幽明鏡草紙 潮山 長三 『久方の雲居に懸る月の中には、昔から兎が餅を|樢《つ》いていると申しますが、それはたとえ童だ ましの|噺《はなし》に過ぎぬと致しましたところで、全く、冴え冴えと照り輝いた月の面を、静かに打ち 仰ぎますと、そこにはちょうど、拭っても取れぬ剣の血曇りのような、或いは又下界から昇っ た物の煙が、|中空《なかぞら》の夜風に凍えて凝って、そのまま二度と立ち迷いもせず貼りついているよう な、淡い影が、必ずむらむらと|隈《くま》どって見えます。 『月の都という言葉がございます。月の都はその兎の頭の所にあるのか、手にした|杵《きね》の辺にあ るのか、どっちにしても都というのがある以上、月は大きな国土なのでございましょう。そも そも兎と見える月の|隈《くま》は、あれはひどい|凸凹《でこぼこ》になっているのに違いございません。さしずめ大 きな山、大きな海ほどの凸凹になっているのに違いございません。月が果して凸凹になってい るかいないか。それを確かに知ろうとするのには、天地に届く大きな舌で、月の|面《おもて》をべろべろ と|嘗《な》めてみるのが、一番の早道でございます。  はい、舌でございます。人間の口の中にあ る舌でございます。百味の|飲食《おんじき》を味わう人間の舌で、一心凝らして嘗めますると、それで始め て凸凹なのがわかるのでございます。これは真実道理に適いました事で、決して奇怪なおどけ を申上げるのではございません。 『その上に又、月には裏側が在りまして、この裏側はただ見れば丸い一枚の盆のような|平《たいら》な物 になっていて、そこには月一杯の大きさの兎めいた物の|像《かたち》が、まるで彫りつけたようになって いるのに違いなかろうと存じます。  と申上げると、いよいよますます奇怪なおどけを云う ようにも聞えましょう。けれども、裏側に在る物の像が月の面に|徹《とお》って、ただ今申上げた隈と なって、下界の人の目に見えるのでございます。 『これに就きましては、考えるまでもなく、だいたい、天地に届く舌などと、そんな物こそ、 元より話にだってあるものではございません。しかし、|私若《わたくし》盛りの頃には、全くのところ、月 の面が嘗めてみたくて仕方がございませんでした。 『はい? 月を嘗めてどうすると|仰《おつ》しゃるのでございますか。  いや、これにはいささか仔 細のある事でございまして……何、その仔細を話せと仰しゃいますか。いや、これはどうも、 こればかりはお話する事が……いや、どうもこれは困りました。平に御用捨を、平に御用捨の ほどを。 『ふうん! それでは、どうしても話せと仰しゃいますか。さようでございますか……はああ! それでは、私の申上げました事が、奇怪なおどけでない事を証拠立てる為に、老人になったこ の年まで、人には少しも語らなかったお話をいたしましょうか。 『前以て申上げて置きますが、およそ昔から、歌にもしばしば「月の鏡」と詠じられている通 り、まことに月は天の鏡、又人の心の鏡と申してまいりました。それに引き変えまして、人間 が顔を写す鏡、これがただ今私の物語の題目になるものでございます。 『鏡と云えば、私は若い時から、ただ今同様鏡造りの鋳物師でございますが、六十の坂を越し たこの年になって始めて、商売上の秘事を一ツ打ち明けましょう。それは、いかなる天下の名 鏡といえども、その面に少しでも|凹凸《おうとつ》のない物はないと云う事、即ちこれでございます。これ ははっきりと申上げて置きましょう。さよう、世の中の鏡という鏡は、目には見えぬが、どれ もこれも一様に凹凸になっているのでございます。この鏡面凹凸見分けの秘法を知りましてか ら、さてこそ月を舌で味わおうと云う気違い染みた望みも起ってまいりました。 『この秘法が日本に行われ出すまでには、まことに命懸けの事がございました。と云って、そ れは唐などから来た事ではございません。一口に申すなら、  或る若い鋳物師が、ひどく身 分の違った貴い美しい或る姫君の、恋心を嘗めたばかりでなく、苦しみを嘗め涙を嘗め、果て は舌で亡者をも嘗めた上に仏まで、思う存分に嘗めました。そうして後に、ようやく秘法を自 ら悟ったのでございます。実にいろいろと嘗めましたがーいや、それよりも、飽きるほど嘗 めた物は、やはり浮世の塩だった事は申上げるまでもございますまい。 『その若い鋳物師と云うのは  もうお察しでございましょう。それは若かった頃の、この私 の事でございます』  と語り出したのは、その頃平安の都に隠れのない第一の鏡造りの鋳物師、|彦六《ひころく》という|翁《おきな》で ある。  彦六は老人の持ち前で、とぼけた、へんてこな事を云い出したように見えるか知れないけ れど、|揉烏帽子《もみえぼし》を冠った頭を心持ち|俯向《うつむ》けているのが、どう見てもしかつべらしいばかりで はない。神妙に膝の先を見詰めた目の|凛《りん》として黒いのなどは、日頃の彼の腕の名誉や、かつ は又、まっ白な|顎鬚《あごひげ》の神々しさなどと共に、|寧《むし》ろ人を畏敬せしめるに足るほどのものだ。  ところで今、彦六の相手になって話を聞いている人物は  何、それは誰だってよかろう。 世に時めく大臣だろうと貧乏な|雑色《ぞうしき》だろうと、それが一人だろうと多人数だろうと。又その 場所にしたところで、何がしの|朝臣《あそん》の|館《たち》でも|乃至《ないし》はお寺でも、実はこの物語にあまり関係は ないようだから、一切省いておこう。