その四十一

 均しく是れ津軽の藩士で、柳嶋附の目附から、少しく貞固に連れて留守居に転じたものがある。平井氏、名は俊章、字は伯民、小字は清太郎、通称は修理で、東堂と号した。文化十一年生で貞固よりは二つの年下である。平井の家は世禄二百石八人扶持なので、留守居になつてから百石の補足を受けた。
 貞固は好丈夫で威貌があつた、東堂も亦風■人に優れて、而も温容親むべきものがあつた。そこで世の人は津軽家の留守居は双璧だと称したさうである。
 当時の留守居役所には、此二人の下に留守居下役杉浦多吉、留守居物書藤田徳太郎などがゐた。杉浦は後喜左衛門と云った人で、事務に諳錬した六十余の老人であつた。藤田は維新後に潜と称した人で、当時まだ青年であつた。
 或日東堂が役所で公用の書状を発せようとして、藤田に稿を属せしめた。藤田は案を具して呈した。
「藤田、まづい文章だな。それにこの書様はどうだ。もう一遍書き直して見い。」東堂の顔は頗る不機嫌に見えた。
 原来平井氏は善書の家である。祖父峩斎は嘗て筆札を高頤斎に受けて、其書が一時に行はれたこともある。峩斎、通称は仙右衛門、其子を仙蔵と云ふ。後父の称を襲ぐ。此仙蔵の子が東堂である。東堂も沢田東里の門人で書名があり、且詩文の才をさへ有してゐた、それに藤田は文に於ても書に於ても、専門の素養が無い。稿を更めて再び呈したが、それが東堂を満足せしめる筈が無い。
「どうもまづいな。こんな物しか出来ないのかい。一体これでは御用が勤まらないと云っても好い。」かう云って案を藤田に還した。
 藤田は股栗した。一身の恥辱、家族の悲歎が、頭を低れてゐる青年の想像に浮かんで、目には涙が涌いて来た。
 此時貞固が役所に来た。そして東堂に問うて事の顛末を知つた。
 貞固は藤田の手に持つてゐる案を取つて読んだ。「うん。一通わからぬこともないが、これでは平井の気には入るまい。足下は気が利かないのだ。」
 かう云って置いて、貞固は殆ど同じやうな文句を巻紙に書いた。そしてそれを東堂の手にわたした。
「どうだ。これで好いかな。」
 東堂は毫も敬服しなかつた。しかし故参の文案に批評を加へることは出来ないので、色を和げて云った。
「いや、結構です。どうもお手を煩はして済みません。」
 貞固は案を東堂の手から取つて、藤田にわたして云った。
「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからこんな工合に遣るが好い。」
 藤田は「はい」と云って案を受けて退いたが、心中には貞固に対して再造の恩を感じたさうである。想ふに東堂は外柔にして内険、貞固は外猛にして内寛であつたと見える。
 わたくしは前に真固が要職の体面をいたはるがために窮乏して、古褌を着けて年を迎へたことを記した。此窮乏は東堂と雖もこれを免るゝことを得なかつたらしい。こゝに中井敬所が大槻如電さんに語つたと云ふ一の事実があつて、これが証に充つるに足るのである。
 此事は前の日わたくしが池田京水の墓と年齢とを文彦さんに問ひに遣った時、如電さんが曾て手記して置いたものを抄写して、文彦さんに送り、文彦さんがそれをわたくしに示した。わたくしは池田氏の事を問うたのに、何故に如電さんは平井氏の事を以て答へたか。それには理由がある。平井東堂の置いた質が流れて、それを買ったのが、池田京水の子瑞長であつたからである。

