口を縫われた男 潮山長三 「はてな?」  |陰陽師壬生孝之《おんにようしみぷのたかゆき》は、|黒谷《くろだに》の桜の花の下に、妙なものを見つけて立ち止まった。                   おずみあ調、まる       よこかわしU、っな一}ん  妙なものとは外でもない。それは友達の尾住阿気丸と云って、横川少納言に仕えてい る侍である。よくしゃべるから尾住ではない|百《も》舌|鳥《ず》の阿気丸と|緯号《あだな》されて、しかも人に優 れた色好みであるが、その陽気な阿気丸が、見れば従者も連れずたった一人、もうかれこ れ入相の鐘も響いて来ようとする此の時刻に、所の名を聞いてさえ陰気臭い黒谷の桜の下 なんかに、何だって又、首を垂れ込んで|樽《うずくま》っているのだろうか。そこで彼が両の手を土に 突いて|畏《かしこま》ったら、その|儘《まま》蛙に化けてしまいそうな|恰好《かつころ》である。  不審らしく首を一つ振ってから、孝之は声をかけながら、そちらの方へ寄って行った。 「おい、阿気丸じゃあないか。達者かい。そんな所で一体何をしているのだ」  阿気丸は入日の光を真向に浴びながら、まぶしそうに顔を上げた、そして目に手を|窮《かノ  》し た。 「ああ? 誰だい」  どうも声が沈んでいるようである。 「おれだよ、陰陽師の孝之だよ」 「ああ、そうか。お前も達者かい」 「いやに気のない返事だな。時に、相変らず色を稼いでいるかい。色男」 「いや、駄目だ」 「駄目だとは何だ。さては失恋したのかい」 「失恋? 誰が」 「お前がさ」 「いや」と阿気丸は|士烏帽子《さむらいえぼし》を振り立てて、「なかなかどうして、第一そんな気の利いた 女にまだ一度だって|出《で》っ|会《くわ》した事がないよ」 「そうか」と、今度は孝之が気の無い返事をして、うそうそと笑った。 「そうじゃないか。それだから、どうも世の中が|佗《わぴ》しくっていけないのさ。つくづくと考 えるのに、都には面白い美女がいないね」  阿気丸はそれで黙って、眉根を心持ち八の字にしながら、首を横向けた。桜時だと云う のに、あたりは森閑として、烏の声ばかりが遠くの方から透き通るように聞えていた。目 の前へ薄白い桜の花が、はらはらと散って来た。彼はそこの桜の木を、ぼんやりと見上げ た。練って磨いたような美貌が、今口に限って冴えないようである。  孝之は何か云おうとしたが、これも急に黙り込んで、阿気丸の心の底を見透すような目 の色をした。両足を|踏張《ふんぱ》るようにして、両腕をじっと組んだ。  「全くの所」と阿気丸は云った。「おれは当り前の女じゃあ、もう興味がなくなって来た のさ。たった一度の文で|靡《なぴ》いて来たり、通りすがりに一寸袖を引いただけで、すぐ慕い寄っ て来るような女は面白くないのさ。世の中の女のどれもこれも、揃いも揃ってうまみのな い奴らばかりになってしまったものだc色好みの阿気丸たる者、どうも生き甲斐がなくっ ていけない。激しい興味を持たせてくれる美女と云うはないものかなあ! 今時は、女に 味のあるのが無くなったばかりじゃない。見給え、桜の花さえ  いったい桜の花は桜色 に咲くべき筈のものだけれど、今年の花に限って、とんと|艶《つや》がないじゃないか。どうだ、 これは気が附いているかい」  そう云われて孝之は、頭の上の桜を見上げた。なるほど、花が薄白い! 薄白い花が、 入日の光の中に浮み上って、不気味に静まり返っている。そよ風に散る薄白い花片は、死 んだ小魚の腹のようで、|若《も》しその一片でもが|頸《くぴ》から背中へ|這入《はい》り込んだなら、きつと貝殻 のような冷たさが、全身に拡がる事に違いない。 「ほう!」と孝之は少し驚いた。そして黒い|顎髪《あごひげ》を|扱《しご》きながら、阿気丸の目の前へ同じよ うに樽った。 「桜の花が白いだろう」と阿気丸は云った。「これが|毎《いつ》もの春なら、かの『柳桜をこき交 ぜて都ぞ春の錦』と云う歌の通り、洛中の花は、丁度風呂から上り立ての女の裸身のよう にーそれも恋盛りの女の乳房のようにふっくらと温くって、明るくって、見る人の心を 時めかせるのだが、所が今年は一体どうしたと云うのだろう。見渡す限り|大路《おおじ》も|小路《こうじ》も、 四方の山へ掛けて、ただ白々と|槌《あ》せたような桜の花が、薄汚れた霞の中に沈んでいるばか りだ。