渋江抽斎

その十一

 允成は才子で美丈夫であつた。安永七年三月朔に十五歳で澀江氏に養はれて、当時儲君であつた、二つの年上の出羽守信明に愛せられた。養父本皓の五十八歳で亡くなつたのが、天明四年二月二十九日で、信明の襲封と同日である。信明はもう土佐守と称してゐた。主君が二十三歳、允成が二十一歳である。
 寛政三年六月二十二日に信明は僅に三十歳で卒し、八月二十八日に和三郎寧親が支封から入つて宗家を継いだ。後に越中守と称した人である。寧親は時に二十七歳で、允成は一つ上の二十八歳である。允成は寧親にも親昵して、殆ど兄弟の如く遇せられた。平生着丈四尺の衣を着て、体重が二十貫目あつたと云ふから、その堂々たる相貌が思ひ遣られる。
 当時津軽家に静江と云ふ女小姓が勤めてゐた。それが年老いての後に剃髪して妙了尼と号した。妙了尼が澀江家に寄寓してゐた頃、可笑しい話をした。それは允成が公退した跡になると、女中達が争って其茶碗の底の余瀝を指に承けて舐るので、自分も舐つたと云ふのである。
 しかし允成は謹厳な人で、女色などは顧みなかつた。最初の妻田中氏は寛政元年八月二十二日に娶つたが、これには子が無くて、翌年四月十三日に亡くなつた。次に寛政三年六月四日に、寄合戸田政五郎家來納戸役金七両十二人扶持川崎丈助の女を迎へたが、これは四年二月に逸と云ふ女を生んで、逸は三歳で夭折した翌年、七年二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成の納れた室は、下総国佐倉の城主堀田相模守正順の臣、岩田忠次の妹縫で、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。
 縫は享和二年に始めて須磨と云ふ女を生んだ。これは後文政二年に十八歳で、留守居年寄佐野豊前守政親組飯田四郎左衛門良清に嫁し、九年に二十五歳で死んだ。次いで文化二年十一月八日に生れたのが抽斎である。允成四十二歳、縫三十一歳の時の子である。これから後には文化八年閏二月十四日に女が生れたが、これは名を命ずるに及ばずして亡くなつた。感応寺の墓に曇華水子と刻してあるのが此女の法諡である。
 允成は寧親の侍医で、津軽藩邸に催される月並講釈の教官を兼ね、経学と医学とを藩の子弟に授けてゐた。三百石十人扶持の世禄の外に、寛政十二年から勤料五人扶持を給せられ、文化四年に更に五人扶持を加へ、八年に又五人扶持を加へられて、とう/\三百石と二十五人扶持を受けることとなつた。中二年置いて文化十一年に一粒金丹を調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で、毎月百両以上の所得になつたのである。
 允成は表向侍医たり教官たるのみであつたが、寧親の信任を蒙ることが厚かつたので、人の敢て言はざる事をも言ふやうになつてゐて、数諫めて数聴かれた。寧親は文化元年五月通年蝦夷地の防備に任じたと云ふ廉を以て、四万八千石から一躍して七万石にせられた。所謂津軽家の御乗出がこれである。五年十二月には南部家と共に永く東西蝦夷地を警衛することを命ぜられて、十万石に進み、従四位下に叙せられた。この津軽家の政務発展の時に当つて、允成が啓沃の功も少くなかつたらしい。
 允成は文政五年八月朔に、五十九歳で致仕した、抽斎が十八歳の時である。次いで寧親も八年四月に退隠して、詩歌俳諧を銷遺の具とし、歌会には成嶋司直などを召し、詩会には允成を召すことになつてゐた。允成は天保二年六月からは、出羽国亀田の城主岩城伊予守隆喜に嫁した信順の姉もと姫に伺候し、同年八月からは又信順の室欽姫附を兼ねた。八月十五日に隠居料三人扶持を給せられることになつたのは、此等のためであらう。中一年置いて四年四月朔に、隠居料二人扶持を増して、五人扶持にせられた。
 允成は天保八年十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した。允成の妻縫は、文政七年七月朔に剃髪して寿松と云ひ、十二年六月十四日に五十五歳で亡くなつた。夫に先つこと八年である。