その四十二

 東堂が質に入れたのは、銅仏一躯と六方印一顆とであつた。銅仏は印度で鋳造した薬師如来で、戴曼公の遺品である。六方印は六面に彫刻した遊印である。
 質流になつた時、此仏像を池田瑞長が買った。然るに東堂は後金が出来たので、瑞長に交渉して、価を倍して購ひ戻さうとした。瑞長は応ぜなかつた。それは平井氏も、池田氏も、戴曼公の遺品を愛惜する縁故があるからである。
 戴曼公は書法を高天■に授けた。天■、名は玄岱、初の名は立泰、字は子新、一の字は斗胆、通称は深見新左衛門で、帰化明人の裔である。祖父高寿覚は長崎に来て終つた。父大誦は訳官になつて深見氏を称した。深見は渤海である。高氏は渤海より出でたから此氏を称したのである。天■は書を以て鳴つたもので、浅草寺の施無畏の■額(へんがく)の如きは、人の皆知る所である。享保七年八月八日に、七十四歳で殘した。その曼公に書を学んだのは、十余歳の時であつただらう。天■の子が頤斎である。頤斎の子が峩斎である。峩斎の孫が東堂である。これが平井氏の戴師持念仏に恋々たる所以である。
 戴曼公は又痘科を池田嵩山に授けた。嵩山の曾孫が錦橋、錦橋の姪が京水、京氷の子が瑞長である、これが池田氏の偶獲た曼公の遺品を愛重して措かなかつた所以である。
 此薬師如来は明治の代となつてから守田宝丹が護持してゐたさうである。又六方印は中井敬所の有に帰してゐたさうである。
 貞固と東堂とは、共に留守居の物頭を兼ねてゐた。物頭は詳しくは初手足軽頭と云って、藩の諸兵の首領である。留守居も物頭も独礼の格式である。平時は中下屋敷附近に火災の起る毎に、火事装束を着けて馬に騎り、足軽数十人を随へて臨検した。貞固は其帰途には、殆ど必ず澀江の家に立ち寄った。実に威風堂々たるものであつたさうである。
 貞固も東堂も、当時諸藩の留守居中有数の人物であつたらしい。帆足万里は嘗て留守居を罵つて、国財を靡し私腹を肥やすものとした。此職に居るものは、或は多く私財を蓄へたかも知れない。しかし保さんは少時帆足の文を読む毎に心平かなることを得なかつたと云ふ。それは貞固の人と為りを愛してゐたからである。
 嘉永四年には、二月四日に抽斎の三女で山内氏を冒してゐた棠子が、痘を病んで死んだ。尋いで十五日に、五女癸巳が感染して死んだ。彼は七歳、此は三歳である。重症で曼公の遺法も功を奏せなかつたと見える。三月二十八日に、長子恒善が二十六歳で、柳嶋に隠居してゐた信順の近習にせられた。六月十二日に、二子優善が十七歳で、二百石八人扶持の矢嶋玄碩の末期養子になつた。是年澀江氏は本所台所町に移つて、神田の家を別邸とした。抽斎が四十七歳、五百が三十六歳の時である。
 優善は澀江一族の例を破つて、少うして烟草を喫み、好んで紛華奢靡の地に足を容れ、兎角市井のいきな事、しやれた事に傾き易く、当時早く既に前途のために憂ふべきものがあつた。
 本所で澀江氏のゐた台所町は今の小泉町で、屋敷は当時の切絵図に載せてある。

その四十三

 嘉永五年には四月二十九日に、抽斎の長子恒善が二十七歳で、二の丸火の番六十俵田口儀三郎の養女糸を娶つた。五月十八日に、恒善に勤料三人扶持を給せられた。抽斎が四十八歳、五百が三十七歳の時である。
 伊沢氏では此年十一月十七日に、榛軒が四十九歳で歿した。榛軒は抽斎より一つの年上で、二人の交は頗る親しかつた。楷書に片仮名を交ぜた榛軒の尺牘には、宛名が抽斎賢弟としてあつた。しかし抽斎は小嶋成斎に於けるが如く心を傾けてはゐなかつたらしい。
 榛軒は本郷丸山の阿部家の中屋敷に住んでゐた。父蘭軒の時からの居宅で、頗る広大な構であつた。庭には吉野桜八株を栽ゑ、花の頃には親戚知友を招いてこれを賞した。其日には榛軒の妻飯田氏しほと女かえとが許多の女子を役して、客に田楽豆腐などを供せしめた。バアル、アンチシパシヨンに園遊会を催したのである。歳の初の発会式も、他家に較ぶれば華やかであつた。しほの母は素京都諏訪神社の禰宜飯田氏の女で、典薬頭某の家に仕へてゐるうちに、其嗣子と私してしほを生んだ。しほは落魄して江戸に来て、木挽町の芸者になり、些の財を得て業を罷め、新堀に住んでゐたさうである。榛軒が娶つたのは此時の事である。しほは識らぬ父の記念の印籠一つを、母から承け伝へて持つてゐた。榛軒がしほに生ませた女かえは、一時池田京水の次男全安を迎へて夫としてゐたが、全安が広く内科を究めずに、痘科と唖科とに偏すると云ふを以て、榛軒が全安を京水の許に還したさうである。
 榛軒は辺幅を脩めなかつた。澀江の家を訪ふに、踊りつゝ玄関から入つて、居間の戸の外から声を掛けた。自ら鰻を誂へて置いて来て、粥を所望することもあつた。そして抽斎に、「どうぞ己に構ってくれるな、己には御新造が合口だ」と云って、書斎に退かしめ、五百と語りつゝ飲食するを例としたさうである。
 榛軒が歿してから一月の後、十二月十六日に弟柏軒が躋寿館の講師にせられた。森枳園等と共に千金方校刻の命を受けてから四年の後で、柏軒は四十三歳になつてゐた。
 是年に五百の姉壻長尾宗右衛門が商業の革新を謀つて、横山町の家を漆器店のみとし、別に本町二丁目に居宅を置くことにした。此計画のために、抽斎は二階の四室を明けて、宗右衛門夫妻、敬、銓の二女、女中一人、丁稚一人を棲まはせた。
 嘉永六年正月十九日に、抽斎の六女水木が生れた。家族は主人夫婦、恒善夫婦、陸、水木の六人で、優善は矢嶋氏の主人になつてゐた。抽斎四十九歳、五百三十八歳の時である。
 此年二月二十六日に、堀川舟庵が躋寿館の講師にせられて、千金方校刻の事に任じた三人の中森枳園が一人残された。
 安政元年は稍事多き年であつた。二月十四日に五男専六が生れた。後に脩と名告つた人である。三月十日に長子恒善が病んで歿した。抽斎は子婦糸の父田口儀三郎の窮を憫んで、百両余の金を餽(おく)り、糸をば有馬宗智と云ふものに再嫁せしめた。十二月二十六日に、抽斎は躋寿館の講師たる故を以て、年に五人扶持を給せられることになつた。今の勤務加俸の如きものである。二十九日に更に躋寿館医書彫刻手伝を仰附けられた。今度校刻すべき書は、円融天皇の天元五年に、丹波康頼が撰んだと云ふ医心方である。
 保さんの所蔵の抽斎手記に、医心方の出現と云ふ語がある。昔から厳に秘せられてゐた書か、忽ち目前に出て来た状が、此語で好く表されてゐる。「秘玉突然開■出。螢光明徹点瑕無。金龍山畔波濤起。龍口初探是此珠。」これは抽斎の亡妻の兄岡西玄亭が、当時喜を記した詩である。龍口と云ったのは、医心方が若年寄遠藤但馬守胤統の手から躋寿館に交付せられたからであらう。遠藤の上屋敷は辰口の北角であつた。