それよりは肝心の翁の話ばかりを進めた方がよいよう である。  さて、翁はやおら顔を上げて、物を思い出すように、じつと一ツ所を見詰めながら囗を開 いた。 二 『その頃の事を思い出しますと、第一に浮んでまいりますのは、|手鞠桜《てまりざくら》と申しますか又は|牡 丹桜《ほたんざくら》と申しますか、太い幹も|撓《たわ》むほど、いやが上に盛り重なって咲き乱れた桜の花で、しか もそれは、|上繭方《じようろうがた》が手の爪先に塗る紅のような、驚くばかり鮮やかな赤い|艶《つや》を|漲《みなぎ》らしながら、 風さえ梢を|揺《ゆる》がす事が出来ないまでに、しっとりと静まり返って咲いておりました。ちょっと 離れて眺めると岳のような高さの木で、なにさま|東山《ひがしやま》の薄霞は、この花の色に映えて|長閑《のどか》に 赤く見えるのだと云って、|界隈《かいわい》では名物の桜でございました。さよう、じつと見ていると、霞 どころか、花の一ツ一ツが折柄の春の真昼の光に輝いて、赤く照り返して、はては花が光って 燃え上るか、それとも|冥土《めいど》に在ると云う焦熱地獄の|赤爛雲《せきらんぐも》を、むくむくと吐きかけるかとも思 われるくらいで、その不気味な思い|倣《な》しにぞっとして身を|退《しりぞ》くと、目の前の花は、青貝のよう なきらきらする大空を|抽《ぬき》んでて、|珊瑚《さんご》の山とも見えるのでございました。 『この木は|五条橋《ごじようばし》の東の|方《かた》、|清水寺《きよみずでら》への通い路になっている|六道《ろくどう》の|辻《つじ》の、とある古屋敷にあ りました。これが咲き満ちたと思うと、もうちらちら散りかける、ある日のま昼でございまし た。その桜の大木の近くに、一人の年若い姫君が、これはまた綾の|白無垢《しろむく》と云うただならぬ召 物に、|緋《ひ》の|袴《はかま》を胸高に召して、見廻すかぎり荒れるに任せたような庭内の若草をば、円座とも |莚《むしろ》とも|思召《おぼしめ》して、ゆったりと坐ったばかりでなく、両の|掌《たなごころ》をぴったりと合せ、目を閉じ、 |寂莫《じやぐまく》として一心になって居りました。 『姫君の様子で見れば、何か祈念するか回向するかしているところと見えるのですが、それに しても膝の前には経机もなければ香炉さえもないのです。実はそれらの仏具の代り、目の前三 尺、|微風《そよかぜ》に青々とそよぐ草の間に、一面の八葉の鏡が、斜めに|仰向《あおむ》けて置いてありました。鏡 の面はかっと天日を鋭く吸って、その照り返しを姫君の|心窩《みずおちあ》の|辺《たり》へ、突き刺すように、明るく 浴びせて居りました。 『ま近な縁側では、まだ三十にもならぬ尼さんが、しきりに琴を奏でております。曲は至って 単調なもので、折柄落ちて来た風に乗ってだいぶ散り出した桜の花の色目にも恥しいくらいの ものなのです。強いて云えば、姫君が召した袴の緋の色の落ちついた朱色に近い渋さと、やっ と折れ合いが取れようと云うくらいの曲の手でございます。 『単調な|音色《ねいろ》は琴ばかりではございません。尼さんと並んで、縁側に腰かけた一人の若い男が、 胸を反らし目を閉じ込んで、尺八を懸命に吹いて居ります。その音も至極くすんだ陰気なもの です。元より尺八と琴とは|律呂《りつりよ》を合せて同じ物をやっているのでございますが、もう一ツ、そ れにも増して陰々とくすんだ声音が聞えて居ります。それは姫君の口から洩れるものでござい ました。陰々とした声音とは申すものの、姫君は琴尺八と同じ節廻しで合せているのですから、 さしずめ唄っているのだと見てよいのです。 『さらば何を唄っているのか。もし他の人がこれに耳を澄まして、いかに聞き取ろうとしても、 大方無駄な事だったに違いございません。その証拠には、糸竹の曲を唄っているのでもなけれ ば、今様でもなし、又どんな歌謡でもなかったからなのです。姫君が唄っているのは、「|心経《しんぎよう》」 でこさいました。「心経」  「|摩訶槃若心経《まかはんにやしんぎよう》」でこさいました。ーー琴も尺八も、毎論「心 経」を奏でているのでございました。 『  この話の初めから、だいぶ変に陰気な事ばかり申上げて恐縮でございますから、ただ今 の「心経」を唄う一条は、なるべく手短に申上げる事と致しましょう。 『姫君が膝の前に据えた八葉の鏡、これは姫君の家代々に伝わった宝物でございます。姫君は |不幸《ふしあわせ》な人で、何がしの四位殿の忘れ形身でございましたが、幼い時からの|許嫁《いいなずけ》の男にも死 なれ、まだ十六という姫盛りを、荒れ放題の屋敷に住んで、以前の召仕であった尼さんを手許 に呼び寄せまして、姉とも乳母とも頼っておりました。ただ|今私《わたくし》が申上げるのでも、とかくは 本名を|憚《はぱか》りますから、仮に名づけて五条の姫君と呼ぶ事に致しましょう。 『五条の姫君は家宝の鏡を、元より大切にして、父とも母とも、又夫とも思って、物言わぬ冷 たい物を、|崇《あが》め尊んでいたと云う事でございます。それが又世間いずれにもあるような鏡とは 違いました、一ツの奇特がございました。奇特と云うよりも、神変不可思議な霊能と申した方 がよろしゅうございましょう。 『その身に先立った両親や許嫁の夫などの事を、垂れ籠めてしみじみと思い出した時など、今 両親や夫は、|冥路《よみじ》にいて安楽にしているのか、又はそうでないのか。