その十二

 抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと保さんが云ふ。これは母五百の話を記憶してゐるのであらう。父允成は四十二歳、母縫は三十一歳の時である。その生れた家はどの辺であるか。弁慶橋と云ふのは橋の名では無くて町名である。当時の江戸分間大絵図と云ふものを閲するに、和泉橘と新橋との間の柳原通の少し南に寄って、西から東へ、お玉が池、松枝町、弁慶橋、元柳原町、佐久間町、四間町、大和町、豊嶋町と云ふ順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡つて、少し東へ偏つて行く通が、東側は弁慶橋、西側は松枝町になつてゐる。此通の東隣の筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になつてゐる。わたくしが富士川游さんに借りた津軽家の医官の宿直日記によるに、允成は天明六年八月十九日に豊嶋町通横町鎌倉横町家主伊右衛門店を借りた。この鎌倉横町と云ふのは、前云った図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、北の方河岸に寄った所にある。允成が此店を借りたのは、其年正月二十二日に従来住んでゐた家が焼けたので、暫く多紀桂山の許に寄宿してゐて、八月に至つて移転したのである。その従来住んでゐた家も、余り隔たつてゐぬ和泉橋附近であつたことは、日記の文から推することが出来る。次は文政八年三月晦に、抽斎の元柳原六丁目の家が過半類焼したと云ふことが、日記に見えてゐる。元柳原町は弁慶橘と同じ筋で、只東西両側が名を異にしてゐるに過ぎない。想ふに澀江氏は久しく和泉橋附近に住んでゐて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移つたのであらう。この元柳原町六丁目の家は、抽斎の生れた弁慶橘の家と同じであるかも知れぬが、或は抽斎の生れた文化二年に西側の弁慶橋にゐて、其後文政八年に至るまでの間に、向側の元柳原町に移つたものと考へられぬでも無い。
 抽斎は小字を恒吉と云った。故越中守信寧の夫人真寿院が此子を愛して、当歳の時から五歳になつた頃まで、殆ど日毎に召し寄せて、傍で嬉戯するのを見て楽んださうである。美丈夫允成に肖た可憐児であつたものと想はれる。
 志摩の稲垣氏の家世は今詳にすることが出来ない。しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくは相貌の立派な人で、それが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであらう。此身的遺伝と並行して、心的遺伝が存じてゐなくてはならない。わたくしはこゝに清蔵が主を諌めて去つた人だと云ふ事実に注目する。次に後允成になつた神童専之助を出す清蔵の家庭が、尋常の家庭でないと云ふ推測を顧慮する。彼は意志の方面、此は智能の方面で、此両方面に於ける遺伝的系統を繹ぬるに、抽斎の前途は有望であつたと云っても好からう。
 さて其抽斎が生れて来た境界はどうであるか。允成の庭の訓が信頼するに足るものであつたことは、言を須たぬであらう。オロスコピイは人の生れた時の星象を観測する。わたくしは当時の杜会にどう云ふ人物がゐたかと問うて、こゝに学問芸術界の列宿を数へて見たい。しかし観察が徒に汎きに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限つて観察することとしたい。即ち抽斎の師となり、又年上の友となる人物である、抽斎から見ての大己である。、
 抽斎の経学の師には、先づ市野迷庵がある。次は狩谷エキ斎である。医学の師には伊沢蘭軒がある。次は抽斎が特に痘科を学んだ池田京水である。それから抽斎が交った年長者は随分多い。儒者又は国学者には安積艮斎、小嶋成斎、岡本況斎、海保漁村、医家には多紀の本末両家、就中■庭、伊沢蘭軒の長子榛軒がゐる。それから芸術家及美術批評家に谷文晁、長嶋五郎作、石塚重兵衛がゐる。此等の人は皆社会の諸方面にゐて、抽斎の世に出づるを待ち受けてゐたやうなものである。

