ぬれごとしきさんば 濡事式三番       潮 山 長 三                      「とうとうたらりたらりら、たらりあがりららりとう。(謡曲「翁」) 「|凡《およ》そ千年の|縁《えにし》は、二ツ枕に結んだり。(長唄「|雛鶴三番叟《ひなづるさんぱそう》」) 「|音《おと》さん音さん、困った事が出来ちゃった。娘がいなくなった」 「えッ? いなくなったーお|新《しん》ちゃんが? どうして」 「どうしてだか判らない。黙ってどこかへ逃げて行ってしまったよ」 「逃げて? まさか。逃げ出したんじゃあるまい。で、探しましたかえ、心当りを」 「ああ探したよ。探したとも。けれど|今以《いまもつ》て一向判らないんで  」 「判らないなんて、七ツ八ツの子供じゃあるまいし、あんな背の高いお新ちゃんだから、人混 みの中にいたって、一目見りゃじきそれと判るじゃありませんか。|二十歳《はたち》近くにもなって、人 騒がせな迷子だなあ」 「だから、逃げたんですよ。今になってこんな親不孝をかけると云うのはーお新という|奴《やつ》は!」 「ふだんあんな親孝行な子が、何で又親に心配なんか掛けるんだか、早く帰って来ればいいの に。一体どこをほつき歩いているんだろう。私もちょっと探しに出ましょう」 「いや、音さん、ちょっと探しに、どころじゃない。それでこの頃は町内中で大騒ぎをしたん だ。ーああ、生きているのか死んでいるのか  」 「えッ? い、い、いつ、|何時《いつ》  何時からどうなんでー何時から姿を見せないんです」 「もう七日になりますよ」 「ヘッ?」 「逃げ出してから今日まで、どこにどうしているんだか  あいつと云う奴は!」 「そら、そりゃあどうも!」  と、|彫物師音二郎《ほりものしおとじろう》、|唾《つば》の泡を飛ばして思わず|唸《うな》るようにそう云いざま、その口も目も丸く開 けて、片手を脇にとんと突きながら天井を仰いだ。  お新が逃げた。もう七日にもなる。まだ一向判らない。と云うのだから、音二郎、急に眉を 寄せて 「そりゃ大変でございますねえ」 「はい、この年になって、こんな心配をー」  と、お新の父親|鬚《ひげ》の|又四郎《またしろう》は、感極まってもう言葉が出ないのか、ぽつりと|押《ちささ》し黙った。象 のような細い眼から、一時に涙をたらたらと流してから、差し|俯向《うつむ》いて、きれいに|禿《は》げた|天窓《あたま》 を、折柄障子に一杯当っている晩秋の陽光に明るく見せた。うすい|鬢《びん》の毛が、この頃の心配で 一層うすくなって見えるばかりでなく、とほうもなく長い白鬚までが、生気もなく白々と|淋《さび》し そうに見えている。  鬚の又四郎の白い長い|顎鬚《あごひげ》  これあるが為に|綽名《あだな》にも呼ばれて、世間的に有名になってい るんだが、それは銀光りに冴えた二尺三寸、と云う途方もなく長い、実に見事な白い鬚で、一 見、まるで滝だ。今この滝が胸に幅広く落ちた。|萎《しな》びて膝一杯はさしずめ滝壼、白浪立てて|沸《わ》 き返る端々が滝壷から|溢《あふ》れて畳にまで流れ出している。顔の天からまっ直に|懸《かか》った|稀代《きだい》なこの 滝が、あだかも|暴風《あらし》に遭ったようにざわざわと動いているのは、大事の娘が逃げた悲しさに、 唇が心と共に|顫《ふる》えているからであるらしい。  重苦しい沈黙の後、音二郎は云った。 「家出してから、もう七日にもなるのか。  道理で、七日ばかりここへ御足労が願えなかっ たのですねえ」 「取り込んでいたものだから」 「なるほど、そうでございましたか」  二人がそう云っているのは  一体音二郎は|仮面彫師《めんほりし》で、この頃中、|翁《おきな》の面を彫る為に、又 四郎をその生き手本、今日で云うモデルになって貰っていたのである。