その三十一

 五百は十一二歳の時、本丸に奉公したさうである。年代を推せば、文政九年か十年かでなくてはならない。徳川家斉が五十四五歳になつた時である。御台所は近衛経煕の養女茂姫である。
 五百は姉小路と云ふ奥女中の部屋子であつたと云ふ。姉小路と云ふからには、上臈であつただらう。然らば長局の南一の側に、五百はゐた筈である。五百等がタ方になると、長い廊下を通って締めに往かなくてはならぬ窓があつた。其廊下には鬼が出ると云ふ噂があつた。鬼とはどんな物で、それが出て何をするかと云ふに、誰も好くは見ぬが、男の衣を着てゐて、額に角が生えてゐる。それが礫を投げ掛けたり、灰を蒔き掛けたりすると云ふのである。そこでどの部屋子も窓を締めに往くことを嫌って、互に譲り合った。五百は穉くても胆力があり、武芸の稽古をもしたことがあるので、自ら望んで窓を締めに往つた。
 暗い廊下を進んで行くと、果してちよろ/\と走り出たものがある。おやと思ふ間もなく、五百は片頬に灰を被つた。五百には咄嗟の間に、其物の姿が好くは見えなかつたが、どうも少年の悪作劇らしく感ぜられたので、五百は飛ひ附いて掴まへた。
 「許せ/\」と鬼は叫んで身をもがいた。五百はすこしも手を弛めなかつた。そのうちに外の女子達が馳せ附けた。
 鬼は降伏して被つてゐた鬼面を脱いだ。銀之助様と称へてゐた若君で、穉くて美作国西北条郡津山の城主松平家へ婿入した人であつたさうである。
 津山の城主松平越後守斉孝の次女徒の方の許へ壻入したのは、家斉の三十四人目の子で、十四男参河守斉民である。
 斉民は小字を銀之助と云ふ。文化十一年七月二十九日に生れた。母はお八重の方である。十四年七月二十二日に、御台所の養子にせられ、九月十八日に津山の松平家に婿入し、十二月三日に松平邸に往つた。四歳の壻君である。文政二年正月二十八日には新居落成してそれに移つた。七年三月二十八日には十一歳で元服して、従四位上侍従参河守斉民となつた。九年十二月には十三歳で少将にせられた。人と成つて後確堂公と呼ばれたのは此人で、成嶋柳北の碑の篆額は其筆である。さうして見ると、此人が鬼になつて五百に捉へられたのは、従四位上侍従になつてから後で、只少将であつたか、なかつたかが疑問である。津山邸に館はあつても、本丸に寝泊して、小字の銀之助を呼ばれてゐたものと見える。年は五百より二つ上である。
 五百の本丸を下つたのは何時だかわからぬが、十五歳の時にはもう藤堂家に奉公してゐた。五百が十五歳になつたのは、天保元年である。若し十四歳で本丸を下つたとすると、文政十二年に下つたことになる。
 五百は藤堂家に奉公するまでには、二十幾家と云ふ大名の屋敷を目見として廻ったさうである。其頃も女中の目見は、君臣を択ばず、臣君を択ぶと云ふやうになつてゐたと見えて、五百が此の如くに諸家の奧へ覗きに往つたのは、到処で斥けられたのではなく、自分が仕ふることを肯ぜなかつたのださうである。
 しかし二十余家を経廻るうちに、只一箇所だけ、五百が仕へようと思った家があつた。それが偶然にも土佐国高知の城主松平土佐守豊資の家であつた。即ち五百と祖先を同じうする山内家である。
 五百が鍛冶橘内の上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じやうな考試に逢った。それは手跡、和歌、音曲の嗜を験されるのである。試官は老女である。先づ硯箱と色紙とを持ち出して、老女が「これに一つお染を」と云ふ。五百は自作の歌を書いたので、同時に和歌の吟味も済んだ。それから常磐津を一曲語らせられた。此等の事は他家と何の殊なることもなかつたが、女中が悉く綿服であつたのが、五百の目に留まつた。二十四万二千石の大名の奥の質素なのを、五百は喜んだ。そしてすぐに此家に奉公したいと決心した。奥方は松平上総介斉政の女である。
 此時老女がふと五百の衣類に三葉柏の紋の附いてゐるのを見附けた。

