不動殺生変 潮山長三        一  |日本洛陽絵師《にほんらくようのえし》|大鳳金道《おおとりのかねみち》  と、その描く所の絵に、いつも堂々と落款はするものの、 実はまだ年の若い独身者で、|粟田口慈済堂《あわだくちじさしとつ》横のささやかな一ツ家に住んでいましたが、或 る日|延暦寺《えんりやくじ》の|東塔《とうどう》から来たと云う荒々しい山法師の訪問を受けて、変な絵の|揮毫《きごう》を頼ま れました。  それは全身紫色の不動明王を中心とした|曼陀羅図《まんだらず》なので、今まで世に赤不動、青不動な どと云う変相は、聞いた事もあり見た事もあるのですが、紫色の不動とは初耳だったので す。描きようによっては古怪な面白い物になりましょう。金道は目を輝かしてにっこりし ました。勿論二ツ返事で揮毫を承諾しました。  |只《ただ》それだけならば、別に変な絵とは云えないかも知れませんが、その霊像の天地左右に わたって、官位ある男と|上臈《じようろう》との恋物語その他の今様風俗を描いてくれとの註文ではあ りませんか。荘厳にして威烈を極めた霊仏と、|戯《さ》れた|痴《おこ》な有様とを一ツに描き込ませよう などとは、一体どうしたと云うのでしょう、金道が両方の頬を凹ませ、目を丸々させて驚 いたのに無理はありません。しかし、いやだとは明瞭に云えませんので、 「いや、これはどうも!」と、恐縮したように、|揉烏帽子《もみえぼし》に手を触れてから鬢《びん》を掻きまし た、一  山法師は金道の顔を覗くようにして、 「いやなのかな?」と尋ねます。白麻の|袈裟頭巾《けさずきん》を|冠《かむ》った面態が黒い上に、山法師特有の 鋭い目が、見る人の心を凍らせるような冷さに光っています.一  金道は目を閉じました。どうやら観念しているようです、彼は山法師が門口から入って 来た時でも、手にした薙刀が日の光をどぎどぎと照り返しているのを見せつけられて、すっ かり|脅《おひ》え切っているところです。それに又此の頃の山法師と云えば、|日吉権現《ひよしごんげん》の神威を嵩 に被て、常に武器を携えて洛中を横行し、白昼盛んに強盗を働いたり、人を殺したりして いるのですが、|検非違使《けびいし》の庁の役人ですら、後の|崇《オ   》りを恐れて、歯噛みをしながら、|腑甲《ふが》 斐なくも遠くに避けていると云うほどです、、  だから、そんな絵を描く事はいやだと云えば、忽ち首と胴とが離れてしまいましょう, 現に山法師は、上り端に例の薙刀を持たし掛けているばかりでなく、長い革包の太刀を腰 から取って、脇に引き附けておりますc 「それではお望みの通り、描いて差し上げます」  金道はそう云わなければなりませんでした。  山法師はこれで安心したと云うように、軽く|頷《うなず》きました。それから紫不動の図柄に就い て話しました。 「一体不動明王と云うと、右手に|降魔《ごうま》の利剣を捧げて、左手では|煩悩執縛《ぼんのうしゆうぱく》の|索《なわ》を持って いるものだが、そなたにお願いする|紫色紫光《ししきしこう》の尊像には、そうした有り来りの型を破って お貰い申したい。索を持っていないばかりでなく、利剣も|鋒先《ほこさき》を下の方へ向けているよう にな。それから物すさまじい形相に代りはないが、特に眼は|瞋恚《しんい》に燃える紅差しの八方睨 みにお願いしたい」  元より眼を八方睨みに描くのはいいが、瞋恚に燃える紅差しと云うのは、決して明王の 霊像描法ではありません。それは正に魔神外道の悪趣描法である事、論のない話でありま す。  金道は果して意外らしい顔附きをしました。事が事です、重大問題です.少し膝を乗り 出して、問い質そうとしますと、山法師は彼を手で制して、 「驚いてはいけない。まだある。