と云う事を、手に取る如 く鏡が知らせてくれるのです。 『そうした時には、先ず|件《くだん》の八葉の鏡を天日に輝かし、姫君自身白無垢を召して、一心に「心 経」を|読誦《どくず》して行くと、白無垢の袖に宿った鏡の照り返しの中に、月の面の兎の如く|糸遊《かげろう》の如 く、|朦朧《もうろう》として得体の知れない物の|像《かたち》が、写って来るのでございます。えたいの知れない物の 像は、姫君が「心経」を読誦する事七八度に及ぶ頃、次第次第に影が濃くなってまいりまして、 ついには薄墨色にはっきりと修羅の亡者の姿か、あるいはそれと違った|端厳《たんげん》微妙な|仏陀《ぶつだ》の姿か、 この二ツに一ツを現ずるのでございます。 『即ち仏陀なれば、心に思う亡き人が十万億土で安養|快楽《けらく》を致して居り、もし又亡者の場合で は、たとえ地獄に住まっていずとも、心に満たぬ|苦患《くげん》に悩んでいると云うのでございます。 『さて、かの桜時の場合はどうであったかと申しますと、「心経」読誦が数度つづいてから、 姫君は合掌していた手を離すと共に、白無垢の袖を胸のところで深々と抱くように重ねて、きっ と袖の上を眺めました。既に袖に宿った鏡の照り返しの、一段と白く光った中には、湯気のよ うな影が、少しにじんでまいりました。 『尼の琴、若者の尺八の「心経」の曲は、又ひとしきり力を籠めて、その時焔の色に|閃《ひらめ》きなが ら雨と散って来る桜の花の間に、陰々冥々として音色を響かせました。 『五条の姫君は|暫《しばら》く袖の上の照り返しを眺めていましたが、どうしたものか、鏡の照り返しの 中の湯気のような物の像は、ふっと消えてしまって、ただの照り返しばかりが、ぎらぎらと|目 映《まばゆ》く見えて来たのでございます。姫君の顔色が、すきとおる程、さっと蒼ざめました。そして、 尺八を懸命に吹いている若者の方へ、|怨《ちつら》めしそうな目を送りました。    尺八の音色が違った! 彦六殿。 『たちまち|肝高《かんだか》に叫んだ姫君の声に、尺八も琴もぱったり止んで、若者と尼さんとは互いに目 を丸くして、顔を激しく見交わしました。姫君はふらふらと立ち上がって、さっと延びた袴の 緋の色に草を踏みしめながら、    ああ! 音色が違った。今日に限って尺八が、邪淫の音色に響く。そなたとの、かりそ めの|仇《あだな》の|情《さけ》が、もう冥土へ知れてしまったと見える。仏も亡者も袖に宿らなくなりました。こ れ彦六殿、彦六殿! 『それを聞くと尺八の若者彦六は、腰かけていた縁側から転がるように庭へつんのめって、 姫君の|裳裾《もすそ》に、物狂おしく|轟《ひし》と|縋《すが》りつきました。 三 『尺八を吹いていた彦六が、若かった頃の|私《わたくし》である事は、もう申上げずともよろしゅうござい ましょう。同時に、身分違いの姫君に、並々ならず|寵愛《ちようあい》されていた事も! 『そんな事があってから、鏡の不思議な霊能は、とんと|無《ささ》くなってしまいました。 『いったい私はその頃六道の辻のつい近くの五条坂に住んで鋳物師をやっておりましたが、尺 八が何よりも好きなものですから、暇さえあれば昼と云わず夜と云わず吹きましたし、月のよ い夜などは、家から清水寺、又清水寺から五条坂、六道の辻、五条の橋へと、界隈を吹いて歩 きました。 『六道の辻の古めかしい屋敷の内から、忍びやかに垣の外へ漏れて来る「心経」を、ふと聞く ようになってから、ただ|加茂《かも》の水が意味もなく流れているような「心経」の節廻しが、この上 もなく気に入ってしまいました。早速これを苦心して尺八の曲に移し、ひそかに自慢で、これ をも吹いて歩き廻る中に、その古屋敷の|主《あるじ》に呼び入れられて、それから折々そこで「心経」を 吹いて聞かせる事になったのでした。主と云うのは、即ち五条の姫君の事なのです。 『尺八の「心経」の曲は、姫君の手で、すぐさま琴の譜になりました。姫君が鏡の霊能の|験《げん》に 勤める時、それに尺八のその曲を添えたのは、姫君が読誦する「心経」と同じ音色であると云 うばかりでなく、姫君の|父御《ててご》も母御も、もう一人許嫁だった人も、皆尺八が好きだったからな ので、尼さんに弾かせた琴も、やはり同じ意味からだったのでございます。 『身分、卑しい私と、貴い姫君と、どうして深い契りになったかと云う事は、ちょっと差し控 えておきましょう。が、一口に申せば、ちょうど磁石の鉄がどんなぼろぼろの|銑鉄《ずくてつ》でも引きつ けるようなものでございます。現にこの頃など、何がしの宮の姫君とかが、塩売る|賤《しず》の男と手 を取って、都落ちして夫婦になられたとか申すではございませんか。私の場合でも  はい、 人の情には、今も昔も変りはございません。 『さて、恋ゆえに鏡の奇特が亡くなってからでも、五条の姫君は私を捨てるような事はござい ませんでした。が、ただ困った事には、例の尼さんがとうとう私共の仲を知ってしまったので す。あの時尼さんは無論顔を|輩《しか》めて怒りました。元から目尻のぴんとした尼さんでしたが、一 層目尻を釣り上げまして、    仏に仕える尼の前で、姫君もあまりでございます。彦六殿も慮外でございます。 『痛々しそうな声でそう云って、尼さんは琴の上へ両手を押しつけて、ほろほろと涙を流しま した。ぱたりぱたりと音がして|琴柱《ことじ》が倒れたので、糸に指をきつく挟んで、痛いやら悲しいや ら、姫君が|主《あるじ》か自分が主か、わからぬ程泣きました。