その三十二

 山内家の老女は五百に、どうして御当家の紋と同じ紋を、衣類に附けてゐるかと問うた。
 五百は自分の家が山内氏で、昔から三葉柏の紋を附けてゐると答へた。
 老女は暫く案じてから云った。御用に立ちさうな人と思はれるから、お召抱になるやうに申し立てようと思ふ。しかし其紋は当分御遠慮申すが好からう。由緒のあることであらうから、追ってお許を願ふことも出来ようと云った。
 五百は家に帰つて、父に当分紋を隠して奉公することの可否を相談した。しかし父忠兵衛は即座に反対した。姓名だの紋章だのは、先祖から承けて子孫に伝へる大切なものである。濫に匿したり更めたりすべきものでは無い。そんな事をしなくては出来ぬ奉公なら、せぬが好いと云ったのである。
 五百が山内家をことわつて、次に目見に往つたのが、向柳原の藤堂家の上屋敷であつた。例の考試は首尾好く済んだ。別格を以て重く用ゐても好いと云って、懇望せられたので、諸家を廻り草臥れた五百は、此家に仕へることに極めた。
 五百はすぐに中臈にせられて、殿様附と定まり、同時に奥方祐筆を兼ねた。殿様は伊勢国安濃郡津の城主、三十二万三千九百五十石の藤堂和泉守高猷である。官位は従四位侍従になつてゐた。奥方は藤堂主殿頭高■(たかたけ)の女である。
 此時五百はまだ十五歳であつたから、尋常ならば、女小姓に取らるべきであつた。それが一躍して中臈を贏ち得たのは破格である。女小姓は茶、烟草、手水などの用を弁ずるもので、今云ふ小間使である。中臈は奥方附であると、奥方の身辺に奉仕して、種々の用事を弁ずるものである。幕府の慣例ではそれが転じて将軍附となると、妾になつたと見ても好い。しかし大名の家では奥方に仕へずに殿様に仕へると云ふに過ぎない。祐筆は日記を附けたり、手紙を書いたりする役である。
 五百は呼名を挿頭と附けられた。後に抽斎に嫁することに極まつて、比良野氏の娘分にせられた時、翳の名を以て届けられたのは、これを襲用したのである。さて暫く勤めてゐるうちに、武芸の嗜のあることを人に知られて、男之助と云ふ綽名が附いた。
 藤堂家でも他家と同じやうに、中臈は三室位に分たれた部屋に住んで、女二人を使った。食事は自弁であつた。それに他家では年給三十両内外であるのに、藤堂家では九両であつた。当時の武家奉公をする女は、多く俸銭を得ようと思ってゐたのではない。今の女が女学校に往くやうに、修行をしに往くのである。風儀の好ささうな家を択んで仕へようとした五百なぞには、給料の多寡は初より問ふ所でなかつた。
 修行は金を使ってする業で、金を取る道は修行ではない。五百なぞも屋敷住ひをして、役人に物を献じ、傍輩に饗応し、衣服調度を調へ、下女を使って暮すには、父忠兵衛は年に四百両を費したさうである。給料は三十両貰っても九両貰っても、格別の利害を感ぜなかつた筈である。
 五百は藤堂家で信任せられた。勤仕未だ一年に満たぬのに、天保二年の元日には中臈頭に進められた。中臈頭は只一人しか置かれぬ役で、通例二十四五歳の女が勤める。それを五百は十六歳で勤めることになつた。

その三十三

 五百は藤堂家に十年間奉公した。そして天保十年に二十四歳で、父忠兵衛の病気のために暇を取つた。後に夫となるべき抽斎は五百が本丸にゐた間、尾嶋氏定を妻とし、藤堂家にゐた間、比良野氏威能、岡西氏徳を相踵いで妻としてゐたのである。
 五百の藤堂家を辞した年は、父忠兵衛の歿した年である。しかし奉公を罷めた頃は、忠兵衛はまだ女を呼び寄せる程の病気をしてはゐなかつた。暇を取つたのは、忠兵衛が女を旅に出すことを好まなかつたためである。此年に藤堂高猷夫妻は伊勢参宮をすることになつてゐて五百は供の中に加へられてゐた。忠兵衛は高猷の江戸を立つに先つて五百を家に還らしめたのである。
 五百の帰つた紺屋町の家には、父忠兵衛の外、当時五十歳の忠兵衛妾牧、二十八歳の兄栄次郎がゐた。二十五歳の姉安は四年前に阿部家を辞して、横山町の塗物問屋長尾宗右衛門に嫁してゐた。宗右衛門は安がためには、只一つ年上の夫であつた。
 忠兵衛の子がまだ皆幼く、栄次郎六歳、安三歳、五百二歳の時、麹町の紙問屋山一の女で松平摂津守義建の屋敷に奉公したことのある忠兵衛の妻は亡くなつたので、跡には享和三年に十四歳で日野屋へ奉公に来た牧が、妾になつてゐたのである。
 忠兵衛は晩年に、気が弱くなつてゐた。牧は人の上に立つて指図をするやうな女ではなかつた。然るに五百が藤堂家から帰つた時、日野屋では困難な問題が生じて全家が頭を悩ませてゐた。それは五百の兄栄次郎の身の上である。
 栄次郎は初め抽斎に学んでゐたが、尋いで昌平黌に通ふことになつた。安の夫になつた宗右衛門は、同じ学校の諸生仲間で、しかも此二人だけが許多の士人の間に介まつてゐた商家の子であつた。譬へて云つて見れば、今の人が華族でなくて学習院に入つてゐるやうなものである。
 五百が藤堂家に仕へてゐた間に、栄次郎は学校生活に平ならずして、吉原通をしはじめ、相方は山口巴の司と云ふ女であつた。五百が屋敷から下る二年前に、栄次郎は深入をして、とうとう司の身受をすると云ふことになつたことがある。忠兵衛はこれを聞き知つて、勘当しようとした。しかし救解のために五百が屋敷から来たので、沙汰罷になつた。
 然るに五百が藤堂家を辞して帰つた時、此問題が再燃してゐた。
 栄次郎は妹の力に憑つて勘当を免れ、暫く謹慎して大門を潜らずにゐた。其隙に司を田含大尽が受け出した。栄次郎は欝症になつた。忠兵衛は心弱くも、人に栄次郎を吉原へ連れて往かせた。此時司の禿であつた娘が、浜照と云ふ名で、来月突出になることになつてゐた。栄次郎は浜照の客になつて、前よりも盛な遊をしはじめた。忠兵衛は又勘当すると言ひ出したが、これと同時に病気になつた。栄次郎も流石に驚いて、暫く吉原へ往かずにゐた。これが五百の帰つた時の現状である。
 此時に当つて、将に覆らんとする日野屋の世帯を支持して行かうと云ふものが、新に屋敷奉公を棄てて帰つた五百の外に無かつたことは、想像するに難くはあるまい。姉安は柔和に過ぎて決断なく、其夫宗右衛門は早世した児の家業を襲いでから、酒を欲んで遊んでゐて、自分の産を治することをさへ忘れてゐたのである。