そもそも不動明王が持っている降魔の利剣は、御存じの 通り|倶利伽羅不動《くりからふどう》とも称えるもので、全身烈火に包まれた四足の竜神が、剣身を七重八重 に捲いた上に、竜頭の口を大きく開いて剣の|切尖《きつさき》を呑もうとしている。今度頼む紫不動で は、此の剣を逆さに下して、裸身の乙女をぐさと突き刺しているところだ。よいか、これ が何よりも肝腎でー」 「何、ら、ら、裸身の乙女を?」 「そうだ。乙女の柔い肌を突き刺しているところだ」 「ほう」 「煩悩執縛の|索《なわ》を持っていないとは云ったが、索は索で、描いて貰う場所が一寸変ってい るんだ。乙女の裸身はどうせ|胡粉《ごふん》で光り輝くばかり白くえどる事だろうが、豊に肥えた胸 や手足を、その索で縛るのだ、骨も折れるほど縛り上げるのだ。命の限り悶える乙女を、 不動尊が左の太い手で|捻《ね》じ|伏《ふ》せた上、倶利伽羅の降魔の利剣で、びくびく動いている胸許 へ、こんな風にぐさと突き刺しているんだ」  山法師が中啓を利剣に擬して身振りで説明すると、金道は自分の胸に利剣をぴたりと当 てられたような気がしました。 「それで尊体は濃い紫、利剣は銀泥、索は経巻の紙のような黄色、それから黒蛇の色に似 た黒で、千筋と乱れる髪の毛を塗って、飽くまでも白い肌からは、いささか粘って黒いと も見える|紅《くれない》の血潮の滝津瀬と云う図柄だ。ーわかったかな」  ここで金道はおどおどと口を入れました。 「もし、ほ、法師殿、私これまで|菩薩《ぼさつ》や明王も数多く描きましたが、こんな物凄い物は、 まだ一度も扱った事がございません。地獄変相なら又別の心の用意で、楽に描く法もござ いますが、だいたい人を殺す不動明王なんて、およそ広い世の中にー」  「おっと! それだ。その地獄変相の心の用意で描くといい。およそ広い世の中に、そん な不動尊はないと云うのか。それじゃあ、不動の代りに、いっそ|孔雀明王《くじやくみようおう》でも|関《かま》わない が」  又こんな事を云い出しました。孔雀明王は|諸《もろもろ》々の明王のような|忿怒《ふんぬ》の相を現わす事がな く、優雅な、まるで|伎芸天《ぎげいてん》のような温顔で孔雀に乗っている尊像です。  「これはとうも  孔雀明王の尊容で、とうして人が殺せるものですか」  「いや、そこのところを一ツ、どうか殺して貰いたいのだ。|礼物《れいもつ》は沢山にする」  「とれほと礼物が多くったって、これはかりは  」  「いやなのか?」  「ええ、まあー」  「そうか、それじゃあ、始めから云っている不動で頼む。|若《も》し、本当の人を殺すところが 写したいと云うのだったら、お望み通り|何時《いつ》でも見せて進ぜる!」と、山法師は又中啓を |揮《ふる》って人を刺し殺す真似をして見せるのです。  金道は急に首を後へ引きました。耳の辺から|咽喉《のど》へ掛けて、ざらざらしそうな鳥肌が出 来ました。 73  「あはははは、何も金道殿を殺すと云うのじゃない。そんなに驚かなくともいい。な、お い。不動で頼む、不動で頼む」  金道は吐息してから度胸を定めて、やっと頷いて見せました。 「ああ、承知したね。よく承知してくれた。Ilまだその外、尊像の上下左右には、愛慾 艶情、|嫉妬怨匿《しつとえんとく》なんかのいろいろの絵が描いて貰いたいのだが、これは今夜更けてから、 詳しく語る者がやって来るだろうから、愚僧はこれでお|暇《いとま》する」  山法師はさっさと帰りかけました。彼が門口を出ようとする時まで、金道は黙って考え 込んでいましたが、急に呼び止めました。 「あ、もしもし。どうも不思議な絵柄ですが、まさか仏壇に掲げるのではないでしょうね」 と、念を押しました。  山法師はじろりとこっちを見て、 「無論、仏壇には掲げない。|護摩壇《ごまだん》に掲げるのだ」 「えッ?」と、金道はびつくりして、そこの柱を思わず|掴《つか》みました。 「絵師の癖にどうした事だ! 