柵草紙の山房論文  我に問ふ、何故《なにゆゑ》に久しく文を論ぜざるかと。我は反問せむとす、何故に久しく論ずべき文を出《いだ》さゞるかと、我が文学上の評論をなさんといひし誓《ちかひ》は、今やいたづら事になりなむとす。其咎《そのとが》果して誰《た》が上にか帰すべき。  露伴子《ろはんし》はその著当世|外道《げだう》の面《めん》に於いて、柔弱者の口を藉《か》りて我に戯れていはく。鴎外は技術論者にして、唯《ただ》学校教師たるに適すと。是言《このげん》善《よ》く我《わが》病《へい》に中《あた》れり。然《しか》れども今の世のありさまは、文を論ずる人に理を説かしむるを奈何《いかに》せむ。こはわれ一人の上にはあらじ。  近刊の新聞雑誌中、論ずべき文少からざるべし。我眼豆の如く、葡萄《ぶだう》の如くにして未だこれを発見せず、幸《さいはひ》に今人が文を論じたる文数篇を獲《え》たれば、一日|千朶山房《せんださんばう》に兀坐《こつざ》して、聊《いさゝか》又これを論ず。(明治二十四年九月より十二月に至る)    逍遥子の諸評語        小説三派(小羊漫言七一面より)及梓神子(春廼舎漫筆一五一面より)  さきにわれ忍月《にんげつ》、不知庵《ふちあん》、謫天《たくてん》の三人を目して新文界の批評家とせしことあり。当時は実に此《この》三人を除きては、批評を事とする人なかりき。去年より今年(明治二十四年)にかけては、忍月|居士《こじ》の評|漸《やうや》く零言瑣語《アフォリスメン》の姿になりゆき、不知庵の評は漸く感情の境より出でゝ、一種の諦視《ていし》しがたき理義の道に入りはじめたり。独《ひと》り謫天|情仙《じゃうせん》のみ旧に依《よ》りて、言ふこと稀《まれ》なれども、中《あた》ること多からむことを求むるに似たり。この間別に注目すべき批評家二人を獲《え》つ。そを誰《たれ》とかする、逍遥子《せうえうし》と露伴子と即《すなはち》是《これ》なり。並《ならび》に是れ自ら詩人たる人にしあれば、いづれも阿堵中《あとちゅう》の味えも知らざる輩《ともがら》とは、日を同うして論ずべからざる由《よし》あらむ。われ固《もと》より善詩人は即好判者なりといふものならねど、自ら経営の難きを知るものは、猥《みだり》に杓子定規《しゃくしぢゃうぎ》うち振りて、■鑿《ぜいさく》[木偏に内]その形を殊《こと》にして、相容《あひい》れざるやうなる言をばいかゞ出さむ。二子の文を論ずるや、その趣相|距《さ》ること遠けれど、約していへば、逍遥子は能《よ》くものを容れ、露伴子は能くものを穿《うが》つ。左に少しく逍遥子が批評眼を覗《のぞ》かむ。  逍遥子の評能くものを容るとは何の謂《いひ》ぞ。答へていはく。批評眼も亦《また》哲理眼なり。人ありて哲学の一統《ジステム》を立つるときは、その時の人智の階級にて、及ばむ限のあらゆる事物は、合して一機関をなし、其理の動くところ、悉《こと%\》く其《その》源《みなもと》に顧応せでは協《かな》はじ。批評も亦|然《さ》なり。能くものを容るゝ批評は、其標準の完美なること想ふに堪へたり。劉海峰《りうかいほう》のいはく。居高以臨下《たかきにをりてもってしたをのぞめば》。不至於争《あらそふにいたらず》。為其不是与我角也《そのわれをくらぶるにたらざるためなり》。至於才力之均敵《さいりょくのてきとひとしきにいたりて》。而惟恐共不能相勝《たゞそのあひまさるあたはざるをおそれ》。於是紛緑之辮以生《こゝにおいてふんうんのべんもってしゃうず》。是故知道者《このゆゑにみちをしるものは》。視天下之岐趨異説《てんかのきすういせつをみて》。皆未嘗出於吾道之外《みないまだかつてわがみちのそとにいでず》。故其心恢然有余《ゆゑにそのこゝろくゎいぜんとしてあまりあり》。夫恢然有余《それくゎいぜんとしてあまりあれば》。而於物無所不包《ものにおいてつゝまざるところなし》。蓋《けだし》逍遥子が能くものを容るゝは、その地位人より高きこと一等なればなるべし。  逍遥子は演繹《えんえき》評を嫌ひて、帰納評を取り、理想標準を抛《なげうた》たむとする人なり。然れども子も亦我を立てゝ人の著作を評する上は、絶て標準なきこと能《あた》はじ。われ其小説三派及|梓神子《あずさみこ》をみて、その取るところの方鍼《はうしん》を認めたり。  逍遥子の小説三派とは何をか謂ふ。其一を固有派又主事派又物語派と名づけ、次を折衷派又性情派又人情派と名づけ、末なるを人間派と名づく。  固有派は事を主とし、人を客とし、事柄を先にし、人物を後にす。主人公をば必ずしも設けず、たま/\これを設けても、事の脈絡を繋《つな》がむ料にしたるのみ。されば大かたの事変は、主人公の性行より起らしめずして、偶然外より来らしむ。是《こゝ》に於て人物は客観なり。此派の作者は俗にいへる三世因果の説を理想とし、若くは天命の説を理想とするなり。我《わが》曲亭、種彦《たねひこ》などに此流義ありて、外国にては、中古の物語類はいふも更なり、スモオレツト、フイヽルヂングなど此派に属し、スコツト、ヂツケンスといへども間々これに近し。此派は人に配すれば支体の如く、画《ゑ》に配すれば文人画の梅の如く、学問に配すれば常識の如し。  折衷派は人を主とし、事を客とし、事を先にし、人を後にす、人を主とすとは、人の性情を活写するを主とする謂《いひ》にて、事を先にするは、事によりて性情を写さむとすればなり。此派にては人物は主観なり。但し事と人との間には、主客後先あるのみなれば、人物必ず主観なるにはあらず。サツカレエなど此派に属したり。スコツト、ヂツケンス等は固有派と此派との間に跨りたり。物に譬《たと》へていへば、人に配して五感の如く、画に配して一枝の梅の密画の如く、学問に配して理学の如し。  人間派は人を因とし、事を縁とす、その因とするところは人の性情にして、その縁とするところは事変なり。此派の小説にては、先づ人を因とし、事を縁として一果を写し、此果若くは他の事変をも合せて縁として更に一果を写し、其果若くは他の新事件をも合せて縁として更にまた一果を画き、終に大詩の大破裂若くは大円満に至りて休む。ギョオテ、シエクスピイヤの如し。近世の魯独《ろどく》などに此派多し。物に譬《たと》へていはむに、人に於ては魂の如く、画に於ては油画の梅の如く、学問に於ては哲学の如し。  以上は逍遥子が小説三派の差別なり、あはれ此けぢめをばいしくも立てつるものかな。今の文界に出でゝ、小説の派を分たむとせしもの多しといへども、何人か能くそが右に出でむ。われ嘗てゴツトシヤルが詩学に拠《よ》り、理想実際の二派を分ちて、時の人の批評法を論ぜしことありしが、今はひと昔になりぬ、程経て心をハルトマンが哲学に傾け、其審美の巻に至りて、得るところあるものゝ如し。その頃料らずも外山正一氏の画論を読みて、我《わが》懐《いだ》けるところに衝突せるを覚え、遂《つひ》に技癢《ぎやう》にえ禁《た》へずして反駁《はんばく》の文を草しつ、かゝればわれはハルトマンが審美の標準を以て、画をあげつろひしことあれども、嘗て小説に及ばざりき。今やそを果すべき時は来ぬ、いで逍遥子が批評眼を覗《のぞ》くに、ハルトマンが靉靆《めがね》をもてせばや。  夫《そ》れ固有と云ひ、折衷と云ひ、人間と云ふ、その義は皆ハルトマンが審美学の中に存ぜり。今多くその文を引かむもやうなし。唯《たゞ》爰《こゝ》にハルトマンが哲学上の用語例によりて、右の三目を訳せば足りなむ、固有は類想《ガッツンスイデエ》なり、折衷は個想《インヂヰヅアルイデエ》なり、人間は小天地想《ミクロコスミスムス》なり。  逍遥子のいはく、固有派にては、甲人に於ける天命も、乙人に於ける天命も、汎然《はんぜん》漠然《ばくぜん》として一なるが如く、平等の理はあれども、差別の実なし。死したる概念はあれども活きたる観念はなく、「ゼネラリチイ」はあれども、「インヂヰヂユアリチイ」はなし、所謂《いはゆる》固有派の死したる概念を具ふるところ、「ゼネラリチイ」を存ずるところ、これをこそハルトマンは類括の意を取りて類想と名づけたるなれ。折衷派にいたりては、逍遥子活きたる観念ありといひ、「インヂヰヂユアリチイ」ありといふ。是れハルトマンが個々の活物の意を取りて個想と名づけたるものにあらずしてなにぞや。所謂人間派に至りては、人事の間に因果現然として、個人を写すは是れ個人のために写すならず、写すところは捕来《とらへき》たる個人の不朽の象なり。この象や露伴子の所謂霊台の真火、宇宙の命根の聖火と相触着して、以て一条の大火柱を成せるところに生ず。(美術世界の題言)ハルトマンが個物の能く一天地をなして、大千世界と相呼応するところより、小天地想と名づけしは是なり。  然はあれど固有、折衷、人間の三目は逍遥子立てゝ派となしつ、類想、個想、小天地想の三目は、ハルトマン分ちて美の階級としつ。二家はわれをして殆《ほとんど》岐に泣かしめむとす。  ハルトマンが類想、個想、小天地想の三目を分ちて、美の階級とせし所以は、其審美学の根本に根ざしありてなり。彼は抽象的《アブストラクト》理想派の審美学を排して、結象的《コンクレエト》理想派の審美学を興さむとす。彼が眼にては、唯官能上に快きばかりなる無意識形美より、美術の奥義、幽玄の境界なる小天地想までは、抽象的より、結象的に向ひて進む街道にて、類想と個想(小天地想)とは、彼幽玄の都に近き一里塚の名に過ぎず。  ハルトマンのいはく。類想の鋳型《いがた》めきて含めるところ少く、久く趣味上の興を難ぐに堪へざること、真の美の僅《わづか》に個想の境に生ずることをば、今や趣味識の経験事実なりといひても、殆《ほとんど》反対者に蓮はざるべし。類想の模型には尽くる期あり。後れて出づる美術家は様に依りて胡盧《ころ》を画くことを免れず。(審美学下巻一八七面)ハルトマンは類想を卑みて個想を貴みたり。  ハルトマンのいはく、個物には階級あり。高下一様ならず。その最《いと》低きものと最《いと》高きものとは、人の観念の及ばざるところなれば、個物を見るごとに、これより高きものなきことなく、又これより低きものなきことなし、個物は高しといへども類にあらず。個物は具実せるものにて、類は抽象したるものなり。最高最下の間なる個物は、おのれより下れる個物を包みて肢節《しせつ》とすること、大天地想の世にありとあらゆる個物を包みて肢節とする如くなり。彼は梯《はしご》を隔てゝ大天地を望めり。されば個想は絶対結象の想にあらざるゆゑに分想《バルチャアルイデエ》なれども、又小天地の完想として見らるべし。(同上一九五面)ハルトマンは真の個想を、おのづから小天地想たるべきものと看做《みな》したり、蓋《けだし》人事の間に後先ありて因果なきは、因果なきにあらず、因果のいまだ充分にあらはれざるものにて、小天地想ならざる個想は、即是れいまだ至らざる個想ならむのみ。  逍遥子とても、固有、折衷、人間の三目を立てゝ流派とせしは、あながち尊卑を其間に置かざりしにはあらざるべし。折衷派だに稀なる今の我小説界にて、人間派を求めむは、文学に忠誠なる判者の事にあらずとやうに、時の務《つとめ》をおもひて、迂濶《うくゎつ》なる批評家をおどろかさむとしたる蹟《あと》、歴々として見ゆるならずや。  されば逍遥子が類想、個想、小天地想といふ美の三級を藉《か》りもて来て、今の文界の衆生《しゅじゃう》のために、盛《さかん》に小乗を説きしは、おそらくは是れ作者あはれとおもひてならむ、批評家憎しとおもひてならむのみ。逍遥子は類想の固有派、個想の折衷派、小天地想の人間派の別を立て、さて獅子吼《ししく》をなしていはく。此別を非なりとする人あらむ平《か》。其人は事物の平等を見て、差別を見ざる人なり。世に絶対あるを知りて、相関あるを知らざる人なり。一あるを知りて、万億あるを知らざる人なり。国家あるを殉りて、われあるを知らざる人なり、我あるを知らざるは死せるなり、死灰なり。現《げ》に類想、個想、小天地想の別だに知らで、批評の業に従ふ輩《ともがら》は、かく叱咤《しった》せられむも可なるべし。然れども彼三派に優劣なしと見よといはばいかに。  逍遥子は類想派は常識の如く、個想派は理学の如く、小天地想派は哲学の如くなりといへど、若《もし》譬《たとへ》を進めて、哲学は科学の親なるゆゑに、小天地想派は常に個想派に優れり、常識は科学の材たるに過ぎねば、類想派は最下なりといはば、大《おほい》なる僻事《ひがごと》ならむといへり。われおもふに恐らくは然らず、哲学は科学の親なる如く、個想に小天地の義あり、ダルヰン、ハツクスレエが説、謬妄《びうまう》哲理に優りたるはダルヰン、ハツクスレエが説の中に世界の真理あればなり。謬妄哲理の彼等が帰納説に及ばざるは、その謬妄なるためにて、苟《いやし》くも近世の哲学統といはれむ程のものは、ダルヰン、ハツクスレエが説をも容れざるべからず。(ハルトマンが「ダルヰニスムス」の論を見よ)類想の卑《ひく》きは模型に尽くる期ありといひしハルトマンが言を見ても知るべからむ。逍遥子は想に縁《よ》りて派を立て、これを梅桜の色|殊《こと》なるに比べ、類想派の作家に向ひて、個想派の作を求めむは、ふりたる梅園に向ひて其花の桜ならざるを笑ふ如しといひ、今の批評家を烏許《をこ》の風流雄なりといへり、夫れ逍遥子が一昧の雨は、もろ/\の草木を沾《うるほ》すに足りなむ。然れども類想と個想との別はおそらくは梅と桜との別に殊なるべし。花に譬へていはゞ、類想家の作も個想家の作も、おなじ桜なるべけれど、かなたは日蔭に咲きて、色香少く、こなたは「インスピラチオン」の朝日をうけて、匂《にほ》ひ常ならぬ花の如しとやいふべからむ。日蔭に生《お》ふる桜に向ひて、色香深き花を求めむは無理ならむ、その花の色香少きを評せむは、必ずしも無理ならじ。逍遥子は嵐《あらし》に似たる批評家の花に慈《じ》ならざるを怪めども、われは逍遥子が花に慈なるに過ぎて、風を憎むことの太甚《はなはだし》きを怪めり。若批評の上に絶て褒貶《はうへん》なかりせば、我文界はいとど荒野とやなりなむ。  逍遥子は我文界に小天地想の人間派なきを認めぎ。(我国はいまだギョオテ、シエクスピイヤを出さず)逍遥子は我旧作家を以て類想の固有派に属せりとなし、我新作家を以て未だ至らざる個想の折衷派となしつ。われは此評の殻を噛砕《かみくだ》きて、其肉の甘さと其|核《たね》の苦さとを味ふ、人間派なきは大詩人なきなり、妙手なきなり、旧作家の固有派に属するは、其凡子なるためなり、新作家の折衷派に属するは、其小家数たることを免れざるためなり。かの不知庵のあるじが如く、今の我国の小説家には、等級ありといへばえに、言はずして流派を立てつるは逍遥子なり、具眼の人誰かこの肉中の核を認めざらむ。  或《ある》ひとのいはく、逍遥子はげに今の我文界に人間派な書を認めき、されど其言にいはずや。嘗て「ミツドル、マアチ」を見しに、ジョルジ、エリオツト女史が作に人間派の旨に極へるところあり。其外にもおなじ派を汲《く》む人ありや知らねど、英国にての人間派詩人はこれのみならむも計り難かり。夫の近世の魯独にこそ人間派の小説家も多しとは聞きつれ、そもいと近きほどの事なり。又|仏蘭西《フランス》なる諸作家バルザツク、ユウゴオ、ゾラ、ドオデエの徒は、或は人情派の界《さかひ》を超えて、人間派に入れりともいふべからむが、これとてもまた近世の作家なり。詮ずるところ人間主義の小説界に入りしは、十九世紀に於ける特相といふも誣言《ふげん》にあらじ、尚《なほ》いと穉《おさな》きほどの顕象なり云々。是れ人間派は新きものにて、漢学者若くは御国まなびせし人の小説家になりたるに向ひて、人間派に入れといはむことの理なきを明にしたるにあらずや、こはまことに其故ある事なり。然れども逍遥子は別に世相派といふものを立て、これにホオマアを算したるなり。彼《か》の漢学者若くは国学者たる小説家に対して求むべきは、此種叙事詩の大作なるべし、これその推理上能くすべきものなればなり、又東洋に個物主義《インヂヰヅアリスムス》なしといはむか、これは屡聞えし説なり、ヨハンネス、シエルいはく。東洋戯曲の最偉なるは印度詞曲なれど、印度詞曲の雄は、遂に此詩体の質を知らざりき。蓋戯曲の質は、個人がみづから自在にものを定むる性より生ず。惜むらくは東洋の霊魂は、かゝる個物主義を得るに至りしこと、絶てなかりき、(世界文学史一の巻一七面)是れ東洋に個想なかりきといふ説の一例なり、吾邦の詩人には果して真に個想なかりしか。ギョオテ、シエクスピイヤが詩に見えたる如き個想なかりしか。若無くば、小天地想を美の極意とする立脚点より見て、吾邦古来大詩人なしといはむのみ。世の批評家に大和魂《やまとだましひ》ありて、古来なかりし大詩人を今の文界に求めむとせば、われ唯これを壮なりといはむ。  小説三派の外、逍遥子は別に詩の二派を立てたり。其一を叙情派又理想派といひ、其二を世相派又造化派といふ。  叙情派は理想を宗とす、理想とは心の世界なり、虚の世界なり、此派の詩人は我を尺度として世間を度《はか》る。彼は理想の高大円満ならむことを望み、自家の極致の其作の中に飛動せむことを期す。其小なるや、一身の哀観を歌ふに過ぎざれども、其大なるや、作者|乾坤《けんこん》を呑《の》みて、能く天命を釈《ときあか》し、一世の予言者たることを得べし。其さま猶雲に冲る高嶽のごとく、弥《いよ/\》高うして弥|著《いちじる》し。其さまは又猶万里の長堤のごとし。遠うして更に遠しといふとも、詮《せん》ずるに踏破しがたきにあらず。ダンテ、マアロオ、ミルトン、カアライル、バイロン、ヲオヅヲオス、ブラウニング等は家数に大小ありといへども皆叙情詩人なり。  世相派は自然を宗とす。自然とは物の世界なり、実の世界なり。此派の詩人は我を解脱《げだつ》して、世間相を写す、その望むところは、作者の影空くして、ひとへに世態の若からむことなり、其小なるや、管見の小世態を写すに止まれど、其大なるや、能く造化を壷中《こちゅう》に縮めて、鎮《とこしなへ》に不言の救世主たらむ。其状猶辺なき蒼海《さうかい》のごとく、弥大にして弥|茫々《ばう/\》たり、又猶底知らぬ湖のごとし。深うして更に深く、遂に其底を究《きは》むべからず、ホオマア、シエクスピイヤ、ギョオテ、スコツト、エリオツト等は、家数の大小こそ相殊なれ、此派の詩人なり。  逍遥子が叙情、世相の二派は、ハルトマンが審美学上、叙情詩、叙事詩の二門に当れり。  ハルトマンのいはく。叙情詩は客観の相に勝ちたる主観の情を以てその質とす、その客観の相を捕来るは、感情の主観を高うもし、深うもせむとてのみ。(下巻七四五面)是れ豈《あに》逍遥子が所謂、我を尺度として世間を度《はか》るところにあらずや。  又いはく。叙事詩は客観相を以て、その偏勝の質とす。その主観の情は、唯|半《なかば》掩《おほ》はれてかすかに響きいづるのみ。(同所)是れ豈逍遥子が所謂、我を解脱して世間相を写すものにあらずや。  ハルトマンは此二門の外に、戯曲門 Dramatik を立てゝいはく、叙情詩にては、主観の情、客観の桐に勝ち、叙事詩にては、客観の相、主観の情に勝ちたれども、戯曲に至りては、情と桐との平均を取戻さむとす。さればヘエゲルが審美学にて、戯曲は叙情、叙事の二門にて偏勝したる両義を合併したりといへる、固より善し。唯キルヒマンが戯曲の叙情、叙事の二詩門に殊なるは、場に上せて興行すべきところにありといひしも、亦未だ嘗て善からずばあらず、(同所)逍遥子が「ドラマ」はこれに殊なり。固有、折衷、人間の三派を分つときは、人間派を以て、最狭き意義にていふ「ドラマ」の結構とす。これに対する叙事詩は固有派に属し、折衷派は「ドラマ」と叙事詩との界に立てり。その叙事詩となるは、事を先にすること董きときにして、その「ドラマ」となるは人を主とすること重きときなり。又叙情、世相の二派を立つる生きは、世相詩人を以て「ドラマチスト」とし、以て叙情詩人の「リリカル、ポエト」に対したり。人間派の旨、若小天地想に在らば、是れ叙情詩、叙事詩、戯曲の三門を通じて求めらるべきものなれば、われこれに配するに「ドラマ」を以てせむことを欲せず。彼客観相をして偏勝せしむる世相詩人の作、即没主観惰詩(梓神子にいはゆる没理想詩)は、もとより相と感と並び至らむことを望める戯曲にあらざれば、これを「ドラマ」といはむも亦願はしき事にあらじ。  [#2字下げ]因《ちなみ》にいふ、国会文苑に出でし戯曲論中、戯曲の標準の条にて、忍月居士は逍遥子の所謂「ドラマ」をさながらに戯曲のことゝ看做《みな》して反駁を試みつ。こは逍遥子が言に、今の批評家狂言作者に向ひて「ドラマ」を求むるは底事《なにごと》ぞとありしに据《よ》りたるなるべし。されど逍遥子が所謂「ドラマ」には、単に戯曲といはむよりは広き義あり、忍月居士はそを認めざりしにや。  逍遥子が叙情、世相の二派、ハルトマンが叙情詩、叙事詩の二門に当れることは既にいひき。然れども更に其区別の立てかたをとみかうみるに、いまだ其義を悉《つく》さゞるところあらむを恐る。われ思ふに所謂叙情と世相との目には、別に普通の意義にて理想、実際の両語に当れるところあるべし。  ゴツトシヤルのいはく。造化を模倣《もはう》し、実を写すことより出づるを実際主義といひ、理想の世界、精神の領地より出づるを理想主義といふ。(詩学上巻九九面)是れ逍遥子が所謂自然を宗とする世相派と理想を宗とする叙情派とに通へり。又いはく。実際主義に偏したるものは、心なき造化を宗としたる美術品を得べく、理想主義に偏したるものは、造化なき心を宗としたる美術品を得べし。(同所)是れ逍遥子が所謂管見の小世態を描くものと、一身の哀観を歌ふものとに近し。  ハルトマンは理想派、実際派の別を認めず。彼は抽象を棄てゝ結象を取り、類想を卑みて個想を尊めり。嘗て美術の革命を説いていはく。革命者実際主義といひ、自然主義といふものを奉ずるは、其仮面のみ。自然には個物ありて類なし。この故に美術を以て模倣となすは、固より謬見なれど、其謬見中にては自然を模倣せむとするこそ抽象したる類型を模倣せむとするに優りたれ、類には実なくして個物には実あり。この故に極致をみだりなりとして、実を美術の材にせむとするものは、おのづから類想を遠離《とほざか》りて個想に近寄らむとす。革命者の勢力は其源、小天地想に在り、その妄なりとして棄てし極致は類の極致のみ。革命者は類の極致の外、別に個物の極致あることを知らざるなり。美は実を離れたる映象なれば、美術に実を取らむやうなし、想の相をなすとき、実に似たることあるは、偶然のみ。個物の美、類の美より美なるは、実に近きためにあらず。実の美なること類美の作より甚しきは、実の緒象したる個物に適へること作に勝りたればなり。(審美学下巻一八八及一八九面)  われおもふに所謂理想主義を叙情詩の門の専有に帰し、所謂実際主義を叙事詩の門の専有に帰する如きは恐らくは妥《おだやか》ならざる論ならむ、理想主義の類想を宗とする弊、実際主議の個想を宗とする利、いづれも叙情詩、叙事詩、戯曲の三門を通じて見るべきものなり。おもなる事を少し挙げて、詩の映象|躍如《やくじょ》たる理想主義の利と、瑣事《さじ》を数ふること多くして聴者を倦《う》ましむる実際主義の弊とも亦然なり。(下巻七一八面)逍遥子がホオマア、シエクスピイヤ、ギョオテの三家を世相派の実際主義を秉《と》るものに列せしは、ゴツトシヤルがおなじ三家にジヤン・ポオルを加へて実を役する理想主義、即ち真の実際主義を秉るものとせしと、殆符節を合する如し。(詩学上巻一〇二面)若実際主義にして叙事詩の門の専有に帰すべきものならば、此群に入りたるギヨオテは、こゝに洩れたるシルレルなどより立超えたる叙情詩の大家たらむ様なかるべきをや、(姑《しばら》くフイツシエルに拠る、審美学三の巻一三五二面)  逍遥子は叙情、世相の二派を立てたる標準を以て、我国の節秦文を批評し、上は短歌、長歌より下は連歌、俳諧《はいかい》、謡曲、浄瑠璃《じゃうるり》に至るまで、(浄瑠璃のある部分を除く外は)おほむね理想詩(叙情派)に罵すといひて、世相派の詩少きを歎《なげ》きつ。こゝに所謂理想詩をば、類想詩と解しても善かるべく、又(謡曲、浄瑠璃をも除かば)叙情詩と解しても善かるべし。  [2字下げ]因に云ふ、逍遥子が梅花道人を楽天詩人なりとせしは面白し、ハルトマンが詩統よりいひても、梅花道人が詩は慥《たし》かに楽天詩なるべし、下に詩統の略図を示せり。 詩   読詩     吟詩 Lesepoesie. Vortragspoesie. (小説)  戯曲   叙事詩 叙情詩 Dramatik。Epik。Lyrik。 戯曲的叙情詩 叙事的叙情詩 叙情的叙情詩  観世の詩   感境の詩   触興の詩 Contemplative Situations- Stimmungs-   Lyrik.    Lyrik.   Lyrik.  楽天及厭世の詩 Axiologische Lyrik.  [2字下げ]又云ふ。忍月居士はみづからハルトマンを祖述すと称しながら、小説三派及梅花詞集評を読みしときは、忽《たちまち》認めて人と事とにおなじおもさをあたふるものとなし、(国会、人物と人事)忽又認めて事を従とし、人を主とするものとなしつるのみ、(同新聞、人物、人事に就きて逍遥先生に寄すと題したる文及此頃の文学界)かくてなほハルトマンを祖述すといはむはいとなん影護《うしろめた》かるべき。  逍遥子が前の三派、後の二派に就きては既に論じ畢《をは》んぬ。これよりは其批評の標準を措いて、其批評の手段に及ばむ。  逍遥子おもへらく、批評は著作の本旨の所在を発揮することをもて専とすべし、帰納的なるべし、没理想的なるべし。モオルトンが唱ふる如く、科学的なるベし、標準に拘泥することなかれ、手前勘の理想を荷《かつ》ぎまはることなかれ。嗜好《しかう》にあやまたるゝことなかれ。演繹的なることなかれ、芋虫一疋を解剖するにも、人間を解剖するにおなじく、其間に上下優劣をおかぬ動物学者の心こそ頼もしけれ、批評とはもと褒貶《はうへん》の謂《いひ》にあらず。  こは実に今の批評家の弊を撓《た》むる論なり。唯夫れ弊を撓むる論なり。かるが故に〓《やや》偏なるにはあらずやとおもはるゝふしなきにあらず。凡《おほよ》そ世の中にて観察《ベオバハツング》と云ひ、探究《フォエウシュング》と云ふ心のはたらきには、一つとして帰納法の力を藉《か》らざるものなし、人の著作を批評せむとするときも、先づ観察し、探究せではかなはじ。是れ科学的手段なり。是れ帰納的批評なり。然《しか》はあれど観察し畢り、研究し畢りて判断を下さんずる暁には、理想なかるべけむや、標準なかるべけんや、理想とは審美的観念なり。標準とは審美学上に古今の美術品をみて、帰納し得たる経験則《エムビリイ》なり。唯《たゞ》哲学者は経験則を経験則として応用せず、これをおのが哲学統裡に収めたる上にて活かし使はむとするのみ。審美的観念は拉甸《ラテン》人が争ふべからぬものと定めし一人々々の嗜好にあらず、学問上にあきらめ得たる趣味なり、「エステジス」なり。拘泥すればこそ標準を憎め。手前勘なればこそ、杓子定規なればこそ理想を厭《いと》へ、〓《いもむし》[#虫蜀]を昆虫なりといひ、拙《つたな》き小説家を固有派なりといふときは、其際におのづから褒貶存ず。是れ演繹的批評ならざらむやは。  逍遥子又いへらく。批評家は猶植物家の植物を評する如く、動物家の動物を評する如く、理想を離れて其物を評すべしといふのみなり、それの某《なにがし》は世に益あり、又は益なしといふは、当世又は未来世に対しての評判なり、これは科学的批評にあらずして、実地応用批評などゝいふべし、純粋評判と応用評判とは殊なり。  これも亦今の批評家の弊を撓むる論なり、その偏なるが如き迹あることは、上の帰納、演繹の辯におなじ、われおもふにおほよそ世の中に、用と無用との別ほどむづかしきものはあらじ、物物而責之用《ものをものとしてこれがようをせむれば》、用亦窮矣《ようもまたきゅうす》と東坡《とうば》外伝の首《はじめ》に題せし西疇子《せいちうし》が言もおもはるゝは、二三の新聞の文学を視るこゝろの狭さなり。文学国を滅ぼすといふものあり。(読売)文士は楽隊の如し、事あるときは何の用をもなさずと罵るものあり。(中新聞)美を度外に視ること能はざる人性を知らず、趣味の高卑より国民の文野分るゝことを知らぬ人々なればこそ、かゝる決断をなすならめ。如法《にょほふ》これ等の輩に向ひては、慮用評判を斥《しりぞ》けて、純粋評判を勧むる逍遥子が言、大に開発の功を秦するなるべし、然はあれど必ず用を問はじといふも科学的手段を講ずるものゝ迷ならまし。動植をきはむる学者の心は、世の常の用をばげに問はざるべけれど、進化説を唱ふる人は、微虫を解剖するときも、おのれが懐《いだ》ける説の旨に〓《かな》[りっしんべん]はむことを願はざるにあらず、唯科学の公心あるをもて、預期せしところに反せし寧実をも、言はで止む、こときことなからむのみ。生物の最微なるを細菌とす、世界第一の細菌学者コツホはつねに其徒に誨《をし》へていはく。利害なき細菌を取りて、一々種を定め名を命ぜむはいともおろかなるべしと。されば膠中《かうちゅう》に栽ゑたるとき、紫色を見する水中の細菌、立派なる拉甸《ラテン》名を得たるは、利害なき中にても、その紫の色に出にければなりかし。今の小説界に入りと入りぬる人の作を取りて、一々燭を解く労を取らむこと、さりとては難義ならむか。われは逍遥子が縦令《たとひ》その量をせばめず生も、少しく用の有無を顧み、利害なき「バクテリヤ」を措《お》いて、蝶になるべき[#虫蜀]を取り、再びは世の無頼子に牛刀鶏を割く(文苑)といはれざらむを望む。  逍遥子はまた世の批評家が二千余年前に死せし人の肋骨《ろくこつ》を息杖にして、アリストテレエスなどが言を引用ゐるを笑ひき、こは真の卓見なり。然はあれど審美学の道理には、アリストテレエスが詩学にて早くも充分に発揮せられたるものなきにあらず。レツシングがハムブルクにありて、二千零八十九年餉に死せしアリストテレエスを引きけむも、吾人が今年の文界に立ちて、二千二百十三年前に死せしアリストテレエスを引かむも、おそらくは大なるけぢめなかるべし。支那学者が道徳を説きて、いつも先王の道といふを笑ふものはさはなり。されど独逸《ドイツ》の民がいまもユスチニヤンの法典を参考律《ズブジヂエエル》にするを笑ふを聞かず。是れ識者のつら/\慮《おもんぱか》るべきところなり。