渋江抽斎

その一

 三十七年如一瞬。学医伝業薄才伸。栄枯窮達任天命。安楽換銭不患貧費。これは澀江抽斎の述志の詩である。想ふに天保十二年の暮に作つたものであらう。弘前の城主津軽順承の定府の医官で、当時近習詰になつてゐた。しかし隠居附にせられて、主に柳嶋にあつた信順の館ヘ出仕することになつてゐた。父允成が致仕して、家督相続をしてから十九年、母岩田氏氏縫を喪つてから十二年、父を失ってから四年になつてゐる。三度目の妻岡西氏徳と長男恒善、長女純、二男優善とが家族で、五人暮しである。主人が三十七、妻が三十二、長男が十六、長女が十一、二男が七つである。邸は神田弁慶橋にあつた。知行は三百石である。しかし抽斎は心を潜めて古代の医書を読むことが好で、技を售らうと云ふ念がないから、知行より外の収人は殆ど無かつただらう。只津軽家の秘方一粒金丹と云ふものを製して売ることを許されてゐたので、若干の利益はあつた。
 抽斎は自ら奉ずること極めて薄い人であつた、酒は全く飲まなかつたが、四年前に先代の藩主信順に扈随して弘前に往つて、翌年まで寒国にゐたので、晩酌をするやうになつた。煙草は終生喫まなかつた。遊山などもしない。時々採薬に小旅行をする位に過ぎない。只好劇家で劇場には屡出入したが、それも同好の人々と一しよに平土間を買つて行くことに極めてゐた。此連中を周茂叔連と称へたのは、廉を愛すると云ふ意味であつたさうである。
 抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を購ふと客を養ふとの二つの外に出でなかつただらう。澁江家は代々学医であつたから、父祖の手沢を存じてゐる書籍が少くなかつただらうが、現に経籍訪古志に載つてゐる書目を見ても抽斎が書を買ふために貲を惜まなかつたことは想ひ遣られる。
 抽斎の家には食客が絶えなかつた。少いときは二三人、多いときは十余人だつたさうである。大抵諸生の中で、志があり才があつて自ら給せざるものを選んで、寄食を許してゐたのだらう。
 抽斎は詩に貧を説いてゐる。其貧がどんな程度のものであつたかと云ふことは、略以上の事実から推測することが出来る。此詩を瞥見すれば、抽斎は某貧に安んじて、自家の材能を父祖伝来の医業の上に施してゐたかとも思はれよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の底に隠されてあるのを見ずにはゐられない。試みに看るが好い。一瞬の如くに過ぎ去った四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才伸を以て妥に承けられる筈がない。伸ると云ふのは反語でなくてはならない。老驥櫪に伏すれども、志千里に在りと云ふ意が此中に蔵せられてゐる。第三も亦同じ事である、作者は天命に任せるとは云つてゐるが、意を栄達に絶つてゐるのではなささうである。さて第四に至つて、作者は其貧を患へずに、安楽を得てゐると云ってゐる。これも反語であらうか。いや。さうではない。久しく修養を積んで、内に恃む所のある作者は、身を困苦の中に屈してゐて、志は未だ伸びないでもそこに安楽を得てゐたのであらう。

