これは未校正のデータです。 潮山長三は1892-1931。著作権消滅。 かつぱ 河童白状 潮山長三  かつぱ"      ふかが荏ちえ     え豊いぱし"    "      ぷんか  河童が召捕られた。時は深川八幡の祭礼の日、永代橋が落ちて大騒きの真最中-即ち文化四年八月十九日の昼四ツ時(午前十時)。ところはやはり永代の西詰の崖(がけ)っぷちo  その捕物の有様を物語るとー  何しろその年は十二年振りの祭礼、殊に祭り日の十五日が雨で延びていた所なので、人気は勿論(もちろん)すばらしいもの。丁度昼四ツ時、霊巌島(れいがんじま)の出し練物(ねりもの)が永代橋の東詰へ練り出して来た頃に は、祭見物の群集が漆刷毛(うるしぱけ)の毛のように、息も隙(すき)もなく、長い長い永代橋を一杯に、押し合い へし合い通っていた。すると突然、すさまじい異様な大音響が、めきめきーどォん! と 大川一帯の天地を圧し、人の下っ腹に応(こた)えて轟きわたると思うと、橋の中程、深川(ふかかわ)の方へ寄っ た所がまっニツに打(ぶ)ち割れて落ちて、丁度箕(み)から黒豆を打(ぷ)ち明けるように、霧(おぴただ)しい群集が雑作(ぞうさ) もなく川へ雪崩(なだ)れ込んだ。 「わあ、落ちた落ちた!」 「橋が落ちた橋が落ちた!」 「やあ、人が落ちる!」 「永代が落ちた!」 「わあ!」  鴛(ごうごう)々とわめく声が、忽ち嵐と乱れて、江戸は気が狂った。  西詰の方でも、橋から舟番所(ふなぱんしよ)の方へ避難する群集の流れが、命限りに舞(ひし)めき返って、橋のつ い挟(たもと)の水茶屋なんかは葦簾張(よしずぱり)の屋根も柱も、まるで椀(も)げるようにめりめりと押し崩され、その 上へ多くの人が悲鳴を揚げながら、将棋倒しに倒れて来た。  その時河童は、その水茶屋の後(うしろ)の崖っぷちに獅噛(しが)み附いてしゃがみながら、引続き盛んに人 の落ち込む川面(かわづら)をきつと睨(にら)んで、立て続けに大声で、 「ざまあ見やあがれ、ざまあ見やあがれ、ざまあ見やがれ!」とどなった。  群集に揉み返されていた岡っ引が一人、橋からやっと陸地へ押されて出たところで、河童が どなっているのを聞き附けた。人を掻き分け叩き分けて、つかつかと河童の方へ寄って来た。 「やい、何をどなってやがんでえ!」  河童は岡っ引を見た。岡っ引の眼玉は、その筋の者に通有な、横柄なぎろりと光る種類のも のだった。それでぎょつとしたが、急に恐ろしく眼を剥(む)いて、噛み附くように、 「やいやい、うぬは犬だな」と云った。 「何だと? うぬは誰だ」 「誰でもねえや」 「今何を云ってやがった」 「ざまあ見ろと云ってたんでえ。橋が落ちて人間が川に落ち込んでいるんだ。これで『世間』 が少しでも壊れると云うものじゃあねえか。おいら嬉しいやい!」 「畜生、太い野郎だ。容捨はしねえぞ!」  岡っ引は十手(じつて)を、さっと窮(かざ)して見せた。 「勝手にしろい。さては、うぬも敵(かたき)の片割れだ」  河童もすばやくヒ首(あいくち)を引き抜いて、いきなり斬(き)って掛ったが、その時血眼で橋から避難して来る群集が、二人の間へ溢れて押し込んで来たのに邪魔をされて、河童はいらいらとじれ出した。  しかし群集は日の光に輝く十手と抜身とを見た。橋の落ちたのに怯(おぴ)え切っている所へ、今又この刃物騒ぎに出っ喰わしたので、消魂(たまげ)て悲鳴を揚げながら、死力を尽して押し合って、二人の身辺から退いた。それで崖っぷちのところには、やっと一坪ほどの空地が出来た。  恐れわななく群集に向って、河童は声を限りに 「ざまあ見やあがれ、ざまあ見やあがれ!」と、又しても一生懸命にどなった。 「御用だ!」  岡っ引が打ち込んだ十手で、河童は肩先を撲(なぐ)られると同時に、岡っ引の手を斬りつけた。岡っ 引のひるむ隙に、河童はくるりと後向きになって、そこの崖っぷちから大川へ飛び込もうとし た。  岡っ引は河童の帯際を取って引き戻した。二人ともそこへ倒れた。 「そら、助けろ!」と、群集の中から二三人が声を掛けて進んで来た。そして傍に散らかっている水茶屋の葦簾を取り上げ、それで河童の体をぐるぐる捲いてしまった。  河童はそれで召捕られたのである。      *            *           *  河童と云うのは、河童の三吉(さんきち)と云う凶状持ちなのである。巾着切(きんちやくきり)で強盗で、人殺しの 下手人(げしゆにん)で、かねてからのお尋ね者であった。  彼は二度目白洲(しらす)へ引っ張り出された時に、すっかり泥を吐いてしまった。その罪の次第を白 状するところに依(よ)るとー        二  『私生(わたくし)れは新四日市河岸(しんよつかいちがし)の裏店で、家(うち)は鍛冶屋(かじや)渡世でございました。小さな時から継母(ままはは)に小っ ぴどく育てられてまいりましたが、親爺(おやじ)は全くのお人好しで、継母が私を邪樫(じやけん)にするのを見ても、自分一人くよくよするだけで、別に継母へ口小言(こごと)も云わなかったくらいでございました。 『天道様(てんどうさま)は依情地(えこじ)なもので、そんなお人好しの親爺が、事もあろうに、人に斬り殺されてしまいました。殺した奴はどこの誰だか、今以(いまもつ)てわかりません。只その身形(みなり)がお侍らしかったと云うだけのもので、つまり親爺は辻斬(つじぎ)りに合ったのでございます。 『それは私の十一の時で、寒い晩でございましたが、親爺は私を連れて、深川三十三間堂近くの知った家へ行って、馳走になってひどく酔っぱらって、そこから帰りかけたのが、かれこれ四ツか四ツ半頃。もう私は睡くってしようがございません。千鳥足(ちどりあし)の親爺に手を引かれて歩きながら、こくりこくり睡っていたんです。  1しっかりしろよ。 『はじめは親爺もそう云って元気を附けてくれましたが、何にしても手が寒いから、親爺は道に落ちていた長い縄で  それは二三間くらいの長さでしたが、こいつの両端を自分と私との 帯に結びつけて、それで引っぱってってくれました。親爺は元気で、人通りの絶えた夜更けの 道を、右へ左へ、ふらふらよろめきながら、寒い風なんかは一向気にしないと云う風で、鼻唄 まで唄ってるんです。縄に繋(つな)がった後(うしろ)からは子供の私が、やはり、ふらふらと、-しかしこれは睡りながら歩いていました。謂わば、変な人間の曳舟なんです。 『永代橋のまん中へ来た時、その縄がぷッつりと切れました。私は仰向けに引っ繰り返ってしまいました。頭をひどく打(ぷ)っ附けて、痛いの何のーそれではっきりと眼が覚めました。わあわあと泣いてから、親爺はと見ると、これもぶっ倒れているじゃありませんか。  1ちゃん、頭が痛いよう。 『と云って、親爺を起しに行きますと、どうでしょう。何時(いつ)の間にだか、親爺はもう斬り殺されていました。ぎょつとして、橋の快の方を見ると、冴えた月影の中に、黒い人影がたった一人、向うへ走って行きます。下手人はその男に違いありません。その時分から私は気丈(きじよもつ)だったので、その男の方へ走り出しました。けれど、例の縄が足に絡み付いて、今度もひどく倒れてしまいました。 『親爺はお人好しですから、決して人に恨(もつら)みを買うような事はございません。これは辻斬りだろうと云う事になって、それからはお袋も私も、泣きの涙で日を送りました。「ああ、何の罪科(つみとが)もない正直な者でも、わけわからずに殺されてしまう世の中だ」そう思いつめると、世の中が恐ろしくって憎くってなりゃあしません。永代で逃げ出して行った人は、黒い姿をしておりました。私それからと云うものは、黒い色目の着物や、又そんな物を着ている人を見ると、憎くって憎くってならなくなりました。たといそれが、お侍だろうと町人だろうと、片っ端から親の敵(かたき)に見えてならねえんです。  黒い着物ー 世の中に何が恐ろしいと云って、黒い着物ほど恐ろしい物はないと思い込んでしまいました。 