モオルトンはげに新なるべし。セント・ブウウはげに近かるべし、されどアリストテレエスも廃つべからず。  [2字下げ]自ら註す。梓神子の取次の翁が言を、直に逍遥子が言とせしを疑ふ人もあるべし。されど作家が言と作家が其作中の人にいはしむる言とは、時ありて大差なきをば、フイツシエルも断言せしことあり、(流俗及|褻語《せつご》一四七面)況や逍遥子はさゝのやみどりに対して、わが批評に関しての意見は、近頃の読売新聞に、戯文もてほゞいひ顕しおきぬといひしをや。(文苑、明治二十四年九月) (明治二十四年九月) 早稲田文学の没理想  逍遥子この頃記実家となりて時文評論を作る、時文評論とは早稲田文学の一欄にして、現実を記するを旨とするものなり。逍遥子は何故に記実家となりたるか。曰く談理を嫌《きら》ひてなり。逍遥子は何故に談理を嫌へるか。曰く理の実より小ならむことを慮《おもんぱか》りてなり、理想世界の現実世界より狭からむことを思議してなり。その言にいへらく、今の談理家の言ふところは空漠にして、その見るところは独断に過ぎず。今の談理家はおの/\おのが方寸の小宇宙に彷徨《はうくゎう》逍遥して、我が思ふところのみを正しとし、これを尺度として大世界の事を裁断せんとす、そのさま恰も未だ巨人島にわたらぬガリワルの如く、また未だガリワルを見ざる「リリビュウシヤン」の如く、豕《いのこ》を抱いて臭きことを忘れ、古井の底に栖《す》みて天を窺《うかゞ》ふ。かゝる小理想家の説くところ何のやくにか立たむと。  逍遥子はかく理を談ずることを斥けたり。されどその理を談ぜざるは、談ぜざるを以て談ずるなり。その作るところの時文評論は評論にあらざる評論たらむとす。その人を教ふる手段にいはく、我は実を記して汝《なんぢ》に帰納の材を与ふ。汝が眼、汝が心はおのづからこれを帰納して、明治文学の活機を悟り、以て明治文学大帰一大調和の策を立てよ、汝の機を悟り策を立つることを得るに至るは、或は遅からむ。そは我手段の劇薬ならざるためなり、持薬たるためなりと。  時文評論を読む人は、いづれの処よりか此大帰納力を得来たるべき。いはく心中没理想これなり。時文評論を書く人は、いづれの処よりかその大記実法を得来るべき、いはく常識これなり、常見これなり。  常識、常見の何物なるかは、よくも知らず。逍遥子はたゞ「コンモン、センス」といふ一英語を示しゝのみなればなり。没理想の何物なるかはシエクスピイヤ脚本評註の緒言に見えたり。その言にいはく。進化は無心なり。自然は善悪のいづれにも偏《かたよ》りたりとは見えず、固より意地わるき継母の如きものとも見えねば、慈母とも見えず。さるに数奇失意の人は造化を怨み、自然を憤りて、此世を穢土《ゑど》と罵《のゝし》り、苦界と誚《そし》るなり。さて亦得意の人はこれに反して造化を情深き慈母のやうにおもひて、此世を楽園とおもへり、必竟《ひっきゃう》人々の思做《おもひな》し次第にて、苦とも楽とも見らるゝが自然の本相なり。此故に造化の作用を解釈するに、彼宿命教の旨を以てするも解し得べく、又耶蘇教の旨を以てするも解し得べし。其他老、荘、楊、墨、儒、仏若しくは古今東西の哲学者がおもひ/\の見解も、これを造化にあてはめて、強《あなが》ち当らざるにあらず、否、造化といふものは、此等無数の解釈を悉《こと%\》く容れても餘あるなり。祇園精舎《ぎをんしゃうじゃ》の鐘の声、浮屠氏《ふとし》は聞きて寂滅為楽の響なりといふべきが、待宵《まつよひ》には情人が何と聞くらむ。沙羅双樹《さらさうじゅ》の花の色、厭世の目には諸行無常の形とも見ゆらむが、愁《うれひ》を知らぬ乙女《おとめ》は何さまに眺むらむ、要するに造化の本意は人未だこれを得知らず、只おのれに愁の心ありて秋の哀《あはれ》を知り、前に其心楽しくして春の花鳥を楽しと見るのみと。  造化既に没理想なり。造化に似たる没理想の詩を作るものは大詩人なるべし。こゝに於いてや人にはシエクスピイヤを取り、体には「ドラマ」を取る。シエクスピイヤがバイロン、スヰフトより大なるは彼は理想なく、此はおのが理想をあらはせばなり。「ドラマ」の小説より全きは、彼は理想なく、此は作者の理想を含みたればなり、作者能く理想なきに至るときは、人に神の如くにもおもはれ、聖人の如くにもおもはれ、至人の如くにもおもはるべし。近松も没理想なり。彼も境遇次第にては、たとひシエクスピイヤには及ばずとするも、我国の浄瑠璃作者にて終らむよりは迥《はるか》に優りたる位地に上りぬらむ。「キング、リヤア」の悲劇は馬琴の作に似て勧懲の旨意いと著《しる》く見えたれども、作者みづからが評論の詞、絶えて篇中になきゆゑ、見るものゝ理想次第にて強《あなが》ち勧懲の作と見做すを要せず、別に解釈を加ふること自在なり。然るに曲亭の作を見れば、例へば蟇六《がまろく》夫婦の性格の如き、頗《すこぶ》る自然に似て活動したれども、作者叙事の間にて明《あきらか》に勧懲の旨なりといへれば、人も亦これを没理想と評すること能はずと。  夫れ造化既に没理想なり、作者と詩と皆没理想になりたれば、逍遥子が没理想の時文評論を作れるも宜《むべ》なり。世の批評家はおほしといへども、逍遥子がこたびの大議論を聞きては、皆口をつぐんで物言はず。偶々《たま/\》物言ふ人ありといへども、唯賞讃のこと葉を重ねて、真価を秤らむとするに至らず。(青年文学第一の成語)平生批評を専《もっぱら》にせざる人々の中には、多少これに対して意見を述べたる人ありといへども、大抵|片言隻句《へんげんせきく》にして、人の心をあかしむるに由なし。おのれも大同小異の見を懐いたれば、自然、没理想の論に少からぬ同意を表したしといふは美妙斎なり。(国民新聞)読者の没理想をたのみて、時文評論を評論ならぬ評論となし、記実となすと聴きて、これに服したるは漣《さざなみ》山人なり。(読売新聞)シエクスピイヤを没理想とする論、若し逍遥子が独造の見ならば、これを欧文に訳して欧人に見せまほしといふは抱一庵主人なり。(報知新聞)この三人はおもなる讃者なるべし。撫象子のいはく、シエクスピイヤが理想はいと大きやかなりしを見て、没理想なりといふは誤なり。シエクスピイヤは予言者なりき。予言者とは大理想家をいふなりと。(文学雑誌第二九〇号)これを一人の難者とす、不知庵主人のいはく、没理想は極めて好文字なり。然れども春の屋は没理想といふ理想を立てたるなり。最れ或《あるひ》は真理に近からむかは知らねど、われ未だ遽《にはか》に同意することを得ずと。(国民新聞)これを一人の蜘〓者《ちちゅしゃ》[虫厨]とす。実を記して評論に代ふる逍遥子が趣意に漣山人の服せしを、特書して表《あらは》しいだしゝ正直正太夫といふものあり。(国会)これを一人の傍観者とす。  こゝに烏有《ういう》先生といふ談理家ありけり、理を談ずることを旨とする一大文学雑誌を発行せむとおもへども未だ果さず、烏有先生は何故に談理家となりぬるか。曰く記実にあかでなり。鳥有先生は何故に記実にあかざるか。曰く万有と万念と一に帰せしむべきことをおもひてなり、造化の無理性にしてまた有理性なるを思議してなり。その言にいへらく。物に逢ひて美を感じ、物を造りて美をなす、是れ評者と作者との境界なり、美術の境界なり、文学の境界なり、其はこれを折いて繁き意義となし、これを統べて深き考思となすべし、羅馬《ロオマ》なる聖彼得寺《サント、ペエトル》塔を観てミケランジエロが作りし雛形《ひながた》の美に驚くは、建築を視る眼あるものゝ皆能くするところなるべし。これを美なりと記《しる》さば、記実者の役済むべけれど、談理者はそれにて是れりとすべからず、かの仏朗西《フランス》人それがしが如く、高等|静論《スタチック》の算法によりて古人が不用意にして静性《スタビリテエト》の極処に至れるを看破してこそ、その美なる所以を飼るべきなれ、ライプニツツが楽調の美を知るを無意識中の算術といひしもおなじ談理の境なり、若し美の義を砕いて理《ダス、ロオギッシェ》に入ることあらずは、審美学は起らざるべし。まだ巨人島を見ざるガリワルが実を知ることの小なるはまことにをかしかるべけれど、いまだ理に通ぜざるために論理《ロギック》をあやまりたる批評をなす人あらば、これも可笑しからむ。逍遥子が記実の文を読むには、大帰納力を具へざるべからず。烏有先生が談理の言を聞くには、当りまへの理解力を備ふるのみにて足れり。  烏有先生は逍遥子が常識を貴むを聞きて、これを難じていはく。シヤフツペリイが内官論はふりたり。リイドが常識も今の哲学の程度より見るときは、おそらくは取るに足らざるべし、蓋常識は凡識と相隣せり、変を斥《しりぞ》くるはよけれど、非凡を容れざるはわるかるべし、国利民福をもとむる便《たつき》を知らむとならば、政治家として常識を説きても善かるべく、経済家として常見を唱へても善かるべけれど、常識は基督《キリスト》を坐ぜず、常見は釈迦《しゃか》を成さず、「コンモン、センス」の間には一個の大詩人を着くべきところだにあらざるべしと。  烏有先生はまた逍遥子が没理想の論を駁していはく、世界はひとり実《レアヽル》なるのみならず、また想《イデエ》のみち/\たるあり。逍遥子は没理性界(意志界《ヰルレ》)を見て理性界《フェルヌンフト》を見ず。意識界《ベウストザイン》を見て無意識界を見ず、意識生じて主観と客観と纔に分かるゝ所以をおもはず。老、荘、揚、墨、孔丘、釈迦、其他古今の哲学者が観得《みえ》たる世界を小なりとして、自ら片輪なる世界を造らむは果敢《はか》なきすさみならまし。後天にのみ注げる眼はダルヰンが論を守りても事是るべけれどそれにて造化は尽されず。棘《いばら》は誰か磨き成したる。羽は誰か画《ゑが》き成したる。棘の同じさまなるは姑く置かむ。孔雀の羽のいろ/\はその翰《ね》より受くる養《やしなひ》おなじきに、色彩の変化は一本《ひともと》ごとに殊なり。その相殊なる色彩の合《がっ》して揮身の紋理をなすは、先天の理想にはあらざるかと。  烏有先生既に理性界を観《み》、無意識界を観て、美の理想ありといひ、又これに適へる極致ありといへり。さればとて先生はいにしへの人の立てし抽象理想論の迂闊《うくゎつ》なる跡を追はむとにもあらず、またこの世紀の生理、心理の新果実を容れざるにもあらず。その言にいへらく。祇園精舎の鐘の声、沙羅双樹の花の色。彼を聞いて寂滅為楽を感ずるものあれば、また待人こひしとかこつものあり。此を見て諸行無常と観ずるものあれば、またひたすらに愛《め》でたがるものもあるべし。されど先づ実相々々と追ひ行きたる極端に達して、人間の官能を除き去りておもへ。声はもと声ならず、色はもと色ならず。声も色も分子の動きざまの相殊なるのみ。純粋なる実相には声もなく、色もなし。さて一歩をゆづりて、人間の官能声を成すべき分子の波を耳に受けて、是れ声なりといひ、色を成すべき分子の波を目に受けて、是れ色なりといふ。これすなはち意識界なり。祇園精舎の鐘われがねならば、聞くものこれを厭《いと》はしとし、われ鐘《がね》ならずば好《この》ましとせむ。沙羅双樹の花|萎《しほ》ればなならば、見る人これより去り、しほれ花ならずばこれに就かむ。厭はしとして去り、好ましとして就く。これ猶後天より来れる決断なり。さばれ破《やれ》がねならぬ祇園精舎の鐘を聞くものは、待人恋ひしともおもひ、寂滅為楽とも感ずべけれど、其声の美に感ずるは一なり。沙羅双樹の花の色を見るものは、諸行無常とも感じ、また只管《ひたすら》にめでたしとも眺むめれど、其色の美に感ずるは一つなり。この声、この色をまことに美なりとは、耳ありて能く聞くために感ずるにあらず、目ありて能く視るために感ずるにあらず、先天の理想はこの時暗中より躍《をど》り出でゝ此声美なり、この色美なりと叫ぶなり。これ感納性《レチェブチヰテエト》の上の理想にあらずや。  いかに珍らしき楽にも自然ならぬ声はなく、いかにめでたき画にも自然ならぬ色はなし。意識の中に声を調へても楽となすべく、意識の中に色を施しても画となすべきは言ふまでもあらじ。されどモツアルトはみづから美しく強き夢の裡《うち》より其調を得たりといへり。こは画工の上にも詩人の上にもあることにて、所謂|神来《インスピラチオン》即是なり。真の美術家の製作は無意識の辺より来る。これ製作性《ブロックチヰテエト》の上の理想にあらずや。  若し没理想を説く人のいへるが如く、言葉のうちにおのが理想のあらはれざる戯曲に長ずるためにシエクスピイヤ大なり、おのが理想のあらはるゝ叙情詩若しくは小説に長ずるためにバイロン、スヰフト小なりといはゞ、これシエクスピイヤとバイロンとスヰフトとたま/\其詩体を殊にせしために大小の別生じたるのみにて、その本来の才分境地には大小なかるべし。そが上に戯曲に理想あらはれず、叙情詩若しくは小説に理想あらはるといふは、戯曲にあらはるゝ客観の相(所観)は叙情詩若しくは小説に於けるより多く、叙情詩若しくは小説にあらはるゝ主観の感は戯曲に於けるより多きがためにしかおもはるゝのみにして、其実は戯曲にも、叙情詩若しくは小説にも、作者の理想、作者の極致はあらはるゝなり。唯其理想は抽象《アブストラクト》によりて生じ、模型に従ひてあらはるゝ古理想家の類想にあらずして、結象《コンクレエト》して生じ、無意識の辺より躍り出づる個想なり、小天地想なり。大詩人の神の如く、聖人の如く、至人の如くおもはるゝは理想なきがためならず、その理想の個想なるためなり、小天地想なるためなり。太虚《ダス、アブゾルウテ》の無意識中より意識界に取り継がれずして生れたる造化と、おなじ無意識中より作者(シエクスピイヤ)の意識界を経て生れ出でし詩(戯曲)と相似たるに何の不思議かあらむ。唯無意識中よりの神来には真の大詩人ならでは多く逢はず。是を以てシエクスピイヤが戯曲古今に独歩すればバイロン、スヰフトのともがら、たとひ多く戯曲を作りぬとも、シエクスピイヤにおなじき境地には至らざるべく、近松は戯曲を作りけれども、その客観相をあらはしたる中に類想に近きところあれば到底シエクスピイヤには及ばざるべし。「キング、リヤア」は戯曲にして、作者みづからが評論なしといへぎも、勧懲の旨ありと見ば、しか見ても可なり。勧懲の劇を作らむとして、いたづらに人物をならべ、脚色を立てたるをこそ卑《いやし》みもすべけれ、曲中人物の性格一々に活動せる小天地想の作をば勧懲の旨ありとて斥くるものあらむや。蟇六《がまろく》夫婦が事に小天地想あらはれたらば、作者の詞《ことば》に勧懲の旨ありとて、何ぞ痛とするに足らむ。  英吉利古今の文士戯曲を作りしもの幾百千家ぞ。その作りし戯曲幾千万篇ぞ。この幾千万篇か知れぬ戯曲は、戯曲の体裁として作者自らが評論の詞をば挿《さしはさ》まざりしならん、皆所謂没理想なりしならん。さるに彼《かの》数百千家はその名、骨と与《とも》に朽ちぬ、ひとりシエクスビイヤが威霊今にいたるまでもいやちこなるは何故ぞ。彼数百千家は小家数にして、ひとりシエクスピイヤの大詩人たるは何故ぞ。又叙情詩と小説とには、作者の理想あらはるといひ、没理想に至ること能はずといはゞ、叙情詩に長ずる大詩人、小説に長ずる大詩人は果して生ずべからざるか。又叙事詩の旨は純粋なる客観相にあれば、その没理想に至り易きこと迥[#]に戯曲の上にあらむに、没理想を説く人の戯曲を取りて叙事詩を取らざるは何故ぞ。おほよそ是等の問に答ふる人なき間は、シエクスピイヤに理想なしともいはせず、理想なきを大詩人の本相なりともいはせじと、烏有先生は説けりとぞ。  われ山房にありて興来れば文を論ず。この頃逍遥子が書を聞いて実を記することの功徳《くどく》を知り、また烏有先生が言を聞いて理を談ずることの利益を覚《さと》りぬ。逍遥子が実を記するはよしと雖《いへども》、その記実によりて談理を廃せむとするはあしかりなん。烏有先生が理を談ずるは辯を好むに似たれども、その記実にあかず思へるは無理ならじ。逍遥子は早稲田に隠れて記実の直筆を揮へ。われは且らく烏有先生に代りて、山房に居て文を論ぜむ。 附記、其言を取らず  主観の情を卑みて、客観の相を尊む。是《こゝ》に於《おい》て乎《か》、今の叙事詩《エポス》すくなき世にありては戯曲《ドラマ》をして第一位に居らしめざることあたはざるべし。これを早稲田文学が没理想を説きて戯曲を嗜《たし》む所以《ゆゑん》とす、われは其意を取りて其言を取らず。没理想は没理想にあらずして、没主観なればなり。  俄羅斯《オロシア》の人ツルゲニエフ小説|喧嘩買《けんくゎがひ》、 Bretojor[#oにアクサン]を著す。独逸の人ヰルヘルム・ランゲが英文を読みて作者が喧嘩買を悪《にく》みながらも敢《あへ》て一|貶辞《へんじ》を挿《さしはさ》まざるを称へて止まず。馬琴が筆力、能く蟇六を写せるに、猶評を叙事の間に挿むことを免れざりしは、婦幼のために書を著すといふ志の卑きがためなり。早稲田文学が八犬伝にあきたらざる所ありとするは、豈《あに》馬琴が叙事の間に評を挿みしを以てならずや。われは其意を取りて其言を取らず。没理想は没理想にあらずして、没挿評なればなり。  シエクスピイヤは大詩人なり。その作の造化に似たるは、曲中の人物一々無意識界より生れいでゝ、おの/\その個想を具《そな》へたればなり。その作の自然に似たるは、作者の才、様に依りて胡盧《ころ》を画く世の類想家に立ち超えたりければなり。早稲田文学はこれに縁《よ》りて、シエクスピイヤを没理想なりとす。われは其意を取りて其言を取らず。没理想は没理想にあらずして、没類想なればなり。  虚心になりて世界を見よ。そこに哲学あらむ。平気になりて文学の現勢を見よ。そこに評論あらむ、悟《さとり》は大道なり、学《まなび》は迂路なり。まことや成心は悟の道の稲麻竹葦《たうまちくゐ》にして、学の路の荊棘《けいきょく》なれば、誰かはこれを被り、これを除かむことを欲せざらむ。然《さ》りとて理を談ずるを聞くことだに能はざる世の昧者《まいしゃ》に、成心あらせじと願ひて、唯実を記したるのみを見て悟れといはむは、おそらくは難題ならむ。早稲田文学が文壇の牛耳をとりて大道を説くは善し。われ豈《あに》其意を取らざらむや。されど其言は則《すなは》ちわが取らざる所なり。故いかにといふに、早稲田文学は読者の没理想を命《いのち》にして言を立つといへど、所謂没理想は没理想にあらずして、没成心なればなり。  われは早稲田文学と共に戯曲を嗜《たし》み、早稲田文学と共に叙事中に評を挿まざる小説を愛し、早稲田文学と共に造化に似たる詩を好み、早稲田文学と共に悟を貴む。然れどもわれは早稲田文学と共に没理想を説かず。烏有先生既に没理想を一主義として辨じたれば、われは唯わが没理想といふ語を取らざる所以を言ふ。(明治二十四年十二月) 早稲田文学の没却理想  没却理想は一に没理想といひ、一に不見理想といひ、一に如是理想本来空といひ、一に平等理想といふ、其要は理想を没却し、埋没して、これを見ざらむとし、衆理想の本来空なるを説くにありといふ、これを説くものは誰ぞ、時文評論の記者逍遥子なり。  逍遥子が没却理想を説くや、一面はこれによりて道化に対するおのれが立脚点を指定し、一面はこれによりて詩文に対するおのれが平等見を護持す。かなたは一派の形而上論《メタフィジック》なり。こなたは一系の審美学なり。  逍遥子が形而上論はいかに。  逍遥子は理想を没却せしむといふ。さらばその没却せむとする理想とは何物ぞ。答へていはく。個々の小理想家、個々の庸人、若くは世の見て大理想家となせる思索家が断じて、造化の心、造化の極致と定めたるものゝ名なり。かゝる衆理想の没却せらるゝことをば、無理想といひてもさし支《つかへ》なしと。  さらば何物か他の衆理想を没却する。答へていはく。今人の智の及ぶ限にては、無底無辺無究無限の絶対なり。この絶対は即ち造化にして、其名を没却理想とすと。  さらば逍遥子が絶対はいかにしてか他の衆理想を没却する。答へていはく。衆理想は皆是なり。是れ絶対は之を納《い》るるを以てなり。逍遥子は是なりと雖《いへど》も之を崇《あが》めず。是を以て衆理想の奴《ど》となることなし。衆理想は皆非なり。是れ絶対はいづれの理想にも掩はれざるを以てなり。逍遥子は非なりとなしてこれに泥《なづ》まず。是を以て衆理想の敵となることなし。衆理想は即ち差別相にして、没却理想は即ち唯一相、平等相なりと。  おもしろきかな逍遥子が言。その人々の写象中なる衆多をして本来空に帰せしめたるはバルメニデエスにや似たらむ。その人々の理性を衆多に属せしめて、この差別相に対する平等相を立てたるはプロチヌスにや似たらむ。  ライプニツツのいはく。総ての哲学系は皆是なり、皆非なり。その是なるはその立つるところなり。その非なるはその斥くるところなりと。(ヰクトル・クザンはこれによりて折衷派を興しき)ヘエゲルもまた衆哲学派の立脚点に比較的の権利を与へたり。これ等も逍遥子が言に似通ひたるところあらむ。  されど逍遥子が没却理想にはおほいに研究を娶すべきところあり。  逍遥子が絶対の衆理想を没却するや、衆理想皆是にして又智非なるがためなりといふ。且《しばら》く此判断に注意せよ。常理に依るに、是と非とは|矛盾の意義《コントラアヂクトオリシュ》にして、その二つのものゝ間に第三以上の意義を容れざるものなり。こはかの大と小との如く、その間に稍《やゝ》大、稍《やゝ》小の如き階級を容るべき反対《コントレエル》の意義におなじからず、反対のみなる意義に於いては、着眼次第にて衆理想皆大なりともいふべく、衆理想皆小なりともいふべけれど、矛盾の意義に於いては、縦令《たとひ》その潰眼点殊なりとても、衆理想皆是なり、皆非なりといはむこと、尋常の論理の許すところにはあらざるべし。  逍遥子が衆理想皆是なりといふや、その着眼点は造化これを納るといふにあり。逍遥子が衆理想皆非なりといふや、その着眼点は未だ造化を掩《おほ》ふに足らずといふにあり。  夫れ造化に納れらるとは何の謂《いひ》ぞ。答へていはく。造化より小なるなり。未だ造化を掩ふに足らずとは何の謂ぞ。答へていはく。これも造化より小なるなり。されば逍遥子が着眼点は、その言葉を二様にしてあらはされたりといへども、到底唯一つなること論なからむ。  衆理想に附するに、是といひ非といふ矛盾の意義を以てするは、縦令その着眼点殊[#殊字を補う]なりといへども、尋常の論理の許さゞるところなり、さるをいはむや、其着眼点はたゞ一つなるをや。  かのライプニツツが言の如きはすこぶるこれに殊なり。ライプニツツは総ての哲学系皆是なり、皆非なりといふと雖、その是なりとするは総ての哲学系の立てたるところに限りて、その非なりとするは総ての哲学系の斥くるところに限りたり。これを取り分けての判断(一分法《パルチクレエル》)とす、逍遥子は衆理想皆是なりとするときも、衆理想皆非なりとするときも、衆理想の全体を指したり。これを引き括めての判断(全分法《ウニエルザアル》)とす。取り分けての判断は同一体(前陳)に矛盾の義(後陳)を附することを許しもすべけれど、引き括めての判断はおそらくはかゝる自在を得せしめざるべし。  斯《かく》の如くよの常なる判断法より見るときは、皆是なる衆理想は同時に皆非なるに由なく、皆非なる衆理想は同時に皆是なるに由なからむ。  さらば同一の事物を是とも非とも見るべきは果していかなる境界なるか。答へていはく。是もなく非もなき境界なり。絶対の境界なり。  大宗教家と大哲学者とのごとき自在の辨証《ヂャレクチック》をなさむとするものは、大抵絶対の地位にありて言ふ。(聖教量《しゃうげうりゃう》、「スペクラチオン」)逍遥子は豈《あに》釈迦と共に法華涅槃《ほっけねはん》の経を説いて、有《う》に非ず、空に非ず、亦有、亦空といはむとするか。逍遥子は豈|荘周《さうしう》と共に斉物論を作りて、儒墨《じゅぼく》の是非を嘲《あざけ》り、その非とするところを是とし、その是とするところを非とせむとするか。[#底本により違いあるか。選集脱か]  夫れ絶対には是非もなければ彼我もなし。されどその能く是非なきものは何ぞや。その能く彼我なきものは何ぞや。答へていはく、空間を脱したればなり、時間を離れたればなり。質といひ、絶対といふものは顕象(事相)にあらざればなり。  絶対の相関[#相対?]を現ずるや、空間は彼我を立て、時間は後先をなす。既に相関[#相対?]あり、彼我後先あり。この顕象世界の中、争《いか》でか是非な色ことを得べき。仏家はこれを体象力といひ、ハルトマンはこれを質用といふ。ショオペンハウエルが所謂「プリンチビウム、インヂヰヅアチオヽニス」は空間時間をこの理より視たるなり。  こゝに此顕象世界の法廷にありて裁判をなさむとするものあり。又此顕象世界の文壇にありて批評をなさむとするものあり。その宣告、その評論は縦令《たとひ》絶対の上よりしても実相を撥無《はつむ》すべからず。盗む者と盗まるゝ者と、みな是なり、皆非なりといひてはおそらくは裁判にはなるべからず。論理を守るものと、論理を守らざるものと、皆是なり、皆非なりといひてはおそらくは批評にはなるべからず。  逍遥子は此顕象世界の文壇にありて我を立て、その立てたる我をして偶なからしめむとす。いづくんぞその我の我にあらずして、その能立我《のうりふが》の似能立我に過ぎざるものなるを知らむ。逍遥子にして若し能く欲無限(即欲絶射)の我を立てば、何故に是を是とし、非を非とすべき道を、是も是にあらず、非も非にあらざる処より発明し来りて、新にその悪平等見を擲《なげう》つこと、嘗てその悪差別見を擲ちしが如くならざる。  われは且《しばら》く逍遥子が上をいはずして、絶対に向ひて説かむ。  絶対よ。何ぞ汝が名を更《か》ふることの頻《しきり》なる。真如といひ、太虚といひ、玄といひ、無といひ、静といひ、空といひ、一といひ、絶対といひ、質といひ、絶対我といひ、絶対主客両観といひ、絶対理想といひ、意志といひ、無意識といふ。学者既にそのわづらはしさに堪へざらむとす。さるを汝は猶|新《あらた》に没理想といはざることを得ざるか。既に没理想といへり。今また何ぞ没却理想といひ、不見理想といひ、平等理想といひ、如是理想本来空といはむとするに至れる。  絶対よ、汝は能く万物を没却すといふ。さらば没却理想は汝がために最適切なる名なるべし。しかはあれど汝が能く万物を没却するは、没却理想と呼ばれてより始て然るにはあらじ。何故に汝は真如といはれて足れりとせざる。玄といはれて足れりとせざる。乃至無意識といはれて足れりとせざる。  絶対よ。汝を喚《よ》び来たるものにはくさ%\あり。一向専念に真理を求むるものあり、おのが転迷開悟の緒にせむとするものあり。已むことを得ずして言を立つといふものあり。今時文評論の裏にあらはれたるは、そも/\また何の目的ありてなるか。  絶対よ。逍遥子は汝をおほいなる心と名づけむとして猶与《たゆた》へり。こは神|在《いま》すといふに等しからむをおそれてなり。逍遥子は汝を大理想と名づけむとして猶与へり。こは大理想の何物なるかを証すべからざるを慮りてなり。逍遥子は絶対の意味にて汝を有心ともせず、無心ともせざりき、また有理想ともせず、無理想ともせざりき。汝は逍遥子に敬して遠《とほざ》けられたるか。我は逍遥子が心を用ゐたることの深きに感ず。  然はあれど絶対よ。逍遥子は有心とも断ぜず、無心とも断ぜず、理想の有無の定まらざるを消極なりといへり。消極立たば積極立たむ。汝が絶対若し相関[#相対?]とせらればいかに。絶対よ。心せよ。  われはこれより逍遥子が上をいはむ。  逍遥子の時文評論は果して絶対の地位(聖教量)にありて言ふか。  さらば逍遥子は衆理想皆是なり、衆理想皆非なりといふことを得む。われは唯その一切世間の法に説き及ばざるを惜む。  逍遥子の時文評論は果して相関の地位(比量)にありて言ふか。  さらば逍遥子は空間に禁《いまし》められ、時間に縛《しば》られ、はては論理に窘《たしな:くるし》められむ。衆理想皆是なりとは、逍遥子え言はざるべし。彼は衆理想の中に於て論理にたがひたるものを発見すべければなり。衆理想皆非なりとは、逍遥子え言はざるべし。彼はおのれが理想の衆理想と共に非ならむとき、おそろしき絶対的無理想の淵に臨むべければなり。  これを逍遥子が形而上論とす。逍遥子のいはく。われは敢《あへ》て形而上論をなさず。われは方便を説くのみ。われは無辺際の大洋を渡る舟筏を造るのみと。殊に知らず、古今哲学の系統は悉く是れ方便なるを、悉く是れ舟筏なるを。  さて逍遥子が審美学はいかに。  逍遥子のいはく。わが詩文に対する没却理想は没却作家なり、不見作家なり。作家の没却せられて見えざるは、その客観的なるがためなり。されば詩文に対する没却理想は客観を評する言葉ともいふべしとなり。  逍遥子が没却せむとする作家とは何物ぞ。答へていはく。作家の自己なり、自身なり、其小天地なり、其性情なり、其理想なり。作家の理想の没却せられて見えずなりたる、若くは見ること難くなりたるを活平等相といふと。  作家の没却せらるゝや、残るところは何物ぞ、答へていはく。こゝに活差別相といふものあり。詩文の中なる個々の人物、おの/\其特質ありて云為するさま是なり。こゝに又活平等相といふものあり、その特質ある人物の云為する間に、これを支配すべき因縁果の理法ありて一貫するさま是なり。されば見えざるものは作家の理想にして、見ゆるものは人間の理法なりと。  逍遥子は既に有理想とも、無理想とも定まらざる大天地を画き成せり。されどその小天地に至りては理想あることを免れず。作家の理想は蓋し絶対の意味にても有るならむ。  作家の理想は衆理想の一なり。されば衆理想の没却せらるゝときは、作家の理想も亦たこれと共に没却せらるゝことを免れざるべし。こは絶対の上より瞰下《かんか》しての事なり。この顕象世界にて作家に理想ありといはゞ、その有るや、必ず絶対の意味にても有るならむ。  逍遥子は作家の理想を没却すといふ。作家の理想は縦令没却せらるといへども、見えずなりぬといへども、又見ること難くなりぬといへども、その没却せらるゝは、先づ存じて、而る後に没却せらるゝならむ、先づ見ゆべく、又見ること易かるべき由《よし》ありて、而る後に見えずなり、又見ること難くなりぬるならむ。  作家理想あり。シエクスピイヤ理想あり。逍遥子は唯シエクスピイヤの理想を以て人間以上の理想なりとせず、大理想なりとせざるのみ。  