その二

 抽斎は此詩を作つてから三年の後、弘化元年に躋寿館の講師になつた。躋寿館は明和二年に多紀玉池が佐久間町の天文台址に立てた医学校で、寛政三年に幕府の管轄に移されたものである。抽斎が講師になつた時には、もう玉池が死に、子藍渓、孫桂山、曾孫柳■も死に、玄孫暁湖の代になつてゐた。抽斎と親しかつた桂山の二男■庭は、分家して館に勤めてゐたのである。今の制度と較べて見れば、抽斎は帝国大学医科大学の教職に任ぜられたやうなものである。これと同時に抽斎は式日に登城することになり、次いで嘉永二年に将軍家慶に謁見して、所謂目見以上の身分になつた。これは抽斎の四十五歳の時で、其才が伸びたと云ふことは、此時に至つて始て言ふことが出来たであらう。しかし貧窮は旧に依つてゐたらしい。幕府からは嘉永三年以後十五人扶持出ることになり、安政元年に又職務俸の如き性質の五人扶持が給せられ、年末ごとに賞銀五両が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これを以て償ふことは出来なかつた。謁見の年には当時の抽斎の妻山内氏五百が、衣類や装飾品を売つて費用に充てたさうである。五百は徳が亡くなつた後に抽斎の納れた四人目の妻である。
 抽斎の述志の詩は、今わたくしが中村不折さんに書いて貰って、居間に懸けてゐる。わたくしは此頃抽斎を敬慕する余りに、此幅を作らせたのである。
 抽斎は現に広く世間に知られてゐる人物ではない。偶少数の人が知つてゐるのは、それは経籍訪古志の著者の一人として知つてゐるのである。多方面であつた抽斎には、本業の医学に関するものを始として、哲学に関するもの、美術に関するもの等、許多の著述がある。しかし安政五年に抽斎が五十四歳で亡くなる迄に、脱稿しなかつたものもある。又既に成つた書も、当時は書籍を刊行すると云ふことが容易でなかつたので、世に公にせられなかつた。
 抽斎の著した書で、存命中に印行せられたのは、只護痘要法一部のみである。これは種痘術のまだ広く行はれなかつた当時、医中の先覚者がこの恐るべき伝染病のために作つた数種の書の一つで、抽斎は術を池困京水に受けて記述したのである。これを除いては、こゝに数へ挙げるのも可笑しい程の四つの海と云ふ長唄の本があるに過ぎない。但しこれは当時作者が自家の体面をいたばつて、贔屓にしてゐる富士田千蔵の名で公にしたのだが、今は憚るには及ぶまい。四つの海は今猶杵屋の一派では用ゐてゐる謡物の一つで、これも抽斎が多方面であつたと云ふことを証するに足る作である。
 然らば世に多少知られてゐる経籍訪古志はどうであるか、これは抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園と分担して書いたものであるが、これを上梓することは出来なかつた。そのうち支那公使館にゐた楊守敬が其写本を手に入れ、それを跳子梁が公使徐承祖に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させることになつた。其時幸に森がまだ生存してゐて、校正したのである。
 世間に多少抽斎を知つてゐる人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた経籍訪古志があるからである。しかしわたくしはこれに依つて抽斎を知ったのではない。
 わたくしは少い時から多読の癖があつて、随分多く書を買ふ。わたくしの俸銭の大部分は内地の書肆と、ベルリン、パリイの書估との手に入つてしまふ。しかしわたくしは曾て珍本を求めたことがない。或る時ドイツのバルテルスの文学史の序を読むと、バルテルスが多く書を読まうとして、廉価の本を渉猟し、文学史に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないと云ってあった。わたくしはこれを読んで私かに殊域同嗜の人を獲たと思った。それゆゑわたくしは漢籍に於ても宋槧本とか元槧本とか云ふものを顧みない。経籍訪古志は余りわたくしの用に立たない。わたくしは其著者が澀江と森とであつたことをも忘れてゐたのである。

その三

 わたくしの抽斎を知つたのは奇縁である。わたくしは医者になつて大学を出た。そして官吏になつた。然るに少い時から文を作ることを好んでゐたので、いつの間にやら文士の列に加へられることになつた。其文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるやうになつてから、わたくしは徳川時代の事蹟を捜った。そこに武鑑を検する必要が生じた。
 武鑑は、わたくしの見る所によれば、徳川史を窮むるに闕くぺからざる史料である。然るに公開せられてゐる図書館では、年を逐つて発行せられた武鑑を集めてゐない。これは武鑑、殊に寛文頃より古い類書は、諸侯の事を記するに誤謬が多くて、信じ難いので、措いて顧みないのかも知れない。しかし武鑑の成立を考へて見れば、此誤謬の多いのは当然で、それは又他書によつて正すことが容易である。さて誤謬は誤謬として、記載の全体を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これに優る史料は無い。そこでわたくしは自ら武鑑を蒐集することに着手した。
 此蒐集の間に、わたくしは弘前医官澀江氏蔵書記と云ふ朱印のある本に度々出逢って、中には買ひ入れたのもある。わたくしはこれによつて弘前の官医で澀江と云ふ人が、多く武鑑を蔵してゐたと云ふことを、先づ知つた。
 そのうち武鑑と云ふものは、いつから始まつて、最も古いもので現存してゐるのはいつの本かと云ふ問題が生じた。それを決するには、どれだけの種類の書を武鑑の中に数へるかと云ふ、武鑑のデフイニションを極めて掛からなくてはならない。
 それにはわたくしは足利武鑑、織田武鑑、豊臣武鑑と云ふやうな、後の人のレコンストリユクシヨンによつて作られた書を最初に除く。次に群書類従にあるやうな分限帳の類を除く。さうすると跡に、時代の古いものでは、御馬印揃、御紋尽、御屋敷附の類が残つて、それが稍形を整へた江戸鑑となり、江戸鑑は直ちに後の所謂武鑑に接続するのである。
 わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの武鑑に対する知識は日々変つて行く。しかし今知つてゐる限を言へば、馬印揃や紋尽は寛永中からあつたが、当時のものは今存じてゐない。その存じてゐるのは後に改板したものである。只一つこゝに姑く問題外として置きたいものがある。それは沼田頼輔さんが最古の武鑑として報告した、鎌田氏の治代普顕記中の記載である、沼田さんは西洋で特殊な史料として研究せられてゐるエラルヂツクを、我国に興さうとしてゐるものと見えて、紋章を研究してゐる。そして此目的を以て武鑑をあさるうちに、土佐の鎌田氏が寛永十一年の一万石以上の諸侯を記載したのを発見した。即ち治代普顕記の一節である。沼田さんは幸にわたくしに謄写を許したから、わたくしは近いうちに此記載を精検しようと思ってゐる。
 そんなら今に■(いた)るまでに、わたくしの見た最古の武鑑乃至其類書は何かと云ふと、それは正保二年に作つた江戸の屋敷附である。これは殆ど完全に保存せられた板本で、末に正保四年と刻してある。只題号を刻した紙が失はれたので、恣に命じた名が表紙に書いてある。此本が正保四年と刻してあつても、実は正保二年に作つたものだと云ふ証拠は、巻中に数箇条あるが、試みに其一つを言へば、正保二年十ニ月二日に歿した細川三斎が三斎老として挙げてあって、又其第を諸邸宅のオリアンタシヨンのために引合に出してある箏である。此本は東京帝国大学図書館にある。