『それに又、当座は浅草(あさくさ)へ行っても、回向院(えこういん)のお開帳に行っても、およそ人の出盛ったところは、頭の上の空までが、何だかもう(エエ)と黒く見えてしようがない。1黒山立つと申しますが、 黒山立って、もう(エエ)と薄黒く群がった人を見ますと、これは黒い着物を着た人より、一層恐ろし くって憎くって、いっそ悲しいほど腹が立ちました。ぶるぶる頭(ふる)えながら、人群(ひとむれ)に向って歯切 りをした事は、十度や二十度じゃありません。「こんなに多勢寄り集りゃあがった中には、親 爺を殺した奴がきつといるだろう」と。どうもそんな気がやたらにするんです。思ってみると、 その寄り集った人間の黒山は、私共を酷(ひど)い目に遭わせている「世間」と云うものだ。私は「世 間」がべらぼうに恐ろしくなってしまいました。黒い「世間」が、無茶苦茶に忌(いまいま)々しくってな りゃあしません。 『何しろそんな風で、家( つち)でふさぎ込んでいたりなんかする時、庭の隅にちらかっている鉄の切 れっぱしを見ても、やはり色が黒いものですから、これも恐ろしくってならない事もありまし た。親爺を斬った道具は刀です。「鉄は刀の親類だ」と思い詰めて寝た晩、私は庭の隅の鉄を 夢に見ましたっけ。石ころのように散らかった鉄が、ごろごろと一ツに塊って、まっ黒になっ てこっちへ飛び出して来ました。冷てえ塊が私の頬(ほお)っぺたへぴたりと当って、  ーおれを錬(きた)えて敵(かたき)を殺せ。 『と薦めるんです。1いや、これは子供らしい夢かも知れませんがね。しかし、さあそれか らと云うものは、きっと敵を討ち取る気になってしまいました。 『敵1と云っても、元より当(あて)はないようなものですけれと、もうその時、私にはちゃんと当が出来ていました。その敵とは外でもねえ。実は黒い「世間」すっかりが敵なんです。「世の中でおれの他の人間は、すっかりおれの敵だ。「世間」すっかりがおれの敵だ。片っ端から「世間」を殺してやる。畜生、今に見ろ!」と、こんな大願を起してしまいました。はい、それに少しも偽りはございません!        三 『それから、お奉行(ぷぎよう)様 『継母はまだ若くって後家(ごナ)になっちゃったんですし、元より家が貧乏なものですから、お恥しい話でございますけれど、それからは毎晩毎晩家を明けて出て、子供の私ばかりが、ぼんやりと留守番する事になりました。若後家だから他所(よそ)へ出て色狂いを始めたのかと思召(おぼしめ)すか知りませんが、実はそんな浮いた沙汰じゃないのでーもう此の上はお察しも附きましょう。お袋の 外出(そとで)と云うのは、云わずと知れた夜鷹稼(よたかかせ)ぎなんでさあ。 『継母も儲けるつもりで出ている中(ちつち)はよかったけれど、しまいには客に色男が出来ました。そいつを家へ引きずり込んだじゃありませんか。それで私には望みもしない継(まま)しい父が出来ました。こいつが又黒っぽい着物ばかり着ているんです。黒い着物を着て「世間」の中からふらふらとやって来やがったんです。こいつも元より私の敵(かたき)です。敵とお袋と喰っ附いてしまったん じゃあ、私腹も立とうと云うものでございます。朝っから晩まで晩から朝まで、心が穏かじやあないので、間もなく私は家を飛び出して、薬研堀(やげんぼり)の中田屋兵助(なかだやひようすけ)と云う鍛冶屋へ、小僧奉公にはいりました。 『中田屋では十九の年まで勤めました。この間は割に大人(おとな)しく暮しました。その始めの頃、同じ家にいる若い衆で、折々賭場(とぱ)へ出入りする者がありました。この男に、雨の日なんか二階の薄っ暗い部屋で、花札なんか弄(いじ)る事を教わりました。十五の年には、花の役をすっかり覚えてしまいました。十六の年には、教えた奴(やつ)を却(かえ)って負かしてやるようになりました。  -おめえは筋がいいや。 『教えた奴が舌を捲きました。しかし、私は筋がいいんじゃない。一心不乱に覚えて、一心不乱に打って勝つんです。それから又その男に、今度は丁半(ちようはん)を教わりました。 『丁か半か  かっぱり取り上げた茶碗(ちやわん)の跡には、饗(さい)がにこにこして、森(しん)と静まってやがるんで、塞は全くお日様よりもっとはっきりした奴です。お日様は晴れるか降るか曇るか  気違い天気ってのもありますが、寒(は丁なら丁、半なら半と、ニツに一ツで、はっきりとしております。殺すか生かすかなんです。1そう云やあ、人の命も寒(の目だ。丁と張って生きていても、親爺のように殺されたりしちゃあ半だ。しかし、人殺しなんかのある「世間」と違って、こいつばかりは勝つも負けるも怨みっこは無(ね)え。とても不思議な運定めの遊びじゃあございませんか。 『いや、お奉行様、これはとうも余計な事を申し上げてすみません。とうか真平(まつぴら)1 『それから、お奉行様1 『奉公中は大人しく暮したと申し上げましたが、「世間」や人様からはずいぶん情(つれ)なくされて暮しました。「世間」じゃあ私の事を「斬り殺された奴の子」だと云いました。同じ店の若い 衆も私の事を河童河童って  河童と云うのは、私一寸泳きが上手なものですから、そう云う綽名(あだな)を貰ったんで  若い衆達が「河童にゃあ親がねえって云うが、何かい、お前卵で生れて来たのかい」なんて、又そればかりでなく私を酷(むご)く扱うんです。耳を引っぱって泣かしたり、頭を叩いたり、それが毎日続きました。私に仕事を云い附けるにも、  1何がむずかしいものか。河童の屁(へ)じゃあねえか。 『だとか、又ある時は「河童の皿を割ってやる」と云って、この頭を撲(なぐ)られた事もございました。 『しまいには、河童の屁と云う事から、皆が私の事を「へ!」「へ!」と呼ぶようになりましたのにはうんざりしました。もつともその頃、そろそろ女の子に目の附く年頃になっていたんですから。 『女と云えば、中田屋の娘に惚(ほ)れました、およし(エエエ)と云ってませた(エエエ)娘で、私と同(おな)い年でしたが、十九の年にはもう二十四五に見えました。その頃世の中一体、娘っ子は年増(としま)風に、年増は却って娘風に作る事がはやりまして、およしさんも老(ふ)け作りにしていたんです。私は毎日妙に年増風をしておさまっているおよしさんの顔を見るのが楽しみで、それに又よく供(とも)して外出(そとで)に附いて行きました。美しくってたまらない娘の後から、金(かな)っ気(け)臭い小僧っ子の風(ふう)で、どうも気が差 しました。気は差しましたけれど、どうもやけに嬉しくって 『人に惚れて始めて、世の中が明るくなりました。私が惚れてる事をおよしさんの方も、ちゃんと知っていて、私をそっと挟(たもと)で叩いたり、ヘッ、ヘッ 『はいはい、お奉行様、  はいはい、とんだ惚(のろ)けを申し上げて、とうも飛んだ事を申し上げまして、 『けれと、お奉行様1 『申し上げないと判らない事がありますから、一寸(ちよつと)申し上げますが  ある晩、図に乗っておよしさんへ変な事をしかけた所を主人に目(め)つかって、ひどく折橿(せつかん)を受けました。  -河童の分際(ぶんざい)で飛んだ物を狙(ねら)やあがる。いけ図々しい畜生(ちくし)だ。もう店には置かれねえ。出て行ってしまえ! 『家中大笑いになって、とうとう私は店を放り出されてしまいました。 『頼みと思うおよしさんは、私を執(と)り成ししてくれるかと思いの外、これも散(さん)ざつぱら笑って笑って1全くとうも、今から思っても腹が立ちます。 『その時戸締めを喰った家の外で、私は地団駄(じだんだ)を踏んで「きっとおよしを狙ってやる!」と決 心いたしました。狙って色にするか殺すか、ニツに一ツの決心なんです。 『今年の七月、つまり先月、鎧(よろい)の渡しで女が殺された事がございました。よく御存じの筈(はず)です。 その女はおよしさんです。斬った下手人と云うのは、今白状するのが始めてだが、実は私でございました。どうです。狙い落して色にしてから、とうとう殺してしまったんです。 四 『さて、お奉行様1 『およし殺しの一件は、一寸後に申し上げると致しまして、先ず前々からの罪の次第を順々に申し上げましょう。 