紫色紫光で瞋恚の紅差し眼の明王は、嫉妬悪趣の|怨念呪咀《おんねんじゆそ》 の形相だと云う事を知らないのか。即ち|後妻調伏《うわなりちようぷく》の修法に使う本尊だよ。1絵師の癖 にどうした事だ!」 二  雨戸を打つ柳の音に夜が更けて行きます。  庭の|籬《まがき》の方に|方《あた》って、あたりを|憚《はばか》るらしい低い声で  、しかも女の声で、 「金道さん-金道さんー」と聞えて来ました。  その時、|衾《しとね》を担いで寝ていた金道は、亀の子のように首をぬっと|擡《もた》げて、暗い中で聞耳 を立てました。彼はそれまで寝ていた事は事実ですが、決して睡っていたわけではないの です。昼間の山法師が予告した夜更けて来る客と云うのに、又脅されるのが|厭《いや》ですから、 もう宵の中に灯も消してしまって、実は狸寝入りをしていたのでした。寝られないままに 目も冴えて来る最中、そこへ此の女の声なのです。 「もし、金道さん1金道さんー」  たしかに女の声に違いありません。金道は目をぱちぱちやって黙っております。  女の声はしきりに彼を呼び立てました。  はて  女が、今頃誰なんでしょう。  もしかすると、塩屋の娘かも知れないーと云う事が、彼の頭の中を|俄《にわか》に|閃《ひらめ》いて通り過 ぎると同時に、それが何条かの太い光になって、胸の中に|雷《いかずち》模様をはためかせました。  その塩屋の娘と云うのは、|十禅師辻《じゆろぜんしつじ》に住んでいた塩売りの翁の一人娘で、親の商売柄 名前もぞんざいに|塩女《しおめ》と附けられていましたが、金道とは三年前からの恋仲なのです。と ころが、彼女は去年の春、これから三年過ぎたら必ず帰って来て夫婦になるから、それま で心変りなく待っていてくれと云って、とうとう宮仕えに出て行ってしまいました。その 身を寄せる|主《あるじ》の名も明さなかったばかりではありません。間もなく親の塩売りの翁も、|何 処《どこ》へ行ったのか、十禅師辻から姿を消してしまいました。  金道は|刎《は》ね起きました。1それでも心の片隅には、そうした恋の慾を|嘲《わら》うような疑い も起ったものですからとにかく、此の場合、再び狸寝入りするのだともなく、又すっかり 起き上るのだともなく、どっち附かずになって、|蟇股《ひきまた》に身をかがいながら、小手を耳に|翳《かざ》 しました。ぽっかりと明けた口を一度閉じて、|固唾《かたず》を呑みました。その耳へ、 「もし、つい一寸御逢い下さいませんか。後生ですからーもし、金道さんーあら、よ くお休みだと見えるーそれでは又十禅師辻へ帰って行きましょうか」  十禅師辻の一語です! だが、塩女とは声が違うようです。いや、誰にしたところで、 相手が女なら恐れる必要はなかろうと、とっさに腹をきめました。そして、いきなりがさ がさと|手捜《てさぐ》りで、枕許に置いてある揉烏帽子を取って、頭へあてがうが早いか、雨戸を一 ツ、内からどんと叩きました。物は云わないけれど、これで金道はまだ此の通り起きてい るぞとの意味を知らせたのです。 「ああ、金道さん、急な用事でまいりました」  女は盛んに呼び立てました。 「応!」  金道は雨戸を引き明けると、外は一面に雪のような月明りです。籬の向うに胸から上を 見せて立った女が、髪の毛を気にするように、|俯向《うつむ》きながら、急いで|被衣《かつぎ》を後へ脱いで、 |崑崙《こんろん》の|珠《たま》とも見えて黒く光る|垂髪《すべらかし》の頭を上げました。しなしなと|橈《たわ》む手首を動かして、後 れ毛を掻き上げる面差が、月に匂ってほのぼのと白いのです。 「金道さんでございますね」 「は、はい」  だが、やっぱり塩女ではありませんでした。  もう|斯《こ》うなったら止むを得ぬので、そこへ出て行って、|栞戸《しおりど》を明けて導き入れました。  灯を点じて対坐すると、ますます違った女です。