渋江抽斎

その二十一

 岡本况斎、名は保孝、通称は初め勘有衛門、後縫殿助であつた。拙誠堂の別号がある。幕府の儒員に列せられた。荀子、韓非子、淮南子等の考証を作り、旁国典にも通じてゐた。明治十一年四月までながらへて、八十二歳で歿した。寛政九年の生で、抽斎の生れた文化二年には僅に九歳になつてゐた筈である。
 海保漁村、名は元備、字は純卿、又名は紀之、字は春農とも云った。通称は章之助、伝経廬の別号がある。寛政十年に上総国武射郡北清水村に生れた。老年に及んで経を躋寿館に講ずることになつた。慶応二年九月十八日に、六十九歳で歿した人である。抽斎の生れた文化二年には八歳だから、郷里にあつて、父恭斎に句読を授けられてゐたのである。
 即ち学者の先輩は艮斎が二十一、成斎が十、況斎が九つ、漁村が八つになつた時、抽斎は生れたことになる。
 次に医者の年長者には先づ多紀の本家、末家を数へる。本家では桂山、名は簡、字は廉夫が、抽斎の生れた文化二年には五十一歳、其子柳■、名は胤、字は奕禧が十七歳、末家では■庭(さいてい)、名は堅、字は亦柔が十一歳になつてゐた。桂山は文化七年十二月二日に五十六歳で歿し、柳■(りうはん)は文政十年六月三日に三十九歳で殿し、■庭(さいてい)は安政四年二月十四日に六十三歳で歿したのである。
 此中抽斎の最も親しくなつたのは■庭(さいてい)である。それから師伊沢蘭軒の長男榛軒も略同じ親しさの友となつた。榛軒、通称は長安、後一安と改めた。文化元年に生れて、抽斎には只一つの年上である。榛軒は嘉永五年十一月十七日に、四十九歳で歿した。
 年上の友となるべき医者は、抽斎の生れた時十一歳であつた■庭(さいてい)と、二歳であつた榛軒とであつたと云っても好い。
 次は芸術家及芸術批評家である。芸術家としてこゝに挙ぐべきものは谷文晁一人に過ぎない。文晁、本文朝に作る、通称は文五郎、薙髪して文阿弥と云った。写山楼、画挙斎、其他の号は人の皆知る所である。初め狩野派の加藤文麗を師とし、後北山寒巌に従学して別に機軸を出した。天保十一年十二月十四日に、七十八歳で歿したのだから、抽斎の生れた文化二年には四十三歳になつてゐた。二人年歯の懸隔は、概ね迷庵に於けると同じく、抽斎は画をも少しく学んだから、此人は抽斎の師の中に列する方が妥当であつたかも知れない。
 わたくしはこゝに真志屋五郎作と石塚重兵衛とを数へんがために、芸術批評家の目を立てた。二人は皆劇通であつたから、此の如くに名づけたのである。或はおもふに、批評家と云はんよりは、寧アマトヨオルと云ふべきであつたかも知れない。
 抽斎が後劇を愛するに至つたのは、当時の人の眼より観れば、一の癖好であつた。だうらくであつた。啻に当時に於いて然るのみではない。是の如くに物を観る眼は、今も猶教育家等の間に、前代の遺物として伝へられてゐる。わたくしは嘗て歴史の教科書に、近松、竹田の脚本、馬琴、京伝の小説か出て、風俗の頽敗を致したと書いてあるのを見た。
 しかし詩の変体としてこれを視れば、脚本、小説の価値も認めずには置かれず、脚本に縁つて演じ出す劇も、高級芸術として尊重しなくてはならなくなる。わたくしが抽斎の心胸を開発して、劇の趣味を解するに至らしめた人々に敬意を表して、これを学者、医者、画家の次に数へるのは、好む所に阿るのでは無い。