『中田屋を放り出されてから、私は博突(ぱくち)打ちになりました。巾着切(きんちやくきり)もしました。「日に一人宛(ずつ)にでも迷惑を掛けて行って「世間」を豊殺(みなごろし)にしてやろう。それが父の敵討(かたきうち)だ」と云う覚悟が、片時だって緩(ゆる)みゃあしません。巾着切の方も一生懸命に稼ぎました。 『親爺が永代橋で辻斬りに遭(あ)ってから丁度十一年目の冬の晩、やはり永代橋を通りかかって、嗚呼(ああ)昔はここでああだったと思い出したら、折柄(おりから)の川っ風が寒いばかりじゃない。私は体がぶるぶる顕(ふる)えて悲しくって、欄干(らんかん)をぐいと掴(つか)みしめながら、冴えた月影に照らされた川を、ぐつと睨みつけました。川の両側一帯には「世間」と云う敵が群がって重なっていやあがる。天にも地にも世に生れて男一匹親も無ければ兄弟もない、寒晒(かんざら)しみたいなこの体一貫の人間を「世間」はどうしてこれ程酷(むご)ったらしく扱(あつか)やあがるのかと思い詰めて来て、私はとうとう声を上げて泣き出しました。  1これこれ、川へ落し物でも致したのか。 『そう云って、そこへ人が寄って来ました。見ると、黒い着物を着たお侍です。黒い着物1 で、私ははっとしました。とっさに心の中で「この野郎、親の敵の「世間」の名代(みよろだい)になってやって来やあがったのか」と毒附いてやりました。 『ところが上部(うわべ)では急にしおしおして、  ,1いえ、どう致しまして、落し物どころじゃございません。私の親爺が、只今ここから身 を投げました。  1何、父が身を投げたと申すか。それはいけない。早速舟を出して捜したらとうだ。身共も手伝ってつかわそう。 『お侍は少しあわてて、私を舟番所の方へ連れて行こうとします。 『この時、私は悲しそうに泣きながらお侍に獅噛(しが)み附いて、咄嵯(とつさ)にヒ首で、お侍の脇っ腹をぐ さと突きました。一ツ扶(えぐ)るとばったり倒れましたので、私は一散(いつさん)に永代寺(えいたいじ)の方へ逃げ出しまし た。 『只一突きに「世間」を殺したような気です。もう嬉しくって嬉しくって1元よりその男を、 どこの誰だか知ってるわけじゃありません。 『そこでお奉行様1 『永代の人殺しに味を占めましてから、よく隅田(すみだ)の堤なんかで斬り取りを働きました。面倒臭 えから一ツ括(から)げに申し上げますと、やはり二十二の冬に、深川の木場(きぱ)で材木屋の五郎兵衛(ごろべえ)を殺 しました。これは浅草で私が巾着切をする所を見ていて、人に知らせた恨みでございます。二十三の春の夜、木母寺(もくぼじ)で五十七八の男を斬って、五十三両あまり取りました。同じ年の夏には、 柳原(やなぎわら)土手で三十ばかりの男を殺して、財布を捲き上げましたが、財布の中はたった七両、しかも皆贋金(にせがね)だったじゃありませんか。大骨(おおぼね)折って贋金を掴んだのは、一生涯の中(うち)にこれが始め てなんです。それから例のおよしさんを殺した事。1殺したり斬ったりしたのは、まあさっとこうなんです。巾着切は精々やっていました。この方で取った金の総締(そうじめ)は、今一寸わかりません。 『取った金が、お定まりの「打つ、買う、飲む」に消えて行ったのは知れた話でございますが、けれと一度  たった一度、人の命を助けて、金を恵んでやった事がこさいました。 『それは二十三の春の夜明け近く、やはり永代橋を通りかかると、女が一人、欄干に胸を伏せて、泣きながら手を合せているじゃありませんか。見ていると、欄干を乗り越えようとします から、私はあわてて後(うしろ)から抱き留めてやりました。  1殺して殺してー 『女は大声にわめきました。何だか私が殺しているようで、一番驚きましたが、そこで無理に 捻(ね)じ伏せて、わけを聞いて見ると、今十五両の金がなければ身を売らなければならないと申し ます。身を売っては済まない人がある。その金と云うのは親爺が作った借金だと云うのです。 月明りに見れば、あんまりいい女でもありません。まあ、とにかく、女が逃げ出さないように腕を掴んでいると、私はふと、その顔が吉原の馴染(なじみ)に似ている事を見つけました。女がもがいて振り離そうとしました時、  1これさ、鉦分別はいけねえと云うに。 『と抱き留めて、その拍子に、女の頸(くぴ)っ玉にこっちの顔を持って行くと、白粉(おしろい)の気こそないけれと、それでも若い女の肌のにおいがぷんと鼻へー 『いや、お奉行さま、とうも恐れ入ります。いえ、もう、狸(みだ)らな事は申し上げません。1い え、決して、その女をどうしたと云うのではございません。全く。はい。 『それからお奉行様 『無くてはならないと云う十五両の金をくれてやりました。どこの誰だと聞きたがるところを、  1命があったら又逢うよ。 『と、それこそ人を殺した時くらいの速い足で、一散に逃げ出しました。1いや、逃げたん じゃあない。いい心持になって只走ったんです。 五 『そこでお奉行様1 『江戸では「づき」が廻って、もう手出しがならなくなりましたから、その年から丸々二年、 息抜きに甲州へまいりました。 『それからついこの間、久し振りに江戸へ帰ってみると、どこもかしこも相変らず敵(かたき)の寄り集 りに見えてしようがございません。 『ここで、つまらない話で恐れ入りますけれど、申し上げなければわからない事があるから申 し上げますが、その頃も江戸の女は相変らず娘が年増風に、年増が娘風に作っていました。着 物が贅沢(ぜいたく)で、殊に気が附いたのは、下駄に金を掛けるようになった事です。或る時、駿河町(するがちよう)を 通っておりますと、一人の女が、折柄ぬかるんだ道なので、足に少しはねを上げました。女は、    ちえッ! お江戸は泥田圃(どろたんぼ)で困っちゃう。 『と云って、両方の長い挟を重ねて、それを左の手で抱え込んで、体を前かがみにして、右の 手を足の方へ持って行きましたから、「おやおや、はねを素手で拭くのか」と見ていると、ど うでしょう、その手が足を通り越して、駒下駄の後の所に取り附けた金物を引っ張りました。 すると、下駄からすうッと抽斗(ひきだし)が出て来るじゃあございませんか。抽斗附きの駒下駄なんて私 始めてです。驚きました。まだ驚いた事には、抽斗から白縮緬(しろちりめん)の布切(きれ)を取り出しました。しゃ りりとした縮緬です。女はその布切で、足に喰っ附いたはねを拭きました。「おや、たいそう な下駄だ!」とますます肝(きも)を潰(つぶ)したのは、何も私ばかりじゃあございません。二一二十人たかっ て、皆間抜け面をして見ていました。 『こうしてぼんやりした人の面を見ると、巾着切としての私の指先が、むずむずと異様に頭え てまいります。仕事を稼ぐ嬉しさに、指が踊るのだと申し上げましょうか。全くそれに相違は ないよヶです。その時、私は踊る指をぐいと握って、「まてよ!」と思いました。「同じ拘(す)るん なら、あの抽斗下駄の女の懐中(ふところ)を掬ってやろう」と思いました。これは巾着切の娑婆(しやぱ)っ気(け)と云 うもので、はい。 『女は手に持った白縮緬の色が消え込むほど白い足をしております。足にも白粉を塗っている らしいんです。足に白粉を塗るほどな江戸の女にゃあ、泥田圃そっくりの江戸の町だから、は ねを拭く布切もいると云うものです。さて、その女は、縮緬の布切を下駄の抽斗へしまってか ら、今度はそのままその足だけで爪立ちして踵(かかと)を浮かせて、きれいに拭けたかと見る様子です。 ふっくらと油ぎった、喰い附いたらうまそうな踵が、黒塗りの下駄からくつきりと浮み上って、 蒸し立ての甲高饅頭(こうだかまんじゆう)のように、ぴかりと照りさえ来ているんです。すぐと女はその足で歩き出しました。 『年の頃は十八九で、高島田に結(ゆ)っております。私は早速、窺(うかが)い窺い尾(つ)いてまいりました。往来の人を潜り抜けて、女の前へ廻った時、私はびつくりしました。それは私が以前奉公していた中田屋の娘およしさんじゃありませんか。