その十三

 他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々の中には、現に普く世に知れわたつてゐるものが少くない。それゆゑわたくしはこゝに一々其伝記を挿まうとは思はない。只抽斎の誕生を語るに当つて、これをして其天職を尽さしむるに与つて力ある長者のルヴユウをして見たいと云ふに過ぎない。
 市野迷庵、名を光彦、字を俊卿又子邦と云ひ、初め■窓、後迷庵と号した。其他酔堂、不忍池漁等の別号がある。抽斎の父允成が酔堂説を作つたのが、容安室文稿に出てゐる。通称は三右衛門である。六世の祖重光が伊勢国白子から江戸に出て、神田佐久間町に質店を開き、屋号を三河屋と云った。当時の店は弁慶橋であつた。迷庵の父光紀が、香月氏を娶つて迷庵を生せたのは明和二年二月十日であるから、抽斎の生れた時、迷庵はもう四十一歳になつてゐた。
 迷庵は考証学者である。即ち経籍の古版本、古抄本を捜り討めて、そのテクストを閲し、比較考勘する学派、クリチツクをする学派である。此学は源を水戸の吉田篁■に発し、エキ斎が其後を承けて発展させた。篁■は抽斎の生れる七年前に歿してゐる。迷庵がエキ斎等と共に研究した果実が、後に至つて成熟して抽斎等の訪古志となつたのである。此人が晩年に老子を好んだので、抽斎も同嗜の人となつた。
 狩谷エキ斎、名は望之、字は雲卿、エキ斎は其号である。通称を三右衛問と云ふ。家は湯嶋にあつた。今の一丁目である。エキ斎の家は津軽の用達で、津軽屋と称し、エキ斎は津軽家の禄千石を食み、目見諸士の末席に列せられてゐた。先祖は参河国苅屋の人で、江戸に移つてから狩谷氏を称した。しかしエキ斎は狩谷保古の代に此家に養子に来たもので、実父は高橋高敏、母は佐藤氏である。安永四年の生で、抽斎の母縫と同年であつたらしい。果してさうなら、抽斎の生れた時は三十一歳で、迷庵より十少かつたのだらう。抽斎のエキ斎に師事したのは二十余歳の時だと云ふから、恐らくは迷庵を喪ってエキ斎に適いたのであらう。迷庵の六十二歳で亡くなつた文政九年八月十四日は、抽斎が二十二歳、エキ斎が五十二歳になつてゐた年である。迷庵もエキ斎も古書を集めたが、エキ斎は古銭をも集めた。漢代の五物を蔵して六漢道人と号したので、人が一物足らぬではないかと詰つた時、今一つは漢学だと答へたと云ふ話がある。抽斎も古書や古武鑑を蔵してゐたばかりでなく、矢張古銭癖があつたさうである。
 迷庵とエキ斎とは、年歯を以て論ずれば、彼が兄、此が弟であるが、考証学の学統から見ると、エキ斎が先で、迷庵が後である。そして此二人の通称がどちらも三右衛門であつた。世にこれを文政の六右衛門と称する。抽斎は六右衛門のどちらにも師事したわけである。
 六右衛門の称は頗る妙である。然るに世の人は更に一人の三右衛門を加へて、三三右衛門などと云ふ。この今一人の三右衛門は喜田氏、名は慎言、字は有和、梅園又静廬と号し、居る所を四当書屋と名づけた。其氏の喜多を修して北慎言とも署した。新橋金春屋敷に住んだ屋屋根葺で、屋根屋三右衛門が通称である。本は芝の料理店の伜定次郎で、屋根屋へは養子に来た。少い時狂歌を作つて網被損針金と云ってゐたのが、後博渉を以て聞えた。嘉永元年三月二十五日に、八十三歳で亡くなつたと云ふから、抽斎の生れた時には、其師となるべき迷庵と同じく四十一歳になつてゐた筈である。此三右衛門が殆ど毎日往来した小山田与清の擁書楼日記を見れば、文化十二年に五十一歳だとしてあるから、此推算は誤つてゐない積であゐ。しかし此人を迷庵エキ斎と併せ論ずるのは、少しく西人の所謂髪を握んで引き寄せた趣がある。屋根屋三右衛門と抽斎との間には、交際が無かつたらしい。

その十四

 後に抽斎に医学を授ける人は伊沢蘭軒である。名は信恬、通称は辞安と云ふ。伊沢氏の宗家は筑前国福岡の城主黒田家の臣であるが、蘭軒は其分家で、備後国福山の城主阿部伊勢守正倫の臣である。文政十二年三月十七日に歿して、亨年五十三であつたと云ふから、抽斎の生れた時二十九歳で、本郷真砂町に住んでゐた。阿部家は既に備中守正精の世になつてゐた。蘭軒が本郷丸山の阿部家の中屋敷に移つたのは後の事である。
 阿部家は尋で文政九年八月に代替になつて、伊予守正寧が封を襲いだから、蘭軒は正寧の世になつた後、足掛四年阿部家の館に出入した。其頃抽斎の四人目の妻五百の姉が、正寧の室鍋嶋氏の女小姓を勤めて金吾と呼ばれてゐた、此金吾の話に、蘭軒は蹇であつたので、館内で輦に來ることを許されてゐた。さて輦から降りて、匍匐して君側に進むと、阿部家の奥女中が目を見合せて笑った。或日正寧が偶此事を聞き知つて、「寿安は足はなくても、腹が二人前あるぞ」と云って、女中を戒めさせたと云ふことである。
 次は抽斎の痘科の師となるべき人である。池田氏、名は■、字は河澄、通称は瑞英、京水と号した。
 原来疱瘡を治療する法は、久しく我国には行はれずにゐた。病が少しく重くなると、尋常の医家は手を束ねて傍看した。そこへ承応二年に戴曼公が支那から渡つて来て、不治の病を治し始めた。■廷賢を宗とする治法を施したのである。曼公、名は笠、杭州仁和県の人で、曼公とは其字である。明の万暦二十四年の生であるから、長崎に来た時は五十八歳であつた。曼公が周防国岩国に足を留めてゐた時、池田嵩山と云ふものが治痘の法を受けた。嵩山は吉川家の医官で、名を正直と云ふ。先祖は蒲冠者範頼から出て、世々出雲に居り、生田氏を称した。正直の数世の祖信重が出雲から岩国に遷つて、始て池田氏に更めたのである。正直の子が信之、信之の養子が正明で、皆曼公の遺法を伝へてゐた。
 然るに寛保二年に正明が病んで将に歿せんとする時、其子独美は僅に九歳であつた。正明は法を弟槙本坊詮応に伝へて置いて瞑した。そのうち独美は人と成つて、詮応に学んで父祖の法を得た。宝暦十二年独美は母を奉じて安芸国厳嶋に遷つた。厳嶋に庖瘡が盛に流行したからである。安永二年に母が亡くなつて、六年に独美は大阪に往き、西堀江隆平橘の畔に住んだ。此時独美は四十四歳であつた。
 独美は寛政四年に京都に出て、東洞院に住んだ。此時五十九歳であつた。八年に徳川家済に辟されて、九年に江戸に入り、駿河台に住んだ。此年三月独美は躋寿館で痘科を講ずることになって、二百俵を給せられた。六十四歳の時の事である。躋寿館には独美のために始て痘科の講座が置かれたのである。
 抽斎の生れた文化二年には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでゐた筈である。年は七十二歳であつた。独美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した。遺骸は向嶋小梅村の嶺松寺に葬られた。
 独美、字は善卿、通称は瑞仙、錦橋又蟾翁と号した。その蟾翁と号したには面白い話がある。独美は或時大きい蝦蟇を夢に見た。それから抱朴子を読んで、其夢を祥瑞だと思って、蝦蟇の画をかき、蝦蟇の彫刻をして人に贈つた。これが蟾翁の号の由来である。