その二十二

 真志屋五郎作は神田新石町の菓子商であつた。水戸家の賄方を勤めた家で、或時代から故あつて世禄三百俵を給せられてゐた。巻説には水戸侯と血縁があるなどと云ったさうであるが、どうしてそんな説が流布せられたものか、今考へることが出来ない。わたくしは只風采が好かつたと云ふことを知つてゐるのみである。保さんの母五百の話に、五郎作は苦昧走つた好い男であつたと云ふことであつた。菓子商、用達の外、此人は幕府の連歌師の執筆をも勤めてゐた。
 五郎作は実家が江間氏で、一時長嶋氏を冒し、真志屋の西村氏を襲ぐに至つた。名は秋邦、字は得入、空華、月所、如是縁庵等と号した。平生用ゐた華押は邦の字であつた。剃髪して五郎作新発智東陽院寿阿弥陀仏曇奝と称した。曇奝(どんてう)とは好劇家たる五郎作が、音の似通った劇場の緞帳と、入宋僧奝然の名などとを配合して作つた戯号ではなからうか。
 五郎作は劇神仙の号を宝田寿莱に承けて、後にこれを抽斎に伝へた人ださうである。
 宝田寿莱、通称は金之助、一に閑雅と号した。作者店おろしと云ふ書に、宝田とはもと神田より出でたる名と書いてあるのを見れば、真の氏ではなかつたであらう。浄瑠璃関の戸は此人の作ださうである。寛政六年八月に、五十七歳で歿した。五郎作が二十六歳の時で、抽斎の生れる十一年前である。これが初代劇神仙である。
 五郎作は歿年から推算するに、明和六年の生で、抽斎の生れた文化二年には三十七歳になつてゐた。抽斎から見ての長幼の関係は、師迷庵や文晁に於けると大差は無い。嘉永元年八月二十九日に、八十歳で歿したのだから、抽斎が此二世劇神仙の後を襲いで三世劇神仙となつたのは、四十四歳の時である。初め五郎作は抽斎の父允成と親しく交つてゐたが、允成は五郎作に先つこと十一年にして歿した。
 五郎作は独り劇を看ることを好んだばかりではなく、舞台のために製作をしたこともある。四世彦三郎を贔屓にして、所作事を書いて遣ったと、自分で云ってゐる。レシタシヨンが上手であつたことは、同情の無い喜多村■庭(きたむらゐんてい)が、台帳を読むのが寿阿弥の唯一の長技だと云ったのを見ても察せられる。
 五郎作は奇行はあつたが、生得酒を嗜まず、常に養性に意を用ゐてゐた。文政十年七月の末に、姪の家の板の聞から墜ちて怪我をして、当時流行した接骨家元大坂町の名倉弥次呉衛に診察して貰ふと、名倉がかう云ったさうである、お前さんは下戸で、戒行が堅固で、気が強い、それでこれ程の怪我をしたのに、目を廻さずに済んだ。此三つが一つ闕けてゐたら、目を廻しただらう。目を廻したのだと、療治に二百日余掛かるが、これは百五六十日でなほるだらうと云つたさうである。戒行とは剃髪した後だから云ったものと見える。怪我は両臂を傷めたので骨には障らなかつたが痛が久しく息まなかつた。五郎作は十二月の末まで名倉へ通ったが、臂の痺だけば跡に貽つた。五十九歳の時の事である。
 五郎作は文章を善くした。繊細の事を叙するに簡浄の筆を以てした。技倆の上から言へば、必ずしも馬琴、京伝に譲らなかつた。只小説を書かなかつたので、世の人に知られぬのである。これはわたくし自身の判断である。わたくしは大正四年の十二月に、五郎作の長文の手紙が売に出たと聞いて、大晦日に築地の弘文堂へ買ひに往つた、手紙は罫紙十二枚に細字で書いたものである。文政十一年二月十九日に書いたと云ふことが、記事に拠つて明かに考へられる。こゝに書いた五郎作の性行も、半は材料を此簡牘に取つたものである。宛名の■堂(ひつだう)は桑原氏、名は正瑞、字は公圭、通称を古作と云った。駿河国嶋田駅の素封家で、詩及書を善くした。玄孫喜代平さんは嶋田駅の北半里許の伝心寺に住んでゐる。五郎作の能文は此手紙一つに徴して知ることが出来るのである。

その二十三

 わたくしの獲た五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。臂を傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「研ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは余り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自ら居るわけではないが、これを蜀山等の作に比するに、遜色あるを見ない。■庭(ゐんてい) は五郎作に文学の才が無いと思ったらしく、歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を読むやうなる仮名書して終れりと云ってゐるが、此の如きは決して公論では無い。■庭(ゐんてい)は素漫罵の癖がある。五郎作と同年に歿した喜多静廬を評して、性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めりと云ってゐる。風流をどんな事と心得てゐたか。わたくしは強ひて静廬を回護するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの芸術諭に詩的と云ふ語の悪解釈を挙げて、口を極めて嘲罵してゐるのを想ひ起した。わたくしの敬愛する所の抽斎は、角兵衛獅子を観ることを好んで、奈何なる用事をも擱いて玄関へ見に出たさうである。これが風流である。詩的である。
 五郎作は少い時、山本北山の奚疑塾にゐた。大窪天民は同窓であつたので後に■(いた)るまで親しく交った。上戸の天民は小さい徳利を蔵して持つてゐて酒を飲んだ。北山が塾を見廻つてそれを見附けて、徳利でも小さいのを愛すると、其人物が小さくおもはれると云った。天民がこれを聞いて大樽を塾に持つて来たことがあるさうである。下戸の五郎作は定めて傍から見て笑ってゐたことであらう。
 五郎作は、又博渉家の山崎美成や、画家の喜多可庵と往来してゐた。中にも抽斎より僅に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、疑を質すことにしてゐた。五郎作も珍奇の物は山崎の許へ持つて往つて見せた。
 文政六年四月二十九日の事である。まだ下谷長者町で薬を売つてゐた山崎の家へ、五郎作はわざ/\八百屋お七のふくさといふものを見せに往つた。ふくさば数代前に真志屋へ嫁入した嶋と云ふ女の遺物である。嶋の里方を河内屋半兵衛と云って、真志屋と同じく水戸家の賄方を勤め、三人扶持を給せられてゐた。お七の父八百屋市左衛門は此河内屋の地借であつた。嶋が屋敷奉公に出る時、稚なじみの為七が七寸四方ばかりの緋縮緬のふくさに、紅絹裏を附けて縫ってくれた、間もなく本郷森川宿のお七の家は天和二年十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に情人と相識になつて、翌年の春家に儒つた後、再び情人と相見ようとして放火したのださうである。お七は天和三年三月二十八日に、十六歳で刑せられた。嶋は記念のふくさを愛蔵して、真志屋へ持つて来た。そして祐天上人から受けた名号をそれに裹んでゐた。五郎作は新にふくさの由来を白絹に書いて縫ひ附けさせたので、山崎に持つて来て見せたのである。
 五郎作と相似て、抽斎より長ずること僅に六歳であつた好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年の生で、抽斎の生れた文化二年には七歳になつてゐた。及したのは文久元年十二月十五日で、年を享くること六十三であつた。