女は化物と申しますが、私と同い年なのに、どう見ても十八九に作っています。 『姿を隠してやり過して、また尾けました。若々しい後姿で、見れば見るほど、以前惚れていた時分の心持が、はっきりと胸に戻って来ました。人の懐中物(かいちゆうもの)を掬り取る喜びに、むずむず踊っていた指先の代り、今度は胸が踊り出しました。 『思い切ってばったり行き遭って、この顔をよく見せてやりました。  1あらあらちょいと、河童じゃないの? 『滅法界高(めつぼうかいたか)い声で、およしさんが云いました。いかに何でも昼の日中の大道じゃございません か。河童と云うのはひどいと思いました。しかし、  1へい。 『と、私は頭を下げました。  1まあ、久し振りだわね。お前達者でいたかい。何年逢わなかったろうねえ。まあー  1はい、あなたもお達者で、先ず結構でこさいます。    ああ、おかげでね。あれからずっとお前は江戸にいたのかえ。  1よりo    `レ  ーだって、一度も逢わなかったね。なぜ一度くらい尋ねて来てくれないの? あたしはお前の事、時々思い出してよ。  1へえエー 『胸がどきりと、又踊りました。  1ああ、よく思い出すとも。  1ありがとうこさいます。しかし、あなたにも何からお詫(わ)ぴしていいんだか、何しろあん な風にお暇(いとま)を頂戴したものでございますから、お店の閾(しきい)が高くって高くって    おほほほほ。 1で、これから少しは人間らしい者になった上で、一度お詫びに上ろうとは存じておりましたんで。  ーおやおや、見ればお前身形(みなり)は小粋な遊び人のようだが、云う事はかりは律儀だね、おほほほほo 『私はへどもど致しました。  1まあ、久し振りに逢ったのだから、とこかへ案内して話でもしようじゃないか。あたしもこの頃はお酒を呑むよ。  1へえ?  1おほほほほ、そのびっくりした顔- とうしたって昔の三吉だわね。おほほほ、さあ、 ついておいで。 『それからおよしさんは茅場町薬師前(かやぱちようやくしまえ)の小料理屋へ、私を連れて行きました。小粋な離れ座 敷に通ってから。  ー1おやおや、これは大変だ。 『と云って、懐中(ふところ)をしきりに捜しました。  ーお嬢さん、これですかい。 『わたしはおよしさんの財布をそこへ出して見せました。ここへ来るまでの中に、ちゃんと掬 り取っておいたのです。  ーおや、とうしてお前1 旧 1なに、   1そう。 あなたが今坐る時、畳へ落したじゃありませんか。 まあ、よかった。 ⊥ ノ\ 『酒を酌み交しながら、およしさんの云うところを聞くと、およしさんの両親は達者、およしさんはその後去るお旗本のお妾(めかけ)になっているとの事です。道理で、抽斗下駄を穿(は)くほど豪勢振りを見せている筈です。しかし私の現在の身持ちに就(つ)いては、少しも知っていないらしい様子ですから、私はやれやれと思って、心持よく酒を呑みました。およしさんはこの時も、「河童や河童や」と呼んで平気なものです。こいつにゃあ一番閉口しました。  -お嬢さん、その河童だけは一つ。 『と願い下げにしようとしますと、おほほおほほと笑って、笑った後からすぐと又「河童や河 童や」なんです。ますます閉口いたしました。 「はいはい、お奉行様、もう詰らない事は申し上げません。どうか御勘弁下さいまし。 『それから、お奉行様1 『1ええ、一寸申し上げますが、とうせ私も近い中には、首と胴と離れて消える人間でこさいますから、もう一口、つまらない事でも聞いてやっておくんなさい。お慈悲でございます。 『つまり、その晩そこで、お互に酔ってはいるし、冗談もあくどくなったしーで、まあ、そのー 『はいはい、では、はっきり申しましょう。つまり、出来ました。十九の年に惚れて、店を放り出され、廻(めぐ)り廻ってその時始めて、やっと思いを遂げました。女と云う奴、見かけはまるで大手御門のようで、却(なかなか)々寄り附けませんけれど、一つ搦手(からめて)から突いて進む日にゃあ 『いえ、詰らない話は、もうこれ限(ぎ)りでございます。白状序(つい)でに洗い深(ざら)い申し上げたくなりまして。    や、もう慎みましょう。だが、ここんところがおよしさんを殺した肝心の訳柄(わけがら)になりま すから、今一寸御心棒(ごしんぼう)願えませんかねえ。  では、もう少しはかり 『およしさんに私が申しました。  ーお嬢さんの踵(かかと)は美しい。切って取って置きたいくらいだ。  1あらあら、大変な物が気に入ったのね。だが、踵なんて全体下品な所さ、上品な所で、 この頬っぺたでもお切りよ。  -ふん、怒る人がある癖に。  -じゃあ、この手でもお切りよ。  ーおっと、辻占(つじうら)が悪い。  -おほほほほ、それじゃあいっそ、おけつでも切るといい。だいたい河童の事だからね。  ーあ、又あれだー いや、とうもとうもー  ーおほほほほ。  ー切れと云やあとこでも切る。道具はちゃんと御持参だ。この通り。 『私はヒ首(あいくち)を抜いて見せました。そして胸を反らして喰い入るような目で、じっとおよしさん を眺めました。やくざな事だが、凄い所を見せて、女の魂まですっかりこっちの道(もの)にしてしまう気だったのでしょう。  iいやだよこの人は。変な物を持っておいでだね。 『およしさんは、さすがにぞっと噸(あご)を沈めながら、ヒ首をじっと見ていましたが、  1おや、刃が少しこぼれている。誰か殺してみたのかえ。一人か二人くらい。 『と、向うは冗談に云ったのかも知れませんけれど、こっちは傷持つ足です。ぎょつとしました。思わず突っ立ち上った私は、刃物を振り上げて迫りました。  1やい、およし、それをおめえは知っているのか。 『およしさんも、ぎょつとしました。が、じき目を細くとろんこにして、呑気そうな酒の曖気(おくぴ)まで聞かせてから、  1おほほほほ、まあ何を云うのよう。でも、苦み走って、様子がいいわね。 『私より役者が一枚上になった様子です。それから又酒で、私もずいぶん呑みましたが、もう少しも酔やあしません。どうもこの女、私の悪事を知っているように思えてならないから、それで殺す気になりました。 『そこで又の約束をして、外へ出ました。およしさんは薬研堀の家へ行くと云うから、近くの鎧の渡しへ出ました。舟を待っている隙(ひま)に、幸いの闇夜だし人っ気は無し、で、つい殺してしまいました。  1見せかけばかりにこにこしながら、引き寄せて抱いて、 いきなり咽笛(のどぷえ)ヘヒ首を突き刺しました。 七 『およしさんを殺してからは、さすがに寝覚が悪くなりました。一度でも許し合った可愛い女です。思って見れば敵(かたき)だらけの「世間」の中で、生れて始めてこの女だけが味方になってくれたのだ。それをうっかり殺してしまった。取り返しの附かない事をやらかしてしまったのです。 「おれはまあ、何と云う不運な業晒(ごうさら)しだろう!」と、すっかり自分に愛想を尽したのでございます。しかし、考えように依っては、「女を殺したのも、これは「世間」が殺させたのだ。つまりおれは又「世間」の為に煮え湯を呑まされたのだ。畜生、どこまで崇(たた)りゃあがる「世間」なんだろう!」と残念で残念でたまらなくなりました。 『お奉行様 『それで、私はいよいよ「世間」を無茶苦茶に斬って斬って、斬り死にする覚悟を固めました。 『もつとも、およしさんを殺した当座、暫(しばら)くは品川(しながわ)に隠れておりましたが、その矢先に、深川 八幡の祭礼がやって来たのです。「親爺が辻斬りに遭ったのも、所は永代橋のまん中、祭の当日丁度そこで、祭見物の群集を一時に沢山やッつけよう、所もよし、時もよし、こりゃ日本一の大仕事だ。日本一の敵討ちだ。「世間」め、今に見ろ!」と手具脛(てぐすね)引いて待ちました。 『その祭礼は十五日だが、待つ甲斐(かい)もなく雨が降って延びました。いよいよきまった十九日の祭日(まつりび)、喜び勇んで永代橋へ乗り出して、先ず西詰の水茶屋で一服していると、橋の上はもうぎつしり一杯の群集です。時が来ました。