その四十四

 日本の古医書は続群書類従に収めてある和気広世の薬経太素、丹波康頼の康頼本草、釈蓮基の長生療養方、次に多紀家で校刻した深根輔仁の本草和名、丹波雅忠の医略抄、宝永中に印行せられた具平親王の弘決外典抄の数種を存するに過ぎない。具平親王の書は本字類に属して、此に算すべきではないが、医事に関する記載が多いから列記した。これに反して、彼の出雲広貞等の上つた大同類聚方の如きは、散佚して世に伝はらない。
 それゆゑ天元五年に成つて、永観二年に上られた医心方が、殆ど九百年の後の世に出でたのを見て、学者が血を湧き立たせたのも怪むに足らない。
 医心方は禁闕の秘本であつた。それを正親町天皇が出して典薬頭半井通仙院瑞策に賜はつた。それからは世半井氏が護持してゐた。徳川幕府では、寛政の初に、仁和寺文庫本を謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、此本は脱簡が極て多かつた。そこで半井氏の本を獲ようとして屡命を伝へたらしい。然るに当時半井大和守成美は献ずることを肯ぜず、其子修理大夫清雅も亦献ぜず、遂に清雅の子出雲守広明に至つた。
 半井氏が初め何の辞を以て命を拒んだかば、これを詳にすることが出来ない。しかし後には天明八年の火事に、京都に於て焼失したと云った。天明八年の火事とは、正月晦に洛東団栗辻から起つて、全都を灰燼に化せしめたものを謂ふのである。幕府は此答に満足せずに、似寄の品でも好いから閏せと談求した。恐くは情を知つて強要したのであらう。
 半井広明は已むことを得ず、かう云ふ口上を以て医心方を出した。外題は同じであるが、筆者区々になつてゐて、誤脱多く、甚だ疑はしき麁巻である。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供すると云ふのである。書籍は広明の手から六郷筑前守政殷の手にわたつて、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持つて往つた。正弘は公用人渡辺三太平を以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。
 越えて十月十五日に、医心方は若年寄遠藤但馬守胤統を以て躋寿館に交付せられた。此書か御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられるであらう。若し彫刻を命ぜられることになつたら、費用は金蔵から渡されるであらう。書籍は篤と取調べ、且刻本売下代金を以て費用を返納すべき積年賦をも取調べるやうにと云ふことであつた。
 半井広明の呈した本は三十巻三十一冊で、巷二十五に上下がある。細に検するに期待に負かぬ善本であつた。素医心方は巣元方の病源候諭を経とし、隋唐の方書百余家を緯として作つたもので、その引用する所にして、支那に於て佚亡したものが少く無い。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。
 幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁二人、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印、多紀安良法眼である。楽真院は■庭、安良は暁湖で、並に二百俵の奥医師であるが、彼は法印、此は法眼になつてゐて、当時矢の倉の分家が向柳原の宗家の右に居つたのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵と抽斎とが加はつてゐた。
 躋寿館では医心方影写程式と云ふものが出来た。写生は毎朝辰刻に登館して、一人一日三頁を影摸する。三頁を摸し畢れば、任意に退出することを許す。三頁を摸すること能はざるものは、二頁を摸し畢つて退出しても好い。六頁を摸したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月朔に起つて、二十日に終る。日に二頁を摸するものは晦に至る。此間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。