その二十四

 石塚重兵衛の祖先は相摸国鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、下谷豊住町に住んだ。世粉商をしてゐるので、芥子屋と人に呼ばれた。真の屋号は鎌倉屋である、
 重兵衛も自ら庭に降り立つて、芥子の臼を踏むことがあつた。そこで豊住町の芥子屋と云ふ意で、自ら豊芥子と署した。そして此を以て世に行はれた。その豊亭と号するのも豊住町に取つたのである。別に集古堂と云ふ号がある。
 重兵衛に女が二人あつて、長女に壻を迎へたが、壻は放蕩をして離別せられた。しかし後に浅草諏訪町の西側の角に移つてから、又其壻を呼び返してゐたさうである。
 重呉衛は文久元年に京都へ往かうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。年は六十三であつた。抽斎の生れた文化二年には、重兵衛は七歳の童であつた筈である。
 重兵衛の子孫はどうなつたかわからない。数年前に大観如電さんが浅草北清嶋町報恩寺内専念寺にある重兵衛の墓に詣でて、忌日に墓に来るものは河竹新七一人だと云ふことを寺僧に聞いた。河竹に其縁故を問うたら、自分が黙阿弥の門人になつたのは、豊芥子の紹介によつたからだと答へたさうである。
 以上抽斎の友で年長者であつたものを数へると、学者に抽斎の生れた年に二十一歳であつた安積艮斎、十歳であつた小嶋成斎、九歳であつた岡本況斎、八歳であつた海保漁村がある。医者に当時十一歳であつた多紀■庭(たきさいてい)、二歳であつた伊沢榛軒がある。其他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であつた。
 抽斎が始て市野迷庵の門に入つたのは文化六年で、師は四十八歳、弟子は五歳であつた。次いで文化十一年に医学を修めんがために、伊沢蘭軒に師事した。師が三十九歳、弟子が十歳の時である。父允成は経芸文章を教へることにも、家業の医学を授けることにも、頗る早く意を用ゐたのである。想ふに後に師とすべき狩谷エキ斎とは、家庭でも会ひ、師迷庵の許でも会って、幼い時から親しくなつてゐたであらう。又後に莫逆の友となつた小嶋成斎も、夙く市野の家で抽斎と同門の好を結んだことであらう。抽斎がいつ池田京水の門を敲いたかと云ふことは今考へることが出来ぬが、恐らくはこれより後の事であらう。
 文化十一年十二月二十八日、抽斎は始て藩主津軽寧親に謁した。寧親は五十歳、抽斎の父允成は五十一歳、抽斎自己は十歳の時である。想ふに謁見の場所は本所二つ目の上屋敷であつただらう。謁見即ち目見は抽斎が弘前の士人として受けた礼遇の始で、これから月並出仕を命ぜられるまでには七年立ち、番入を命ぜられ、家督相続をするまでには八年立つてゐる、
 抽斎が迷庵門人となつてから四年日、文化十四年に記念すべき事があつた。それは抽斎と森枳園とが交を訂した事である。枳園は後年これを弟子入と称してゐた。文化四年十一月生の枳園は十一歳になつてゐたから、十三歳の抽斎が十一歳の枳園を弟子に取つたことになる。
 森枳園、名は立之、字は立夫、初め伊織、中ごろ養真、後養竹と称した。維新後には立之を以て行はれてゐた。父名は恭忠、通称は同じく養竹であつた。恭忠は備後国橿山の城主阿部伊勢守正倫、同備中守正精の二代に仕へた。その男枳園を挙げたのは、北八町堀竹嶋町に住んでゐた時である。後経籍訪古志に連署すべき二人は、こゝに始て手を握つたのである。因に云ふが、枳園は革独に弟子入をしたのではなくて、同じく十一歳であつた、弘前の医官小野道瑛の子道秀も袂を聯ねて入門した。