さらばシエクスピイヤの理想大理想なるにあらず、衆評者の理想小理想なるにあらずして、衆評者のシエクスピイヤが作を評して其旨を窺ひ尽すこと能はざるは何故ぞ。逍遥子答へていはく。シエクスピイヤが作は衆評者の理想を没却して、併せて又シエクスピイヤ自己の理想を没却すればなりと。さらばシエクスピイヤの理想大理想にあらず、衆評者の理想小理想にあらざるに、衆評者の作家となりて作をなしたるとき、若くは他のかいなでの作家の作をなしたるとき、その作の衆評者の理想と作家自身の理想とを没却すること、シエクスピイヤが作の如くならざるは何故ぞ。逍遥子は未だこれに答へざりき。  逍遥子のいはく。没却作家は客観を評する言葉なりと。おほよそ詩の上にて観の主客を言ふものは、大抵作家の感情を以て主観とし、作家の観相《アンシャウウング》を以て客観とす。叙情詩を主観とするは是を以てなり。叙事詩を客観とするは是を以てなり。戯曲には観の主客等く存ぜりとはいふものから、シルレルが曲とシエクスピイヤが曲とを比べ見ば、彼には作家の感情多く、これには作家の観相多きを知らむ。シエクスピイヤが作を客観なりとするは豈これがためならずや。逍遥子若し没却作家とは作家の主観的感情を没却する義なりといはゞ、われも亦た左右なくその客観を評したる言葉なるを認めしならむ。  さるを逍遥子が没却せむとするは主観的感情にあらず、極致なり、理想なり。作家は理想あれども、その作をなすや、理想なからしむ。詩[#彼]は是に於て臨時《テムポレエル》無理想の作用になれるもるゝ如し。これを「ドラマ」といふ。されば「ドラマ」といふ無理想詩の中にはおもに無理想時の主感情を歌ふ叙情詩もあるべく、おもに無理想時の客観相を写す叙事詩もあるべく、無理想の時の感情と観相とを役したる戯曲もあるべく、又小説もあるべし。無理想の感情と無理想の観相とは、若しこれあらば、蓋し審美上に精究すべきものならむ。  無理想詩に活差別相あり。是れ理想を没却したる個想なり。又活平等相あり。是れ理想を没却したる小天地想なり。  活差別相の人物は、理想を没却したる個人なり。こは現実の個人を模倣したるものとすべきならむか。活平等相の理法は、理想を没却したる因果なり。こは目的《テレオロギイ》なくして人間を左右する物力を模倣したるならむか。かの無理想の感情と無理想の観相との是の如き模倣をなすさまは、若しこれあらば、審美上にいよ/\精究すべきものならむ。  逍遥子は活平等相即活差別相、活差別相即活平等相なりといふ。こは審美上に円融相即の法門を開いて、活平等相の小天地を理具と看做し、活差別相の個想を事造と看做したるならむ。こはわが個想即小天地想といへるに似たり。  これを逍遥子が審美学とす。われは時文評論の無理想より立て来りたる審美学の果実を見るべき目を待たむのみ。(明治二十五年三月) 逍遥子と烏有先生と  逍遥子没理想を唱へて記実の業を操り、談理のやうなさを吹聴《ふいちゃう》す。われこれを評せむとするに当りて、烏有《ういう》先生が有理想の説を挙げたり。この間わが談理の業を廻護したるところもありき。こゝに評するは逍遥子が烏有先生に答へし文なり。  烏有先生とは誰ぞ。答へていはく。旗逸の人カルヽ・ロオベルト・エヅワルト・フオン・ハルトマンなり。わが山房論文を著すや、おもにハルトマンが審美学に拠つて[#りて]言を立つ。逍遥子が没理想論出でゝ、その勢ほと/\我国の文学界を風靡《ふうび》せむとするを見て、われはハルトマンが現世紀の有理想論を鈔[#抄]して世の文学者に示しゝなり。  逍遥子は没却理想なり。没却理想は造化に対してこそ有理想無理想を決せざれ、詩文に対しては既にこれを作家の臨時無理想の中より生ぜしめたれば、争でかこれを無理想ならずといふことを得む。ハルトマンは有理想なり。造化に対しても、また詩文に対しても。  さきにわが逍遥子とハルトマンとの両家の説を併《なら》べ挙げしときは、われ逍遥子が没理想といひし語を語のまゝに解して無理想の義となし、逍遥子を以て造化無理想、詩文無理想と説くものとなして、これを二者皆有理想と説けるハルトマンに比べたりき。逍遥子がそれまでに公にせし文は、わがかく解することを妨げざりしなり。  さらばわがおのれが談理の業を廻護せむために、ハルトマンが有理想論を出しゝは何故ぞ。答へていはく。逍遥子は談理の今の我文学界に益少かるべきことを証せむために、其没理想を引いたればなり。  逍遥子のいはく、烏有先生が談理を重んずべしといふや、毎《つね》に絶対の意味にていふか。即ち古今東西の大なる談理家即ち哲学者といふきはをも、そが眼中に置きていへるならむ。これ理といふ字を絶対に解したるなり、わが後にせむといふ談理は然らず。今新聞などに見ゆる偏《かたよ》りたる論を指せるなり。その根梃に一系の哲理[#哲学]もなうして、一時の感の浮べるまゝに、或は好悪に駆られて衆他を排し、或は狭き経験を尺度として大なる人間を是非するが如き頑陋偏僻《ぐゎんろうへんぺき》なる小理想をいへるなりと。  これに由りて観るに、逍遥子が後にせむとするは、偏りたる談理なり、好悪に左右せらるゝ談理なり、狭き経験を尺度としたる談理なり。一系の哲理を根柢としたる談理は、逍遥子後にせむとはせざるが如し。  ハルトマンの烏有先生はひとり一系の哲理を根柢としたるのみならず、また自ら一系を立てたるものなり。さればハルトマンが言若し我筆を借りて出でずして、たゞちに其口より出でば、そは逍遥子のために後にすべきものとせられざるべきか。  答へていはく。おそらくは然らず。ハルトマンは有理想なり。かるが故に無理想を非とす。その談理は逍遥子がために偏りたりとせられざること能はず。こはひとりハルトマンが上のみならず。造化無理想と唱ふる実践派《エムビュリスト》の哲学者は造化有理想と唱ふる形而上派《メタフユジイケル》の哲学者を非とす。これも逍遥子がために偏りたりとせらるべし。すべての哲学者は逍遥子がために偏りたりとせられざること能はざるは、これにて知らるべし。汎《いはん》や好悪の念強かりしショオペンハウエルが如きもの、若くは僻境に居りて経験少かりけるカントが如きもの、争《いか》でか偏僻頑陋と看做されざらむ。  されど逍遥子は猶一つの要約を立てゝ、談理を後にせむとしたり。そはその後にせむとするものを、今の新聞などに見ゆるものなりとことわりたること是なり、今の新聞などに見ゆる談理には、まこ圭に後にすべきものおほからむ、さばれその後にすべきは、あそらくは偏りたるためならじ、好悪のために左右せらるゝためならじ、又狭き経験を尺度としたるためならじ。  われその由りて来たるところを求めて、少しく得るところあるに似たり。蓋し新聞雑誌などに見ゆる談理は、現量智より出づるもの(露伴子が批評の類)少くして、比量智より来たるもの多し。現量智生の理に対しては、その帰するところの新なると旧きとを問はむよしもなく、その明にするところの広きと狭きとを問はむよしもなけれど、比量智生の理に対しては、之に歴史上の定規を当てゝ、その錫狗なるを示すことを得べく、これを論理上の眼鏡もて見て、その妄断に過ぎざるを諭し易かるべし、逍遥子が後にせむとするところは括そらくはその錫狗に属したるものならむ、おそらくはその妄断に過ぎざるものならむ。  かゝる比量家をして古人の文を読ましめ、論理の学を講ぜしめむとす。これ教育の道なり、これ積極の法なり、早稲田文学などはこれを司るものか。 かゝる比量家をしてその言の錫狗に属するを知らしめ、その論の妄断に過ぎざるを知らしむ、これ批評の道なり。これ消極の法なり、われ等の記述は及ばずながらもこれに当るものゝ一たらむとす。  この二つの道は並び行はれて相惇らざるものなり、さるを逍遥子われ記実を先にす、人は談理を先にせよといはずして、記実は益多ければ先にすべきものなり、談理は益少なければ後にすべきものなりとやうにいひき、談理を廻護する論は是に於てや興りぬ。  逍遥子が談理の後にすべきを説くや、その偏りたるが故といひ、その好悪あるが故といひ、その経験少きが故といひ、哲学者を其範囲の外に置かむとす、殊に知らず、偏りたり、好悪あり、経験少しとして、その後にすべきを証せむとする時は、いかなる大哲学者の書も到底後にすべ蓄ものとせらるゝことを免れざるを、 さらば逍遥子が後にせざらむとする偏らざる談理とは何物ぞ。われは恐る、唯逍遥子自己の没却理想論のみならむことを。  逍遥子のいはく。烏有先生がこれに対して理を談ぜむとする文壇は、今の文壇のうちの俊秀ならむ人々を標準乏して観察するか、わが眼中の文壇は初学後進の滋稗きを標準としたるなり。早稲田文学の講述を読まむ人々を目的としたるなり。これも見解の相異なる一点ならむと。  わがおもにハルトマンの審美学に基いたる批評は、持に所謂先進に対するにもあらず、又所謂後進に射するにもあらず。すべての立言者はわがために同一なる方法を以て批評せらる。  逍遥子のいはく、わが謂ふ小理想家は経験足らざるがためにその識見狭きものなり、一遺の皮梱を奉じて方寸の世界に安んじ、我師の教をのみ無双の霊玉と軽信して、初より他山の石を求めず、みだりに儒仏を祖述し、また東西の哲理を談ずるものなり、彼等の心中には談理を迎ふる傾向なし、一旦タの談理争でか能く一世の傾向を醸さむ、これを酸す策は衆美を一堂に会して相見る機会を得せしむるに若かず。是れ記実の文の先にすべき所以なり。是れ審美の論説を聞くべき初発心を作るに等しと。  識見の狭きもの、師の教を軽信するものに談理を迎ふる傾向なきことは或は有らむ、されどかかる烏滞のしれもの果して喜んで記実の文を読むを必とすべきか、これもいとく覚束なし、一世の傾向を警むとするものは積極なる教胃の道に由るべきは、固より共所なり、きれどこれと同時に消極なる批評の道の行はるゝを認めざらむとせば、おそらくは偏頗に陥るべし、逍遥子は談理無功徳と説きしにあらず、われは記実の功徳を疑ひしことなし、唯逍遥子は談理を後にすべきものとして記実を先にすべきものとし、われは談理と記実とに後先なからしめむとするのみ。  ハルトマンは吾師なり。逍遥子がいはゆる書籍の形したる師なり、わが多くその審美の説を信ずるは軽信ならむも知られず。逍遥子が没却理想の分際よりわれを見ば、まことに未だ河東の地を贈まずして白顕の家をことなりとする人に似たらむ、また未だジユリエツ Hに蓮はずして、ロザリンを慕へるロメオに似たらむ、されどわれは早稲田文学中に聚りたる衆美を見ざらむとして目を掩ふものにあらず、われに示すにハルトマンが審美学のうちにて我が仮借し来れる部分を打ち毀すに足るべき無理想の審美学を以てせよ、われは頃刻も爵踏せずして無理想派に与すべし。  早稲田文学の美を一堂に聚むるや、実を先にして理を後にせむといふ。われその美なる実(こはハルトマンが審美学にはなきものなり)を聚め来りて、一世の傾向を醸し成したる暁を待ち得て、逍遥子が無理想派審美学を聞かむを願ふこといと切なり。 そも/\早稲田文学がつど一たる嚢をば、垣間見むとおもふことなべての心なるべきは、われも亦た疑はず、されど耳を掩ひて理を聞かざるものありといはゞ目を閉ぢて実を見ざるものありともいふべし。われ嘗て文を学ぶものに告げていはく、洋学先生の教固より聞くべし、漢学先生の教も聞かざるべからず。我国文の格式に至りては、宜しく和学先生の前に叩顕して其教を奉ずべしと。されば我が早稲田文学の聚美の堂を指ざして、あれを見よといはむ声も、或は全く無功徳にはあらざるべきか。  逍遥子のいはく。人間の文明史は衆我競争の記録ならむ。われ宣衆我を排せむや、されど衆我にも差等あり。その最下なるものは理想を闘はすことをせずして憎悪を闘はす、火を放ちてこの詞林の荊辣を焚かむか。その理想の美をも併せて灰燼とするに忍びず。われは他の衆我をして梱見えしめむがために文学的博物場を開いたり、若し衆我をして一和せしめむとせば、われに衆我を容れて余ある宇宙大の理想なかるべからず、われ未だこれに当るに違あらずと。  人間の文明史を衆我競争の記録なりとの言はいとめでたし。ハルトマンがこと葉に、哲学の歴史は古今に亘れる対話なりとあるも同じこゝろなるべし、逍遥子はこれを知りて、その競争をして組豆の間にのみ行はれしめむとし、衆我の旗鼓の間に相見えむとするを容さず。  欧羅巴の平和はタルラン、メツテルニヒが手にのみ握られたりしにあらず。奪被斎が戦略、ブリュツヘルが兵威こそ大勢を左右することを得つるなれ。  最下の炎我にはげに憎悪を闘はすものあらむ。されど彼輩もわれ汝を憎むとはいはず、必ずわれ是なり、汝非なりといふ。これに対して皆是皆非なりとのみいひて、偏執ありて憎むものにも、公平にして憎まる・ものにも同じ権利を与ふるものは没却理想なり。論理を奉じて批評の道を行ふものは則ち然らず。是を是とし、非を非として、かの憎悪の筆鋒を避けず、玉石を併せ焚かばこそ、箆山の火をも嫌はめ。淘汰して玉を存ずる批評の道は必ずしも無益ならじ、わが審美の標準には過失もあるべく、わが論理の縄墨には錯誤もあるべけれど、山房の論文堂理想の美を焚く火ならむや。  逍遥子の文を好める、早稲田文学の中に文学的博物場を開いたり、わが武を尚べる、わがはかなき草紙の裏に筆戦墨闘の庭を設けたり。彼は積極なる教育の道を履めれば、陳列して審査せざる傾あり。かるが故に世には早稲田文学を講義録のみなりといふものあり。我は消極なる批評の道に由れば、緒に触れては言へども科を立てゝは説かざる傾あり。かるが故に世にはわ茄草紙を過激なる書なりとおもふものもあらむ、われは敢て批評を以てかゝる草紙の本色なりとはいはず、われは敢て講義を以て注疏の害として行はるゝ筈のものなりとはいはず、われは唯記実と談理との後先なく並び行はれむことを願ふのみ。  逍遥子は衆我をして一和せしめむには宇宙大の理想なかるべからずといへり。製作の上にてシエクスピイヤの理想を大ならずとする逍遥子が感納の上にていかなる大理想家あらむとおもひて、これに文壇を一統する任を与へむとすらむ。かゝる文壇の慈氏、詞場のメシヤスは果していつか出現すべき、独逸にレツシングといふものありき、彼は筆戦の間に名を成して、屍を馬革に裏まむの志を臓うせざりき。わが平生欣慕するところは是れ。  逍遥子のいはく、われは談理を独人仏人の流を酌むものに委ねて、みづから「アングロサクソン」の常見を師とせむとするのみ。されば記実を先にして談理を後にすとはわが上をいへるに過ぎず。われ未だ曾て談理を斥くべしといひしことなしと。  こは因明にいはゆる自比最なれば、その後にすべしといふ談理も早稲田文学の談理に限りたるべし、さるを逍遥子が談理の事を言ふや、毎に全文学界の談理を指す如し。所謂衆理想、所謂万理想、所謂分析の理論、所謂小理想、所謂小理屈、所謂杓子定規等是なり。わが逍遥子が言を自比量と看做さずして共比量と看做すはこゝを以ての故なり。  逍遥子が言にいへらく。分析の理論は味者に益せずと。そが分身なる小羊子はいへらく。明治文壇を碁盤と見立てゝ、詩歌小説の魂胆を機械的遊戯とごつちやにし、棋将碁うち混ぜたる入法外の差出口、五ならべの初心者をつかまへても、初より八段に桂馬飛せさせむと肝を敵り、まだ歩もつかぬ盤面に指さして、それ王手をと気を焦燥ち、嗚呼この堂々たる手の裏に、金は無いか、銀将無きかとうれたがり、今にして断ち裁らずば、末を奈何と懸念貌、仔知らしく意味取りちがへて濫用する囲棋詞の粘、塗、抑、約いと五月蝿しと、是れ昧者、初心者に向ひては談理の甲斐なからむとて、これを斥けむとする心をあらはしたるものにあらずや。  おなじ小羊子は又云へらく、詩人は生ると古人もいひき。天稟ならむは教へずとも大なる詩人となりぬベし、野に生ふる花卉の麗しさ、青山の自然の風姿、白水のおのづからなる情韻、堂人阻の所為ならむ。その底艦は天稟にあるべき詩歌小説を、杓子定規の理窟詰にて作り出さむこと覚束なし、理窟でこねては新粉でもうまい椿好は出来ぬ例、所詮は手鎌と胸とにあるを、生ざとりの指南、邪魔になるとも尽未来益に立ちさうな筈もなしと、又云へらく、天成の詩人に向ひて生中の小理窟を指南せむは、猿廻与二郎に聞きかぢりの老帯が教説き聞かせて一時の惑を醸すに同じと。こは詩人に対して理を談ずることの、邪魔になりても益には絶えてならざるべきを説きて、談理を斥けむとする心をあらはしたるものにあらずや。  談理既に味者に益なく、又天成の詩人にも益なしといふ。さらば天成の哲学者、理論家なんぎにも亦たおそらくは益なしといふに至らむ、かくても談理を斥けずといはるべきか。  われおもふに総ての学問は人を益するを待ちて纔に成立つとも定めがたかるべし。談理まことに毫麓の益を文壇に与ふることなからむか、われ未だ靱ちこれを斥けむとせざるべし。そは兎まれ角まれ、昧者初心ものといはるゝ人にも傭して教を受くるものと、仰いで言を立つるものとあり。早稲田文学が教育の道は傭して教を受くるものには直に影響すべしといへども、昧者にしてみづから其昧を暁らず、仰いで言を立つるものに向ひて、汝は味者なり、我が聚美の蛍に来りて看よとのみいひて、その効あるべきか。  われはかいなでの詩人に向ひて、大詩人になれともいはず、又大詩人に向ひて審美の理を談ぜむともせず、されど萄圭冒を立つるものに逢ふときは、昧者と雖も打ち棄ておくことなし、早稲田文学にして其記実を以て理を聴くことの初発心を作るといはゞ、われはまた我が談理を以て美を観ることの初発心を作るといはむ。  逍遥子また言へることあり、われは空理を後にして現実を先にすと、現実に対するに空理を以てしたるは、仏家のいはゆる色即是空の空なるか知らねど、よの常の用語に従ふときは、こゝにても実を揚げ理を抑へたるに似たらむか。  逍遥子のいはく。美のこゝろを砕いて理に入るべきことをば、われ非せしことなし。これを非せしやうにおもはれたるは、没理想を無理想とおもはれたるがためなりと。  逍遥子が没理想は無理想にあらずして、没却理想なることは既に聞きつ、されど逍遥子はその没却理想の立騨点より談理を斥くる亀のなり、談理の後にすべきを説くものなり、かの美のこゝろを砕いて理に入りたる審美論、量ひとり斥けられざらむや、堂ひとり後にすべきものとせられざらむや。  逍遥子のいはく。われは記実を以て徐々傾向を誘致せむとす。これ一種の持薬なり。難ずるものは何為ぞ劇薬を投ぜざるといふ。嗚呼、かれ等は劇薬のいとく用ゐ易くして、人間を益しがたき理嘉らず。何ぞ共に医道を語るに足らむと。  記実は果して持薬なるか。談理は果して劇薬なるか。劇薬は果して用ゐ易くして、人間を益しがたきか。劇薬の是の如くなるは果して談理に似たるか。われは逍遥子が我を以て共に医道を語るに足るものとなすや、あらずやを知らず、されど我国の医吏に拠れば、温補の方盛に用ゐられて、漢医の遺褒へたるを、青益東洞、永富独爾庵の輩起りて、古方を唱へ、劇薬を用ゐ、一度は廻潤の功を秦しき、今の西暦第十九世紀の医道に至りては、おそらくは復た持薬の名を口にするものなからむ。われは固より譬楡の破是になり易きを知れば、こゝに持薬劇薬の事を論ぜず、われは唯逍遥子がこゝにても持薬に譬へたる積極なる教育の道を以て人間を益し易きものとし、劇薬に譬へたる消極なる批評の道を以て人間を益し難きものとしたるを認るのみ、われは唯逍遥子が劇薬なる批評の道を用ゐ場きものとして人に委ね、おのれ奮ひて持薬なる教育の道の用ゐ難きに当りたるを記臆しおかむのみ。  逍遥子のいはく。烏有先生はわが常識といひ、「コンモン、センス」といひしを難ぜしが、わが然か言ひしは常識哲学の事にあらず、造化人間の事をこの物によりて料理せむとせしにあらず、われは我が記実の務をなすに当りて、公平なる着眼によらむといふのみ、愛憎を離れたる常の判断力を以てせむといふのみと。 常識の公平なる着眼の義なることは此解を得て知りぬ、常識の公平は愛憎を離るゝより生ずるなるべし。われは没却理想の公平を願ひて立ちしものなるべく、愛憎を離れむとして立ちしものなるべきをおもへり、されどわれは没却理想の愛憎を離れて公平に至るをば、顕象世界を攘無したる上の事となすを以て、没却理想の見、即ち逍遥子の見を以て常人の判断力とすることの当れりや、あらずやを疑ふ。  われも亦た公平ならむと願ふものなり、愛憎を離れむと欲するものなり、されどわれは論理を守りて毘非を立つ。かるが故にわが公平とするところ、わが愛憎を離れたりとするところは、是を是とするにあり、非を非とするにあり。われは敢て衆理想皆是なり、皆非なりとはいはざるなり。  逍遥子のいはく。われは世界に想絶無なりと説かず、また想みちたりと説かず。烏有先生は想みちたりと断言す、われは未だ大理想を得ざる消極なり、鳥有先生は既に大理想を得たる積極なり。かるが故にわれはあもむろに記実の事に従ひ、烏有先生は進んで談理の筆を揮ふと。  逍遥子はまことに造化の有理想無理想を定めず。ハルトマンはまことに造化の有理想を定めたり。されど逍遥子を以て未得大理想とし、ハルトマンを以て既得大理想とせむはいかど。  われ未だ没却理想を信じて、この禿たる談理の筆を郵ち、逍遥子が駿尾に附いて、記実の事に従ふこと能はずといへども、逍遥子は既に没却理想を立てたれば、これも既得大理想といふべきものにはあらざるか、ハルトマンが某無意識哲学を作るや辯証の一遺を避けて、帰納演繹の論理を用ゐき。ハルトマンは是を是とするものなり、非を非とするものなり。その造化有理想といひて、造化無理想といふものにも、造化有理想にあらず、無理想にあらずといふものにも反きたるはこゝを以てなり、逍遥子が没却理想、若し真能立ならば、その理想の大なること、豊ハルトマンが比ならむや、ハルトマンが系統の如きものは、所謂衆小理想の一つとして、逍遥子が大理想に併呑せらるべきのみ。  われ嘗ていはく。われは且く烏有先生に代りて、山房に居て文を論ぜむと。こはまことに山房論文の縁起なり、わが頑冥なる、今の文学界に立ちて評論を事をすべき器にあらず。平生少しく独逸語を解するを以て、たまハルトマンが審美を得てこれを読み、その精象理想を立てゝ世の所謂実際派をおのが系中に収め得たるを喜べるあまりに、わが草紙を機関として山房論文を作るに至りぬ。されば論文のはじめの篇にも、逍遥子が批評眼をのぞくに、ハルトマンが眼鏡を以てせばやとことわりたりき。  逍遥子はわれを以て烏有先生なりをし、われを以て既に大理想を得たるものとし、われを以て胸に一系の哲理あるものとして、讃歎至らざるところなし。嗚呼、是れ果してその真心なるか。  われは烏有先生にあらず、われはハルトマンの烏有先生が逍遥子の言を聞かば斯くいふべしとおもひ量りて、没理想の評を作りしのみ。  われは哲学系統を有するものにあらず、されどわれは哲学系統なくして理を談ずることの何の不都合もなかるべきを信ず、レツシングは人のために欧羅巴第一の批評家といはれき、レツシングが談じたる理は哲学に好材料を与へき。されどレツシングは哲学系統を立てしことなし。あらず、或時は哲学系統を立つることの詩人にはふさはしからざるを論じて、普魯西学士会院の懸賞募文を非難するに至りぬ。  わが頑冥なる、楊むぞ敢てレツシングを以てみづから比せむや、されどわれもレツシングも文壇に立ちて談理の葉をなすものなり、わが第十九基督世紀のハルトマンが唯一論に取るところあるは、其れ猶レツシングが第十七基督世紀のスビノツアが唯一論に取るところありしがごときか。  避逢子のわれを烏有先生なりとして讃歎するや、一種のおもしろき手段を用ゐたり。そを何ぞといふにか。の小羊子が白日の夢と題したる華文是なり、逍遥子はその初におのが来しかたを説きつ。是を低級の談理界とす、譬へば猫ほ一知半解の禅のごときものならむ。こゝに使はれたる白醐の筆法は上に引いたる節々(談理を斥くる証)にても、その一斑を知るに足らむ、進蓮子は次におのが愚痴と題して、白日の夢の塊の縁起を示しつ。塊とは没却理想系の謂なるべし、是を間級の記実界とす。譬へば猟ほ小乗禅のごときものならむ。この段の終には烏有先生が事を挙げて、わが没理想を評せし文をゆかしき琴の音なりといふ。烏有先生が見、地は逍遥子より高しとしたるなり。是を高級の談理界とす。譬へば猶ほ大乗禅のごときものならむ。逍遥子はわれに徴塵ばかりなる推察力を役することを許さむか。逍遥子が自ら記実の間級に居りて、陽には我を談理の高級に祭り込み、陰には我を談理の低級に蹴落したる形迹は、おそらくは掩ふべからざるものなるべし。ある人我に語つていひけらく。釈迦がおのが来しかたを説いて提婆遠多を罵りしは、罵ることの極めて深きものなりと。逍遥子が言も亦罵り得て好からずや。  逍遥子のいはく、われは無理想をシエクスピイヤが本体とせず。没却理想を大詩人の本領とせず。わがシエクスピイヤ没理想といひしは、直接に評注の方法に関繋して、間接に詩論に関繋すと。  逍遥子はシエクスピイヤが本体をも説かず、大詩人の本領をも説かずとか、さらばわれも強ひてその本体本領を問はむとはせざるべし。逍遥子が没却理想の詩論(審美学)に於ける関繋を我位地より見たるところをば既にいひぬ。  逍遥子のいはく。バイロン等が作の度量はシエクスピイヤが作の度量に劣れり、かなたは解し易く、評し易くして、こなたは解し難く、評し難し。われはバイ一■一等とシエクスピイヤとの優劣、その作の度量の優劣に存ずとはいはずと。  シエクスピイヤとバイロン等との優劣をば逍遥子説かずとか。さらばわれもそを問はざるべし。さばれ逍遥子は常に「ドラマ」主義といふものを唱へたり、その所謂「ドラマ」は作家がおのが理想を没却して作りし詩凌り。既に主義といはゞ、かく臨時無理想にして作りたる詩を度鼓優れりとし、さらぬを度量劣れりとするものならむ。叙情詩を作ることバイロン等が如きものは、逍遥子に理想を没却すること充分ならざるものとせらるべく、戯曲を作ることシエクスピイヤ等が如きものは、逍遥子に理想を没却すること充分なるものとせらるべし。されば叙情詩人は逍遥子がために概ね其作の度量劣りたるものとせられ、戯曲作者はこれがために概ね其作の度量優りたるものとせらるべし、逍遥子はその作の度最によりて詩人の優劣を窟めずといふと雖、詩人は叙情詩を作ることに慣るゝと、戯曲を作ることに償るゝとによりて、逍遥子がために其作の度量を軒軽せ参るゝことを免れず、此の如き待遇は果して公平なる判断力より生ずるものなるか、詩人はその所長を殊にするために、逍遥子が批評眼に逢ひたるとき幸不幸あるにはあらざるか。逍遥子松所謂「ドラマ」主義は戯曲に厚くして、叙情詩に薄きにはあらざるか、是れ我間の本意なりき。  逍遥子のいはく。シエクスピイヤと近松とは、われ其質必ず等しといはず、その詩人としての技倆必ず同じといはず、二人は皆理想をあらはさゞる理想家なりき、英国の小理想家なる評者どもは、或は宗教上に、或は没美学的俗見をもてシエクスピイヤを評し著。そのさま群盲象を語るに殊ならずしていと可笑し、近松も英国に生れたらましかば、かゝる大出世をやなしけむとおもはると。  シエクスピイヤが質、シエクスピイヤが詩人としての技倆、近松が質、近松が詩人としての抜倆をば、逍遥子言はずとか。さらばそれにてもよし。  逍遥子が「ドラマ」主義の審美学によれば、理想を没却してあらはさゞるを詩人の旨とす。されば逍遥子はシエクスピイヤと近松とが此旨を同うしたるを認めたるなり、シエクスピイヤと近松とが「ドラマ」主義に適へるを認めたるなり。  シエクスピイヤの作には個想比較的に多く、近松が作には類想比較的に多しとして、彼を揚げ此を抑へたるは我なり、二者の間に等差を立てざるは逍遥子なり。(逍遥子が等差を立てざるは等差なしとのこゝろにあらず、等差の有無を語らじとのこゝろなりといふ、下の一面相の辯と含せ看るべし)  英吉利の評者が逍遥子に暗笑せられたるは気の毒なることなり、彼等柾果して逍遥子と共にシエクスピイ刈と近松との間に等差を立てずして、これがために近松大出世をなすに至るべきか、あらざるかは、われこれを断ずること能はず。  逍遥子のいはく。詩文の没却理想は一面相より見て立てたるなり、されば没却理想の戯曲すなはち大戯曲なるにあらず、没却理想の詩文を作るものすなはち大詩人なるにあらずと。  逍遥子が詩文に対する没却理想は審美上の立言なることは疑ふべからず。われは当初これを評して、逍遥子が審美学なりとしたり。  「ドラマ」主義は逍遥子が久しく唱ふるところなり「ドラマ」の所謂没却理想の詩なることはこゝに辯ずることを要せず、さるに逍遥子は詩文の没却理想を詩文の一面相なりとし、没却理想の戯曲即ち大戯曲なるにあらずといひ、没却理想の詩文を作るものすなはち大詩人なるにあらずといふ。こは没却理想の外に、詩文の面相あるべきを定めおきて、その面相をばいかなるものとも断らず、以て自家の主義の拡大せらるゝを避け、以て詩の質と詩人の抜倆とを直評するに至るを免れむとするものなり。  逍遥子は既に没却理想以外に詩文の面相あることを公言しつ。されど逍遥子はその面相の何物なるかを示さゞるのみならず、またその面相のまことに有るべき所以をも示さゞりき。よの常の論理に従ふときは、一事物の有る所以を示さざる間は、これを有りと認めずして無しと認むべきものなれば、われは逍遥子が既に指し示したる没却理想を唯一面相なりとして評論することを得べし、若しまた面相といふ語に既に唯一ならざる意義ありとせば、われは没却理想を面相といふを非なりとして評論することを得べし、没却理想を質なりとして評論することを得べし。かゝる評論をなさむ折のわが貴は、他日逍遥子が没却理想と併び立つべき第二以上の面相を示したるとき、或はこれを駁議し、或はさきの没却理想を詩文の唯一質としての評論を訂正するにあるべきのみ。  されどわれは今此権利を用ゐざるべし、此権利を用ゐざる上は、詩文の没却理想以外の面相の有るべきことを妄信すべきか。答へていはく。あらず。さらば又詩文の没却理想を逍遥子が蕃美学なりとしたる評論を取消すべきか。答へていはく、あらず。  逍遥子が没却理想は依然たる逍遥子が審美学なり。その没却作家以外の面相、没却理想以外の面相をば逍遥子不説として顧みざることを得べく、われはこれを不問にして棄て拍くことを得べし。唯逍遥子が審美学は復た円通の道にあらずして、欠陥の論たらむのみ。これを一面相の審美学と謂ふ。  逍遥子のいはく、没却理想はシエクスピイヤが傑作に於いてこれを見る、われはシエクスピイヤが作皆没却理想なりといはずと。  