又四郎にしてみると、 娘の騒ぎで生き手本どころではないのだが、もう娘を探しあぐねた今日、ふらりと音二郎の家 へ顔を出したのである。 「あの翁の面は、それでも|昨日《きのう》でやっと出来上りましたよ。お目に掛けましょうか。それとも |御愁歎《ごしゆうたん》のところだから  」 「はい、いえ、それでは一目  」  と又四郎、存外|仮面《おもて》を見たがる様子だから、音二郎は立って、戸棚から彫り立ての翁の面を 出して来た。仮面はまだ塗ってないから、目も鼻も|瓜《ヤついリ》のように生白い上に、まるで顔がひきつっ ているように、奇怪の|木理《もくめ》がまざまざと浮いている。又四郎は手に取って 「出来ましたねえ。ふうむ、この仮面に、私程の鬚が附けられるといいがー」 「いや、そいつはかないません。何しろあなたの鬚と来ちゃあ、日本一だからなあ。この間な んか、あんたが|四谷見附《よつやみつけ》を通っていると、そこを立派なお|駕籠《かご》で通りかかった|御大身《ごたいしん》のお方が、 |俄《にわか》に行列を止めて、お駕籠からあんたの鬚を驚いてじっと見たって云うじゃありませんか」  少し気が浮き立つように、|追従《ついしよう》気味にこう云うと、又四郎は涙の溜まった細い目を上げて 「はい、それはもう  」 と、胸を反らし、二尺三寸のまっ白な顎鬚を悠々としごいた。娘の事より鬚の自慢の方が大 事と見える。  それで音二郎は横を向いて、ちょっと暗い顔をした。しんみりと云う。 「ねえ、又四郎さん、あんたは毎日そう鬚を|鶏卵《たまご》で洗って|艶《つや》を出しておいでなさる。この春|愛 宕山《あたごやま》のお寺で|長鬚会《ちようしゆうかい》というのがあった時にも、あんたの鬚は列座第一の位に当って、日本随 一の折紙が附きましたねえ。人に鬚が見せたいばかりに、見たくもない|紅葉《もみじ》見物に行ったり、 両国の夕涼みには舟まで出して、ずいぶん鬚道楽に憂身をやつしていらつしゃる。  いや、 鬚道楽というのは変な言葉だが、全く以て鬚道楽でござんすよ」 「ひげ、鬚道楽  」  又四郎は、この時ちょうどしごきかけていた手を鬚の途中に休めて|掴《つか》んだまま、受け口になっ て不興な顔をした。まだ三十にもなっていない音二郎から、逆に道楽事の意見を聞かされ出し たのである。  音二郎は|人指指《ひとさしゆび》で、とんと畳を叩いて 「鬚道楽ですよ。だ、もんだから、思って見りゃ気の毒なのはお新ちゃんだ。あんたが鬚の道 楽ばかりにお金を使って、今日年頃の娘の縁談にも、少しも身を入れていないのだからなあ。 どうせお新ちゃんは、|庫《しび》れを切らして、男を作って逃げたのか、それとも  」 「いや、音さん、鬚  いや、道楽話はとにかくとして、お新は何も男を作って家出したんじや なかろう。まだそんなに実った娘じゃない」 「いや、充分実った娘だ」 「いや、まだ実  」 「実ってるッ! だから、私のお嫁に貰いたいと云って、私はあんたにお願いしたじゃありま せんか。それもこの春の事だ。あの時あんたは私の縁談を断ったが、こんな事なら、やはり無 理にもお新ちゃんを、女房に貰って置けばよかった。もう取り返しがつかない」  と、溜息して、音二郎はまっ|蒼《さお》な|月代《さかやき》を見せながら|俯向《うつむ》いた。又四郎は云いようもない渋面 を作って、禿げた頭へ手を当てた。何の彫物師なんかに娘がやれるものかと云う腹で、あの縁 談を断った時の事が思い出されると共に、なるほどお新の事ももう取り返しがつかないと云う 事を、しみじみ痛感したらしい様子である。 「お新ちゃんが、誰か外の男と逃げたと思やあ、私だっていい心持ちはしませんよ」と音二郎、 焼けつくような目をして云ったが、これは|蓋《けだ》し本音の愚痴というものである。 