懐中(ふところ)に呑んだヒ首の柄(つか)を、掌の油汗と一緒にぎゅつと握って、黒山立った橋の上の「世間」を睨み附けて、いざ! と思った時、    あらあら、あなただあなただ。 『だしぬけに女が、私に獅噛(しが)み附いて来たじゃあございませんか。見ると水茶屋の女です。女 は私の顔を見て、わっと泣き出しました。往来が息隙(いきすき)もなく雑踏する時でもあり、店には客が 身動きもならず立て込んでいる最中でもあるのに、どうしたものかこの仕末です。何が何だか さっぱりわかりません。すると忽ち群集が私の身の廻りへ立ち重なって押し掛けて、じろじろ 覗(のぞ)き込みました。  ーおいおい、姐(ねえ)さん、人違いじゃあねえのか。その手を離しなせえ。人が集(たか)って見ていな さる。あんまり見っともよかあねえぜ。 『女は泣きながら、    いいえ、人違いでは決してございません。あなたは丁度三年以前に、この永代でわたし が身を投げようと致しました時、抱き留めてお助け下さいましたお方でございましょう。    おお、思い出した。おめえさん、じゃああの時の、あの人か。  1よ、o    `し    ふうん!  1はい、さようでこさいます。  ーそれでも生きていなすったのか。  1はい、それはもう、あの時頂戴いたしました十五両のお金で、あれから親も私も皆皿事 に暮してまいりました。  1そうかー 『私はすっかり驚きました。人は何人も殺して来た私ですが、うっかり助けてやった身投げ女 が、こうして無事に生き延びて喜んでいるなどとは、実以(じつもつ)て妙な世の中でございます。この有 様を見ていた群集の中の手近な男が二一二人、我が事のように喜んで、手を拍(エつ)って感心していま した。私は苦い顔をして黙ってしまいました。 『女は私に縄(すが)ったまま、  1あの時とこの何と云うお方なのかわたしが、お尋ねいたしましたけれと、あなたはそれ を聞かさないで別れてお行きなさいました。それでお礼を申しに出ようにも、さっぱり見当が つきません。どうしたらあなたに廻(めぐ)り逢えるだろうかと考えました末に、場所はやはりこの永 代で、丁度人通りも多いから、水茶屋稼業を始めたのでございます。今日は逢えるか明日は逢 えるかと、毎日毎日心持ちして居りましたが、その一念がやっと届いて三年目の今日、しかも 八幡様の御祭礼の日に廻り逢うなんて、これは八幡様のお引き合せに違いございません。本当 に本当に、こんな嬉しい事はございませんよ。 『真心籠めて云うところが、顔にもありありと見えております。弥次馬(やじうま)どもがますます喜んで 手を拍ったりする中で、女は見えも外聞もなく私に縄り附いて、一生懸命に喜びを述べている のです。 『そこで私も嬉しくなってしまいました。「これは何だか面白くなって来るようだぞ。女はてっ きりおれの義に惚れ抜いているんだ。いっそこの女と高飛びしようか。何しろ三年間も無駄に 捜していてくれたとは、骨身に応えて有難い!」そう思って眺めると、妙なもので、女が急に 美しく見えて来ました。惚れる下地が、可愛くなってまいるようで、私は手を握ってやりまし た。  1八幡様のお引き合せたあ冥加(みようが)だ。それじゃあ、宿なし同扶のおいらだから、早速今夜か らおめえの所に厄介になろうか。  1はいはい、願ったり叶ったりでこさいます。ぜひとうか。  1そうかそうか。    宿(やど)も一心にあなたを捜しておりましたから、どんなに喜ぶ事でございましょう。    何、宿だと?  1はい、あの時戴きましたお金のおかげで、わたしは身を売らないですみましたはかりで なく、今の亭主と夫婦になる事が出来ました。あなたはわたし共の結びの神様でございます。 『私は聞いてげっそりしました。何が口惜(くや)しいと云って、こんな口惜しい事はありゃあしませ ん。黙って顔を背向(そむ)けると、丁度その時、恐ろしい響きがして、永代橋ががらがら崩れて落ち ました。 『水茶屋の中も往来も、わっと浮き足立って大騒ぎになり、上を下への大混雑のごった返しで す。もしこの女に引き留められていなかったら、どうせ私も川へ嵌(はま)っていた事でしょう。ぞっ として、うろうろしていると、騒ぎの隙(すき)に小泥棒が、水茶屋の売り溜めを掴んで逃げ出しまし た。それに気の附いた女は、私を  命の恩人だと思い込んでいる筈の私を放って置いて、わ めきながら掻っ払いを追っ駈けて行きました。  この女もやはり私の味方ではなく、あさま しい恩知らずの「世間」の一人だったと思えてなりません。 『裏手の崖っぷちへずかずかと出て、橋の崩れた所から、まだ人が川の中へ沢山落ち込むのを 見ました。とたんに、めきめき音がして、今の水茶屋が倒れまして、橋から引き揚げるあわて た人浪に押し潰されたんです。私は葦簾が頭の上へ落ちて来たのも関(かま)わないで、川の真中を睨 みつけました。「ああ「世間」が崩れて亡びる!」と思いました。「世間」があらかた水浸しに なって溺れ死にするような気が致しました。これでこそ親爺もやっと浮べましょう! 私は踊 り上って喜びました。  1さまあ見やがれー さまあ見やがれー 『と。この言葉を何度も何度も、大声でどなり散らしてやりました。 『すうと胸がすいて、少し気が緩(ゆる)んだ所で、とうとうお縄を頂戴いたしました。 『お奉行様i 『それにしても、永代橋から川へ落ちた人の数は、千五百人だとかお牢(ろう)で聞きましたが、私が いくら暴れたって、あれだけの人は殺されません。しかし、これでちっとは「世間」へ亀裂(ひび)が はいりましたよ。 『思って見るとあの時、始めの考え通り橋のまん中で人殺しをやっていたら、私も落ちて死ん だでしょうし、又死ぬまでの間に、人数(ひとかず)二三人も斬れなかったかも知れません。してみると、 あの水茶屋の女は今度はあべこべに、私に取って命の恩人でございましょうか。 『お奉行様1 『もう私も年貢(ねんぐ)の納め時でございます。もうすっかり覚悟はいたして居ります。お慈悲にあず かろうなどとは思っちゃあいません。どうせ殺すものなら、いっそ一日も早く殺して下せえ。 そうして貰わねえと、あの、すっかり私に惚れていると思った水茶屋の女が  実はもうちゃ んと亭主があると云ったあの女の事が、どうにも癩(しやく)でたまりません。返す返すもあんな女に廻 り逢わなかった方が、私はどんなに仕合せだったか知れやしません。 『私の申し上げたい事柄は、ざつとこんな事でございます。おやかましくって恐れ入りましたc はい!』 雁金 潮山 長三 一  娘の体が年貢(ねんぐ)になった  ああ、水年の間鳥や獣の命を取った因果は恐ろしい、今や現在の 我が娘を、殺すも同然な事になってしまった。    と、だしぬけに書いては、ちと分らぬ。  が、物語の主人公は伊勢白子村(いせしらこむらき)の久兵衛(ゆうべえ)というお百姓で、その年の二月になっても、旧冬の 年貢の金八両が、未進のままになっていた。  世間の正月は面白そうに暮れたが、久兵衛親子は未進の為に世間を狭くして、じめじめと佗(わぴ) しい悲しさに閉じ籠(こ)められ、殊に久兵衛は白髪頭を右に左に傾けて、毎日当惑し切っている有 様である。それでも親類縁者を頼み廻って、やっと三両は出来た。けれど、まだ五両の金が不 足している。さてこれをどうしたらいいだろう。 「おい、年貢はどうした。いやさ、未進の金だよ。久兵衛さん、お前は年貢を出さないという のか」と、名主のげじげじが、毎日のようにやって来て、がみがみと責めたてる。それが一家 の者へ、腸(はらわた)をずたずたに引きちぎるように響いた。  そこで、娘のお半(はん)の体が五両になった。1こう云えはもう様子が判るだろう。即ち、お半 の身を売って金を作ったのである。  何しろお半は、毎日毎日父の悲嘆を見るのに堪えられなくなって、或る日父へ、おずおずと 云った。 「あの、五両に、わたしの体を売って下さい。宿場(しゆくば)の飯盛(めしもり)でも、お女郎(じよろう)でもかまいませんから。 