こは逍遥子が平等見も猶ほシエクスピイヤが作中に於いて傑不傑の分を立てたるものに似たり、さて皆没却理想なりといはずとは、傑作は没却理想にして、不傑作は非没却理想なりとのこゝろなるべし。  逍遥子がシエクスピイヤの作中に於いて傑不傑の分を立てたるは、上に所謂度量の大小に同じかるべし、おらば度量の大小は即ち作の傑不傑にして作の傑不傑は即ち理想の没却非没却なるべし。  逍遥子のいはく。シエクスピイヤの衆戯曲家に殊なるは花形の宝鏡の披璃製の小鏡に殊なるが如し。われはシエクスピイヤの傑作を没却理想なりとすれども、総ての「ドラマ」没却理想なりといはずと。  こは逍遥子が特り没却理想なる戯曲と没却理想ならざる戯曲とを分ちたるのみならで、能く没却理想なる戯曲を作る詩人と、没却理想なる戯曲を作ること能はざる詩人とを別ちたる言なり。  逍遥子はこれによりて作者の高下をば定めずといふ、されど没却理想なると没却理想ならざるとにて、作の度量の優れると劣れるとを知るは、逍遥子が一面相審美学の標準なれば、シエクスピイヤは到底一面相の上の大詩人たるに差支なかるべく、その他の衆戯曲家は到底一面相の上の小家数たるに差支なかるべし。  逍遥子が没理想は、当初戯曲の体裁に伴へるが如くなりき。われはこれがために戯曲にして没理想ならざるものゝありやなしやを疑ひき。今や、没却理想ならざる戯曲あることをば、逍遥子みづから言へり。シエクスピイヤが曲中既に没却理想ならざるものあるが如く、文学史上に名を列ねたる衆戯曲家には、終身一篇の没却理想なる戯曲をも作り得ざりしもの多きなるべし。  ハルトマンが如き審美家も、必ずしも戯曲の旨と戯曲の体と相伴へりとはせず、戯曲の旨ありて叙情詩の体をなすものを「ドラマ」的叙情詩と名け、又小説中にも「ドラマ」の旨入りたる多しといへるは、戯曲の旨の戯曲ならぬ詩の体に伴ふべきを示したるなり。戯曲の体あるものに三種を分ちて、一つを叙情戯曲といひ、次を叙事戯曲といひ、次を「ドラマ」的戯曲といひたるは、戯曲の体の戯曲ならぬ詩の旨をも含むべきを示したるなり。  旗?り戯曲の体ありて「ドラマ」の旨なきものに至りては、ハルトマン等が知らざるところなるに、逍遥子はシエクスピイヤが作の傑出ならざるものに然るたぐひありといひ、又衆戯曲家の作に然るたぐひ多しといふ。こは逍遥子が「ドラマ」といふ語のよの常の意義生はいたく殊なるがためなるべし。  逍遥子が「ドラマ」の叙情詩にも、叙事詩にも、戯曲にも、小説にも通ずべき意義あるが如くなることをば嘗て論じおきつ。されどその詩の諸体に通ずるは「ドラマ」の体として通ずるにはあらず、所謂没却理想の旨として通ずるなり。宜なるかな、没却理想ならざる戯曲といふもの尚来て、遂に「ドラマ」の旨なき戯曲を現じ来れること。  われ是に於いてや、逍遥子が猶ほ戯曲と書して「ドラマ」と傍訓するを怪み、その「ドラマ」即ち没却理想詩と戯曲との限界尚未だ明ならざるを惜みき。  逍遥子のいはく。「ドラマ」に大「ドラマ」と小「ドラマ」とあり、大なるものは活差別相を具へ、小なるものはこれを呉ふることなし。「ドラマ」は没挿評の詩なり。大没挿評詩は活差別相を具へたるが故に、これを没却理想なりとし、小没挿評詩は活差別相を具へざるが故に、これを没却理想ならずとすと。  こは逍遥子がはじめてその所謂ηドラマ」の体を表し出したる言葉なり、董し逍遥子が「ドラマ」は没却理想を以てその旨とし、没挿評を以てその体としたるならむ、こゝろみに詩の諸体に就いて、作者の客観的叙法を用ゐて、評(感情によれる言葉)なからしむべきものを求むるに、吟体詩には叙事詩あり、戯曲あり、読体詩には小説あり、そのこゝに入ること能はざるものは唯叙情詩の一体のみ。  れば没挿評の性、即ち逍遥子が「ドラマ」の体をば叙事詩、戯曲、小説の三つのもの、皆通じて具へたるならむ、今没挿評といふ「ドラマ」の体と、没却理想といふ「ドラマ」の旨との占領すべき審美上の区域を並べ挙ぐるときは左の如し。              銀憎詩  没挿評(ドラマの体)   叙事詩  没却理想(ドラマの旨)   戯曲              小説  さて没挿評詩の大小、即ち「ドラマ」の大小は活差別相の有無によりて分るといへど、活差別相即活平等相は没却作家即没却理想の現ずるところに過ぎざれば、没挿評詩の大なるものと小なるものとの細区別は左の如くなるべし。         詩  没挿評詩 詩  さて没挿評と没却理想との二つを基として、詩の金域を組立つるときは、そのさまおほよそ左の如くなるべし。 詩  右の表を見るときは、逍遥子が「ドラマ」の旨なりとする没却理想と逍遥子が「ドラマ」の体なりとする没挿評とは並び存することゝ並び存ぜざることゝありて一様ならず、旨としての「ドラマ」(没却理想詩)はすべての詩体を通じて、その大なるもの、その傑なるもの、その度量優りたるものを統べたり。体としての「ドラマ」(没挿評詩)は叙事詩、戯曲、小説の三体に通じて、叙情詩に通ぜず、大小、傑不傑、度量の優劣に至りては、その問ふところにあらず。  われ是に至りて「ドラマ」と戯曲との、逍遥子が用語上に大差別あるを明にすることを得しが、逍遥子が猶ほ戯曲と書して「ドラマ」と傍訓することある所以は、遂にこれを明にするに由なし、或は思ふに逍遥子は「ドラマ」といふ語を三義に分ち用ゐるものか。  若しこの数節の分解にして、甚しき過謬なきものとするときは、逍遥子が用語の変通自栓にして逍遥子が立言の殆端侃すべからざりしを知るに足らむ。  逍遥子のいはく。われ「ドラマ」の例に鬼貫が俳句と宗吾が実伝とを引きしことあり。没挿評即没却理想と解せられしはこれがためならむと。  逍遥子が「ドラマ」主義の例に俳句と実伝とを引くべくば、その所属は左の如くなるべし。  わが当初没理想の語に没挿評の義を含ませたる逍遥子が言を疑ひしは、没理想の義、後に没却理想の義と改まりて、別に没挿評の義を生じ、遂には没却理想にして没挿評にあらざるもの(詩にては大叙情詩)と没却理想にあらずして没挿評なるもの(詩にては小叙事詩、小戯曲、小小説)とを生ずべきを預知するに由なかりければなり、われはまことに没理想の語に没挿評の義を含ませたるを疑ひき、されど没理想即没挿評とあやまり解せしにあらず。故わが当時の言にいはく。没理想は没理想にあらずして没挿評なることあるを見たりと。  逍遥子のいはく。叙情詩人の極大なるは預言者なり、「ドラマチスト」の極大なるは不言の救世主なり。彼も此も没却理想なり。さるを我叙情詩に薄くして、「ドラマ」に厚しとやうにいふものあるは違へりと。  こゝに「ドラマ」生いひ、「ドラマチスト」といへるは、没挿評詩、没挿評詩人にして、没却理想詩、没却理想詩人にあらず。この用語例をいまだ示さゞる間は、「ドラマ」即没理想詩の義を没挿評詩とも無理想詩とも解すべく、「ドラマチスト」即没理想詩家の義を没挿評詩家とも無理想詩家とも解すべかりしなり。  逍遥子のいはく。叙事詩の没理想を取らざるかと怪まれたるは、没理想をわが好尚の唯一点とおもはれしためならむ、こは人の誤解なるべしと。  逍遥子が叙事詩の没理想を取らざるかと疑はれしは、その没理想の義と「ドラマ」の義とのさだかならざりしためなれば、これを敵智の誤解といはむよりは、立書の失当といふべきならむ。没却理想は唯一点にあらずして、一面相なりといへども、敵智の判断に変易なきことは上に辯じたる如し。  逍遥子は烏有先生に向ひて四問をなしていはく。  第一間、先生が戯曲を評して理想見えたりといふは、人物の上に理想あらはるといふこゝろなるか。  第二問、押並ての戯曲の上をかくいふか。  第三問、シエクスピイヤが理想はその傑作の全局にあらはれたりといふか。ミルトン、バイロン等が叙惰詩の如くに。  第四問、シエクスピイヤが理想はその傑作の金局にあらはれたりといふか。衆戯曲家の作の如くに。  鳥有先生の四答は必ず皆一向記を作さむ。  第一答、然り。  第二答、然り。  第三答、然り。  第四答、然り。  さらば烏有先生が皆然りといふは何故ぞ、答へていはく。逍遥子は美の主観惰のみを指して想とし、其の客観相を指して非想とすれども、ハルトマンは主客両観想を立つ。されば哲学者の比量より生じ来るべき美の義は即ち是れ美の主観想なり、美の主観想と共に美の客観想立てばこそ、抽象美(類想)を本尊にしたる旧理想家を排して、結象美(個想)を極致にしたる新理想家にはなりぬるなれ、(審美学第二巻、序九及一〇面)  逍遥子は詩に理想あらはれたるもの(非没却理想詩、小詩)と理想あらはれざるもの(没却理想詩、大詩)とを分てり、その理想あらはれざるところには、何物かあらはれたる、逍遥子はこれを活差別相及活平等相なりをいふ、彼は個物的にして此は因果的なり、個物的にして個想ならざるものは、若し個物の実ならずば、個物の実の模遺なるべし、因果的にして目的なきものは、若し物力の実ならずば、物力の実の模作なるべし。  ハルトマンは藝術を模倣の低級に蹴落すに忍びず、故藝術の上に個物の実の模造を立てずして個想を立て、物力の実の模作を立てずして小天地想を立つ。  逍遥子が非没却理想詩即小詩はハルトマンが類想の詩なり、抽象美の詩なり。逍遥子が没却理想詩即大詩はハルトマンが個想、小天地想の詩なり、結象美の詩なり。  ハルトマンが美は皆想にして、実にもあらず、実の模倣にもあらず、実相実相と追ひゆくときは、声も声にあらず、色も色にあらずといふ極徴の論は先に示しつ。実相既にかくの如くんば、これを模倣したるもの、はた何の声をかなし、何の色をかなさむ。これをハルトマンが稗く実を立てたる論を被する段とす、(巻二、一乃至三面)  美既に実にあらずといはゞ、美は主観にありといふ説必ず起らむ。詩人の詩を空想裏より倍来たるや、(内美術品)これを言葉となして、主観より客観に移さで止まむや。(外美術品)若し美は圭観にありといはゞ、是の如く外美術品の成る所以、遂に解すべからず。今一歩を進めて、かゝる外美術品の吟者読者に主観の美を感得せしむる所以を問はゞ、美を主観にありとする論いよ/\窮せむ。また作者は警閲して一詩を成したるに、これを吟じ、これを読むものは、皆一斉におなじ主観をなすこと一瞬間を出でずとせむか。作者の難と吟者読者の易との分るゝ所以は、到底美を主観にありとするものゝ得て解するところにあらず。これを主観想に偏りたる論を被する段とす、(巻二、三乃至四面)  美既に実にあらず、又実の模倣にあらず、又主観想にあらずといはゞ、かの穣く実を立てたる論にもあらず、この主観想に偏りたる論にもあらざる第三論必ず起らむ、董し主観の美を生ずるは作者の上に限れり。吟者読者はおのが官能によりて、客観実なる字形若くは声波を受く、この時に当りて、客観想なる詩の美は、かの客観実なる字形若くは声波に即きて、吟者読者を侵すなり。外美術品は客観実なるを以て、自ら美なるにあらず、されど作者のその主観より生じたる美を、外美術品に移しおきたるために、外美術砧は吟者読者に美なる空想図を現ぜしむべき因縁となれり。美は実にあらず、然れども実に即くにあらでは、主観に入ること能はず、その実に即いたる美の主観に入るに当り て、実より離れたるを美の映象といふ。これを先天によりて実を立てたる論となす。(巻二、五面以下)  警楡を以ていふときは、揮き立実論は阿含の如く、偏りたる主観想論は般若の如く、先天立実論は法華浬榮の如し。されど造化の上に於いて、阿含の有と般若の空とを法華浬薬の非有非空の裏に収め入るゝには、聖教量に待つことあり、我が審美学の美世界の上に於いては、ハルトマンの烏有先生が比量猶ほ能く稗き立実論と偏りたる主観想論とを調和するに余あり。これを我評論の立脚点とす。  われ我が文脚点にありて逍遥子が四問を聴かむに、その第一間にて人物の上にあらはるといふ理想は個想を指したるなり。個想のあらはれたるをば、いかでか理想あらはれたりといふべからざらむ。故われは烏有先生をして答へしめていはく。然り。  第二問に押並ての戯曲の上の理想といふは、類想をも個想をも兼ねていふなり。こゝにてもわれは烏有先生をして答ヘしめていはく、然り。  第三問にてシエクスピイヤが傑作の全周に理想現れたること、バイロン、スヰフト等が叙情詩の上にあらはれたるが如くなりやといへるは、叙情詩に見ゆること多き能感の情のシエクスピイヤが作にて見ゆること少く、叙情詩に見ゆること少き能観の相のシエクスピイヤが作にて見ゆることを挙げて、情を想とし、相を非想とする見解より、シエクスピイヤが傑作をば想あらはれたりとし難からむと問ひ究めたるなり。されど我が立脚点よりみるときは、感情は主観の理想にして、観相は客観の理想なり。故われは烏有先生をして答へしめていはく、然り。  第四問にてシエクスピイヤが傑作の全局にあらはれたる理橿を、衆戯曲家の作の上にあらはれたる理想におなじきかといへるは、類想を想とし、個想を非想とする見解より出でたる言に過ぎず、故われは烏有先生をして答ヘしめていはく、然り。  逍遥子は第一及第二問に逢ひて、烏有先生をして然りといはしむるを怪まず。逍遥子は唯烏有先生が第三及第四問に蓮ひて、然りといふを怪むべきのみ。  われ逍遥子に従ひて能観の相を理想にあらずとせむか。われは乃ちこれを実とするに至らむ。能観の相を実とする時は、詩は模実の言語となりて、詩人は模実の器械とならむ、これ我が忍びざるところなり。逍遥子が論法は能く非想非実をも立つべけれど、(聖教量)わが論法は想と実との間に第三者を容るゝこと能はず。(比景)是を以てわれはいふ、能観の相は実にあらずして想なりと。  われ逍遥子に従ひて個想を理想にあらずとせむか、わがこれを実とするに至るべきこと亦た復た是の如し、是を以てわれはいふ、個想は実にあらずして想なりと。 夫れ非想生は何ぞや、吾人比量の見を以てするときは非想は即ち実なり、かるが故に吾人比量の見を以て逍遥子が非想論即没却理想論をみるときは、是れ現実主義のみ、自然主義のみ。図らざりき、逍遥子は覆面したるゾラならむとは。  さるに逍遥子は現実自然といふ表詮比量の我をも立てず、非理想無理想といふ遮詮比量の我をも立てずして、没却理想即大理想、衆理想皆是皆非といふ聖教量の我を立てたり、何ぞその見地の高くして遠きや。さる見地にありながら、猶烏有先生に告げていはく、我は漸く学に志せり、今より修行門に入りて索材を蒐めむと、図らざりき、我が早稲田文壇にこの徴行の釈迹を見むとは。  逍遥子のいはく、相対の象の絶対の体より生ずる究覚の目的は何ぞと。  ハルトマンの烏有先生これを聞かば、唯わが無意識の哲学を読めといはむ。われは唯反問して、衆理想の象の没却理想の体より出没する究党の目的は何ぞといはむのみ。嗚呼、我と逍遥子とはいづれか学に志すものぞ、いづれか修行地にあるものぞ。  因にいふ。逍遥子の没理想の語を没主観、没挿評、没類想、没成心の数義に用ゐたるや、われ山房論文の附録に於いてその義を取りてその言を取らずといひき、逍遥子答辯を作りて、われに我が意の違へるを貴む。われはこれを読みて、違へるものゝ我が意なるか、将た逍遥子の意なるかを疑へり。夫れ逍遥子が能立の没理想は一語数義なりしこと、その能立の「ドラマ」の一語数義なるが如し。われ若しよの常の敵智を以てこれに対せむか、われは唯随拠に立者が自誘相違の過に陥りたるを示しゝならむ。さるをわれ一歩を立者に譲りて、われ其意を取りて、其言を取らずといひき。こはわが逍遥子を敬するこゝろより出でしなり。されば一語数義の没理想はみづから遠ひたり、(自運)是れ立者の似能立ならむのみ、一語数義の没理想をばわが違へたるにあらず、(非他違)是れ敵智の真能破にはあらざるか。(明治二十五年三月) 早稲田文学の後没理想 逍遥子おほいに後没理想の論を説き、説き畢りて書をわれにおくりていはく。没理想に関する論辯はこれにて一旦止むべし。されど汝はわがこたびの論のうちにて難駁を蒙りたるものなれば、正当なる防禦せよといふ。 逍遥子まことにこれのみにて其論辯を止めたらむに、われこれに対して言ふところあらむか、最終の言葉は我口より出づべし、若しわれこれに対して言ふところなからむか、最終の言葉は彼の口より出でし盤なるべし。  最終の言葉を出だすものには、必ず多少の影謹きところあり、奈何といふにその敵手の復た膏はざるは、言ふべき理なきがためにあらずして、理あれども敢て言はざるがためにはあらずやと疑ふものもあるべければなり。  われ若し逍遥子が書(所謂矢ぶみ)にいへるところに随ひて、その後没理想論を駁せむか。これ逍遥子を影護き地位より救ひ出して、却りてみづからおなじ地位に陥るに似たるべし、この謀はわがためにいと拙からむ。  勿論逍遥子はわれに防禦せよといひて、われに逆寄せよといはず、わが防がむことをば彼望めども、攻めむことをばかれ望まざるなるべし。然はあれど筆戦墨闘の間にては、防ぐことゝ攻むることゝの別をなさむこと甚難し、防ぐとは我言の非ならざるを示すなり。攻む芝は彼の言の非なるを示すなり。我言の非ならざるを示さむとするときは、勢かれの言の非なるを示さサること能はず、彼の言の非なるを示さむとするときは、勢わが言の非ならざるを示さゞるべからず。  われ縦令逍遥子が言に従ひて、攻めずして防がむとすといへども、防禦のために放つ矢石の敵を傷ること、攻戦のために放てるものに殊ならざるべし。  逍遥子既に復た出でゝ戦ふこゝろなしといふを、われ若し猶矢石を放ちてこれを傷ることあらば、たとひ我挙は我より出でたるにあらずといへども、たとひ我挙はかれの矢ぶみもて促し挑みたるところなりといへども、わが最終の言葉にはおそらくは影護きところあることを免れずして、我謀は到底太だ拙しとせらるゝに至らむ。  今までは逍遥子の時文評論と我山房論文と、まことに戦争をなし居たるものとせむか、わがために謀るときは、最終の言葉を逍遥子に譲りおきて、わが軍を旋らすに若くものなからむ。  然はあれど我が早稲田文学に対して出しゝ言を顧みるに、おほよそ三つあり、曰早稲田文学の没理想、曰早稲田文学の没却理想、曰逍遥子と烏有先生と。就中初の文と中の文とは到底戦争の文といはむよりは平和の文といふべく覚ゆれば、まことに筆鋒をかなたに向けそめたるは、おそらくは後の一文ならむ。今われ若し逍遥子の書のいふところに従ひて、最後に逍遥子が言の非なるを嗚らして止まむとせば、われは影護き地位に陥る如しといへども、われ厳に批評の区域を守らむことをつとめて、逍遥子が後没理想論を評すること、嘗てその没理想を評し、その没却理想を評せしときの如くならむか。世間おそらくは能くこれを以て我を累するものなからむ。  夫れ古人は九原より起たしむべきものにあらず。されど吾人は敢て古人の書を評することあり。逍遥子まことに口を喋みて、復た没理想を説かずといへども、われこれを評すること市人の文を評するが如くならば又何ぞ病とすべけむ、矧や逍遥子は古人にあらざるを以て、その一旦郵ちたる橡大の筆を、再びとり上ぐることを得べきをや。  われ今この文に題して早稲田文学の後没理想といふわれは此題の逍遥子に嫌はるべきを知れり、然れどもわれは又此題の逍遥子が論を指して善く中れるを知れりo  逍遥子の始て没理想を説くや、われこれを評するに当りて、其用語を襲用して没理想といひき。没理想は字のまゝに解して無理想なり。逍遥子がそれまでに公にせし文は、我が斯く解することを妨げざりき、あらず、世人の斯く解することを妨げざりき、あらず、世人も我も斯く解するより外に解すべきやうなかりき。後逍遥子は没字に附するに埋没若くは没却の義を以てして、これを無の義に解せしを誤解なりといひき。  世人はいざ知らず、われは没理想を無理想と解して、わが評者たる地位より罪を逍遥子に穫たりとすべきものなりや否や。あほよそ批評の力の及ぶ所は、評せらるゝ論旨の文字にあらはれたる範囲より外に出づること能はず、逍遥子は世人にも我にも必ず無理想の義なりとおもはるべき没理想の語を用ゐて、別に解釈を附せざりき。而して逍遥子が文は篇ごとに分明なる結末ありき、逍遥子が胸裡たとひ始より没却理想ありきとしても、其当時の文を評するものはこれを推察する貴あるべうもあらず、若し文字の上にあらはれたるところに就ての評を誤解なりとせらるゝときは、批評とは隠徴を穿襲する義になりて、遂には比量の境界を脱し、論理の範囲を離るゝに至らむ。危しとも危きことならずや。  逍遥子は胸に没却理想といふ一主義を蓄へて、これを文字にあらはさず、没理想といふ一術語を製してこれに解釈を附せざりき、これ恐らくは誤り説けるなるべし、説くことの誤りたるを措いて問はず、評することを誤りたりと貴むればとて、評者いかでか罪に服すべき。  逍遥子若し我に求むるに其言論を評することを以てせずして、其艦番を評することを以てせば、我批評眼の太だ鈍きがために、逍遥子を以て、はじめ没理想の語を無理想の義に用ゐ、わが烏有先生の言を引いてこれを評せしを見て、逮に没字に附するに没却の義を以てしたるものとするが如きことなしとも言ひ難し。わが逍遥子の意に違ふをも偉らで、穿鑿の評を避け、文字の上に見れたる論の評を作すものは、かゝる危険をおそるゝこと甚しければなり。  わが没理想を評せし後、逍遥子はその没却理想の主義を示しき、逍遥子はこの主義を示したる後も旧に依りて没理想といふ語を用ゐたりしに、われはこれを評するに当りて、没却理想といひて、前の評に混ぜざらしめき。逍遥子のいはく。没は没却なり、埋没なり、されど無を絶無、本来無とだにせずば、無なりと解せられても差支なしといへり、われは絶無ならざる無を以て無に非ずとし、多少その有を認めたるものとす、われは本来無ならざる無を以て無にあらずとし、早晩その有を認めたるものとす。かるが故にわが評者たる地位にありては、此間におごそかなる限界を設けて、没理想より没却理想に入りたる始終を明にせむとしたること、当然の理なるべし。  今やわれ此文に題して後没理想といへり。こは逍遥子がこのごろ説くところの前に説きし没理想にもあらず、中ごろ説いたる没却理想にもあらざること分明なればなり、われはこゝに没却理想と後没理想との最著き差別を挙げて、わが命名の根拠を完めむ。  逍遥子は没却理想を立てゝ、衆理想皆是皆非なりといひき。われこれを評していはく、逍遥子若しみづから絶対の地位に屠り、聖教量を以て言を立てば、かくいひても好かるべし、惜むらくは逍遥子一切世間の法に説き及ばずといひき。此評出でゝ後、逍遥子は後没理想論を作りて、今までの出世間法に世間法を加へたり。  後没理想の論にいへらく、さきに欲無限の我を立てゝ、衆理想皆是皆非なりといひしは、造化に対し、絶対に対する個人の進蓬なり、早稲田文学の時文評論記者として現世に対する逍遥はやはり欲有限の我を立てゝ義務を尽せり、かなたは常にして、こなたは変なり。。わが生涯は是の如く二境に分れたりといへり。  逍遥子はこの書を作して、おのれが生涯を、造化の絶対に対する生涯と人間の相対に対する生涯とに分ちたるは洵にさることなるべけれど、評者たる我は此後没理想論の豪も前度の没却理想論とおなじからざるを見る、夫れ衆理想とは何ぞや。所謂理想の何物なるかは姑く問はず、その衆人の懐抱するところなるより見れば、衆理想は言ふまでもなき世間の理想なり、相関の理想なり、この世間の理想に対し、相関の理想に対して、欲無限の我を立てむとしつればこそ、逍遥子は星川子がためには万理想を踏み付けて傲立したるさま、天台一万八千尺、碧林瑠草、塑楼玉闕、姻霧の裏にほの見ゆる如しと称へられ、我がためにはいとも長き聖教量によりて言を立つと評せられ玉ひしなれ。是れ早稲田文学の没却理想なりき、今や逍遥子はその欲無限の我を以て、絶対を研究する天職を掲さむといひ、その欲有限の我を以て相対に対する料理をなすといふ、されど絶対はおのづからにして無限なり、逝蓬子が欲無限の我を立つるを待たず。相対はおのづからにして有限なり。逍遥子が欲有限の我を立つるを待たず。絶対に対しては限あらせじと欲し、相関に対しては限あらせむと欲すといふは、唯是れ絶対と相関との別より出でたる自然の境界にて、此間には誰も逍遥子が特殊の面目を見出すことなからむ。是れ今の早稲田文学の後没理想なり。  逍遥子は今後没理想を以ておのれが本意なりとし、評者たる我が嘗て早稲田文学の没却理想論中に於いて、その中に埋没したりし後没理想の生涯を穿鑿し得ざりしを各めて、これを誤解なりといふ。殊に知らず、相対に対しては欲有限の我を立てゝ、聖教量を僅上なりといふ逍遥子が、嘗て一たび相関なる衆理想に対して街是皆非の断案を下し、おのれ欲無限の我を立てゝ衆理想家を済皮せむとするが如きさまを見せしは、金く是れ誤り説きたるものなるを。  わが此文に題して後没理想といふことの止むべからざるはこれのみにても明なるべし。いでや、これより逍遥子が後没理想の論を評しこゝろみてむ。  逍遥子は先づ    没理想の由来 を説きて、かたはらハルトマンの審美学と我評論とに及びぬ。  われは此篇を読みて、始て逍遥子が理想といふものゝ解釈を聞くことを得たり。蓋し逍遥子が所謂理想は個人が平生の経験学識等によりて宇宙の事を思議し、現世の縁起、人間の由来、現世と人間との何たる、此世を統ぶる力、人間未来の帰宿、生死の理、霊魂、天命、鬼神等に関して覚悟したるところなりといふ。逍遥子が所謂理想は個人が哲学上の所見なり。  わが見るところを以てすれば、個人の哲学上所見は比量智なり。詩といひ、美文といふものは現量智なり、若し直ちに比景の所見を詩に入るゝものあるときは、レツシングが嘗てポオプを論ぜしとき、ルクレツツをためしに引きて詩人の衣を藉りたる哲学者なりと笑ひしにや似るべき。いかなる楽天の詩も、いかなる厭世の詩も、一たび思議にわたりては詩天地より逐ひ出さるべきこと勿論なり。  既に詩を認めて思謹を経べからざるものとし、現量智生のものとするときは、作者の哲学上所見は到底明白に其詩中にあらはるゝこと能はざる理由あり。一時の詩興にて浮世を悲しと観じ、また人間を楽しと観ずるは、哲学上の厭世主義若くは楽天主義にあらず。哲学上の厭世楽天なんどの主義を明白にあらはすには、先づ用語例を定めざるべからず。その用誘には解釈を附せざるべからず。その用語をば必ず一たび解釈したるとほりに使ひ、他の意味には使ふべからず、その用語のかはりには他の意味同じと見ゆる語を据うべからず。世間宣かく窮屈なる法度を守りて詩を作るものあらむや。  詩人は音響のために言葉を換ふるものなり。詩人は観相に継ぐに観相を以てすれども、意義に接するに意義を以てすることなきものなり。詩人は言葉とこゝろと大小相掩はざる諸譬楡を出すことを好むものなり。詩人は哲学者の如く論理の道を走りて単より複に赴くことなきものなり、これ等は皆詩人の明向に其哲学上所見を詩中にあらはすこと能はざる理由なり。  されど詩人はひとりその哲学上所見を詩中にあらはすこと能はざるのみならず、またこれをあらはすことを欲せざるべし。われは前段なる不能の理由をも、おもにレツシングによりて陳じたれば、こゝに不欲の理由を陳ずるに当りても、又レツシングが論に拠らむとす。  レツシングのいはく。哲学上の所見をあらはすには、必ずしもいづれの部分も同じやうに明白なることを要せず。二三の真理は直に枝則より出づべけれど、その他の真理は断案と断案とを積み畳ねてはじめて出だすことを得べし。この断案に断案をかさねて出だしたる真理は、他の哲学者の立脚点より見るときは、却りて又底に根則より出づべきものならむ。哲学者は人の廉下に俺ること能はざるものなり。哲学者はたとひ明なる室のみならで、暗き房もありといへども、みづから一家を営みて、そこに安ずべき貴を負へり。詩人に至りてはこれに殊なり、その作るところは節々人に入ること深からざるべからず。一篇の詩には光明透徹して一点の窮あらしむべからず、此故に詩人は快楽を写きむとするときはエビクウルと共に語り、徳操を写さむとするときはストアと共に語るべし、セネカ若しおのが所見の根則を守りつゝも、詩を作りて快楽を写さむとしたらましかば、その果なきさまいかなるべき。これに反してエビクウル派の人若し徳操を歌はむをりには、その徳操といふものゝ姿遂に遊女の姿にあらはるべしといへり。(雑文神学及哲学部一面以下)  作者の哲学上所見は既に明白に詩中にあらはるべきものにあらず。されど常の生活にて歓喜の実感に富めるものは、其審美感の中に楽天の情ほの見ゆべく、常の生活にて悲哀の実感に窟めるものは、其審美感の中に厭世の憎ほの見ゆべし。これを作者の主観といふ。  所観の相と能感の情と互に相出入して、両者の上に超出せるものゝ成就したる詩を戯曲といふ。ハルトマンのいはく。戯曲の作者は金く個人の主観(能感)を遠離して、深く曲中人物の主観に潜めり。個人の主観の時ありて曲中人物の主観に入ることあるは、意識ありて入るにあらず、料らずも流れ入るなりといへり。(審美学下巻七四九面)  されば明白に詩中にあらはるべきものにあらざるは猫り作者の哲学上所見のみにあらず、その詩を作るに臨みて動かしたる楽天厭世の憎も亦戯曲なんどの中に明白にあらはるべきものにあらず、さればシエクスピイヤが曲にシエクスピイヤといふ個人の主観のあらはれざるは、唯曲の妙処といふのみに。て、戯曲といふものゝ本体に縁起したる性質に過ぎず。わが嘗て没却理想を論ずるに当りて、早稲田文学の没理想は没理想にあらずして没却主観なりとおもひしはこれがためなり。  逍遥子は別に論を立てゝ主観といふ語を却けつ。その亜米利加の人エワレツトが言を引きての辯にいへらく。吾党とエワレツトとの所謂主観は私憎なり。直現惰感なり。平生の談話、愁歎、誹誇、罵膏、辯難等の如き狭隆なる利害なり、叙情詩人はたとひ憎感を歌ふといへども、そは公憎なり、再現惰感なり、主観の影なり。主観の映両なり。傑作中の哀悼、恋愛、慨世、憂国等の如く小利害を脱したるものなりといへり。  わが見るところを以てすればエワレツトと早稲田党との所謂主観は審美感にあらずして実感なり。美人の画に対する人の情は審美感なり、活きたる美人に対する人の情は実感なり、劇を観て泣くは審美感なり。民をおもひて泣くは実感なり、こはひとり感納性の上のみにはあらず、軽じて製作性の上より説くときは平生の談話、愁歎、誹誘、罵晋、辯難等をありのまゝに言葉にあらはすは実感なり。