その三十四

 五百は父忠兵衛をいたはり慰め、兄栄次郎を諌め励まして、風浪に弄ばれてゐる日野屋と云ふ船の柁を取つた。そして忠兵衛の異母兄で十人衆を勤めた大孫某を証人に立てゝ、兄をして廃嫡を免れしめた。
 忠兵衛は十二月七日に歿した。日野屋の財産は一旦忠兵衛の意志に依つて五百の名に書き更へられたが、五百は直ちにこれを兄に返した。
 五百は男子と同じやうな教育を受けてゐた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のために新少納言と呼ばれたと云ふ一面がある。同じ頃狩谷エキ斎の女俊に少納言の称があつたので、五百はこれに対へてかく呼ばれたのである。
 五百の師として事へた人には、経学に佐藤一斎、筆札に生方鼎斎、絵画に谷文晁、和歌に前田夏蔭があるさうである。十一二歳の時夙く奉公に出たのであるから、教を受けるには、宿に下る度毎に講釈を聴くとか、手本を貰って習って清書を見せに往くとか、兼題の歌を詠んで直して貰ふとか云ふ稽古の為方であつただらう。
 師匠の中で最も老年であつたのは文晁、次は一斎、次は夏蔭、最も少壮であつたのが鼎斎である。年齢を推算するに、五百の生れた文化十三年には、文晁が五十四、一斎が四十五、夏蔭が二十四、鼎斎が十八になつてゐた。
 文晁は前に云ったとほり、天保十一年に七十八で歿した。五百が十一の時である。一斎は安政六年八月二十四日に八十八で歿した。五百が四十四の時である。夏蔭は元治元年八月二十六日に七十二で歿した。五百が四十九の時である。鼎斎は安政三年正月七日に五十八で歿した。五百が四十一の時である。鼎斎は画家福田半香の村松町の家へ年始の礼に往つて酒に酔ひ、水戸の剣客某と口論をし出して、某の門人に斬られたのである。
 五百は鼎斎を師とした外に、近衛予楽院と橘千蔭との筆跡を臨摸したことがあるさうである。予楽院家煕は元文元年に薨じた。五百の生れる前八十年である。芳宜園千蔭は身分が町奉行与力で、加藤又左衛門と称し、文化五年に歿した。五百の生れる前八年である。
 五百は藤堂家を下つてから五年目に澀江氏に嫁した。穉い時から親しい人を夫にするのではあるが、五百の身に取つては、自分が抽斎に嫁し得ると云ふポツシビリテエの生じたのは、三月に岡西氏徳が亡くなつてから後の事である。常に往来してゐた澀江の家であるから、五百は徳の亡くなつた三月から、自分の嫁して来る十一月までの間にも抽斎を訪うたことがある。未婚男女の交際とか自由結婚とか云ふ問題は、当時の人の夢にだに知らなかつた。立派な教育のある二人が、男は四十歳、女は二十九歳で、多く年を閲した友人関係を棄てゝ、遽に夫婦関係に入つたのである。当時に於いては、醒覚せる二人の間に、此の如く婚約が整ったと云ふことは、絶て無くして僅に有るものと謂つて好からう。
 わたくしは鰥夫になつた抽斎の許へ、五百の訪ひ来た時の緊張したシチユアシヨンを想像する。そして保さんの語つた豊芥子の逸事を憶ひ起して可笑しく思ふ。五百の澀江へ嫁入する前であつた。或日五百が来て抽斎と話をしてゐると、そこへ豊芥子が竹の皮包を持つて来合せた。そして包を開いて抽斎に鮓を薦め、自分も食ひ、五百に是非食へと云った。後に五百は、あの時程困つたことは無いと云ったさうである。