ねえ、それで家( つち)の急場を救って下さい。お願いです。後生です」  古び切った木綿の着物の袖を、娘らしく太った頬(ほお)に当てて、わっと泣き出した。 「ううむ、お半、許してくれ。よく云ってくれた。売ってくれるか」  お半は父に飛びついた。 「え? それではわたしの云う事  」 「おお、お前の体を金にしてくれるか。五両になってくれるか」 「父さん。ああ、母さん」 「お半よ」  父も女房も娘も、一かたまりに纈(すが)り合って、おろおろと声を上げて泣いていた。  その時、この感激を掻き乱すような、無慈悲な声が戸口から訪れて来た。やって来たのは名 主の杢兵衛(もくべえ)。 「何だ何だ、何を泣いているのだ。おい、久兵衛、年貢の八両は一体どうした。明日(あした)届ける届 けると云って、嘘ばかり云っている。今日はとうでもこうでもー」  どうでもこうでも取る気で、皆の泣顔をじろじろと眺めながら、上りかまちへ、どっかりと 腰かけた。  久兵衛、いきり立ったような声で、だしぬけに云った。 「やッかましい。八両の年貢、持って行きなさい」 「ああぴっくりさせる。何だ大きな声で、では八両1」  と手を出すと 「今夜作るだ。今夜まで待って下さい」 「何、今出ないのか。いやさ、まだ金が出来ていないのか。何の事だ」  と、ここで、えへんと咳払(エェェせきぱら)いをしたが、又しても理窟(りくつ)で云い伏せようとする気らしい。とに かく名主が、このえへんをやらかすと、事がやかましくなっていけない。  久兵衛は娘の肩を両手で抱きすくめて、こちらから高飛車に出て云った。 「えへん  お前様のこのえへんは一寸待って下さい。金はここにいるのだ。金になるものが ここにいるのだ。これから売り先を考えます。  ああ、お半を年貢に取られてしまうのか。 未進の為に娘を殺してしまう事になったのか」 「え? お半を売るのか。  ほうー そうだ、お前は氷年の間、鳥や獣の命を取って来たか らな。因果だよ」  と、名主の一言、これを聞いて久兵衛、さっと顔を蒼(あお)くした。そうだ、永年鳥や獣を殺した 因果が今やめぐって娘の身の上に落ちたのかと、丈夫な歯をぎゅつと喰いしばった。 「ええ、余計な事は云わないで下さい。忌(いまいま)々しいが、娘を今夜までに叩き売って、 作る。今夜まで1遅くとも明日まで待って下さい。きっと今明日(こんみようにち)の中(うち)だ。ね、 て下さい。きつとだ。よ、待ってくれ。ね、これ、待ちゃあがれ!」 きっと金を どうか待っ        二  哀(あわ)れな娘お半は、哀れな親の為に、早速一身田(いしんでん)の四日市屋市郎兵衛(よつかいちやいちろべえ)という宿屋へ、飯盛り女 に売られた。飯盛りと云うのは、下等な女郎に過ぎない。  一身田は高田派の本山のある町、白子からは四里余のところ。火急に迫った金の為だから、 何でも手っ取り早くて近いところを選んだのである。  かんじんの身代金(みのしろきん)は、三ケ年の勤めの約束で金六両二分であったCこれに有り金の三両を合 せると十両近い金となる。そこから未進の年貢の金八両を差し引くと、まだ一両余り残るだん どり。  四日市屋からは、久兵衛の名宛で、三ケ年間娘お半を確かに買取り申候、よって後日の為 云々(うんぬん)、文化(ぶんか)八年二月五日、一身田四日市屋市郎兵衛、久兵衛殿、と書いた一札(いつさつ)を出した。  久兵衛はこの証文と六両二分の金とを押し頂いて、これを縞(しま)の財布の底を突き破る程にしっ かりと納め、長い紐をくるくると捲きつけて懐中(ふところ)へ入れた。丁度芝居の与市兵衛(よいちべえ)という恰好(かつこう)で ある。  折柄(おりから)夜であり、金を持った与市兵衛だから、四日市屋の主人は注意した。 「この頃はこの辺へ泥棒がよく出ますから、しっかり用心して行きなさる事だ。そうだ、足下(あしもと) も危い、提灯(ちようちん)をお持ちなさい」 「なに、泥棒なんか、撲(なぐ)り倒してやりますよ。御心配には及びません。はい、では、提灯を拝 借してまいりましょう」  元気な事を云うものの、 「では、お半、まめでやってくれ」  と、娘に別れる段になると、又一嘆きの世話場(せわぱ)があった事は勿論(もちろん)である。  その時、お半が小さい声で云った。 「父さん、たった一言云い度い事があります」 「何だ」 「あのね、もう殺生(せつしよう)はよして下さい。殺生が好きだから、悪い因縁が廻(めぐ)って来ました」 「えッ!」  ぎょつとして娘の顔へ、焼げつくような瞳を寄せた。娘は袖で顔をぴったりと圧(おさ)えた。 「ううむ、殺生かー」  四日市屋を出ると、とっぷりと日が暮れていた。海に近い如月(きさらぎ)の冴え返る風が、人を突き倒 すように、どつと吹いている。髪(ぴん)の白い毛を靡(なぴ)かせながら、ぶるるるッと身を頸(ふる)って、提灯を ぶらぶらと、一身田の町を出外(ではず)れた。あれから東へ、中野村に差しかかった。  すたすた歩いていると、淡い月影に、向うの枯田の中で、何か黒く動く物が見えた。 「あ、雁(かり)が下りているな。いるいる。たいへんな雁だ。あ又五六羽下りて来た。餌(え)をあさって いるんだな、手捕(てどらま)えが出来そうだぞ。ううう、しめたしめた。こいつは一番」  根から好きな殺生、今の今娘に云われたのを忘れたのではないが、とにかく雁を一羽取って、 未進を納める喜びの肴(さかな)にしたくなったのだ。  提灯をふっと消して、その柄(え)を腰に差して、そうッと雁のいる方へ忍び足。よく見ると、二 十五六羽からいる様子だ。こちらは俄(にわか)の事で無手である。何か棒切れでもないかと見廻す途端、 がアーぴっくりする程の声を立てた雁の群、一時にさっと舞い上った。 「や、やッ、逃げる」  ばたばたと枯田の中へはいって追ったが、その辺の田一面は染縄(そめなわ)の干し場になっていて、と ころどころに竹を立て、これに縄が蜘蛛手(さへもりも)に渡してある。が、その時、すっかり飛び立った雁 の中の一羽が、どうしたものか、縄に足をからませて、その足が脱(ぬ)けない様子、身を逆さにし たり、もがいたり、翼ばかりを、やたらにばたばた、ばたばた黒く動いている。 「しめたッ、そっとしていろ」  久兵衛は雀躍(こおどり)して駈寄って、雁を手で押えた。雁も一生懸命で、ばたばた、ばたばた。 「やい、これさ動くな。じっとしていろ。又動くか。おっとおっと、おお又動く」  手当り次第に染縄の竹を引き抜いて、ぴしゃぴしゃ叩き、やっと押えて、首をねじようとす ると、その時である。  だしぬけに後(うしろ)から、人の声が叱った。 「やい、何をしていやあがる。御用田(ごようでん)だぞ、知らないか」  ぎょつとした。雁を懐中(ふところ)へねじこみながら、後を振り向くと同時に、全身氷で撲(なぐ)られるが如 く、又ぎょつとした。その筈(はず)、叱った人の提げている提灯に、はっきりと「御用」の二字! 「ひやあ!」  驚きの声をあげた久兵衛、そこへへたばってしまった。そこへ向うの男はつかつか(エエエエ)と寄って 来て、その提灯をぬっと差しつけた。 「何をしているのだと云うのに。うむ、見れば百姓だな。どこの何という者だ」 「きゅ1久兵衛、白子の久兵衛と申します」 「白子村の百姓か」 「は、はい」 「はいではない。近頃本街道からこの辺一体へかけて、阿濃(あの)の松五郎(まつごろろ)という泥棒の一味が横行 するから物騒(ぷつそう)でいけない。もう捉(つか)まる事になっているが、手前、-百姓のような風をして、その 実阿濃の松五郎の一味じゃあねえのか。変な野郎だぞ」 「ヘンー め、め、めっそうな  」 「やい、あわてるな。その懐中の物は何だ。出せッ」  この男、二本差しでなく、たった一本脇差で威張っているから、きっと目明(めあか)しだろう。目明 しは片手を久兵衛の懐中へ差し込んだ。その手に、もぞもぞッとする異様な感覚。 「あッ、何だ何だ。気味が悪い」  と、さっと手を引っこめる。 「か、雁です雁です。今手捕(てど)りにしました。