その四

 わたくしはこの正保二年に出来て、四年に上梓せられた屋敷附より古い武鑑の類書を見たことが無い。降つて慶安中の紋尽になると、現に上野の帝国図書館にも一冊ある。しかし可笑しい事には、外題に慶安としてあるものは、後に寛文中に作つたもので、真に慶安中に作つたものは、内容を改めずに、後の年号を附して印行したものである。それから明暦中の本になると、世間にちらほら残つてゐる。大学にある紋尽には、伴信友の自筆の序がある。伴は文政三年に此本を獲て、最古の武鑑として蔵してゐたのださうである。それから寛文中の江戸鑑になると、世間に稍多い。
 これはわたくしが数年間武鑑を捜索して得た断案である。然るにわたくしに先んじて、夙く同じ断案を得た人がある。それは上野の図書館にある江戸鑑図目録と云ふ写本を見て知ることが出来る。此書は古い武鑑類と江戸図との目録で、著者は自己の寓目した本と、買ひ得て蔵してゐた本とを挙げてゐる。此書に正保二年の屋敷附を以て当蹄符じてゐた最古の武鑑類書だとして、巻首に載せてゐて、二年の二の字の傍に四と註してゐる。著者は四年と刻してある此書の内容が二年の邪実だと云ふことにも心附いてゐたものと見える。著者はわたくしと同じやうな菰集をして、同じ断案を得てゐたと見える。序だから言ふが、わたくしは宵い江戸図をも集めてゐる。
 然るに此目録には著者の名が署して無い。只文中に所々考証を記すに当つて抽斎云としてあるだけである。そしてわたくしの度々見た弘前医官澀江氏蔵書記の朱印が此写本にもある。
 わたくしはこれを見て、ふと澀江氏と抽斎とが同人ではないかと思つた。そしてどうにかしてそれを確めようと思ひ立つた。
 わたくしは友人、就中東北地方から出た友人に逢ふ毎に、澀江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状を遺つて問ひ含せた。
 或る日長井金風さんに会って問ふと、長井さんが云つた。「弘前の澀江なら蔵書家で経籍訪古志を書いた人だ」と云った。しかし抽斎と号してゐたかどうだかば長井さんも知らなかつた。経籍訪古志には抽斎の号は載せてないからである。
 そのうち弘前に勤めてゐる同僚の書状が数通届いた。わたくしはそれによつてこれだけの事を知つた。澀江氏は元禄の頃に津軽家に召し抱へられた医者の家で、代々勤めてゐた。しかし定府であつたので、弘前には深く交った人が少く、又澀江氏の墓所も無ければ子孫も無い。今東京にゐる人で、澀江氏と交ったかと思はれるのは、飯田巽と云ふ人である。又郷土史家として澀江氏の事蹟を知つてゐようかと思はれるのは、外崎覚と云ふ人であると云ふ事である。中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事に精しい佐藤弥六さんと云ふ老人で、当時大正四年に七十七歳になると云ってあつた。
 わたくしは直接に澀江氏と交ったらしいと云ふ飯田巽さんを、先づ訪ねようと思って、唐突ではあつたが、飯田さんの西江戸川町の邸へ往つた。飯田さんは素と宮内省の官吏で、今某会社の監査役をしてゐるのださうである。西江戸川町の大きい邸はすぐ知れた。わたくしは誰の紹介をも求めずに往つたのに、飯田さんは快く引見して、わたくしの問に答へた。飯田さんは澀江道純を識つてゐた。それは飯田さんの親戚に医者があつて、其人が何か医学上にむづかしい事があると、澀江に問ひに往くことになつてゐたからである。道純は本所御台所町に住んでゐた。しかし子孫はどうなつたか知らぬと云ふのである。