「いや、あれに限ってそんな事はないと云うのに」と又四郎。 「と云ったところで、小娘と小袋というから、|綻《ほころ》び易い盛りだから  しかし、全くそうでな かったら、又四郎さん、それではお新ちゃんは、鬚道楽の親に愛想を尽かして、どこかの川で 死んだんですかねえ」  又四郎はこの不吉な言葉にぎょつとした。  つと手を出して、又四郎の|頗《すこぶ》る長い鬚に触りかけた音二郎、きっとした声で 「いっそ、どうです。娘御への心の|詫《わび》に、この長い鬚をお切りなすったら」 「な、何、鬚を切れと云うのか」 「はい」 「切った鬚をその|仮面《めん》に附けようと云うのか」 「そ、そんなつもりじゃありません。何事もあんたの鬚道楽から  」 「やかましい!」と又四郎は細い目を大きくして、「この鬚を切った日には、私の命がないも 同じだ。じょうだんを云っては困るよ。私は鬚の為に生きている位だ」と、どなった。  そして、その命に等しい鬚の生えた又四郎の顔が、  顔中の皺が一時にくしゃくしゃと浪 打って、深い陰影を作った。鬚を切れなどと失礼な事を云う音二郎に|対《むか》って、あらん限りの怨 みと|呪《のろ》いとに燃えて、今にも喰いつきそうに|睨《にら》みつけた。顔中の皺も顫えば、二尺三寸の長鬚 もぶるぶると顫えた。そして、じき、その目から無念の熱涙がはらはらと|迸《ほとばし》った。  音二郎は骨から寒くぞっとして、相手を眺めた。こんなに|凄《すご》い、こんなに悲痛な老人の顔を、 今まで一度も見た事がなかった。魂がしぼんで行くような沈黙が来た。 「ううん!」と、唸ったのは音二郎で、どうした物か、きつと目を凝らしたまま、だんだん相 手の顔へ自分の顔を寄せて行く。 「しめた! もし、又四郎さん、もう一度生き手本になっておくんなさい。その顔で、もう一 面凄い翁の面を彫ります!」  と、大きな声で云った。芸術的感興が猛然と湧いたのである。        二  名優|中村仲蔵《なかむらなかぞうし》(|秀鶴《ゆうかく》)は、とんきょうな声で驚いて云った。 「何だって、二尺三寸の真っ白な顎鬚? へへえ、何でそりゃあ人間かい。おっそろしい鬚も あったもんだなあ! ははははは」  鬚の又四郎の驚歎すべき顎鬚の|噂《うわさ》を弟子から聞いて、世間なみに驚歎したのである。  その頃仲蔵秀鶴は役者稼業の傍ら、|舞踊志賀山流《おどりしがやまりゆう》の家元であった。ちょうどその日も|住吉 町《すみよしちよう》の宅で、踊の門人に|奥許《おくゆる》しの「舌出し|三番《さんぱ》」を教えていたが、その時又四郎の話が出たので ある。  仲蔵は笑い声をはたと|止《や》めて、 「むむう!」と、なぜか首を傾けた。じっと考えてから 「よし、おれはその又四郎に逢いたい。どこの人だい。何、|浅草《あさくさ》、山の|宿《しゆく》? 紙屋か? よし 来た。さあ、出かける。おれ一人でいい。駕籠を|一挺《いつちよう》そう云ってくんな」  俄に駕籠で未見の人又四郎の宅へ出かけて行った。  長さ二尺三寸と云う素晴らしい顎鬚なら、翁の面にその鬚をくっつけて、中村座の「|式三番《しきさんば》」 に使ったらと、そう思った。それで又四郎の鬚を買いに出かけたのである。  この仲蔵と云えば、従前忠臣蔵に|定九郎《さだくろう》がどてら姿の不粋な田舎田舎した型であったのを、 大いに考えて、黒の着附けに|朱鞘《しゆさや》の大小、闇に浮き出す真白な顔と真白な|脛《すね》  即ち、黒と朱 と白と、この単純な色彩と、写実的な演技とで、見物をすっかり驚かせた逸話を持っている。 それが当人出世の始まりであった。今日の芝居でやる、あの凄い、いきな定九郎は、とりもな おさず仲蔵の残した定九郎である。  