その三十五

 五百は抽斎に嫁するに当つて、比良野文蔵の養女になつた。文蔵の子で目附役になつてゐた貞固は文化九年生で、五百の兄栄次郎と同年であつたから、五百は其妹になつたのである。然るに貞固は姉威能の跡に直る五百だからと云ふので、五百を姉と呼ぶことにした。貞固の通称は祖父と同じ助太郎である。
 文蔵は仮親になるからは、真の親と余り違はぬ情誼がありたいと云つて、澀江氏へ往く三箇月許前に、五百を我家に引き取つた。そして自分の身辺に居らせて、煙草を填めさせ、茶を立てさせ、酒の酌をさせなどした。
 助太郎は武張つた男で、髪を糸鬢に結ひ、黒紬の紋附を着てゐた。そしてもう藍原氏かなと云ふ嫁があつた。初め助太郎とかなとは、まだかなが藍原右衛門の女であつた時、穴隙を鑽つて相見えたために、二人は親々の勘当を受けて、裏店の世帯を持つた。しかしどちらも可哀い子であつたのぞ、間もなくわびが■(かな)つて助太郎は表立つてかなを妻に迎へたのである。
 五百が抽斎に帰いだ時の支度は立派であつた。日野屋の資産は兄栄次郎の遊蕩によつて傾き掛かつてはゐたが、先代忠兵衛が五百に武家奉公をさせるために為向けて置いた首飾、衣服、調度だけでも、人の目を驚かすに足るものがあつた。今の世の人も奉公上りには支度があると云ふ。しかしそれは賜物を謂ふのである。当時の女子はこれに反して、主に親の為向けた物を持つてゐたのである。五年の後に夫が将軍に謁した時、五百は此支度の一部を沽つて、夫の急を救ふことを得た。又これに先つこと一年に、森枳園が江戸に帰つた時も、五百は此支度の他の一部を贈つて、枳園の妻をして面目を保たしめた。枳園の妻は後々までも、衣服を欲するごとに五百に請ふので、お勝さんはわたしの支度を無尽歳だと思ってゐるらしいと云って、五百が歎息したことがある。
 五百の来り嫁した時、抽斎の家族は主人夫婦、長男恒善、長女純、次男優善の五人であつたが、間もなく純は出でて馬場氏の婦となつた。
 弘化二年から嘉永元年までの間、抽斎が四十一歳から四十四歳までの間には、澀江氏の家庭に特筆すべき事が少かつた。五百の生んだ子には、弘化二年十一月二十六日生の三女棠、同三年十月十九日生れの四男幻香、同四年十月八日生れの四女陸がある。四男は死んで生れたので、幻香水子は其法諡である。陸は今の杵屋勝久さんである。嘉永元年十二月二十八日には、長男恒善が二十三歳で月並出仕を命ぜられた。
 五百の里方では、先代忠兵衛が歿してから三年程、栄次郎の忠兵衛は勤慎してゐたが、天保十三年に三十一歳になつた頃から、又吉原へ通ひはじめた。相方は前の浜照であつた。そして忠兵衛は遂に浜照を落籍させて妻にした。尋いで弘化三年十一月二十二日に至つて、忠兵衛は隠居して、日野屋の家督を僅に二歳になつた抽斎の三女巣に相続させ、自分は金座の役人の株を買って、広瀬栄次郎と名告つた。
 五百の姉安を娶つた長尾宗右衛門は、兄の歿した跡を襲いでから、終日手杯が釈かず、塗物問屋の帳場は番頭に任せて顧みなかつた。それを温和に過ぐる性質の安は諌めようともしないので、五百は姉を訪うて此様子を見る度にもどかしく思ったが為方がなかつた。さう云ふ時宗右衛門は五百を相手にして、資治通鑑の中の人物を評しなどして、容易に帰ることを許さない。五百が強ひて帰らうとすると、宗右衛門は安の生んだお敬お銓の二人の女に、をばさんを留めいと云ふ。二人の女は泣いて留める。これはをばの帰つた跡で家が寂しくなるのと、父が不機嫌なるのとを憂へて泣くのである。そこで五百はとう/\帰る機会を失ふのである。五百が此有様を夫に話すと、抽斎は栄次郎の同窓で、妻の姉壻たる宗右衛門の身の上を気遣って、わざ/\横山町へ諭しに往つた。宗右衛門は大いに慙ぢて、稍産業に意を用ゐるやうになつた。