中にも|猪熊《いのくま》小路のあたりでは、薄墨色に咲いたのさえあると云うじゃあないか。 |弥生《やよい》の末だと云うのに、思って見ても、何だか風邪の熱振いのようなものが脇の下辺から 出て来そうでいけない。鏡が突然に曇って、盛りの過ぎかけた女を泣かせるのも、おおか たこんな化物季節に有りがちの事だろう。なかんずく、薄墨色に咲いた桜とはこれいかに。 お前は陰陽師だ。何と|勘文《かんもん》を書くかい」 「ううん、全くそんな事があるのかい」 「あるとも、あるとも! 若し此の勘文が出来ないようだったら、お前は陰陽師渡世を|廃《よ》 すがいい。あはははは」  孝之は笑いもしないで、黙り込んで、又相手の顔をじつと眺めた、  阿気丸はのっぺりした顔を、片手でつるりと撫でて、にこにこした。そろそろ、しゃべ る病が起って来たらしい。 「孝之、お前に代って、おれの考えを聞かしてやろうか。そもそも白い桜や、薄墨色の桜 が咲くのは、つまり都人士に生色がないからなんだ。此の頃は毎夜毎夜都の内外を選ばず、 到る所に化物が出没して人を悩ましている。それに加えて、それより以上恐ろしい|盗人《ぬすぴと》が、 随所に|群《ぐん》を|為《な》して盛んに横行している。化物については、あれを見たこれを見たと云って、 いろんな種類を毎度毎度聞かされているので、いいかげんびくつかなくなったけれど、目 新しい所では、どうせお前も聞いて知っているかも知れないが、何でも五六百の|鬼形《きぎよう》の者 が、五条の橋から|火松《たいまつ》を|点《とも》し連ねて、加茂の川原の闇夜を赤々と夕焼雲のように、|下《しも》へ下 へと練り出して行って、道々出会う男や女を|深《さら》って隠してしまったり、又深って行かない までも気違いにさせたりしながら、京極|末《すえ》から今度は西へ九条大路を長々と続いて行った 上、都の南を外れの羅生門の前に到ると、さしもの|彩《おぴただ》しい|頭数《あたまかず》の鬼どもが、一時に|舞《ひし》め き立って身を逆さにして、門の上層へ霧が晴れたように消え込んでしまうと云う事だ。御 所近い松原では、往来の女を取って|轍《くら》って、一片の骨さえ残さない化物が出るようになっ たし、又云うのも|畏《おそ》れ多いが、去る高貴のお方の細殿では、大きさがどれほど有るかわか らない、その上頭も尾もない『のらくら坊』と云うえたいの知れない奴が、土中からむく むくと湧き上って来て、細殿すっかりを背中に乗せたまま、十間も|距《へだた》った所へ何の苦もな く移してしまった、笑う声ばかりは地震で壊れる家のような響きだったと云うが、誰一人 その正体を見た者がないのだ。それも道理で、全体『のらくら坊』は体が透き通っている のだ。水のようだと云うより、いっそ風さ。こいつが一度|鉢麿《はちまろ》と云う犬を呑んだ時などは、 まだ人顔の見える夕暮前だったそうで、その時、呑まれた鉢麿が、その化物の腹の中で、 声も立てずに身を|頻《しき》りにもがき抜いたあげく、次第次第にその頭も胴も溶けて行くのが、 地上…二尺の所に、はっきりと見えていたと云う事だ。『のらくら坊』は頭がないのに、 どうして生物を轍ったものだか、それと云うのも、全体透き通った風みたいな大化物の事 だから」 「聞いた聞いた。『のらくら坊』の話は、もうちゃんと聞いて知っている」と、孝之は口 を入れた。 「そうか。そうだろう。時に、そうした化物の|崇《たた》りと云うのが、又世間には多い事さ。そ れでお前も渡世柄、方々へ招かれて、大小の化物を|咀《のろ》ったり、お祈りをしたり、又物忌み を云いつけたりして、どうせたんまりと儲けている事だろう」 「その事に就いておかげでね。陰陽師だけは当り年と云うのか、此の頃は|福楽《ふくたの》しさ云わん 方なしと云う所だ」 「やはりそうか。うまくやっているな」 「しかし、困った事には、そう云う向きから頼みにやって来るのが、夜だろうと夜中だろ うと、一切お|関《かま》いなしと来ているから閉口さ」 「どうして?」 「盗人がね、道で盗人が出そうでいけないからさ」 「うん、そうだ。盗人と云やあ、これが又大変だ」 阿気丸はすっかり百舌鳥の阿気丸になって、盛んにしゃべりだす。 