尼さんの歎きは、先ず以て岡焼きとは云 えないものでございましょうか。それから私共は、当然尼さんの手前が面白くなくなりました。 『しかし、|辺鄙《へんぴ》な六道の辻ですから、恋を語る場所くらいは、屋敷内でなくとも、近辺にいく らもございました。 『例の桜も青葉になってからのある宵、姫君と私とは|吉水《よしみず》近くで|購曳《あいびき》をいたしました。月の光 を踏んで松の木影に手を引きながら、私はしみじみと申しました。    姫君には、鏡の奇特がなくなったので、私を怨んでおいでになりましょう。    何、怨んでなんかいるものか。そんな事、お前気に懸けないがいい。 『姫君は事も無げに、あっさりとしたものです。    しかし、許嫁のお方の仏姿が見えなくなりましたから、きっと怨んでいらっしゃるに違 いないと存じます。    そう? そう思っていると思う? おほほほほ。わたしはもうすっかり悟ったから。    何、お悟りになったとは?    それは死んだ人も恋しいけれど、こうして生きていて頼る人と云ったら、もう外にはな いのだもの。お前一人が頼りだもの。 『私は|頸筋《くびすじ》からぞっとして嬉しかったのです。けれど、身分が違うと云う事が、急に私の心を 云いようもなくまっ暗にしてしまいました。暫く云い淀んでいると、    わたしはもう鏡の中の父にも母にも逢えなくなったけれど、この世に父と同じ顔をした 男を見つけたから、それで満足している。    男? 男でございますと? 『私は思わず上ずった声で、そう尋ねました。    ああ、可愛い男さ。    え、可愛い男? 『私は掌にぬらつく冷汗と共に、姫君の袖を|掴《つか》みました。 『姫君は恥かしそうに目を伏せて、小さな声で、  -お前、その男が見たいのかえ。    はい、み、み、み…:    あら、あわてないで! 見たいとお言いかえ。  ー見たい!    それでは。 『五条の姫君は濡れたように潤いのある目で私を見て、にっこりとしました。黒く塗った歯と 濃い紅を差した唇とが、月にぴかりと光って、何だか磨ぎすました刃のようにも見えます。  ーそら、見せてあげよう。 『姫君は懐へ手を入れたが、つとその手を抜き出して、さっと刃を振りかざしました。  ーあッ! 『私は飛び|退《の》いて、うろたえながら身を構えました。しかし、姫君が手にしたのは刃ではない のです。それは例の八葉の名鏡だったのでございます。月影の中へ、だしぬけに取り出したの で、怪しく光って人を驚かせたのに過ぎません。    わたしは父に生き写しだ。その父にお前が又よく似ている。さ、お前の顔をよく写して ごらん。 『体中に出た冷汗が皆湯気になるほど安心して、私はその鏡を受け取りました。明るい月を真 向に浴びながら、鏡の中の自分の顔に、つくづくと眺め入ったのでございます。 『この男顔が、さて、姫君のどこと似ているのでございましょう。目の丸いところか、|下脹《しもぶく》ら なところか……|冠《かむ》っている烏帽子を鏡の上の外へ隠して、|咽喉許《のどもと》を写して見たり、顔を斜めに 流し目になってみたり、と見こう見する中に、月が雲に隠れて、鏡が小暗くなって来ました。 目に力を入れ過ぎていたせいか、鏡の中の顔がおぼろに霞んで、|掻《か》き取るように眉毛が消えて 見える跡には、なるほど姫君とそっくりの顔になってしまいました。    似た似た、なるほど似て来ました。    似ているだろう。    はい、どうしてこんなに…… 『にこにこしながら姫君を見ると、どうでございましょう。|何時《いつ》の間にだか、姫君の顔に男眉 毛が黒々とついていて、それがすっかり私の顔ではございませんか。つまり、手にした鏡を真 中に、私と云う男が二人まで、|忽然《こつぜん》とそこに向い合って|佇《たたず》んでいるのです。    あッ! 『声を出したとたん、私は大事の鏡を取り落しました。又驚いてそれを拾い上げると、月が雲 間にほのぼのと出て、はっきり照らし出された姫君の顔は、元々通りの書き眉毛で、匂うよう に|艶《つやつや》々とした、やさしい女顔になっておりました。 四 『|滝口《たきぐち》の侍だと云う男が、五条の姫君の許へ、ぜいぜい|臆面《おくめん》もなくやって来るようになりまし た。烏帽子や装束の立派な事は申すまでもありませんが、|佩《は》いている太刀などは特に美々しい ものです。侍に似合わず、四位か五位かと思われるくらい、柔和な男振りでございましたけれ ど、|私《わたくし》はどうも虫が好きませんから、屋敷で顔を合わせても、こちらは心易くは物さえ言いま せんでした。この男は|嘉藤太《かとうだ》と申しました。 『嘉藤太が屋敷へやって来ると、妙な事に、姫君はつかつかと|持仏堂《じぶつどう》の方へ隠れるように引っ 込んで、更に顔を見せないようになりました。どうも変です。私は何という訳もなく胸が沸え 立って来て、嘉藤太を門の外へ引きずり出してやりたいような、激しい憎しみを覚えて、嘉藤 太が帰って行くまでは、息も弾んで、とてもじつとしてはいられませんでした。 『姫君に仕えている尼さんは、姫君と打って変って、嘉藤太をよくもてなすと云う有様でした。 男が得意になって物語る宮中遊宴の趣や、狩の話や、時には当時羽振りのよい何がしくれがし の好色めいた馬鹿馬鹿しい噂まで、尼さんはその何一ツをも聞き漏らすまいとするように、に やにやと顔の紐を解いて、さも嬉しそうにしております。 