その四十五

 半井本の医心方を校刻するに当つて、仁和寺本を写した躋寿館の旧蔵本が参考せられたことは、問ふことを須たぬであらう。然るに別に一の善本があつた。それは京都加茂の医家岡本由顕の家から出た医心方巻二十二である。
 正親町天皇の時、従五位上岡本保晃と云ふものがあつた。保晃は半井瑞策に医心方一巻を借りて写した。そして何故か原本を半井氏に返すに及ばずして歿した。保晃は由顕の曾祖父である。
 由顕の言ふ所はかうである。医心方は徳川家光が半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸に於て瑞策に師事した。瑞策の女が産後に病んで死に瀕した。保晃が薬を投じて救った。瑞策がこれに報いんがために、医心方一巻を贈つたと云ふのである。
 医心方を瑞策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にゐた人で、江戸に下つたことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈らうとしたにしても、よもや帝室から賜つた医心方三十巻の中から、一巻を割いて贈りはしなかつただらう。凡そ此等の事は、前人が皆嘗てこれを論弁してゐる。
 既にして岡本氏の家衰へて、畑成文に託して此巻を沽らうとした。成文は錦小路中務権少輔頼易に勧めて元本を買はしめ、副本はこれを己が家に留めた。錦小路は京都に於ける丹波氏の裔である。
 岡本氏の医心方一巻は、此の如くにして伝はつてゐた。そして校刻の時に至つて対照の用に供せられたやうである。
 是年正月二十五日に、森枳園が躋寿館講師に任ぜられて、二月二日から登館した。医心方校刻の事の起つたのは、枳園が教職に就いてから十箇月の後である。
 抽斎の家族は此年主人五十歳、五百三十九歳、陸八歳、水木二歳、専六生れて一歳の五人であつた。矢嶋氏を冒した優善は二十歳になつてゐた。二年前から寄寓してゐた長尾氏の家族は、本町二丁目の新宅に移つた。
 安政二年が来た。抽斎の家の記録は先づ小さき、徒なる喜を誌さなくてはならなかつた。それは三月十九日に、六男翠暫が生れたことである。後十一歳にして夭札した子である。此年は人の皆知る地震の年である。しかし当時抽斎を揺り憾して起たしめたものは、独地震のみではなかつた。
 学問はこれを身に体し、これを事に措いて、始て用をなすものである。否るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を研鑽して造詣の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも径ちににれを事に措かうとはしない。その■々として年を閲する間には、心頭姑く用と無用とを度外に置いてゐる。大いなる功績は此の如くにして始て贏ち得らるゝものである。
 この用無用を問はざる期間は、啻に年を閲するのみでは無い。或は生を終るに至るかも知れない。或は世を累ぬるに至るかも知れない。そして此期間に於ては、学問の生活と時務の要求とが截然として二をなしてゐる。若し時務の要求が漸く増長し来つて、強ひて学者の身に薄つたなら、学者が其学問生活を拠つて起つこともあらう。しかし其背面には学問のための損失がある。研鑽はこゝに停止してしまふからである。
 わたくしは安政二年に抽斎が喙を時事に容るゝに至つたのを見て、是の如き観をなすのである。