哀悼、恋愛、慨世、憂国等の詩人の傑作中にあらはるゝは審美感なり、エワレツトと早稲田党との彼と此とを分てるはまことにさることながら、そのかなたを私情なりとし、こなたを公情なりとするは頗妥ならず、その私情なりとする罵晋、辯難にも国家をおもひて好民を罵膏し、学術を噌へて迂儒を辯難するが如く公なるものあるが如く、その公憎なりとする衷悼、恋愛にも個人に対して動くときは到底私を免れざるものあるべし。又エワレツトと早稲田党とが実感を直現なりといひ、審美感を再現なりといへるは、かなたの実に蓮ひて直に起ると殊にて、審美感のハルトマンが所謂約束ある前納 として起るを見て立てたる区別なるべし、(審美学下巻四二面)原来審美感は恩議して起すものにあらずして、意識なくして起すものにはあれど、其人の画に対して起す審美感は活きたる美人に逢ひたらむをりに起すべき実感の約束の前納と看做さるゝことを得べし。かつて恋せしことある人はその既往の恋の実歴を喚びおこして、此の如き前納感をなすべく、まだ恋知らぬ少年はおのれが本能を役して恋といふものはかくあるべしと思ひ遺りて、此の如き前納感をなすべきは覩易き理ならむ。  さればエワレツトと早稲田党との主観といひ、私情といひ、直現惰感といへるものは詩人の実感なり。彼等の主観の影といひ、主観の映画といひ、再現惰感といへるものは詩人の審美感なり。  わが詩を論ずるや、常に詩人の実感をば度外視したりき。故いかにといふに詩人も固より人なれば、飢うれば食はむことを思ひ、俺めば眠らむことを思ふが如き実感なきこと能はずといへぎも、その実感の直ちに歌ひ出すべきものにあらざるは言ふまでもなければなり、詩人の詩を作るときの主観は審美感ならざること能はざるは言ふまでもなければなり。  夫れ作者の哲学上所見のあらはるべからざるは詩の本性なり、作者の実感のあらはるべからざるもまた詩の本性なり。詩は初より没却哲理なるべきものなり。詩は又初より没却実感なるべきものなり。逍遥子がシエクスピイヤの戯曲を評せし言葉の天下の耳目を驚かしゝは抑何故ぞや、答へていはく。シエクスピイヤの曲を没理想なりといひければなり。シエクスピイヤの曲を没理想なりといひしを、世の人も我も、プラトオ以来哲学上に多少の定義ある理想を無しとせるなりとおもひければなり、逍遥子が共党人と共に没主観の名を却けて我評を難ぜしはいと面白けれど、その面白き様なるは抑何故ぞや。答へて云く。わがシエクスピイヤの曲に能観の相勝ちたるとシルレルの蟷に能感の惰勝ちたるとを説きしを難じて、荷くも大家の作には主観あるべからずといひければなり。わが所謂能観の憎、主観の感は審美感にして、古今の審美学者が認めて正当なる叙情詩の部分となしたるものなるを、実感なるべく見ゆるやうに言ひ做しければなり。旗り奈何せむ、逍遥子が所謂理想は作者の哲学上所見にして、その所謂主観は作者の実感なることを。詩中にはおのづからにして作者の哲学上所見をあらはすことなし。逍遥子がその埋没を発明するを待たず、詩中にはおのづからにして作者の実感をあらはすことなし。逍遥子が共党人と共にその埋没を宣言するを待たず。詩の没却哲理にして又没却実感なるは詩の本体の当に然らしむべきところなれば、此間には誰も逍遥子と其党人との特殊の面目を見出すことなからむ。  逍遥子の後没理想論をなすや、肚嚢に没却哲理詩の義を蔵して、筆頭には旧に依りて没理想の字を写し出せり、その言にいはく。わが用ゐる如き意に理想といふ語を用ゐむこと、勿論幾多審美学者が古来用ゐ来りたる先例に違背すべしといふ。逍遥子何人なればか、敢て古今の審美学者の一たびも理想といはざりしものを名づけて理想とはいはむとすらむ。その実感を主観といへるに至りては、亜米利加の人某が言に基づけりとはいふものから、そのことさらに古今審美学者の用語例を蔑にして、故もなく新字面を作れるはおなじかるべし。  没理想の由来といふ文には、又逍遥子がシエクスピイヤを究めむとする方鍼を示されたり。逍遥子はこの段にて更にシエクスピイヤが曲を論じて、ハルトマンが所謂曲中人物の主観(個想)に活差別相といふ名を附したること、作者が能く癖 を避けて無私 なるに至りしを所謂理想(実は作者の哲学上所見)の見えずなりたる由縁なりと認めて、これに活平等相といふ名を附したることをことわり、この両相をシエクスピイヤが客観を評したる言葉なりとし、これにて評し到らざる所謂シエクスピイヤが衣観といふものを、おのが十余年を期して究めまく思ふ神秘なりといへり。  わが見るところを以てすれば、逍遥子はシエクスピイヤが詩の全局面に客観といふ名を附けたる後、更に塙の外なる別天地あるやうにおもひてこれに主観といふ名を負はせたるなり、逍遥子が所謂シエクスピイヤの主観はシエクスピイヤといふ個人の哲学上所見なり。シエクスピイヤといふ個人の其詩中にあらはさゞりける実感なり。  おほよそ一詩人の哲学上所見は、その詩巻中にて求めがたきものにて、その困難は詩の巧なるに従ひて増さり、又詩の叙情体を離るゝと共に加はるものなり。さればシエクスピイヤの哲学上所見とその実感とを知らむと欲して、猶その戯曲をあさらむは、氷を鎖りて火を寛め、沙を圧して池を出さむとするにや似たらむ。かゝる願あるものは速にシエクスピイヤが戯曲の集を抛ちて専らその伝記を捜るべし。想ふに、この般の探究は審美学者若くは戯曲を評するものゝなすべきところとせむよりは、歴史家若くは伝記を作るに意あるものゝなすべきところとすべきならむ。さればわれは逍遥子が十余年を期したる探究をも、審美上若くは詩を評する上よりは、あまりありがたしとも思はず。  次に逍遥子は千八百八十四年に無名氏が作りしシエクスピイヤ論に見えたる1列H利が理想を挙げて、この希臘古儒の理想を逍遥子自家の所謂理想と山房論文の理想とに比べたり。  逍遥子のいはく、プラトオの理想は鴎外の理想にはあらざるかといへり、われ答へて秀く。あらず。天地の間には常住するものあり、生滅するものあり、この常住のもの、時間の覇絆を離れたるものならでは、古今の哲学者は敢て理想と名づけざりき、プラトオとハルトマンとは理想を以て時間を離れたる、意識なき思想なりとす。されどプラトオは其理想を体として現世を象とし、彼を実在として此を幻影とせしに、ハルトマンは其理想を非実在として現世に体象あらしむ。わ・れは現世の象後には体ありて実在すとおもふがゆゑに、わが理想はプラトオが理想に殊なり。逍遥子のいはく。わが所謂理想もプラトオが理想の意にて差支なしといへり、われ窃におもへらく、逍遥子がシエクスピイヤを評するときに用ゐし理想といふ語はシエクスピイヤが哲学上の所見なり。その当代の理想(実は哲学風潮なるべし)とすら解すべからざることをば、逍遥子みづからことわりたるに、これをプラトオが暫学統なる世界の実花常住の本体たる思想即ちプラトオが理想に取られても差支なしとは何事ぞ、逍遥子のいはく。わが所謂理想をプラトオが理想に取られても差文なけれど、シエクスピイヤの理想(哲学上所見)が抜くべからざる説によりて明証せられざる間は、没理想(実は没却哲理)の名目を取除くべき由縁を知らずといへり、われ又窃におもへらく、没却哲理は詩の須く備ふべき性なり、シエクスピイヤの戯曲いかでか没却哲理ならざらむ、逍遥子理想といふ語を哲学上所見の義に用ゐむ限は、没理想の名員、取除けずと雖可なり、唯逍遥子はその所謂理想の一家の命名にして、古今の哲学者、審美家の用語例に違へるを忘れざらむことを妥するのみ。  次に逍遥子はシエクスピイヤを論ぜし無名氏の語にて円満なる意味にての模倣といへるを紹介せり、蓋し逍遥子は模倣に高級なるものと低級なるものとありとして、その高級なるものを神を師とすといひ、その低級なるものを貌を師とすといへり。所謂円満なる意味にての模倣は神を師とする高級の模倣なりとぞいふなる。  わが見るところを以てすれば、模倣は必ず低級なるものにて、まことの藝術上の製作は無意識の作用なること腰々論ぜる如し。無意識中なる神来の製作には、たとひ円満といふ「プレヂカアト」を添へたればとて、棋傲といふ名を下さむやうなし、模倣といふ語には着意の義あればなり、有意識の義あればなり。師神師貌の別に至りては漢学者流の奏諦に過ぎず。また何の辯ずべきところかあらむ。  次に逍遥子はシエクスピイヤを評せし無名氏が用ゐし「レアル」の語を実と訳し、「アンレアル」の語を虚と訳して、其実を鴎外の所謂実におなじとし、其虚を鴎外の所謂想に適へりとしたり。  われは「アンレアル」を虚と訳せずして、非実と訳す、こは虚実の対の我国及支那の談理者に濫用せられたるを嫌ひてなり、現に無名氏の実は我が所謂炎に応じ、無名氏の非実はわが所謂想に応じたれど、両者全く相同じきにはあらず、無名氏はプラトオ論者なりといへば、その実を幻影とし、其非実を本体とすべく、われはプラトオ論者にあらざれば、我実を実在せしめ、わが非実の想を実在せしめず。  次に逍遥子は上に見えたる実非実の縁によりて、おのが活差別相、活平等相の別を立てたることに説き及びて、山房論文に活差別相を個物的なりとし、活平等相を理法的なりと評したるを非なりとせり。。  逍遥子のいはく、活差別相は「ドラマ」の体を観るに国を万民としてみる如く、地球を五大洲としてみる如くすることにて、活平等相はおなじ体を観るに国を一国としてみる如く、地球を一地球としてみか如くすることなり。差別相は実にあらず、平等相は非実即ち想にあらず、又差別相は個物的ならず。平等相は理法的ならずといふ。  わが見る乏ころを以てすれば、活差別相の「ドラマ」に於けること国を観るものゝ万民としてみる如く、地球を観るものゝ五大洲としてみる如しといへるは、曲を共中なる個々の人物としてみるこゝろに相違なかるべく、活平等相の「ドラマ」に於けること国を一国と観じ、地球を一地球と観ずる如しといへるは、曲を一曲としてみるこゝろに相違なかるべし。曲を其中なる個々の人物としてみるは、我地位よりしても、かのシエクスピイヤを評せし無名氏の実とはしがたし。故いかにといふにプラトオが見るところによるときは、実(即ち無名氏の実ならむ)は創造的 なるものにして、曲中の人物は擬造的 に過ぎざればなり、されど我山房論文にて、曲を典中なる個々の人物として見たる活差別相を、個物的なりといへるに、又何の妥ならざるところかあらむ。さて曲を一曲として見ることの、無名氏の想即プラトオの理想にあらざるは、我地位よりも知らるゝなり。故いかにといふに、プラトオが理想界は天外にあり()といふに、詩人の手に成りたる戯曲は、プラトオが説に拠るときは実世界のいやしき模倣に過ぎざればなり。されど我山房論文にて、曲を一曲として見たる活平等相を、法律の万民を一国にまとむる如く、地理の五洲を一球に統ぶる如き論理的因果的なるもの と評せしに又何の妥ならざるところかあらむ。  逍遥子は没理想の由来を説き畢りて、虚設の人物公平入道常見といふものをして    陣頭に馬を立てゝわれに宣らせて いはく。逍遥が談理を後にするは、汝が記実を後にすると、其本意において相異なるところなし。逍遥は特に時文評論に対してしかいへるなり。逍遥が世間に向ひての願は記実と談理との前後なく並び行はれむことなり。逍遥は汎く世間に向ひて談理を後にせしめむとせしにあらずといふ。こは談理を後にし、記実を先にすといふ自説を自比量なりとするなり。  わが見るところを以てすれば、逍遥子が没却理想期の説に、談理は今の世に益少ければ後にすべし、記実は今の世に益多ければ先にすべしとやうにいへるは、椿に時文評論に対しての自比量にあらずして、汎く世間に対しての共比量なりしことは、逍遥子と烏有先生とゝ題したる我評に詳なり。今逍遥子の後没理想論は談理を後にすべく、記実を先にすべきものゝ時文評論に限れることを明にしたり。その共比量にあらずして、自比量なることを明にしたり、こはまことに然もあるべきことなり。  逍遥子は又常見にいはするやう。没理想は個人たる逍遥が方便なり。逍遥はこれを以て無限に対し、またこれによりて「ドラマ」を修む。時文評論記者たる遣溝には、別に有限に対する圭義の没理想に非ざるあり。この辯を補説したる仮遺の人物雅俗折衷之助といふものゝ言にいはく。鴎外は個人たる進蓮と時文評論記者とを混ぜり。これを第一誤解とす。鴎外は絶対に対する逍遥と一種の対相関主義を奉ずる逍遥とを混ぜり。これを第二誤解とす、鴎外は吾人と名乗り出でたる時文評論記者と絶対に対する逍遥とを混ぜり、これを第三の誤解とす。さて有限に対する別の主義のいかなるものなるかは他日没理想と題したる書一巻をあらはして、逍遥子みづから説くべしとなり、蓋し逍遥子はこゝにて常見和尚と折衷之助とにおのが賞椿とおのが対絶対及対相対の両生涯を告げさせしなり。  われは先づ逍遥子の具足したるくさ%\の資格を審査せむ、逍遥子の個人たるや、その肚裏に絶対に対する没理想(実は哲学上若くは形而上論上無所見)とシエクスピイヤが戯曲に対する没理想(実は作者の哲学上所見の没却)とを蓄へたり。逍遥子の時文評論記者たるや、現世の相関に対する腹稿の主義を蓄へたり、この区別をば早稲田文学にて、常見和尚と雅俗折衷之助との二人かはる%\陳したり。さるにおなじ早稲田文学の別処にてあやしきことこそ出来したれ、そを何ぞといふに、かの相関に対する腹稿の主義を懐きて、現在の小宇苗に対する拠分をなすといふ資格の逝蓮子は忽ち主人となりて一家を治むるものとなり、人民となりて国に対するものとなり、教師として学校に勤むるものとなりぬることこれなり。われおもふに一家を治むる主人は個人なるべし、国に対する一個の人民も個人なるべし、学校に対する一個の教師も個人なるべし。時文評論記者にあらざるべし。きれば雅俗折衷之助はこゝに至りて、個人たる遊逢にも、絶対に対する没理想(形而上論上無所見)とシエクスピイヤが戯曲に対する没理想(作者の哲学上所見の没却)とを奉ずる個人遊逢の外に、腹稿主義を奉ずる個人逍遥あることを示したるなり。こゝに逍遥子の諸資格を総括するときは。第一、両種の没理想を奉ずる個人遣蓮。第二、腹稿圭義を奉ずる個人逍遥、第三、腹稿圭義を奉ずる早稲田文学記者たる逍遥。以上おほよそ三種とす、いでや、これより上に列挙せられたる三種の誤解といふものを辯じ試みむ。  仮に一歩をゆづりおきて、逍遥子の三費椿に明なる区別あると養、評者はこれを守るべきものとせむか。所謂第一誤解の条に見えたる区別はいと覚束なきものなるべし。故いかにといふに個人たる逍遥も時文評論記者もその腹稿主義を奉ずるところ相同じければなり。次に第二誤解の条に見えたる区別もまたいと覚束なきものなるべし。故いかにといふに絶対に対する遺愚こそ記者をばなさずといへ、対相関遺愚は記者をもなし、個人をもなせば、対絶対個人と対相関個人とは、その並に個人なるところ相同じければなり。さて第三誤解の条に見えたる区別も亦いと覚束なきものなるべし。故いかにといふに対絶対逍遥は記者をなさずといふといへども、個人逍遥は対相対なること記者におなじき時あればなり。  逍遥子の三賛椿の区別は、その明ならざること是の如し、されどたとひ此区別明なることありと雖も、そのいろ/\の籍にありて哨ふる論を、かれこれと併せ考へて、わが批評眼のそのすべての資楴に通ずる論なることを認むるときは、批評の上にて復た論者の諸質格の区別を顧みざることあるべし、されば逍遥子まことにわれを以て人を訟ふるものとし、常識なきものとし、資幣を重ぜざる時弊に染みたるものとなさむとするときは、宜しくわが逍遥子の諸資椿の区別を顧みざりしを証するを以て是れりとせずして、おのれが諸資格の区別の明なりや、あらずやを考へ、次におのれが論旨のおのれが諸資格に通ずるや、あらずやを考ふべし。  われはこれより逍遥子が対絶対及対相関の両生涯に及ばむ。  逍遥子が対絶対生涯はその後没理想期においては、絶対に対して哲学上乃至形而上論上に見る所なきことを指示するに過ぎず。その欲無限の我といふものは無限なる造化を無限ならしむといふに過ぎず。この地位の事に関しては、下方にて雅俗折衷之助が軍配に対する我が反撃の条にしるすところを参看せよ。  さて逍遥子が対梱対生涯は其腹稿のみの主義なれば今これを評せむすべを知らず。われは唯此腹稿圭義の山房論文の逍遥子に向ひて世間法を求めし後に出でたるものなることを記臆し括かむのみ。  常見和尚は又いはく、逍遥は迷惑して立脚地なし。鴎外はハルトマンの哲学といふ立脚地あり。さるに逍遥が鴎外の理想の何物なるかを問ひしとき鴎外担これに答へざりしは不親切なりといふ。  わが見るところを以てすれば、理想といふ語はプラ H利よりこのかた今の第十九基督世紀に至るまでくさ%\の変化をなしたり。逍遥子若し我に理想の何物たるかを問ひたらましかば、我は唯その第十九基督世紀の形而上論の理想なりと答ヘしならむ。われは逍遥子が如く古今の哲学者乃至審美学者の用語例に違へる用語例を創設するものにあらねば、かゝる問に答ふるには許多の言葉を費さゞるべし。  されど逍遥子はいまだ明にわが理想といふものを一の用語として問ひしことなし。逍遥子は唯禍対の象の絶対の体より生ずる究寛の目的は何ぞと尋ねつることありしに、われ答へて、ハルトマンの烏有先生これを聞かば、我無慮識の哲学を読めといはむ、われは衆理想の象の没却理想の体より出没する究寛の目的は何ぞと反問せむのみといひき。おもふに我を不親切なりと難ぜらるゝは、わ洪草紙のハルトマンが無慧識哲学を鐵録し若くは講述せざるがためなるべし。  難波津に蕨村居士といふものありて、教育時論に一篇の文(二兀論と二元論)を載せ、われにおなじやうなる諸問をなしていはく、逍遥子汝に問ふところありしに、汝は顧みて他をいひ、思想の化石になりたる書籍に問へなどゝいへるは、討論の常法を失ふものなりといへり。  われは果して逍遥子に対して不親切なるか、討論の常法を失ひしか。「ハルトマン、リテラツウル」は広大なり。中に就いてハルトマンが親ら書きしものゝみを読みても一朝にして読み尽すべからず。その無意識哲学の如きはハルトマン自ら認めて我哲学の期程勺、o。胴量旨旨に過ぎずとせり。われ若し我草紙にて無意識哲学を講ぜむとせば、果して幾歳月をか要すべき、われ若し我草紙にてこれを紗せむか。括そらくは近時坊間に行はるゝ哲学史中の一段に似たるものとなるべし。これをば縦令忍ぶべしとあきらめても、かゝる講説、抄録は詮ずるところ彼のハルトマンが原書とおなじく、思想の化石とせらるゝことを免れざるべし。さればこそ我は烏有先生をして無意識哲学を読めとは答ヘしめしなれ。我親切こそはこれのみにて足らんずらめ。矧や逍遥子は早くよりハルトマンが無意識哲学を帳中の秘となしたるをば、我に語りしものあるをや、又討論の方法につきては、われ常に敵手をしてその出でむと欲するところに出でしめ、強ひて正丘ハをもてせよともいはねば、又あながち奇兵をもてせよともいはず。されば早稲田方はいかなる手段を用ゐて、いかなる方角より攻寄すといへども、そはわが問ふところにあらず。独りかなたにては、我討論法に不親切なるをころありと認め、或傍観者も亦これと共に我討論法の過失を責む。われこれに拍どろかされて窃にその当れりや否やをおもふに、逍遥子がわれに問ひしところのハルトマンが哲学系の世界究寛の目的をば、われ必ずしもこの紙上に写し出すべき貴なきに似たり。かの逍遥子がみづから無意識哲学を蔵して、又みづからこれを読む眼を持ちたること、かの逍遥子が随信行を須たずして随法行を作し得べき人なることは既に我貴を軽うするに足るものなれど、われは姑くこれを度外に措き、進みて今の世の学者の間にて、言論の争をなさむとするとき、いかなるものをば亙に知りたりと預期すべきかを問はむをす。苟も今の学者として、哲学上の論戦をなさむとするものは、近世のおもなる哲学統をば知りたりと預期すべきは、誰も否といふまじき原則なり。先づ此原則を立ておきて、試にハルトマンが書のいかなるものなるかをおもへ。逍遥子はみづからいはく。ハルトマンは近世の大哲学者なり、ハルトマンの哲学は、ウンド出でざる前に於ては、殆一世を風解せりきともいふべしといへり、されば逍遥子はハルトマンの哲学を以て近世の大系統なりと認めたるなり。唯逍遥子はウンド出でゝよりハルトマンの声価下りたりとやうにいへど、一昨年の普魯西年報に載せたるウンドが哲学系といふ評論などを見ば、ウンドが物生的自然主義 の決してハルトマンが試みたる哲学と自然学との調和の右に出づること能はざるを知るに足らむ、そは兎まれ角まれ、逍遥子も時を限りてはハルトマンが学の世間を風瞬せしを認めたるなり、果して然らばその学の帰するところをば、今の世に立ちて理想の新義を製し、没理想の新学を起すものゝ須く知るべきところにはあらざるか。われはひとり逍遥子が間の真面目なりや否やを疑ふのみならず、かの蕨村子の如き上下三千載の哲学史を一呑にしたるやうなる多聞博通の士が斯くまでにハルトマンの無意識哲学を僻典視する所以をおもひて、つひに我惑を解くこと能はず。  和上はついで又いへらく。逍遥が知らざるところはシエクスピイヤの主観(実は実感)なり。鴎外はシエクスピイヤが商を、無意識中より作者の意識界を経て生れ出でたるものなりといひき。さらば鴎外はシエクスピイヤといふ作者の主観(実感)をも知りたる筈なれば教へよとなり。  シエクスピイヤが実感(早稲田党の所謂主観一若くはその哲学上所見(彼の所謂理想)をばわれとても、逍遥子がシエクスピイヤの諸伝記を読みて知り得べきだけより多くは、如らむやうなし、わが無意識より出づる詩の事をいひしは、大詩人の詩は新くあるべしと推論したるにて、わが地位にありては始より徒労なるべうおもはるゝ、シエクスピイヤが実感若くは其哲学上所見とシエクスピイヤが戯曲とを比べ考へたる論にはあらず。われ量逍遥子が如きシエクスピイヤに選き人に向ひてことあたらしく教ふべきことあらむや。  和尚またいはく。鴎外はシエクスピイヤが詩人たる技倆、シエクスピイヤが詩の質を逍遥が評のうちに求めたり。されどかの技倆といひ、質といふものはシエクスピイヤが主観(実は実感)にして、シエクスピイヤが主観は適蓬の見えずといへるものなるを、鴎外強ひて問はむとせば、そは論理に逮ひたるべしといふ。  わが見るところを以てすれば、詩人の哲学上所見と其実感とは必ずしも共詩の価値を上下するものにあらず、二つのものは詩境の外にありて、僅に影響を詩に及ぼすものなり、されば詩の質をば、われその作者を知らずといへども、猶これを評することを得べし。詩の質にして妙ならば、われその作者の技倆のすぐれたるを推畑することを得べし。  われは始より逍遥子が詩の質と詩人の技倆とを詩人の哲学上所見若くは実感のうちに求めたるを知らむやうなし、詩の縁起Ω竃窪げは姑くおき、逍遥子が地位より詩の質をいはむには、かの活差別相、活平等相などにてやゝ事是るべうおもはるゝに、これを一面なりとことわりたるは、我批評眼より見ていたづら事のやうに見えしがゆゑに、われ乃ちこれを評して一面審美学といひき。何ぞ料らむ、逍遥子が認むる第二面は作者の哲学上所見若くは実感ならむとは。逍遥子は後に雅俗折衷之助をして我一面審美学の評を方便戯論なるか、提楡的批評なるかと言はしめしが、二は我評を以てことさらに逍遥子が論の一面を挙げて共全体と看做したるものとなしゝならむ。われ今改めて逍遥子に告げむ。その嘗て示したる一面といふものは審美上には全体をなすべき筈のものなることを。その認めたる第二面の神秘はもとより審美学の範囲外にあるものなることを。  和尚われに問うていはく。没理想(実は形而上論上無所見)の語を造化に対して方便として用ゐるは可なりやといふ。  われはこれに対して諾ともいふべく否ともいふべし。いかなればか我は諾といふことを得る。答へていはく。逍遥子が理想は哲学上所見の義なり、形而上論上所見の義なり、逍遥子が一時の方便にてこゝに見るところなしといはむは固より勝予たるべし。さて此義を語るに没理想の三字を用ゐるは、あまたの不利あるが如くなりといへども、必ずしも他人の遮り留むべきことにはあらず、かるが故にわれはしばらくこれを諾して、そのこれを用ゐることの不利を告げおかむとす。第一、没理想の理想を常の義に取られ、没をも常の無といふ義に取らるゝときは、造化に永劫不減のものなきやうに解せらるべし。是に於いてや、逍遥子の懐疑穿名−まげ昌易は認めて虚無峯巨豪冒富とせらるゝ虞あり、第二、逍遥子は文学界に於いて大勢力あるものなれば、その造語の流通するに至らむことは疑ふべからずとしても、古今の哲学者及審美学者が用ゐなれたる理想の語は矢張その用ゐなれたる義に使はるゝこと止まざるべく、逍遥子は断えずこれと戦はざること能はず。その没字に附するに埋没の義を以てせむとするについても、亦漢字の義を論ずるものと永く相抗せざるべからず。  さらば又忽なればか我はこれを不可どすることを得べき、おほよそ遺語はその必要ありてはじめて造らるべきものなり。こゝに個人ありて、われ形而上の事については少しも見るところなしといはむがために一新語を造れりとせむか。われは輯にその不必娶なることを言ふを偉らざらむとす、おほよそ造語はその既往の歴史を以て人の寛恕を得べき権利なきものなれば、そのこれを造るに当りて鄭重なる商量をなさゞるべからず、こゝに文人ありて解しがたき文字、若くは錯り解し易き文字、若くは解釈を附するにあらでは毫も解すべからざる文字、若くは解釈ありといへども尚且解しがたき文字を聯ねて新に語を製せむとせば、われはその不可なることを嗚らすを偉らざるべし。造化に対する没理想の如きもの即是なり。  和尚重ねて問うていはく。さらばシエクスピイヤが作の客観(実は曲の全体)を没理想(哲学上所見の没却)といふは可なりや、奈何。  答へていはく。逍遥子既にシエクスピイヤが曲の金体を客観となづけ、哲学上所見の没却せらるゝことを没押、想となづけて、きてその所謂客観の没理想なるを説けるは義において不可なることなし。故いかにといふに詩は固より実感をあらはすべきものにあらずして、シエクスピイヤが曲は充分に詩の約束を具へたるものなればなり。されどこの意味にて没理想といふ語を使ふことにつきては、われ諾して而して又否まむとす。その理由は上に進化に対する没理想のために辯じたるが如し。和尚は次に時文評論の記実主義の自比量なるか、其比量なるかを問はれしが、そはこなたに向ひて問ふべきことにあらざるが上に、既にこの篇のはじ珍にてもこれにつきて一言しつれば、今復別に答ふべきところなし。  公平入道常見が陣頭の宣言畢りて、逍遥子は又英和字典隣といふ仮設人物を出し、これにいと勇ましき軍歌を歌はせ、その響と共にわが論陣を攻めたるが、その時の雅俗折衷之助が    軍配 に対するわが反撃は左の如し。  折衷之助が先づ言ひしは逍遥子が対絶対及対相対の二生涯の差別なりき。されどこれに就きては既に辯じおきたり、こゝには唯逍遥子が対絶対地位の説明を挙げて、聊又これを評せむ。  折衷之助のいはく。逍遥子が対絶対の地位を始の空といふ、こは終の空に対していふなり、又始の絶斌といふ、こは終の絶対に対していふなり。又覚前の空といふ、こは覚後の坐に対していふなり。この地位は立脚点にあらずして数学点なり、(こは城南評論記者に対して逍遥子自ら言へるなれど、折衷之助が言葉の中には立脚点ともいへる戸)之時文評論にて見るべし)この地位は瀞坐にあらずして動くべき性を具へたるものなり、この地位は停りたる水の如し、唯そのいづかたに流るべきかを知らざるのみ、この地位は「タブラ、ラザ」なり、心頭の印錦はこと、ことく消除し去れり。ζの地位は発程なり、終の窒、終の絶対の帰潜処なるに殊なり、この地位は未生なり。覚後の空の死して空に掃したるが如きに殊なり。覚前架の無明にして不知なるや、覚後空の畑にして覚なるに殊なりと雖、衆理想(衆人の哲学上所見)はいづれより見ても皆是皆非なりといふ。  われは逍遥子が絶対に対する没理想といふものゝ形而上論上の無所見に過ぎざることを認めき、こゝに示されたる、詐多の異名ある覚前空は要するに無所見の説明に過ぎず、されど共用語といひ、其引論といひ、一つとして人の耳目を驚かさゞるものなければ、われはその説明の当れりや否やを評することの無益ならざるを信ず。  覚前空は覚後空に対していふなり、さて覚後窒をいかなるものぞと問ふに、逍遥子はこれを覚といひ、如といひ、悟遺徹底といひ、聖敦量といへり。思ふに逍遥子は聖敦量にあらずして衆理想(衆人の哲学上所見)を是ともせず、非ともせざるものは何かあると捜し求めて、つひにこの「タブラ、ラザ」を穫たるなるべし。此の如き人心の「タブラ、ラザ」は、われその心理上に不可得なることを知ると雖、こゝには姑くその存在を認めて、これを有したりとおもへる逍遥子が上を評して見む。  逍遥子は其覚餉空の地位に住して、われはいづかたにも進むことを得べしといへり。されど逍遥子にして試に一歩を動して見よ。この一歩形而上派に近づきたるときは、忽ち経験派のおのれに反対せるを見む。この一歩経験派に近づきたるときは、忽ち形而上派のおのれに反対せるを見む、逍遥子は到底学問の比量界にありて歩々の進前をなし得べきにあらざること、これにて明なるべし、さらば逍遥子はいづかたにも歩を移さゞらむか、我は恐る、逍遥子が徒に心の虚無におち入りて、無明瀞裡にその生を了せむことを。  さはれ逍遥子は共覚前空の地位に住して、われをば何人もえ倒さじ、わが没理想(形而上論上無所見)をば誰もえ破らじと誇りて、別におのが望める転迷開悟の途を示したり。その言にいはく。わが没理想は南山の寿の如く、かげず崩れざるべく、不壊金剛の磐石の如く、芥子劫に亘りて依然たるべし。わが論は宇宙とおなじく、万理想はおろか万哲学系を容れて余あり、絶対無二の大真理が古今の哲学を残なく折伏し、融会し、若くは悉く併呑統一して宇宙を貫き、太陽系を花竃ともし、「ネプチュウン」の軌遺をば靴紐ともし、無上無比不増不減の妙光を発ちて、如々然としであらはれざる間は、此方便的没理想の魂醜は弥勒の世は来るとも「ミレンニヤム」は到るとも、時間と共に無終無極無尽無窮なるべしとなり。  げに天晴なる広言なるかな。逍遥子をばまことに何人もえ倒さゞるべし。後没理想論をばまことに誰もえ破らざるべし。然はあれど我窃におもひ見るにそのえ倒さゞるは、倒すべからざるものあるが故にはあらずして、倒すべきもの見えざるが枚なり。