『そうした話の最中、嘉藤太は思い出したように、烏帽子を泳がせるようにして、持仏堂の方 を|覗《のぞ》いて、  ー時に、姫君はどうなされた。 『と何度となく尋ねましたが、尼さんは、    はい、今にここへおいでになりましょう。しかし、そのお話の続きはどうでございます。 『などと、姫君の事は忘れたように、ひたすら男の物語に魂を打ち込んでいる風です。都に住 んでも、六道の辻などと云う片隅にくすんでいる尼さんの身には、どんな消息でも面白いので ございましょう。 『広い庭の木立の影から、私はこの嘉藤太と打ち解けている尼さんの物腰を、何度熱心に眺め た事でございましょう。    ああ、あの男は尼さんの色男か。 『そう思わないわけに行かなくなって、私はそう|独言《ひとりごと》を云いました。すると、もやもやしてい た胸の中が、秋晴れの空のように、もうすっきりと、ほがらかな物になって、止め度もなく|独《ひとり》 で笑ったものでした。姫君と私との恋路にあやかって、世捨人の枯れた女にさえ、好色の芽が 一面に|萌《も》え出したのでございましょう。いや、私共は、どうも殺生な事になりました。 『嘉藤太は真夏の朝風夕風に|髭《ひげ》を房々と|靡《なび》かせながら、ますます六道の辻の屋敷へやって来ま した。尼さんもますます上機嫌である事は申上げるまでもございません。陰にいて二人の喜ぶ 顔を想像すると、私までがますますおかしい。それからは尼さんが一人いる時の顔を見てもや はりどうもおかしくって…… 『東山も大空も、|瀬見《せみ》の小川の底のように、一面青々とした夏の|黄昏《たそがれ》、六道の辻の古屋敷の繁っ た桜の下に、白無垢に緋の袴を着けた姫君が、草の上に端坐して、おもむろに合掌しておりま す。白無垢と云っても、何しろ暑さの時節ですから、かの桜時と違って、平絹の|単衣《ひとえ》でござい まして、袴の色目ばかりが見た目にも重々しく暑くるしいくらい。そして又|市女笠《いちめがさ》を深々と着 ているので  と申上げたら、高貴な緋の袴と、あまり高貴でもない市女笠と、取り合せが|頗《すこぶ》 る変であるかも知れませんが、全くその時はそういう風俗で。さて膝の前三尺のところに、姫 君家伝の八葉の名鏡を|斜《ななめ》に据えて、神変不可思議な鏡の奇特を、もう一度試み出したのでござ います。 『今は尺八も琴も添えず、あまつさえ「心経」も高らかには読誦しないで、まさに五条橋の空 に沈もうとする薄い夕日をただ一ツの力草にして、狂おしくも赤々と燃えたその残陽を鏡の面 に、そして又鏡の照り返しの閃きを白無垢の袖に宿して、息苦しい不乱の祈念を凝らして居り ます。 『やや暫くたっても、鏡の照り返しの中には、仏も亡者も写ってまいりません。そればかりで なく、|兎《う》の毛ほどの物の|像《かたち》の影さえ更に現れないではありませんか。がっかり|溜息《ためいき》を|吐《つ》きしめ ると、その吐息に押されたように、斜に据えた鏡がばたりと倒れました。鏡は倒れながらに目 の痛む強い照り返しで顔を撫で上げてから、くるりと|空様《そらざま》になって、もう涼やかな青い夕空を、 静かに写し出しました。 『おもむろに立ち上がって、袴の|塵《ちり》を打ち払っていると、門の方から案内も乞わず、のさのさ とやって来た男があります。それは嘉藤太でございました。 『木の間木の間には、もう蒼然とした夕闇がにじんでいる時刻、荒れた庭に立っている白無垢 緋の袴の姿に、嘉藤太はちょっと驚いた顔して佇みました。しかし内心では、そんな姿に深々 と冠り添えた市女笠の様子を不審がっていたのかも知れません。嘉藤太は声を低めて、    今日は姫君お一人でございますか。尼殿は見えないようですな。それならばちょうど幸 い、あなたへ|直《じか》にお話致したい事があります。尼殿に見られると又|五月蝿《うるさ》いから、ちょっと五 条橋の辺まで、どうかお出でが願いたい。 『いやがる姫君の手を取って、むりに門まで引っぱって行って、そこから路へ押し出そうとし ますと、門前が急に人の声でがやがやと賑やかになりました。二人は思わず門の内へ身を潜め ると、門の|外面《そとも》の人群は清水帰りの法師たちらしく、いずれも額に|翳《かざ》した|中啓《ちゆうけい》で、真向から 差す夕日を避け、足許にほの白い|埃《ほこり》を立てながら、ざっと二十人ばかり、ぞろぞろと通って行 きました。    人の恋路の邪魔をするとは、憎い法師たちだ。かんじんの姫君が|怯《おび》えたじゃあないか。 『嘉藤太はぶつぶつと|独言《ひとりごと》を申しました。恋路の邪魔などと云うところを見ると、嘉藤太は 姫君に恋をしているのでしょうか。それが真実なら、|何時《いつ》の間に尼さんから姫君へ移り気をし てしまったのでしょうか。 『そこで嘉藤太はにたにたと笑って、また姫君の手を取りました。姫君は|悄然《しようぜん》と従いました。 『門外へ五六歩出た所で、姫君は握られている手を振り払おうとしました。ちょっと争ってか ら、嘉藤太は姫君の手を、一層強く握りました。姫君は顔を|背向《そむ》けて|低頭《うなだ》れて消え入るように 佇みました。  ーお手は離しても、又お逃げになっても、男の業には|敵《かな》いますまい。いや、この手を離し は致しません。来世まで、このまま離しは致しません。