これは又何処の|上臈《じようろう》である事か、緋 の袴を|穿《は》かないばかりの、あでやかな様子ではありませんか。金道が面喰らったのは云う までもありません。こんな夜更けにわざわざ彼女自身で、|檜扇《えおうぎ》の絵を註文に来たのだなど とは、まさか思われもしません。彼は|傍《そば》につぐねた薄汚い裳を座敷の隅へ押しやってから、 おずおずと頭を下げました。  女は今頃だしぬけに訪問した事を、気の毒そうに何度も詫びました。そして、 「今日|未《ひつじ》の|刻《こく》にも東塔の|円謙坊《えんけんぼう》を伺わせまして、これも失礼いたしました。お詫びを致し ます」と云います。  してみると、昼来た山法師は此の女の使いの者だったと見えます。|仁王尊《におうそん》が揺ぎ出した ような荒くれた山法師と此の優しい女とは、そもそも何と云う妙な取り合せなのでしょう か。金道は|呆気《あつけ》に取られて女の顔を眺めました。 「早速でございますが、用事の趣を手短に申しましょう。かの紫不動の呪いの絵像の  」  女は呪いの絵像とはっきり云います。 「その上下左右に描いていただきまする絵柄につきまして、私の望むところは  どうも お恥かしい事で  その  」  女は首を|傾《かし》げて、全く恥かしそうに見えます。が、思い切って云うようにして、口を開 きました。    が、一寸ここのところのお話は、省略した方がいいと思います。なぜなら、それは 彼女と彼女の思う殿御との|猥《みだ》らな|艶物語《つやものがたり》なのですからc  彼女はずいぶん微に入り細 を穿って話しました。それが証拠に、聞いている方の金道が、彼の恋人塩女との、昨日と 過ぎた思い出をはっきりと、しかも|遣瀬《やるせ》なく|懐《なつか》しみ出して、何度も熱い溜息を|吐《つ》いたくら いです。1とだけ申し上ければ、此の問題に対する作者の|意企《いと》は汲み取って貰える事だ ろうと思います。  とにかく女は金道に、その艶物語の場面を十七描いてくれと云うのです。そればかりで なく、次ぎには、思う男に|仇《あだ》し|女子《おなご》が出来て、此の|悋気《りんき》の条々が九場面。それから女が仇 し女子を呪って|鬼女《キじよ》となった場面。最後に、先妻である此の女が後妻である仇し女子の家 に乱入して、|所謂《いわゆる》「|後妻打《うわなりう》ち」の喧嘩をする場面-尊像の四方に、以上の情景を手に取 るように描いてくれと云います。  その「後妻打ち」の場面の説明をする頃になると、彼女はもう|涙含《なみだぐ》んで来ました。 「聞くところによりますと、その女子は、あなた、生娘ではないのですよ。しかも元々身 分のない女子で、近い頃までは|跣《はだし》で町々に物を売り歩いていたと云います。そんな女子で すのに、前以て云い交した恋人があったのです。さては|糠《けが》れた身で、私の大事の男を欺く のかと思いますとね、私はもうもう憎いのを通り越して、いっそ殺してしまおうと云う気 になってしまいました。その女を呪い殺す修法の本尊に、紫不動の絵像が入用になったわ けでございます。その不動明王の尊像は紅差し眼の八方睨みで1一寸、この通りでござ います、、御覧遊ばせ!」  強い口調で云って、金道を真正面に睨んで見せました。その時ぐっと|顎《あご》を引きましたの で、怒発して張り詰めた顔の肌が、|咽許《のどもと》からさっと赤くなって、見開いた|眼《め》も、見違える ほど大きくなりました。しかもその眼はまだ涙で濡れているのですから、刃のような冷気 を|漲《みなぎ》らせているとも見えますが、じっと凝らした瞳は黒い上にも黒いもので、それが今に も飛び出して来そうな八方睨みの形相なのです。  金道はぞっとして顔を|顰《しか》めました。けれど、よく見て置かなければなりませんので、そ の八方睨みを熟視しました。