「かの名高い|艶丸《あでまる》とか|調伏丸《ちようぷくまる》とか云う大盗人の|首魁《しゆかい》たちは、いったいど人な顔をしてい るのだか・もつとも調伏丸の方は昼も稼いで人に顔を見られているから、検非違使の庁で も・もうちゃんと人相書を八方へ出しているそうだ、だから、間もなく捕えられるだろう が・艶丸と来盲には・どん姦をした男だか、とんとわからないと云うじゃあないか。 訴人した者には五+貫文の褒美を下さる事になっているそうだが、その癖、艶丸が昨癌 条の懸賜を襲って、手下の者ども奪しい金銀財宝を、+数台の車で積み出したと力 やれ馨も綾の小路の長者の屋敷を荒したとか、実にやかましい事になっているが、それ でも今以て人相書さえも出ていない処によると、若しかしたら艶丸も、『のらくら暫の 親類じゃないのかな・何しろ透き通って風の如しとある部類じゃあ、今現にお前の後へ来 て・ふわりと立っていても、われわれには両わからないと云うものさ。ははは」 これを聞くと孝之は、ぞっとしたように顔を書`、そわそわと後を振り返った。、 「おいおい・阿気丸、脅すない。おれの後には、土筆が一塊になって、もぞもぞ生えてし る所へ・まっ白な桜の花が散りかかっているばかりじゃあないか」 「あはははは」 「笑っていやあがる。何が面白いのだ。それでは味のいい女がいないからと云って、今世 の中を佗しがっていた事は、もうすっかり|癒《なお》ってしまったと云うのか。とかくお前と来た ら、しゃべりさえすりゃいいのだからな」 「いや、いくらしゃべったって、そいつばかりはいけない。おれを手荒く愛してくれる、 味のある、しかも洛中一番の美女1いやそんな者は世の中にありゃしない。たとえ又有っ た所で、出逢う事が出来なければ、これも『のらくら坊』だ。ああ、いやだいやだ!」  首を振ってそう云って、|情気《しよげ》たように目を伏せた。  その阿気丸の顔を見ている孝之の唇が、急に力強い一の字になった。じっと|睨《にら》むように した。息苦しい程な凝視の中から、重い声で|捻《もつな》って、 「ううん! おい、阿気丸!」と叱るように呼んだのである。 「何だ」 「ううん!」 「孝之孝之、|物《もの》の|化《け》を睨み倒すような目附きをするなよ。世間ではおれを色魔だとは云う が、おれは人間だ。人間には違いないさ。ははは」 「睨み倒すのじゃあない。見抜いたのだ。お前の人相に、今ありありと現れ来った事をト《ろらな》|つ てやるのだ」 「え?」 「神妙に聞けよ」と、片手を阿気丸の顎の下へ掛けて、その顔へ云うには、 「今月今夜、お前の願望は成就する。|呑精呑声《どんせいとんせい》の鬼女に遭うと云う相だ。鬼女と云っても 妖怪ではない。これこそお前が求めている都下第一の美女で、お前の興味を満たすに足る 者だ、此の機会を外したら、もう一生興味のある女は出来ないだろう。しかし、呑声と云っ て、その女に逢っている中は、たとえ一月でも一年でも、お前は決して声を出してはいけ ない。声を出したら殺されると思うがいい、方角は北だc北1これから|神楽岡《かぐらおか》のあたり を捜すがいい」  珂気丸は孝之の気勢に押されたように、ぺたりと|尻餅《しりもち》を|鵜《つ》いた。|卜相《ぼくそう》の事があまり突然 なので、|脇《ふ》が抜けたように、大きく口を開いて荘然としてしまった。 「おい」と孝之は声を励まして、「いいか、無言だ、無言だ。物を云っちゃいけない。物 を云ったら死ぬぞ。それではお前が夜行の|中《うち》妖怪に魅入られないように、これからお祈り をしてやろう」  そこで親切な陰陽師は、ぴたりと音をさせて合掌して、水のような夕空へ声を響かせな がら、大きな声で呪文を|称《ンヲぱ》え出した。 二 その夜の中に、阿気丸は幸福なことになってしまった。孝之の予言通り、「味のある」 美女を手に入れたのである。  それは|朧月《おぼろつき》の小暗い神楽岡の大きな家の|蔀《しとみ》の中から、|鼠鳴《ねずみな》きの声がしたのに始まる。 その時、うろうろと幸福を捜し廻っていた阿気丸はその鼠鳴きを聞きつけ自分も両方の頬 をぺこりと凹ませて、きつくちゅっと鼠鳴きをやってみた。見ていると、その蔀の間から、 |灰《ほのぼの》々と白い手が出て来て、彼を招いた。