そのえ被らざるは、後没理想主義の転ばすべからざる巌に似たるためにはあらずして、提ふべからざる風に似たるためなり。譬へば地に横れる人の如し。誰か得てこれを倒さむ。又空屋の如し、盗何のためにか入らむ。蕎いかな。奪ふべからざる立脚点は立脚点なしといふ立脚点なり。善いかな、争ふべからざる形而上論は形而上には見るところなしといふ形而上論なり。  われは前段にて逍遥子が一歩を動かすごとに、必ず敵を得べきことを示しつるが、二の段に至りて見れば、逍遥子は決して哲学の比量界に居らむとする人にあらず、逍遥子が未来には准左の三途あるべきのみ。第一、上に示したるが如く心の庸無を以てその主義とし、永くその「タブラ、ラザ」を守ること、第二、おのれかの無二の大真理を産み出づること。第三、無二の大真理のおのれが外より来るを待ちて、その所謂数学点より目覚ましき檀渓の一躍をなしてこれに就くこと即是なり。  さらば逍遥子その第二若くは第三種の地位を侮て、心中に無二の真理を懐いたるときはいかならむ。こゝに又三法あり。第一、個人たる逍遥子無二の真理を懐きて止むこと、第二、逍遥子人間に向ひて、わが言ふところは真理なれば爾等これを信ぜよといふこと。第三、逍遥子人間に向ひて、わが言ふところは真理なり、其故は云々とその得たるところを証せむとすること即是なり。  さらば逍遥子その第二法若くは第三法に出でたるときはいかならむ。第二法はすなはち宗教の道なり。われ逍遥子のこの時に及びて仏教を説くべきか、基督教を説くべきか、将た逍遥教を説くべきかを知らねど、これをば姑く問題の外におくべし、第三法はすなはち暫学の道なり。  古今哲学を以て名を青史に垂るゝもの幾人ぞ。かれ等は費自ら無二の真理を懐けりとおもひたりき。あらず、かれ等は或はまことに無二の真理を懐きしときあるべし。されど果なきものは人の力なり。一たび比量智を役して、おのは聖教量智を証せむとするときは、障擬乃ち生じて、欠漏つひに掩ふべからず。是れ哲学の哲学たる所以にして、又哲学の宗教にあらざる所以なるべし。  逍遥子の真理を得るや、かれはいかにして吾等がためにこれを証すべきか、われ等は預め望む、その挙証の迹のせめてはハルトマン輩の如き理想家の上に出でむことを。  逍遥子はまた折衷之助をして宣らすらく。儒家の仁、浮屠氏の浬薬、老、荘、カントが道も逍遥子が没理想とおなじやうに世にあらはれたるを、鴎外が見たらましかば、その反難に逢ふことは没理想におなじかるベし、殊にはカアライル、エマルソンが如く文章険怪なるものは所詮鴎外の仮借せざるところとなりしならむといふ。  わが聞くところを以てすれば、儒家の仁はまことに多義なり、仏徒の涅槃は大小乗によりて大に共義を殊にせり、されど儒家の仁を説けるが以前に、数千年の歴史ある仁といふものあるを、儒家の殆全く殊なるものを作りて、別に仁といふものとなしゝにあらず。仁も浬薬も理想も世につれ、人につれて変化すべしといへぎも、始終これを一貫する意義なきにあらず、その他道家の玄を説けるなんどを児ても、おそらくは一つとしてかの逍遥子が前没理想、没却理想、後没理想とおなじやうなる次第をなして、世にあらはれしものあるまじ。何ぞいはむや、用誘例の極めて厳重なるカン Hが如きものをや。又逍遥子は鴎外既に我に向ひて仮借するところなければ、文章険怪なるカアライル、エマルソン等も鴎外に蓮はゞ無漸なる扱をや受けむといへり、殊に知らず、カアライルがギョオテの衣鉢を伝へて一種の汎神論をなし、業を尊み産を崇めたる、エマルソンが盛に独逸哲学をそのふる里に流布せしめたる、皆我が敬するところなるを。殊に知らず、我は進蓬子の主義を評せむとするに臨みてその文章に眩惑せらるゝほどの不幸には陥らざりしを。  次に逍遥子は折衷之助にいはしむるやう、鴎外は古今の哲学系をこと、ことく方便なりといひき。鴎外既にハルトマンを奉ずといふ上はハルトマンが一系統を確信すべきに、これをも方便なりといふこそ心得られね、鴎外果してハルトマンが哲学系を方便とせば、これ逍遥が没理想を方便とすると同じからむ。かくても鴎外は尚逍遥が地位を難ぜむとするやといふ。  わが見るところを以てすれば、逍遥子が地位は決して我におなじからず。逍遥子は聖敦量には居らずといふといへども、かれは比量を嫌ひて、既にその心を「タブラ、ラザ」となし、機を見て無二の真理を一欄みにせむと控へたり。我心は逍遥子が如く「タブラ、ラザ」とはなすべからざる心なり、われは我比量界にありて、歩々学にこゝろざし、念々道を求めたり。さてわが今の立鷲はしば/\言ひしが如く文学美術の批評に従事するがための立脚点にして、この立脚点はハルトマンが審美学なれど、われは必ずしもハルトマンが全系を確信せずして、これより後も人智の開けゆくに従ひて、たとひいかなる唯物論ありて、ひと時は栄ゆといへども、ハルトマンが無蔵識哲学よりも完全なる、ハルトマンが哲学よりも真理に近き一大極致の生ずべきをおもへり。われはレツシングと共にわが比量界にありて、無二の真理を欄まむとする願を立てずして、無二の真理に向ふ道を離れじの願を立つるものなり、されば逍遥子には逍遥子の方便あり。我にはわか方便あり。両個の地位は決してひとしなみに見らるべきものにあらずかし。  折衷之助は次に伝ふるやう、鴎外若し逍遥の所謂理想(作者の哲学上所見)をシエクスピイヤが作中にて見得たりとなさば、かれ宜くこれを解釈すべし。若し又逍遥の所謂理想ならぬ理想を鴎外理想としたらましかば、そは彼が誤解のみ。若し又古の諸家がシエクスピイヤの着想の根拠なりといへるが如きものを、鴎外見出だして我党に告げむか。我党は廼ち五大洲を脾睨して彼の千魂万魂といはれたりし怪物、わが日の本の鴎外将軍が審美の利剣に甥かれて、つひにこそそ松正体をあらはしつれと、拾くとつ国びとにのらまくす。若し又鴎外おのが理想を言ひがたき理想なり生いはむか、吾党望を失はむといふ。  わが所謂理想は逍遥子の所謂理想ならねど、この間にはわが解することの誤りたるところなくして、却りて逍遥子が説くことの誤りたるところあること、既にしば/\辯ぜし如し。遺筆が所謂理想一作者の哲学上所見)のシエクスピイヤが曲中にて求むべきものならぬことも亦同じ、逍遥子が鴎外若しシエクスピイヤの千魂万魂を一つに統べたるものを見出さば、おのれこれを欧羅巴に吹聴して呉れんずといはるゝは、あはれめでたき厚誼なるものから、原来シエクスピイヤが千魂万魂はレツシングが所謂、快楽を写さむとするときはエビクウルと共に語り、徳操を写さむとするときはストアと共に語るものにて、其根拠たる一系といふものあらむやうなし、さればわれ輯たいかにしてかその無きものを見出し得べき。又逍遥子が知らむとするシエクスピイヤが理想、即ちシエクスピイヤが平生の哲学上所見及共実感を尋ね出さむこと、これも歴史上におもしろかるべき事業なれば、逍遥子若しまことにこれを発見せむ折には、われに五大洲を脾睨する大眼力もなく、われに沿くとつ国人に告げ知らすべき大音声もなけれども、我力の及ばむ限は敢て披露の労を取りて、早稲田党の厚誼に酬いんずること勿論なり。またわが使ふ理想といふ語に至りてはむづかしきものにもあらねば、いひがたきこともなし、天造人為すべての美を貫きたる時間に限られざる思想なりとも、審美世界の論理的なりとも、ひとへに言は二胃ひつべし。  次に折衷之助は逍遥子が旨を承けたる軍配の大詩として、没主観(没実感)見理想(哲学上所見の現出)といふ詩昴を立てゝ、鴎外のために傷けられたりと見たるシルレルを辯護せむと試みたり。  われシルレルが曲中に主観頗る現れたりといひしは審美的主感の情にして実感にあらず。逍遥子が実感を主観とする心より、我判断を軽々しと思はれたるは、恐らくは逍遥子が自ら軽々しく今の欧羅巴多数の審美家の用ゐ慣れたる語を我蜜なる意義に用ゐしためならむか。シルレルが詩には素より実感なし。そを早稲田流に没主観といはむは勝手たるべし。シルレルが詩には素よりポオザ公が自由と「コスモポリチツク」との思想の如く、一種の哲学上所見の審美的主観の情となりてあらはれたるあり。そを早稲田流に見理想といはむこと、これも亦勝手たるべし。  折衷之助が軍配めざましき論戦畢りて、逍遥子はさらに    軍評議 といふものをぞ開きける。先づわが没却理想の評のこまかなるところに答へざるゆゑよしを常見和尚に書はせ、次には折衷之助に鴎外とハルトマンとを全くおなじ人に看做して事問ふべき訳ありと辯ぜさせたり。さてその仔細をたづぬれば、わが山房論文に烏有先生といふ談理家ありて、理を談ずるを旨とする大文学雑誌を琵行せむとして未だ果さずとあるを見て、ハルトマン舶来せざらむ限は、鴎外即ちハルトマンと看做すべきならむといへるなり。  ハルトマンが審美学の序にいはく。われは此書のあまりに大冊にならむことをおそれて、応凧審美学の区域に入らむことを避けたり。されどそのわがこの区域に入ること能はざるがゆゑならぬは、わが小帰にて知れかしといへり。(審美学下巻序八面〉斯くハルトマンは文学美術の批評の如き審美学の応用に志ありて、多くこれに及ぶに邊あらざりしを、わが山房論文は寓意語をもて出しゝなり。さるを折衷之助の羅織に巧なる、わが文学雑誌の発行といひし言葉を、日本にてと限りても書ひたりけむやうに解き僻めて、ハルトマンみづから海を渡りて来ずてはかなはぬやうにいへるのみ。そが上に若しかの言葉をハルトマンが上に当らずといはポ、折衷之助は何の依るところありてか、これを我上に当れりとはしたりけむ。われまことに忌むことを知らずして、我草紙を所謂大文学雑誌に当てたりとせば、未だその発行を果さずといふ言葉いかにしてわが口より出づべき。  評定のうちには又、こたび早稲田文学の時文評論記者がわが山房論文に答ふるに戯文もてしたるを常見和尚に難ぜさせ、折衷之助をして敵に権変ある上はわれも奇兵を出さむこと然るべしと辯ぜしめたり。  わが見るところを以てすれば、辯難の文はいふもさらなり、批評の文にも権変あるは争ふべからざることなれども、そを戯文を以て論文に代ふる分疏にせむはいかどあるべき、逍遥子が真面目なる静をなすと、戯文を作るとは、吾が関するところならねど、世に逍遥子が才なくして、華文を作りて審美上の論をなし、遂には虎を画いて狗に類するが如き人出でなむことをおそれ、こゝに昔年シヤスレルが審美的華文の弊を論じたる巻(審美学首巻四六面以下)の中より一ひら二ひらを紗出して、聊我草紙を読むらむ人の戒とす。  シヤスレルのいはく。審美的華文を作るものは、その作るところに詩趣あるやうにおもはるゝを奇貨として人を欺き、欺かれたる人はその文致の非凡なるを称するに至る。ジヤン、ポオルは審美上に普く事を解する人なりき、その説くところの裏面には多く真理ありけれども、性癖にして文奇なるがために、しば/\論断の過失に陥りき、後の世に川でゝこれを学ぶものは、殆ど審美学の寄生虫となりさがりて、技藝の家に此学の納れられざる媒とさへなりぬ。されど普通教育を受たりといへどもまことの識見なき俗間の人には華文の毒に中てらるゝものいと多かり、さるは彼等その大胆なる言葉におどろかされ、その苦もなく読まるゝことの心安さにいざなはるゝを以てなり。華文家はまことの思索家の言葉には含蓄多くして修飾少きを、乾燥なりと笑ひ、気談なしと嘲りて、おのれが音節をとゝのへ、誇張を事としたる文の中に、果敢なき思想を包みたるを恥とせず。その弊まことに言ふに堪へず。又専門審美家のうちにも粧飾語を弄ぶものあり。粧飾語は括ほむね序に括ほく、篇の首におほし。此類の学者は先づ人を香なき造りばなに等しき文字もて飾りたる花苑に導きて、それよりさう%\しき技藝吏の菜圃に案内する習なるが、その花苑と菜圃との境にて文体の俄に変ずるさまいと可笑し。此類の学者は能く自ら欺き、また能く人を欺けども、人ありてその繁文を削り、その要旨を尋ねむとするときは、或はその包めるところ何の思想をもなさゞることあり、或は極めて平凡なる意味となることあり、或はその筋遠なる想像なるを見ることありといへり。  軍評議ありし夜、逍遥子が夢に見えにきといふ文珠菩薩の    剛意見 はたゞ智慧もなき息争の勧告なり、我もあながち戦を好むにあらねど、逍遥子がジヤン、ポオル、カアライルに婁さく劣るまじき審美的華文をあらはしたるに、これを評論せざらむこと、口惜しかるべうおもひなりて、果は最終の言葉を出さむことの影謹さをさへ打ち忘れてなむ、(明治二十五年六月) エミル、ゾラが没理想 今の欧羅巴の美術は大抵没理想派の蜴なり、没理想派の賜をばわれ受けて、没理想派の論をばわれ斥く。されば壁を留めて櫃を還すを我山房の謀とするなり。  実際主義といひ、極実主義といひ、自然主義といふ、その言葉はおなじからずといへども、執か没理想ならざる。美術を評し、文学を論ずるに当りて、没理想を基とするものは、独逸に文庫胃品§庄の一党あり、スカンヂナ乎ヤにイプセンが余流あり、英吉利にも俄羅斯にもその人あれど、概按エミル、ゾラを宗とす。  わが見るところを以ていへば、ゾラが小説に就いての没理想論は試験小説 と題したる数篇の「ヱツセイ」にあり、その劇に就いての没理想論は劇都にての自然派()と題したる文にあり、またその画に就いての没理想主義はマネエが油絵を評したる文()にあり、ゾラが立言は一系をなしたる哲学にもあらず、また首尾全き審美論にもあらねど、そのあらましを左に記せむ。  ゾラはその主義を説いていはく、我主義は新しき自然学を文ど術とに応用する符号なり。「クラツシツク」の符号は行はるゝこと二世紀なりき、「ロマンチツク」の符号はこれに継いで起りしかど、其運命は一世紀の四分の一にだに至らず、我主義は実に「目マンチツク」を前駆にして出でたるものなり、我主義は系統にあらずまた党派にあらず、奉ずるところは唯真のみ。真は実なり、造化なり、美は実の一面に過ぎずと。  されば小説に「ロマン」の名をあたふるはゾラが好むところにあらず。「ロマン」といふ字には、つくり物語といふに近き義ありて、作者の空想に待つことあればなり、括ほよそ自然学の方便には観察と試験とあり。観察のみにて看到りがたきところに看到らむとするには試験ある耳、小説は公衆の前にて行ふ試験の記事なり、小説は分析的批評なり、「ロマン」の字に代ふるに「エチュウド」の字を以てせば頗妥ならむ、さて試験の締果は事実なり。事実に向ひて其利害を問ふべからざること、化学の上にて窒索の人を傷ふことあるを怒るに由なきが如くなるべし、これをゾラが小説論とす。  劇に於いても略おなじ、作者の空想より産れ出でたるものは、これを舞台に上して活動すべからず。戯曲もまた宜く試験の結果なるべし。その小説に殊なるは、細に叙することゝ詳に言ふことゝのために余地を留めざる処にあり、細に叙すること能はざるかはりには、舞台の道具立あり、詳に言ふこと能はざるかはりには作者の働にて一琿一笑の間に事の情を悟らしむることを得べし、これをゾラが劇の論とす。  ゾラは画を以て術となすを嫌ふ。故奈何といふに、術といふ語には極致を求むるが如き義を含みたればなり。画は宜しく造化を写すべし、造化にあらず、真にあらずして、夢の如く、穣物語の如きものを写すものをば、画エと在すに足らず。然はあれど実際派なりとて、たゞの光写図のやうなる画を作り、いたづらに事実を擾するは悪し。画工にはおの/\其特異なる眼あり、其特異なる性 ありて、これに憧ひたる新しきものを製作するを共本分とす、要するに画には個人的と実在的とあるべし、個人的なるものは人より来り、実在的なるものは造化より来る。造化は常住にして平等なれども、人は不常住にして変化極なし。美術品は個人の性の地より観たる造化の一片なり。これをゾラが画論とす。  夫れ新しき自然学を美術に応用するは固より善し、然れどもゾラが言の如く、美に代ふるに実を以てし、術に代ふるに批評と試験とを以てするときは、矛盾の迹つひに掩ふべからざるに至らむ、ゾラが「エツセイ」の一()を見るに、新聞記者の醜き刑事を録して厭はず、却りて小説家の筆の美ならざるを貴むるを笑へり、こは小説に対する審美の感と刑事に対する記実の感とを分たずして、遂に小説を見ること刑事を見るが如くなるに至りしなり、さるにゾラは画を論ずるに至りて忽ち光写図に管しき画を取らずといふ、若し新聞に出でたる刑事の記録と、詩人の作りたる小説とを測るに、おなじ定規を以てすべくんば、光写図の妙は絵画の妙に同じからむ、ゾラは画に於ては取捨の別を立てながら、文に於ては去就の分を明にせざりき。  蓋しゾラは天のなせる詩人なれば、おのれは空想を遠離けて批評をなし、試験をなすとおもひつゝも、神来に逢ひ、空想を役したり、ゾラは没理想論を唱へつゝも大理想家の業をなしたり、彼が小説に於て造り物語を取らず、劇に於て舞台に上して活動すべからざるものを取らず、又画に於て夢の如く、舞物語の如きものを写したるを取らざるは、即是れ類想を斥くるなり、彼が文と術とに応用し得たるものは造化に似て造化にあらず、その事実とも見え、試験の精果とも見え、輯た真ともおもはれしは即是れ個想なり。彼が美術品を以て個人の性の地より観たる造化の一片となすは、即是れ小天地の図に対して大天地の影を望む境界なり。  近頃我国にて造化を以て美術を説かむと試みし人は、萌に撫象子あり、後に逍遥子あり。撫象子が自然主義は没理想に非ずして有理想なり。その極致は古の希臘人に似て善と美とを併せたるものなり。さればおなじく自然といひ、造化といへど、ゾラが自然は弱肉強食の自然なるに、撫象子が造化は蝶舞ひ鳥歌ふ造化なり。逍遥子が自然主義は則ちこれに反す、その没理想の造化は酷だゾラが造化に肖たり。されば逍遥子とゾラとは共に客観を揚げて主観を抑へ、叙事の間に評を挿むことを嫌ひたり、逍遥子戯曲の文を以て読者の思傲レ次第にていかやうにも見ゆるものとなしてこ牝を尊めば、ゾラは小説の文を以て利害を問ふべからざる事実となしてこれを庇ふ、これ等の処を細に比べ論ぜば、いとおもしろかるべけれど、また折もあらむとおもひて止みぬ。(明治二十五年一月) 自評についての異議  われ嘗て文を山房に論ぜしとき、書を著して自ら評する事に言ひ及びぬ。(二七二面)〔「美妙斎主人が韻文論」〕これを聞いておのがじゝ思ふところを述べたる人三人あり、自ら評することをば善しとすれど、名を匿して自ら評することを悪しとする人ひと“、これを漣山人とす、(国会)自ら評することを言ひしときのわが見を謬りたる見なりとして痛く斥けし人ひとり、これを正直正太夫とす。(同上)自ら評することをば兎も角一も恕すべけれど、名を匿して自ら評するは徳に背きたれば、例を引いてこれを許すべからずといふ人一人、これを幽箆子とす、(曜第四)先づ漣山人空言を細に聞かむ。漣山人は書を著して自ら評する事の範囲を立てゝ、直におのれが著しゝ書を評する常の自評の法の外に、人のおのれが著しつる書を評せしときこれに答ふるをも自評の中にいれたり、われ思ふに所謂自著自評の範囲は、これより狭くも取らるべく、またこれより寛くも取らるべし、これより狭く取りて直におのれが著しゝ書を評することのみとせしは我なり。これより寛く取らば、かまへておのれが著作を評すとにはあらねど、自序のうち、人に与ふる簡頗のうち、自伝のうち、さては後の著作のうちなどにて人の批評に関らざる我著作の批評をなすをも自著自評と名づくべし。漣山人がかく範囲を立てしも、若し自ら自評の事を論ぜむためならば善かるべけれど、索と是れ山房論文の中なる自評の事を言はむためなれば、少しく問題外にわたるべし。  漣山人は次におもへらく、文士の名を匿すは答むべき事ならず、各むべきは名を匿しておのが作を評することなりと。さて名を匿すことの答むべからざる故をば漣山人言はずして、名を匿しておのが作を評することの答むべき故をのみ言ひ試みたり、その言にいはく。名を顕しておのが作を評するは真率なり、厳粛なり、忌味に陥り難く、愚痴に陥り難く、手前昧暗に陥り難し、名を匿して海のが作を評するは真率ならず、厳粛ならず、忌味、愚痴に陥り易く、手前昧暗に陥り易しと。  漣山人は是の如く断じて、さておもへらく。山房の主人が引きしシルレル、ハウフが自評は名を匿しての自評なれば、これをなしゝはシルレル、ハウフが一生の失錯なり。山房の主人がシルレル、ハウフがせし如き匿名自評を罪に非ずとせしは過ならむと。  われ漣山人が言を聞いて、その善しといひしものは奈何なるものかと縄ね見しに、そは唯名を顕しての自評のみなり。顕名自評とは何物ぞ、よもや名を顕して直におのが作を評することにはあらざるべし。よもや 1 漣山人と名乗りて、漣山人の妹脊貝をかまへて批評するが如きことを謂ふにはあらざるべし。故いかにといふに、是れ今も昔も殆絶て其例なかるべき批評法にて、漣山人といへども今も昔も殆絶えて共例なかるべき事の得失を論ずべくもあらざればなり。  さらば漣山人が善しとする顕名自評は、人のおのが作を評せしとき、名を顕してこれに答ふるを謂へるのみならむ。顕名答評のみならむ。顕名答評はわがさきの論文の中にて自著自評といひしものにあらず。  わが所謂自評、即ちかまへての自評をば漣山人必ず沓めむとす、漣山人が顕名匿名の別を立てゝ半ば就き半ば去るが如く見せたるは、その意識ありてなるか、意識なくてなるかは知らねど、虚言のみ、故いかにといふに、顕名匿名の相殊なる処に、漣山人が取捨存ずるにはあらず、その取るところは答評にして、その捨つるところは我が所謂自評なればなり。直にしたる自評には名を顕はしたる例、今も昔もなきことは上に言ひぬ。そはおのづから名を顕すべからざる故ありてなり。等評には名を顕したる例いと多し。そはおのづから名を顕すべき故ありてなり。  けだし我が書を著すや、これを評すべき恰好の地位に居るものは我にあらずして他人なり。評の常は自評にあらずして価評なり、されば批評と称する文の一類に屯論に論の式あり、記に記の式あるが如く、定まりたる式ありて、その式は自評の式にあらずして、他評の式なり。古今の自評をなすものゝ或は名を署せざることシルレル、ハ・ウフの如く、或は仮に名のること馬琴が魁蕾子といへるが如きは、常の式に従ふのみ。かまへての自評には名を匿すべき故ありとはこれを謂ふなり、人の我著を評せしときこれに答ふる文は欧羅巴人のいはゆる開 書のたぐひにして、尺頗の体裁あり、名を署すべき慣例あり、答評には名を顕すべき故ありとはこれを謂ふなり。  漣山人が匿名を去りて顕名に就きたる如きは、その言の虚なる側にして、その我が所謂自評を斥けて、ひとり答評をのみ取りたるは、その言の実なる側なり。真率厳粛にして、忌味、愚痴、手前昧暗の弊に陥り難きは顕名自評なりといへど、こは顕名を取れるにあらず。これに反したるは匿名自評なりといへど、こは匿名を斥けたるにあらず。匿名をば漣山人みづから谷めずといへり。  漣山人は答評を真率、厳粛にして、忌味、愚痴、手前昧暗の弊に陥り難しとするなり。かまへての自評を真率、厳粛ならずして、忌昧、愚痴、手前昧暗の弊に陥り易しとするなり、されど答評は何政に真率厳粛にして弊を生じ難きか、かまへての自評は何故に真率厳粛ならずして弊を生じ易きか、漣山人は明にこれを書はざりき。  われ思ふに批評の真率厳粛なると忌味、愚痴、手前昧暗に陥るとは、自評他評の間に生ずる別にもあらず、直にしたる自評と答評との間に生ずる別にもあらず、其別は評者の心に存ず。  他評は評の常法なれば、その真率なるべく、厳粛なるべきは、何人も疑はざるべし。答評の真率なるべく、厳粛なるべきは漣山人みづから認めたり、いでや評者の心次第にて、直にしたる自評の能く真率厳粛なる道理を示さむ。  おほよそ美術に対する製作性とこれに対する感納性とは一人の上にて或は並存し、或は偏存す。世に詩を賦して拙からむと欲するものはあらじ。天暗なる名作をなさむとおもひて賦したる詩の、おもひの外に拙く出来あがりたる暁に、作者に批評眼なくば猶名作なりとすべけれど、作者の感納性敏からば、かれ必ずおのが製作性の足らざるを知らむ、好判者の善詩人にあらざることあるは此道理によりてなり、直にしたる自評の真率厳粛なるべきも此道理によりてなり。  好判者は必ずしも善詩人にあらず。此首は今の文士皆是認したり、知らずや、これを是認したるは、即ち製作性の感納性とひとりぐのうへにて、或は鉱存し、或は偏存することあるべきを晃認したるものなるを、今の文士は或は意識ありて両性の是の如きを是認し、或は意識なくしてその然るべきを是認したり、さらば我感納性を役して、直に我製作性の結果を判するこ上の出来べきは、復た争ふべからず。かく直に自ら評することある時、其人の心正しく、其人の感納性敏くば、そのかまへての自評は菓率厳粛ならむこと疑なし、シルレル、ハウフが自評に忌味もなく、愚痴もなく、手前昧暗もなきはこゝを以てなり。  シルレル、ハゥフが批評著し菓率ならず、厳粛ならず、忌昧、愚痴、手前昧暗に陥りたる痕あらば、これを彼等が生涯の失錯とせむも宜しからむ。シルレルが白作群盗を評して、おのが詩想の激昂したる処に言ひ及びしは極めて真率なり、ハウフが自作マリヤ璽の最後の武士を評せし言は忌昧ならず、愚痴ならず。漣山人は勝手に直にしたる自評の弊多かるべきをおもひ、古の大家の批評法たま/\芸が弊多し圭も一る手段になりたるを見て、靱ち古の大家を罵り、その一生の失錯を貴む。屍れ堂古の大家を論ずる法ならむや。  これよりは正直正太夫の説を聞かむ、正太夫は某立言のはじめにわが前の論文を駁せざること能はざる所以をことわらむとしたり、正太夫が国会の文苑に入りて荊鞭を揮ふや久し。国民之友去年の夏期附録出でし中に三昧道人の吾亡妻あり。遺人後に虚子と名乗りて、おのが文を至惰の文なりといひ、我文我涙を紅化したりといふ、正太夫これを聞いて其鞭をふり覇しておもへらく。三昧道人は名を匿して世を詐らむとし、仮面を被りておのれが文を至惰の文なりといひ、おのれが渓は吾亡妻のために紅化せられたりといふ、その言に依れば吾亡妻の偽物なることを知るべしと。(荊鞭)担聞これによりて吾亡妻の作者を罪人にす。われ乃ち名を麗しておのが作を評することの罪にあらざるを辯じて三昧道人が罪人にあらざることを明にしつ。正太夫が山房論文を駁するに至りしは、わがために共鞭下の人を奪ひ去られむことをおそれてなりき。  正太夫は先づおもへらく。山房の主人が三昧道人を辯護したる手段には如才なかりきと。われ其意を付るに、こは我文中に、正太夫が吾亡妻を虚偽なりと断ぜしは、歯に衣粛せぬ批評家の面目なるべしといひ、また吾亡妻を虚偽なりといふ人々の言の当れりやあらずやは問はずといへりけるを見て、我を以て荊鞭を催るゝものとなし、三昧道人を辯護しつゝも正太夫が機鎌を覗ふものとなしたるならむ。  われは人の文を論ずるに蓮ふごとに、好みてこれを評すれども、人の小説雑著を評することを厭へり、わが三昧道人の吾亡妻を評せざるもこゝを以てのみ、吾亡妻は虚偽なるか虚偽ならざるか。これを吾亡妻に就きて問はむは吾事にあらず。吾亡妻を虚偽なりといふは当れりや、当らざるや。これを吾亡妻に就きて問はむは吾事にあらず、さきにはわれ唯荊鞭の文についてその自著自評の事に関りたる所をのみ論したり、是れ荊鞭を偉りてにもあらず、正太夫をいとひてにもあらず、いまの一小説一雑著の妙不妙を議することを好まざるを以てなりき、われ今一歩を進めて正太夫の吾亡妻を虚偽なりとする理由をたづねむ。かの正太夫が鞭恭し樋と鑑とあらば、われ柳子にあらずといへども、豊これを濯ふことを偉らむや。  権に正太夫を獄卒とすれば、その荊鞭に触るゝ人の中には濫刑を受けたるものあるべく、また菟罪を負ひたるものあるべし。われは吾亡妻の虚偽なるか、虚偽ならざるかを、その本文につきては問はずといへども、吾亡妻を虚偽なりとする正太夫が文案をば再びこゝに審査してこれによりて三昧遺人を罪におとすことの非なることを飽くまでも明にせむとす。  正太夫はわが自評につきての見を謬りたりとし、服するに足らずとし、わが三昧道人を辯護したる説を薄弱なりとし、到底成立たずとす。いでやこれより訴人が得意の口状を聞かむ。  正太夫のいはく、いにしへの英雄には父に弓を轡きし人あり、主家の金を窃みて逃げし人あり。こは悪しき事なれば、いにしヘの英雄にかゝる事をなしゝ人あればとて、善きためしには引くべからず。シルレルとハウフと名を匿して省のが作を評せし例を引きて三昧遺人を辯護するは、おさんが手探にて勝手口の心張棒を敢るにも劣れり。名にしおふ山房の主人が神代は飼らず、今の社会にはめづらしく薄弱なる論を立てたるは怪むべしと、われおもふにこは名にしおふ正直正太夫には似合はしからぬ薄弱なる駁しかたなり。シルレルとハウラとが名を匿しておのが作を評せしことの罪とすべきにあらざるは既に辯ぜし如し。われ三昧道人が心を撞すること能はずと雖、その名を匿して吾亡妻を評せしこと葉を見るに、シルレルとハウフとが自評の語に比べて笹しき差異なかりき、われ我が妻を吊ひし文を至惰の文ならずとはいはむやうなかるべく、またわれ我が妻を吊ひし文を読みてみづから泣きたるあとなれば、人の書いたる文を読みて悲しかりしにはあらずやと疑ふも、あながち怪むべき事にあらず、シルレル、ハウフが自評をば、後に漣山人こそ答めつれ、いにしへより罪する人なきに、独り三昧道人のみおそろしき罪人のやうにおもひなさるゝは、量冤にあらずや。父に弓を轡くは極悪なり、主家の金を窃むは重罪なり、極悪は誄すべく、重罪は刑すべし、古の英雄には極悪にして重罪を犯し、当時の刑畔を免れし人あるべしといへども、誰かはこれをためしに引いて、父に弓を轡くを善しとし、主家の金を窃むを善しとせむ。名を匿しておのが作を評するは、我感納性を以て我製作性の結果を判する正当なる手段にして、実に批評の一法に備ふべきものなれば、固より是れ罪ならず、矧んやこれを極悪なりとし、重罪なりとすべけむや。われは罪にあらざる三昧道人が自評の事を言ひて、罪にあらざるシルレル、ハウ7が自評の事をためしに引きつるを、かの極悪重罪の例とひをしなみに論ぜしは、いまの社会はさらにもいはず、神代にもなき論理なるべし。  そが上に正太夫は我を以て例によりて事を断じたるものとすれど、苟も論理の片端をも心得たらむもの、誰か類例の証拠にあらざるを知らざらむ。