それがおいやなのなら、ここからすぐ に地獄へでもお手引きいたしましょうか。 『深々と冠った市女笠に、嘉藤太はきっと目を注いで云い出しました。    ははは、地獄へお供しましたら、この世で姫君と添う事が出来ません。もしもこの恋が 遂げられなかったら、いっそ殺すか死ぬかと、毎度毎度の通わせ文にも|認《したた》めて置いた筈でござ います。それに一度の御返事も戴けないとは、嘉藤太こんな口惜しい事はございません。いつ まいってもお姿をお隠し遊ばしますので、私は心にもない尼殿ばかりを相手に、気の重い、|侘《わび》 しい時を重ねてまいりました。 『さては嘉藤太、はじめから姫君に|恋侘《こいわ》びわたっていたものと見えます。尼さんと仲よくして いるのは、つまり|囮《おとり》だったのでございましょう。    さ、姫君、御返事して下さい。五条の姫君、いやか応かの御返事です。おいやなのなら、 いっそ一思いに 『ぱたりと音をさせて、嘉藤太は太刀の|柄《つか》を掴みました。斬る気か死ぬ気か、|直垂《ひたたれ》の袖の先ま でぶるぶると顫わせているのでございます。 『市女笠の中では、この時思いの外の|荒《あら》ら声で、しかもぞんざいに、    おどすな、馬鹿者! 『あたりの|静寂《しじま》を破って叫んだと見ると、いきなり白無垢を着た両手を、嘉藤太の腹へ押し当 てざま、力を籠めてうんと突きました。 『弾みを|喰《くら》った嘉藤太は、|後《うしろ》の|築地《ついじ》へ、いやと云う程腰を打ち当てて、はっと仰天いたしまし た。 『姫君は市女笠を手荒くがばと|脱《さち》ぎました。そして|忌《いまいま》々しそうに睨みつけたものでございます。    あッ! 『嘉藤太は白い歯を|剥《む》き出してひどく驚きました。それもその筈、嘉藤太が姫君だと思い込ん でいた人物が、姫君ではなかったからです。では尼さんだったのでしょうか。それも違います。 女ではございません。姫君と顔こそ似ておりますが、以ての外の男で、眉毛の濃い鋳物師彦六 でございました。即ちこの私でございました。 『私がなぜそんな風をしていたかと申しますと、例の鏡の奇特を白無垢の袖に、どうかしても う一度試みたい為でございました。市女笠は、それで暑い夕日を避けていたのです。|詮《せん》ずると ころ、仏や亡者の現れる稀代の名鏡  神変玄妙不可思議な八葉の名鏡が、私の好奇心を激し く|煽《あお》り立てて居りました。と云うのが、渡世は鋳物師、勿論鏡も造ります。かたがた名鏡の秘 密の鋳法が知りたい為ばっかりでございました。 『さて、話を元へ戻して、ー嘉藤太は真赤に怒って|罵《ののし》りました。    馬鹿とは何だ。貴様は一体何者だ。 『私は答えました。    何者でもない、いものだ《さささ》|。    いものとは|何《ささち》だ。 『問答なんか無益ですから、やにわに緋の袴を踏みしだいて、私は門の内へ駆け込みました。 嘉藤太が勢い込んで追って来たのに、その顔へ市女笠を叩きつけて突き戻し、門の扉をばった りと閉じて、手早く|閂《かんぬき》を掛けました。 『私の左の手が、突然激しく痛みました。悲鳴を上げて飛び上らないわけには行きませんでし た。見ると、門の扉に、外から太刀先が二三寸突き|徹《とお》されて来たではありませんか。それが夕 闇の迫ったあたりに、|鰯《いわし》の腹のような|銀光《ぎんびかり》をして居ります。同時に、思わず口へ当てた私の 左の手から、たらたらと血が、白無垢の胸へ流れました。 五 『嘉藤太は太刀を納めて帰って行きましたが、滝口の侍ともあろう者を、散々な目に遭わせた 以上、|私《わたくし》はもう都にあんかんとしてはいられません。驚く姫君を説き伏せて、一緒に都落ちす る事にきめました。 『|鳴呼《ああ》! 住み馴れた懐しの都を  などと、落ち着いて首を傾けている|隙《すき》なんかありません。 五条の姫君も私も、体に火が附いたようなものです。一先ずその夜の中に、都のまっ北、|蓮台 野《れんだいの》の片ほとりの、知るべを指して|辿《たど》り出ました。取る物も取りあえぬ有様でしたけれど、姫君 はさすがに伝来の名鏡ばかりは、|懐深《ふところ》く携えていました。 『人影に怯え犬に怯え、灯影にさえも怯えながら、闇夜だと云うのに、わざわざ暗い路ばかり を選んで歩きました。女連れには道が遠いし、短夜は明け易いし、それに夜半頃からは空が一 面に曇ったのか、むしむしと|蒸《さへちさ》し暑くなってまいりまして、それでなくてさえ宵から引きつづ きおどおどと踊って止まぬ胸苦しさの上に、今又体を煮殺される思いなのです。  東の空がほのかに白み|初《そ》めたのは、まだ千本の|釈迦堂《しやかどう》あたりでしたが、|草臥《くたびれ》と気疲れとで、 姫君は|路傍《みちばた》へぐったりと坐り込んでしまいました。もう一足も動けぬと云うのです。汗と埃と で、顔の色艷もありません。又運の悪い事には曇ったままの|空合《そらあい》で、そよとの|涼《ささ》しい朝風も吹 いて来ないのです。 『ああ、おいたわしい事だ! と、そこで始めて、私は涙が止め度もなく出てまいりました。 『千本と云っても|朱雀大路《すじやくおおじ》の先ですから、もうそろそろ人馬が通って行きます。    あれは何だ。あの二人は何だ。 『人々は|審《いぶか》しそうな目付きをするばかりでなく、|顎《あご》を突き出してそう|曝《ささや》き交して通るではあり ませんか。