妖|怪跳梁《ちようりよう》の時節柄だから、阿気丸は脇の下に冷 たい物をぞっと感じたけれど、念の為め太刀の|柄《つか》に手を置きながら、じつと|透《すか》してみると、 その手は二の腕から指先まで弾むようにしなしなと動いて、しきりに招いているのである。  彼はその手をむずと|掴《つか》んだ。|温《あつたか》い手だ。人間の手に違いはなかった。柔かな手だ。女に 違いはなかった。すると、その女の手が、阿気丸の手を握った、|庇《ひさし》の陰の薄暗がりの中に、 その手は真珠のような艶を見せながら、緩めつ締めつした。阿気丸は胸を踊らせて、女の 手を口に附けた。その手に|染《そ》みた甘い|伽羅《きやら》の|香《か》が、云いようもない激しさで鼻を突いた。 そこで彼は女が痛がらない程度で、手首から指の方へと、順々に噛んで行った。いや、噛 むばかりではない、噛んだ時歯の裏へ盛り上って来る皮を、舌の先で丹念に|嘗《な》めたのであ る。そうして楽しむように指を五本とも噛みつつ嘗めてから、今度はその手を裏返させて、 掌をーこれは噛めないから只嘗めた。さらさらとして非常に|滑《なめら》かで、嘗める舌を押し返 すような弾力のある掌は、その女の|類稀《たぐいまれ》な顔の|理《きめ》の細かさを、如実に物語っているもの である。これは素晴らしい美女かも知れない! そう思い思い、うっとりと眼を閉じて、 伽羅の香の薫じわたる中で、しきりに掌を嘗め廻した。  又蔀の奥で鼠鳴きが聞えた。彼はそれにも応えて鼠鳴きをしようとするとたん、女の手 が|容捨《ようしや》もなく、するりと蔀の奥へ引っ込んでしまった。おや? と思うと、蔀の合せ目に 横へ一筋、|灯影《まかげ》がさつとにじんで来て、上の蔀が静かに押し上げられた。同時に内から明々 と捧げた|紙燭《ししよく》の光で、さも嬉しそうに微笑んだあでやかな女の顔が、阿気丸の鼻の先にくっ きりと現れた。  阿気丸はその美に打たれてさすが心が臆するものか目を丸々とさせながら…二歩後へ|退《すさ》 ると、女は|差《はずか》しそうに二重瞼の目を一寸伏せたが、しきりに|厭面《えくぼ》が深々と波立つにつれ、丁 度左の厭面の下にぽっつりと黒い|黒子《ほくろ》がかすかに動いて、その一点の黒いのが、かえって色 白な顔全体を、一層鮮かに白く引き立てて見えた。果して稀代な美女だったのである。 「お越し遊ばせ」  女ははっきりした言葉で云った。が急に目を上げて、 「しかし、|此所《ここ》の内では、決して|一言《ひとこと》も物をおっしゃらないように、もし一言でもおっしゃ ると、大変なことになりますから」と云った。  阿気丸ははっとした。身内が寒くなるような気がした。さてこそ無言の歓楽が  求め に求めていた激しい興味を与えてくれる女に|廻《めぐ》り|逢《あ》ったのか、今やその機会が来たのだろ うか。阿気丸は唇を固く閉じて、思わず知らず女に頭を下げた。-お辞儀をしたのでは ない。「よろしい、物は言いません」と云う事を納得して見せたのである。  それから  |簾《すだれ》の内へ入って、一緒に酒を呑んで、そして夜中になって朝になった。  朝になって考えてみると、|昨夜《ゆうべ》女の家には、女の外に誰一人いる様子もなく、広い家内 ががらんとしていたのだ。これがどうも不思議でならない。こんな女が一人で暮している とは思われない事である。もしかすると、女には夫があるのではないだろうか。そこへ気 が附くと、彼は索然として顔を|輩《しか》めた。  不思議なことはそればかりではなかった。朝、侍らしい男が二人と|召仕《めしつか》い|女《おんな》らしいのが 一人とが一人の|下衆女《げすおんな》を連れて、黙って|何処《どこ》からかやって来た。そして黙って、彼に恭し く一礼してから戸を明けたり、火を起したりした上に、丁寧な膳立てをして、又黙ったま ま阿気丸と女とに食を食わせた事だ。食うだけ食ったところで、それらの男女は、しとや かに黙って一礼して、又何処へか出て行ってしまった。  満腹すると、阿気丸は少しずつ|胆《たん》が据って来た。一人でにこにこと笑った。と云うのは、 あの女の並々ならぬ激しい愛慾を思い出したからである。してみると、余程女に可愛がら れたのに違いなかろう。  