その五

 わたくしは飯田さんの口から始めて道純と云ふ名を聞いた。これは経籍訪古志の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さんは知らなかつた。
 切角道純を識つてゐた人に会ったのに、子孫のゐるかゐないかもわからず、墓所を問ふたつきをも得ぬのを遺憾に思って、わたくしは暇乞をしようとした。其時飯田さんが、「ちよいとお待下さい、念のために妻にきいて見ますから」と云った。
 細君が席に呼び入れられた。そして若し澀江道純の跡がどうなつてゐるか知らぬかと問はれて答へた。「道純さんの娘さんが本所松井町の杵屋勝久さんでございます。」
 経籍訪古志の著者澀江道純の子が現存してゐると云ふことを、わたくしは此時始めて知つた。しかし杵屋と云へば長唄のお師匠さんであらう。それを本所に訪ねて、「お父うさんは抽斎と云ふ別号がありましたか」とか、「お父うさんは武鑑を集めてお出でしたか」とか云ふのは、余りに唐突ではあるまいかと、わたくしは懸念した。
 わたくしは杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問ひ會はせて貰ふことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾した。わたくしは探索の一歩を進めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辞した。
 二三日立つて飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには澀江終吉と云ふ甥があつて、下渋谷に住んでゐると云ふのである。杵屋さんの甥と云ヘば、道純から見れば、孫でなくてはならない。さうして見れば、道純には娘があり孫があつて現存してゐるのである。
 わたくしは直に終吉さんに手紙を出して、何時何処へ往つたら逢はれようかと問うた。返事は直に来た。今風邪で寝てゐるが、なほつたら此方から往っても好いと云ふので坊る。手跡はまだ少い人らしい。
 わたくしは曠しく終吉さんの病の癒えるのを待たなくてはならぬことになつた。探索はこゝに一頃挫を来さなくてはならない。わたくしはそれを遺憾に思って、此隙に弘前から、歴史家として道純の事を知つてゐさうだと知らせて来た外崎覚といふ人を訪ねることにした。
 外崎さんは官吏で、籍が諸陵寮にある。わたくしは宮内省へ往つた。そして諸陵寮が宮城を離れた霞が関の三年坂上にあることを教へられた。常に宮内省には往来しても、諸陵寮がどこにあると云ふことは知らなかつたのである。
 諸陵寮の小さい応接所で、わたくしは初めて外崎さんに会った。飯田さんの先輩であつたとは違つて、此人はわたくしと齢も相若くと云ふ位で、しかも史学を以て仕へてゐる人である。わたくしは傾蓋故きが如き念をした。
 初対面の挨拶が済んで、わたくしは来意を陳べた。武鑑を蒐集してゐる事、古武鑑に精通してゐた無名の人の著述が写本で伝はつてゐる事、その無名の人は自ら抽斎と称してゐる事、其写本に弘前の澀江と云ふ人の印がある衷、抽斎と澀江とが若しや同人ではあるまいかと思つてゐる事、これだけの事をわたくしは簡単に話して、外崎さんに解決を求めた。