どうも女の眼の中に吸い込まれてしまうようです、気を張っ ている中に、女の八方睨みの瞳が何だか深い穴のようにも見えて来ました。  勿論二人は物も云いませんし、|衣擦《きぬず》れの音も立てません。生きた命を眼にのみ集めてい るのです、けれども、その四ツの眼の動きは、はたと静止しているから、此の場に動く物 と云ったら、|結燈台《むすぴとうだい》の灯が|仄《ほの》かに揺れているのばかりでした。  |唸《うな》るとも|喚《わめ》くとも附かない声が、女の咽の奥から|軋《きし》んで聞えました。 「呪いの修法の護摩壇の|傍《かたわら》で、私も呪いの和歌を、日に三千遍ずつ|誦《じゅ》します、その和歌と       あのくたらさんみやくさんぼだい  、"    まが 云うのは  阿褥多羅三貌三菩提の仏達我が呪う者に禍あらせたまえ-」  女ながらも荘重な口調で、その和歌を何度も何度も繰り返して諦し出しました。和歌も また、何と云う巧みな字余りな、そして何と云う森厳な|詠懐《えいかい》でしょうか! 金道は少し|悪 寒《おかん》を覚え、|頸《くぴ》から顔へかけて、|慄然《りつぜん》と鳥肌をけば立てて、降参するように俯向き込んでし まいました。  金道、ふと気が附いて見ると、その呪いの和歌はどうも聞き覚えがあるようです。彼は すっと鼻息を一ツ引いて、頭を傾けて考えました。じきそれを思い出したところによりま すと、女が誦したのは替え歌のようです。下の句だけが替わっているので、たしか原歌の 下の句は「我が立つ|杣《そま》に|冥加《みようが》あらせたまえ」と云うのです。  彼は今、それをはっきり と思い出したのです。  すると彼は、危くあっと叫ぼうとしました。それほと驚いたのです。  なぜならは此 の原歌、即ち「阿褥多羅三貌三菩提の仏達我が立つ杣に冥加あらせたまえ」の和歌こそは、 実に、|伝教大師《でんぎようだいし》が延暦寺の|根本中堂《こんぽんちゆうど 》建立の時、感極まって詠じたところの物ではありま せんか。|三宝尊崇《さんぼうそんすう》の力強い表現で、|仏陀《ぶつだ》の光明世界を此の|土《ど》の上に|欣求《ごんぐ》したところの歌で はありませんか。誰が何と云ったって、それに違いはありません。勿体なくもその尊い和 歌を、事もあろうに呪いの歌に作り更えたのなどは、明らかに仏陀の物を魔神外道の手へ 売ってしまった事になります。法界を魔界とする所業でなくて何でしょうか。  金道は憎々しげに女を眺めました。が、またその時も凝然と彼を見据えている女の八方 睨みに、彼の眼は|弾《はじ》き返されてしまいました.  そのうちに、さすが女は眼が痛み出したのでしょう、袖口で眼を押えて、 「この修法が|一七日《いちしちにち》の満願となりますと、仇し女子は必ず死ぬのでございますよ」と云っ て、後は深々と黙り込みました。  金道も不気味な沈黙を守りました。 「時に」と女が云い出しました。「明王に突き殺される女子の顔ですが、これは仇し女子 の生き写しだといいのですけれど、あなたは御存知のない女子ですから」と残念らしい|口 吻《くちぶり》です。  金道は答えました。 「なるほど、見た事もない人の顔ですから、うまくは描けないかも知れませんが、しかし 女子の顔の下絵なら、年来写して置いたのが沢山ありますから、一ツその中から似たのを お捜し下さるといいと思いますが」 「はい、では、そう致しましょうか」  女は金道から一括りの下絵を受け取って、結燈台の灯で、静に一枚一枚見て行きます。 その内の一枚にじつと、目を注ぎました。 「おお、これはよく似ています。これだこれだ。此の顔で一ツ、ぜひどうか」 「似たのがございましたか」  金道は女の手許を覗くと共に、ひどくあわてて、その下絵の上へ掌をぱったりと覆いま した。 「これはいけません」と、声が|顫《ふる》えていますc 「あら、なぜいけません?」  女の眼が、また八方睨みになって来そうです。 