その三十六

 森枳園は大磯で医業が流行するやうになつて、生活に余裕も出来たので、時々江戸へ出た。そして其度毎に一週間位は澀江の家に含ることになつてゐた。枳園の形装は決して曾て夜逃をした土地へ、忍びやかに立ち入る人とは見えなかつた。保さんの記憶してゐる五百の話によるに、枳園はお召縮緬の衣を着て、海老鞘の脇指を差し、歩くに棲を取つて、剥身絞の褌を見せてゐた。若し人がその七代目団十郎を贔屓にするのを知つてゐて、成田屋と声を掛けると、枳園は立ち止まつて見えをしたさうである。そして当時の枳園はもう四十男であつた。尤もお召縮緬を潜たのは、強ち奢侈と見るべきではあるまい。一反二分一朱か二分二朱であつたと云ふから、着ようと思へば着られたのであらうと、保さんが云ふ。
 枳園の来て含る頃に、抽斎の許にろくと云ふ女中がゐた。ろくは五百が藤堂家にゐた時から使ったもので、抽斎に嫁するに及んで、それを連れて来たのである。枳園は来り舎る毎に、此女を追ひ廻してゐたが、とう/\或日逃げる女を捉へようとして大行燈を覆し、畳を油だらけにした。五百は戯に絶交の詩を作つて枳園に贈つた。当時ろくを揶揄ふものは枳園のみでなく、豊芥子も訪ねて来る毎にこれに戯れた。しかしろくは間もなく澀江氏の世話で人に嫁した。
 枳園は又当時纔に二十歳を踰えた抽斎の長男恒善の、所謂おとなし過ぎるのを見て、度々吉原へ連れて往かうとした。しかし恒善は聴かなかつた。枳園は意を五百に明かし、母の黙許と云ふを以て恒善を動さうとした。しかし五百は夫が吉原に往くことを罪悪としてゐるのを知つてゐて、恒善を放ち遣ることが出来ない。そこで五百は幾たびか枳園と諭争したさうである。
 枳園が此の如くにして屡江戸に出たのは、遊びに出たのではなかつた。故主の許に帰参しようとも思ひ、又才学を負うた人であるから、首尾好くは幕府の直参にでもならうと思って、機会を窺つてゐたのである。そして澀江の家は其策源地であつた。
 卒に見れば、枳園が阿部家の古巣に帰るのは易く、新に幕府に登庸せられるのは難いやうである。しかし実况にはこれに反するものがあつた。枳園は既に学術を以て名を世間に馳せてゐた。就中本草に精しいと云ふことは人が皆認めてゐた。阿部伊勢守正弘はこれを知らぬではない。しかしその才学のある枳園の軽佻を忌む心が頗る牢かつた。多紀一家殊に■庭は稍これと趣を殊にしてゐて、略此人の短を護して、其長を用ゐようとする抽斎の意に賛同してゐた。
 枳園を帰参させようとして、最も尽力したのは伊沢榛軒、柏軒の兄弟であるが、抽斎も亦福山の公用人服部九十郎、勘定奉行小此木伴七、太田、宇川等に内談し、又小嶋成斎等をして説かしむること数度であつた。しかしいつも藩主の反感に阻げられて事が行はれなかつた。そこで伊沢兄弟と抽斎とは先づ■庭の同情に愬へて幕府の用を勤めさせ、それを規模にして阿部家を説き動さうと決心した。そして終に此手段を以て成功した。
 此期間の末の一年、嘉永元年に至つて枳園は躋寿館の一事業たる千金方校刻を手伝ふべき内命を贏ち得た。そして五月には阿部正弘が枳園の掃藩を許した。