その六

 外崎さんの答は極めて明快であつた。「抽斎と云ふのは経籍訪古志を書いた澀江道純の号ですよ。」
 わたくしは釈然とした。
 抽斎澀江道純は経史子集や医籍を渉猟して考証の書を著したばかりでなく、古武鑑や古江戸図をも蒐集して、其考証の迹を手記して置いたのである。上野の図書館にある江戸鑑図目録は即ち古武鑑古江戸図の訪古志である。惟経史子集は世の重要視する所であるから、経籍訪古志は一の徐承祖を得て公刊せられ、古武鑑や古江戸図は、わたくし共の如き微力な好事家が偶一顧するに過ぎないから、其目録は僅に存して人が識らずにゐるのである。わたくし共はそれが帝国図書館の保護を受けてゐるのを、せめてもの僥倖としなくてはならない。
 わたくしは又かう云ふ事を思った。抽斎は医者であつた。そして官吏であつた。そして経書や諸子のやうな哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のやうな文芸方面の書をも読んだ。其迹が頗るわたくしと相似てゐる。只その相殊なる所は、古今時を異にして、生の相及ばざるのみである。いや。さうではない。今一つ大きい差別がある。それは抽斎が哲学文芸に於いて、考証家として樹立することを得るだけの地位に達してゐたのに、わたくしは雑駁なるヂレツタンチスムの境界を脱することが出来ない、わたくしは抽斎に視て忸怩たらざることを得ない。
 抽斎は曾てわたくしと同じ道を歩いた人である。しかし其健脚はわたくしの比ではなかつた。迥にわたくしに優つた済勝の具を有してゐた。抽斎はわたくしのためには畏敬すべき人である。
 然るに奇とすべきは、其人が康衢通逵をばかり歩いてゐずに、往々径に由つて行くことをもしたと云ふ事である。抽斎は宋槧の経子を討めたばかりでなく、古い武鑑や江戸図をも翫んだ。若し抽斎がわたくしのコンタンポランであつたなら、二人の袖は横町の溝板の上で摩れ合った筈である。こゝに此人とわたくしとの間に■(なじ)みが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。
 わたくしはかう思ふ心の善ばしさを外崎さんに告げた。そしてこれまで抽斎の何人なるかを知らずに、漫然抽斎のマニユスクリイの蔵■者(ざうきよしや)たる澀江氏の事蹟を訪ね、そこに先づ経籍訪古志を著した澀江道純の名を知り、其道純を識つてゐた人に由つて、道純の子孫の現存してゐることを聞き、やう/\今日道純と抽斎とが同人であることを知つたと云ふ道行を語つた。
 外崎さんも事の奇なるに驚いて云った。「抽斎の子なら、わたくしは識つてゐます。」「さうですか。長唄のお師匠さんださうですね。」「いゝえ。それは知りません。わたくしの知つてゐるのは抽斎の跡を継いだ子で、保と云ふ人です。」「はあ。それでは澀江保と云ふ人が、抽斎の嗣子であつたのですか。今保さんは何処に住んでゐますか。」「さあ。大ぶ久しく逢ひませんから、ちよつと住所がわかりかねます。しかし同郷人の中には知つてゐるものがありませうから、近日聞き合せて上げませう。」

その七

 わたくしは直に保さんの住所を訪ねることを外崎さんに頼んだ。保と云ふ名は、わたくしは始めて聞いたのでは無い。是より先、弘前から来た書状の中に、かう云ふことを報じて来たのがあつた。津軽家に仕へた澀江氏の当主は澀江保である。保は広嶋の師範学校の教員になつてゐると云ふのであつた。わたくしは職員録を検した。しかし澀江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長幣原坦さんに書を遣つて問うた。しかし学校には此名の人はゐない。又曾てゐたこともなかつたらしい。わたくしは多くの人に澀江保の名を挙げて問うて見た。中には博文館の発行した書籍に、此名の著者があつたと云ふ人が二三あつた。しかし広嶋に踪跡が無かつたので、わたくしは此報道を疑って追跡を中絶してゐたのである。
 此に至つてわたくしは抽斎の子が二人と、孫が一人と現存してゐることを知った。子の一人は女子で、本所にゐる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にゐる終吉さんである。しかし保さんを識つてゐる外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかつた。
 わたくしは猶外崎さんに就いて、抽斎の事蹟を詳にしようとした。外崎さんは記憶してゐる二三の事を語つた。澀江氏の祖先は津軽信政に召し抱へられた。抽斎はその数世の孫で、文化中に生れ、安政中に歿した。その徳川家慶に謁したのは嘉永中の事である。墓誌銘は友人海保漁村が撰んだ。外崎さんはおほよそこれだけの事を語って、追って手近にある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出して贈らうと約した。わたくしは保さんの所在を捜すことと、此抜萃を作ることとを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の応接所を出た。
 外崎さんの書状は間もなく来た。それに前田文正錐記、津軽日記、喫茗雑話の三書から、抽斎に関する事蹟を抄出して添へてあつた。中にも喫茗雑話から抄したものは、漁村の撰んだ抽斎の墓誌の略で、わたくしは其中に「道純諱全善、号抽斎、道純其字也」と云ふ文のあるのを見出した。後に聞けば全善はかねよしと訓ませたのださうである。
 これと殆ど同時に、終吉さんの稍長い書状が来た。終吉さんは風邪が急に癒えぬので、わたくしと会見するに先つて、澀江氏に関する数件を書いて送ると云って、祖父の墓の所在、現存してゐる親戚交互の関係、家督相続をした叔父の住所等を報じてくれた。墓は谷中斎場の向ひの横町を西へ入つて、北側の感応寺にある。そこヘ往けば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけであゐ。血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。此二人の同胞の間に脩と云ふ人があつて、亡くなつて、其子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であつて、三軒の家は頗る生計の方向を殊にしてゐる。そこで早く怙を失った終吉さんは伯母をたよつて往来をしてゐても、勝久さんと保さんとはいつとなく疏遠になつて、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにゐたさうである。そのうち丁度わたくしが澀江氏の子孫を捜しはじめた頃、保さんの女冬子さんが病死した。それを保さんが姉に報じたので、勝久さんは弟の所在を知つた。終吉さんが住所を告げてくれた叔父と云ふのが即ち保さんである。是に於いてわたくしは、外崎さんの捜索を煩すまでもなく、保さんの今の牛込船河原町の住所を知つて、直にそれを外崎さんに告げた。