そうした写実を好む仲蔵が、今又翁の面の鬚に、生きた又四郎の長い鬚をほしがっているの だ。うまく手に入ればいいが。  途中で日が暮れたから|蕎麦《そば》を食べ、|幾代餅《いくよもち》を手土産に買った。  山の宿紙屋の又四郎の宅はじき判った。  |丁稚《でつち》に案内されて座敷へ通ると、先客が二人、にやけた若い侍に、|縞《しま》の羽織を着た職人風体。 当の主人は一目で知れる。二尺三寸の驚くばかり純白な長い鬚の老人である。  仲蔵は、頗る丁寧に頭を下げてから、二三、時候の|挨拶《あいさつ》をしたが、|主《あるじ》の老人はにこりともし ないではいはいとばかり云っている。娘の|在所《ありか》がまだ判らないから、その心配の真最中だが、 仲蔵そんな事は知らないから、|素《す》っ|固気《かたぎ》は取っ附きが悪いと思った。しかし、主ばかりでなく、 先客二人も、むっと口を押し|噤《つぐ》んで、白々として、いよいよ素っ固気の素っ固気らしいところ を現わしている。  そこへ行くと仲蔵は芸人だ。きれいな目を輝かし、白い歯を見せ、それに手振りまで  い や、手振りどころか、体全体で以て、相手の心を明るくするような話しぶりである。それから 固気の相手だから、ざつくばらんに云ってしまおうと思ったものか 「聞きしに勝るその御立派なお鬚についてでございますが、日本随一というそのお鬚を、もつ と世間へよく見えるように致したらばと思いまして、急にこうして、へっつい|河《ちさささ》岸の方からお 伺いいたしましたようなわけで、はい」 「世間へよく見えるようにとは?」と又四郎。 「芝居です。芝居へ出すのでございます」 「この鬚を見せに、私が出るのか」 「いや、鬚ばかりを芝居に出すので  」 「鬚ばかりと云うと?」 「そのお鬚を翁の面につけて、私が芝居で式三番の翁を踊ってみたいと思いますので、実はそ のお鬚を御無心に上りました」  と仲蔵、感じを誇張して、助けてくれとでも云うように両手を合わせて見せた。  すると又四郎、目を丸くした。 「何だ、お前さんもか。お前さんもこの鬚がほしいと仰しゃるのか」  と、その声は驚いているが、それで、又仲蔵も驚いた。 「え? 私の外にその鬚を  」 「お前さんばかりじゃない。ほしがっている人があるんですよ。それはこの先客様だが!」  あきれ返った声で又四郎、指を延ばして、先客の中の一人、にやけた侍を指した。 「へ? あのお方が?」と仲蔵。 「このお方は|観世《かんぜ》様の御一門で|金三郎《きんざぶろう》様と仰しゃいます。このお方も私の鬚を  いやあ、今 日は実に驚く」 「か、か、観世様  」  と仲蔵は|鸚鵡《おうむ》返しに云って、きょとりとした。  これで見ると将軍家お抱えのお能役者観世金三郎が、もうちゃんと先に来て、又四郎の鬚を 懇望していたところなのである。仲蔵はそれでしまったと思った。  金三郎は四角に坐ったまま、仲蔵へ言葉を掛けた。 「この鬚は私が|頂戴《ちようだい》いたします。この月末の|勧進能《かんじんのう》に私が勤める翁の面に、この鬚が入用で すからねえ」  と、顎を少ししゃくった物言い。何をこの河原者がと云う意気が、その脂気った鼻の頭にに じんでいる。 「あなたもそう、へへえ! こりゃあどうだ」と、仲蔵は|呆《あき》れた。  するともう一人の先客、ぱたりと膝を叩いて 「こりゃあ話が面白くなって来た。仲蔵さん、私やお前さんにも、あの鬚が差し上げたくなっ て来ましたねえ」  と、又四郎の大事の鬚を自分の物のように云って 「いや、申し遅れました。私は|仮面《めん》彫師の音二郎と申します。どうか御別懇に」  音二郎はここの家へ観世金三郎に|従《つ》いて来たらしいけれど、うまいところで巧みに自分を宣 伝した。  