その四十六

 米艦が浦賀に入つたのは、二年前の嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に艦が再び浦賀に来て、六月に下田を去るまで、江戸の騒擾は名状すべからざるものがあつた。幕府は五月九日を以て、万石以下の士に甲冑の準備を令した。動員の備の無い軍隊の腑甲斐なさが覗はれる。新将軍家定の下にあつて、此難局に当つたのは、柏軒、枳園等の主侯阿部正弘である。
 今年に入つてから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘を以て大砲小銃を鋳造すベしと云ふ詔が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れてゐた抽斎も、こゝに至つて■(やゝ)風潮の化誘する所となつた。それには当時産蓐にゐた女丈夫五百の啓沃も与つて力があつたであらう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために画策するに至つた。
 津軽順承は一の進言に接した。これを上つたものは用人加藤清兵衛、側用人兼松伴大夫、目附兼松三郎である。幕府は甲冑を準備することを令した。然るに藩の士人の能くこれを遵行するものは少い。概ね皆衣食だに給せざるを以て、これに及ぶに遑あらざるのである。宜く現に甲冑を有せざるものには、金十八両を貸与してこれが賞に充てしめ、年賦に依つて還納せしむべきである。且今より後毎年一度甲冑改を行ひ、手入を怠らしめざるやうにせられたいと云ふのである。順承はこれを可とした。
 此進言が抽斎の意より出で、兼松三郎がこれを承けて案を具し、両用人の賛同を得て呈せられたと云ふことは、闔藩皆これを知つてゐた。三郎は石居と号した。その隆準なるを以ての故に、抽斎は天狗と呼んでゐた。佐藤一斎、古賀■庵の門人で、学殖傭輩を超え、嘗て昌平黌の舎長となつたこともある。当時弘前吏胥中の識者として聞えてゐた。
 抽斎は天下多事の日に際会して、書偶政事に及び、武備に及んだが、此の如きは固より其本色では無かつた。抽斎の旦暮力を用ゐる所は、古書を講窮し、古義を闡明するにあつた。彼は弘前藩士たる抽斎が、外来の事物に応じて動作した一時のレアクシヨンである。此は学者たる抽斎が、終生従事してゐた不朽の労作である。
 抽斎の校勘の業は此頃着々進陟してゐたらしい。森枳園が明治十八年に書いた経籍訪古志の跋に、緑汀会の事を記して、三十年前だと云つてある。緑汀とは多紀■庭が本所緑町の別荘である。■庭は毎月一二次、抽斎、枳園、柏軒、舟庵、海保漁村等を此に集へた。諸子は環坐して古本を披閲し、これが諭定をなした。会の後には宴を開いた。さて二州橋上酔に乗じて月を踏み、詩を詠じて帰つたと云ふのである。同じ書に、■庭が此年安政二年より一年の後に書いた跋があつて、諸子襃録惟れ勤め、各部頓に成ると云ってあるのを見れば、論定に継ぐに編述を以てしたのも、亦当時の事であつたと見える。
 わたくしは此年の地震の事を謂るに先つて、台所町の澁江の家に座敷牢があつたと云ふことに説き及ばすのを悲む。これは二階の一室を繞すに四目格子を以てしたもので、地震の日には工事既に竣つて、其中は猶空虚であつた。若し人が其中にゐたならば、澀江の家は死者を出さざることを得なかつたであらう。
 座敷牢は抽斎が忍び難きを忍んで、次男優善がために設けたものであつた。

その四十七

 抽斎が岡西氏徳に生せた三人の子の中、只一人生き残つた次男優善は、少時放恣佚楽のために、頗る澀江一家を困めたものである。優善には塩田良三と云ふ遊蕩夥伴があつた。良三はかの蘭軒門下で、指の腹に杖を立てて歩いたと云ふ楊庵が、家附の女に生せた嫡子である。
 わたくしは前に優善が父兄と嗜を異にして、煙草を喫んだと云ふことを言った。しかし酒は此人の好む所でなかつた。優善も良三も、共に涓滴の量なくして、あらゆる遊戯に耽つたのである。
 抽斎が座敷牢を造つた時、天保六年生の優善は二十一歳になつてゐた。そしてその密友たる良三は天保八年生で、十八歳になつてゐた。二人は影の形に従ふ如く、須臾も相離るゝことが無かつた。
 或時優善は松川飛蝶と名告つて、寄席に看板を懸けたことがある。良三は松川酔蝶と名告つて、共に高座に登つた。鳴物入で俳優の身振声色を使ったのである。しかも優善は所謂心打で、良三は其前席を勤めたさうである。又夏になると、二人は舟を藉りて墨田川を上下して影芝居を興行した。一人は津軽家の医官矢嶋氏の当主、一人は宗家の医官塩田氏の若檀那である。中にも良三の父は神田松枝町に開業して市人に頓才のある、見立の上手な医者と称せられ、その肥胖のために瞽者と看錯らるゝ面をば汎く識られて、家は富み栄えてゐた。それでゐて二人共に、高座に顔を■(さら)すことを憚らなかつたのである。
 二人は酒量なきに拘らず、町々の料理屋に出入し、又屡吉原に遊んだ。そして借財が出来ると、親戚故旧をして償はしめ、度重つて償ふ道が塞がると、跡を晦ましてしまふ。抽斎が優善のために座敷牢を作らせたのは、さう云ふ失踪の間の事で、その早晩還り来るを候つて此中に投ぜようとしたのである。
 十月二日は地震の日である。空は陰つて雨が降つたり歇んだりしてゐた。抽斎は此日観劇に往つた。周茂叔連にも逐次に人の交迭があつて、豊芥子や抽斎が今は最年長者として推されてゐたことであらう。抽斎は早く帰つて、晩酌をして寝た。地震は亥の刻に起つた。今の午後十時である。二つの強い衝突を以て始まつて、震動か漸く勢を増した。寝間にどてらを着て臥してゐた抽斎は、撥ね起きて枕元の両刀を把つた。そして表座敷へ出ようとした。
 寝間と表座敷との途中に講義室があつて、壁に沿うて本箱が堆く積み上げてあつた。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が崩れ墜ちた。抽斎は其間に介まつて動くことが出来なくなつた。
 五百は起きて夫の後に続かうとしたが、これはまだ講義室に足を投ぜぬうちに倒れた。
 暫くして若党仲間が来て、夫妻を扶け出した。抽斎は衣服の腰から下が裂け破れたが、手は両刀を放たなかつた。
 抽斎は衣服を取り繕ふ暇もなく、馳せて隠居信順を柳嶋の下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往つた。信順は柳嶋の第宅が破損したので、後に浜町の中屋敷に移つた。当主順承は弘前にゐて、上屋敷には家族のみが残つてゐたのである。
 抽斎は留守居比良野貞固に会って、救恤の事を議した。貞固は君侯在国の故を以て、旨を承くるに遑あらず、直ちに廩米二万五千俵を発して、本所の窮民を賑すことを令した。勘定奉行平川半治は此議に与らなかつた。平川は後に藩士が悉く津軽に遷るに及んで、独り永の暇を願って、深川に米店を開いた人である。