その二十五

 抽斎の家督相続は文政五年八月朔を以て沙汰せられた。是より先き四年十月朔に、抽斎は月並出仕仰附けられ、五年二月二十八日に、御番見習、表医者仰附けられ、即日見習の席に着き、三月朔に本番に入つた。家督相続の年には、抽斎が十八歳で、隠居した父允成が五十九歳であつた。抽斎は相続後直ちに一粒金丹製法の伝授を受けた。これは八月十五日の日附を以てせられた。
 抽斎の相続したと同じ年同じ月の二十九日に、相馬大作が江戸小塚原で刑せられた。わたくしはこの偶然の符合のために、こゝに相馬大作の事を説かうとするのではない。しかし事の序に言つて置きたい事がある、大作は津軽家の祖先が南部家の臣であつたと思ってゐた。そこで文化二年以来津軽家の漸く栄え行くのに平ならず、寧親の入国の時、途に要撃しようとして、出羽国秋田領白沢宿まで出向いた。然るに寧親はこれを知って道を変へて帰つた。大作は事露れて捕へられたと云ふことである。
 津軽家の祖先が南部家の被官であつたと云ふことは、内藤恥叟も徳川十五代史に書いてゐる。しかし郷土史に精しい外崎覚さんは、嘗て内藤に書を寄せて、此説の誤を匡さうとした。
 初め津軽家と南部家とは対等の家柄であつた。然るに津軽家は秀信の世に勢を失って、南部家の後見を受けることになり、後元信、光信父子は人質として南部家に往つてゐたことさへある。しかし津軽家が南部家に仕へたことは未だ曾て聞かない。光信は彼の澀江辰盛を召し抱へた信政の六世の祖である。津軽家の隆興は南部家に怨を結ぶ筈がない。この雪冤の文を作つた外崎さんが、わたくしの澀江氏の子孫を捜し出す媒をしたのだから、わたくしは只これだけの事をこゝに記して置く。
 家督相続の翌年、文政六年十二月二十三日に、抽斎は十九歳で、始て妻を娶った。妻は下総国佐倉の城主堀田相摸守正愛家来大目附百石岩田十大夫女百合として願済になつたが、実は下野国阿蘇郡佐野の浪人尾嶋忠助女定である。此人は抽斎の父允成が、子婦には貧家に成長して辛酸を嘗めた女を迎へたいと云って選んだものださうである。夫婦の齢は抽斎が十九歳、定が十七歳であつた。
 此年に森枳園は、これまで抽斎の弟子、即ち伊沢蘭軒の孫弟子であつたのに、去つて直ちに蘭軒に従学することになつた。当時西語に所謂シニツクで奇癖が多く、朝夕好んで俳優の身振声色を使ふ枳園の同窓に、今一人塩田楊庵と云ふ奇人があつた。素越後新潟の人で、抽斎と伊沢蘭軒との世話で、宗対馬守義質の臣塩田氏の女婿となつた。塩田は散歩するに友を誘はぬので、友が密に跡に附いて行って見ると、竹の杖を指の腹に立てて、本郷追分の辺を徘徊してゐたさうである。伊沢の門下で枳園楊庵の二人は一双の奇癖家として遇せられてゐた。声色遣も軽業師も、共に十七歳の諸生であつた。
 抽斎の母縫は、子婦を迎へてから半年立つて、文政七年七月朔に剃髪して寿松と称した。
 翌文政八年三月晦には、当時抽斎の住んでゐた元柳原町六丁目の家が半燒になつた。此年津軽家には代替があつた。寧親が致仕して、大隅守信順が封を襲いだのである。時に信順は二十六歳、即ち抽斎より長ずること五歳であつた。
 次の文政九年は抽斎が種々の事に遭逢した年である。先づ六月二十八日に姉須磨か二十五歳で亡くなつた。それから八月十四日に、師市野迷庵が六十二歳で歿した。最後に十二月五日に、嫡子恒善が生れた。
 須磨は前に云った通、飯田良清と云ふものの妻になつてゐたが、此良清は抽斎の父允成の実父稲垣清蔵の孫である。清蔵の子が大矢清兵衛、清兵衛の子が飯田良清である。須磨の夫が飯田氏を冒したのは、幕府の家人株を買ったのであるから、夫の父が大矢氏を冒したのも、恐らくは株として買ったのであらう。
 迷庵の死は抽斎をして狩谷エキ斎に師事せしむる動機をなしたらしいから、抽斎がエキ斎の門に入つたのも、此頃の事であつただらう。迷庵の跡は子光寿が襲いだ。