その十五

 池田独美には前後三人の妻があつた。安永八年に歿した妙仙、寛政二年に歿した寿慶、それから嘉永元年まで生存してゐた芳松院緑峰である。緑峰は菱谷氏、佐井氏に養はれて独美に嫁したのが、独美の京都にゐた時の事である。三人共子は無かつたらしい。
 独美が厳嶋から大阪に遷つた頃妾があつて、一男二女を生んだ。男は名を善直と云ったが、多病で業を継ぐことが出来なかつたさうである。二女は長を智秀と諡した。寛政二年に歿してゐる。次は知瑞と諡した。安政九年に夭折してゐる。此外に今一人独美の子があつて、鹿児嶋に住んで、其子孫が現存してゐるらしいが、此家の事はまだこれを審にすることが出来ない。
 独美の家は門人の一人が養子になつて嗣いで、二世瑞仙と称した。これは上野国桐生の人村岡善左衛門常信の二男である。名は晋、字は柔行、又直卿、霧渓と号した。躋寿館の講座をも此人が継承した。
 初め独美は曼公の遺法を尊重する余に、これを一子相伝に止め、他人に授くることを拒んだ。然るに大阪にゐた時、人が諌めて云ふには、一人の能く救ふ所には限がある、良法があるのにこれを秘して伝へぬのは不仁であると云った。そこで独美は始て誓紙に血判をさせて弟子を取つた。それから門人が次第に殖えて、歿するまでには五百人を踰えた。二世瑞仙は其中から簡抜せられて螟蛉子となつたのである。
 独美の初代瑞仙は素源家の名閥だとは云ふが、周防の岩国から起つて幕臣になり、駿河台の池田氏の宗家となつた。それに業を継ぐべき子がなかつたので、門下の俊才が入つて後を襲った。遽に見れば、なんの怪むべき所もない。
 しかしこゝに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田京水である。
 京水は独美の子であつたか、姪であつたか不明である。向嶋嶺松寺に立つてゐた墓に刻してあつた誌銘には子としてあつたらしい。然るに二世瑞仙晋の子直温の撰んだ過去帖には、独美の弟玄俊の子だとしてある。子にもせよ姪にもせよ、独美の血族たる京水は宗家を嗣ぐことが出来ないで、自立して町医になり、下谷徒士町に門戸を張つた。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立してゐたのである。
 種痘の術が普及して以来、世の人は庖瘡を恐るゝことを忘れてゐる。しかし昔は人の此病を恐るゝこと、癆を恐れ、癌を恐れ、癩を恐るゝよりも甚だしく、其流行の盛なるに当つては、杜会は一種のパニツクに襲はれた。池田氏の治法が徳川政府からも全国の人民からも歓迎せられたのは当然の事である。そこで抽斎も、一般医学を蘭軒に受けた後、特に痘科を京水に学ぶことになつた。丁度近時の医が細菌学や原蟲学や生物化学を特修すると同じ事である。
 池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであつたか。従来痘は胎毒だとか、穢血だとか、後天の食毒だとか云って、諸家は各その見る所に従って、諸証を攻むるに一様の方を以てしたのに、池田氏は痘を一種の異毒異気だとして、所謂八証四節三項を分ち、偏僻の治法を斥けた。即ち対症療法の完全ならんことを期したのである。