その四十八

 抽斎が本所二つ目の津軽家上屋敷から、台所町に引き返して見ると住宅は悉く傾き倒れてゐた。二階の座敷牢は粉韲せられて迹だに留めなかつた。対門の小姓組番頭土屋佐渡守邦直の屋敷は火を失してゐた。
 地震は其夜歇んでは起り、起つては歇んだ、町筋毎に損害の程度は相殊つてゐたが、江戸の全市に家屋土蔵の無瑕なものは少かつた。上野の大仏は首が砕け、谷中天王寺の塔は九輪が落ち、浅草寺の塔は九輪が傾いた。数十箇所から起つた火は、三日の朝辰の刻に至つて始て消された。公に届けられた変死者が四千三百人であつた。
 三日以後にも昼夜数度の震動かあるので、第宅のあるものは庭に小屋掛をして住み、市民にも露宿するものが多かつた。将軍家定は二日の夜吹上の庭にある滝見茶屋に避難したが、本丸の破損が少かつたので翌朝帰つた。
 幕府の設けた救小屋は、幸橋外に一箇所、上野に二箇所、浅草に一箇所、深川に二箇所であつた。
 是年抽斎は五十一歳、五百は四十歳になつて、子供には陸、水木、専六、翠暫の四人がゐた。矢嶋優善の事は前に言った。五百の兄広瀬栄次郎が此年四月十八日に病死して、其父の妾牧は抽斎の許に寄寓した。
 牧は寛政二年生で、初五百の祖母が小間使に雇った女である。それが享和三年に十四歳で五百の父忠兵衛の妾になつた。忠兵衛が文化七年に紙問屋山一の女くみを娶つた時、牧は二十一歳になつてゐた。そこへ十八歳ばかりのくみは来たのである。くみは富家の懐子で、性質が温和であつた。後に五百と安とを生んでから、気象の勝つた五百よりは、内気な安の方が、母の性質を承け継いでゐると人に言はれたのに徴しても、くみがどんな女であつたかと言ふことは想ひ遣られる。牧は特に悍と称すべき女でもなかつたらしいが、兎に角三つの年上であつて、世故にさへ通じてゐたから、くみが啻にこれを制することが難かつたばかりでなく、動もすればこれに制せられようとしたのも、固より怪むに足らない。
 既にしてくみは栄次郎を生み、安を生み、五百を生んだが、次で文化十四年に次男某を生むに当つて病に罹り、生れた子と倶に世を去つた。この最後の産の前後の事である。くみは血行の変動のためであつたか、重聴になつた。其時牧がくみの事を度々聾者と呼んだのを、六歳になつた栄次郎が聞き咎めて、後までも忘れずにゐた。
 五百は六七歳になつてから、兄栄次郎に此事を聞いて、ひどく憤つた。そして兄に謂った。「さうして見ると、わたし達には親の敵がありますね。いつか兄いさんと一しよに敵を討たうではありませんか」と云った。其後五百は折々箒に塵払を結び附けて、双手の如くにし、これに衣服を纏って壁に立て掛け、さてこれを斫る勢をなして、「おのれ、母の敵、思ひ知つたか」などと叫ぶことがあつた。父忠兵衛も牧も、少女の意の斥す所を暁つてゐたが、父は憚つて肯て制せず、牧は懾れて咎めることが出来なかつた。
 牧は奈何にもして五百の感情を和げようと思って、甘言を以てこれを誘はうとしたが、五百は応ぜなかつた。牧は又忠兵衛に講うて、五百に己を母と呼ばせようとしたが、これは忠兵衛が禁じた。忠兵衛は五百の気象を知つてゐて、此の如き手段の却つて其反抗心を激成するに至らむことを恐れたのである。
 五百が早く本丸に入り、又藤堂家に投じて、始終家に遠かつてゐるやうになつたのは、父の希望があり母の遺志があつて出来た事ではあるが、一面には五百自身が牧と倶に起臥することを快からず思って、余所へ出て行くことを喜んだためもある。
 かう云ふ関係のある牧が、今寄辺を失って、五百の前に首を屈し、澀江氏の世話を受けることになつたのである。五百は怨に報ゆるに恩を以てして、牧の老を養ふことを許した。