その二十六

 文政十二年も亦抽斎のために事多き年であつた。三月十七日には師伊沢蘭軒が五十三歳で歿した。二十八日には抽斎が近習医者介を仰附けられた。六月十四日には母寿松が五十五歳で亡くなつた。十一月十一日には妻定が離別せられた。十二月十五日には二人目の妻同藩留守居役百石比良野文蔵の女威能が二十四歳で来り嫁した。抽斎は此年二十五歳であつた。
 わたくしはこゝに抽斎の師伊沢氏の事、それから前後の配偶定と威能との事を附け加へたい。亡くなつた母に就いては別に言ふべき事が無い。
 抽斎と伊沢氏との交は、蘭軒の及した後も、少しも衰へなかつた。蘭軒の嫡子榛軒が抽斎の親しい友で、抽斎より長ずること一歳であつたことは前に言った。榛軒の弟柏軒、通称磐安は文化七年に生れた。怙を喪った時、兄は二十六歳、弟は二十歳であつた。抽斎は柏軒を愛して、己の弟の如くに待遇した。柏軒は狩谷エキ斎の女俊を娶つた。其長男が磐、次男が今の歯科医信平さんである。
 抽斎の最初の妻定が離別せられたのは何故か詳にすることが出来ない。しかし澀江の家で、貧家の女なら、かう云ふ性質を具へてゐるだらうと予期してゐた性質を、定は不幸にして具へてゐなかつたかも知れない。
 定に代つて澀江の家に来た抽斎の二人目の妻威能は、世要職に居る比良野氏の当主文蔵を父に持つてゐた。貧家の女に懲りて迎へた子婦であらう。そして此子婦は短命ではあつたが、夫の家では人々に悦ばれてゐたらしい。何故さう云ふかと云ふに、後威能が亡くなり、次の三人目の妻が又亡くなつて、四人目の妻が商家から迎へられる時、威能の父文蔵は喜んで仮親になつたからである。澀江氏と比良野氏との交誼が、後に至るまで此の如くに久しく渝らずにゐたのを見ても、婦壻の間にヂソナンスの無かつたことが思ひ遣られる。
 比良野氏は武士気質の家であつた。文蔵の父、威能の祖父であつた助太郎貞彦は文事と武備とを併せ有した豪傑の士である。外浜又嶺雪と号し、安永五年に江戸藩邸の教授に挙げられた。画を善くして、外浜画巻及善知鳥画軸がある。剣術は群を抜いてゐた。壮年の頃村正作の刀を佩びて、本所割下水から大川端辺までの間を彷徨して辻斬をした。千人斬らうと思ひ立つたのださうである。抽斎は此事を聞くに及んで、歎息して已まなかつた。そして自分は医薬を以て千人を救はうと云ふ願を発した。
 天保二年、抽斎が二十七歳の時、八月六日に長女純が生れ、十月二日に妻威能が歿した。年は二十六で、帰(とつ)いでから僅に三年目である。十二月四日に、備後国福山の城主阿部伊予守正寧の医官岡西栄玄の女徳が抽斎に嫁した。是年八月十五日に、抽斎の父允成は隠居料三人扶持を腸はつた。これは従来寧親信順二公にかはる%\勤仕してゐたのに、六月からは兼て岩城隆喜の室、信順の姉もと姫に、又八月からは信順の室欽姫に伺候することになつたからであらう。
 此時抽斎の家族は父允成、妻岡西氏徳、尾嶋氏出の嫡子恒善、比良野氏出の長女純の四人となつてゐた。抽斎が三人目の妻徳を娶るに至つたのは、徳の兄岡西玄亭が抽斎と同じく蘭軒の門下に居つて、共に文字の交を訂してゐたからである。
 天保四年四月六日に、抽斎は藩主信順に随つて江戸を発し、姶めて弘前に往つた。江戸に還つたのは、翌五年十一月十五日である。此留守に前藩主寧親は六十九歳で卒した。抽斎の父允成が四月朔に二人扶持の加増を受けて、隠居料五人扶持にせられたのは、特に寧親に侍せしめられたためであらう。これは抽斎が二十九歳から三十歳に至る間の事である。
 抽斎の友森枳園が佐々木氏勝を娶つて、始めて家庭を作つたのも天保四年で、抽斎が弘前に往つた時である。是より先枳園は文政四年に怙を喪って、十五歳で形式的の家督相続をした。蘭軒に従学する前二年の事である。