しかし、困った事に、彼は物が言えない不自由を、生れてから始めて痛切に味わわされ た。|昨夜《ゆうへ》はそれほどでもなかったけれど、朝飯を食した今では、もう|何時《なんとき》も物を言わなかっ た口が、ぽかぽかと熱して来て、こればかりは不快であった。口を開けたり閉じたりする と、ねんばりとした|唾《つぱ》が、ねちゃねちゃと音を立てた。ああ、物が言いたい、物が言いた いと思った。  口をねちゃりねちゃり動かしている処へ、次ぎの間から女が出て来て、こればかりは物 を言った。 「物がおっしゃりたいのでございますか」  阿気丸は|首《こうべ》を左右へ振ってみせた。 「しかし、よく|御心抱《ごしんぼう》遊ばせ。物が云えない苦しみをお|堪《こら》え遊ばすのも、今暫くの事でご ざいます。もう五六日も致しますると、自然とお楽になってまいります」  勿論阿気丸は心抱するつもりである。|頷《 フなず》いてみせた、、それにしても、見れば見る程|近増《ちかまさ》っ て美しい女である。彼はにこにこしながら、女の手を取って、しみじみと撫でた。噛んで も噛んでも噛み切れない程な恋しさが、彼をすっかりうろうろにしてしまった。  昼と夜とに、又黙りこくった男女がやって来て、阿気丸と女とに見事な馳走を作って出 した。それが済むと、又黙々として帰って行った。その男でも女でも、到れり尽せりの仕 えぶりで、彼等は手を突き頭を下げながら、顔を|斜《ななめ》にして、おずおずと見上げるだけで、 それでこちらの意思をよく読んだ。思う通りに何事でもちゃんちゃんとやってくれた。使 いよいと云ったら話にならない。彼は大臣にでもなった気で、|鷹揚《おうよろ》に手を挙げて、指図し たり、頷いたりした。  その翌日になると、阿気丸今度は|喉《のど》が熱くなって、ずきずきと痛んだ。物を言わないで いるので、ますます体の具合が悪くなったのに違いないと思った。心持ち悪そうな顔をし て、ぐびりぐびりと唾を呑み下しながら、喉を|摩《さす》り出したのである。  喉が痛むうちはよかったが、それから二三日の後には、頭ががんがんと痛んだ。飯食う 以外には不必要になった口が、まるで本来の機能をすっかり忘れてしまったようで、特に 舌などは|折敷《おしき》のように固くなってしまった。試みに舌を引っ張り出してみると、丁度焼い た鹿の肉のように、どろりと粘った上に不気味な熱を持っていて、自分の物ながら情ない 気がした。人並外れて縦横毎尽にしゃへった舌1これ一枚で思うさま多くの女を迷わし て来た舌-今では既に足の指と同様、わずかに人間の|飾《かざり》に等しい物となった舌よー 彼 は溜|息《ち》さえも声を出して|吐《つ》く事が出来ないようになった身の上を、痛々しくも|哀《あわれ》なものに 思い定めながら、べろりと延びるだけ延ばした舌を、爪でばりばりと引っ掻いた。  舌を掻き過ぎて痛めると、頭がますます痛んだ。そこに到って阿気丸は、舌の根と云う ものが頭の中にある事を覚った。そして又、物を言う言葉の本源も、実に頭の中にある事 を知った。すると彼はぎょつとした。物を言わないでいると、今に頭の中が腐ると思った。 即ち無言は死を意味していると思った。  これも|誰《たれ》ゆえ、女ゆえだ。男の頭を腐らして殺してしまう女の愛慾は、なるほど激しい ものと云わなければならぬ。阿気丸は|情然《しようぜん》と首を垂れて、鼻ばかりから吐息を漏らした。  彼はそろそろ後悔したのだろうか。所が決して後悔はしなかったのである。それは 丁度女が、阿気丸にそれに似た事を尋ねた。 「あなた、物がおっしゃりたくはございませんか」  阿気丸は首を左右へ振った。 「それでも」と女は、疑うような目の色をして、「何となく物足りないようなお顔附きで ございますもの」  阿気丸はこれを聞くと、やにわに女の手を強く掴んで、首筋に力を入れて、一寸お辞儀 するような恰好をして、「そうではないよ!」と云う意味を示した。  その意味がわかったと見えて、女はにっこりした。密の下の黒子が、いじらしいまでに 愛嬌を見せている。 「ねえ、あなたや」と、女は甘えて、男の唇をいじりいじり云った。「妙な御縁で、とう とうこんな事になってしまいました。わたくしは、もうもうもうもう、こんな嬉しい事は ございません。