われは名を匿しておのれが作を評せしためしは、古今の大家に少からずとこそいひつれ、われは三昧道人が自評は刈刈レル、ハウフが自評に比べて董しき差異なしとこそおもひぬれ、われは古今の大家にためしあるが故に、名を匿しておのれが作を評する事を善しとすといひしことなし、われはシルレル、ハウフが自評に比べて甚しき差異なき故に、三昧道人が自評は罪にあらずとおもひしことなし。古今の大家は古今の大家なり。シルレル、ハウフはシルレル、ハウフなり、三昧道人は三昧道人なり。彼を挙げて此を証し、此を挙げて彼を証せば、固より論理に背くべけれど、彼のためしに此を引き、此の例に彼を引かむは我が勝手なり。これ程の別をだに知らで我に打つて掛るものは、勝手口の心張棒を振り上げたるおさんにも劣りたらむかし。  正太夫のいはく、シルレル、ハウフが自ら評せしは、小説なり。三昧道人が自ら評せしは触感のありの儘をうち出して偽り飾ることなき記事なりといへり。彼をためしに引いて此を論ぜしは過てりと、おほよそ類例は相似たる事を衡ぶるものにて、相同じ養事を列ぬるものにあらず。シルレル、ハゥフが自評と三昧道人が自評と相似たる処は、彼も此も自ら其作を評せしところなり、わが引例の範囲内にては小説と感を記する文との別を問ふことを要せざりしなり。  正太夫のいはく、シルレル、ハウ7がおのが小説を評せしには愛敬あり、三昧道人がおのが記事を評せしには愛敬なし、故いかにといふに三昧道人が自評は、自評を許すべからざる時にせしものなればなりと。ぎて三昧道人が自ら吾亡妻を評せし時の自評を許すべからざる時なるを証せむとて、正太夫は吾亡妻の本文を引きつ、其文にいへらく、嗚呼、人既に生あり、何が故にまた死なかるべからざる。今や室内疫露の影だになく、喀淡の声だになし、嗚呼、誰か泣かぬを男とは定めし、漣如たる泣涕のみ、量独り悲歎の符号ならむや。諺浪笑赦もまた時として寸断の悲腸より出づるものをと、正太夫若しこれにて自評の其時にあらざるを証せむとせば、われは又これにて自評の恰も共時なりしを証することを得べし。夫れ悲歎の符号はひとり渓のみならず。寸断の悲腸より諺浪笑赦も出づることあるべし。謹浪笑赦すら出づべし。亡妻を弔ふ詩、亡妻を億ふ文、独り悲腸より出でざらむや、詩文既に成らば、みづから誦じみづから評せむも亦悲を鈍し悶を排く道にあらざらむや。  要するに正太夫が訴状の第一の娶点なる引例の事は毫しも取るに足らず、罪にあらざる自評の例に、罪なる飯逆を引きつるも取るに足らず一人の例を引きつるを、証を立てたりと誤り認めしも取るに足らず。類例の本性を紳らずして、事の全く同じからむを欲せしも取るに足らず、悲しきときは泣いてばつかり居るものなりとや心得けむ、鼓盆の時に当りて自ら文を著し、自ら文を評すべからずといふも取るに足らず。われは正太夫がおもひしよりも浅々しきを笑はざること能はず、正太夫のいはく。山房の主人は自評を以て自信の念厚きによるものとしたり、自評即自信としたり。是れ俗説なり、是れ握飯的論法なりと。自評は自信の念厚きによるものとは誰か書ひし、自評即自信なりとは誰か言ひし、わが論文にいはく。三昧道人は我文我涙を紅化せしかと凝ひて、忽ち否々と排し去りしが、縦命遺人否々と叫ばざりければとて、われ必ずしも其罪を問はざるべし、われは唯三昧道人が自ら信ずることの厚きを見るべきのみと、見よ、わが自ら信ずること厚しといひしは、三昧道人が我文我涙を紅化したりといはむ折の事なるを、仮定したる一の場合なるを、この仮定したる小き揚合と自評といふものゝおほいなる意義とを打して一丸となしゝは正太夫なり、これをこそ俗説とはいはめ。これをこそ握飯的論法とはいはめ。  正太夫のいはく、漣山人が答評を自評の中にいれたるは甚だしく真を失へるものにもあらざるべし、答評もまた自評ならば、自評はおのが作を批評すといはむよりは、おのが作を辯護すといふべきものならむ。辯護は怖るゝことの果なり、自信は怖るゝことの因にあらずと、縦令答評を自評の範囲内に入れたりとて、自評何ぞ必ずしも辯護に陥らむや。縦令自評の辯護に陥ることありとて、辯護何ぞ必ずしも怖るゝことの果ならむや、自評の辯護に陥ると陥らざるとは、自評者の心によりて生ずる別なり。辯護の怖るゝことの果なると然らざるとは、その辯護するところの性によりて生ずる別なり。げに貞ら信ずるものは怖るゝ念なかるべし。されど自ら信じて怖るゝ念なきもの自ら共文を評せば必ず長を長とし、短を短とし、陣るところなく判語を下さむ。是れ辯護にあらず。げに辯護は怖るゝことの果なることあるべし。されど怖るゝことの果なる辯護は短を護るなり、護るところ若し長ならば辯護的批評もまた立派なる批評なるべし。  正太夫のいはく、山房の主人は言ふものは自ら信ずること厚く、黙するものは自ら信ずること薄しとやうに断したり。こは速断なり、迂なる説なり、浅き言なりと、(後に漣山人が自評は自信の力の強きに依るものなるが故に可なりといふ説を我に押し付けしは、これに基けるなるべし一そも/\言言のは自春ずξ一と厚しとやうには誰か断ぜし。黙するものは自ら信ずること薄しとやうには誰か断ぜし。われは三昧道人若し我文我涙を紅化したりと言ひ放ちたらば、その自ら信ずること厚きを見るべからむと云ひき、三昧道人若し虚言をいふものならば、かく言ひ放ちたりとて、自ら信ずること厚きを見るべきにあらざるべけれど、三味道人を虚言をいふものなりとすべき証なき上は、自ら信じてかく言ひ放ちたりと断ずるは当然の事なり、正太夫は次に自ら信ずるものは、おのが作を投出しおきて、これを評することなからむといへり。是れ遠断なり、敵いかにといふに三昧道人が人の作を評して、おなじ冊子の中に於いて、おなじ愛慕の惰を写したるおのが作に言ひ及びしは、理解し易き思想の連繋ならむも計られず、かゝる思想の運繋は自ら僑ずる人にも自ら借ぜざる人にもあるべければなり、正太夫は又名を匿したるを貴を避けたるなりといへり、是れ迂なる説なり。故いかにといふに名を匿すことの自評の常なるは兎まれ角まれ、三昧道人が人の作を評する時、みづから虚子と名乗りければとて、直に貴を避けたりといはむは、理に敏きものゝ書にあらざるべければなり。正太夫は又風流悟を評しておのが作に及びしをみづから晦ましたるなりといへり、是れ淺き言なり、故いかにといふに、三昧道人が人の作を評せしは主におのが作を評せむがためなりきといふ明なる証は一もなきに、世の常なる思想の連繁のあるべきにも心付かで、直に人を罪せむとするは、深慮あるものゝ言にはあらざるべければなり。正太夫は是の如く速く断じ、迂く説き、浅く言ひて、黙するものは自信厚く、言ふものは自信薄しとやうなる謬見を示し、さて其杓子定規もてわが論文中の自信の語に比べ、山房主人が自信とおのが自信と同じからずといひ、抑自信に二種ありやと問ひぬ、自信量二種あらむや、自ら信ずるものゝ黙するは矯飾して黙するにあらず、敵を度外に視て黙するなり。自ら信ずる者の物いふはうぬ惚ありてものいふにあらず、臆面なくものいふなり。わが論文にいはく。我文壇の自評を忌むは、文士みづから信ずることの薄ければなり、われと我が自惚に慰ぢてなり、おのが仲間の利にさとく、偽名の蔭に操ひつゝ自ら嘗らむことをおそれてなり、あはれ、これも世のさがにやあらむと。この言や激するところありて発せしなり。われは自ら信ずるもの必ず自評を喜ぶともいはず、自ら信ずるもの必ず自信を忌むともいはず。自ら信じて自評を喜ぶものには、既に引きつるシルレル、ハウフ、馬琴等が外、欧羅巴第一の批評家といはれしレツシングあり、クルツが編せしレツシングが全集の第五の巻、第五百四面より以下四十余面は皆其自評にして、その過半はかまへて直にしたる匿名自評なり、されど文学史に通ずるものは、レツシングにうぬ惚ありとはいはず。自ら信じて自評を忌むものには俄羅斯近代の名家ツルゲニエツフあり、ツルゲニエツフが少年作者を戒むる言にいはく。琶薇ならば必ず花咲くべしとギョオテいひき。世に知られで止むべき大詩人はなきものなり、時に当りてものいはず歳を経てかへりみょと。されど文学史を観るものは、ツルゲニエツフ矯飾せりとはいはず、言ふも善し。黙するも亦善し。言ふと黙するとにて、自ら信ずると自ら信ぜざるとを判すべからず。自信は一なり。能くみづから信ずるものには、言ふと黙すると、皆宜しからざることなきなり、わが文士自ら信ずることの薄きによりて、自評を忌むこゝろ生ずといひし時は、分明にその今の文壇の特相なるをことわりおきぬ、我言は抽象の論にあらずして具象の評なりき。且く眼を放ちて今の文壇のありさまを見よ、みづから信ぜずして党を立て人に頼るものあり。その党人をわかちて許多の新聞雑誌を領するや、おのれ等は自評によらずして相亙に讃評すべきを以て党外の人の自評を忌むべし、またわ装春姦らずして、しば/\うぬ惚の失錯をなし、かつは葱ぢ、かつは疑ふものあり。これも自評を忌むものならむ。またおのれ若し自評せば、狗肉のために羊頭を掛くべしとおもふものあり、これも自評を忌むものならむ。こは皆省のが自ら信ぜざる心を以て、人の自ら信ずる心を付るが故なり。此の如き人は世に我過をして日月の鎮の如くならしむべ書人あらむともおもはず。また能あるときは我子をも薦むべき八あらむともおもはず。是を以て人の自著自評の罪にあらざることを言ふを聞きては、乃ち怒り、乃ち罵る。その惑へることもまた董しからずや。  正太夫はその自信即不自評説若くは自評即不自信説(これは我説を自信即自評説といひしに報いむためなり)の終に、美妙斎主人が猿面冠者の評と藝林奇話中の自伝めきたる一則とを挙げて、これを自ら信ぜずして自ら評したる例とせしが、二文中いづくに自ら信ぜざる跡あるかをばことわらざりき。美妙子はこれを辯じていはく。猿面冠者の自評は平凡にして、当時諸評家の言ひしところと大なる差なかりき。また藝林奇話はある人の如き打ち股しの筆を用ゐずして、つとめて人の害を避けたるものなり、そが中に叙事の我身の上に及びしは極めて少かりしを毘ても、我量の狭からざるを知れと、(国民新聞)正太夫再び難じていはく。猿面冠者の自評、若し当時諸評家の言ひしところと大なる差なくば、そのこと葉の自評になりて出でざるべからざる故いづくにかある。藝林奇話にて人の害を避けたりとて、周量の大なる処をば認めがたしと、(国会)正太夫が猿両冠者の自評の出でざるべからざる故、即共必要を問ひたるは、因果の連鎖をいづくまでたぐり行くこゝろなるか知らねど、猿面冠者の評、美妙子の自評にて改進新聞に出でしは、美妙子が平生改進新聞のために新著を評せし縁によりてなること、レツシングが自評のレツシングが批評欄をうけ持ちたりし「フオス」新聞に出でしにおなじかるべし、正太夫はまた人の害を避けたりとて、局量の大さは知られずといへど、美妙子が人の害を避けたると、美妙子のいはゆる或人が打ち殴しの筆を揮ひて人の害を避けざると、その局量敦れか大なる、執れか小き。こは誰にも分かるべし、正太夫はこの言を聞きて、山房の主人またレツシングを証にして美妙子を辯護したりといはむも計られねど、われはこたびも唯レツシングを例に引きしのみなれば、念のためにことわりおく。  正太夫が訴状の第二の要点なる自信と自評をの事に就きては、われその誤なることを充分にいひ尽しぬ。索とわが山房論文はあながち三昧道人一人の利益のためにいひしにあらず、文壇のなりゆきを慨きおもひて、道人が罪なきことを説きつるなれば、若これを駁せむとならば、矢張文壇のなりゆきを考へて言を立てざるべからず、文人に自ら信ずる心なきときは、あはれ我文壇はいかになりゆくらむ。今の文士の人の文を評せしを見るや、問ふところはその当れりや、当らずやにあらずして、その自評なるか他評なるかなり、今の文士の人の文を作りたるを見るや、問ふところはその妙なりや、妙ならずやにあらずして、その人に讃められ たるか、人に難ぜられたるかなり。さるにかゝる文壇の傾綴に心付かずして我論文を駁するものは正太夫なりo  正太夫はまた吾亡妻を以て世に毒を流したるものなりとしていはく。葦分船には亡家尊あり。浪遠潟には親心あり、触感のありのまゝを記すといふ吾亡妻出でずは、かゝる模倣者はなからむ、其貴をば吾亡妻を作りし三昧道人負はざるべからずと。触感のありのまゝをしるすは悪き事にあらず。これをしるす巧拙は某人に停ず。拙き自伝多きために、ルウソオ、ギョオテ儒をつくれりとはいふべからず。拙き戯曲多きためにゾフオクレス、エスキュロスには貴を負はすべからず。吾亡妻を作りしを罪とすべくば、模倣者なしといへども罪とすべし、吾亡妻を作りしを罪とすべからずは、模倣者ありといへども罪とすべからず。  吾亡妻の虚偽なるか、虚偽ならざるかを、吾亡妻に就いて詮議せむはわが事にあらず、われは正太夫が訴状を審査しつれど、吾亡妻の虚偽なる証を見ず。正太夫は虚子が語中に虚偽の痕ありといひて、これを吾亡妻の虚偽なる証にすれど、荊鞭の本文にてその虚偽の痕とするところを見れば、いたづらに三昧道人名を匿して世を詐らむとすといふに過ぎず、仮面を被りて我文を至情の文なりといひきといふに過ぎず。我涙は吾亡妻のために紅化せられたりといひきといふに過ぎず、世を詐らむとすとは、名を匿しゝより撞したるなり、仮面を被れりとは、名を匿したりといふことを移用誘にていふに過ぎず、匿名自評は罪にあらず。慶名して人の作を評する間、我作に言ひ及ぶも罪にあらず、われ吾妻を億ふ文を至憎の文なりといふは当然の事なるべし。我涙我至情の文のために紅化せられやしけむと暫し疑ひしも罪となすに足らざるべし。されば正太夫が挙げたる証拠は皆薄弱なるものにして、其訴状は到底成立たざるなり。  正太夫は最後に、汎く自評といふものゝ上よりいふと養は、名を顕してなさむも名を匿してなさむも、自ら信じてなさむも、自ら信ぜずしてなさむも、許すベしとことわりてその駁説を結びき。さらば正太夫も名を匿し、仮面を被りて批評せし間に、自評を挿みたる三昧道人を罪するにはあらざるべし。その自評、その匿名の世を詐らむためなるを推して、これを各むるなるべし、若しかく推することを許すべくは、我文は至惰の文なりといへるをも、詐ならむと推せらるべく、我渓我至情の文のために紅化せられやしけむと疑ひきといへるをも、詐ならむと推せらるべし。きれどかく椎することの邪推にあらざる証を見ざる上は、荊鞭を揮ひて三昧道人に向ふべきにあらず。  これよりは幽篁子が言を聞かむ、幽篁子はわれを凡庸にして、シルレルに心酔し、ハウフを崇拝するものとす、その仔細はいかにといふに、名を匿してみづから評するは、悪しきことなるに、シルレルがなしたり、ハウフがなしたりとてその悪事に左祖する山房の主人は凡庸なるべし、シルレルに心酔したるなるべし、ハウフを崇拝せるなるべしとなり、われはまことに凡庸なるべし、われはハウフなどを崇拝するものならねど、シルレルには心酔したるところあらむも知れず。されどわれは匿名自評をあしき事ともおもはず、またシルレルが匿名自評せしためにこれに心酔するが如き過には陥らざるべきのみ。 公衆とは何物 民の声は神の声なり()とはいにレヘの羅馬の言葉なり。されどまことに民の声に従ふべきは、唯国凪の発達に関する問題あるのみ。真、美、善の三つに就きては、いはゆる民、いはゆる公衆、所謂世間、果して何事をか解せむ。()万橘がいやしき技をおもしろがりては円朝に後を見せ、烏熊芝居を見に悼けども、新宮座に向ひては是を裏み、そのさま風に捲かるゝ木葉の如く、潮にたゞよふ浮木に似たるは藝術に対する公衆なれば、独逸の文士の言に公衆とは身一つにして頭おほき怪物なりといへるも宜なり。見ずや、志ある詩人は公衆のために動かされずして、おのが作りし劇の中らざりしとき、桟敷の欄より土間を見おろし、公衆は今夜こゝにて落第したりと呼びし作者あるを。又見ずや、活限を具ふる論者は公衆のために惹を曲ぐることなくして、おのが宗論を狂しとおもひては、世はこれがために滅ぶとも可なりと呼びし改革者あるを、批評家も亦是の如し。公衆若し左右すべくは則ち可なり。若し左右すべからずば、孤立してもがしがらぬをこそ批評家の操とはすべきものなれ。この故にわれは公衆のために左右せらるゝものと、両天秤の説を立てゝ公衆の審判を求むるものとをば、批評家なりと看做すこと能はず。正直正太夫のいはく。三昧道人は被告の如く、鴎外激吏は辯護人の如く、おのれは検事の如くにして、世間てふ判官は吾亡妻につきての獄を決すべきものなりと。(国会)漣山人のいはく、三昧は被告なり、正太夫は検察官なり。鴎外は辯護人なり。おのれは暗席判事なり。しかして世間実にこれが裁判長たるなりと。(読売)正太夫も漣山人も美術の批評、文学の審判の上よりは所謂世間、所謂公衆の頼むに足らざるを知れるならむ、知りてなほ世間を判官にし、公衆を裁判長にせむとするに至りしは何故ぞ。答へていはく。吾亡妻の問題の最早文学につきての褒貶にあらずして純枠なる人物につきての滅否に陥りたる明徴なり、われは柵草紙を編韓して文学の評論をなせども、詩人の身の上の裁判をなすことを欲せず。謹講罵署してみづから悦づることを知らざる今の自称批評家の口狗の飛沫我面に濾ぐを以て、われも止むことを得ずして再びこの争に口を出だせど、われは決して世間公衆に訴へてかの問題を決せむとは望まざるなり。シュミツトが不偏不党の公衆は彼を信ずべきか、われを信ずべきかといひしとき、ハルトマンが嘲りし言葉あり。いはく。 匿名  漣山人のいはく。匿名は他の事には許すべきなれど。 匿名しての自著自評は許すべからず。匿名の効能は別 問題なればこゝに論ぜずと。(読売)答評にあらざる自 評のおのづから匿名の性を具ふるものなることは上の 論文にていへり。それに殊なるは他の世事にて名を匿 すことなり、我を隠さむとするのみなる間は、匿名も 罪なきものなれど、()我を我ならぬ人 に見せむとするに至りては、匿名の罪容すべからず。 ()されば文学上の自評ならぬ世事の上に ては、匿名は時として頗る危険なるものなり、漣山人 も匿名に効能のみありとはいはず、又他の事にての匿 名は悉く許すべしとはいはねど、匿名は他の事には許 すべきものなれど、藤名しての自評は許すべからずと いひ、匿名の効能は弄々とことわりたるは少く妥なら ぬところあり。われはこれに反して、世事の上にての 匿名は時としておほいに危険なる沓のなれば許しがた きことあれど、匿名しての自著自評は許すべしといは むとす。 正太夫一たび漣を難ず  漣のいはく、我作を自ら評する外に、我作を他人の評せしに答ふるをも自著自評といふと。(国会)正太夫難じていはく。かくの如きを自評の目的とすべくは、自評はおのれを評すといはむよりも、おのれを護るといふべきものなり。おのれを護るには怖るゝ心を含めること明なり。怖るゝ心を含めるものを、自ら信ずる念厚き証にせむは覚束なからむと。(同上)自評と自謹との関係、畏怖と自信との関係などは上方にて既にいへり。今は正太夫が漣を難ずる論理を見む。先づ漣は自評の範囲を示しゝに、正太夫は勝手に二れを自評の目的なりといひ徹したり、範囲を示しておのれを評する場合をも、おのれを護る場合をも含ませたるは漣なり。勝手におのれを評する場合とおのれを護る場合との間に軒姪をなして、彼を軽んじ、此を重んずるやうに言ひ徹したるは正太夫なり。正太夫はかく纏が言を誤り引きたり、誤り引きたる礎の上に其詰難は立ちしなり。おのれを護るには必ずしも怖るゝ心を含まざることをば、上の論文にていひたれば、おのれを護ることに怖るゝ心を含めりと定めたる上の判断は効なし。  漣のいはく。今の文学者には往々豪傑ぶる風あり。警一ばたま/\暮善しても、これに書心全き力を尽したりとするを厭ひ、強ひて余裕ある風を粧ひ、人の褒貶を心に介せざる如く、鼻の先にて笑ひ、ひたすらえらがらむとし、自評、答評などするものを自惚なり、大人気なしといひて笑ふと、正太夫のいはく、一書に全心全力を尽したりとするを厭ふものもあるべけれど、その厭へるを直に余裕ある風を粧へりとし、えらがらむことを勉むとはし難かるべし。故奈何といふに其人は進取の釘象に富み、きのふの我を護るは、けふの我の進まざるを示すに過ぎざるを厭ふものなるかも計られざればなりと。漣は今の文学者中に往々ありとて著書に全力を尽せりとするを厭ひ、自らえらがる人を挙げ来りしなり。正太夫は著書に全力を尽せりとするを厭ふ人にして自らえらがらざる人を挙げ来りしなり、正太夫の云へる如き人のみありて、漣がいへる如き人なき証あらば異議も起るべし。漣は往々かゝる人ありといへるに、其人のありなしを問はずして、別に著書に全力を尽せりといふを厭ひて、えらがらむとせざる人の事を説き出したりとて、はた何の反駁をかなさむ。汎や正太夫のいへる如く咋非を知らむ人も、咋是をも知れる時は、自ら護ることあるべきをや。  漣のおもへらく、今の文学者には自評答評の勇なく、面を打たれても、痛を忍びて泣く如く怯なる人ありと。正太夫のいはく、自評不自評にては勇怯を分つべからず、自評するもの必ずしも勇ならず。自評せざるもの必ずしも怯ならず。されば漣が言は迂なりと。漣は自評せぬ怯人ありとこそいひたれ。自評するもの必ず勇なりとも、自評せざるもの必ず怯なりともいはざりき。夫れ自評する人の勇は顕れたる勇なり、自評せざる人の勇は隠れたる勇なり、自評する人の怯は怯の陰なるものなり。自評せざる人の怯は怯の陽なるものなり。漣はその顕れたるもの、陽なるものを挙げたり。正太夫がその隠れたるもの、陰なるものを挙げたるは差支なけれど、それにて漣が挙げたるところを掩はむとするは、策の極めて迂なるものなるべし。 正太夫再び漣を難ず 漣は正太夫が一たび難ずるに逢ひぬれども、おのれが画したる自評の範囲を、自評の目的のやうに言徹されしにも答へず、おのれが世に書を著して金力を尽せりといふを厭ひてえらがらむとする人の事をいひしを、おなじことを厭へどもえらがらむとせざる人ありとのみいひて、駁論めかしたるにも答へず、またおのれが顕れたる勇怯を論ぜしに、その裏なる隠れたる勇怯を説きたるのみにて、これを掩はむとしたるにも答へずして、唯正太夫が我説を迂なりといひ、弱しといひしは、顕名匿名の相殊なる処を視ざりしためならむと臆測して答辯に代へたり。(読売)  正太夫は漣が筋遠なる臆測の答辯とするに足らざるをことわりて、さていはく、さきには自評不自評の別の上に就いて難ぜしが、こたびは顕名廣名の上に就きて難ぜむ、漣は匿名を以て厳粛真率を欠くものとし、これに基いて匿名自評を不可なりとすれど、匿名に限りて厳粛真率を欠くとは講取られぬ説なり。匿名は厳粛真率を欠くこともあるべけれど、漣がこれによりて生ずとしたる手前味噌の弊は顕名にても生ずべしと。(同上)この争に於いては正太夫が言を正しとす。上に漣が自評説を辯じたる条を参看せよ。 正太夫三たび漣を難ず  漣は正太夫が匿名顕名の上に就いての論を聴きて、手飾昧暗に陥るはひ之り匿名自評のみならず、顕名自評にも此事ありといふは、親兵衛は小児なれども強し、巴は女なれども強しといふにおなじと反難し、匿名自評を禁じて顕名自評を許すは狭き料見にあらず、必要の制裁あらしめむとする心なりといひ、正太夫が匿名自評をも顕名自評をも許して自ら大いなる料見なりといふその料見は何物ぞと問ひぬ、(読売)  正太夫はこれに答へていはく、親兵衛、巴が譬は当らず。顕名にても匿名にても、自評によりて生ずべき弊はおなじといひしは、譬へば左右に溝ある道を行く人の左によらば左なる溝に落つべく、右によらば右なる溝に落つべしといふが如し。我が大いなる料見といひしは、広き範囲内に於いてといふに同じ、自評をば顕名匿名の別なく許す理由と見るべきものは、鴎外漁史を駁したる文中に陳べおきたりと、(同上)  溝の譬は親兵衛、巴の譬を打ち被るに余あり。大いなる料見の解は聞いて有りがたくもなくなりぬ、顕名匿名の別なく自評を許すべき理由は、正太夫が我を駁したる文中には備はらず、上の文にて、顕名匿名の別を立てたる漣が本意は名の顕匿の外に在りといふ一段を参看せよ。 差出口  東海子のいはく。書を著して自ら評するは不可なり、不必要なり、人の書を著してこれを公にせむとするや、稿を属したる後、数ξ読みて粗に失せず、密に失せざらしめ、欠点の見ゆる限は改冊すべし。されば其書は著者のためには完全なり。こゝを以て自ら評すべき必要なし。縦令また自ら評しても、その完全なるを讃むるより外あらず、これ手前味噌なり、問はずがたりの差出口なりと。(読売)  われおもふに書を著してこれを世に公にせむとするもの・しば/\読みて改剛することあるべきは固書なり。されど其書は必ず著者のためには完全なりとはいふべからず。改冊は著者の力の及ばむまでの事なれば、眼高く手低き人は我書は完全ならずと分明に認め得れども、1これを政刷して完全ならしむべき力なきことあらむ、又詩歌小説なざの如く美術に属する文は、無意識の裡に澤成したるだけは、あとより斧鍼を加へがたきこと腰あり。かゝる作の拙きをば作者の感納性髄に認め得れども、これを改冊するに由なからむ。この時に当りて作者若し愛を割きて某稿を焚かば、その書世に出でずして止むべけれど、然らずして其稿を存ずる時は、その書は作者のために完全ならずとおもはるべし。作者は其稿を焚くほぎの勇なかりきといへども、猶自らこれを評して我作の拙きを言ふことなからむや。レツシングが小作()を公にするや、書中の詩七篇を指して読むに足らざる平凡の作なりとし、鐙識家のこれを通覧する労を省かむことを願ひき。東海子はかゝる自評あるべきことには思ひ到らざりしなり。かるが故に彼は自評の必ず自讃になるべきを信したり、予前味噌になるべきを信したり。現に問はずがたりの差出口は講もすまじきことなり。 自評についての異議 ************************************ 柵山人が自評説 ************************************  柵山人は三昧が自評、正太夫、漣、鴎外が自評説を 引きて四人を山家育なりとす。さて某理由はいかに。 柵山人のいはく。三昧と鴎外とが為しところ、説きし ところは自著自賛のみ、世に所謂白画自賛のみ、皆翼 々たる行為なりと。(青年文学)三昧が吾亡妻を読みて            レアル 泣きぬとは、妻に別れし実なる感か、醤たおのが文に動かされし趣味上の感かは知らねど、みづから其著を賛せしなりとは定めがたかるべし、しばらく一歩を譲りて三昧まことにおのが作を賛しきとせむか、その行為の難ずべきは其作の賛すべきものにあらざるときに限るべし。其作若し賛すべくば、自ら賛すと雖可ならむ。柵山人果して三昧が自賛を智めむとおもはゞ、宜く先づ詳に吾亡妻を評してその賛するに足らざる所以を明にすべし、柵山人はまたわが説きしところを自著自賛なりとしたり。われは何処にて、いかなる言葉を用ゐて、わがいかなる著作を賛せしか。柵山人はこれを指し示す貴を負へり。或は思ふに、柵山人は鴎外自著自賛の事を是認したりといふべかりしを、其言葉足らずしてかくあやしき詩難となりしならむか。自著自賛の事は、われ其著の賛すべきときに限りてこれを是認す、柵山人はわれ等に翼々たる行為ありとて難ぜしが、小心翼々たるために難ぜらるゝは古今未曾有なるべし。  柵山人のいはく、漣が答評を自評の範囲に入れたるは論理を知らざるためなりと、聞かまほしきは柵が論理なり。  柵山人は漣が言を聴きて喋然として果れたりといふめづきしき果れやうもあるもの哉。  柵山人のいはく、正太夫の高論はやゝ我心を獲たるに近しと、正太夫の論のいづくを高しとはせしか、正太夫の論のいづくは柵が心を獲たるに近きか。  柵山人のいはく、われは自著自評に反対す。自評は文学のために益なくして害ありと、正太夫は自ら信ずるものにも自ら信ぜざるものにも自評を許すといへり。柵は正太夫が論を以ておのが心を獲たるに近しとしながら、自評には反対すといふ、自評に益なしとは、何に縁りてなるか。又害ありとは何に縁りてなるか。  柵山人は或人の説を引きて、序敗(自序自敗なるべし)をも自評に入れ、さてその序敗の謙辞は虚偽なり、自賛なりといふ。漣が答評を自評の範囲に入れたるを論理に背けりといひしも解すべからざることなれど、答評すら自評の範囲に入れざらむとする心にて、縦令何人の説に従へるにもせよ、自序自蚊を自評の範囲内に入れて、みづから論理に背けりと思はざるは、いよ/\解すべからざる事なり。自序自蚊のうちに自賛ありと雖、其書若し賛すべきものならば、何ぞ病とするに足らむ。  柵山人のいはく、自評は遠く岡目八目に及ばずと。岡目八目は下手棋の上にこそありもせめ。公衆の眼にては大抵名作はわからぬものなり。 思軒居士が耳の芝居目の芝居  歌舞伎新報祉このごろ政良の挙ありて、銃脈を日本演藝協会に通じ、その新報を以て演藝社会の木鐸たらしめむとす。思軒子此運に乗じてその芝居に就きての意見を公にす。いはゆる耳の芝居、目の芝居は即是なり。思軒子は先づ美術の区別を示したり。その言にいへらく。人のたのしみは、耳によりて得るものあり、目によりて得るものあり、故世の精嚢美術はまた或は耳に麹へ、或は目に惣ふ。楽曲講話は昇に惣ふる者なり。絵画彫刻は目に惣ふるものなり。均しく耳に想ふるものゝうちに、単にその音響の再にたのしきを主とするあり、またその音響にて伝ふる意旨のたのしきを主とするあり。楽曲は多くその音響のたのしきを主とし、講語はその音響にて伝ふる意旨のたのしきを主とす、書を読むたのしみは、目に由るが如くなれども、そのたのしき所以は、文字の形にはあらで、その文字の伝ふる意旨にあり。文字は唯ビ講話音響の記号に過ぎず。故小説の如きものは、その文字をもて目に怒ふるに拘らず、強ひていづれにか属せしめむとせば、なほ再に惣ふるものに近しと。  いまの文学者は多しといへぎも、藝術の区別につきて意見を示したる人は殆無かりき。思軒子が都門のたてかたは、まことに明治の文学界にて、藝術の区別を立て試みたる始なれば、その得失を評論せむも無益ならざるべし。  むかし希臘の哲学者は大抵動静を以て藝術を区別したりき。プラトオは静の術を造る術といひ、動の術を秦ぶる術といふ。彫刻と絵画とは造る術なり、楽も詩も秦ぶる術なり、(内召まH・目)アリストテレエスに至りて動の術を説くこと稍詳なりき。拍子のみなる動の術を舞とし、拍子及旋行ある動の術を楽とし、拍子、旋行、言葉ある動の術を詩とす、()西暦の前世紀に仏蘭西の人バツト才といふものありしが、夙く目の美術と耳の美術との区別を立て、彫塑、絵画、舞踏の三つを目の美術に属け、音楽と詩賦とを耳の美術に属けき。