その四十九

 安政三年になつて、抽斎は再び藩の政事に喙を容れた。抽斎の議の大要はかうでφる。弘前藩は須く当主順承と要路の有力者数人とを江戸に留め、隠居信順以下の家族及家臣の大半を挙げて帰国せしむべしと云ふのである。其理由の第一は、時勢既に変じて多人数の江戸詰は其必要を認めないからである。何故と云ふに、原諸侯の参勤、及これに伴ふ家族の江戸に於ける居住は、徳川家に人質を提供したものである。今将軍は外交の難局に当つて、旧慣を棄て、冗費を節することを謀つてゐる。諸侯に土木の手伝を命ずることを罷め、府内を行くに家に窓蓋を設ることを止めたのを見ても、其意向を窺ふに足る。縦令諸侯が家族を引き上げたからと云って、幕府は最早これを抑留することは無からう。理由の第二は、今の多事の時に方つて、二三の有力者に託するに藩の大事を以てし、これに製肘を加ふること無く、当主を輔佐して臨機の処置に出でしむるを有利とするからである。由来弘前藩には悪習慣がある。それは事ある毎に、藩論が在府党と在国党とに岐れて、荏苒決せざることである。甚だしきに至つては、在府党は郷国の士を罵つて国猿と云ひ、その主張する所は利害を問はずして排斥する。此の如きは今の多事の時に処する所以の道でないと云ふのである。
 此議は同時に二三主張するものがあつて、是非の諭が盛に起つた。しかし後にはこれに左袒するものも多くなつて、順承が聴納しようとした。浜町の隠居信順がこれを見て大いに怒つた。信順は平素国猿を憎悪することの尤も甚しい一人であつた。
 此議に反対したものは、独浜町の隠居のみではなかつた。当時江戸にゐた藩士の殆ど全体は弘前に往くことを喜ばなかつた。中にも抽斎と親善であつた比良野貞固は、抽斎の此議を唱ふるを聞いて、馳せ来って諭難した、議善からざるにあらずと雖も、江戸に生れ江戸に長じたる士人と其家族とをさへ、悉く窮北の地に遷さうとするは、忍べるの甚しきだと云ふのである。抽斎は貞固の説を以て、情に偏し義に失するものとなして聴かなかつた。貞固はこれがために一時抽斎と交を絶つに至つた。
 此頃国勝手の議に同意してゐた人々の中、津軽家の継嗣問題のために罪を獲たものがあつて、彼議を唱へた抽斎等は肩身の狭い念をした。継嗣問題とば当主腹承が肥後国熊本の城主細川越中守斉護の子寛五郎承昭を養はうとするに起つた。順承は女玉姫を愛して、これに婿を取つて家を譲らうとしてゐると、津軽家下屋敷の一つなる本所大川端邸が細川邸と隣接してゐるために、斉護と親しくなり、遂に寛五郎を養子に貰ひ受けようとするに至つた。罪を獲た数人は、血統を重んずる説を持して、此養子を迎ふることを拒まうとし、順承はこれを迎ふるに決したからである。即ち側用人加藤清兵衛、用人兼松伴大夫は帰国の上隠居謹慎、兼松三郎は婦国の上永の蟄居を命ぜられた。
 石居即ち兼松三郎は後に夢醒と題して七古を作つた。中に「又憶世子即世後、継嗣未定物議伝、不顧身分有所建、因冒譴責坐北遷」の句がある。その咎を受けて江戸を発する時、抽斎は四言十二句を書して贈つた。中に「菅公遇譖、屈原独清、」と云ふ語があつた。
 此年抽斎の次男矢嶋優善は、遂に素行修まらざるがために、表医者を貶して小普請医者とせられ、抽斎も亦これに連繋して閉門三日に処せられた。