たとえ此のまま死んでも、殺されてもいいと思って居ります」  その言葉が、阿気丸の胸を棒のようになって打った。彼は晴々とした顔をして頷いた。 「それでございますから、|何時《いつ》までも二人一緒に居りとうございます。幸いに、|家《うち》には金 銀も財宝も沢山ございますから、この上は|如何様《いかよう》とも思召しのままにお使い下さいまし。 しかし、あなたに物をおっしゃらないようにお願いして居りますのは、わたくし|些《いささ》か神仏 に念願がございまして、これから三年の間、夫たるお方に無言の苦行をしていただく事に 思い定めているからでございます。御不自由でございましょうけれど、何事もわたくしの 為めと思召して、どうか、これから三年の間、無言でおいで下さいまし」  阿気丸は激しく頷いた。  女は阿気丸の膝にもたれて、じっと彼の顔を眺めた。にっこりした。その口が、ふと淋 しそうに閉じられて、|目許《めもと》もしおしおとなって来た。これは男の無言の苦行を思いやって、 俄に悲しくなって来たのらしい。果して女は、感極まったように、男に|獅噛《しが》みついた。は らはらと涙が流れた。 「あなた、ああ、嬉しい! あなた、嬉しい! 真実、死んでもよろしゅうございます!」  阿気丸は体中が熱くなるほど、いとしさが一杯に燃えて来て、 「おれもだ!」と、つい、うっかり物を言ってしまった。  すると、女は阿気丸を、やにわに突き倒した。  阿気丸ははっとした。つい物を言った自分の愚さに、両の|拳《こぶし》をわなわなと|頭《ふる》わして、ひ どい悔いに身を|悶《もだ》えた、  女は荒々しく阿気丸を引き据え、打って変った|忌《いまいま》々しそうな顔をして、 「ああ、おっしゃった。物をおっしゃった。これでは念願かけた神仏の|冥加《みようが》の程が恐ろし い。ああー あなたとのお縁も、もう  」  と聞くと、阿気丸は離縁宣告の恐ろしさに、がばと身を起して、すさまじく大口を開き、 拡げ切った掌を目の前へ出して、物を|捏《こ》ねたり撫で廻したりするような恰好を、いろいろ と一生懸命にやりながら、これも涙をはらはらと流した。「そんな事は決して云ってくれ るな」との意味なのである。それから彼は、身を|拠《なげう》って、女の前へ頭を下げた。彼は詫び 入ったのである。  女は悲しそうな声で、 「物を云った罪のお詫びは、わたくしになさいますより、神明|仏陀《ぷつだ》になさいませ。その方 法は、|答《むち》を八十身に受けるのでございます」  答を八十! 阿気丸はぎょつとしたが、意を決してそれを受ける気になったのか、彼は ごろりと身を|横《よこた》えた。  女は|何処《どこ》からか答を一本取り出して来たc 「あなたと、お別れする事がいやなばっかりに、此の答で打つのでございます」  ぴしり! 答は阿気丸に鋭く下った。彼は思わず飛び上ったが、又身を投げ出して第二 の答を待った。        三  八十度答打たれた阿気丸の背中は、勿論傷だらけになった。物言えば殺されると云った 孝之の予言が、いよいよ真実なものになって来た。それよりも|猶《なお》恐ろしいのは、答打ちな がら女が言った言葉だ。 「此の次ぎに|若《も》し物をおっしゃる事がございますと、その時こそは即座にお命がなくなっ てしまいます」  もう決して物は言うまいと思った。  今となっては、|唖《おし》になる薬がほしいのである。  彼は体が痛んで痛んで、寝返り一つ打てない|病褥《びようじよく》の中で、目ばかりぎょろぎょろ光ら せながら、唖になる薬を心に願った。が、女はそれに引き代えて、|竈《かまど》の土を煮つめたのと、 よい|酢《す》とを彼に呑ませた。病気に|頗《すこぷ》るよい薬だと云うのである。  その土とその酢とは不思議によく利いた。十日も過ぎると、もうすっかり丈夫になって しまった。  或る夜、女が言った。 「あなたによいお仕事を見つけて置きました。これについては今暫くの間、何事も大人し くわたくしの言う事にお従い下さいまし」  女は黒い|水干《すいかん》と、袴と、立派な弓、|胡錬《やなぐい》、|脛巾《はぱき》から|藁沓《わらぐつ》まで出して来て、阿気丸に|著《き》せ たものだ。 「これから|蓼中《たでなか》の御門へお越しになって、弦打ちを遊ばせ。すると誰か出てまいりましょ う。