その三十七

 阿部家への帰参が極つて、枳園が家族を纏めて江戸へ来ることになつたので、抽斎はお玉が池の住宅の近所に貸家のあつたのを借りて、敷金を出し家賃を払ひ、応急の器什を買ひ集めてこれを迎へた。枳園だけは病家へ往かなくてはならぬ職業なので、衣類も一通持つてゐたが、家族は身に着けたものしか持つてゐなかつた。枳園の妻勝の事を、五百があれでは素裸と云っても好いと云った位である。五百は髪飾から足袋下駄まで、一切揃へて贈つた。それでも当分のうちは、何か無いものがあると、蔵から物を出すやうに、勝は五百の所へ貰ひに来た。或日これで白縮緬の湯具を六本遣ることになると、五百が云ったことがある。五百がどの位親切に世話をしたか、勝がどの位恬然として世話をさせたかと云ふことが、これによつて想像することが出来る。又枳園に幾多の悪性癖があるに拘らず、抽斎がどの位、其才学を尊重してゐたかと云ふことも、これによつて想像することが出来る。
 枳園が医書彫刻取扱手伝と云ふ名義を以て、躋寿館に召し出されたのは、嘉永元年十月十六日である。
 当時躋寿館で校刻に従事してゐたのは、備急千金要方三十巻三十二冊の宋槧本であつた。是より先き多紀氏は同じ孫思■の千金翼方二十巻十二冊を校刻した。これは元の成宗の大徳十一年梅渓書院の刊本を以て底本としたものである。尋いで手に入つたのが千金要方の宋版である。これは毎巻金沢文庫の印があつて、北条顕時の旧蔵本である。米沢の城主上杉弾正大弼斉憲がこれを幕府に献じた。細に検すれば南宋乾道淳煕中の補刻数葉が交ってゐるが、大体は北宋の旧面日を存してゐる。多紀氏はこれをも私費を以て刻せようとした。然るに幕府はこれを聞いて、官刻を命ずることになつた。そこで影写校勘の任に当らしむるために、三人の手伝が出来た。阿部伊勢守正弘の家来伊沢磐安、黒田豊前守直静の家来堀川舟庵、それから多紀楽真院門人森養竹である。磐安は即ち柏軒で、舟庵は経籍訪古志の跋に見えてゐる堀川済である。舟庵の主黒田直静は上総国久留利の城主で、上屋敷は下谷広小路にあつた。
 任命は若年寄大岡主膳正忠固の差図を以て、館主多紀安良が申し渡し、世話役小嶋春庵、世話役手伝勝本理庵、熊谷弁庵が列座した。安良は即ち暁湖である。
 何故に枳園が■庭の門人として召し出されたかは知らぬが、阿部家への帰参は当時内約のみであつて、まだ表向になつてゐなかつたのでもあらうか。枳園は四十二歳になつてゐた。
 是年八月二十九日に、真志屋五郎作が八十歳で歿した。抽斎は此時三世劇神仙になつたわけである。
 嘉永二年三月七日に、抽斎は召されて登城した。躑躅の間に於て、老中牧野備前守忠雅の口達があつた。年来学業出精に付、序の節目見仰附けらると云ふのである。此月十五日に謁見は済んだ。始て武鑑に載せられる身分になつたのである。
 わたくしの蔵してゐる嘉永二年の武鑑には、目見医師の都に澀江道純の名が載せてあつて、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の武鑑にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が手狭なために、五百の里方山内の家を澀江邸として届け出でたものである。

その三十八

 抽斎の将軍家慶に謁見したのは、世の異数となす所であつた。素より躋寿館に勤仕する医者には、当時奥医師になつてゐた建部内匠頭政醇家来辻元■庵が如く目見の栄に浴する前例はあつたが、抽斎に先つて伊沢榛軒が目見をした時には、藩主阿部正弘が老中になつてゐるので、薦達の早きを致したのだとさへ言はれた。抽斎と同日に目見をした人には、五年前に共に講師に任ぜられた町医坂上玄丈があつた。しかし抽斎は玄丈よりも広く世に知られてゐたので、人が其殊遇を美めて三年前に目見をした松浦壱岐守慮の臣朝川善庵と並称した。善庵は抽斎の謁見に先つこと一月、嘉永二年二月七日に、六十九歳で歿したが、抽斎とも親しく交って、澀江の家の発会には必ず来る老人株の一人であつた。善庵、名は鼎、字は五鼎、実は江戸の儒家片山兼山の子である。兼山の歿した後、妻原氏が江戸の町医朝川黙翁に再嫁した。善庵の姉寿美と兄道昌とは当時の連子で、善庵はまだ母の胎内にゐた、黙翁は老いて病に至つて、福山氏に嫁した寿美を以て、善庵に実を告げさせ、本姓に復することを勧めた。しかし善庵は黙翁の撫育の恩に感じて肯はず、黙翁も亦強ひて言はなかった。善庵は次男格をして片山氏を嗣がしめたが、格は早世した。長男正準は出でて相田氏を冒したので、善庵の跡は次女の壻横山氏■(しん)が襲いだ。
 弘前藩では必ずしも士人を幕府に出すことを喜ばなかつた。抽斎が目見をした時も、同僚にして来り賀するものは一人も無かつた。しかし当時世間一般には目見以上と云ふことが、頗る重きをなしてゐたのである。伊沢榛軒は少しく抽斎に先んじて目見をしたが、阿部家のこれに対する処置には榛軒自己をして喫驚せしむるものがあつた。榛軒は目見の日に本郷丸山の中屋敷から登城した。さて目見を畢つて帰つて、常の如く通用門を入らんとすると、門番が忽ち本門の側に下座した。榛軒は誰を迎へるのかと疑って、四辺を顧たが、別に人影は見えなかつた。そこで始て自分に礼を行ふのだと知つた。次いで常の如く中の口から進まうとすると、玄関の左右に詰衆が平伏してゐるのに気が附いた。榛軒は又驚いた。間もなく阿部家では、榛軒を大目附格に進ましめた。
 目見は此の如く世の人に重視せられる習であつたから、此栄を荷ふものは多くの費用を弁ぜなくてはならなかつた。津軽家では一箇年間に返済すベしと云ふ条件を附して、金三両を貸したが、抽斎は主家の好意を喜びつゝも、殆どこれを何の費に充てようかと思ひ惑った。
 目見をしたものは、先づ盛宴を開くのが例になつてゐた。そしてこれに招くべき賓客の数も略定まつてゐた。然るに抽斎の居宅には多く客を延くべき広間が無いので、新築しなくてはならなかつた。五百の兄忠兵衛が来て、三十両の見積を以て建築に着手した。抽斎は銭穀の事に疎いことを自知してゐたので、商人たる忠兵衛の言ふがまゝに、これに経営を一任した。しかし忠兵衛は大家の若檀那上りで、金を擲つことにこそ長じてゐたが、■(をし)んでこれを使ふことを解せなかつた。工事未だ半ならざるに、費す所は既に百数十両に及んだ。
 平生金銭に無頓着であつた抽斎も、これには頗る当惑して、鋸の音槌の響のする中で、顔色は次第に蒼くなるばかりであつた。五百は初から兄の指図を危みつゝ見てゐたが、此時夫に向って云った。
「わたくしがかう申すと、ひどく出過ぎた口をきくやうではございますが、御一代に幾度と云ふおめでたい事のある中で、金銭の事位で御心配なさるのを、黙つて見てゐることは出来ませぬ。どうぞ費用の事はわたくしにお任せなすつて下さいまし。」
 抽斎は目を■(みは)つた。「お前そんな事を言ふが、何百両と云ふ金を容易に調達せられるものでは無い。お前は何か当があつてさう云ふのか。」
 五百はにつこり笑った。「はい。幾らわたくしが痴でも、当なしには申しませぬ。」