()この基督世紀に入りては、カント語る術と造る術と感の術とを分ち、辯舌と詩賦とを諦る術とし、彫塑と絵画とを造る術とし、音楽などを感の術としたり。(肉鼻寿 p亀dHま甦艮量5シエルリングは詩を想の術とし、音楽と絵画と彫塑とを実の術とす。()ショオペンハウエルは無機有機の世界によりて勢術を分てり。無機世界の藝術は譬へば建築の如し。植物界に園藝あり、山水を写す術あれば、動物界に獣形の彫塑あり、獣形の絵画あり。人間界もまた此の如し。 ヘエゲル出るに及びて祝の術、聴の術の二つの外に、空想の術を添へ出しつ。造る術は視の術なり。音楽は聴の術なり、詩賦は空想の術なり。()  思軒子が立てたる美術の部門は略ピバツトオに同じ。美術を目に惣ふるものと耳に惣ふるものとに分ちたるは、思軒子とバツトオと殊なるところなきなり。音楽と詩賦とを耳の美術に属けたるも、また恩軒子とバツトオと殊なるところなきなり。絵画と彫塑とを目の美術に属せしめたる、是れはた思軒子とバツト才と殊なるところなきなり。  然れどもバツトオが目の美術に加へたる舞をば思軒子度外におきたり。思軒子松耳の美術に加へたる講話をばバツトオ度外におきたり。  思軒子は舞を度外におきたり。さりとて思軒子も目の美術を絵画彫塑に限りたるにあらず、バツトオは講諸を度外にあきたり。こはアリストテレエスの類別に基せしものにて、美術の外に、役すべき術と飾の術とを立てたるより、辣舌を飾の術に入るゝやうになりしなり。我国の美術といふ言葉は、仏語()より転じ来れるなるべけれど、その範囲明に立てりといふにあらねば、藝術といへると太だしき差異なからむ、是に於いてや、思軒子は講話をも美術として論ずるに至れり。  思軒子とバツトオとが美術の区別には分明に一病処あり。思軒子が講話読書を以て、耳に想ふる美術に近きものとしたること是なり、バツトオが詩賦を耳の美術に入れたること是なり。けだし二家の部内の立てかたに此病処あるは、家艦くして客多きがためなり。すべての美術を再に惣ふる都と目に惣ふる都とに収めむと企てたればなり。  ヘエゲルは客の二室にあふれたるを見て、新に第三の室を築いたり、視官に想ふる術と聴官に怒ふる術との外に、空想に惣ふる術を立てたり。思軒子が共部門の立かたに病処あるを覚えたるは、講話読書の人をたのしましむる所以を、音響の記号の外なる意旨に求めしにても知らるべく、また講語読書を耳の美術に属せしめしを強ひてのわざなりとことわりたるにても知らるべし。われは唯思軒子がヘエゲルの如く空想に想ふる術のために、別に一門を立てざりしを借む。  わが聞くところによれば、藝術の区別はヘエゲルに至りて分明に進歩の一段をなしたり。ヘエゲルが後に出でて更に歩を進むること一段なりしものは、あそらくはハルトマンなるべし。ハルトマンは藝術の四大部を分てり、第一大都は独立せざる形の美の術にして低き級に居るものなり。これを三小部に分つ。一を空間ありて時間なき静なる目の映象の術とす。雛形の如く、平面をなしたる飾の如し。二を時間ありて空間なき耳の映象の変化とす、詩の手法などはこゝに属したり、三を時間と空間とを備へたる動の術とす。姻火戯の如く、走馬燈の如し、第二大都は覇粋せられたる術なり。これを二小都に分つ、一を官能に属したるものとす、その窒間のみを備へたる静なる目の映象の術には、建築法、園藝、化粧のしかた等、工人の手にある雑藝あり。その空間と時間とを備へたる動の術には、いはゆる体操、競漕などあり。これ動きたる目の映象の術なり、また行儲作法あり。これ目と耳との映象の術なり。その時間のみを備へたるものは闕げたり。二を製作力ある空想に属したるものとす、教の詩を作る訣、論じ争ふ術、説教、席上演説、潜説の法、談話の技倆等、智こゝに属したり。第三大都は自由なる単の術なり、これを二小部に分つ。一を官能に属したる映象の術とす、その空間ありて時間なく、視感に媒せらるゝ静の術を遺形の術とす、彫塑と絵画と是なり。その時間ありて空間なく、聴感に媒せらるゝ変化の術を音の術とす。器を用ゐる楽、表憎育語の術、(朗読法)表情唱歌の術の三つは是なり。その時間と空間とを備へたる動の術にして、動きたる目の映象と動きたる耳の映象とに属するものを表情挙動の術とす、金か参ざるものに表情舞の如き術あり、全きものに言葉と挙動との表情術、即ち飾画なき西洋芝珪、唱歌と挙動との表憎術、即ち飾画と器を用ゐる楽となき「オペラ」あり、皆是なり。二を空想の映象の術、すなはち詩賦とす、第四大都は複りたる術なり、これにつきては下に略説せむ。 ■■が藝術の区別は、これのみにては会侮しがたかる べしといへども、われはこれにてその比較的に整へるさまを示したるのみ。カントが立てたる郭門には、感の術の如く怪しげなるものあり。ショオペンハウエルが金石植物によりたる区別も未し。シエルリングが実の術といふ名もめでたからず、すべての藝術を系統の中に収めむとするときは、動静あり、高低あり、覇不覇あり、時間空間あり、祝聴空想あるを一々に考へ、この許多のものを或は経にし、或は緯にせざるべからず、ハルトマンは略ピこれを得たるものならむ。  思軒子は次に美術の聯合を説いたり、その言にいへらく。芝居は耳と目とのたのしみを合一し、調講せる者なり、俳優の扮装仕ぐさ、舞台の大道具小道具は目にたのしきなり。俳優のせりふ、浄瑠璃、灘し嗚物は或はその意旨をもて、或はその青響をもて、或は両者を兼ねてもて、葺にたのしき言、芝居のもろくの糟謹の上に超出して、大精謹大海戯たる所以は即ち此の如く各種の精謹を集めて、これを調譜せるにありと、藝術の聯含の上につきて前人の説きしところを見るに、その淵源は希臘までは及ばざるが如し、プラト利は芝居を秦ぶる術に列ねしが、その聯合のさまにつきては論ぜしことなし。バツトオに至りて目の美術なる舞と耳の美術なる楽及詩と聯合するさまを論ずる二と頗詳なりき。後プランクといふ人ありて舞台の上にての藝術の聯合を説いたることあり、(  思軒子が見は美術の聯合の上につきても頗るバツト利が見に似たり、思軒子がいはゆる扮装仕ぐさはバツ H利が舞に当れり。思軒子がいはゆる灘し、嗚物はバツトオが楽に当れり、思軒子がいはゆる浄瑠璃、せりふはバツトオが詩に当れり。  ハルトマンは藝術の四大部を立てゝ、その第四大部に聯含したる術を収めたり、これを分ちて二小部とす、覇絆せられたる諸藝の相聯合したるはその一なり、譬へば化粧のしかた、行儀作法、談語の技倆などを兼ね行ひて、巧に世を渡る術の如し、自由なる諸藝の相聯合したるはその二なり、これに二を含せて一となしたるもの、三を合せて一となしたるもの、及び四を合せて一となしたるものゝ数種あり。官能の術二つを合せたる例には、三昧線に含せたる踊を引くべし。官能の術一つと製作の術一つとを含せたる例には、浄瑠璃の索諦を引くべし。是を二を含せて一となしたるものとす。官能の術三つを合せたる者には、西洋の「バレツト」の舞あり、その合せたるものは、日飾画、日舞、目器を用ゐる楽、是なり。宵能の術二つと製作の術一つとを合せたるものには、一辺に三昧線に含せたる浄瑠璃誘の如きものあり。その合せたるものは、目浄瑠璃といふ詩、目浄瑠璃といふ唱歌、日三昧線といふ器を用ゐる楽、是なり、一辺には飾画ある西洋芝居あり。その合せたるものは、目正本といふ詩、目俳優の言葉即ちせりふとその挙動即ち仕ぐさとの表傭術、目飾画、これなり。是を三を合せて一となしたるものとす。また四を合せて一となしたるものは、唯飾画と器を用ゐる楽とを備へたる西洋の「オペラ」あるのみ、その含せたるところは「オペラ」の正本といふ詩の外に官能の術三つあり。目唱歌と挙動との表情術、目器を用ゐる楽、日飾画。  我国のいまの芝居は、藝術の聯合の上より見るときは、西洋芝居よりも複りたるものにて、ハルトマンが系統の外に立ちたる術なり。我国のいまの芝居は五を合せて一となしたる術なり、西洋の芝居の三葵索は正本になるべき詩、(散文と韻文とを問はず)言葉と挙動との表情術、及び飾画なり。これに器を用ゐる楽と肉声の浄瑠璃(唱歌)との二つを加へて、我国の芝居とはなるなり。  われは上の方にて、思軒子が藝術の聯合の上より芝居を見たる説のバツトオが説に似たることをいひしが、今は我国の芝居と西洋の芝居との組立を細述したる上なれば、改めて思軒、バツトオ両家の説を比較すべし。バツトオは飾画を余所にしたるに、思軒子は大道具小道具といふものを挙げて、芝居に属する目の美術なりといへり。これその相殊なることの一つなり。バツトオは詩と舞と楽とに色々の組立かたあるを説きたれども、言葉と挙動との表情術を舞なりとしたるもおもしろからず。西洋の芝居にては必要ならざる楽を入れたるもあもしろからず、思軒子は舞と言ずして俳優のしぐさといひ、日本の芝居にては必要なる楽を入れたるなり。これその相殊なることの二つなり、要するに思軒子が説はバツトオが説より精きものなり。左の表にはハルトマンが用語例に従ひて数へたる我国の芝居の分子を示して、其下に思軒子が用語例に従ひての訳を附したり。          我国の芝居の組立   ハルトマンが用語例      思軒子が用語例   (詩)…………:…:。…………。…1浄瑠璃せりふの                   意旨   ず雪、§、冒、庁一壌靴麟一−雌携訣駐   (唱歌)−……−・−………−………浄瑠璃の音響   (器を用ゐる楽)・…−購し鳴物   只飾画)………………大道具小道具  次に思軒子は我国の芝居、支那の芝居、(劇)西洋の芝居、西洋の「オペラ」の四蓼に就いて、その首にするところのおの/\相警るを示さむとしたり。その言にいへらく。外国にありて、我邦の芝居に似たるものは、支那の劇、西洋諸国の「オペラ」若くは「シアトル」なり。而してこれを要するに外国の芝居の類は、大抵多く耳に惣へて、少く目に瀬ふ。耳のたのしみ首にして、目のたのしみは次なり。俳優のせりふ首にして、俳優の仕ぐさは次なり。劇と「オペラ」とは寧ろ翁邦の能曲に近く、俳優の述ぶるところのせりふは、多く歌となりをりて、客はこれを聴くをもて第一のたのしみとし、俳優の扮装しぐさ、舞台の道具等はこれに随伴せる第二のたのしみをなすのみ。現に劇の如きは今日支那にありて、観劇といはずして、聴劇といふ方を通例とす。亦た以てその重に耳に惣ふるものたることを想見すべし、「シアトル」は稍や我邦の芝居に似たれど、目のたのしみたる俳優のしぐさに至りては講の聯合の上にておの/\その首にするところありやなしやは古より論あり。レツシング嘗ておもへらく。楽を首にして、詩を次にしたる術は「オペラ」なり。詩を首にして、楽を次にしたる術は、世にこれを講ぜしものなし。さて楽と詩とにおなじ重みを与へたる術を講ずるものなきは最も惜むべしと。おもふにレツシングは極めて美き聯合術にては、首にする分子と次にする分子となからむことを期したるならむ、されどわれはバツトオ、プランクニ家の言を引いたるシヤ ースレルが説()を取りて聯合術には首にする分子と次にする分子とあるべきものとせむ。  ハルトマンは西洋芝居の分子に就いて抽象価値を窟め、詩を首にし、言葉と挙動との表憎術を次にし、飾画を尾にしたり、おもふに我国の芝居にては、唱歌、器を用ゐる楽の二つのもの、かの言葉と挙動との表情術と飾画との間に居るならむ、ハルトマンはまた「オ。ヘラ」について省なじ次第を立て、詩を首にし、唱歌と挙動との表情術を次にし、器を用ゐる楽をその次にし、飾画を尾にしたり。(レツシングがいへる如く楽を首にしたる「オペラ」は素より多けれど、ハルトマンはそを「オペラ」の正体にあらずとせり)想ふにわが国の能は詩、唱歌と挙動との表情術、器を用ゐる楽の三つより成りて、飾画を殆全く除いたるものなれば、其次第は詩を首にし、唱歌と挙動との表情術を次にし、器を用ゐる楽を尾にすべきならむ、こゝろ承に四藝の分子を空想の分子、耳の分子、目の分子、耳と目との分子の四種に分ちて、その次第を立つるときは、左表の如し。 ************************************ 一一のふ一      け 我国の芝居次−      次−      尾−      首−      次: 「オペラ」      次−      尾− ************************************ ・…空想:: ・…再及目・ …・目……: …・空想…: :−耳及目・ …耳…… …・耳……: …・目……: …空想…: ・…耳及目: −−耳…:… ************************************ …詩(正本) −言葉と挙動との表情術 …・飾画 ;−詩(正本) …言葉と挙動との表情術 ::唱歌(浄瑠璃) …器を用ゐる楽 :−飾画 ・…詩(正本) …唱歌と挙動との表情術 …・器を用ゐる楽  これに由りて観るときは、西洋の芝居にても、我国の芝居にても、「オペラ」にても、能にても、首にすべきは蛮想にて、耳と目とを兼ねたるもの一)れに次ぎ、耳のみなるもの、若くは目のみなるもの尾をなして、さてその昇若くは目のみなるものゝうちにては、耳先にすべく、目後にすべし。  われは審美学上に芝居、「オペラ」等の性質を論ずるときは、必ず世界に貫通すべき一条の逆理あるべきを信ず。故われは又芝居に近き東西の四藝は、その正体において、その必ず首にすべく、必ず次にすべく、必ず尾にすべき分子を備ふべきを信ず、上に挙げたる順序は或はその努髭を得たるものならむか。  上の四蓼のうちにて、西洋の芝居と我国の芝居とは、共に言葉と挙動との表情術を以て骨とす。これ等をば言葉の芝居といふことを得べし。また「オペラ」と能とは、共に唱歌と挙動との表情術を以て骨とす。これ等をば唱歌の芝居といふことを得べし。  思軒子は四藝の外に文那の劇をも添へ出して、劇と「オペラ」とは能に近しといへり。その近き所以は皆唱歌の芝居なればなり。思軒子は「シアトル」即ち西洋の芝居を以て、稍我国の芝居に似たりとす、その似たる所以は皆言葉の芝居なればなり。  思軒子は又劇と「オペラ」と能とを以て、多く耳に憩へ、少く目に懸ふるものとしたり。所謂再の芝居とはこれならむ。思軒子は又我国の芝居を以て、多く目に惣へ、少く耳に惣ふるものとしたり。所謂目の芝居とはこれならむ、「シアトル」すなはち西洋の芝居に至りては、思軒子がためには、首に目に惣ふべくして、その目に怒ふる術甚だ穣きものなり。  若し審美学の通則より見るときは、我国及び西洋の芝居、「オペラ」、能の四藝はいふもさらなり、これに思軒子が引き咄でたる支那の劇をも加へて五つの類褻となしても、皆空想に惣ふる分子(詩)を首にし、耳に想へ、目に惣へ、又耳と目とに懸ふる分子をば次にし、尾にすべき者ならむ。されどこは諸藝の正体につきていへるなり、其極致に勅ていへるなり、我国にても、西洋にても、藝術の実相は多く極致と相背馳するを奈何せむ。  殆全く飾画を用ゐざる能、舞台を飾ることいと拙き支那の劇の二つにては、空想を除きていふときは、耳に魎ふること多く、目に惣ふること少かるべきは言を待たず、されど芝居を小説のやうにおもひ、道具立にて叙事を補はむとする今の自然派の勢を邊うする欧羅巴諸国にては、巧に飾画を作ること漸く甚くなりて、表情術をも圧し、正本をも圧するに至れり。このごろ西洋の芝屏及び「オペラ」にて仕度の曲(>冨津掌ざ目。⑭竃簑oぎ)と称ふる者即是なり。かく迄目に惣ふること甚きいまの「オペラ」を我国の能、支那の劇に等く、耳の芝居といひ、これも仕度の曲を興行することある今の欧羅巴の芝居を、耳の芝居に近きやうにいはむは、話そらくは少しく妥ならざるべし、またかくまで飾画に横領せられて、花の盛を見するやうなる欧羅巴の「オペラ」を耳の芝居としたるに対して、道具立極めて揖く、そのさま枯野の如き我国の芝居を、目の芝居と称へむこと、これもおそらくは少しく妥ならざるべしo  されどこは諸国の芝居に近き藝術の実況より見たる上の沙汰のみ。また一々の藝に就いて、その空想、耳、目に惣ふるすべての分子を比較したる上の沙汰のみ、思軒子が再の芝居、目の芝居の区別を立てたるは、現況に偏りたる論にあらずして、原理に偏りたる論なり。また藝術のすべての分子を衡べたるうへの論にあらずして、その骨髄とするところの分子を比べたるときの論なり。  われおもふに思軒子松所謂目の芝居は即是れわが所謂言葉の芝居なり。言葉の芝居は言葉と挙動との表情術を骨とす、我国の芝居と西洋の芝居と、これに属す。また思軒子が所謂耳の芝居は即是れわが所謂唱歌の芝居なり。唱歌の芝居は唱歌と挙動との表憎術を骨とす。我国の能、支那の劇、西洋の「オペラ」皆これに属す。  思軒子は何故に言葉の芝居を目の芝居とし、唱歌の芝居を耳の芝居とせしか。いはく。言葉の芝居すなはちせりふの芝居の骨髄なる言葉と挙動との表情術は、耳にも目にも惣ふるものながら、これを唱歌の芝居の骨髄なる唱歌と挙動との表情術に比ぶるときは、その目に想ふるところ多く、また唱歌の芝居の骨髄なる唱歌と挙動との表憎術は、。おなじく是れ耳にも目にも怒ふるものながら、これを言葉の芝居の骨髄なる言葉と挙動との表情術に比ぶるときは、その耳に惣ふところ多ければなり。言葉を代へて言ふときは、言葉の芝居にての俳優のしぐさは、噌歌の芝居にての俳優のしぐさより、其価貴きものなればなり。その縁由をば左にいはむ。  ハルトマンのいはく。舞台にて奄舞台ならぬところにても、歌ふときの挙動は、静るときの挙動より静なるは、二重の縁由ありてなり。第一。おなじ時間に口より出づる音の数は、唱歌にて少く、言葉にて多し、かゝるとき挙動と言語と並び馳せしめむには、歌詞の流の漉漫なるに従ひて、挙動の流をも濾漫にせざるべからず。第二。言葉をもてする戯曲にては、一人の上にていろ/\の憎の闘ふ時も、数人の惰相争ふ時も、その内なる行為即ち情緒の変化劇くして、ζれがために生ずる外なる行為の進捗遠なれば、憎を賦するζとまはり遠く、理踏を逐ひて、一たび得たる終結をも充分なる余音あるやうに描き出す楽劇におなじからず。ー約して書へば、「オペラ」は芝居の如く戯曲の性を具ヘず、芝居は「オペラ」の如く叙情詩の性を具へず、さればその興行の時間同じき時は、「オペラ」の行為は芝居の行為より簡ならざるべからずと、()けだし言葉の芝居にての俳優のしぐさの、唱歌の芝居にての俳優のしぐさより、其価貴きは、言葉の芝居にての言語の流は唱歌の芝居にての言語の流より急なると、言葉の芝居の内外の行為は唱歌の芝居の内外の行為より劇く、また連なるとによりてなり。  されば唱歌の芝居なる能、劇、「オペラ」の三藝の俳優のしぐさの、我国の芝居にての俳優のしぐさに及ばざることは、思軒子望胃の如し。然はあれど思軒子が劇と「オペラ」との俳優のしぐさの劣れる処を押し拡思軒居士成耳の芝居目の芝居めて、外国の芝暦の類の通性なるやうにいへると、これに言葉の芝居に属する西洋の芝居を殆連坐せしめて、その俳優のしぐさ董だ揖しといへるとは、おそらくは少しく妥な参ざるべし。  劇と「オペラ」との俳優のしぐさの劣れる旭を押し拡めて、外国の芝居の類の通性なるやうにいへるは、何故に妥ならざるか。いはく支邪は姑くおきて、欧羅巴の実況を観るに、唱歌の芝居なる「オペラ」の外に、言葉の芝居の盛に行はるゝあればなり、「オペラ」と支那の劇とに、言葉の芝居に罵する西洋の芝居を連坐せしめて、その俳優のしぐさ甚だ稗しといへるは、何故に妥ならざるか、いはく、言葉の芝居と噌歌の芝居と別るゝ審美上の天性より見るときは、西洋芝居は甚だ我国の芝居に近く、董だ劇と「オペラ」とに遠きものなればなり、また西洋芝居にての俳優のしぐさは甚だ操しと抹殺せらるべきものにあらずとおもはるればなり。  欧羅巴の大都会には大撞「オペラ」座と芝居座とあり、わが劇場に出入すること頻なりし都会を例に引けば、伯林には王家の「オペラ」座と王家の芝居座と並び立てり、「オペラ」座にては「オペラ」と「バルレツト』の舞とを興行し、芝居座にては悲劇、嬉劇などを興行するを常とす、この両座の外、猶十五六の劇部ありて、多くは言葉の芝居をも唱歌の芝居をも興行す、維也納にも宮抜の「オペラ」座と宮抜の芝居座とあり。巴里にも専ら「オペラ」を興行する劇都と専ら芝居を興行する劇部とあり。稍小なる都会に至りては、大劇場たゞ一つなるもあれど、此の如き劇揚にては「オペラ」と芝居とをかはる%\興行す。譬へばドレスデンの如し、ドレスデン新市の宮抜劇部は小嬉劇などを興行するのみなるを以て、大なる道具立を要する首葉の芝居と「オペラ」とをば必ず旧市の宮抜劇部にて興行す、ミュンヘンの朝野劇部にて「オペラしと大芝居とを興行し、王城劇部にて小芝居を興行するも亦た此類なるべし。唱歌の芝居なる「オペラ」の外に、言葉の芝居の盛に行はるゝさまは約そ是の如し。(この外の諸都会の劇部の事はクレマン、コンスタンが書などに就いて見るべし。)  欧羅巴の俳優の言葉と挙動との表情術は、その由りて来るところ遠からず。仮面を被ふりて技を演ぜし時代、男優のみにて両性の役を勤めし時代には、この術の発達充分なることを得ざりければなり。(曽胃汁昌苧冒、ωぎω庄Φ弐F》宰巨甲HH一や“S)さばれ基督前世紀の末より以還、言葉と挙動との表憎術の歩を進めたることは、極めて若きものなり。総じて表情術を叙するは文士の難んずるところなれば、その世々の変化を載籍に徴せむは、いとむづかしきことなれど、且く判引オテが劇律(勾品①旨旨亀2Φω3豊省一Φ寿冒豊を以て 1 我国の耳堕集、あやめぐさ等に比べ見よ。西洋芝居の甚だ我国の芝居に近きを知ると共に、手の振りかたはかく、足の踏みかたはかうと、完規づくめにする理想家の力も侮り難きところありて、西洋芝居の俳優のしぐさ必ずしも甚だ揮きものにあらざるを知るに足らむ。  思軒子は次に西洋芝居の沿革を説いて、西洋の俳優のしぐさの穣きを証せむとしたり。その言にいへらく。「シアトル」はもと希蘭にて祭日の遊戯に、神代の事ぎもを、さま%\に取り仕くみて演せるより起りたり、故その始は我国の二十五座外遺踊に同きなり。漸く進みて人界の事を演し、「トラジヂイ」のたぐひの審を感ずること深切なるもの、稿体を具ふるに及びても、その仕ぐさは只ゼ杜会平生の起居撮舞を少しく皇張し考大せるに過ぎず。近くこれを楡ふれば“数月萌吾妻塵にて菜翁門下の男女が演せる一種異様の観せものを、夏に拍子よくし、更に専門的にし、工技的にせるに過ぎざるなりと。  欧羅巴の芝居の権輿は、希臘人の祭目の遊戯なる二と、まことに思軒子が言の如し。人身獣脚の形に扮したる群の、かつは歌ひかつは舞ひきといふ、ヂオニソ刈などの神の御前の遊戯をば、我国の二十五座に同じといひても善かるべし、漸く進みてエスキュロス、ソフオクレスが諸曲を興行するに至りし時の俳優も、衣を厚うし、履を高うし、仮両を被ふりて場に上ばりしなれば、其抜は平生の起居振舞を皇張し、脊大したるに過ぎざりきといひても善かるべく、また某翁(学海居士を指したるならむ)門下の男女が演せる一種異様の観せものを更に拍子よくし、更に専門的にし、工抜的にしたるに過ぎずといひても善かるべし。さばれこは皆いにしへの希臘人が祭祀の時の歌舞を進化せしめて、悲劇と嬉劇とを演ずるに至りし第七十「オリムビヤアデ」の墳の事なるべし、希臘の芝居はオイリビデ刈より後、次第に衰へゆきぬ。艦馬の興るに遺びて、希臘の芝居の余風を承けて、その初には此技を盛にせしが、「ムウヌス、グラヂアトオリウム」のために一たび挫かれ、「チルクス」のために蒋び挫かれ、「パントミイメ」のために三たび挫かれしさへあるに、墓督教羅馬に入りて、演劇の事に利あらざる運動漸く勢を得、第二基督世紀の末にはテーレツリヤンをして「トラギョヂア」は悪鬼の業なりといはしむるにいたりぬ。されば希臘悲劇は第四基督世紀までこそ希臘語を操れる羅馬国の東隅に残りもしたりけめ、この後は希臘の芝居金く絶えにき。()  今の欧羅巴の芝居はおほいに希臘の芝居に殊なり、史家に向ひてその起源を問はゞ言葉の芝居も、唱歌の芝居も希臘より串づといはむ、されど羅馬滅びて後、第十世紀のころに盛なりし宗教芝居は希臘芝居に縁ありしにあらず、この希臘芝居に縁なき中古の劇、蒋生期と改革期との影響を被りて、西班牙、伊太利の近世の芝居となり、仏蘭西芝居となり、英吉利、独逸の芝居となりしなり、第十六基督世紀のフイレンチエ人が力を噌歌の芝屏に尽しゝや、範をいにしヘの希臘芝居に取りきといへども、そは希臘の楽曲の上のことにて、希臘より唱歌と挙動との表情術を伝へたるにはあらず、( )基督暦千三百十四年に月棲冠を戴きしムツサトオより後の伊太利詩人が希臘の昔をまねびつるも、( 3前の基督世紀にボアロ才が詩律()出でしころコルネイユ、ラシン、ヲルテエ刊等が希臘まがひの正本を作りしも、そは希臘の戯曲の上のことにて、希臘より言葉と挙動との表情術を伝へたるにはあらず。欧羅巴にては、唱歌と挙動との表惰術も、言葉と挙動との表情術も近世の術なり、その起源は中古の宗教芝居より出づとはいふべけれど、希麟芝居より出づとはいひ難からむか、近世の言葉と挙動との表情術は、ひとり皇張考大の趣あるのみならず、亦た微妙の趣あり。思軒子はこれを工技的なりとして、我国の俳優の仕ぐさの美術的なるに対したる如くなれど、そは後に辯ぜむ。  思軒子は次に我国の芝居の浴革を説いて、我俳優のしぐさの美術的なるに及びたり、その言にいへらく、我俳優のしぐさは元と人形(偶人)の身撮より来れるもの多し、人形は人の如く細徴なる筋肉のはたらきをなさず、故眉と購とを若く利用してこれを表することゝなるなり、人形は人の如く円く頭を回らし、手を揮はず。敵角立ちたる一種の所作を生ずるなり。芝居のしぐさは即ち人形のこれ等の身撮を承けて、さらに許多の錬磨を加へ、幾段の発達を遂げたるものなり。故その形たる即ち所作身撮の極致たるものなり。若し美術といはゞ我邦芝居の仕ぐさは即ち美術の妙に入りたるなりと。  我国の俳優の言葉と挙動との表情術に操人形より出でしところあるは、まことに思軒子が言の如し、さばれ角立ちたる人形まがひの所作を錬磨して発達せしめたるを、所作の極致なりとし、かゝる所作を能くする人を美術の妙に入りたりといひ、これに対したる欧羅巴の俳優の仕ぐさを甚だ稗しとせむは、おそらくは少く妥ならざるべし。人形より出でたる所作の極端は所謂人形身なり。人形身は易き業にて、をりく俳優のこれを用ゐてその拙さを蔵すことあり。若し所謂形を以て、所作身振の極致なりといふことを得べくば、ギョオテが詩律を履行して俳優の能事畢らむ。  夫れ形はもとより忽にすべからざるものなれども、言葉と挙動との表情術の主眼はこゝにあらざるべし。美術家の業は半ば意識界の中にて成り、半ば意識界の外にて成る、常の意識の外に夢の意識あり。夢の意識の常の意識に入るを空想といひ、常の意識の夢の意識に入るを といふ。俳優の場に登りて技を演するや、常の意識は夢の意識に入りて、言葉はその意味に縁りて身撮を喚ひ起し、身振はその交感に由りて言葉を惹き出す。故言葉と挙動との表情術は皐寛みづから糧る術に過ぎず、( )ある人昭めるところの伶人に問うていへらく、爾がともがらは多し。爾がひとり揚を撞にするは何故ぞと。答へていはく、吾がともがらその身を女にするときは、必ず併せてその心を化して女にす。さる後に柔情媚態、見るひとをして意消えしむ。如し男の心の一纏だに猶存ずるときは、必ず一綾の女に似ざるところあり。さるときはいかでか蛾眉憂隆の寵を争ふことを得べき、場に登りて劇を演するに至りては、貞女たるとき共心を正うして、笑講することありといへどもその貞を失はず。淫女たるときその心を蕩けしめて、荘坐することありといへどもその淫を掩はず。貫女たるときはその心を尊び重んじて徴服したりといへども貴気を存ぜしめ、賎女たるときはその心を飲抑して、盛粧せりといへども魑態あらしむ。賢女たるときはその心を柔腕にして、怒ること甚しといへども逮つる色なく、停女たるときはその心を勘戻にして、理謝すといへども巽る詞なし。その外喜怒哀楽、恩怨愛憎、一々身をそのところに置きて、戯となさず、真とす、他人は女の事を行ふとき、女の心を存ずること能はざれば、女らしき種々の状をなして女の種々の心あること能はず。これわがひとり場を掩にする所以なりと。(塊西雑志巻二)所謂女の心は実感にまがひて、その説詳ならねども、おもふに水ゝる撞場の伶人は、必ず自燈を巧にするものなるべし、人形ぶりはいかに熱錬すといへど亀、たゞ所謂種々の形を 1 なすのみにて、種々の心あらしむること能はざるもの  思軒子は西洋の芝居を杜会平生の起居振舞より出でたりとして、これを工技に数へ、我国の芝居を人形の撮より出でたりとして、これを美術に数ふ。工技と美術との差別は未だ詳ならざれども、工技的は美術的より低きものならむと推せらる、社会平生の起居撮舞と人形まねびの所作とを比ぶる生きは、彼は自然にしてこれは藝術なり。されど劇を演するときの喜怒哀楽、恩怨愛憎は実感にあらず。これを喚び起すに自糧の力を以てすれば、即是れ藝術にして、この藝術はおそらくは偶人の形に擬する微にまさりたるべし。  思軒子が結論にいはく。わが平生徳川に負ふところのものは唯だ一つあり。芝居の発達これなり。わが平生世界に誇る進歩は唯だ一つあり、芝居のしぐさ所作これなり。芝居の何物たるかを辯ぜずして、我国特有の精謹を棄て、晩進未熟なる西洋の「シアトル」を学ばむとするものは、われ遂にその謂を解すること能はざるなり。また若し真に「シアトル」を紳りてこれを我邦に移さむと欲せば、何ぞ直に外遺踊を改良する会を組織する捷径に由らざると。  我国の芝居の発達はまことに徳川文明の名残なるべし。我国の芝居の仕ぐさ所作には、世界に対して恥づかしからぬところあり。唯疑ふ、その世界に対して恥づかしからぬところは、操人形のまねびにあらずして、団十菊五等松自燭の力に富みて、言葉と挙動との表情術を行ふにあらむかと。わが聞くところによれば、ニュルンベルヒに初めて常芝居を作りしは基督暦干五百五十年なり。千五百七十六年には竜動にも常芝居(里8洋−軍−胃吻)ありきといふ。されば今の欧羅巴の芝居も三百歳の経歴あり、我国の徳川時代の芝居の沿革も亦た三百歳を超えず。西洋にての言葉と挙動との表惰術は、おそらくは必ずしも晩進ならざるべし。またその必ずしも未熟ならざるべきは、わが骨ずるところなり。これを外道踊を改良する資にせむは、或は少しくもつたいなかるべきか。