「いや、いけませんいけません」 「なぜいけません?」 「は、はい  」と、彼は|躊躇《ちゆうちよ》してから、「実は、此の下絵の女は、私の未来の妻なので す」  女は黙ってじっと、彼の顔を見つめました。 「だから、此の顔を使う事だけはいやです。これだけは、どうかお許し下さい」  これで金道が拒む理由は、女にはっきりと合点が行った筈です。彼女は不承不承に頷き ました。 三  裸身の乙女を刺し殺している紫色紫光の不動明王の絵像を、金道はその翌日から着手し ました。|展《の》べられた絹地に、勿論先ず下絵を描くのです。八方睨みの明王尊像も、縛られ ている乙女も、それからその天地左右に配する例の愛慾艶情、嫉妬怨慝などの猥らな風俗 画も、註文通りな図取りにしました。  殊に乙女の顔に至っては、あの晩の呪いの和歌の女が偶然にも彼の恋人塩女の顔の写し 絵を見て、ぜひ此の通りに描けと云ったのを、事情を述べて辞退した|廉《かと》がありますので、 これだけは決して塩女の顔に似ないよう、出たらめな下絵をつけました。  しかし、三日もかかって、やっと下絵が出来上ったのを見ると、さてどうでしょう、縛 られて苦悶している乙女の顔が、寸分違わぬ塩女の顔ではありませんか。しかも去年一種 の生き別れをした時、何事も時節の来るのを待ってくれと、泣きながら彼に哀訴した時の 顔そっくりではありませんか。それは丁度彼が始めから意識して描いたのでなく、それだ けのところを誰か他の絵師が来て、こっそりと塩女の姿絵を描いて行ったもののようにも 思われるのです。しかし、事実として、誰にも手伝わせたのでなく、金道自身が描いたの である事は、元より疑う余地とてあるものではありません。彼は狐に化かされでもしたよ うに、暫くの間|呆然《ぼうぜん》として、下絵の前で眼を円くしながら、何度も首を振って見ました。  どうも|忌《いまいま》々しい事です。  それで乙女の顔の素描の上へ、再び下絵の筆を下して、出来るだけ塩女に似ないように、 出たらめの相好に直しました。鼻を鋭く高く、眼を細く、思い切り|顴骨《かんこつ》を高く、おまけに 額と唇の両横とに、苦痛を現わす|皺《しわ》の線を描き加えました。が、それを|更《あらた》めてよく見ると、 乙女の顔は、その上の方に厳然として忿怒の形相をしている不動明王よりも、一層古怪で、 しかも醜い二目と見られぬ、皺くちゃ|媼《おうな》になっているではありませんか。寒巌枯木に等し いような媼顔は、どう|贔屓目《ひいきめ》に見たって水々しい乙女とは受取れません、再び金道が忌々 しそうな顔をしたのは無理もない話です。  彼は絹地を更めて、|日数《ひかず》重ねて、もう一度下絵を描きました。それが描き上ったところ へ、ひょっこりと山法師の円謙坊がやって来ました。 「御覧の通り、漸く下絵が出来ました」と金道は下絵を見せました。  円謙坊は一目見て、 「何、まだ下絵か。もうすっかり描き上ったかと思って来たのに!」と|頗《すこぷ》る不満足のよう です。  金道は恐縮して、揉烏帽子を冠った頭へ一寸手を当てました。  円謙坊は|不興気《ふきようげ》な声で、 「こんな絵に|何時《いつ》までかかるつもりだ。呪いの修法になくてはならない物だから、一日も 早く描き上げて貰わないと困る。幾日もひねくね描いていて延引すると、その間だけ例の 相手の仇し女が長生きをする事になる。それではこれから七日の後までに、ぜひ描き上げ て貰いたい。もしそれ以上延引する日には、残念ながら、金道殿には此の都を外に駈落ち をしなけれはならなくなるだろうから  」 「何、駈落ち? 私が駈落ちをする? 一体それはなぜです。何の為にです?」と、金道 は慌てて尋ねるのです。  円謙坊は袈裟頭巾を冠ったままの首を、静に頷くように一寸俯向け、そしてそれを一ツ 横へ振りました。|一曲《ひとくせ》有り気な鋭い眼で金道を眺めながら云います。 