その三十九

 五百は女中に書状を持たせて、程近い質屋へ遣った。即ち市野迷庵の跡の家である。彼の今に至るまで石に彫られずにある松崎慊堂の文に云ふ如く、迷庵は柳原の店で亡くなつた。其跡を襲いだのは松太郎光寿で、それが三右衛門の称をも継承した。迷庵の弟光忠は別に外神田に店を出した。これより後内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが対立してゐて、彼は世三右衛門を称し、此は世市三郎を称した。五百が書状を遣った市野屋は当時弁慶橋にあつて、早くも光寿の子光徳の代になつてゐた。光寿は迷庵の歿後僅に五年にして、天保三年に光徳を家督させた。光徳は小字を徳治郎と云ったが、此時更めて三右衛門を名告つた。外神田の店は此頃まだ迷庵の姪光長の代であつた。
 程なく光徳の店の子代が来た。五百は箪笥長持から二百数十枚の衣類寝具を出して見せて、金を借らんことを求めた。手代は一枚一両の平均を以て貸さうと云った。しかし五百は抗争した末に、遂に三百両を借ることが出来た。
 三百両は建築の費を弁ずるには余ある金であった。しかし目見に伴ふ飲■贈遺一切の費は莫大であったので、五百は終に豊芥子に託して、主なる首飾類を売つてこれに充てた。其状当に行ふべき所を行ふ如くであつたので、抽斎は兎角の意見を其間に挾むことを得なかつた。しかし中心には深くこれを徳とした。
 抽斎の目見をした年の閏四月十五日に、長男恒善は二十四歳で始て勤仕した。八月二十八日に五女癸巳が生れた。当時の家族は主人四十五歳、妻五百三十四歳、長男恒善二十四歳、次男優善十五歳、四女陸三歳、五女癸巳一歳の六人であつた。長女純は馬場氏に嫁し、三女棠は山内氏を襲ぎ、次女よし、三男八三郎、四男幻香は亡くなつてゐたのである。
 嘉永三年には、抽斎が三月十一日に幕府から十五人扶持を受くることとなつた。藩禄等は凡て旧に依るのである。八月晦に、馬場氏に嫁してゐた純が二十歳で歿した。此年抽斎は四十六歳になつた。
 五百の仮親比良野文蔵の歿したのも、同じ年の四月二十二日である。次いで嗣子貞固が目附から留守居に進んだ。津軽家の当時の職制より見れば、所謂独礼の班に加はつたのである。独礼とは式日に藩主に謁するに当つて、単独に進むものを謂ふ。これより下は二人立、三人立等となり、遂に馬廻以下の一統礼に至るのである。
 当時江戸に集ってゐた列藩の留守居は、宛然たるコオル、ヂプロマチツクを形つてゐて、その生活は頗る特色のあるものであつた。そして貞固の如きは、其光明面を体現してゐた人物と謂っても好からう。
 衣類を黒紋附に限つてゐた糸鬢奴の貞固は、素より読書の人ではなかつた。しかし書巻を尊崇して、提挈を其中に求めてゐたことを思へば、留守居中稀有の人物であつたのを知ることが出来る。貞固は留守居に任ぜられた日に、家に帰るとすぐに、折簡して抽斎を請じた。そして容を改めて云った。
「わたくしは今日父の跡を襲いで、留守居役を仰付けられました。今までとは違った心掛がなくてはならぬ役目と存ぜられます。実はそれに用立つお講釈が承はりたさに、御足労を願ひました。あの四方に使して君命を辱めずと云ふことがございましたね。あれを一つお講じ下さいますまいか。」
「先づ何よりもおよろこびを言はんではなるまい。さて講釈の事だがこれは又至極のお思附だ。委細承知しました」と抽斎は快く諾した。