その八

 わたくしは谷中の感応寺に往つて、抽斎の墓を訪ねた。墓は容易く見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立つてゐる。「抽斎澀江君墓碣銘」と云ふ篆額も墓誌銘も、皆小嶋成斎の書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐れて、割愛して刪除したものださうである。喫茗雑話の載する所は三分の一にも足りない。わたくしは又後に五弓雪窓が此文を事実文編巻の七十二に収めてゐるのを知つた。国書刊行会本を閲するに、誤脱は無いやうである。只「撰経籍訪古志」に訓点を施して、経籍を撰び、古志を訪ふと訓ませてあるのに僚なかつた。経籍訪古志の書名であることは論ずるまでもなく、あれは多紀■庭の命じた名だと云ふことが、抽斎と森枳園との作つた序に見えてをり、訪古の字面は、宋史鄭樵の伝に、名山大川に游び、奇を搜し古を訪ひ、書を蔵する家に遇へば、必ず借留し、読み尽して乃ち去るとあるのに出たと云ふことが、枳園の書後に見えてをる。
 墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、又「一女平野氏出」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が保さんの事ださうである。又平野氏の生んだ女と云ふのは、比良野文蔵の女威能が、抽斎の二人目の妻になつて生んだ純である。勝久さんや終吉さんの亡父脩は此文に載せて無いのである。
 抽斎の碑の西に澀江氏の墓が四基ある。其一には「性如院宗是日体信士、庚申元文五年七月十七日」と、向って右の傍に彫つてある。抽斎の高祖父輔之である。中央に「得寿院量遠日妙信士、天保八酉年十月二十六日」と、彫つてある。抽斎の父允成である。其間と左とに高祖父と父との配偶、夭折した允成の女二人の法諡が彫つてある。「松峰院妙実日相信女、己丑明和六年四月十三日」とあるのは、輔之の妻、「源静院妙境信女、庚戌寛政二年四月十三日」とあるのは、尤成の初の妻田中氏、「寿松院妙遠日量信女、文政十二己丑六月十四日」とあるのは、抽斎の生母岩田氏縫、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏、寛政六年甲寅三月七日、三歳而夭、俗名逸」とあるのも、「曇華水子、文化八年辛未閏二月十四日」とあるのも、並に皆允成の女である。其二には「至善院格誠日在、寛保二年壬戌七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年甲寅三月十日」と彫つてある。至善院は抽斎の曾祖父為隣で、終事院は抽斎が五十歳の時父に先つて死んだ長男恒善である。其三には五人の法諡が並べて刻してある。「医妙院道意日深信士、天明四甲辰二月廿九日」としてあるのは、抽斎の祖父本皓である。「智照院妙道日修信女、寛政四壬子八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻登勢である。「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母澀江氏、安永六年丁酉五月三日死、享年十九、俗名千代、臨終作歌曰」云々としてあるのは、登勢の生んだ本皓の女である。抽斎の高祖父輔之は男子が無くて歿したので、十歳になる女登勢に壻を取つたのが為隣である。為隣は登勢の人と成らぬうちに歿した。そ二へ本皓が養子に来て、登勢の配偶になつて、千代を生ませたのである。千代が十九歳で歿したので、澀江氏の血統は一たび絶えた。抽斎の父允成は本皓の養子である。次に某々孩子と二行に刻してあるのは、並に皆保さんの子ださうである。其四には「澀江脩之墓」と刻してあつて、これは石が新しい。終吉さんの父である。
 後に聞けば墓は今一基あつて、それには抽斎の六世の祖辰勝が「寂而院宗貞日岸居士」とし、其妻が「繋縁院妙念日潮大姉」とし、五世の祖辰盛が「寂照院道陸玄沢日行居士」とし、其妻が「寂光院妙照日修大姉」とし、抽斎の妻比良野氏が、「■照院妙浄日法大姉」とし、同岡西氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあつたが、其石の折れてしまつた迹に、今の終吉さんの父の墓が建てられたのださうである。
 わたくしは自己の敬愛してゐる抽斎と、其尊卑二属とに、香華を手向けて置いて感応寺を出た、尋いでわたくしは保さんを訪はうと思ってゐると、偶女杏奴が病気になつた。日々官衙には通ったが、公退の時には家路を急いだ。それゆゑ人を訪問することが出来ぬので、保、終吉の両澀江と外崎との三家へ、度々書状を遣った。
 三家からはそれ%返信があつて、中にも保さんの書状には、抽斎を知るために闕くべからざる資料があつた。それのみではない。終吉さんは其隙に全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽斎の事をわたくしに語って貰ひたいと頼んだのである。叔父甥はこゝに十数年を隔てゝ相見たのださうである。又外崎さんも一度わたくしに代つて保さんをおとづれてくれたので、杏奴の病が癒えて、わたくしが船河原町へ往くに先んじて、とう/\保さんが官衙に来てくれて、わたくしは抽斎の嗣子と相見ることを得た。