そこで、私は姫君を背に|負《お》んで、ふらつく足を踏みしめながら、北へ北へと進みま した。 『やっと蓮台野へ辿り着いて見ますと、尋ねる人の|家《うちあ》は|主《るじ》が留守で誰もいません。がっかりし ましたけれど、とにかくその家へ上り込んで、ほっとすると、姫君も私も非常に疲れておりま すので、床へのめって眠りに落ちました。 『およそ|何時《なんどき》の間眠ったのか、俄に、すさまじい物の響きに、二人は苦しい夢を引き裂かれて、 同時に目を覚ましました。ざつと大地を叩きつける雨の中に、|大雷《おおかみなり》が|轟《ごうごう》々とはためきわたっ て居ります。寝不足な目を|刳《えぐ》る電光が、魂までを|痺《しび》らせました。姫君はしゃにむに取り縋って まいりました。何か物を云ったようですけれど、雨の音と雷鳴とに掻き消されて、二言だって わかりはしません。人家も稀な蓮台野の夕立です。更に生きている気は致しませんでした。 『そうしたところにも、びしゃびしゃと人の通る足音が軒先で聞えました。さては主が帰って 来たのかと、そう思って戸を引き明けて、つと顔を差し出した鼻の先には、人もあろうに嘉藤 太が来て立っていました。 『思わずばったり閉じる戸をば、外から無理にこじ明けて、嘉藤太が激しい電光と共にぬっと 土足で|這入《はい》って来ました。 『続いて光る鋭い稲妻に嘉藤太の顔を見た五条の姫君は、  ーあれッ! 『と、顔を|歪《ゆが》むほど|餐《しか》めて、私の|後《うしろ》へ|居竦《いすく》んでしまいました。云わずと知れた私も一生懸命で す。もう姫君を取られるかこの命を取られるかの瀬戸ぎわでございます。 『嘉藤太は顎を一ツしゃくって、  ーふん、よくここまで逃げて来たな。|昨夜《ゆうべ》あれから、そなたたちが逃げた道順も、もうすっ かりわかっているのだ。  ー何?    二人だけで逃げたつもりだろうが、その|後《あと》から、おれの手の者が|尾《つ》いていたとは知るま いな。    何、何?    馬鹿め! あわてるな。 『私は歯噛みを鳴らして|地団駄《じだんだ》を踏みました。 『すると、姫君は戸の明いている隙から身を翻して、土砂降りの中へ飛び出して行きました。 嘉藤太はあわてて、跡を追いました。私も身を踊らして駆け出して行きました。片手で姫君を |挨《ね》じ伏せて太刀を振り|翳《かざ》した嘉藤太の姿が、物すごい電光にはっきりと照らし出されて見えま したが、  しかし、私、もうそれきり覚えがありません。私は気絶したのです。後でわかっ た事ですが、すぐ近くの塚の|椎《しい》の木に、落雷したからだったのでございます。 『なお降り止まぬ雨が目口に入って、私はおのずと息を吹き返しました。姫君は? 姫君は? と、あたりを見ると、塚の下に誰かがころがっている様子ですから、ぎょつとして、駆けつけ ました。 『それは姫君です。五条の姫君です! しかもまっ黒に|燻《くす》ぼり返って死んでおりました。    ああッ! 『よろめいて私は倒れました。その目の先にまた」人、まっ黒になった死人が見えました。そ れは嘉藤太です。その二人とも、雷に打たれて死んでいたのでございます。 六 『その場はそれからどうなったか。くだくだしくなりますから、その話はこの辺で切り捨てて しまいましょう。しかし、姫君の懐に在った名鏡は、せめてもの形身として貰って置きました。 それだけは是非申上げておかなければなりません。 『五条の姫君と嘉藤太とが、蓮台野で雷に打たれて死んだと云う噂が、都の|大路小路《おおじこうじ》に広がり ました。はては二人が恋ゆえに死んだなどと、飛んでもない噂が立った時、|私《わたくし》は身を顫わして 怒りました。姫君の身に取っても、そんな事は云いようもない恥辱ではございませんか。 『もう一切合切生きている思いは致しません。私は自害を決心いたしました。 『それにしても、非業に死んだ姫君は、何と云う不運な方だったのでございましょう。この世 に残した私への愛慾に引かされて、妄執の雲晴れぬと云う剣の山を、|徒足《かちはだし》で駆け廻っている のではないでしょうか……と思い詰めて来ますと、そうだ、こうした時こそ名鏡の奇特を祈っ て、果して地獄へ行ったのか極楽往生しているのか知りたいと云う気になります。しかし、そ れとても恋ゆえに験がなくなっている鏡でございますもの。ああ、どうしたら……ああ、どう したら…: 『とかくに床しい名鏡を見つめながら、今日にも死のうか明日にも死のうかと、屈託ばかりに 沈んでいた時、鏡の中にありありと、|紛《まぎ》れる方もない五条の姫君の顔が写りました。鏡持つ手 を顫わせてよく見ると、何の事です、姫君の顔ではありません。私の顔です。ですけれども、 又してもはらはら落ちる涙の底に、鏡の面へはっきりと浮み上って来たのは、やはり姫君の顔 です。私は目を閉じて、暫く切ない思い出に胸を痛めました。 『涙を拭い鏡を拭ってみると、鏡の中の私の顔が、どう見直しても私の物ばかりではなくなり ました。それは明らかに姫君の顔です。同時に私の顔です。恋人同士の二ツの顔が、一ツに重 なっているのでございます。 『感極まって、鏡をべろべろと嘗めました。酸っぱいが味がしました。姫君の汗の味かも知れ ません。 『鏡の裏は、どう云うものか漆が一面に塗り籠めてあります。漆の上には、姫君の手の脂もに じんでいるのでございましょう。その裏も私は嘗めました。 『それから私は、惜しくない命を当てもなく生き延びていました。