その二十七

 天保六年閏七月四日に、抽斎は師狩谷エキ斎を喪なつた。六十一歳で亡くなつたのである。十一月五日に、次男優善が生れた。後に名を優と改めた人である。此年抽斎は三十一歳になつた。
 エキ斎の後は懐之、字は少卿、通称は三平が嗣いだ。抽斎の家族は父允成、妻徳、嫡男恒善、長女純、次男優善の五人になつた。
 同じ年に森枳園の家でも嫡子養真が生れた。
 天保七年三月二十一日に、抽斎は近習詰に進んだ。これまでは近習格であつたのである。十一月十四日に、師池田京水が五十一歳で歿した。此年抽斎は三十二歳になつた。
 京水には二人の男子があつた。長を瑞長と云って、これが家業を襲いだ。次を全安と云って、伊沢家の女壻になつた。榛軒の女かえに配せられたのである。後に全安は自立して本郷弓町に住んだ。
 天保八年正月十五日に、抽斎の長子恒善が始て藩主信順に謁した。年甫て十二である。七月十二日に、抽斎は信順に随つて弘前に往つた。十月二十六日に、父允成が七十四歳で歿した。此年抽斎は三十三歳になつた。
 初め抽斎は酒を飲まなかつた。然るに此年藩主が所謂詰越をすることになつた。例に依つて翌年江戸に帰らずに、二冬を弘前で過すことになつたのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、豕の子を取り寄せて飼養(岩波文庫では「飼育」)しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んで悶を遣った。抽斎が酒を飲み、獣肉を■(くら)ふやうになつたのは此時が始である。
 しかし抽斎は生涯煙草だけば喫まずにしまつた。允成の直系卑属は今の保さんなどに至るまで、一人も煙草を喫まぬのださうである。但し抽斎の次男優善は破格であつた。
 抽斎のまだ江戸を発せぬ前の事である。徒士町の池田の家で、当主瑞長が父京水の例に倣つて、春の初に発会式と云ふことをした。京水は毎年これを催して、門人を集へたのであつた。然るに今年抽斎が往つて見ると、名は発会式と称しながら、趣は全く前日に異つてゐて、京水時代の静粛は痕だに留めなかつた。芸者が来て酌をしてゐる。森枳園が声色を使ってゐる。抽斎は暫く黙して一座の光景を視てゐたが遂に容を改めて主客の非礼を貴めた。瑞長は大いに差ぢて、すぐに芸者に暇を遣ったさうである。
 引き続いて二月に、森枳園の家に奇怪な事件が生じた。枳園は阿部家を逐はれて、祖母、母、妻勝、生れて三歳の倅養真の四人を伴って夜逃をしたのである。後に枳園の自ら撰んだ寿蔵碑には「有故失禄」と書してあるが、その故は何かと云ふと、実に悲惨でもあり、又滑稽でもあつた。
 枳園は好劇家であつた。単に好劇と云ふだけなら、抽斎も同じ事である。しかし抽斎は俳優の技を、観棚から望み見て楽むに過ぎない。枳園は自ら其科白を学んだ。科白を学んで足らず、遂に舞台に登つて■子(つけ)を撃つた。後には所謂相中の間に混じて、並大名などに扮し、又注進などの役をも勤めた。
 或日阿部家の女中が宿に下つて芝居を看に往くと、ふと登場してゐる俳優の一人が養竹さんに似てゐるのに気が附いた。さう思って、と見かう見するうちに、女中はそれが養竹さんに相違ないと極めた。そして邸に帰つてから、これを傍輩に語つた。固より一の可笑しい事として語つたので、初より枳園に危害を及ばさうとは思はなかつたのである。
 さて此奇談が阿部邸の奥表に伝播して見ると、上役はこれを棄て置かれぬ事と認めた。そこでいよく君侯に稟して禄を褫ふと云ふことになつてしまつた。