その十六

 わたくしは抽斎の師となるべき人物を数へて京水に及ぶに当つて、こゝに京水の身上に関する疑を記して、世の人の教を受けたい。
 わたくしは今これを筆に上するに至るまでには、文書を捜り寺院を訪ひ、又幾多の先輩知友を煩はして解決を求めた。しかしそれは概ね皆徒事であつた。就中憾とすべきは京水の墓の失踪した事である。
 最初にわたくしに京水の墓の事を語ったのは保さんである。保さんは幼い時京水の墓に詣でたことがある。しかし寺の名は記憶してゐない。只向嶋であつたと云ふだけである。そのうちわたくしは富士川游さんに種々の事を問ひに遣った。富士川さんがこれに答へた中に、京水の墓は常泉寺の傍にあると云ふ事があつた。
 わたくしは幼い時向嶋小梅村に住んでゐた。初の家は今須崎町になり、後の家は今小梅町になつてゐる。その後の家から土手へ往くには、いつも常泉寺の裏から水戸邸の北のはづれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。
 わたくしは常泉寺に往つた。今は新小梅町の内になつてゐる。枕橘を北へ渡つて、徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある。わたくしは本堂の周囲にある墓をも、境内の末寺の庭にある墓をも一つ一つ検した。日蓮宗の事だから、江戸の市人の墓が多い。知名の学者では、朝川善庵の一家の墓が、本堂の西にあるだけである。本堂の東南にある末寺に、池田氏の墓が一基あつたが、これは例の市人らしく、しかも無縁同様のものと見えた。
 そこで寺僧に請うて過去帖を見たが、帖は近頃作つたもので、いろは順に檀家の氏が列記してある。いの部には池田氏が無い。末寺の墓地にある池田氏の墓は果して無縁であつた。
 わたくしは空しく還って、先づ郷人宮崎幸麿さんを介して、東京の墓の事に椅しい武田信賢さんに問うて貰ったが、武田さんは知らなかつた。
 そのうちわたくしは事実文編四十五に霧渓の撰んだ池田氏行状のあるのを見出した。これは養父初代瑞仙の行状で、其墓が向嶋嶺松寺にあることを記してある。素嶺松寺には戴曼公の表石があつて、瑞仙は其側に葬られたと云ふのである。向嶋にゐたわたくしも嶺松寺と云ふ寺は知らなかつた。しかし既に初代瑞仙が嶺松寺に葬られたなら、京水も或はそこに葬られたのではあるまいかと推量した。
 わたくしは再び向嶋へ往つた。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を徘徊して捜索したが、嶺松寺と云ふ寺は無い。わたくしは絶望して腫を旋したが、道の序なので、須崎町弘福寺にある先考の墓に詣でた。さて住職奥田墨汁師を訪って旧濶を叙した。対談の間に、わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると、墨汁師は意外にも両つながらこれを知つてゐた。
 墨汁師は云った。嶺松寺は常泉寺の近傍にあつた。其畛域内に池田氏の墓が数基並んで立つてゐたことを記憶してゐる。墓には多く誌銘が刻してあつた。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になつたと云ふのである。わたくしはこれを聞いて、先づ池田氏の墓を目撃した人を二人まで獲たのを喜んだ。即ち保さんと墨汁師とである。「廃寺になるときは、墓はどうなるものですか」と、わたくしは問うた。「墓は檀家がそれ%\引き取つて、外の寺へ持つて行きます。」「檀家が無かつたらどうなりますか。」「無縁の墓は共同墓地へ遷す例になつてゐます。」「すると池田家の墓は共同墓地へ遣られたかも知れませんな。池田家の後は今どうなつてゐるかわかりませんか。」かう云ってわたくしは撫然とした。