と云うものの、秋にもなっ て|木枯《こがらし》のすさぶ頃には、実に死に後れて、もうどうにも二度とその決心が固まらなくなったか らでございます。又尺八で「心経」の曲を吹く日が続きました。これもあの人の菩提を弔う物 になってしまいました。 『その|中《もつち》に、鋳物師渡世を止めて、法師になりたくなりました。髪を切り捨てるのも自分一人 でやる気で、名鏡に、烏帽子を取った頭を写しながら刃物を取り上げました。が、しかし、ふ と手を休めて小首を傾けました。過ぎ去ったいろいろな事が、又も胸に湧いてまいります。鏡 に写しているところの、自分のだか姫君のだか区別のつかない顔さえも、|愁《うれ》わしげに目を細め ております。かちりと音がして、刃物が鏡に当りました。気を取り直して邪念を払って、いざ 髪を切ろうと、刃物を持った手を頭の方へ持って行こうとしますと、物に引かれる力を手に感 じて、再び鏡へ、かちりと刃物が当りました。鏡の中の姫君が手を差し延べて、刃物を引っぱつ たに違いないと思いました。全くそれに違いなさそうです。    生きていておくれ……生きていておくれ…… 『その声さえ、鏡の奥から聞えて来るような気が致します。    ほう! 『長い長い吐息をして仰向きながら、覚えず刃物を手から離すと、又同じ音がして、刃物は自 然と鏡に吸いついたのでございます。私はむずと腕を組んで、鏡をぐつと睨みました。そもそ もこれは、幽明の境を越えてまで|相牽《あいひ》く恋の力の業か、それとも|魔障《ましよう》の業か。何でも怪しい鏡 なのです。    魔障の者なら退散せよ! 『と|独《ひとり》叫んで、すぐさま声高々と「心経」を読誦いたしました。いや、読誦したのではござい ません、尺八の「心経」の曲を、尺八なしでやったのです。口でレロッレロッと節廻しをしゃ べったのです。 『変妙な「心経」の口尺八を七八巻立て続けに鳴らして行くと、不思議な事には、名鏡の|面《おもて》に、 煙のような物の|像《かたち》が、ふわりと浮いて来ました。奇特が再び現れて来たらしいのです。 『私は飛び上がって喜びました。早速鏡を日の照る所へ持ち出して、その照り返しを壁に写し てみました。 『|件《くだん》の物の像が、壁の上の照り返しの中に、だんだんと濃くなってまいります。息を殺して見 つめていると、物の像はくっきりと亡者姿になりました。 『さては五条の姫君、地獄へ堕ちているのでしょうか。私は声を上げて泣きかけましたが、し かし 『とつさに私は、神々しい物が胸の中に光って動くのを感じました。それは浮世の事を忘れ恋 をも忘れて、この身このまま黄金色の仏になったような、摩訶不思議な歓喜三昧だと云ってい いようなものです。そして鏡に舌を当てがって、それから七日七晩、片時休む暇もないくらい、 」心不乱にべろべろと嘗め廻したのでございます。 『舌の先は手の指より物を微妙に感じるものです。そこで私の舌に感じた名鏡は、今まで鏡を 造る鋳物師の身でありながら、鏡について|却《かえ》って少しも知っていなかったような事を、次第次 第に手に取る如く教えてくれました。わかりました。わかりました。名鏡鋳法の秘密が、これ ですっかりわかりました。 『しっかりとお聴き下さい。先ず第一には、それまで女の肌より滑らかだとばかり思い込んで いた鏡の面と云うものが、実は一面の山や谷で、いやもう、凹凸|菅《ただ》ならぬ物に感じられて来ま した。その凹凸こそは、鏡の裏に鋳つけた物の像や模様などが、そのまま|表面《おもて》へ徹っているの である事、従って鏡の照り返しに現れる怪しい物の姿も、即ち鏡裏の物の像を写し出すのに過 ぎぬ事をも、確かに感得いたしました。 『しかし、鏡が刃物を吸い寄せたのばかりは、更に鋳法の秘密に依る事ではございません。雷 に打たれて死んだ姫君の懐に在って、共に雷気が染み込んだが為、鏡が磁石の鉄と化したので ございます。これも分ってまいりました。 『でございますから、かの照り返しの中の亡者も仏も、当然鏡裏に鋳つけた像が写るのに違い ない事は、よくおわかりになったでございましょう。ところがそれは一体亡者が本当なのか、 仏が本当なのか  どっちが鋳つけてあるのだろうかと、私不審に堪えませんから、(既にそ の裏側が黒漆でべったり塗り|潰《つぶ》してある事は申上げてあります)又ひとしきり鏡を嘗めました。 舌の先に感じられる鏡面凹凸の物の姿の目や口や鼻の鋳法から押して、これは亡者でない事を 知りました。そもそもこれは、何の|像《かたち》でございましょうか。 『裏側の漆が|曲者《くせもの》です。私は猛然と起って、名鏡を|蹈鞴《たたら》の熱火の中へ投げ入れました。漆が燃 え去るのを待って後、もうその時火になっている鏡を取り出して、水で冷まして裏側を見ると、 果してそこには  端厳微妙な相好の仏陀が一体、歴然として鋳つけられていたのでございま す。 * 『物語はこれで漸く終りました。 『最初に申上げました月の兎の事と月を嘗めようとした事とのお話は、鏡面凹凸見分けの秘法 を、ちょっと物に|譬《たと》えて申したまでの事でございます。 『それにしても、死んで地獄へ行ったかと思った姫君が、私にこうして秘法を授けた上、仏姿 まで現して極楽にいる事を知らせてくれたのだと思っても、まんざら当っていない事はなさそ うです。幽明境を|異《こと》にしてまでも、恋なればこそ、相牽く力が働いたのでございましょうか』