この奇遇は又何とした事だ1 仲蔵もすっかり面白くなってしまった。  が、金三郎は苦い顔でむっとして、重々しく云う。 「恐れ多くも|翁三番叟《おきなさんばそう》は、天の岩戸の故事から来たとも、また|和歌三神《わかさんじん》とも申す。それを芝居 でやると云うのさえ|如何《いかが》なのに、どうも|怪《け》しからん」  何が怪しからんのか、ぶりぶりして云った。が、仲蔵が唇に笑いを乗せて 「ですがねえ、お言葉だけれど、三番隻は日本の物じゃないと云いますが  」 「何、日本の物じゃないと?」と、気色ばむ。 「はい、|印度《いんど》の山奥|西蔵《チベツト》から来たものだそうだ。西蔵と云うところは、朝夕の挨拶に必ずべろ りと舌を出すだけだと云いますから、そこでそれ、この型を取って志賀山流には「舌出し三番」 と云うものまでありますよ。舌をこんなにべろりと  」  と、べろりと出した舌の長さ。金三郎は見る見る顔を真赤にした。ずずっと進んで 「無礼者め! 印度の山奥からとは  返す返すも失礼だ。それでは翁の面の歯はどうだ。お 歯黒が附いている。お歯黒は日本独特の物ではないか」 「な、なるほど。だが、三番隻は黒面をかぶりますよ。顔が黒いのは印度人じゃありませんか」  金三郎は詰った。が 「それは知らん。それでは聞く。あの、翁のっけの文句、とうとうたらりたらりら、とは何の 事か判るか」 「はい、あれは笛の譜だとも云いますけれど」 「違う、笛の譜ではない。祝い|詞《ことぱ》だ」 「祝い詞? なるほどねえ」 「そうだ。観世の秘伝をここで云うのも何だけれど、話すから聞け」と、ますます横柄になっ て来た。  一座は、たちまち面白くなって来た。三番隻講釈に、思わず|固唾《かたず》を呑んだ。 「とうとうたらりと云う、あの|呪文《じゆもん》のような物は、即ち喜びと云う事だ。『無類の喜び、芽出 たいものを、世間の皆様にお|頒《わか》ちする』と云う意味だ。これは実に神秘厳重な秘伝であるが、 よく覚えておけ」  すると仲蔵、へこたれると思いの外、軽く|頷《うなず》いて 「それは、やはり西蔵の言葉だと申しますね」 「いや、違う」 「ふん、これは|入唐《につとう》して来た高徳な坊さんから確かに聞いたのだが、違いますかね。では違う という証拠がございますか」 「ううむ」と、金三郎は目を据えて唸る。そんな証拠は無さそうなのである。  仲蔵、いきなり肩をゆすって、胸を張った。 「無類の喜び、芽出度いものとは、実は子宝のことでございますよ。もし、あなた、三番叟は 色事を唄ったものさ」 「何?」  金三郎ばかりでなく、又四郎も音二郎も、思わず仲蔵を見詰めた。仲蔵はにやりとして 「とかく浮世は色事でねえ、私共の『|雛鶴三番隻《ひなづるさんばそう》』には、『およそ千年の縁は、二ツ枕に結ん だり』とありますよ。『四社の|御田《おんでん》の|苗代水《なわしろみず》に、結ぶ縁の|種下《たねおろ》し』ともありますが、この種下 しとは、へへへ、|子胤《こだね》を|孕《はら》ます事でーーはははは、いやどうも面白い文句じゃあありませんか。 それに又、三番叟が持っている鈴なんかに至っては、即ち男の鈴×!」  それで|轟然《ごうぜん》、  実に轟然たる響きを立てて一座は笑った。金三郎も笑わずにはいられなかっ た。 「いやどうも、|尾籠《びろう》なお話で恐縮でございますねえ。あはははは。何にしても、女が子を孕む のは無類の喜び、芽出度い事です。とうとうたらりと聞く時は、子を作れ子を作れ、子宝作っ て楽しみなさいと響きますねえ」  と仲蔵、|襟掻《えりか》き合せて、おつにすましこんだものである。 |嘘《うそま》か|真《こと》か判らないが、何と|該博《がいはく》な知識だろう。それでこそ日本の名優である。