その十七

 わたくしは墨汁師に謂った。池田瑞仙の一族は当年の名医である、其墓の行方は探討したいものである。それに戴曼公の表石と云ふものも、若し存してゐたら、名蹟の一に算すべきものであらう。嶺松寺にあつた無縁の墓は、どこの共同墓地へ遷されたか知らぬが、若しそれがわかつたなら、尋ねに往きたいものであると宏つた。
 墨汁師も首肯して云つた。戴氏独立の表石の事は始て聞いた。池田氏の上のみではない。自分も黄檗の衣鉢を伝へた身であつて見れば、独立の遺蹟の存滅を意に介せずにはゐられない。想ふに独立は寛文中九州から師隠元を黄檗山に省しに上る途中で寂したらしいから、江尸には墓はなかつただらう。嶺松寺の表石とはどんな物であつたか知らぬが、或は牙髪塔の類ででもあつたか。それは兎も角も、其石の行方も知りたい。心当りの向々へ問ひ合せて見ようと云った。
 わたくしの再度の向嶋探討は大正四年の暮であつたので、そのうちに五年の初になつた。墨汁師の新年の書信に間合せの結果が記してあつたが、それは頗る覚束ない口吻であつた。嶺松寺の廃せられた時、其事に与つた寺々に問うたが、池田氏の墓には檀家が無かつたらしい。当時無縁の墓を遷した所は、染井共同墓地であつた。独立の表石と云ふものは誰も知らないと云ふのである。
 これでは捜索の前途には、殆ど毫しの光明をも認めることが出来ない。しかしわたくしは念晴しのために、染井へ尋ねに往つた。そして墓地の世話をしてゐると云ふ家を訪うた。
 墓にまゐる人に樒や綫香を売り、又是を休めさせて茶をも飲ませる家で、三十許の怜悧さうなお上さんがゐた。わたくしは此女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名には云ふが、其地面には井然たる区劃があつて、毎区に所有主がある。それが墓の檀家である。そして現在の檀家の中には池田と云ふ家は無い。池田と云ふ檀家が無いから、池田と云ふ人の墓の有りやうが無いと云ふのである。「それでも新聞に、行倒れがあつたのを共同墓地に理めたと云ふことがあるではありませんか。さうして見れば檀家の無い仏の往く所がある筈です。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあつた寺が取払になつて、こつちへ持つて来られた仏です。さう云ふ時、石塔があれは石塔も運んで来るでせう。それをわたくしは尋ねるのです。」かう云ってわたくしは女の毎区有主説に反駁を試みた。「えゝ、それは行倒れを埋める所も一箇所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建てて遣る人は。こざいません。それにお寺から石塔を運んで来たと云ふことは、聞いたこともございません。詰りそんな所には石塔なんぞは一つも無いのでございます。」「でもわたくしは切角尋ねに来たものですから、そこへ往つて見ませう。」「およしなさいまし。石塔の無いことはわたくしがお受合申しますから。」かう云って女は笑った。
 わたくしもげにもと思ったので、墓地には足を容れずに引き返した。
 女の言には疑ふべき余地は無い。しかしわたくしは責任ある人の口から、同じ事をでも、今一度聞きたいやうな気がした。そこで帰途に町役揚に立ち寄って問うた。町役場の人は、墓地の事は扱はぬから、本郷区役所へ往けと云つた。
 町役場を出た時、もう冬の日が暮れ掛かつてゐた。そこでわたくしは思ひ直した。廃寺になつた嶺松寺から染井共同墓地へ墓石の来なかつたことは明白である。それを区役所に問ふのは余りに痴であらう。寧ろ行政上無縁の墓の取締があるか、若しあるなら、どう取り締まることになつてゐるかと云ふことを問ふに若くはない。その上今から区役所に往つた所で、当直の人に墓地の事を問ふのは甲斐の無い事であらう。わたくしはかう考へて家に還った。

その十八

 わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府庁で、墓所の移転を監視するのが警視庁だと云ふことを知つた。そこで友人に託して、府庁では嶺松寺の廃絶に関してどれだけの事が知り得られるか、又警視庁は墓所の移転をどの位の程度に監視することになつてゐるかと云ふことを問うて貰った。
 府庁には明治十八年に作られた墓地の台帳とも云ふべきものがある。しかし一応それを検した所では、嶺松寺と云ふ寺は載せてないらしかつた。其廃絶に関しては、何事をも知ることが出来ぬのである。警視庁は廃寺等のために墓碣を搬出するときには警官を立ち会はせる。しかしそれは有縁のものに限るので、無縁のものはどこの共同墓地に改葬したと云ふことを届け出でさせるに止まるさうである。
 さうして見れば、嶺松寺の廃せられた時、境内の無縁の墓が染井共同墓地に遷されたと云ふのは、遷したと云ふ一紙の屈書が官庁に呈せられたに過ぎぬかも知れない。所詮今になつて戴曼公の表石や池田氏の墓碣の踪迹を発見することは出来ぬであらう。わたくしは念を捜索に絶つより外あるまい。
 兎角するうちに、わたくしが池田京水の墓を捜し求めてゐると云ふこと、池田氏の墓のあつた嶺松寺が廃絶したと云ふことなどが東京朝日新聞の雑報に出た。これはわたくしが先輩知友に書を寄せて問うたのを聞き知つたものであらう。雑報の掲げられた日の夕方、無名の人がわたくしに電話を掛けて云った。自分は曾て府庁にゐたものである。其頃無税地反別帳と云ふ帳簿があつた。若しそれが猶存してゐるなら、嶺松寺の事が載せてあるかも知れないと云ふのである。わたくしは無名の人の言に従って、人に託して府庁に質して貰ったが、さう云ふ帳簿は無いさうであつた。
 此事件に関してわたくしの往訪した人、書を寄せて教を乞うた人は頗る多い。初にはわたくしは墓誌を読まんがために、慕の所在を問うたが、後にはせめて京水の歿した年齢だけなりとも知らうとした。わたくしは抽斎の生れた年に、市野迷庵が何歳、狩谷エキ斎が何歳、伊沢蘭軒が何歳と云ふことを推算したと同じく、京水の年齢をも推算して見たく、若し又数字を以て示すことが出来ぬなら、少くもアプロクシマチイフにそれを忖度して見たかつたのである。
 諸家の中でも、戸川残花さんはわたくしのために武田信賢さんに問うたり、南葵文庫所蔵の書籍を検したりしてくれ、呉秀三さんは医史の資料に就いて捜索してくれ、大槻文彦さんは如電さんに問うてくれ、如電さんは向嶋へまで墓を探りに往つてくれた。如電さんの事は墨汁師の書状によつて知ったが、恐らくは郷土史の嗜好あるがために、踏査の労をさへ厭はなかつたのであらう。只憾むらくもわたくしは徒に此等の諸家を煩はしたに過ぎなかった。
 これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあつたのは、富士川游さんと墨汁師とのお蔭である。わたくしは数度書状の往復をした末に、或日富士川さんの家を訪うた。そしてかう云ふことを聞いた。富士川さんは昔年日本医学史の資料を得ようとして、池田氏の墓に詣でた。医学史の記載中脚註に墓誌と書してあるのは、当時墓に就いて親しく抄記したものだと云ふのである。惜むらくは富士川さんは墓誌銘の全文を写して置かなかつた。又嶺松寺と云ふ寺号をも忘れてゐた。それゆゑわたくしに答へた書に常泉寺の傍と記したのである。是に於いて曾て親しく嶺松寺中の碑碣を睹た人が三人になつた。保さんと游さんと墨汁師とである。そして游さんは湮減の期に薄つてゐた墓誌銘の幾句を、図らずも救抜してくれたのである。