まだ生きております」 「雁だ? 又妙な物を1道理で、いやにもぞもぞした。ちッ、妙な晩だて」  目明しは雁に触った手を、まるで溝(どぶ)から引き抜きでもしたかのように、臭(くさ)そうな顔して嗅(か)い だ。嗅ぎ嗅ぎ、提灯を下げて向うの方へ行ってしまった。  久兵衛はほっとした。懐中(ふところ)でがさがさと又動く。懐中を上から両手で押えつけて、やっと立っ て歩いた。が、すると、あいにく草鮭(わらじ)の紐(ひも)が切れた。その切れた紐を他の片足で踏んで、 「おっと、どつこい」  倒れかけたのを危く踏み止(とど)まり、しゃがんで、切れた紐を直そうとすると、又懐中で、がさ がさッがさがさッ。気味悪く動く雁を引きずり出し、そわそわした手つきで、先ず自分の首に 掛けた財布の紐を外すが早いか、これを雁の首へきりきりと捲きつけて息を止めた。そして雁 を地びたに置いて、今度は草鮭の始末だ。忙しくやっていると、  ばさばさッ!  思いもかけぬ事に、殺した筈の雁が、翼を働かして飛び上がった。同時に、濠(もう)と上る砂埃(すなぼこり)。 「ううむ。ペッ、ペッ」  埃にむせながら、久兵衛、雁を押えようと立ち上ると、切れた草鮭の紐を踏んで、どさりと 倒れた。倒れながらに、目を上げると、 「あッ、逃げる逃げる」  雁ははさばさと死地を脱して中空高く、すうと  しかも、首に財布を掛けたままで、 と飛び上って行くではないか。大声で叫んだ。 「あッー 金、金- あッ、待ってくれ。待ってくれ。これ雁。金を  金をーああ、 て行く。おおい、待ってくれ。金を返してくれ!」 すう 上っ       三  寒い畷(なわて)をぶらぶらと一人の男、若い癖に十徳(じつとく)を着、頭にしかつめらしく芭蕉帽(ぱしようぼう)まで乗っけ ているところでは、手もなくこの頃流行(ごろはやり)の俳諧師(はいかいし)であるらしい。  正にそれは黄蝶(こうちよう)という俳諧師である。津(つ)の城下分部町(わけべまち)古道具屋山長(やまちよう)の次男、今は津の しもべ だ   いおり        わかい凶きよ、         ぐ はいかいてんぐ 下部田に庵を構えた若隠居で、いっかと俳諧天狗の  いや、そんな来歴なんかまずとうでもよいが、その黄蝶、行く手の暗い道に当って人の姿を見た。あまり突然だったのでぞっとした。 「で、出たぞオ  」  早腰を抜かしそうな風で、きつと見ると、今度はぎょつとした。 「や、首を吊っている。わッ!」  松の枝に首を吊りかけている者があるから驚いた。  それよりも首を吊りかけた方の男が、一層驚いた。今頃人が来ようとは思わなかったからだ。 それは雁に大事の金を取られた久兵衛である。久兵衛がその発見者へ向ってどなった。 「誰だ」 「ヘッ、黄蝶、は、俳諧師黄蝶」 「ふうん、通らっせえ」  そう云いながら、久兵衛が枝にぶら下げた縄の輪を首へ持って行くから、黄蝶、ずかずか寄っ て行って、むずと抱きとめた。 「死ぬのか死ぬのか」 「おッ」  ひどく抱きつかれて久兵衛、はじめて人に気がついたようなあんばいである。きょろりとし てから総死(いし)の邪魔する俳諧師を、見かけによらぬ力で、ずでんと投げつけた。 「邪魔するなッ!」 「痛たたた、これは驚いた。何で首を吊るのだこの百姓C年貢の金にでも困ったのか」 年貢と云う一言が、久兵衛の胸へ、鋭い針になって刺さった。 「あッー はあ、年貢の金だ。ああ、娘を売った金だあ  」 と、自分の頭をがりがりと掻きむしって、そこへどつさり身を投げ出した。 「盗まれたのか、金を」 「取られた」 「あ、やっぱり泥棒が出たのか」 「泥棒じゃあない。雁だ。雁に取られた」 「何だ、雁に取られた? 一体それは何の事だ」  黄蝶は眉に唾(つぱ)が塗りたい程である。とにかく、娘を売った身の代金で年貢未進の金に充てた のを、落したか取られたか、それ故に今自殺しようとしている事だけはわかった。で、気の毒 そうに聞いた。 「金はいくらだ」 「六両二分-六両二分だ。とうか殺して下さい」 「おいおい、おれに獅噛(しが)みついてはいけない。これさ、いけないと云うのにさ。ええ、気味の 悪い人だ。1それで何か、六両二分1よし、丁度幸い、いま村方で征尽(むじん)に当った金を十両 持っているから、あげよう。十両上げよう。時にお前さんはどこの誰ですえ」 「白子の久兵衛と申します」 「白子村の  はあ、それでは久兵衛さん、さ、十両だ。持って行きなさい」  と、出した革財布。久兵衛思わず手を出したが、ぶるぶると身を顧(ふる)わせて、つと立ち上った。 黄蝶の持った革財布を、すさまじい目でぐっと睨んで、 「金は、娑婆(しやぱ)の宝だが、死んで行く者には無用の宝だ。わたしは女房に一目逢ってから、じき 死にます。  うむ、役人の馬鹿、名王の馬鹿、おれが死んでから、年貢の高え事を悟りやあ がれ。役人の馬鹿、名主の馬鹿!」  と、役人と名主とこの徴税執行の当路者(とうろしや)を罵(ののし)ってから、黄蝶へやさしい声で、 「いや、あなた、さよなら」  云うかと見ると、だッと走り出した。いや、どうもその足の早い事と云ったら。  それで黄蝶は又びつくりした。が、何でも金をやってしまう気で、財布を差し出したまま、 追いかけて行った。 「おうい、十両、借りてくれ。十両だ。命の助かる十両だ。おうい。白子村の人、金はいらな いのかア」  呼びながら走ったが、向うは足が早いから、じき闇に紛(まぎ)れてわからなくなってしまった。け れど黄蝶は、張り裂けるばかりの声をあたりに響かせて、 「十両、いらんかアー」  すると、差し出している財布を、横から飛び出して来て引(ひ)っ手繰(たく)った奴(やつ)がある。 「あッ、誰だ」 「やかましいC静かにしろい」  ぬっと現れた二本差しの男が二人、ぎろりと睨んだ目の凄(すご)いこと、黄蝶はぶるッと頭えた。 「と、となたです。とうか金を  」 「どなたでもない、おれたちは阿濃の松五郎一味の者だ」 「げッ!」  さてこそ、音に名高い泥つくの一味か。 「ははは、ふんぞったなこの水嚢帽子(すいのうぼうし)め。おい宗匠(そうしよう)、金はおれが貰って行くのだ」 「序(ついで)に裸になれ」  と、もう一人の奴が、荒々しく手をかける。 「わッ、おた、おたー」 黄蝶はそこへ、へなへなとへたばった。 四  白子村から二里半北、神戸村(かんべむら)に漁夫(りようし)の七助(しちすけ)という、いなせな兄さん、朝早く漁に出かけて浜 を見ると、ここにも雁が下りている。 「いるな。丁度いやあがる」  土地の漁夫はよく雁を捕る。家(うち)を出る時から、かくあるべしと覚悟して、途(みちみち)々飛礫(つぶて)に使う石 ころを拾って懐中(かいちゆう)するのが習慣、その飛礫捕雁法(ほがんほう)は皆手に入ったものだ。  だから七助も例の如く、雁へ用意の飛礫を、びゅうびゅうと投げた。白々と朝日に光る渚(なぎさ)に、ぱっと驚いて黒く飛立つ雁へ向って、又石を、びゅう!  ばたりと手応え、一羽ころりと転がった。  駈け寄って押えたが、 「おや、何だこれは」  と変な顔。それも道理、転がって悶(もだ)えている雁が、世にも不思議な事に、紐を首に捲きつけている。そればかりでなく、二尺ばかり引きずった紐の先に、縞の財布をくっつけているではないか。手早く財布をひろげたが、目を剥(む)いてびつくりした。 「おッ、六両二分!」  小判が六両、朝日にぴかり、これは驚いた筈だ。じろりと見廻したが、誰もいない。 「有難え!」  財布を懐中(ふところ)へねじ込み、序に興奮した手つきで、雁の首をぐっと一ひねり。くたりとなった 鳥を片手に下げて、家へ走った。 「雁だ雁だ。これが本当の雁金だ。昔から云ってる言葉に間違えはねえ。1おっと、待った」  自分で命令して踏み止(とど)まって、 「しかし、変だぞ。待て待て」  財布へ又手を突っ込むと、手に紙片(かみきれ)が触った。引き出してみると、字が書いてある。一身田 四日市屋から出した年期証文である。ますますおかしな事になって来た。 