一座の者の目 には、仲蔵の背中から後光がさすように見えた。 「仲蔵さん!」  と、音二郎はぱたりと手を突いた。苦しそうな声音で 「女が子を孕むのは、喜びですかえ。罪じゃありませんかえ」 「罪じゃあありませんとも。お芽出たい事ですよ」 「ああ、そうか、これは助かった。  時に又四郎さん」と今度は主人に向って 「お前さんは鬚が大事か娘が大事か、さあどっちだ」と、手をぶるぶると顫わせた。 「娘が  」と又四郎、「娘が帰って来たら、もう鬚も入らない!」  と、唇を噛んで、はらはらと落涙した。音二郎は又四郎の膝に取り|縋《すが》って 「それじゃ、その鬚を観世様と仲蔵さんのお二人に分けてお上げなさいまし。これが承知なら、 お新ちゃんを連れて来る」 「えッ、お新を?」と又四郎、音二郎を眺め据えて 「よしよし、鬚なんかどうでもいい。お新はどこにいます」 「私の家に、  又四郎さん、悪い事をしました。お新ちゃんは、もう私の子を孕んでいる」 三  とこれから、いよいよ面白い濡れ場になって、正に興味の中心に入って行くのだが、ところ で、もう許された原稿の枚数が尽きかけた。困るのは作者だ。仕方がないから、その面白い所 は又別の小説に書く事にして、今はずっと簡単に|端折《はしよ》っておこう。  家出していた娘のお新は、親又四郎の家へ、恥かしそうにして帰って来た。気が附いて見る と腹が大きい。もう|五月《いつつき》だと云う。又四郎はすっかり怒ってしまったが、変な関わり合せで観 世金三郎と中村仲蔵とが中へはいり、まあまあと|宥《なだ》めて、結局お新を音二郎の嫁にやるという 事にまで漕ぎつけてしまった。が、これと云うのも、仲蔵の三番叟講釈が|与《あずか》って大きに力ある のはもちろんの話である。その|祝言《しゆうげん》の仲人は天下のお能役者に|大名代《おおなだい》の役者、実に大変な事 になったものである。  約束通り又四郎は、自慢の長い白鬚を二人に分けて与えた。これが又難儀な事でーと云う のは、観世のほしがるのは|生鬚《いきひげ》であった。剃った鬚は死鬚で、生鬚ではない。生鬚は一本一本 抜きながら傍ら|仮面《めん》に植えつけるのにあると云うのである。  仕方がないから云う通りにした。  選ばれた面師はもちろん音二郎である。ちょうど出来上がった翁の面と、凄い顔の翁の面と、 この二面の|仮面《めん》を前にし、毛抜きで又四郎の顎から鬚を一本ずつ抜いて、そのまま|膠《にかわ》で仮面へ 植えつけて行く。  又四郎は鬚を抜かれる度に悲鳴を上げた。 「痛い、痛い痛い。ううむ、痛い。こりゃあ痛い、ああ痛いぞ。  あッ、ううむ、痛い。又 痛い。どうも、はああ痛い! お新、お前のおかげで鬚を皆抜かれてしまう。あッ、痛い、あ あ、ああ、ううむ! お新よ、おれは死ぬ程の苦しみだぞ。痛い、痛い痛い。ああ、ううむ、 どうも痛い!」  と、青光りでもしそうな目で、|忌《いまいま》々しそうにお新をきっと睨み、毛抜きを|揮《ふる》っている音二郎 を睨んだ。この世からあの世まで二世かけたような強烈な怨みの火の手を、骨の中なる|髄《ずい》の髄 から燃やし立てた。が、今や命と頼む鬚がすっかり無くなってしまうのである。  鬚の又四郎は鬚無しの又四郎になった。やっと音二郎の手で二尺三寸の長鬚を持った稀代な 二面の翁の仮面が完成された時、又四郎はどっと寝ついてしまった。信念その物だった自慢の 鬚が、|情用捨《なさけようしや》もなく、べろりと無くなってしまった|気落《きおち》と、もう一ツには鬚抜き跡の傷口が かぶれたのと  かぶれは|即《さちさ》ち今日の言葉で云うと、|膿疱性顔面湿疹《のうほうせいがんめんしつしん》と云う病気、これが化膿 する度毎に、一ツの毛穴へ五六本の|錐《きさり》を一時に揉み立てるような苦痛で、それが又顔中のかぶ れ全体が同時に痛むのだから、まずこの世ながら地獄の|苛責《かしやく》と云わねばならぬ。 