかしわたくしは勝久の手記を閲して、所謂芸人 つか の師に事ふることの厚きに驚いた。そして此菩行を埋没するに忍びな ら !んくわ かつた。若しわたくしが虚礼に醐過せられたと云ふ人があつたら、わ おへ たくしは敢て問ひたい。さう云ふ人は果して一切の善行の動機を看被 することを得るだらうかと。 その百十九 いた  勝久の人に長唄を敦ふること、今に遣るまで四十四年である。此間 に勝久は名取の弟子憧に七人を得てゐる。明治三十二年には倉田ふで く ら かつく み が杵屋久雛となつた。三十四年には遠藤さとが杵屋勝久美となつた。 かつくめ かつく〇 四十三年には福原さくが杵屋勝久女となり、山口はるが杵屋勝久利と 加つく , なつた。大正二年には加藤たつが杵歴勝久満となつた。三年には細井 かつくよ がつくを のりが杵屋勝久代となつた。五年には伊藤あいが杵屋勝久鰹となつた。 此外に大正四年に名取になつた山田政次郎の杵屋勝丸もある。しかし これは男の事ゆゑ、勝久の弟子ではあるが、名は家元から取ら池た。 すぺ 』きにひ 今の敦育は都て官公私立の学校に於て行ふことになつてゐて、勢集 すく 団教育の法に従はざることを得ない。そして其弊を抵ふには、只個人 こゝ 教育の法を参取する一途があるのみである。是に於て世には往々昔の 儒者の家塾を夢みるものがある。然るに所謂芸人に名取の制があつて、 らうしφ †く壮 頃る』とり らん 今猶牢守せられてゐることには想ひ及ぶものが鮮い。尋常許取の濫は、 そしo 出 芸人が或は人の謂を辞することを借ざる所であらう。しかし夫の名取 あへ に至つては、その肯て軽々しく仮借せざる所であるらしい。若しさう ち φだ でないものなら、四十四年の久しい間に、質を勝久に委ねた幾百人の よ 中で、能〃名取の班に列するものが独り七八人のみではなかつたであ らう◎ たゞ い三けな  勝久の陸は啻に長唄を稽古したばかりではなく、幼くして琴を山勢 氏に学び、踊を藤問ふぢに学んだ。陸の踊に使ふ衣裳小道具は、澀江 の家では十二分に取り揃へてあつたので、陸と共に踊る子が手姻り兼 し たく 旭る家の子であると、澀江氏の方で其相手の子の支童をもして遣って  踊らせたo陸は菩く踊クたが、其嗜好か畏唄に慎いてゐたので、踊は ∪ w 中途で罷められた。 陸は遠州流の活花をも学んだ、薯象棋をも母五百に学んだ。五百の なぎ症た  碁は二段であつた。五百は曾て薙刀をさへ陸に教へたことがある。 陸の読書筆札の事は既に記したが、稍長ずるに及んでは、五百が近  衛予楽院の手本を授げて臨書せしめたさうである。 陸の裁縫は五百が教へた。陸が人と成つてから後は、澀江の家では  重ねものから不断着まで殆ど外へ出して裁縫させたことがない。五百  は常に、「為立は陸に限る、為立歴の為事は悪い」と云ってゐた。張  物も五百が尺を手にして指図し、布目の堪も歪まぬやうに陸に張らせ  た。「善く張つた切は新しい反物を裁つたやうでなくてはならない」  とは、五百の恒の詞であつた。 髪を剃り髪を緒ふことにも、陸は早く熟錬した。剃ることには、尼  妙了が「お陸様が剃つて下さるなら、頭が罐欠だらけになつても好  い」と云って、頭を委せてゐたので馴れた。結ぶことはお牧婆あやの  髪を、前髪に張の無い、小さい祖母子に結つたのが手姶で、後には母  の髪、妹の髪、女中達の髪までも緒ひ、我髪は固より自ら緒つた。唯  余所行の我髪だけ母の手を煩はした。弘前に徒つた時、浅越玄隆、前  困菩二郎の妻、松本甲子蔵の妹などは菓子折を持つて来て、陸に髪を しhぞ はやり  緒つて貰った。陸は礼物を創けて結つて遣り、流行の飾をさへ贈つた。 {ラぜつ 陸は生得おとなしい子で、泣かず怒らず、饒舌することもなかつた。 へうきん“の  しかし言動か快活なので、剽軽者として家人にも他人にも喜ばれたさ  うである。その人と成つた後に、志操が堅固で、義務心に宮んでゐる  ことは、長唄の師匠としての経歴に徴して知ることが出来る。 牛込の保さんの家と、其保さんを、父抽斎の継嗣たる故を以て、始  終「兄いさん」と呼んでゐる本所の勝久さんの家との外に、現に東京  には第三の澀江氏がある。即ち下渋谷の澀江氏である。 下渋谷の家は情の子終吉さんを当主としてゐる。終吉は図案家で、  大正三年に津田青楓さんの門人になつた。大正五年に二十八歳である。 終吉には二人の弟がある。前年に明治薬学校の業を終へた整二きんが 二十一歳、末男さんが十五歳である。此三人の生母福嶋氏おさださん は静岡にゐる。牛込のお松さんと同齢で、四十八歳である。(終。) (大正五年一月−五月)