「いや、それは、  そなたが若し紫色紫光の不動明王の絵像を、はかはかと描き上げな いでいる時には、愚僧の一味が怒って、そなたの身の上にどのような危害を加えないとも 限らない。その時そなたは身の安全を期する為めに、前以て此の都を落ち延びねばなるま い」 「いや、か、描きます描きます。必ず早い事描き上げて御覧に入れます」 「うん、そうか。それでは頼むぞ。  それにしても、愚僧が今つくづくと思うに、どう やら気の弱そうな金道殿の事だから、その絵像による「怨念呪咀、|後妻《うわなり》調伏」の修法の暁、 取り殺される女の事が、どうせ都中の評判になるであろうが、その評判や取沙汰を聞くに つけても、そなたは何かと気苦労したり、気を腐らせたりした上、都にいたたまらぬ事に なって、或いは駈落ちする|体《こと》になろうも知れぬと云うものだ。いったい後妻を呪うのは例 の女だ。調伏修法するのはその女に頼まれた愚僧どもだ。が、肝腎の修法の本尊を描くそ なたにも、女を殺す調伏の罪が身に掛かって行かないと云うわけの物ではなかろう。それ がいやなら、今の中に都を駈落ちするのもよかろう」  円謙坊はくすりと笑って見せました。笑いは笑いに違いありませんが、こちらの運命を 抜き差しさせぬ金の|箍《たが》のような、|頑《かたくな》で苛酷な、そして冷たい笑いである事は否まれません。  金道は胸が|轟《とどろ》き出しました。見る間に顔が蒼くなって来ました。なるほど自分がそんな 絵を描くばかりに、必ず死ぬ女が一人出来る事は事実なのです。それを幾人がかりで殺し たとて、殺した者すっかりに、人を殺したと云う罪が来るわけです。本来人の心を楽しま せる絵を描く身が、今となってこの造悪の所業をせねばならぬとは、一体どうした事でしょ う。彼は黙ったまま、ぞっとして円謙坊の顔をさも悲しそうな顔附きで眺めました。 「だが」と円謙坊は云います。「都を駈落ちするのは、そなたの自由と云うものだ。遠く へ逃げる日には誰も追っ掛けて行く者なんかなかろう。どうだ逃げるかな」  金道はしきりに考え込みましたが、やっと、 「いえ、駈落ちは致しません。逃げもしません。とにかく絵像を描かない中は!」と、決 心したように云いました。 「そうか、とにかく約束の日取を間違えないようにやって貰わないと困る」 「しかと承知しました」 「何しろ下絵はもう出来ているのだからな」  円謙坊はそう云って、はじめてゆっくりと下絵に眼を移しました。 「呪い殺される乙女と云うのは、愚僧もよく見知っているが、なるほど此の通りの顔だ。 そなたは巧みに写したものだが、この顎の細い所なぞは全くよく似ている」  感心して云いながら、円謙坊は画中の女の顎のところを指して見せました。  金道はやっと少し得意になって下絵を眺めました。が、同時に彼はぶるぶると身を頸わ せて、一層真蒼になってしまいました。それもその筈です。あれ程用心に用心して、塩女 に似ない顔を描いた筈ですのに、どうでしょう、下絵の乙女の顔は、最初描き捨てた下絵 の時と同じく、これまた寸分違わぬ塩女の顔の生き写しではありませんか!  それから約束の七日目、円謙坊は例の呪いの和歌の女と同道で、金道の家へ不動明王の 絵像を受け取りに来ました。  二人が土間から座敷へ、案内を乞いながら上ると二人共、あっと驚きました。三坪ほど の座敷の真中には、金道が自刃して、|夥《おぴただ》しい血潮の海の中に、静に落命しておりました。 二人は激しく目を見交して、互に胸を弾ませながら|彳《たたず》みました。  金道の枕許には、見事に描き上げられた紫色紫光の不動明王の絵像が、鴨居から長々と 懸けてあります。画の中の問題の、明王に刺し殺されている乙女は、美貌に深刻な苦悶の 悲哀を漂わせたもので、しかも彼の恋人塩女の顔に生き写しではありませんか。  