その十九

 弘福寺の現住墨汁師は大正五年に入つてからも、捜索の手を停めずにゐた。そしてとう/\下目黒村海福寺所蔵の池田氏過去帖と云ふものを借り出して、わたくしに見せてくれた。帖は表紙を除いて十五枚のものである。表紙には生田氏中興池田氏過去帖慶応紀元季秋の十七字が四行に書してある。跋文を読むに、此書は二世瑞仙晋の子直温、字は子徳が、慶応元年九月六日に、初代瑞仙独美の五十年忌辰に丁つて、新に歴代の位牌を作り、併せてこれを纂記して、嶺松寺に納めたもので、直温の自筆である。
 此書には池田氏の一族百八人の男女を列記してあるが、其墓所は或は注してあり、或は注してない。分明に嶺松寺に葬る、又は嶺寺に葬ると注してあるのは初代瑞仙、其妻佐井氏、二代瑞仙、其二男洪之助、二代瑞仙の兄信一の五人に過ぎない。しかし既に京水の墓が同じ寺にあつたとすると、徒士町の池田氏の人々の墓も此寺にあつただらう。要するに嶺松寺にあつたと云ふ確証のある墓は、此書に淫してある駿河台の池田氏の墓五墓と、京水の墓とで、含計六墓である。
 此書の記する所は、わたくしのために創聞に属するものが頗る多い。就中異とすべきは、独美に玄俊と云ふ弟があつて、それが宇野氏を娶つて、二人の間に出来た子が京水だと云ふ一事である。此書に拠れば、独美は一旦姪京水を養って子として置きながら、それに家を嗣がせず、更に門人村岡晋を養って子とし、それに業を継がせたことになる。
 然るに嘗士川さんの抄した墓誌には、京水は独美の子で廃せられたと書してあつたらしい。しかもその廃せられた所以を書して放縦不羈にして人に容れられず、遂に多病を以て廃せらると云ってあつたらしい。
 両説は必ずしも矛盾してゐない。独美は弟玄俊の子京水を養って子とした。京水が放蕩であつた。そこで京水を離縁して門人晋を養子に入れたとすれば、其説通ぜずと云ふでもない。     言 そん
 しかし京水が後能く自ら樹立して、其文章事業が晋に比して毫も遜色の無いのを見るに、此人の凡庸でなかつたことは、推測するに難くない。著述の考ふべきものにも、痘科挙要二巻、痘科鍵会通一巻、痘科鍵私衡五巻、抽斎をして筆授せしめた護痘要法一巻がある。養父独美が視ること尋常蕩子の如くにして、これを逐ふことを惜まなかつたのは、恩少きに過ぐと云ふものではあるまいか。
 且わたくしは京水の墓誌が何人の撰文に係るかを知らない。しかし京水が果して独美の姪であつたなら、縦ひ独美が一時養って子となしたにもせよ、直に瑞仙の子なりと書したのはいかゞのものであらうか。富士川さんの如きも、日本医学史に、墓誌に拠つて瑞仙の子なりと書してゐるのである。又放縦だとか廃嗣だとか云ふことも、此の如くに書したのが、墓誌として体を得たものであらうか。わたくしは大いにこれを疑ふのである。そして墓誌の全文を見ることを得ず、其撰者を審にすることを得ざるのを憾とする。
 わたくしは独撰者不詳の京水墓誌を疑ふのみではない。又二世瑞仙晋の撰んだ池田氏行状をも疑はざることを得ない。文は載せて事実文編四十五にある。
 行状に拠るに、初代瑞仙独美は享保二十年乙卯五月二十二日に生れ、文化十三年丙子九月六日に歿した。然るに安永六年丁酉に四十、寛政四年壬子に五十五、同九年丁巳に六十四、歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八、六十三、八十二でなくてはならない。齢を記する毎に、殆ど必ず差つてゐるのは何故であらうか。因に云ふが過去帖にも亦齢八十三としてある。そこでわたくしは此八十三より逆算することにした。