「何だかわからないが、これは拾ってはいけない。一つ一身田へ行って聞いて見よう。そうだ」  と腹をきめた。勇んで周章(あわ)てて、さつと一身田目ざして出向いて行った。        五  静かな村の昼下りである。  家の外へ洩れて出る泣き声、一人でない二人の声だ。老人夫婦が手離しでおうおうと、子供のように泣いているのである。勿論それは白子村久兵衛の家だ。  哀れな老夫婦は、揃って自殺の決心。 「お半許してくれ」  と、久兵衛は鉄砲を持ち出して来た。ぶるぶる頭える手で、火縄の先を割れ火鉢の炭団火(たどんぴ)になすりつけた。 「おお、鉄砲1お前さん、これで今日までに、何千何百という鳥獣(とりけもの)を殺して来たのねえ。そ れがとうとう娘に崇(たた)ったのだねえ」  鉄砲にしがみついて、久兵衛をじつと見上げながら、怨( つら)みがましく云う老妻の言葉に、久兵衛はぎょつとした。 「ううむ、お前もお半と同じ事を云う。ああ、物の因果(いんが)は、五十の坂を越して今初めて知ったぞ。だが、もう遅い。その因果より年貢の高い方が恐ろしい。おれ達が死んだ後では、「あれ見よ。久兵衛は娘を売ってから、夫婦とも自害した。これも年貢運上が高過ぎるからだ」と、 世間の者共は取り沙汰するだろう。全くこの五七年、二倍近くにもなった高い年貢やら高い諸運上(しようんじよう)やら、思って見ると久兵衛一家は、年貢の為に殺されるのだ。うぬ、人殺し年貢め、人殺し年貢め!」  年貢を恨んで叱喧(しつた)した。 「さッ、お松、う、う、打つぞ」 「打っておくれ」 「さッ」  筒先向けてずとんーと打とうとした瞬間、実にその瞬間である。  ごとごと表戸が明いて、ぬっと人影がはいって来た。 「や、名主か」  序に名主から先へ片づけようと、筒先をそちらへ向けた。が、しまった! 火縄の火が消えている。涙が落ちて消えてしまったのらしい。 「久兵衛さんはお前さんかね」  久兵衛ははっとした、違う。違う違う、名主ではない。よく見ると、とんだ若い漁夫姿の男である。でくりと坐って、鉄砲を下においた。 「あはははは、鉄砲の掃除をやっておりまして、つい、ははは」  と、しめりきった、陰な笑い声。 「久兵衛さんに違いねえですかね」  と、念を押す。 「はい。さようで」 「ああ、捜した捜した。や、よかった」 「して、あなたは?」  客は黙って、上りがまちに腰をかけて、鉄砲と夫婦の顔とを眺め、只事ならぬ家の空気を感じたらしく首を垂れた。そして火打石をかちかち、煙草にした。と思うと、いきなり鉄砲を引ったくり、煙草の火皿の火を当座の火縄、薬口(くすりぐち)へぷッと吹きつけ、土間を目がけて、ぐっと引いた引金。  どかアん!  時ならぬ一発、おそろしい響きだ。忽ち煙が濠(ももつも つ)々と籠めた。        六  鉄砲の煙の雲霧(うんむ)の中に、久兵衛は仁王立ちになった。 「やい、何をしやあがる」  その声よりも、客の返事の方が大きかった。 「気は確かか、久兵衛さん。しっかりしておくんなさい。鉄砲を打ってしまったから、もう死 ぬにゃ及ばねえ。六両と二分拾って持って来た。雁だけは貰っておくよッ」  と、獲(と)った雁を懐中(ふところ)から出して、ぶらぶら振って見せた。 「え? 六両二分  」  と、久兵衛はぼうとした。  お松はにじり出て、おろおろ声で 「お助け下さいまし。六両二分さえあれば助かります。お貸し下さいますか。年貢の金でまことに困ってー」  女だから愚痴(ぐち)っぽく、ごたごたと云い出したが、客は1神戸から来た七助、 「貸すも貸さねえもねえ。久兵衛さんの金です。わたしが拾ったからここへ持って来たのだ。はい、六両二分」  とんと目の前に据えた縞の財布、鉄砲の煙の薄れて行く中にじっと眺めた久兵衛、 「あッ、おれの財布だ」  周章てた手つきで取上げ、中を見ると昨夜のままの六両二分! 「これはー1お松お松、か、金が返ったぞ。はあ、返った」  夫婦はふんぞり返った。 「久兵衛さん、それは今朝拾いました。証文を頼りに一身田の四日市屋へ行って、お前さんの 事を聞いて、又一散にここへやって来たんです。ああ、よかったよかった。お二人が死のうとなすった所へ、丁度間に合いましたねえ。それでは御免」  とばかり、七助はさつと表へ飛び出して行く。  七助の後から、久兵衛が飛んで行って、抱き止めた。 「これ、申し、御親切にお若いの、有難い。有難いけれど、死ぬ身に金はいりません」 「何を」 「拾ったらお前さんの物だ。さあ、持って帰って下さい」 「何? 馬鹿な事を云っては困る。死ぬ程の金じゃあねえか」 「いいや、死んでも年貢は出すものか」 「ふん、そんなら死になせえ」 「おお、殺してくれ。殺せえ」  と、わめく。大変なことになったもので、これには七助も、すっかり驚いたが、これも気が 荒いから、久兵衛を振り解(ほど)き、どんと突き倒して、 「この馬鹿親爺(ぱかおやじ)、長生きでもさらせッ!」  怒罵(どぱ)を浴せると共に、埃を蹴って逃げかけたが、 「あッ!」 と、すくんだ。四周(あたり)には人がたかっている。今の鉄砲の音で何事かと村人が出て来て、この取っ組み合いに二度びつくりしている様子だ。七助は人を掻きわけて走り出した。  目の色変えて久兵衛は、七助を追って行く。 「おい、若いの、おれを殺せ。金はいらねえ、久兵衛を殺せ。さあ殺せえ!」  追いかけている方が殺せと云う。いったい何の事だと、村人たちはあっけに取られて、ぽかんとした顔である。 「や、待て待て」  と、そこへ飛び出して来た男がある。それが久兵衛を後(うしろ)からむずと抱き止めた。 「誰だ、放せ」 「待った。久兵衛さんはお前か、死ぬには及ばないわさ」  久兵衛は気をいらった。 「放せ放せ」 「放すものか。これ、死んではいけない。もう首も吊せはしないよ。おれが六両二分持って来 た。俺は昨夜(ゆうべ)の俳諧師だ」 「昨夜の  あッ、首吊る所を邪魔した人か」  久兵衛、首をねじ向けて黄蝶を見てそう叫んだ。 「そうだ。後生だ、生きてくれ」  久兵衛をしっかり抱いている十徳姿の黄蝶宗匠、片手で自分の挟(たもと)から六両二分の包みを取り出し、それをむやみと久兵衛の懐中(ふところ)へねじこんだ。  久兵衛は悲鳴を上げた。 「ああ、又金か。お前さんも六両二分くれるのか。金はいらねえ。いらねったら」  その大声を、先へ走っている七助が聞いた。後をふりかえった。 「あジ、又六両二分と云っている。何だ  おやジ、又あの人に金を貰うのか」  と、のそりと元の方へ返って来る。  折柄津藩の町方役人たちが通りかかって、きつと目を光らせた。物騒な折柄、殺せ騒ぎに金の騒ぎである。 「御用だ」 「神妙にいたせ、御用」  これで久兵衛を初め黄蝶、七助、みんな捕えられてしまった。  お役所で奉行の調べを受けた。が、三人の申口はぴったり合っている。娘を売ってまで未進を納めようとした久兵衛の義務観念、人を助けようとした七助と黄蝶との善行、奉行は目を丸くして感心した。 「ああ、世はまだ澆季(ぎよもつき)ではないと見える。これこれ三人の者、そなた達は、あっぱれ世の中の 亀鑑(きかん)であるぞよ。定めて殿もお喜びに相なろう」  と褒(ま)めた。褒めながら、大きく肯(うなず)いて片手を上げ、いや出来(でか)した出来したという風、とんだ大岡越前(おおおかえちぜん)というところだ。  久兵衛は年貢を一年免ぜられる事になった。従ってもう死ななくともいいのである。  そして久兵衛、七助、黄蝶の三人とも、青縄(あおざし)五貫文に米五俵ずつの御褒美、夢かとばかり、はっと恐縮して喜んだ。  それから二三日後に、かの阿濃の松五郎一味の盗賊が捕えられ、黄蝶が強奪された十両の金も、不思議と戻って来た。  娘お半も父久兵衛のところへ芽出度(めでた)く戻って来た。  そして七助か黄蝶かに嫁入ったというと面白いが、その二人とも既に嫁のある身、これだけは小説で書くようにはいかなかった。  とさくさと重ね重ねの不思議なお芽出度-文化八年如月(きさらぎ)に起った伊勢のお話。 春陽文庫 捕物時代小説選集2