その二十八

 枳園は俳優に伍して登揚した罪によつて、阿部家の禄を失って、永の暇になつた。後に抽斎の四人目の妻となるべき山内氏五百の姉は、阿部家の奥に仕へて、名を金吾と呼ばれ、枳園をも識つてゐたが、事件の起る三四年前に暇を取つたので、当時の阿部家に於ける細かい事情を知らなかつた。
 永の暇になるまでには、相応に評議もあつたことであらう。友人の中には、枳園を救はうとした人もあつたことであらう。しかし枳園は平生細節に拘らぬ人なので、諸方面に対して、世に謂ふ不義理が重なつてゐた。中にも一二件の筆紙に上すべからざるものもある。救はうとした人も、此等の障礙のために、其志を遂げることが出来なかつたらしい。
 枳園は江戸で暫く浪人生活をしてゐたが、とう/\負債のために、家族を引き連れて夜逃をした。恐らくはこの最後の策に出づることをば、抽斎にも打明けなかつただらう。それは面目が無かつたからである。■矩(けつく)の道を紳に書してゐた抽斎をさへ、度々忍び難き目に逢はせてゐたからである。
 枳園は相摸国をさして逃げた。これは当時三十一歳であった枳園には、もう幾人かの門人があつて、其中に相摸の人がゐたのをたよつて逃げたのである。此落魄中の精しい経歴は、わたくしにはわからない。桂川詩集、遊相医話などと云ふ、当時の著述を見たらわかるかも知れぬが、わたくしはまだ見るに及ばない。寿蔵碑には、浦貿、大磯、大山、日向、津久井県の地名が挙げてある。大山は今の大山町、日向は今の高部屋村で、どちらも大磯と同じ中郡である。津久井県は今の津久井郡で相摸川がこれを貫流してゐる。桂川は此川の上流である。
 後に枳園の語つた所によると、江戸を立つ時、懐中には僅に八百文の銭があつたのださうである。此銭は箱根の湯本に着くと、もう遣ひ尽してゐた。そこで枳園はとりあへず按摩をした。上下十六文の■銭(しよせん) を獲るも、猶已むにまさつたのである。啻に按摩のみではない。枳園は手当り次第になんでもした。「無論内外二科、或為収生、或為整骨、至于牛馬鷄狗之疾、来乞治者、莫不施術」と、自記の文に云ってある。収生はとりあげである。整骨は骨つぎである。獣医の縄張内にも立ち入つた。医者の歯を治療するのをだに拒まうとする今の人には、想像することも出来ぬ事である。
 老いたる祖母は浦賀で困厄の間に歿した。それでも跡に母と妻と子とがある。自己を併せて四人の口を、此の如き手段で糊しなくてはならなかつた。しかし枳園の性格から推せば、此間に処して意気沮喪することもなく、猶幾分のボンヌ、ユミヨオルを保有してゐたであらう。
 枳園はやう/\大磯に落ち着いた。門人が名主をしてゐて、枳園を江戸の大先生として吹聴し、こゝに開業の運に至つたのである。幾ばくもなくして病家の数が殖えた。金帛を以て謝することの出来ぬものも、米穀菜蔬を輸つて庖厨を賑した。後には遠方から轎を以て迎へられることもある。馬を以て講ぜられることもある。枳園は大磯を根拠地として、中、三浦両郡の間を往来し、こゝに足掛十二年の月日を過すこととなつた。
 抽斎は天保九年の春を弘前に迎へた。例の宿直日記に、正月十三日忌明と書してある。父の喪が果てたのである。続いて第二の冬をも弘前で過して、翌天保十年に、抽斎は藩主信順に随つて江戸に帰つた。三十五歳になつた年である。
 是年五月十五日に、津軽家に代替があつた。信順は四十歳で致仕して柳嶋の下屋敷に遷り、同じ齢の順承が小津軽から入つて封を襲いだ。信順は頗る華美を好み、動もすれば夜宴を催しなどして、財攻の窮迫を馴致し、遂に引退したのださうである。
 抽斎はこれから隠居信順附にせられて、平日は柳嶋の館に勤仕し、只折々上屋敷に伺候した。

その二十九

 天保十一年は十二月十四日に谷文晁の歿した年である。文晁は抽斎が師友を以て遇してゐた年長者で、抽斎は平素画を鑑賞することに就ては、なにくれとなく教を乞ひ、又古器物や本艸の参考に供すべき動植物を図するために、筆の使方、顔料の解方などを指図して貰った。それが前年に七十七の賀宴を両国の万八楼で催したのを名残にして、今年亡人の数に入つたのである。跡は文化九年生で二十九歳になる文二が嗣いだ。文二の外に六人の子を生んだ文晁の後妻阿佐は、もう五年前に夫に先つて死んでゐたのである。此年抽斎は三十六歳であつた。
 天保十二年には、岡西氏徳が二女好を生んだが、好は早世した。閏正月二十六日に生れ、二月三日に死んだのである。翌十三年には、三男八三郎が生れたが、これも夭折した。八月三日に生れ、十一月九日に死んだのである。抽斎が三十七歳から三十八歳になるまでの事である。わたくしは抽斎の事を叙する初に於て、天保十二年の暮の作と認むべき抽斎の述志の詩を挙げて、当時の澀江氏の家族を数へたが、倏ち来り倏ち去つた女好の名は見はすことが出来なかつた。
 天保十四年六月十五日に、抽斎は近習に進められた。三十九歳の時である。
 是年に躋寿館で書を講じて、陪臣町医に来聴せしむる例が開かれた。それが十月で、翌十一月に始て新に講師が任用せられた。初館には都講、教授があつて、生徒に授業してゐたに過ぎない。一時多紀藍渓時代に百日課の制を布いて、医学も経学も科を分つて、百日を限つて講じたことがある。今謂ふクルズスである。しかしそれも生徒に聴かせたのである。百日課は四年間で罷んだ。講師を置いて、陪臣町医の来聴を許すことになつたのは、此時が始である。五箇月の後、幕府が抽斎を起たしむることとなつたのは、此制度あるがためである。
 弘化元年は抽斎のために、一大転機を齎した。社会に於いては幕府の直参になり、家庭に於いては岡西氏徳のみまかつた跡へ、始て才色兼ね備はつた妻が迎へられたのである。
 此一年間の出来事を順次に数へると、先づ二月二十一日に妻徳が亡くなつた。三月十二日に老中土井大炊頭利位を以て、抽斎に躋寿館講師を命ぜられた。四月二十九日に定期登城を命ぜられた。年始、八朔、五節句、月並の礼に江戸城に往くことになつたのである。十一月六日に神田紺屋町鉄物問屋山内忠兵衛妹五百が来り嫁した。表向は弘前藩目附役百石比良野助太郎妹翳として届けられた。十二月十日に幕府から白銀五枚を賜はつた。これは以下恒例になつてゐるから必ずしも書かない。同月二十六日に長女純が幕臣馬場玄玖に嫁した。時に年十六である。
 抽斎の岡西氏徳を娶つたのは、其兄玄亭が相貌も才学も人に優れてゐるのを見て、此人の妹ならと思ったからである。然るに伉儷をなしてから見ると、才貌共に予期したやうではなかつた。それだけならばまだ好かつたが、徳は兄には似ないで、却つて父栄玄の褊狭な気質を受け継いでゐた。そしてこれが抽斎にアンチバチイを起させた。
 最初の妻定は貧家の女の具へてゐさうな美徳を具へてゐなかつたらしく、抽斎の父允成が或時、己の考が悪かつたと云って歎息したこともあるさうだが、抽斎はそれ程厭とは思はなかつた。二人目の妻威能は怜悧で、人を使ふ才があつた。兎に角抽斎に始てアンチパチイを起させたのは、三人目の徳であつた。