その九

 気候は寒くても、まだ炉を焚く季節に入らぬので、火の気の無い官衙の一室で、卓を隅てて保さんとわたくしとは対坐した。そして抽斎の事を語って倦むことを知らなかつた。
 今残つてゐる勝久さんと保さんとの姉弟、それから終吉さんの父脩、此三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、山内氏五百の生んだのである。勝久さんは名を陸と云ふ。抽斎が四十三、五百が三十二になつた弘化四年に生れて、大正五年に七十歳になる。抽斎は嘉永四年に本所へ移つたのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。
 終吉さんの父脩は安政元年に本所で生れた。中三年置いて四年に、保さんは生れた。抽斎が五十三、五百が四十二の時の事で、勝久さんはもう十一、脩も四歳になつてゐたのである。
 抽斎は安政五年に五十四歳で亡くなつたから、保さんは其時まだ二歳であつた。幸に母五百は明治十七年までながらへてゐて、保さんは二十八歳で恃を喪ったのだから、二十六年の久しい間、慈母の口から先考の平生を聞くことを得たのである。
 抽斎は保さんを学医にしようと思ってゐたと見える。亡くなる前にした遺言によれば、経を海保漁村に、医を多紀安琢に、書を小嶋成斎に学ばせるやうに云ってある。それから洋学に就いては、折を見て蘭語を教へるが好いと云ってある。抽斎は友人多紀■庭などと同じやうに、頗るオランダ嫌ひであつた。学殖の深かつた抽斎が、新奇を趁ふ世俗と趨舎を同じくしなかつたのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中に市川小団次の芸を「西洋」だと云ってある。これは褒めたのではない。然るにその抽斎が晩年に至つて、洋学の必要を感じて、子に蘭語を教へることを遺言したのは、安積艮斎に其著述の写本を借りて読んだ時、翻然として悟つたからださうである。想ふにその著述と云ふのは洋外紀略などであつただらう。保さんは後に蘭語を学ばずに英語を学ぶことになつたが、それは時代の変遷のためである。
 わたくしは保さんに、抽斎の事を探り始めた因縁を話した。そして意外にも、僅に二歳であつた保さんが、父に武鑑を貰って翫んだと云ふことを聞いた。それは出雲寺板の大名武鑑で、鹵簿の道具類に彩色を施したものであつたさうである。それのみでは無い。保さんは父が大きい本箱に「江戸鑑」と貼札をして、其中に一ぱい古い武鑑を収めてゐたことを記憶してゐる。此コルレクシヨンは保さんの五六歳の時まで散佚せずにゐたさうである。江戸鑑の箱があつたなら、江戸図の箱もあつただらう。わたくしはこゝに江戸鑑図国録の作られた縁起を知ることを得たのである。
 わたくしは保さんに、父の事に関する記億を、箇条書にして貰ふことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで独立評論に追憶談を載せてゐるから、それを見せようと約した。
 保さんと会見してから間もなく、わたくしは大礼に参列するために京都へ立つた。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にゐるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰つて、直に保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、又独立評論をも借りた。こゝにわたくしの説く所は主として保さんから獲た材料に拠るのである。