その人が口笛を吹きましたら、お心をお許し遊ばして、その人に着いてお越し遊ばせ。 それからその人の云う通りにして、もし妨げる者がありましたら、弓なり太刀なりでお防 ぎなさいまし」  女は最後に太刀を|佩《は》かせて彼を押し出した。  一体これは何の為めだろうと思うまでもなく、|盗人《ぬすぴと》の稽古にやられる事を知った。阿気 丸は荘然として、少し|彳《たたず》んだが、物が言えないのも運命なら、これもまた運命だと観念し て、人通りも稀な夜道をすたすたと蓼中の御門の方へ出かけた。  目的地へ着くと、あたり一面暗さは暗し、心細くもなったが、教えられた通りびゅんと 弦打ちをすると、果して|何処《どこ》からか、かすかに口笛の音がして人がやって来た。一人では ない。がさがさとのさばり出て来たのをよく見ると、物々しい武器を携えた四五十人の人 数が、彼の前でぴたりと止まった。もう一度弦打ちすると、それらの人の中から夜目にも 色の白い小柄な男が出て来て、無言で彼を招いた。すると四五十人の人の群が彼を取囲ん で円陣を作って、静に歩き出した。彼は逆巻く渦に呑まれたように、一緒に歩いて行くと、 円陣はいつの間にか二列の隊伍に変じた。黙り込んだ此の不思議な一隊は、何処までも進 んで行った。  隊伍がぴたりと止まった。大きな門構えの前に来ていた。すると隊の中から≡二人が、 ばらばらと出て、見る間に|築土《ついじ》を乗り越えた。  さつと門が開いて、三十人ばかりの者が|闘入《ちんにゆう》して行った。  彼はさてこそ盗人稼ぎを始めるのだと思った。  阿気丸は自分はどうしたらいいかと思っていると、残された人数が門の左右へ二手に別 れ矢を|番《つが》えたりし出したので、自分も同じように弓に矢を番えながら人数の中へ紛れ込ん だ。  門の中では、すさまじい合戦の物音がした。物を倒す響き! 殺される人の叫び!  門外に立った連中は、やはり黙ったままで、突然門内へどつと駈け込んで行った。  阿気丸も続いて閥入すると、奥の方から太刀を振り廻しながら五六人の男が飛び出して 来た。賊軍はこれに向って矢を放った。  阿気丸はその二人までを射倒した。  それから乱軍になって、敵も相当の人数が働いたが、その中阿気丸は矢種が尽きたので、 弓を左に抱えたまま、右手ばかりで太刀を|揮《ふる》った。  妻戸の所の|庇《ひさし》から、彼の目の前へ、どさりと人が落ちて来た。落ちて来たのではなく、 飛び下りたのだ。  飛び下りざまにその人は彼を斬ろうとした。ひょいと身を|退《ひ》くと、その人は手答えが流 れたので、ひどく前へ|打《ぷ》っ|倒《たお》れてぎゃつと云った。  阿気丸は立ってじっと眺めていると、その人は立ち上って斬ってかかった。阿気丸は小 脇の弓を左の手でひょいと突き出して、弓の先を相手の口の中へ押し込んだ。相手が後へ ひっくり返ろうとする所を、片手斬りにその首をばっさりと打ち落した。 「見事だ!」  人の声が近くでした。  阿気丸は、はて、聞き覚えのあるような声だと思った。が、見ると、さっきの小柄な男 が立っていた。その男は|大頭巾《おおずきん》を深々と|冠《かむ》って、やはり黒い水干を着ていた。これがどう も賊徒の首魁らしい。阿気丸は一寸頭を下げた。小柄な男は頷いて見せた。阿気丸は嬉し くなって、顔を|仰向《あおむ》けながら、得意そうにすうと鼻を音させてすすった。  鼻をすすると音がする! 声を封じられている口以外に、鼻をすする音も一種の意思表 示の音声だと云う事を、今となって始めて知ったのである。     ×     ×     ×  盗人働きはそれから毎夜やった。  疲れて家へ帰ると、家にはちゃんと湯殿の湯が沸いていた。食物なども沢山の銀の器に 満ちていた。 「やれやれ!」とは口で云えないから、心でそう思ってほっとするのだった。 「おえろうございましたろう」  女はそう云って彼に酒を|注《つ》いだりした。  盗人働きも初め二一二度は、盗んだ品の山分けもして貰えなかったが、四五度目あたりか らは、いろいろな物を貰う事が出来た。  しかし、そうした時、山のような|購品《ぞろひん》の前で、 「お前は何がほしいのだ」  と聞かれても、困った事には、とんと物が云えないのである。  