その四十

 抽斎は有合せの道春点の論語を取り出させて、巻三を開いた。そして「子貢問曰、何如斯可謂之士矣」と云ふ所から講じ始めた、固より朱註をば顧みない。都て古義に従って縦説横説した。抽斎は師迷庵の校刻した六朝本の如きは、何時でも毎葉毎行の文字の配置に至るまで、空に憑つて思ひ浮べることが出来たのである。
 貞固は謹んで聴いてゐた。そして抽斎が「子日、噫斗■之人、何足算也」に説き到つたとき、貞固の目はかゞやいた。
 講じ畢つた後、貞固は暫く瞑目沈思してゐたが、徐に起つて仏壇の前に往つて、祖先の位牌の前にぬかづいた。そしてはつきりした声で云った。「わたくしは今日から一命を賭して職務のために尽します。」貞固の目には涙が湛へられてゐた。
 抽斎は此日に比良野の家から帰つて、五百に「比良野は実に立派な侍だ」と云ったさうである。其声は震を帯びてゐたと、後に五百が話した。
 留守居になつてからの貞固は、毎朝日の出ると共に起きた。そして先づ魔を見廻つた。そこには愛馬浜風が繋いであつた。友達がなぜそんなに馬を気に掛けるかと云ふと、馬は生死を共にするものだからと、貞固は答へた。厩から帰ると、盥嗽して仏壇の前に坐した。そして木魚を敲いて誦経した。此間は家人を戒めて何の用事をも取り次がしめなかつた。来客もそのまゝ待たせられることになつてゐた。誦経が畢つて、髪を結はせた。それから朝餉の饌に向った。饌には必ず酒を設けさせた。朝と雖も省かない。■(さかな)には選嫌をしなかつたが、のだ平の蒲鉾を嗜んで、闕かさずに出させた。これは贅沢品で、鰻の丼が二百文、天麩羅蕎麦が三十二文、盛掛が十六文するとき、一板二分二朱であつた。
 朝餉の畢る比には、藩邸で巳の刻の大鼓が鳴る。名高い津軽屋敷の櫓太鼓である。嘗て江戸町奉行かこれを撃つことを禁ぜようとしたが、津軽家が聴ずに、とう/\上屋敷を隅田川の東に徙されたのだと、巷説に言ひ伝へられてゐる。津軽家の上屋敷か神田小川町から本所に徙されたのは、元禄元年で、信政の時代である。貞固は巳の刻の太鼓を聞くと、津軽家の留守居役所に出勤して事務を処理する。次いで登城して諸家の留守居に会ふ。従者は自ら豢(やしな)つてゐる若党草履取の外に、主家から附けられるのである。
 留守居には集会日と云ふものがある。其日には城から会場へ往く。八百善、平清、川長、青柳等の料理屋である。又吉原に会することもある。集会には煩瑣な作法があつた。これを礼儀と謂はんは美に過ぎよう。譬へば筵席の觴政の如く、又西洋学生団のコンマンの如しとも云ふべきであらうか。しかし集会に列するものは、これがために命の取遺をもしなくてはならなかつた。就中厳しく守られてゐたのは新参故参の序次で、故参は新参のために座より起つことなく、新参は必ず故参の前に進んで挨拶しなくてはならなかつた。
 津軽家では留守居の年俸を三百石とし、別に一箇月の交際費十八両を給した。比良野は百石取ゆゑ、これに二百石を補足せられたのである。五百の覚書に拠るに、三百石十人扶持の澀江の月割が五両一分、二百石八人扶持の矢嶋の月割が三両三分であつた。矢嶋は後に抽斎の二子優善が養子に往つた家の名である。これに由つて観れば、貞固の月収は五両一分に十八両を加へた二十三両一分と見て大いなる差違は無からう。然るに貞固は少くも月に交際費百両を要した。しかもそれは平常の費である。吉原に火災があると、貞固は妓楼佐野鎚へ、百両に熨斗を附けて持たせて遣らなくてはならなかつた。又相方黛のむしんをも、折々は聴いて遣らなくてはならなかつた。或る年の暮に、貞固が五百に私語したことがある。「姉えさん、察して下さい。正月が来るのに、わたしは実は褌一本買ふ銭も無い。」
つづく
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