その十

 澀江氏の祖先は下野の大田原家の臣であつた。抽斎六世の祖を小左衛門辰勝と云ふ。大閏原政継、政増の二代に仕へて、正徳元年七月二日に歿した。辰勝の嫡子重光は家を継いで、大田原政増、清勝に仕へ、二男勝重は去つて肥前の大村家に仕へ、三男辰盛は奥州の津軽家に仕へ、四男勝郷は兵学者となつた。大村には勝重の往く前に、源頼朝時代から続いてゐる澀江公業の後裔がある。それと下野から往つた澀江氏との関係の有無は、猶講窮すべきである。辰盛が抽斎五世の祖である。
 澀江氏の仕へた大田原家と云ふのは、恐らくは下野国那須郡大田原の城主たる宗家ではなく、其支封であらう。宗家は澀江辰勝の仕へたと云ふ頃、清信、扶清、友清などの世であつた筈である。大田原家は素一万二千四百石であつたのに、寛文五年に備前守政清が主膳高清に宗家を襲がせ、千石を割いて末家を立てた。澀江氏は此支封の家に仕へたのであらう。今手許に末家の系譜がないから検することが出来ない。
 辰盛は通称を他人と云って、後小三郎と改め、又喜六と改めた。道陸は剃髪してからの称である。医を今大路侍従道三玄淵に学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽越中守信政に召し抱へられて、擬作金三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は宝永と改元せられた年である。師道三は故土佐守信義の五女を娶つて、信政の姉壻になつてゐたのである。辰盛は宝永三年に信政に随つて津軽に往き、四年正月二十八日に知行二百石になり、宝永七年には二度日、正徳二年には三度目に入国して、正徳二年七月二十八日に禄を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せられた。此時は信政が宝永七年に卒したので、津軽家は土佐守信寿の世になつてゐた。辰盛は享保十四年九月十九日に致仕して、十七年に歿した。出羽守信著の家を嗣いだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年だから、年を享くること七十一歳である。此人は二男で他家に仕へたのに、其父母は宗家から来て奉養を受けてゐたさうである。
 辰盛は兄重光の二男輔之を下野から迎へ、養子として玄瑳と称へさせ、これに医学を授けた。即ち抽斎の高祖父である。輔之は享保十四年九月十九日に家を継いで、直に三百石を食み、信寿に仕ふること二年余の後、信著に仕へ、改称して二世道陸となり、元文五年閏七月十七日に歿した。元禄七年の生であるから、四十七歳で歿したのである。
 輔之には登勢と云ふ女一人しか無かつた。そこで病革なるとき、信濃の人某の子を養って嗣となし、これに登勢を配した。登勢はまだ十歳であつたから、名のみの夫婦である。此女壻が為隣で、抽斎の曾祖父である。為隣は寛保元年正月十一日に家を継いで、二月十三日に通称の玄蕃を二世玄瑳と改め、翌寛保二年七月二日に歿し、跡には登勢が十二歳の未亡人として遺された。
 寛保二年に十五歳で、此登勢に入贅したのは、武蔵国忍の人竹内作左衛門の子で、抽斎の祖父本皓が即ち此である。津軽家は越中守信寧の世になつてゐた。宝暦九年に登勢が二十九歳で女千代を生んだ。千代は絶えなんとする澀江氏の血統を僅に繋ぐべき子で、剰へ聡慧なので、父母はこれを一粒種と称して鍾愛してゐると、十九歳になつた安永六年の五月三日に、辞世の歌を詠んで死んだ。本皓が五十一歳、登勢が四十七歳の時である。本皓には庶子があつて、名を令図と云ったが、澀江氏を続くには特に学芸に長じた人が欲しいと云ふので、本皓は令図を同藩の医小野道秀の許へ養子に遣って、別に継嗣を求めた。
 此時根津に茗荷屋と云ふ旅店があつた。其主人稲垣清蔵は鳥羽稲垣家の重臣で、君を諌めて旨に忤ひ、遁れて商人となつたのである。清蔵に明和元年五月十二日生れの嫡男専之助と云ふのがあつて、六歳にして詩賦を普くした。本皓がこれを聞いて養子に所望すると、清蔵は子を士籍に復せしむることを願ってゐたので、快く許諾した。そこで下野の宗家を仮親にして、大田原頼母家来用人八十石澀江官左衛門次男と云ふ名義で引き取つた。専之助名は允成字は子礼、定所と号し、居る所の室を容安と云った。通称は初玄庵と云ったが、家督の年の十一月十五日に四世道陸と改めた。儒学は柴野粟山、医術は依田松純の門人で、著述には容安室文稿、定所詩集、定所雑録等がある。これが抽斎の父である。
つづく
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