無言の苦行で強ばった舌を口の中でべろべろやって、舌を柔げつつ物を言おうとしても、 それも駄目であった。  阿気丸はその時、心の底からぎょつとした。  完全に物が言えなくなってしまったのである。     ×    ×    ×  阿気丸は、一人で盗人をして捕えられた。  検非違使の庁に引き据えられて、いくらひどく答を当てられても、勿論少しも白状する 事が出来なかった。  ますます答を当てられたので、彼は何度も気絶した。 「どうもしぶとい奴だ。此の上はそいつの家へ引いて行って、家の中を調べて来い」  検非違使の別当|藤原定清《ふじわらさだきよ》は、忌々しそうに下役人へそう命令した。  阿気丸はぎょつとした。今ここで殺されてもいいから、女に此の自分の縄目の恥だけは 見せたくなかった。 「私には家なんてございません」と云いたいのだが、此の言葉も更に云える筈のものでは ない。体も心も頸えて涙を流した。  しかし、どうせ首を打たれる事に思い至ると、せめては女に|暇乞《いとまご》いもしたい。そう決心 して、縄を掛けられたままで、神楽岡の女の家へ引っ立てられて行った。  けれど、幸か不幸か、女は家にいなかった。  しかしそればかりではなかった。家の中に満ち満ちていた金銀も財宝も、その他調度の 何一つも、すっかり無くなっていた。  阿気丸はそこへ仰天してしまった。  たった一晩の中に、女が|何処《どこ》へ行ってしまったと云うのだろうか。さては、自分の捕え られた事を知って逃げたのかと思った。彼は、今となって、す早い女の仕打ちが|寧《むし》ろ腹立 たしくなってしまった。  彼は地団駄を踏んで残念だった。 「何だ、こんながらん堂に、きさまは潜んでいやあがったのか。ちょっ!」  役人は張合いを抜かしてそう云った。 「さあ、庁へ帰るのだ。歩け歩け」  それで阿気丸は庁へ帰った。  庁の門を這入ろうとした時、中から縄を掛けられた囚人が、物々しい警護の役人と共に 出て来た。  阿気丸はその囚人を見ると雷に打たれたように立ち|煉《すく》んだ。  囚人も阿気丸を見てぎょつとした。それは、|顎髪《あごひげ》の黒々とした陰陽師の壬生孝之だった のである。 「おお、お前も」  と、孝之は阿気丸に云った。 「とうとう括られてしまったか。おれもやられた」  孝之はそう云いさして、首を垂れた。  孝之が1陰陽師で儲け出した筈の彼が、一体全体何の為めに捕えられたのだろう。阿 気丸はそれが聞きたかった。口ばかりもがもがと動かして、孝之に身を摺り寄せた。  孝之はじっと阿気丸を見て、 「おれはお前に毎晩稼ぎ場で逢っていたが、わざと言葉を掛けなかったから、お前はそれ を知るまい。おれはお前の兄貴分だ」  阿気丸は顔を|痙攣《ひきつ》らして驚いた。 「|昨夜《ゆうべ》、不覚な事に、括られてしまったのだ。しかし、お頭だけはうまく逃げた。もう今 頃は此の都にもいないだろう。それだけは安心してくれ。おれは、おれは……これから加 茂の|磧《かわら》へ殺されに行くところだ。お前にももうおさらばだ」  孝之は歩き出した。が、又振り返って 「しかし、今わの際に云って聞かせたい事がある。おれたちのお頭は一体誰だと思う? あれこそは都に名高い|艶丸《あでまる》だ。小作りで色が白くって、見かけは弱そうだけれど、なかな かすごい大盗人さ。あれがまさか女だとは、よもや誰も知るまい」  孝之を引いている役人共の中に動揺が来た。 「何だ、艶丸は女か」 「艶丸が女だって?」 「何、女か」  ざわめく役人を睨み廻して、孝之はどなった。 「艶丸は女だ。|繭《ろう》たけた美しい女だ。1おい、阿気丸、その艶丸が、昨夜までお前の妻 になっていた事を知るまいな。お前の妻が即ち艶丸だ。激しい興味を与えてくれる、すご い美女さ。どうだ、お前の望みは叶った事だろう。1さ、おれは殺されに行くのだ」  孝之はすたすたと歩き出した。  阿気丸は余りの事に目を飛び出る程|剥《む》いてぼんやりとして、|其処《そこ》へべたべたと坐り込ん でから、口をもがもがとさせて、しきりに物を言いたそうにしている中、 「ああ、艶丸に物が言いたい!」  と、久しぶりに声が出た。  しかし、その言葉の下に、ぎゃつと叫んで血を吐いて、前へばったりとつんのめった。 それ切り彼は死んでしまった。