その二十

 晋の撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子善直と云ふものを挙げて、「多病不能継業」と書してある。其前に初代瑞仙が病中晋に告げた語を記して、八十四言の多きに及んである。瑞仙は痘を治することの難きを説いて、「数百之弟子、無能熟得之者」と云ひ、晋を賞して、「而汝能継我業」と云ってある。
 わたくしは未だ過去帖を獲ざる前にこれを読んで、善直は京水の初の名であらうと思った。京水の墓誌に多病を以て嗣を廃せらると云ふやうに書してあつたと云ふのと、符節は合するやうだからである。過去帖に従へば、庶子善直と姪京水とは別人でなくてはならない。しかし善直と京水とが同人ではあるまいか、京水が玄俊の子でなくて、初代瑞仙の子ではあるまいかと云ふ疑が、今に迄るまで未だ全くわたくしの懐を去らない。特に彼過去帖に遠近の親戚百八人が挙げてあるのに、初代瑞仙の只一人の実子善直と云ふものが痕跡をだに留めずに消滅してゐると云ふ一事は、此疑を助長する媒となるのである。
 そしてわたくしは撰者不詳の墓誌の残欠に、京水が刺つてあるのを見ては、忌憚なきの甚だしきだと感じ、晋が養父の賞美の語を記して、一の抑損の句をも著けぬのを見ては、簡傲も亦甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美、二世瑞仙晋、京水の三人の間に或るドラアムが蔵せられてゐるやうに思はれてならない。わたくしの世の人に教を乞ひたいと云ふのは是である。
 わたくしは抽斎の誕生を語るに当つて、後に其師となるべき人々を数へた。それは抽斎の生れた時、四十一歳であつた迷庵、三十一歳であつたエキ斎、三十歳であつた蘭軒の三人と、京水とであつて、独り京水は過去帖を獲るまで其齢を算することが出来なかつた。なぜと云ふに、京水の歿年が天保七年だと云ふことは、保さんが知つてゐたが、年歯に至つては全く所見が無かつたからである。
 過去帖に拠れば京水の父玄俊は名を某、字を信卿と云って寛政九年八月二日に、六十歳で歿し、母宇野氏は天明六年に三十六歳で歿した。そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。法諡して宗経軒京水瑞英居士と云ふ。
 これに由つて観れば、京水は天明六年の生で、抽斎の生れた文化二年には二十歳になつてゐた。抽斎の四人の師の中では最年少者であつた。
 後に抽斎と交る人々の中、抽斎に先つて生れた学者は、安積艮斎、小嶋成斎、岡本況斎、海保漁村である。
 安積艮斎は抽斎との交が深くはなかつたらしいが、抽斎をして西学を忌む念を翻さしめたのは此人の力である。艮斎、名は重信、修して信と云ふ。通称は祐助である。奥州郡山の八幡宮の祠官安藤筑前親重の子で、寛政二年に生れたらしい。十六歳の時、近村の里正今泉氏の壻になつて、妻に嫌はれ、翌年江戸に奔つた。しかし誰にたよらうと云ふあてもないので、うろ/\してゐるのを、日蓮宗の僧日明が見附けて、本所番場町の妙源寺へ連れて帰つて、数月間留めて置いた。そして世話をして佐藤一斎の家の学僕にした。妙源寺は今艮斎の墓碑の立つてゐる寺である。それから二十一歳にして林述斎の門に入つた。駿河台に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。さうして見ると抽斎の生れた文化二年は艮斎が江戸に入る前年で、十六歳であつた。これは艮斎が万延元年十一月二十二日に、七十一歳で歿したものとして推算したのである。
 小嶋成斎名は知足、字は子節、初め静斎と号した。通称は五一である。エキ斎の門下で善書を以て聞えた。海保漁村の墓表に文久二年十月十八日に、六十七歳で歿したとしてあるから、抽斎の生れた文化二年には甫めて十歳である。父親蔵が福山侯阿部備中守正精に仕へてゐたので、成斎も江戸の藩邸に住んでゐた。
つづく
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