その三十

 克己を忘れたことのない抽斎は、徳を叱り懲らすことは無かつた。それのみでは無い。あらはに不快の色を見せもしなかつた。しかし結婚してから一年半ばかりの間、これに親近せずにゐた。そして弘前へ立つた。初度の旅行の時の事である。
 さて抽斎が弘前にゐる間、江戸の便がある毎に、必ず長文の手紙が徳から来た。留守中の出来事を、殆ど日記のやうに悉く書いたのである。抽斎は初め数行を読んで、直ちに此書信が徳の自力によつて成つたものでないことを知つた。文章の背面に父允成の気質が歴々として見えてゐたからである。
 允成は抽斎の徳に親まぬのを見て、前途のために危んでゐたので、抽斎が旅に立つと、すぐに徳に日課を授けはじめた。手本を与へて手習をさせる。日記を附けさせる。そしてそれに本づいて文案を作つて徳に筆を把らせ、家内の事は細大となく夫に報ぜさせることにしたのである。
 抽斎は江戸の手紙を得る毎に泣いた。妻のために泣いたのでは無い父のために泣いたのである。
 二年近い旅から帰つて、抽斎は勉めて徳に親んで、父の心を安ぜようとした。それから二年立つて優善が生れた。
 尋いで抽斎は再び弘前へ往つて、足掛三年淹留した。留守に父の亡くなつた旅である。それから江戸に帰つて、中一年置いて好が生れ、其翌年又八三郎が生れた。徳は八三郎を生んで一年半立つて亡くなつた。
 そして徳の亡くなつた跡へ山内氏五百が来ることになつた。抽斎の身分は徳が往き、五百が来る間に変つて、幕府の直参になつた。交際は広くなる。費用は多くなる。五百は卒に其中に身を投じて、難局に当らなくてはならなかつた。五百が恰も好し其適材であつたのは、抽斎の幸である。
 五百の父山内忠兵衛は名を豊覚と云った。神田紺屋町に鉄物問屋を出して、屋号を日野屋と云ひ、商標には井桁の中に喜の字を用ゐた。忠兵衛は詩文書画を善くして、多く文人墨客に交り、財を捐ててこれが保護者となつた。
 忠兵衛に三人の子があつた。長男栄次郎、長女安、二女五百である忠兵衛は允成の友で、嫡子栄次郎の教育をば、久しく抽斎に託してゐた。文政七八年の頃、当時允成が日野屋をおとづれて、芝居の話をすると、九つか十であつた五百と、一つ年上の安とが面白がつて傍聴してゐたさうである。安は即ち後に阿部家に仕へた金吾である。
 五百は文化十三年に生れた。兄栄次郎が五歳、姉安が二歳になつてゐた時である。忠兵衛は三人の子の次第に長ずるに至つて、嫡子には士人たるに足る教育を旛し、二人の女にも尋常女子の学ぶことになつてゐる読み書き諸芸の外、武芸をしこんで、まだ小さい時から武家奉公に出した。中にも五百には、経学などをさへ、殆ど男子に授けると同じやうに授けたのである。
 忠兵衛が此の如くに子を育てたには来歴がある。忠兵衛の祖先は山内但馬守盛豊の子、対馬守一豊の弟から出たのださうで、江戸の商人になつてからも、三葉柏の紋を附け、名のりに豊の字を用ゐることになつてゐる。今わたくしの手近にある系図には、一豊の弟は織田信長に仕へた修理亮康豊と、武田信玄に仕へた法眼日泰との二人しか載せて無い。忠兵衛の家は、此二人の内孰れかの裔であるか、それとも外に一豊の弟があつたか、こゝに遽に定めることが出来ない。
つづく
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