「お新、顔が痛むぞオ!」  と、枕許のお新の膝を死に切り掴んで苦痛を訴えた。 「よく出来た。実によく出来た!」  観世金三郎も中村仲蔵も、有頂天になって翁の面を喜んだ。一種の|敵《かたき》同士のこの二人は、二 面の生鬚の|仮面《めん》を中心にして、兄弟のように|距《へだ》てなく明るい顔を見交わした。  ある晩金三郎は、ふと目を覚ました。|微《かす》かな声で誰か物を云っている。今頃何だろうと耳を 立てると 「|家《ちつち》へ行きたい」  と心細い声である。  枕から頭を上げると、窓先の小笹が夜陰の風にさらさらと鳴っているばかり、襟許が寒くなっ た。手を延ばして|有明行燈《ありあけあんどん》を掻き立てた。 「家へー」  と又聞える。隣座敷に寝ている弟が何か|寝語《ねごと》を云うのかと思いながら、ひょいと顔を上げる と、宵の口床柱の|折釘《おりくぎ》に懸けて置いたままの翁の生鬚の面が目についた。ぞろりと二尺三寸の 白鬚を垂らした、それが行燈の灯を下から逆に受けて、深い陰影に|隈取《くまど》られながら、云いよう もなく|顰《しか》めっ面に見えている。 「ふうむ、鬼気人に迫る。よく出来たなあ!」  と、床の上へ坐って、面をつくづくと眺める。と、その長い鬚が、|隙間洩《すきまも》る風に、ふわふわ、 ふわふわと揺れ、  いや、とうやら、揺れると見たのは、正に生鬚の面の唇が動いているの でー 「家へ行きたい  鬚の|主《ぬし》へ帰りたい」  と、心細い限りの声音で、仮面がつぶやいた。 「きやッ!」 観世金三郎は叫んでそこへ倒れた。気絶したのである。  それと同じ日の昼、仲蔵の家では、ちょうど仲蔵が不在の折柄、踊の門人中|村秀逸《しゆういつ》という のが、生鬚の面を取りだして|冠《かむ》った。この男は翁の|振《ふり》を習っているのでなく、三番叟を教わっ ているのだから、舌出し三番の見得で、面を附けたまま、首を振り振り、舌を出した。翁の面 の奥から翁の黒い歯を押し分けるようにして、|唾《つば》でてかてかと光る舌の先を出した途端である。 実にその途端、舌をがじッと、翁の面に噛みつかれた。 「・り・りッ!」  と叫んで、これも引っくり返った。人々が駈けつけて見ると驚いた事には、仮面の口から長 い白鬚にかけて、鮮やかな赤い血がべっとり!  この門人は即死した。 85濡事式三番  山の宿の又四郎の家へ、観世からと仲蔵からと、同時に|生鬚《いきひげ》の面を、|理由《わけ》もなく返して来た。  お新は|高蒔絵《たかまきえ》をした面箱二ツを前に置いて、親指の爪をきゅつと噛みながら、しきりに首を 傾けた。腹の中で、とくんと、|児《ささち》が胎動した。 「何だか変な物を持って来ましたよ」  と、面箱を父親の枕許へ据えた。 「何を持って来た? どこからだい」  と、又四郎は響きのない声で聞く。 「あの面らしいのよ」 「何? 面だ?」  又四郎の顔に、  かぶれだらけの醜い顔に、さつと血の色が上った。と見ると、重態なの が、がばと起きた。 「あら、お父さん」  おろおろする娘を、ひどい力ではね退け、異常に顫える手で、いきなり一ツの面箱の|紐《ひも》を解 くが早いか、がたがたと|蓋《ふた》を払った。 「あッ、面だ!」  激しい勢で、又一つの面箱も開く。すさまじい大声で叫んだ。 「あッ、面だ! ああ、鬚、鬚、鬚が帰ったぞ。おれの命が帰って来たぞ!」  二面の|仮面《めん》を箱ぐるみ抱き上げると共に、衰弱し切った|老躯《ろうく》だから、横倒しにどんと倒れた。 もうそれ切り  命の鬚を抱いたまま、又四郎はもうそれ切りあの世へ帰って行った。