呪いの和歌の女はそれを一目見て、 「あら、塩女様のお顔だ!」と、急に八方睨みの眼をして、ことごとと驚いたような声を 立てました、、 「おお、塩女様のお顔だ!」と、円謙坊も驚いたような声を出しました。  二人とも又激しく眼を見交しておりましたが、女は低い声で痛々しそうな声で、 「此の人、なぜ死んだんでしょう」と云います。 「さあ  」と、山法師は、何だかとうも訳がわからないが、女の顔がとうとう塩女様に 似てしまったものだから 「そう、そうよ。それに違いないわ。似ないように似ないようにと努めていて、つい似ち まったのじゃあないの? それでーIl」 「ああ、そうだろう! 結局、似たから、塩女様を殺したような気になって、とうとう気 が違ったのだろう」 「|嗚呼《ああ》、とんだ事になりました」  二人は押し黙ってしまって、深々と首を垂れました。そして金道の|骸《なきがら》に向って、|徐《おもむ》ろに 合掌して念々たる弔意を示し出しました。  呪いの和歌の女も円謙坊も、塩女を様附けに呼んで尊敬している上に、金道の死に対し て、非常に|敬虔《けいけん》らしい態度を以て|惆悵《ちゆうちよう》としているのは、全体どうしたと云うのでしょう か。  それはかりでなく、呪いの和歌の女の如きは、此の時はらはらと涙さえ流し出し たのです。  この謎は、やがて二人が話し出した言葉によって推察する事が出来ます  。 「もし、法師殿、これはちと薬が利き過ぎましたね。絵師の自害は、あなたにも罪があり ますよ」  すると山法師は頭を掻いて、 「いや、それを云われると心苦しい。罪は、何も愚僧ばかりではない。あなたにも確にあ る。八方睨みで絵師の|肝魂《きもだましい》を寒からしめてやったと、此の間も云ったじゃありませんか。 どうです」 「ああ、それを云われると、わたし穴へでも入りたいようよ  だけど、結句  はこん な無理な絵を註文に来たのも、此の絵師を都の土地から駈落ちさせる計略の為めだったじゃ あありませんか」 「そうだ。ところが、今来て見ると自刃している。1いやはや、こんな筈ではなかった。 あったら男を一人殺してしまった」 「それで此の場の事を、塩女様に何と言上したらいいでしょうね」 「さあー」  二人とも、ひどく当惑の様子です。  女が八方睨みの眼になって、暫く考えてから云いますのに、 「しかし、考えて見ますと、全体誰が悪いと云って、元の起りは塩女様が一番悪いと思い ますわ。御自分が御出世をなすって、好きな殿御がお出来になったものだから、もう用の なくなった以前の恋人を、辛い目に遭わせて、都落ちをさせようとなすった魂胆がいけな いのです。そのお使いをしたわたしに、罪があるんじゃあありません。又、調伏修法など と云って脅かしたあなたにも、罪があるんじゃあありません。罪はすっかり、塩女様が負 うべきものじゃあありませんか」 「なるほと、そうだー それに違いない、1だが、とんだ事になってしまったものだ」  二人はそれで安心したように淋しそうな笑顔を作りました。そして黙り込んで、絵像の 中の乙女をつくづくと眺めました。  その塩女の写し絵は  不動の|索《なわ》に|犇《ひしひし》々と縛り上げられた裸身の塩女は、今二人が断定 したような世に恐るべき罪の為めに悶え抜いているようで、そして荘厳極まりなき紫色紫 光の不動明王の|降魔《ごうま》の利剣で、胸許深く貫かれております。折柄少し吹き出した風が隙間 から忍び込んで来て、その絵像を|揺《ゆさぷ》りました。忽ち不動明王も乙女も、魂が入ったように、 |溌剌《はつらつ》として生動するかと見えます。|苦患苛責《くげんかしやく》に悩んでいる塩女には、彼女の当来の罪の裁 きが、既にありありと、そこに現じているようなものです。  見れば見るほど森厳限りない絵像と、金道の|骸《むしろ》との前に、二人は|悄然《しよつぜん》と立ち|竦《すく》んでい ました。