その五十

 優善の夥伴になつてゐた塩田良三は、父の勘当を蒙つて、抽斎の家の食客となつた。我子の乱行のために譴を受けた抽斎が、其乱行を助長した良三の身の上を引き受けて、家に居らせたのは、余りに寛大に過ぎるやうであるが、これは才を愛する情が深いからの事であつたらしい。抽斎は人の寸長をも見■(みのが)さずに、これに保護を加へて、幾ど其瑕疵を忘れたるが如くであつた。年来森枳園を扶掖してゐるのもこれがためである。今良三を家に置くに至つたのも、良三に幾分の才気のあるのを認めたからであらう。固より抽斎の許には、常に数人の諸生が養はれてゐたのだから、良三は只此群に新に来り加はつたに過ぎない。
 数月の後に、抽斎は良三を安積艮斎の塾に住み込ませた。是より先艮斎は天保十三年に故郷に帰つて、二本松にある藩学の教授になつたが、弘化元年に再び江戸に来て、嘉永二年以来昌平黌の教授になつてゐた。抽斎は彼の終始濂渓の学を奉じてゐた艮斎とは深く交らなかつたのに、これに良三を託したのは、良三の吏材たるべきを知つて、これを培養することを謀つたのであらう。
 抽斎の先妻徳の里方岡西氏では、此年七月二日に徳の父栄玄が歿し、次いで十一月十一日に徳の兄玄亭が歿した。
 栄玄は医を以て阿部家に仕へた。長子玄亭が蘭軒門下の俊才であつたので、抽斎はこれと交を訂し、遂に其妹徳を娶るに至つたのである。徳の亡くなつた後も、次男優善が其出であるので、抽斎一家は岡西氏と常に往来してゐた。
 栄玄は樸直な人であつたが、往々性癖のために言行の規矩を踰ゆるを見た、嘗て八文の煮豆を買って鼠不入の中に蔵し、屡其存否を検したことがある。又或日海■(ぶり)一尾を携へ来つて、抽斎に遣り、帰途に再び訪はむことを約して去つた。五百はために酒饌を設けようとして頗る苦心した。それは栄玄が饌に対して奢侈を戒めたことが数次であつたからである。抽斎は遣られた所の海■を饗することを命じた。栄玄は来て饗を受けたが、色悦ばざるものの如く、遂に「客にこんな馳走をすることは、わたしの内では無い」と云った。五百が「これはお持たせでございます」と云ったが、栄玄は聞えぬ振をしてゐた。調理法が好過ぎたのであらう。
 尤も抽斎をして不平に堪へざらしめたのは、栄玄が庶子苫を遇することの甚だ薄かつたことである。苫は栄玄が厨下の婢に生せた女である。栄玄はこれを認めて子としたのに、「あんなきたない子は畳の上には置かれない」と云って、板の間に蓙を敷いて寝させた。当時栄玄の妻は既に歿してゐたから、これは河東の獅子吼を恐れたのではなく、全く主人の性癖のためであつた。抽斎は五百に議つて苫を貰ひ受け、後下総の農家に嫁せしめた。
 栄玄の子で、父に遅るゝこと僅に四月にして歿した玄亭は、名を徳瑛、字を魯直と云った。抽斎の友である。玄亭には二男一女があつた。長男は玄庵、次男は養玄である。女は名を初と云った。
 是年抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であつた。抽斎が平生の学術上研鑽の外に最も多く思を労したのは何事かと問うたなら、恐らくはその五十二歳にして提起した国勝手の議だと云はなくてはなるまい。此議の応に及ぼすべき影響の大きさと、此議の打ち克たなくてはならぬ抗抵の強さとは、抽斎の十分に意識してゐた所であらう。抽斎は又自己が其位にあらずして言ふことの不利なるをも知らなかったのではあるまい。然るに抽斎のこれを敢てしたのは、必ず内に已むことを得ざるものがあって敢てしたのであらう。憾むらくは要路に取つてこれを用ゐる手腕のある人が無かつたために、弘前は遂に東北諸藩の間に於て一頭地を抜いて起つことが出来なかつた。又遂に勤王の旗幟を明にする時期の早きを致すことが出来なかつた。
つづく
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